夏休みに入る前の授業、最終日だった。
 学校に集合してバスで移動後、野球部の試合を観戦する。
 そんな計画だったはず。

「ハル先輩に頼みたかったですけど、無理はしないでくださいね」
「俺に頼んできたんだから、信じててくれよ」
「信じてますよ。ハル先輩なら仕上げてくれるって。でも、ハル先輩の心の安寧と引き換えに、は求めてません」

 きっぱりと告げる紫都の目力に、少しだけ怯む。
 強がっていたはずの気持ちが、胸の奥の方に隠れてしまった。

「本当はすげー怖い」

 素直に口に出せば、言葉に乗って恐怖心も出ていく。
 俺を選んでくれたから、紫都の期待には応えたい。
 でも、いまだに書こうとすれば足も手も震えてしまう。

「それは、今までの、人たちのせいですか?」

 紫都が聞きづらそうに、言葉を区切る。
 かろうじて動く首で、こくんっと小さく頷いた。
 誰にも言えなかった、痛みの理由。

「勝者がいれば、敗者がいるのは、わかってたんだ」

 そして、負けた側は、俺のせいだとなじった。
 確かに、俺のせいだった。
 俺は、バカだ。
 だって、そんなことにも気づかずに、ひたすら周りの夢を叶える物語ばかり綴ってきたんだから。
 望まれる通りに。

 全員に幸せになってほしいと言いながら、他人の努力を踏み躙った。
 その事実に気付いた時、俺は胃の中を全て吐いていた。
 勘違いもはだはだしい。
 俺は、神様でもなんでもない、ただの人間だ。
 それなのに、自分勝手な考えで、人々の日々を無駄にさせた。

 負けた側は、実力で負けたかどうかも、わからなかっただろう。
 そして、その日のために向けてきた努力を、俺の文章ひとつで壊されたんだ。
 俺のせいで、全てを、努力さえも、壊されたんだ。
 俺が介入していなければ、自分たちの実力だと納得できたかもしれないのに。

「想像はつきますよ。ハル先輩が考えてること」
「なんだよ」
「でも、ハル先輩は気づいてからは、誰も不幸にしていないでしょ?」

 紫都の言葉に、胸を掻きむしりたくなった。
 気づくまでに、何人も傷つけてきたのだ。
 そんなことで、俺の罪が軽くなることはない。

「それに、気づく前もたくさんの人を、ハル先輩は救ってますよ」
「救えてると思ってたのは、俺の勘違いだよ」

 誰も、救われてない。
 努力を忘れたやつもいたし、恋愛が成就したのに、自分で壊したやつもいた。
 俺のせいで、周りの人の人生はぐるぐると狂ったんだ。

 紫都がなんて言ってくれようと、変わらない。
 コップの水を飲み干して、答えずに伝票を掴んだ。

「ハル先輩」
「行こう。待ってる人たちもいる」

 紫都と約束したから、物語は、なんとしても綴りきる。
 これが最後だから。

 会計を済ませて、二人で店を出る。
 太陽が沈みかけてるせいか、心なしか涼しくなったような気がした。

「ハル先輩、あの」

 紫都は、言いづらそうに唇を震わせていた。
 書いて欲しい理由の説明、か?
 そんなことしなくても、もう書くって決めたのに。

「聞かないよ」

 できるだけ、優しい声色を作る。
 紫都に負担に思わせたいわけじゃないから。
 書くと決めたからには、書き切る。
 たとえ、吐こうが、めまいがしようが。
 俺は、カッコつけると決めたんだから。

「大丈夫、書くから。金曜日までには渡すよ」
「それは、いいんですけど……」
「じゃあ、また」

 帰ろうと駅の方に向く。
 紫都に、左手をグッと掴まれてしまった。

「え?」
「まだ、帰りたくないんです。お願いします、もうちょっとだけ」

 振り返れば、今にも泣き出しそうな顔をしてる。
 そんな紫都を、放っておくことはできなかった。
 かといって、どうすればいいものか。

「ちょっと散歩でもしたかったんだけど、どう? 腹ごなしに」

 提案すれば、紫都は顔を上げてこくこくと頷く。
 十五分くらい歩いたところに、大きなゲームセンターがあったはずだ。
 時間的には、まだあと一、二時間は居られる。

 二人でゆっくりと歩道を歩きながら、話題を探す。
 何を聞いても、引き寄せの法則に頼ろうとした紫都の理由を聞いてしまう気がした。
 大きな道路が走ってるせいか、車の行き交いが激しい。

「ハル先輩は、本当に何も聞かないんですね」

 紫都が、小さく言った言葉も、聞かないふりをした。
 触れてしまえば、結局たどり着いてしまうから。
 それに、もうかなり情が芽生えてしまっている。

 紫都の真剣な眼差しも、くるくる変わる表情も、心を掴んでくるから。

「聞いてほしいことは、聞くかもしれないけどな」
「うそつき」
「全部終わったら聞くよ」

 俺が物語を綴り終わったら。
 紫都は言葉の意味を理解してくれているらしい。
 仕方なさそうにふぅっと息を吐いてから、まっすぐ前を向く。
 ぴょこんっと足を引きずる姿を見て、ケガしていたことを思い出した。

「悪い! 足のこと、忘れてた」
「軽く歩く程度なら問題ないので」
「でも、痛いんだろ? 引きずってるなら」
「これくらい良いんです。帰らなくて済むなら」

 どうやら、家に帰りたくないらしい。
 その理由がどんなものか、いろいろ想像してみたけど、真実は知りたくなかった。

「それに、少し歩けばマシになるんです。立ったときが一番しんどくて」

 言い訳には聞こえなかった。
 事実、先ほどまで引きずっていた足は、しゃんとしてる。
 強がり、かもしれないが。

 生ぬるい風が吹いて、髪の毛を柔らかく持ち上げる。
 暑いとはいえ、風が吹いていれば程よい気温だ。

「ハル先輩は、この先どうするんですか?」
「道内の大学に進学かな?」
「何をするために?」

 紫都の言葉に、ウッと息が詰まる。
 大体の人は、やりたいことや夢のために大学を選ぶだろう。
 俺は、何のために選ぶかわかっていなかった。
 両親に迷惑をかけないように、家から通えて、学費が安いところがいい。
 その選び方が間違ってるとは思わないし、そう思える自分に自信を持ってはいる。

 それでも、夢を目指す人々のキラキラした姿に、ずっと憧れを持っていた。
 俺は叶えたいと思える夢は、持っていなかったから。

「とりあえず、アンパイかなぁーって」
「まぁそうですよねぇ」
「紫都は? って言ってもまだ一年だから考えてないか」
「悩んでます。道内に残るか、東京に行くか」

 何かを天秤にかけるように、左手と右手を出しながら言葉にする。
 紫都は、てっきりチア部がある大学を目指すんだと思っていた。
 もしかしたら、その強い弱いで迷ってるのかもしれない。

「チア部関連か?」
「え、違いますよ。チア部は、高校だけです」
「そうなの?」

 あんなに真剣な顔で、キラキラした眼差しで踊っていたのに?
 楽しくて仕方ないんだ、と思っていた。
 俺に見せるために痛む足を引きずってでも、踊っていたのに、あの時の顔は輝いていた。

「チア部は、なんていうか、目的を達成するための手段なので。高校では目いっぱいがんばろう! みたいな。あ、嫌いとかじゃないですよ、踊るのは好きですし。みんなが褒めてくれるのも、応援になれるのも嬉しいです。やりがいもあります」
「祈りなのかな、と思っていた」
「そうですね、祈りです。多分、祈りの手段は他にもあるんですけど、一番近かったのがチアだったんですよね。だから、高校でやりきれれば、変わるかなって」

 目的が何かは、きっと答えなんだと思う。
 頭の中でぐるぐると考えが、巡っていく。
 気づけば、ゲームセンターは目前まで迫っていた。

「変わらないかもしれないです、けど」

 弱々しい紫都の言葉に、つい立ち止まってしまう。
 プーっと激しいクラクション音が響いて、紫都を不意にこちら側に引き寄せていた。
 心臓がバクバクと激しい音を立てて、動いている。

「ごめん」
「びっくりしましたね、なに、もう!」

 紫都はぷんぷんと頬を膨らませながら、クラクションを鳴らした車の方を睨みつける。
 俺もそちらへ視線を向ければ、どうやら駐車場から出てきた車と接触しそうになっていたらしい。
 目で合図しながら、するっとすれ違っていた。

「心臓に悪いな」

 心臓は、まだ鳴り止まない。
 腕の中にいる小さい紫都を見て、何かを思い出しそうになった。

「ハル先輩は、彼女とかいないんですかー? 見られたら怒られちゃいますよ」

 俺の腕の中から抜け出して、紫都は、イタズラっぽく笑う。
 でも、目は揺れて、雫が溜まっていた。

「いない、いない」
「じゃあ好きな人は?」
「今はいない」
「昔は居たって、ことかぁ」

 ふーんと言いながら、俺の顔をじっと見つめる。
 見覚えがある気がする。
 でも、どこで?
 
 俺は前にも、紫都の願いを叶えたんだろうか?
 叶えてきた人全てを覚えているわけじゃない。
 だって、あまりにも多くの人に頼まれた。
 気づけば、下の学年、上の学年、同級生の兄弟、色々な人にお願いされたから。

「よし、落ち着いたんで帰りましょう」

 ゲームセンターでコインゲームでも、遊ぼうかと思っていたのに。
 紫都は俺の答えを聞く前に、くるんっと踵を返す。
 そして来た道を、ゆっくりと歩き始めた。

 風が紫都の長い髪の毛を広げて、美しい光景だった。
 薄紫色の世界に、紫都が一人で凛と立っている。
 ほんのり切なくて、でも優しい温かさのあるような世界。
 紫都は、そんな世界で一人で生きてるんだ。

 名前を呼ぼうとした瞬間、紫都が振り向く。
 優しい風が、俺と紫都の間に流れた。

「ハル先輩?」
「なんでもない。書くよ。今週中に渡す」
「楽しみにしてます」

 笑顔を見れば、心の奥に火が灯った。
 情けないことに、恐怖心はまだ消えていないけど。

 ***

 約束の金曜日。
 俺は確かに香花と譚の物語を、書ききった。
 紫都と俺の代わりの女の子と男の子の話。
 何度も推敲したし、きちんとした物語になっていると思う。

 紫都とは、カフェで待ち合わせだ。
 駅の中の薄暗い照明はムーディで、ソワソワとしてしまう。
 紫都を待つ間、手元の想定より厚くなった紙の束を何回も整えた。

 香花は、夢のために甲子園の舞台で踊ることを望む。
 それを聞いた譚は、香花の願いが現実になるように、物語に幸せを詰め込んだ。
 全てがハッピーエンド。
 蛇足だとも思ったが、将来香花がその過去を振り返って幸せそうに笑う終わりにした。

 いつだって、紫都には笑顔で居てほしい。
 そんな思いが芽生えてしまったから。

「ハルせ、んぱい!」

 イスの後ろから飛びついてきた紫都に、カァッと熱が上がる。
 それでも顔には出さず、前にあるイスを手のひらで示した。

「本当にできたんですね……」

 俺の手元の紙束を見て、紫都は息を呑む。
 これを最後にと決めたはずなのに、俺の脳内にはまだ物語が広がってる。
 それでも、もう書かないけど。

「読んでくれる、か?」
「もちろんです! ありがとうございます」

 紫都はココアを、俺はカフェオレを頼む。
 紙の束を目の前で捲る紫都の顔だけを、ただひたすら見つめていた。

 来週の決勝戦の結果は、書き込んでいない。
 勝っても、負けても、いつか、紫都は甲子園の地に立つ。
 今年じゃないとダメだと紫都は、言っていたけど。
 願いを叶える力は使わなかった。

 全てに目を通し終わったあと、紫都は顔を上げてココアを一口飲み込む。
 そして、俺の目を見て、一粒の涙をこぼした。

「ありがとう、ございます」

 途切れ途切れの掠れた声。
 今なら、聞けるかもしれない。
 聞いてもいいだろう。
 もう書き終わったのだから。

「どうして、俺だったんだ」

 紫都は一瞬、悩んだ顔をした。
 そして、目を伏せて、涙を人差し指で拭い取ってから笑顔を作る。
 
「ハル先輩の物語に、救われたから」
「俺の昔の話を読んだことが、あるのか?」
「ハル先輩、本当に忘れちゃってるんだもん、ひどいよねぇ」

 けろっとして、ココアをごくごく飲み干す。
 どこかで見た気はする。
 それでも、紫都が誰かはわからなかった。

「まぁ、それもしょうがないと思います。あの頃ハル先輩の周りにはたくさんの人がいて、私はその他大勢でしたから」

 俺が夢を叶えると噂になって、ひたすら物語を書き綴っていた頃だろう。
 紫都の夢も、叶えたのだろうか?
 俺の脳内を読み取ったように、紫都は首を横に振った。

「私の夢は叶えてもらってないですよ」
「じゃあ」
「でも、ハル先輩の書いた物語を読んで、息がしやすくなった」

 息が、しやすくなった。
 理由は想像もつかない。
 紫都に宛てた物語じゃないのに、紫都を救っていたとはどういうことか。

「ハル先輩覚えてますか? みんなと友だちになりたい、ってお願いしてきた後輩のこと」

 記憶を辿れば、確かにある。
 転校ばかりを繰り返していて、友だちができないと言っていた。

「私の友だちなんです。今も会う」
「続いてるのか」

 俺の物語で、人の思いまで変えてしまったのだろうか。
 それが嫌で、もう書かないと決めたのに。
 実際の関係を知らされて、身体中痺れたように動かない。

「違いますよ。だいたいの子たちは、中学に上がって遠い学校に行ったらバラバラになりました。私とその子は、ハル先輩の力関係なく、仲の良い友だちになったんです」

 それは、良かったのだろうか。
 俺が一人でも本当の友だちを作れるきっかけになれなら、良かったことだと思う。
 書いていたのはムダじゃなかった。
 そう思えるはずなのに、足が震えている。

「ハル先輩に書いてもらって、友だちが増えたって最初は喜んでたんです。それで、私も読ませてもらって」
「その時に、読んだのか、俺の昔の小説を」
「はい、優しさに満ち溢れていて……私、嫌われてたんです。ぶりっ子、とか、好きな人取った、とか、興味もないのに」

 想像できて、言葉に詰まった。
 どんな慰めの言葉も、意味がないような気がして。

「でも、ハル先輩の物語はどんな人にも隠れた魅力や考えがあって、それが一致して仲良くなれるって描かれていて……」

 自分の作品の感想を言われるのは、気恥ずかしい。
 初めてのことだった。
 今まで感謝はされてきたけど、こんなに熱を帯びた感想はもらったことがない。

「私もその子も、純粋に小説が好きになったんです」
「読書仲間みたいな感じなのか」
「優しくて、私だけを包み込んでくれるような物語だって思えたのは、ハル先輩の物語だけですけどね」

 あの頃は、目の前の一人一人のためだけに書いていた。
 それを、他の人が読んでここまで褒めてくれるとは思わなかった。

「嫌われてるからって諦めてたんです。だから、できるだけ地味な格好して、みんなに賛同して、嫌いじゃないものも嫌いだと嘘ついてました」

 ひゅっと喉の奥を鳴らして、紫都は涙を浮かべた瞳で俺を見つめた。
 そして、優しく微笑んだ。
 
「でも、本当の友だちができて偽ることをやめたんです。ハル先輩が友だちができるようにって、書いてあげた子が、私の本当の友だちです」
「俺の物語に、そこまでの力はないよ」
「あったんですよ。願いなんか叶えなくても、ハル先輩の物語は確かに私を救ってくれてます」

 真剣な瞳で、まっすぐ俺を射抜く。
 まだ、書いてくださいと言わんばかりの表情だった。
 書きたい、書きたい、と胸の奥がざわめく。
 誰かを救いたかった。
 誰かに愛されたかった。
 誰かを幸せにしたかった。

 俺の物語は、本当にそれができているのだとしたら……
 どれくらい幸せなことだろうか。

「だから、ハル先輩の物語が大好きだったんです」
「でも、今になってなんで急に」
「私、お兄ちゃんがいるんです。お母さんに引き取られてる」

 初耳だった。
 紫都に兄がいるのは、ラーメンの時に聞いていたけど。
 口ぶり的に、ご両親はきっと離れて暮らしている。

「私は父と一緒に暮らしていて。兄は、母と。でも、学校は同じなんですよ」

 そこまで聞いて、やっとピンと来た。
 野球部にいる紫都の想い人は、兄だろう。

「ハル先輩ならわかりましたよね、兄なんです。今年の決勝戦に出るの」

 兄の幸せを願って、祈りを込めていたのか。
 小さく頷く。
 家族が離れ離れになっても、大切に思っている。
 そんな紫都の想いに、胸が動いた。
 きっとこれを先に聞いていたら、俺は何がなんでも叶うように書いていたと思う。

「だから、二人で甲子園に行きたくて……」
「そうだったのか」
「ハル先輩が描いてくれたから、もう大丈夫です! 私の足も動きますし」

 ニコッと笑って左足を、ブンブン振り回す。
 元気なのはいいが、ぶつけてまたケガをしたら元も子もない。

「危ないぞ」
「嬉しくなっちゃって……」
「無理は禁物だろ」
「ハル先輩見ててくれますか? 私が応援しきるところ」

 紫都の言葉に、大きく首を縦に振る。
 俺は見届ける。

「そう言ってくれると思いました! あともう一つだけお願いがあって……」