紫都の言葉の続きは、予想外なものだった。
 それでも、俺はもう頷くことしかできない。
 俺が救ったという目の前の少女に、今度は俺が救われたんだから。
 紫都のためなら、なんだってできる気がしていた。

 ***

 真夏の球場は、熱気に包まれている。
 全校応援として、学校から大型バスで全員で移動してきた。
 点呼を取り、整列させられたが、楽しみにして目を輝かせてる人半分。
 めんどくさそうにグダっと並んでる人半分だった。

 俺も紫都のことが無ければ、ぼやーっと突っ立っていただろう。
 勝ってほしい。
 紫都のためにも、甲子園へ行ってほしい。
 そんなことを願ってしまう。

 入場が始まり、学校の生徒全体が並んでるのは壮観だった。
 フェンス近くにチア部が、整列してる。
 吹奏楽部もその付近で、楽器を構えていた。

 今日一日に全てを賭ける。
 全員がそんな顔をしていた。

 紫都の姿を見つけて、じっと見つめてしまう。
 お揃いのチアの服装をした中でも、一際輝いてしまうのは俺の目のせいか。
 紫都の凛とした背中に、視線を送り続けた。
 一瞬だけこちらを向いて、俺に満面の笑みを見せてくれたが。
 こんだけの人数がいたら、気のせいだろう。

 試合開始の合図がなって、球児たちが走り出す。
 野球のルールは、全然わからない。
 緑色のボードに映される点数だけが、なんとか状況把握に繋がった。

 知り合いが出てるやつらは、大声で名前を叫んで歌ったり踊ったりしてる。
 チア部だけでなく、応援歌? を歌って踊れる人たちはいるらしい。
 なんとか周りの拍手に合わせて、パチパチっと手を叩くのが精一杯だった。

 試合が中盤くらいだろうか?
 七回裏という案内があった頃には、4-3の1点差になっていた。
 表と裏の違いもわからないが、交代して打ってるから多分そういうのだと思う。

 トイレに行きたくなって、少しだけ列を抜けた。
 球場に来たことなんかないから、迷いながらトイレを探す。
 一瞬紫都の声が聞こえた気がして、周りをキョロキョロ見渡した。

「お父さん、まだ、大丈夫だって」
「治ってないんだぞ。激しい運動は控えろってお医者さんにも言われてるんだから」
「でも、お兄ちゃんの決勝戦は今日しないんだよ」

 会話が聞こえてきてしまって、ハッとした。
 足が治ったというのは、ハッタリだったのか。

「それでも、紫都の足だって大切だろ」
「だって、こんなことがなきゃ、お父さんもお母さんも集まってくれないじゃない!」
「それは……」

 ワァアアアという歓声に、二人の声が掻き消される。
 紫都は、兄の優勝を願ってというより……
 家族が集まれる理由として、チアを続けていたのだろう。
 それがケガをしていても、無理をしていてでも、踊る理由。

 洋式のトイレに篭って、スマホを開く。
 外の演奏してる音楽や歓声は、トイレの中まで聞こえてきた。
 
 物語は、クラウド上にある。
 香花の名前を紫都の名前に一括変換してから、一息ついた。
 自分の力で、掴み取らなきゃ意味がない。
 そんな綺麗事を言っていたくせに、俺は一心不乱に手を動かした。

 紫都の足が自由に動いて、祈りを捧げる。
 そんな夢物語を追加していく。
 紫都は、怒るだろうか。
 自分で掴まなきゃ意味ないと思ってると、言っていたから。

 その言葉に共感して、書くことにしたけど。
 俺は、それを違えようとしてる。

 紫都が知ったら、泣くかもしれない。
 それでもよかった。
 叶わない方が、俺にとっては苦しいから。

 甲子園に行けるように。
 兄には優勝してもらわなきゃいけない。
 それでも、名前も野球のルールも知らない。
 こんな書き方で、叶うんだろうか?

 決勝戦で勝った、しか俺は書けない。
 スマホの検索エンジンで、野球のルールを調べてみた。
 点数が、多い方が勝ちなのはわかる。
 付け焼き刃の知識で書いたものがどれだけ反映されるかはわからない。

 それでも、ひたすらに書き綴る。
 決勝戦九回裏。
 裏が俺の学校の攻撃側だったはずだ。

 試合速報を開いて、現在を確認する。
 九回表、今の点数は、8-3。
 いつのまにか、4点も取られていた。
 裏で、あと6点を取れば逆転優勝。

 6点取れるような道筋は、付け焼き刃の知識ではわからない。
 ただ、優勝することだけを入力しよう。
 そして、紫都の家族が幸せに集まれる願いも込めて。

 クラウド上で編集していたせいか、不意にアプリが落ちた。
 今、今、書き終わらないと、試合が終わってしまう。
 今ならまだ間に合う。

 立ち上げ直したアプリは、変換したもの全て消え、紫都に渡したものに戻っていた。
 間に合え、間に合ってくれ。
 紫都が、こんなところで泣くのを俺は見たくない。

 必死に指を動かす。
 名前を変換してから、甲子園に行く前のシーンで改行をする。
 ただ、優勝と書き込めばいい。
 紫都の兄が優勝だけで、いいはずだ。
 両手でフリック入力をして、確定を押そうとした瞬間、サイレンが鳴り響いた。

 なぁ、俺が書いた物語が叶うなら。
 どこで決まるんだ?
 神様がいるなら、教えてくれよ。
 俺が考えた時、か?
 それとも、文章に起こした時、か?

 確定ボタンを押しながら、スマホを握りしめる。
 結果を確認する勇気もなく、トイレを流して個室を出た。
 席に戻った時クラスメイトたちの反応で、結果を知る。

 どれくらいぼうっとしていただろうか。
 全員バスで、学校に戻ってきて、それぞれ帰宅するのを見送った記憶はある。
 誰もいなくなったバス停のイスに座っていたら、いつのまにか、辺り一面暗くなっていた。

 俺がこんな力持ってる理由はなんなんだ。
 大切な人を、幸せにするためじゃないのかよ。
 紫都は、泣いただろうか。
 想像して、目の奥がツーンとする。

 どうして、俺は、叶えなかったんだ。
 こんなに、後悔するなら、叶えればよかった。
 誰に批判されても、嫌われても、叶えればよかった。

 車のエンジン音が聞こえて、顔を上げる。
 一台の自家用車が、ロータリーに入ってきていた。
 車から降りてきたのは、紫都。
 
「ハル先輩?」
「紫都」

 ごめん。
 ごめんも違うな。
 紫都は最初から望んでいなかった。
 俺の力に頼ることを。

「忘れ物か?」

 なんでもないふりをして、笑顔を作る。
 暗くてよかった。
 きっと、みっともない顔をしていたから。

「忘れ物、ですけど……ちょっと待っててください」

 紫都が車に戻ったかと思えば、車は学校を出ていく。

「いいのか?」
「後で迎えにきてもらうように頼みました」

 俺の横のベンチに腰掛けて、紫都が足をぷらぷらと揺らす。
 右足にはサポーターが巻かれていて、やっぱり治ったのが嘘だったことがわかった。

「ハル先輩は、何してたんですか」
「たそがれてた」
「負けちゃったから、ですか?」

 言いづらそうに、紫都が小さく声にする。
 そうだよ、と言うのもおかしい気がして、深呼吸だけをした。

「ハル先輩、ありがとうございました」
「え?」
「負けちゃいましたけど、家族はバラバラにならなくてすみそうなので」

 どういうことだろう。
 不思議に思いながら、紫都の方を見れば清々しい顔をしてる。

「ケンカしたんです、お父さんと」
「ケンカ、したのか」
「離婚したのはいいけど、私にとってはお母さんもお兄ちゃんも家族だからみんなで会いたいの! って」

 紫都は、キラキラとした目で空を見上げている。
 だから、チア部に入ったのだろうか。
 兄を応援するために。
 兄と母に会うために。

「兄が野球部だから、お母さんは試合を見にくるし。私がチア部で踊るといえば、お父さんも見に来てくれるんです。だから、家族が揃うにはそれしかないと思ってた」
「それを少しでも続けるために、甲子園まで行ってほしかったんだな」
「えへへ、ひどいですよね。人の夢に、勝手な事情押し付けて」

 紫都の頬には、雫が伝った後が残っている。
 きっと、負けた時に泣いたのだろう。

「でも、お父さんに思いをぶつけたら、謝られて。今日もこの後みんなでご飯行こうって! 離れても家族は家族だからって」

 じわりと涙が、瞳の奥から溢れ出してくる。
 勝手な自分を恥じた。
 結局俺は何も変わらない。
 自分のことを神様か何かだと勘違いして、叶えなきゃと思って動いて……

「ハル先輩!?」

 暗くてよく見えないはずなのに、紫都は俺の涙に気づいてしまったらしい。
 柔らかいあたたかさに包まれて、俺はポロポロと泣いてしまった。

「負けたのは、ハル先輩のせいじゃないですよ」
「違う」
「もしかして、叶えようとしちゃいました?」
「ごめん」

 紫都の鋭い指摘に、謝る。
 それでも、ふふっと笑って、俺の背中を撫でてくれた。

「ハル先輩、私のこと大好きですね」
「好きだよ」

 書きたいくせに、逃げるために、書きたくないと嘘ついてた俺を救ってくれたから。
 唯一のやりたいことだったんだ。
 夢だったんだ。
 小説を書くこと。
 それを思い出させてくれて、ましてや、救われたとまで言ってくれる人間に、どうしたって、想いを寄せてしまうだろ。

「ありがとうございます。私のために。ごめんなさい、意思を曲げさせてしまって」
「違うよ、紫都のせいじゃない」
「ハル先輩が、書きたくなったんですか」

 そうだよ。
 俺が夢を叶えてた理由を思い出したんだよ。
 褒められたかった、一番最初はそう。
 でも、みんなの幸せそうに笑ってくれる顔が好きだった。
 幸せにしたかったんだよ。
 俺の力で。

「じゃあ、ハル先輩。あの時言ってた、試合が終わったら、一個お願い聞いてくださいって覚えてます?」
「忘れるわけ、ないだろ」
「じゃあ、今言いますよ」

 紫都は、俺からすっと身体を離す。
 そして、俺の両手を握りしめた。
 俺の目をじっと見つめたまま。

「物語をまた書いてください。私が、一番のファンで居続けるので」
「また、叶わないかもしれないよ。間に合わないかもしれない」
「願いを叶えなくたっていいじゃないですか、だって、物語ですよ? フィクションです」

 キッパリと言い切られて、俺は自然と頷いていた。
 まだ、書いてていい。
 誰かに一番言われたかった。
 きっと、ずっとそれを待っていた。

 紫都が優しく、俺をもう一度抱きしめてくれる。
 俺も、紫都を抱きしめ返した。

「そして、できれば……私が一番最初の読者でありたいです」

 断る理由はなかった。
 俺だって、できれば、そうなってほしい。

「紫都が一番最初の読者で、居てほしいです」

 素直な気持ちを言葉にすれば、紫都は嬉しそうに笑う。
 俺の涙もいつのまにか、引っ込んで、つられて笑っていた。

「ありがとう、紫都」
「ハル先輩が素直になった! こちらこそ、ありがとうございます」

 二人を包み込むように、風が吹く。
 今、紫都の世界も、俺の世界も、もう一人きりじゃなくなった。

<了>