一歳年下。チア部所属の可愛い女の子。
 それが、目の前の女子に対して、俺の知ってることだった。

「ねぇねぇ、先輩は引き寄せの法則って知ってる?」

 なぜか、二年生の教室の俺の前の席に座って、こちらを見つめてる。
 そんな彼女にどう対応していいか、わからなかった。

「知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃあ、話が早い!」

 パンっと手を叩いて、彼女は俺に手を差し出す。

「私の小説を書いて、先輩の手で」
「はい?」
「先輩、最近書いてないみたいですけど……お願い、引き寄せたい願いがあるの」

 引き寄せの法則と、俺が小説を書くことが繋がらない。
 確かに、俺は前は小説を書いていた。
 それでも、前は、だ。
 今はもう、あんなことやめてる。
 きっと、小学校時代のクラスメイトが面白おかしく話してるのを聞いたのだろう。

「もう書いてないから」
「だから、私の物語を書いて」
「書かないって」
「お願い……先輩じゃないとダメなの」

 両手を合わせて、お願いされたって。
 頼まれる理由も、受ける理由もない。
 首を横に振ってカバンを肩にかける。
 そして、振り返りもせずに教室を出た。
 冷たい人間だと思われるかもしれない。
 それでも、俺はもう二度と小説なんか書くつもりはない。
 だって、俺は、何者にもなれない凡人なのだから。

 ***

 学校の土曜講習は、だるい。
 まだ高校二年生だからという気の緩みもあってか、参加者はみな、眠気を隠すこともしていなかった。
 先生の説明を聞きながら、参考書の問題を解き進める。

 何者かになりたい、というバカげた夢は捨てて、現実を見なくちゃ。
 俺はきちんとした大学に進学して、いいところに就職して、ほどほどの生活を送るのだ。
 普通の人と付き合って、普通に結婚して、幸せな人生だったねと言われるような。

 チャイムがいつも通り鳴り、形だけの受講生が教室を出ていく。
 土曜講習は、いつもの授業と違って早めに終わる。
 お昼前にはみな帰宅するのだ。
 教室には、眩しい太陽が差し込んでいた。
 自宅に帰るか、どこかで勉強をするか。
 悩んで、メディアセンターに寄ることに決めた。

 中高一貫校の我が校は、ちょくちょく場所の名前を英語にしたがる。
 メディアセンターに行く途中にある、ちょっとした開けた場所もそう。
 アトリウムという洒落た名前に、ケチをつけたくなる。
 通りがかりに、下を覗けば目が合ってしまう。

「あ、せんぱーい! どこ行くんですか!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねる彼女。
 気づかないふりをして、スタスタと足を進める。
 関わっていいことなんて、絶対にひとつもない。
 メディアセンターは中等部の棟にある。
 中学生は土曜講習もないからか、中等部は静かだった。
 メディアセンターのずっしりとした重い扉に手をかけて、押す。

 後ろから、また彼女の声が聞こえた。

「せ、ん、ぱ、い!」

 チアの服装のまま、俺に思いきりタックルしてきた。
 ドンっという衝撃と共に、二人でメディアセンターに転がり込む。
 受付にいた司書さんに冷たい目で見られながら、立ち上がる。

「なにやってんだよ」

 小声で話しかけながら手を差し伸べれば、彼女はへへっとはにかむ。
 そして俺の手を掴んで、立ち上がった。
 立ったのを確認してから、手を離す。
 彼女をそのままに、窓際の席に向かう。
 誰もいないから好きな場所を選び放題だった。

 窓から光が差し込むところに座って、先ほどの参考書を取り出した。
 ガタンと音がして、あの子が隣に座る。

「土曜日も勉強ですか?」

 いつもの声より少しトーンを落として、ヒソヒソ声で話しかけてくる。
 どこまでも着いてくるつもりらしい。

「練習はいいのか?」
「休憩時間にしてもらいました!」
「なんでそんなにしつこいわけ?」
「先輩が書いてくれないから!」

 机に頬杖を付いて、俺の方をじっと見つめる。
 正直小説を読むようなタイプには、見えない。
 それなのに、小説を書いてくれとは……

「俺には特別な力なんてないよ」

 多分、中学時代のあの噂が元凶だろう。
 ――俺が書いたことは、現実になる。
 そんな嘘の噂が広がった。

「引き寄せの法則知ってるって、言ってたじゃないですか」

 それは、知ってる。
 現実に起こると信じれば、現実になる。
 そんな、夢物語だ。

「だから、それを実現するためには、先輩の小説が一番いいんです。本当だって、想像できるから」
「何をそんなに叶えたいわけ」
「うちの高校の野球部が、甲子園の予選の決勝に残ってること、知ってます?」

 そういえば、そんな話していたな。
 クラスメイトにも野球部員はいる。
 決勝に残って、勝てば初の甲子園だと騒いでいた。

「それを書いてくれ、ってか?」

 一瞬、彼女が困った顔をした。
 そして、その後、本当に聴こえるか聞こえないかの声で、小さく呟いた。

「私が甲子園の球場で応援してるのを、書いて欲しいんです」

 甲子園に行きたい、ということだった。
 そういえば、野球部の彼氏がいるとか、噂になってた。
 チア部は一種のアイドルのような扱いを受けていて、すぐ噂になる。
 バカバカしい話だけど。

「彼氏のためにね?」
「彼氏なんていません」
「じゃあ好きな人?」
「違います」

 じゃあ、どういう理由でそんな願いを叶えて欲しいというんだ。
 それに、俺はそんな物語を書きたくない。
 誰かの努力を、俺の物語のおかげで叶ったなんて言わせたくない。

 だって、俺は神様でもなんでもなく、普通の男子高校生なのだから。

「君は、甲子園に行きたいのか?」
「行きたいは、行きたいですけど……大事なのはそこじゃないんです」

 歯切れの悪い言葉に、苛立ちが募る。
 予選の決勝まで、確か残り数日もない。
 チア部としての成果を求めて、そんなことを言ってるのだろうか。
 それだったら、ますますお門違いだ。
 自分たちの実力で成果をもぎ取らないと、何の意味もない。
 俺の物語が本当に、現実になる力があったとして、それで掴んだ成果になんの価値があるというんだ。

「先輩が、物語で願いを叶えるのが嫌なのはわかってます。だから、はっきり書かないでいいんです」

 急な手のひら返しに、訝しんでしまう。
 表情にも出ていたようで、彼女ば手をブンブンと振る。

「引き寄せの法則って言ったじゃないですか! 私の願いを叶えてほしいんじゃなくて、そうなるって思える安心感が欲しいんです」

 言ってる意味がわからなくて、ますます、頭がおかしくなりそうになる。
 願いを叶えて欲しいのと、何が違うんだ。

「努力はもちろんします。でも、先輩の物語に背中を押して欲しいんです」

 脳内がぐちゃぐちゃになっていく。
 それでも、俺の答えは決まりきってる。
 俺は、小説なんてものはもう一生書かない。

「嫌です」
「理由もちゃんと説明するので」
「嫌です」
「お願いします!」

 急に大きくなった声に、俺の背中に視線が突き刺さる。
 ちらりと受付を確認すれば、司書さんだった。

「静かにしろよ」
「すいません……」

 ここまで冷たく突き放してるのに、諦める様子のない姿にため息が溢れた。
 勉強をしにきたのに、集中できそうにない。
 モヤモヤがとめどなく心から溢れていく。

「出るぞ」
「えっ?」
「ここで話したら迷惑だろ」
「はいっ!」

 開いたばかりの参考書を閉じて、カバンにしまう。
 何を勘違いしたのか、ニコニコと俺を見つめていた。
 そういえば、名前すら知らない。
 チア部の可愛い子がいるって、友人は言ってたけど、なんて呼ばれてたっけ?
 考えて、つい手が止まっていた。

「先輩?」
「いいから、いくぞ!」

 乱雑にカバンに突っ込んで、メディアセンターを後にする。
 司書さんの冷たい視線は相変わらずだったので、ぺこっとお辞儀をしてから前を通った。