待てど暮らせど、亜理紗が来る気配はない。
私は時計を見、改札を振り返り、そして駅の電光掲示板を見上げた。改札の上にピカピカと輝いているそれは、此処の路線が通常通り運行されていることを示している。実際、さっき時間ぴったりにちゃんと電車は来ていたようだ。どれほど目を凝らしたところで、友人の姿を見つけることができなかったというだけで。
「あいつめ……」
珍しくもなんともない。なんせ、小学校から大学の今に至るまで、ながーい付き合いの友人である。やっぱり本人がどれほど嫌がろうと、モーニングコールをするべきだっただろうか。
スマホを取り出し、時間を確認した。待ち合わせをしたのは十時。既に十分が経過している。なお、十時ぴったりに送ったメールとLINEは共に返ってきていなかった。土曜日であるのをいいことにベッドで爆睡している可能性が高そうだ。なんせ、私と違って彼女は大学から一人暮らしを始めていたはずである。起こしてくれる親もいないのに、どうやって生活が成り立っているのだろうか。
発信履歴から『松島亜理紗』の名前を探してリダイアルする。
コール一回、二回、三回、四回、五回――。頭の中に、ボブカットの友人の呑気な顔が浮かんできた。留守番電話メッセージうんぬんかんぬん、というのが流れ出したところでようやくプツっと音を立てて電話がつながる。
『ふぁい、もち、もち、松島、でふ……』
人間、寝起きで一番動かないのは口だと聞いたことがある。耳は早々に働くが、喋るという機能が動き出すまでに時間がかかるというのだ。
案の定、寝起きと思しき彼女は呂律が回っていなかった。私は頭痛を覚えながら、もちもちじゃないよ!と返す。
「ちょっと亜理紗サン?その露骨に寝起きな声はなに?今日、一緒にショッピングしようって約束したじゃん。もうとっくに十時過ぎてるんですけど?」
『…………え』
「忘れてたわけ?それとも、目覚ましかけ忘れたわけ?」
『ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?ああああああああああ聖羅ちゃんごめんごめんごめんほんっとごめええええええええええええんんんんんんんんんんんん!!』
電話の向こうで絶叫。私は思わずスマホを耳から離した。
『ほほほほほほんとにごめんっ!噓でしょスマホも目覚まし時計もダブルでかけたはずなのに何で止まってんのよおおおおおお!?』
「落ち着け、全力で落ち着け」
『ごめんごめんごめん!今急いで支度するから!本当に申し訳ないけどあと一時間待ってええええ!あばばばばばばm0@j49,@0cq、jh5@9q4p;mgぉ;@q、@jw50cmr3q9xgq「-4gpvmx0qj、5「0q9jxg0q@4x!!』
「本当に落ち着け?人間とは思えない声出てるからね!?ていうか物音すっごいな!!」
名状しがたい声で鳴き出した彼女に対して、私は何度目になるかもわからないため息をついたのだった。
そしてあっさりと言い放つ。
「……あと二時間待っててやるから、忘れ物しないで出てきな。慌てるとあんた、すぐ財布も携帯も家の鍵も忘れてくるんだから」
最悪、十二時半のレストランの予約に間に合えばいい。
午前中の買い物の時間はなくなってしまったが、それはそれ、彼女にオヤツでも奢らせてチャラにしてやろう。遅刻が多い友人だとわかった上で付き合っているのは私なのだから。
***
男勝り、アネゴ系。
そう言われる私とおっとりした亜理紗は、まさに正反対の性格と言って良かった。むしろ真逆だからこそ気があったとも言う。人間、自分そっくりのタイプとはなかなか仲良しになれないものである。
長身、ポニーテール、陸上部、体育会系の私。
小柄、ボブカット、美術部、文系の亜理紗。
見事に似ているところが一つもない。時間の感覚に関してもそう。私は待ち合わせに絶対遅れないタイプだが、彼女は結構なルーズだった。相手が亜理紗でなかったらもっと怒っていたし、なんなら縁を切っていたかもしれない。多少待ち合わせをすっぽかされても許されるのは、ある意味彼女の人徳なのかもしれなかった。
小学校から大学に至るまで同じ学校で、同じ学部。流石に同じ会社に入ることはないだろうが、多分社会人になってもなお私達の腐れ縁は続いていくのだろう。今どき珍しく、お互い紙の年賀状を出し続けているから尚更に。
――まあ、朝にすごく弱い人間ってのはいるもんだしな。……朝起きるのが苦手で、あいつ一限目の授業はほぼ取らないし。
ただ、社会人になればそういうわけにもいくまい。彼女のためにも、何か効果のある早起きグッズはないものか。
彼女の家からこの駅までは一時間はかかる。そして、亜理紗ならどう頑張っても支度に一時間かかってしまうだろう。あと二時間来ないと見込んだのはそういう理由だった。ならば二時間、ぼーっと駅前で待っている必要もない。一緒に買い物予定だったショッピングモール(この西口改札から徒歩五分の位置だ)で時間を潰しても文句は言われないだろう。
「嬉しいよ、アキくんが音楽続けていてくれて」
のんびりそちらに歩いていこうとしていた時、男性の嬉しそうな声が耳に入った。
見れば改札前の柱の下で、スーツを来た男性と若い青年が話をしている。青年は柱の前にシートを引いて、ギターの設置準備をしているように見えた。どうやら、ストリートミュージシャンらしい。
「うちの軽音部の子たち、みんな音楽やめちゃったからね。ボーカルとギターで、一番うまかったアキくんが続けてくれてるのは凄く有難いよ。また君の歌が聞けるなら、もうちょっと頻繁に此処に来ようかな」
「みんなちゃんと現実を見据えてるってだけです。俺だけ、音楽から離れられないだけで。俺もこうやって、ストリートで歌ってるだけですしね。今日聞いていきますか、先生?」
「悪いけど、今日は大事な約束があってすぐ行かないといけないんだ。今度しっかり聞かせてもらうよ。頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
アキくん、というのが青年の名前らしい。果たして苗字なのか、名前なのか。男の人の名前にしてはちょっとかわいすぎる気もするから、苗字だろうか。
ほんの少しばかり話をすると、スーツの中年男性は青年に手を振って歩き去っていった。学生時代の先生か何かかな、とアタリをつける。少なくとも、ギターを用意している青年は私とさほど変わらない年に見えた。二十になったかなっていないか。童顔なだけで、実はもう少し年上なんてこともあるかもしれないが。
「あの」
興味本位だった。
私はてくてくと青年の前に歩いていく。
「いつもここで歌ってるんですか?」
亜理紗と違って、私は他人に話しかけるのに物怖じしないタイプだった。それから、男性に話しかけるのにも抵抗がない。自分で言うのもなんだが、幼い頃から異性の友達も少なくないのが私だった。
「え」
とはいえ、私が平気でも相手が平気とは限らない。
ミュージシャンらしき青年は、ギターケースを開けたところでキョトンとしている。まだ歌い始める前から人に声をかけられるとは思っていなかったのかもしれなかった。ちょっとだけ恥ずかしくなって、いやあ、と私は頬を掻く。
「その、友達が待ち合わせに遅刻しちゃって。時間潰そうと思ってたら貴方がいたものだから。歌、歌うのは好きじゃないんだけど聞くのは大好きなんです。いつも此処にいらっしゃるんですか?」
「あ、いえ」
ストリートミュージシャンというやつは、もっとコミュニケーション能力が豊富な人ばかりかと思っていたが、彼はそうでもないのだろうか。少し頬を染めて、照れたように視線を逸らす彼。こうして見ると、思っていたより幼い顔立ちをしている。二十歳で女子大生の私よりだいぶ年下、なんてこともあるのだろうか。
「……此処には最近、来るようになったばっかりで。いつも違うところで歌ってたんですけど、最近はこの場所にしようかなって。景色もいいし、人の雰囲気もいいし。あ、あと……場所によっては勝手に歌ってると怒られちゃうところもあるけど、此処は大丈夫だし」
「あ、なるほど」
確かに、近年は騒音にやたら厳しくなった印象がある。駅の周辺なんてうるさくて当たり前だと個人的には思うのだが、駅のストリートピアノが五月蝿いと苦情が来たなんてケースもあったとかなかったとか。無論、ピアノにしろギターにしろ指定された時間以外で弾いたらダメだろうけれど、そもそも音楽を騒音と感じる人が増えてしまったというのも原因としてあるかもしれない。
というか、最近は保育園が足らない足らないというくせに、保育園を建てさせて貰える場所がないなんて話もよく耳にする。子供が遊んでいる声が五月蝿いとクレームがあるからだとか。クレームを入れた人を過度に責めるつもりもないが、子供の声が五月蝿いという感覚は私にはあまりわからないことだった。そういう風に怒ってくる人達は、幼い頃庭で鬼ごっこをしたり、笑い声を上げて遊んだりということをしなかったのだろうか。自分が自由にやらせてもらったことを、大人になってから人にダメと言うのもなんだか心が狭い話な気がする。
「昼間の駅前でも、歌っていると怒られることもあるんです。でも、此処は大きな駅だし、イベントも多くて元々煩いことが多いから、そんなに叱られないって聞いて」
それも一理あるかもしれない。
この駅はショッピングモールも駅前にあって、夜十時まで営業しているし、近くには大きなイベント会場となるホールもある。夜遅くまで騒がしいことに、近隣住民も比較的慣れているのかもしれなかった。
「ストリートでやる人も大変なんですねえ……昼間に歌ってるのもダメとか。みんな心が荒んでるなあ」
「あはは」
「あの、名前……さっきアキさん、とか呼ばれてましたよね?私にも一曲、おすすめを聞かせてください。さっき言ったみたいに、時間持て余してるんで、ぜひ」
「わかりました」
通りすがりの見知らぬ人でしかない私に、彼は嬉しそうに笑いかけてくれた。思ったよりかわいいかもしれない、とちょっとだけドキリとする。
でも、この時の彼の印象なんてその程度のものだったのだ。ほんの少し顔がかわいいけど、ただそれだけ。
彼の魅力はなんといっても、彼が歌う歌そのものにあったのだから。
私は時計を見、改札を振り返り、そして駅の電光掲示板を見上げた。改札の上にピカピカと輝いているそれは、此処の路線が通常通り運行されていることを示している。実際、さっき時間ぴったりにちゃんと電車は来ていたようだ。どれほど目を凝らしたところで、友人の姿を見つけることができなかったというだけで。
「あいつめ……」
珍しくもなんともない。なんせ、小学校から大学の今に至るまで、ながーい付き合いの友人である。やっぱり本人がどれほど嫌がろうと、モーニングコールをするべきだっただろうか。
スマホを取り出し、時間を確認した。待ち合わせをしたのは十時。既に十分が経過している。なお、十時ぴったりに送ったメールとLINEは共に返ってきていなかった。土曜日であるのをいいことにベッドで爆睡している可能性が高そうだ。なんせ、私と違って彼女は大学から一人暮らしを始めていたはずである。起こしてくれる親もいないのに、どうやって生活が成り立っているのだろうか。
発信履歴から『松島亜理紗』の名前を探してリダイアルする。
コール一回、二回、三回、四回、五回――。頭の中に、ボブカットの友人の呑気な顔が浮かんできた。留守番電話メッセージうんぬんかんぬん、というのが流れ出したところでようやくプツっと音を立てて電話がつながる。
『ふぁい、もち、もち、松島、でふ……』
人間、寝起きで一番動かないのは口だと聞いたことがある。耳は早々に働くが、喋るという機能が動き出すまでに時間がかかるというのだ。
案の定、寝起きと思しき彼女は呂律が回っていなかった。私は頭痛を覚えながら、もちもちじゃないよ!と返す。
「ちょっと亜理紗サン?その露骨に寝起きな声はなに?今日、一緒にショッピングしようって約束したじゃん。もうとっくに十時過ぎてるんですけど?」
『…………え』
「忘れてたわけ?それとも、目覚ましかけ忘れたわけ?」
『ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?ああああああああああ聖羅ちゃんごめんごめんごめんほんっとごめええええええええええええんんんんんんんんんんんん!!』
電話の向こうで絶叫。私は思わずスマホを耳から離した。
『ほほほほほほんとにごめんっ!噓でしょスマホも目覚まし時計もダブルでかけたはずなのに何で止まってんのよおおおおおお!?』
「落ち着け、全力で落ち着け」
『ごめんごめんごめん!今急いで支度するから!本当に申し訳ないけどあと一時間待ってええええ!あばばばばばばm0@j49,@0cq、jh5@9q4p;mgぉ;@q、@jw50cmr3q9xgq「-4gpvmx0qj、5「0q9jxg0q@4x!!』
「本当に落ち着け?人間とは思えない声出てるからね!?ていうか物音すっごいな!!」
名状しがたい声で鳴き出した彼女に対して、私は何度目になるかもわからないため息をついたのだった。
そしてあっさりと言い放つ。
「……あと二時間待っててやるから、忘れ物しないで出てきな。慌てるとあんた、すぐ財布も携帯も家の鍵も忘れてくるんだから」
最悪、十二時半のレストランの予約に間に合えばいい。
午前中の買い物の時間はなくなってしまったが、それはそれ、彼女にオヤツでも奢らせてチャラにしてやろう。遅刻が多い友人だとわかった上で付き合っているのは私なのだから。
***
男勝り、アネゴ系。
そう言われる私とおっとりした亜理紗は、まさに正反対の性格と言って良かった。むしろ真逆だからこそ気があったとも言う。人間、自分そっくりのタイプとはなかなか仲良しになれないものである。
長身、ポニーテール、陸上部、体育会系の私。
小柄、ボブカット、美術部、文系の亜理紗。
見事に似ているところが一つもない。時間の感覚に関してもそう。私は待ち合わせに絶対遅れないタイプだが、彼女は結構なルーズだった。相手が亜理紗でなかったらもっと怒っていたし、なんなら縁を切っていたかもしれない。多少待ち合わせをすっぽかされても許されるのは、ある意味彼女の人徳なのかもしれなかった。
小学校から大学に至るまで同じ学校で、同じ学部。流石に同じ会社に入ることはないだろうが、多分社会人になってもなお私達の腐れ縁は続いていくのだろう。今どき珍しく、お互い紙の年賀状を出し続けているから尚更に。
――まあ、朝にすごく弱い人間ってのはいるもんだしな。……朝起きるのが苦手で、あいつ一限目の授業はほぼ取らないし。
ただ、社会人になればそういうわけにもいくまい。彼女のためにも、何か効果のある早起きグッズはないものか。
彼女の家からこの駅までは一時間はかかる。そして、亜理紗ならどう頑張っても支度に一時間かかってしまうだろう。あと二時間来ないと見込んだのはそういう理由だった。ならば二時間、ぼーっと駅前で待っている必要もない。一緒に買い物予定だったショッピングモール(この西口改札から徒歩五分の位置だ)で時間を潰しても文句は言われないだろう。
「嬉しいよ、アキくんが音楽続けていてくれて」
のんびりそちらに歩いていこうとしていた時、男性の嬉しそうな声が耳に入った。
見れば改札前の柱の下で、スーツを来た男性と若い青年が話をしている。青年は柱の前にシートを引いて、ギターの設置準備をしているように見えた。どうやら、ストリートミュージシャンらしい。
「うちの軽音部の子たち、みんな音楽やめちゃったからね。ボーカルとギターで、一番うまかったアキくんが続けてくれてるのは凄く有難いよ。また君の歌が聞けるなら、もうちょっと頻繁に此処に来ようかな」
「みんなちゃんと現実を見据えてるってだけです。俺だけ、音楽から離れられないだけで。俺もこうやって、ストリートで歌ってるだけですしね。今日聞いていきますか、先生?」
「悪いけど、今日は大事な約束があってすぐ行かないといけないんだ。今度しっかり聞かせてもらうよ。頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
アキくん、というのが青年の名前らしい。果たして苗字なのか、名前なのか。男の人の名前にしてはちょっとかわいすぎる気もするから、苗字だろうか。
ほんの少しばかり話をすると、スーツの中年男性は青年に手を振って歩き去っていった。学生時代の先生か何かかな、とアタリをつける。少なくとも、ギターを用意している青年は私とさほど変わらない年に見えた。二十になったかなっていないか。童顔なだけで、実はもう少し年上なんてこともあるかもしれないが。
「あの」
興味本位だった。
私はてくてくと青年の前に歩いていく。
「いつもここで歌ってるんですか?」
亜理紗と違って、私は他人に話しかけるのに物怖じしないタイプだった。それから、男性に話しかけるのにも抵抗がない。自分で言うのもなんだが、幼い頃から異性の友達も少なくないのが私だった。
「え」
とはいえ、私が平気でも相手が平気とは限らない。
ミュージシャンらしき青年は、ギターケースを開けたところでキョトンとしている。まだ歌い始める前から人に声をかけられるとは思っていなかったのかもしれなかった。ちょっとだけ恥ずかしくなって、いやあ、と私は頬を掻く。
「その、友達が待ち合わせに遅刻しちゃって。時間潰そうと思ってたら貴方がいたものだから。歌、歌うのは好きじゃないんだけど聞くのは大好きなんです。いつも此処にいらっしゃるんですか?」
「あ、いえ」
ストリートミュージシャンというやつは、もっとコミュニケーション能力が豊富な人ばかりかと思っていたが、彼はそうでもないのだろうか。少し頬を染めて、照れたように視線を逸らす彼。こうして見ると、思っていたより幼い顔立ちをしている。二十歳で女子大生の私よりだいぶ年下、なんてこともあるのだろうか。
「……此処には最近、来るようになったばっかりで。いつも違うところで歌ってたんですけど、最近はこの場所にしようかなって。景色もいいし、人の雰囲気もいいし。あ、あと……場所によっては勝手に歌ってると怒られちゃうところもあるけど、此処は大丈夫だし」
「あ、なるほど」
確かに、近年は騒音にやたら厳しくなった印象がある。駅の周辺なんてうるさくて当たり前だと個人的には思うのだが、駅のストリートピアノが五月蝿いと苦情が来たなんてケースもあったとかなかったとか。無論、ピアノにしろギターにしろ指定された時間以外で弾いたらダメだろうけれど、そもそも音楽を騒音と感じる人が増えてしまったというのも原因としてあるかもしれない。
というか、最近は保育園が足らない足らないというくせに、保育園を建てさせて貰える場所がないなんて話もよく耳にする。子供が遊んでいる声が五月蝿いとクレームがあるからだとか。クレームを入れた人を過度に責めるつもりもないが、子供の声が五月蝿いという感覚は私にはあまりわからないことだった。そういう風に怒ってくる人達は、幼い頃庭で鬼ごっこをしたり、笑い声を上げて遊んだりということをしなかったのだろうか。自分が自由にやらせてもらったことを、大人になってから人にダメと言うのもなんだか心が狭い話な気がする。
「昼間の駅前でも、歌っていると怒られることもあるんです。でも、此処は大きな駅だし、イベントも多くて元々煩いことが多いから、そんなに叱られないって聞いて」
それも一理あるかもしれない。
この駅はショッピングモールも駅前にあって、夜十時まで営業しているし、近くには大きなイベント会場となるホールもある。夜遅くまで騒がしいことに、近隣住民も比較的慣れているのかもしれなかった。
「ストリートでやる人も大変なんですねえ……昼間に歌ってるのもダメとか。みんな心が荒んでるなあ」
「あはは」
「あの、名前……さっきアキさん、とか呼ばれてましたよね?私にも一曲、おすすめを聞かせてください。さっき言ったみたいに、時間持て余してるんで、ぜひ」
「わかりました」
通りすがりの見知らぬ人でしかない私に、彼は嬉しそうに笑いかけてくれた。思ったよりかわいいかもしれない、とちょっとだけドキリとする。
でも、この時の彼の印象なんてその程度のものだったのだ。ほんの少し顔がかわいいけど、ただそれだけ。
彼の魅力はなんといっても、彼が歌う歌そのものにあったのだから。



