夢物語は輝く君のため


 大体の小学生は、そういう恋が叶うおまじないとか、試合に勝てるおまじないとか、そういうの好きだから。
 それで、俺は自分の実力を見誤った。
 ただ、みんなは、俺に願いを叶えてもらいたいだけで、俺の小説を楽しんでなんかいない。
 そう気づくのに、時間がかかってしまった。

 気づいた時には、俺は苗字のせいもあって(じん)さまと呼ばれるようになった。
 みんなは俺のことを崇拝して、努力も、願うこともやめた。
 だって、俺に頼めば簡単に叶えてくれるから。

 それがどんな終わりに繋がるか、なんて、少し想像すればわかるのに。
 あの頃の俺は有頂天になって、どんどん書き綴った。

 バカだった。
 結局はこうやって、友だちもいない寂しい人間が出来上がるだけだというのに。

 自分自身は絶対に描かなかったのは、自分に夢がなかったからだろう。
 最後は、みんな我先にと乗り出して、盛大なケンカをしてしまった。
 人は生半可な助けには、攻撃的になるんだとあの時知った。
 いくら、俺が誰かのためと大義名分を語ったって、叶えられなかった人からしたら、俺は悪役でしかない。
 
 もうあんな目に遭うのは懲り懲りで、当時のクラスメイトが進学しなさそうなこの高校に入学した。
 数名は俺の物語の力を知ってるけど、高校生にもなれば落ち着いて、そこまで請われることはない。

 昔のことを思い出して、止まってしまった手を動かす。
 物語で夢を叶えられる勘違いした男と、それにお願いに来た後輩の女の子。
 俺と紫都の物語にしよう。
 気持ち悪がられるかも、とは思ったが、紫都はそういうタイプではない。
 それに、もう、本人の名前で書くことはやめた。
 絶対に、居ないような名前で書く。

 紫都は、何が良いだろうか。
 紫にちなんだ名前がいい。
 ライラック。
 札幌の話、ムラサキハシドイ。
 香花で、コウカ。
 紫都に似合いそうな気がした。
 それに、現実には少なさそうだ。

 俺の名前は、なんだろうか。
 物語を綴るということで、譚でいいか。

 自分のは適当だけど、今回の本題は俺じゃないからいい。
 本当に現実にさせるんではなくて、物語で紫都の背中を押せれば良いのだから。

 ノートの上に、物語が広がっていく。
 香花が夢を叶える話。
 ケガをした右足を引きずってでも、練習を繰り返す。
 踊りは、祈りだ。
 祈りの相手は、誰だ?
 恋人じゃないなら、いつか約束した友人。
 友人の願いが叶うように、祈りを込めて踊りきる。

 あまりに熱中して、書いていたらしい。
 頬にキンキンに冷えた缶が押しつけられて、悲鳴を上げそうになった。

「書いてくれるんですか? ハル先輩」

 炭酸ジュースの缶を差し出してるのは、紫都だった。
 チア部の衣装から、制服に着替えたらしい。
 気づけば、メディアセンターには紫色の光が差し込んでいる。

「とりあえず出よう」

 カバンにノートをしまって、立ち上がる。
 紫都は俺の手に炭酸ジュースの缶を押し付けて、ぴょこっと足を引き摺りながら前を歩いた。

 二人でメディアセンターを出て、あの日と同じようにベンチに座る。

「足、大丈夫か?」
「あー、半月板損傷らしくて、しばらくすれば治ります」

 目を逸らす姿に、そう簡単に治らないということを察した。
 きっと、決勝戦には間に合わないのだろう。
 それでも、俺が書くか悩んでるから、無理をした?
 俺のせい……か?

「ごめん」
「なんで、ハル先輩が謝るんですか?」
「俺のせいで、今日練習に参加してたんだろ」
「ち、がいますよ」

 紫都は、首を横に振る。
 それでも、唇が震えているし、顔は焦っていた。
 嘘がつけないタイプなんだろう。
 バレバレだ。

 甲子園でも踊れるように願掛けがしたい、というのは、足のケガが原因なのか。

「贖罪じゃないけど、書くよ。紫都の物語」
「ちょっと、見えちゃいました。ノート」

 紫都は、炭酸ジュースの缶をぷしゅっと開けてごくごく飲み始める。
 そして、俺の方を向いて、俺の右手を指さした。

「え?」
「ハル先輩もどうぞ! それ、ハル先輩に買ってきたので」
「あ、どうも」

 カシュッと良い音がして、缶を開ける。
 ごくごくと飲み干せば、爽やかな香りが鼻を抜けた。
 俺が好きな、ライム味のするサイダーだ。

「おいしいですよね、これ好きなんです」
「俺も」
「ですよね、そんな気がしてました」

 昔から、いつもこればかり飲んでいた。
 学校ではあまり買うことも、飲むこともないけど。
 偶然にしては、紫都の言い方が引っかかる。

「ハル先輩が書いてくれるなら、大丈夫ですね! 絶対、掴みます」

 嬉しそうに微笑んで、紫都はもう一度缶に口をつける。
 シャープなアゴのラインに、どきんっと胸が高鳴った。
 
「甲子園でチアを踊れればいいのか?」
「それが一番ですけど……でも」

 心配そうに俺の顔を見つめる。
 俺だって、試合に勝てるようには書かない。
 試合の結果は、自分で掴んでもらう。
 ただ、紫都の姿だけを描写することにした。
 
「甲子園に行けるように書くんじゃない。紫都がチアをする話を書くだけだよ」
「ですよね!」
「でも、どうして……」

 問いかけようとしてから、紫都の前に手を出した。
 理由を聞いてしまえば、俺は多分感情移入してしまう。
 物語を描く上ではいいかもしれないけど、きっと、勝手に願いを叶えたいと思ってしまうから聞かない方がいい。

「いい、今度教えてくれ」
「はい……」
「決勝戦までに欲しいんだよな?」
「はい。なので、あと一週間です」

 一週間後までに欲しい、か。
 短いものなら、可能だと思う。
 それに、ある程度話の流れは想像できている。

「ハル先輩の小説、楽しみにしてます。大好きなので」

 紫都の言葉に、ごくんっとツバを飲み込む。
 何を読んだのだろうか。
 高校では、何一つ書いていない。
 だから読んだとすれば……中学以前の、夢を叶えていた時代のものだ。

「いつ、読んだんだ?」
「えー、ナイショ!」
「それくらい教えてくれたっていいだろ」
「教えたら、書かないとか言い出しそうなのでいやです」

 ふいっと顔を背けられてしまう。
 何を尋ねても、答えてはくれなさそうだった。
 ふぅっと深い息を吐いてから、残りの炭酸を流し込む。

 書くと決めたからには、反故にするような人間ではないのに。
 まぁ、紫都は俺のことをほとんど知らないだろうから、それを言っても意味はないけど。

「あ、ハル先輩、連絡先交換しましょ」
「あぁ、忘れてた。そうだな」

 ポケットの中に手を突っ込んで、スマホを探す。
 紫都が差し出したスマホには、QRコードが表示されている。
 取り出したスマホで読み込めば、SNSアプリの友だち追加だった。

「何かあったら、いつでも連絡してください! 聞きたいことでも!」
「できたら、そこに送るよ」
「え、もう、いいんですか?」
「もう、いいとは?」

 てん、てん、てん、と静寂だけが広がっていった。
 俺と紫都は、小説だけの関係なのに。
 それ以外に、何があると言うのか。

「もっと色々ありません? 私のこととか」
「たとえば?」
「好きなタイプとか、誕生日とか、あとは、何かあります?」

 無いから聞いてるというのに、紫都は困ったように笑う。
 可愛い後輩に、こんな顔をされたら少し勘違いしてしまうそうになった。
 
 小説を書く上で必要なことでは、ない。
 むしろ余計な情報を入れることで、願いを叶える方向に書いてしまいそうで怖かった。
 ノートには物語が広がったが冷静になると、恐怖で足が震える。

「ハル先輩?」
「どうした?」
「顔色、悪いですよ? 大丈夫ですか?」

 大丈夫と、答えたいのに。
 喉の奥が、締め付けられる。
 書いてる時は、楽しかった。
 久しぶりに物語に、没入できたのに。
 それなのに脳裏で、いろいろなことが浮かんできて、許さないと耳元で囁く。

「ハル先輩」

 紫都の声に、なんとか意識を保つ。
 やっぱり、小説を書くのはこれが最後だ。
 俺は、書いちゃいけない人間だから。

 紫都を見れば、俺の手元を見ていた。
 視線を追いかけて見れば、手に持っていた炭酸ジュースの缶が、ぶるぶると震えている。

「大丈夫だよ」
「ハル先輩の大丈夫って、安心できると思ってたんですけど」

 紫都は俺の手の中から缶を奪い取って、ベンチに置く。
 ぶつかったのか、カーンッと小さい音が鳴った。
 情けないことに、呼吸まで浅くなってきてる。
 ふぅっと深呼吸を繰り返しても、うまく息が吸えない。

「ハル先輩が小説を書かなくなった理由に、関係ありますか?」

 優しく問いかける声に、頷けなかった。
 紫都は俺の背中をさすりながら、優しく「大丈夫ですよ」と声を掛けてくれる。

 せっかく、俺を選んでくれたのに。
 書けると思ったのに。
 
 後悔と申し訳なさばかりが、募っていく。
 なんて、情けないんだ俺は。

 やっと酸素が吸えるようになった頃には、涙が瞳からこぼれ落ちていた。
 酸欠のせいだろう。
 頭も少しクラクラとしている。

「ハル先輩に書いて欲しいって、私が言ったせいですよね。ごめんなさい」

 泣き出しそうな紫都の声。
 顔を見ればぼんやりとした世界の中で、今にも崩れ落ちそうな絶望の表情をしていた。

「紫都の、せいじゃない」

 違う。
 俺は、あんなに、まっすぐ真剣な紫都を見て、書くと自分で決めたんだ。
 力の入らなかった右手を、ぐっと握りしめる。

「書くと決めたのは、俺だから」
「ハル先輩、無理しないでください! 私、良いんです」

 良いわけないだろ。
 ケガをしてようが、知らない先輩の前で、書いてもらうためだけに踊ったんだ。
 良いわけがない。

 浅く呼吸を繰り返してから、まっすぐ紫都を見つめる。

「書く」
「でも」
「書くと決めたからには、絶対書く」

 もはや、意地だった。
 可愛い後輩に、かっこいいところを見せたいという下心も込みだけど。
 いつまでも、過去のことに縛られ続けたくない。
 俺だって、真剣に向き合いたいんだ。

 小説を書くことが、好きだったから。
 これが最後だとしても、悔いなく描ききりたい。

「紫都の話を聞かせて」
「いくらでも話しますよ、どんなのがいいですか」

 出来うる限り、感情移入しないものがいい。
 きっと俺は、恐怖に震えてしまうから。
 好きなものくらいなら、大丈夫だろう。

 浅はかな考えで、「好きなものは?」と聞いてしまった。

「ダンスが一番ですかね」
「どうして?」
「お母さんが褒めてくれたんです。お母さんも元々チアをやってて、お父さんが甲子園球児で!」

 甲子園に行きたい理由が少し見えてきてしまって、めまいがした。
 紫都は、両親の期待というものを背負っているのだろう。
 過去の自分たちのように、と。

「二人が恋に落ちて、お互いのために夢を誓い合ったって、素敵じゃないですか?」

 キラキラと夢物語のように、目を輝かせて語っている。
 聞かなければよかったと言う後悔を悟られないように、あいづちを打った。
 一瞬、紫都の目が曇る。

「まぁ、それは置いておいて。家族が褒めてくれるからもあるんですけど、みんなキラキラした目で見てくれるんですよね。私が誰かの力になれるって、初めて経験したんです」

 言いづらいことが、まだあるのだろうか。
 深追いはしない。
 きっと、また、俺は勘違いを起こしてしまうから。

「うちのチア部、人気だもんな」
「卒業した先輩方がプロ野球チームのチアに入ってたりもするので、人気はありますね」
「へー、知らなかった」

 スポーツというものに、興味がなかった。
 というよりも、持たないようにしていた。
 大体の人の叶えたい夢は、部活で活躍とか、恋の成就とか、そういうのばかりだったから。

「ハル先輩は知らない気がしました」

 くすくすと笑って、紫都は俺を見つめる。
 心配そうな色の瞳に、ぐらりと脳が揺れた。
 弱ってしまってるな、と思いながら手を握りしめる。
 じっと固まっているとまた、色々浮かんでしまう。

「ハル先輩、明日の放課後暇ですか?」
「暇、だけど」
「一緒に出かけませんか! おいしいラーメン屋さんがあるんです」

 紫都の口から、ラーメンという単語が出てくるのが、なんだか似合わないなと思ってしまった。
 完全に偏見だが。
 断る理由もなく、でも、受け入れる理由もない。

「だめ、ですか?」

 しおしおと萎れていく表情を見ていたら、受け入れる理由を見つけてしまった。
 紫都を不安にさせたくない。
 俺は、いつだってカッコつけて、強がりだ。
 それでも、関わった人たちにあんな顔をもうさせたくない。
 だから、カッコつける自分が嫌いじゃないし、強がりな自分でいいとも思ってる。

「行くか。こっそりな」
「見られたら、噂されそうだからですか?」
「紫都は嫌じゃないのか?」
「慣れました! それに、ハル先輩ならいいですよ」

 むふっと口元を緩める紫都に、胸がとくんっと脈打つ。
 少しだけ、恋の成就を願ってきた人たちの気持ちがわかるような気がした。
 あの時は、そんなことくらいで、と思っていたけど。

「じゃあ、明日学校終わったら、駅で待ち合わせで! 待ち合わせ場所はどうしようかなぁ」
「そのラーメン屋さんの名前教えてくれたらいいよ」
「本当ですか? じゃあ、あとでメッセージしておきます」
「おう」

 後輩と、ラーメンを食べに行く。
 あまりに予想外なことになった。
 でも、気分は悪くない。
 あんなに震えていた足が、止まるくらいには。

 ***

 夕方といえ夏のせいか、気温はまだ高い。
 風が吹けば、まだ涼しく感じれるのはありがたいが。
 ラーメン屋の前で、紫都を待つ。
 スパイシーな香りが排気口から漂って、空腹を感じた。
 両親にも、ごはんを食べてくることを昨日のうちに告げている。
 両親は嬉しそうな顔を隠しもせず、「お小遣い追加でいる?」とはしゃいでいた。

 まぁ、高校に上がってからまっすぐ学校と家の行き帰りしかしていなかったし。
 両親なりに、俺のことを心配していたのだろう。
 お小遣いの追加は、ありがたく断った。
 特に使い道もないし。
 高校生なのに、バイトもできないのは校則をちょっと恨んでいる。

 バイトくらいしていたら、もうちょっと気が紛れただろうに。
 はぁっとため息を吐いて、空を睨みつける。
 外にいるとやっぱり、じわじわと汗をかく。
 比較的涼しい夏と言われているのに、こんなに暑いとは。

「せーん、ぱい!」

 大きな声と右肩の衝撃に、揺らぎながらも、踏ん張る。
 そちらを見なくても、紫都なのはわかっていた。

「紫都、いきなりな」

 言いかけて紫都が右足を上げてるのを見て、黙ってしまう。
 痛いくせに走ってきたのか、額には汗が少し滲んでいた。
 つい、親のような目線で説教をしてしまう。

「紫都、足痛めてるんだから、無理すんなよ」
「ハル先輩の姿見えたから、ですもん! ほら、入りましょ!」
「いいから、俺に寄りかかれ」

 紫都の左側に回って、肩を抱き寄せる。
 寄りかかれば少しは負担がマシになるはずだ。
 それなのに、紫都は変な悲鳴をあげてから、下を向いた。

「え?」
「ハル先輩……積極的……!」
「お、俺は!」
「いいから行きましょー! ありがたく、寄りかかります」

 ぎゅうっと俺の腰に手を回して、ゆっくりと進む。
 ふざけていたけど、足はまだ痛むのだろう。
 肩に掛かる紫都の重さを感じながら、店のドアを横に引いた。

 夕飯にはまだ少し早い。
 開店したばかりの時間だからか、人はまばらだった。
 店員さんに案内されたのはお座敷だったが、お願いしてテーブル席に変えてもらう。

「お座敷でも大丈夫だったのに」

 俺に寄りかかりながら、頬をふくらせる紫都には気づかないふりをしてイスを引く。
 そして、紫都が座ったのを確認してから向かいに座った。

 テーブルの上のメニューには、味噌、カレー、塩、醤油と並んでいる。
 カレー……
 どっかの地方のラーメンだった気がする。
 食べたことはなかったけど。

「私は、カレーラーメンにします」
「じゃあ、俺も」
「ラーメンだけで足ります? 奢りますよ! 書いてもらうお願いしてる立場ですし」

 後輩に奢られるのは、嫌だった。
 きっとカッコつけてるのが、身に馴染みすぎているからだろう。

「奢るのはなし。でも、そうだな、おにぎりも頼む」
「おにぎり、おいしいんですよ! お兄ちゃんも大好きで!」

 言い切ってから、紫都は、「あっ」小さく言葉にする。
 そして、何もなかったかのように、店員を呼んで注文を済ませた。

 紫都のことは、何一つ知らないから兄がいることも初めて知った。
 注文したラーメンが来るまで、ぼんやりと周りを見渡す。
 紫都は、ピッチャーのお水をグラスに注いで俺の前に置いてくれた。

「ここのお店は来たことないんですけど、他の店舗には昔家族でよく行っていて」
「そうなんだ」
「父の実家の近くにあったんです。家族みんな大好きだったので、ハル先輩にも食べてみてもらおうかなって」

 カレーラーメンは確かに、食べたことがない。
 紫都の表情からは、待ち遠しさが見てとれた。
 ラーメンは、すぐに届く。
 手のひらで隠せるくらいの、おにぎり三個と一緒に。

「冷める前に食べちゃいましょ」

 紫都の言葉を合図に、ズッとラーメンを吸い込む。
 スパイシーの後に、しっかりとした出汁の味が広がる。
 カレーとラーメン? と思っていたけど、案外おいしい。

 紫都は、ふぅふぅっと冷ましながら、ちょっとずつ食べ進めていた。
 おにぎりもチャーシューが混ぜ込まれていて、食べ応え抜群だ。
 ラーメンだけだとお腹が空くかとも思ったけど、おにぎりのおかげで、だいぶ、溜まる。

 ラーメンのスープまで飲み切って、ふうっと顔を上げた。
 紫都はスローペースのようだ。
 俺が一杯食べ終わる頃に、やっと半分まで来てる。
 お冷を飲みながら、周りを見渡す。

 家族連れはあまりいない。
 仕事終わりのサラリーマンが、大多数を占めていそうだ。

「すいません、遅くて」

 紫都が謝るから、首を横にブンブン振る。
 失敗した、合わせて食べればよかった。

「全然、初めてだからソワソワしててごめん」
「ハル先輩が楽しめたなら、よかったです」

 ふふっと微笑んでから、紫都はフゥフゥ言いながら麺を食べ進める。
 その姿が、小型犬のように見えて、可愛い。

 家で書いてみようとノートを広げてみたが、ダメだった。
 物語が枝葉を伸ばせば伸ばすほど、恐怖や焦りが迫ってきていた。
 俺の物語が、誰かを不幸にする。
 俺が書く理由と相反する事実。
 頭の芯がぶん殴られたように、ぼんやり揺れている。
 
 紫都と一緒にいると、恐怖も焦りも、マシになってる気がする。
 初めてのことばかりなのも、あるとは思うが。

 ラーメンを頬張る紫都を見ていると、不思議な気持ちが胸に湧き上がった。
 最初から思っていたけど、紫都はなんで俺に頼んできたんだろうか?
 噂を聞いたんだろうけど……

「ごちそうさまでした」

 両手を合わせてあいさつをしてから、紫都はコップの水をごくごくと飲み干す。
 そして、紫都はまじまじと見つめていた俺に、不思議間そうな顔をした。

「なんですか?」
「なんで、俺だったんだろうなって」
「え、ハル先輩」

 心底驚いた声に、俺の耳の方が驚く。
 キーンっとまだ、耳鳴りがしていた。
 まだ、思い出してなかった……?
 俺は紫都と過去に出会ってる、ということだろうか。
 思い出そうとしてみても、全然記憶にない。

「いいです、忘れてください」

 目を伏せて、悲しそうな顔をする。
 言葉と顔は裏腹だった。
 覚えていてほしかった。
 頬にそう書いてあるみたいで、胸が痛い。
 例えば、俺が思い出す物語を書いたら、記憶は蘇るんだろうか?
 この力は使わないと決めているのに、少しだけ心が揺れた。

「ハル先輩に、頼んだ理由は、話さなくていいんですか?」
「聞かない」
「聞いてくれてもいいのに」
「聞かないって決めてるんだ」

 叶えて、あげたくなってしまうから。
 紫都は、ふーんっと唇を突き出して、拗ねた顔をした。
 本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
 願掛けに縋りたくなるほど、何か大変なことが起こってることを。
 でも、俺は聞いてしまえばきっと、今までと同じように叶うように描いてしまう。
 そして、他の人の夢をねじ曲げる。
 絶対に聞かない。

「ハル先輩が聞かないって決めたなら聞かないです。でも、書けそう、ですか?」

 心配そうな紫都に、強がって、格好つけて、頷いてしまった。
 俺は、バカみたいだ。
 そんな自分が嫌いじゃなかったけど、今はため息が出てしまいそうになる。
 こんなところで強がったって、結局できなければ意味がないというのに。

「来週の火曜日ですよ」

 あと、一週間を切ってる。
 今日が水曜日だから、あと六日。
 来週の火曜日。
 思ったよりも近づいてきていた、時間に驚いてしまった。
 そういえば、全校応援のプリントを貰った気がする。