ずっと胸の奥にしまっていたのに。
どうして押さえつけておけなかったんだろう。
こんなに私を苦しめるなら、早く消えて欲しい。
なのにいつだって全身を埋め尽くしている。
溺れているみたいに息ができない。
ずっとこの苦しさが続くんだって思うと吐き気がする。
遠く遠く離れてしまいたい。
いっそ、見えないように深く埋めてしまえたらよかったのに。
だけどどんなに深く埋めたって、どうせ夢に見てしまうんだ。
だって、許されないんだから。
◇
ガタンゴトンと聞き慣れた音を鳴らす特急列車に揺られている。もう三十分は経っただろうか。
住宅街から始まった窓の外の景色は、徐々に家よりも木々の緑の方が目に入るようになってきた。三月も終わりが近づいて暖かい日も増えてきたから、随分と緑が増えている。
葉っぱのついていない樹には花のつぼみが見える気がする。桜の季節ももうすぐかな。
少しだけ開いた窓から入ってくる空気は微かに湿度が高くなって、青っぽい樹木のにおいが鼻をくすぐる。
私はただただ、流れていく景色を眺めているだけ。
「……マイナスイオン」
ボックス席に向かい合って座った彼がぽつりと口を開いたから、私はそちらに顔を向けた。
「ちょっと森のにおいがしてきたなって思って。マイナスイオン出てるなって」
私の黒い髪とは違う少しだけ茶色っぽいふんわりとした髪の下、眉を下げたくしゃっとした優しい笑顔がこちらに向けられる。
大好きな顔。
温かく包み込んでくれるみたいな、落ち着いた声。
大好きな声。
「マイナスイオンって、結局何?」
私の質問に、彼はシャツの胸ポケットからスマホを取り出した。
「……んーなんか、空気中にある粒子で森林とか滝とかで発生するらしい」
検索で得た情報を読み上げる。
「〝美容や健康にさまざまな効果をもたらすと言われています〟だって」
「何それ、怪しい」
私が苦笑いをすると彼もまたくしゃって、今度は小さく笑った。
「でもなんかさ、落ち着くよな。こういう森林のにおいは」
「……うん、そうだね」
マイナスイオンなんかよりあなたの声が一番落ち着くんだよ、私にとっては。イオンが出てるって言われたら信じてしまいそうなくらい。
一緒にいたら心がざわざわと落ち着かないけど、落ち着くの。
心の中でこっそりつぶやく。
「あ、碧くん」
「……あ、え、ん? どうした」
スマホを見ていた彼が、一瞬間を空けて返事をする。
「キャラメル、食べる?」
「持ってきたんだ」
「うん。家を出る時にね、気づいたらポケットに入れてた」
勉強机の上にあった、食べかけのキャラメルの箱。
「アーモンドが入ってるやつ」
「好きだな、それ」
彼はまた目を細める。
その瞳が私を映すたびに、微笑んでくれるたびに胸がキュッて切ない音を立てる。
「お腹が空いてるんだったら何か食べようか。そのうち長く停まる駅もあるから駅弁でも買う?」
私を気遣う彼の提案に申し訳なさを感じながら首を横に振る。
「お腹は空いてない」
「そっか……まあそうだよな。夕飯は旅館のご馳走だし、腹空かせとくのも大事かもな」
彼はキャラメルを受け取ると今度は困ったように笑って、窓の外に視線をやった。
「……雪とふたり旅は初めてだな」
感慨深げな言葉は遠くを見ながら発せられた。
「最初で最後だね、きっと」
自分の言葉に息が苦しくなる。
「そんなことないだろ」
優しく言ってくれたけれど、こちらを見ない彼だって、この旅がふたりだけで過ごす最後の時間になるという予感を抱いているはずだ。
彼……碧くんは十八歳の高校三年生。もうすぐ高校を卒業して、東京の大学に行く予定だ。
私はもうすぐ高校二年生。大学進学にはあと二年あるけれど、きっと大学へは行かない。
だから、碧くんとはもうすぐお別れ。
「碧くん」
「んー?」
「一緒に来てくれてありがとう……本当に」
「そんな顔するなって」
彼の言葉にまた首を横に振る。
私が無理を言って、今こうして一緒に電車に揺られているのだから。
きっと本当は来たくなかったはずだ。
〝ありがとう〟
心の中でもう一度お礼を言った。
「……綾音さんは大丈夫?」
その名前を口にしたら、また心臓がギュッて掴まれたみたいに苦しくなる。
「綾音? なんで?」
「なんでって……」
私なんかとふたりで、春休みの彼女は寂しい思いをしているんじゃないの?
なんて思ったけど、口に出せない私は卑怯者だ。
「余計なこと考えないで、景色でも見ながらのんびり行こう」
それからしばらく無言の時間が訪れた。
ガタンゴトンって、重たい車体から一定のようなそうでもないようなリズムだけがふたりの隙間を埋めていく。
碧くんとこうして電車に揺られるのはいつぶりだろう。
◇
『ねーお腹空いたー』
私が小学校に上がったくらいだったかな。
夏休みにこんな風にボックス席で特急列車に揺られていた。
『もうすぐお昼だから我慢しなさい』
前に座った母が私をたしなめるように言った。
『お腹すいたー』
幼い私はお腹だって空いていたけれど、母が言うことを聞いてくれないのがもどかしくて、聞き分けのない態度をとっていたのを覚えている。
『あと三駅だから。景色を見てたら楽しいでしょう?』
母が視線をやった窓の外には、夏らしい青々とした田園風景が広がっていた。
『つまんなーい』
今はただ黙って眺めていられる車窓からの景色だって、小学一年の女の子には十五分と耐えられない退屈なものだった。
特急列車の三駅先なんて、想像もつかないくらい遠くのように感じられた。
『もう、この子は……』
当然、母はわがままな私に呆れてため息をつく。
『お腹、空くよね』
そう言ったのは、隣に座った男の子だった。
少し茶色っぽい髪で、穏やかな顔で笑っている男の子。
母には散々わがままを言えたのに、なんだか恥ずかしくなってその子には何も言えなくなってしまった。
『だけどごはんって、お腹が空いてた方がおいしく食べられるんだって』
もじもじとして言葉を発せない私にその子はまた優しく笑いかけて、それから耳打ちをした。
『でも、ちょっとだけ食べちゃおうか』
『えっ』
『手、出して』
私が手のひらを上にして差し出すと、その子はキャラメルを一粒置いてくれた。
『アーモンドが入ってるやつ、食べれる?』
コクリとうなずいた私にその子が見せた笑顔を今でも覚えている。
今と変わらない、くしゃっとした笑顔。
あの日からアーモンドキャラメルは私の好物になった。
それから彼は私の王子様になって——
『あら、よかったわね。さすがお兄ちゃんね』
碧くんはずっと……私のお兄ちゃん。
◇
列車が目的の駅に到着して、プシューってドアが開く。
駅から外に出た瞬間、私の気持ちには全然似合わない春のキラキラした日差しが降り注ぐ。
駅前の並木道はどうやら桜並木のようで、白い花がぽつりぽつりと咲いているのが見える。
「久しぶりだなー、ここ」
「んーなんとなく、来たことあるような……ないような」
ここは、昔旅行に来た小さな温泉街だ……と、碧くんが教えてくれた。
「雪は、あそこの噴水ではしゃいでたよ。お母さんに怒られてた」
昔を懐かしむように笑う碧くん。
私が彼の思い出の中にいるのは嬉しい。
だけど……一緒の思い出が多ければ多いほど、家族なんだって思い知らされる。
恋をするには一番近くて、一番遠い人なんだ、って。
◇
一緒に過ごす時間は、きっと誰よりも多かった。
『今回のテストも学年一位だったのよね。さすがお兄ちゃん』
小学生の頃は学年の順位なんて発表されていなかったけれど、ずっと当たり前のように百点を取り続けていた碧くんは、中学に上がってからは当然のように学年でトップの成績を取り続けた。
期末なんかの大きなテスト時期の夕飯どきには、碧くんの成績がいつもの話題。
『ねえ、あなた』
母が微笑んで言うと、父も満足げに笑う。
それだけで家族四人で囲んだテーブルが明るい空気になる。
彼の頭の良さは、お医者さんをしている父ゆずりなのだと思う。
『それで、雪は? 算数のテストだったんだろう?』
父の視線が碧くんの隣の私に注がれて、飲み込みかけたご飯が喉につかえる。
『お父さん、雪はまだ小学生だから——』
『私は雪に聞いている』
私を気遣ってくれた碧くんの言葉を遮るように父が尋ねる。
『えっと……』
『ちゃんと飲み込んでから話しなさい』
私が焦ってまごついていたら、碧くんがお茶の入ったコップを差し出してくれた。
父の鋭い視線を感じながら、お茶でご飯を流し込む。
『は、八十七、点……』
それは兄の百点に比べたら特別良い点ってわけでもなかったけれど、クラスで二番目か三番目の点数だった。
けれど父には〝百点〟〝一番〟以外の悪い点数でしかないんだって、彼の小さなため息で理解する。
出来の良い兄と、出来の悪い妹。
それが父の中の私たち。
『僕が雪の勉強見るよ』
『それじゃあ碧の勉強が進まないだろう? 私が教える』
碧くんの申し出を却下する父の言葉に、全身が強張った。
父は確かに頭が良くて、小学生どころか高校生の難しい勉強を教えることだってできる人だった。だけどとても厳しくて……。
『雪の学校って勉強が少し進んでるから、僕も復習になってちょうどいいんだ』
『そうか』
父は納得してくれて、私はほっとして息を漏らした。
それから学校から帰ると碧くんが勉強を見てくれるようになった。
勉強は全然好きじゃなかったけど、彼と一緒に過ごす時間が長くなってむしろ嬉しいと思っていた。
私の部屋、二人向き合ってローテーブルの前に座る。
『碧くん、ありがとう』
『え?』
ノートに向かっていた碧くんがこちらを見る。
『勉強見てくれて。……あの時お父さんに嘘、ついてくれて』
私の学校はごくごく普通の小学校で、他に比べて勉強の進みが早いなんてことはなかった。
『ああ。いいんだよ、復習になるのは本当だし』
それも嘘だって、バレバレだけど。
『嫌だっただろ? お父さんに勉強見てもらうの』
私は無言で小さくうなずいた。
碧くんだって良い成績を取り続けなければ怒られるのに。
碧くんはそんな風に、ずっとずっと優しかった。自分のことは二の次で、いつも私の心配ばかりで。
笑顔の碧くんが、ずっと一緒にいてくれた。
碧くんが高校生になる頃までは。
◇
駅から乗り込んだタクシーが旅館の玄関に横付けされる。
「四千百四十円」
運転手さんが事務的に告げる。
「バーコード決済で」
「はい」
「——あ、やっぱり現金で払います」
急に支払い方法を変えた碧くんに運転手さんは一瞬面倒そうに眉を動かして、私は不安を顔に出してしまったらしかった。
「チャージ、してなかったから。待たせるのも悪いじゃん」
彼は私に苦笑いで言った。
「あ、なんか少し思い出してきたかも」
旅館の部屋に案内される途中、ガラス戸付きの縁側のようになった廊下の下がそのまま鯉のいる池になっている景色を見て言う。黒や金、それからカラフルなニシキゴイが縁側の下にまで入り込むように泳ぎ回っている。
「私、これ見て海みたいって思ったの」
池の真ん中には鶴のように形取られた植木と、亀のような形の岩が置かれている。
「亀さんだ!って言って」
「竜宮城みたいって言ってたね」
「そうそう。そうだった」
「かわいかったな、雪」
ふいに〝かわいい〟なんて単語が出て、ドキリとしてしまう。
だけどドキドキするようなことじゃない。
「無邪気だったでしょ。子どもの頃は素直でかわいかったよね」
「あはは」って少しだけ大げさに笑ってみせた。
「かわいいよ、今も」
「え……?」
「雪はずっとかわいい」
彼が私を見つめるように言ったから、今度こそ心臓が落ち着かない音を鳴らす。
そんな資格、ないのに。
「どうかされました?」
案内をしてくれていた法被姿の男性に声をかけられて、二人してハッとする。
「すみません、鯉がきれいだったので」
「うちの自慢の池なんですよ」
碧くんは何事もなかったかのように、穏やかに案内係の人と会話を始めた。
私の心臓だけが、あの場に取り残されたみたいにテンポのズレたリズムを刻んでいる。
案内された部屋は畳の匂いのする和室で、部屋が二つに分かれていて広々としていた。
「出た、旅館の謎の空間」
旅館の部屋に必ずと言っていいほどある窓辺の廊下みたいな、椅子とテーブルの置かれた空間。碧くんが「広縁って言うんだよ」って教えてくれた。
「すごいね、こんな部屋。高そう」
思わずつぶやいてしまった。
「心配? 金なら大丈夫だよ。雪が思ってるほどは高くないだろうし」
高くたって、最初で最後のふたり旅だもんね。たったの一回きりのことだ。
そんなことを思いながら広縁から部屋の方に向き直すと、碧くんが急須と茶筒を取り出してお茶の準備をしていた。
「あ! 私やるよ」
慌てて座卓に向かう。
「べつにいいのに」
「いいからいいから!」
無理矢理付き合わせてお金も出してもらって、このくらいのことはしなくっちゃ。
コポコポと音と湯気を立てながら、緑茶が湯呑みを満たしていく。
「よく予約できたね。高校生だけで」
碧くんにお茶を差し出す。
「さすがに無理だよ」
「え? じゃあ」
「俺が二十歳で、もし聞かれたら雪は十九歳ってことする」
「そうなんだ」
きっと二人とも高校を卒業している成人ということにしたかったんだろう。
「嬉しいな。碧くんに一歳だけ追いつけた」
それから……嘘でも綾音さんよりも年上になれた。
ニコッと得意げに微笑んだら、碧くんも笑ってくれた。
「お菓子食べる?」
彼が、はじめから座卓の上に用意されていた和菓子を渡そうとする。
私は首を横に振る。
「……夕飯までお腹空かせなくちゃ」
「……そっか、そうだな」
また、二人の間に沈黙が訪れた。
ままごとみたいなものだってわかってはいるけれど、一歳でも碧くんに近づけて嬉しい。
同い年だったら良かったのに。何度もそう思ってきたから。
◇
『いいなーお兄ちゃんがかっこよくて。うちのと大違い』
小学校、中学一年、高校一年。
『イケメンのお兄ちゃんがいてうらやましい』
碧くんと同じ学校にいる間は、友だちによく言われた。
私の答えは決まってる。
『どこが?』
『ああ、やっぱ家族だとかっこよく見えなかったりする?』
ちがうよ。
碧くんがお兄ちゃんってことは、私だけが恋愛対象外ってこと。
私は、私以外の全員がうらやましい。
私が中学二年生で、碧くんが高校生になった時期だった。
火曜日と木曜日はすごく憂鬱だった。
『ただいま』
『おかえり。早く準備しなさい』
火曜はお父さんが仕事を早く切り上げて、木曜は休診日で、私の勉強を見るって言い出したから。
碧くんに見てもらっていた私の成績が、父の望むほどには伸びなかったから業を煮やしたんだと思う。
『この計算はこの前も教えたんだから、必ず解きなさい』
父はとても厳しかった。
『なぜ理解できないんだ』
『ごめんなさい』
『不出来なら不出来なりに、努力している姿を見せなさい』
父は——時には手を上げることもあった。
『なんだその顔は』
父は私が怯えた態度を見せると余計に苛立つから、私は表情を殺すことを覚えるしかなかった。
二つの曜日には、同じくらい嫌なことがもう一つ。
『ただいまー』
玄関から碧くんの声がする。
それから……。
『お邪魔します』
女の人の声が続く。
それから、碧くんと彼女の綾音さんはリビングで仲良さそうに勉強をするのがいつもの風景になっていった。
綾音さんはいつも私におやつを買ってきてくれて、それを父のいる私の部屋まで届けてくれた。
綾音さんは頭が良くて物腰が柔らかかったから、父も気に入っているようだった。
私だって素敵な人だって思ってる。
だけど、そう思うたびにたまらなく苦しくなる。
私じゃダメなんだって思い知らされているみたいで。
何度も何度も友だちに言われた。
『でもさ、本当にうらやましい。漫画みたいだよね、親の再婚でかっこいいお兄ちゃんができるなんて』
そう。
私と碧くんは、血が繋がっているわけじゃない。
碧くんの父親と、私の母親が再婚してできた連れ子同士の義兄妹。
恋愛だって禁止されていないはずだ。
だけどダメだった。私なんかじゃ。
いつもいつも、ずっとそばにいたのに。
◇
目の前にお刺身や天ぷら、火のついた小さな鍋なんかのご馳走が並んでいる。
碧くんの言っていた〝旅館のご馳走〟だ。
「わあ。すごいね、おいしそう」
豪華で、やっぱり高かったんじゃないかと心配になってしまう。
「食べようか」
「う、うん……」
煮物、お刺身、色々な種類の小さな小鉢……それぞれに箸をつけようとして、躊躇する。
「どうした?」
「え、あ、えっと……」
汁物のお椀を手に取った。
「あんまり食欲がなくて」
申し訳なくて俯いてぽつりと言う。
「そっか。無理しなくていいよ」
「ごめんね、碧くんがせっかく……」
「しょうがないって」
彼は眉を下げて困ったように笑う。
「……碧くんは」
「ん?」
「碧くんは、食べられる?」
「うん」
笑顔で言われて、心底ホッとした。
それから私は碧くんと話しながら、デザートのゼリーみたいな喉を通るものだけ口にした。
「夜の散歩でもする?」
お風呂から上がって浴衣に羽織り姿になったところで碧くんが言う。
「でも……」
あまり外に出たくはない気分だ。
「気分転換も大事だよ」
彼の声で穏やかに微笑まれてしまえば、断ることなんてできない。
二人で慣れない下駄を履いて、旅館の周りをあてもなく歩く。
「桜、もうすぐって感じだね」
ところどころに桜の樹があって、白い花が月明かりに照らされている。
昼間に見た桜並木より開花が進んでいる気がする。
ふんわりと桜や他の花の香りが漂っている。
春が来てしまった。
「もうすぐ……お別れだね」
「…………」
隣の碧くんは、何も言わない。
「あーえっと、綾音さんとも……旅行とか行く?」
沈黙が怖くて、つい聞きたくもないことを聞いてしまった。
「だから、なんで綾音?」
「だって……行くでしょ? 彼女と卒業旅行くらい」
「綾音は彼女じゃないよ。付き合ってない」
「え? だってあんなに家に来て、仲良さそうに勉強してたじゃない」
つい先日まであった光景を思い出しながら眉を寄せる。
「もしかして、別れちゃったの?」
私の言葉に、碧くんはなぜか「ふっ」と笑った。
「雪は誤解してるよ。はじめから付き合ってなんてない」
「嘘」
「確かに話もあって、仲は良かったけど。あくまでも友だち」
「だ、だって……」
「俺が頼んで家に来てもらってたんだ」
彼の言葉の意味がよくわからない。
綾音さんと付き合ってるって思ってたから、ずっと苦しくて……綾音さんと付き合ってるって思ってたから、大丈夫だって思ってたのに。
「雪。手、つなごうか」
「え?」
戸惑っている間に、碧くんが私の左手を掴んだ。
「み、碧くん!?」
急な出来事にますます戸惑って、変な声を出してしまった。
「昔はよくつないだじゃん。お祭りに、遊園地に、近所のスーパーでも」
「そ、それはそうだけど——」
「ずっと震えてただろ? 手」
指摘されて、心臓がギクリと軋む。
それを察したのか、碧くんの手にギュッて少しだけ力が入る。
「こうしたら、少しは落ち着くだろ?」
落ち着く。
落ち着いてしまう。
昔から知ってるこの温もりには。
お祭りだって遊園地だって、背の高い人混みが怖かった。
だけど碧くんのこの温かい手があれば不安なんてすぐにどこかに行ってしまった。
——だけど、今は?
自分が問いかけてくる。
——落ち着いていていいの?
また、心臓が嫌な音を鳴らす。
「明日はもっと、夕飯減らしてもらおうか」
碧くんが言った言葉に、また戸惑う。
「明日?」
彼は何でもないって顔でうなずいた。
「明日もいるの? ここに」
「明日も、明後日もいてもいいよ。金ならあるし」
「え、でも——」
「それとももっと遠くに行く?」
急な問いかけに、答えが出ない。
「いいよ。ゆっくり考えよう」
左手に重なる温もりに、またわずかに力がこもる。
碧くんは、大丈夫なの?
私の心臓は、さっきからバクバクと落ち着かない。
手から伝わってしまわないだろうか。
「雪は何も気にしなくていい」
本当に?
碧くんがまた私を落ち着かせようとしているのがわかってしまう。
「まだ少し冷えるね。戻ろうか」
だけど、この手を離したくはない。
部屋に戻ると布団が二組、横並びで敷かれていた。
恋心だとか恋愛脳だとか、そういうものが頭の中を支配してくれていたらドキドキとする場面なのだろう。
だけど私の頭も胸も、薄暗い不安だけが埋め尽くしている。
「碧くん」
電気の消えた暗闇で、隣の彼に声をかける。
「んー?」
「手、握ってもいい?」
碧くんが小さく笑ったのがわかった。
私にとっての彼は、こうやってお兄ちゃんと好きな人を行ったり来たりする存在。
碧くんにとっての私は?
◇
『本当にお前は、何をやらせても人並み以下だな』
夢を見ているんだって、なんとなくわかる。
だったらこんな夢は見たくないのに。
『どうして一番になれないんだ』
やめて、夢でまで。
私はあなたの子どもじゃない。
碧くんみたいにはできない。
『……わ、私、医大には行けない。行きたくもない』
『何を馬鹿なことを言っているんだ』
ずっと思っていた。
だけど言えなかった
『もう勉強なんてしたくない』
父の手が、頬を目掛けて振り下ろされる——。
◇
そこでハッとして目を覚ました。
浴衣が汗でひんやりとしている。
まるで現実の出来事のように鮮明で、あの時と同じように鼓動がドクドクと小刻みに震えて、息苦しさで呼吸も乱れている。
考えないようにしていても、やっぱり逃れられないのかもしれない。
暗闇に慣れた目が、隣の空になった布団を映す。
それと同時に、洗面所の方から嘔吐くような声が微かに聞こえてきた。
◇
朝食はお粥とだし巻き卵なんかのちょっとしたおかずだった。
相変わらず食欲はないけれど、これなら少しは食べられる。
「今日はこのあたりを散策してみようか」
昨日の夜に聞こえたものは何だったのだろうというくらい、碧くんの笑顔は朝から爽やかだ。
「この辺りって何があるの?」
私の問いに彼は荷物の中からスマホを取り出す。
そして電源を入れた瞬間、一瞬顔をしかめたのが見てとれた。
「なんかいろいろあるみたいだけど、とりあえず桜かな。有名な枝垂れ桜があるって」
「ふーん。なんか渋いね。っていうか、温泉が渋いもんね」
風流さのカケラもない私の言葉に碧くんは苦笑いを浮かべた。
「でもいい。どこでも」
碧くんと過ごせるなら。
日差しは昨日よりもぽかぽかと暖かいくらいで、ますます春らしい。
夜の散歩とはまた違った雰囲気の温泉街が私たちを見送る。
「いいところだったね」
「まだチェックアウトしてないから戻ってくるけど」
「……あ、そっか。そうだよね」
今日は当たり前のように手を繋いでいる。
旅館の人たちの目に、私たちはどう映っていただろう。
恋人同士?
名字が同じだから学生結婚の夫婦?
それともやっぱり、兄妹?
そんなことを考えながら左上を見たら、碧くんと目があって微笑まれる。
思わずギュッて手に力をこめたら、軽く握り返してくれた。
日差しと同じくらいの温かい手のひら。
今は安心感と同時に、喉の奥をヒリヒリと刺激する。
「ねえ、碧くん」
枝垂れ桜を目指して歩きながら、話しかける。
同じ目的らしき人たちや目的を終えた人たちが、ぽつりぽつりと追い抜いて行ったりすれ違ったりして行く。
「私、どうして碧くんがここに来たのかわかったよ」
「…………」
「私たちが最初に会った場所だからだよね」
私が五歳で、碧くんが七歳だった。
「家族になるんだって、お父さんとお母さんが私たちを会わせた場所」
あの時も春だった。
周囲の人の声がザワザワとし始めて、桜の木のある場所に着いたんだってわかった。
「私、あの時は全然嬉しくなくって」
新しい家族なんてよくわからなかった。
「知らない人たちが急に目の前に現れて、旅行から帰ったら一緒に住むんだなんて言われて」
意味をすべて理解できていたわけではないけれど、不安で不安で仕方なかった。
「だけどあの時から碧くんはずっと優しくて、すぐに好きになった」
優しくされるたびに好きになって、気持ちがどんどん憧れへ、恋心へ、変化していった。
「——だから、謝らなくちゃ……」
声が少し掠れてしまった。
「え……」
「だって……だって、碧くんは、家族の思い出の場所を選んだんでしょ?」
ここに来た意味。
「ごめんなさい。碧くんからお父さんを奪ってしまって」
「雪、違うよ」
彼の言葉に私は俯いて首を横に振った。
「警察に行く」
◇
昨日、お昼を過ぎた頃だった。
『……わ、私、医大には行けない。行きたくもない』
『何を馬鹿なことを言っているんだ』
『もう勉強なんてしたくない』
家にいて、勉強を見るという父に本当の気持ちを言ってしまった。
それから私の頬を目掛けて振り下ろされた手のひらは、目的の場所には当たらなかった。
私の喚くような声を聞いて部屋に駆けつけた碧くんが庇ってくれたから。
『どきなさい、碧』
『やめろよ! 俺が出て行ってからもこんなこと続けるつもりかよ』
『親に向かってなんだその口の聞き方は!』
碧くんが家から出て行ってしまうのは本当に絶望的な決定事項だった。
『こんなことを続けるって言うなら、俺も医大へは行かない。家に残る』
『何を言っているんだ、学費だってもう納入しているし、家だって決まっているんだ』
『関係ない』
『誰の金で養ってやっていると思ってるんだ』
父の言うことはもっともで、とくに私と母は拾ってもらったようなものだった。
だから絶対に逆らってはいけないはずだった。
『バイトも許さないで縛りつけた癖に、恩着せがましいんだよ』
碧くんがそう言った瞬間、父の拳が碧くんの頬に直撃して……それから、抵抗しない彼を蹴ったり踏みつけたり……いくら暴力的な父だって今までそんなことはなかったから、私はパニックになってしまった。
『や、やめて! お父さん!』
グイってシャツを引っ張ってみても全然碧くんから引き剥がせなくて、暴力はどんどんエスカレートしていった。
ただただ〝止めなくちゃ〟って、それだけだった。
気づいたら父の頭から血が流れていた。
何を手にして、どんな風に殴りつけたのかがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
だけど——私がやった。
『雪……』
呆然と立ち尽くしていた私に碧くんが起き上がって声をかけた。
『え……わた……』
手の震えは、その時から止まらない。
『どうしよう……』
どうしよう、どうしよう。
頭の中は、意味もなくそれだけが繰り返されていた。
『警察に行こう』
救急車を呼べば、あの人は助かったのかもしれない。
碧くんも冷静なようで動揺していたんだと思う。
『……行きたくない』
怖かったのか、パニックだったのかわからないけれど、私はそんなことを口走っていた。
『雪、ダメだよ』
私は何度も大きく首を振った。
『だって、この人が碧くんに暴力振るったんだよ? 今までだってずっとひどいことされてきた。なのに、たった一回だけで私は警察に行かなくちゃいけないの?』
『…………』
『……私、どこか遠くへ行く』
『雪』
それからよくわからないまま、行く宛なんてありもしないのに荷物を詰められるだけ詰めて、家を出て行こうとしたら……。
『俺も行くよ』
『でも……』
『雪一人じゃホテルも取れないだろ?』
碧くんがどういう気持ちだったのか、本当のことはわからない。
◇
「だけど、本当は私が許せないでしょ? あの人、碧くんにとっては本当のお父さんだもん」
「警察なら俺が行く」
「え……?」
「雪の言った通りだと思ったから着いてきたんだ。あの人はずっと最低だった。雪がやらなかったら俺がやってた。だから」
碧くんも私も泣いていて、周りからはどう見えているんだろう。
「碧くんは何も悪くないじゃない」
あの時だって無抵抗で。
「……俺がもっとちゃんと守れてたらって、ずっと後悔して、吐き気がしてる」
「え……?」
「雪があの人と二人きりにならないように気をつけてたのに……家を出ていくのだって結局逆らえなくて」
〝雪があの人と二人きりにならないように気をつけてたのに〟
「じゃ、じゃあ……綾音さんが毎回部屋に来たのって」
碧くんは頷いた。
「あの人は世間体を気にするから、他人のが家にいたら手を出してこないだろ?」
「じゃあ……」
ずっと守ってくれてたんだ。碧くんが。
「だけど、だけどやっぱり……碧くんにとっては……私にとっても……あの人は家族だったよね」
正しくなんてなかったけれど、どうしたって良い思い出だって浮かんできてしまう。
碧くんが夜中に吐いていたのだって、私の食欲がないのだって、そういう感情があるからだ。
「碧くんがずっと守っててくれたってわかっただけでも……嬉しい。だから、ちゃんと警察に行く」
きっと、彼のスマホには母からの着信やメールがたくさん届いているはずだ。
「つれてきてくれて、ありがとう」
「ここに来たのは雪の言った通り、最初に家族が会った場所だからで」
「…………」
「ここから良い思い出も始まったんだって思ったから」
碧くんの声も掠れてる。
私はコクコクと頷くことしかできない。
「ねえ碧くん」
「…………」
「私のこと、好きだった? 少しでも、女の子として」
碧くんは、涙を流した顔で、またクシャって笑った。
「ずっと好きだったよ。世界で一番」
それだけで、十分。
ごめんね。
さようなら。
「俺、ちゃんと待ってるから。雪のこと」
fin.
どうして押さえつけておけなかったんだろう。
こんなに私を苦しめるなら、早く消えて欲しい。
なのにいつだって全身を埋め尽くしている。
溺れているみたいに息ができない。
ずっとこの苦しさが続くんだって思うと吐き気がする。
遠く遠く離れてしまいたい。
いっそ、見えないように深く埋めてしまえたらよかったのに。
だけどどんなに深く埋めたって、どうせ夢に見てしまうんだ。
だって、許されないんだから。
◇
ガタンゴトンと聞き慣れた音を鳴らす特急列車に揺られている。もう三十分は経っただろうか。
住宅街から始まった窓の外の景色は、徐々に家よりも木々の緑の方が目に入るようになってきた。三月も終わりが近づいて暖かい日も増えてきたから、随分と緑が増えている。
葉っぱのついていない樹には花のつぼみが見える気がする。桜の季節ももうすぐかな。
少しだけ開いた窓から入ってくる空気は微かに湿度が高くなって、青っぽい樹木のにおいが鼻をくすぐる。
私はただただ、流れていく景色を眺めているだけ。
「……マイナスイオン」
ボックス席に向かい合って座った彼がぽつりと口を開いたから、私はそちらに顔を向けた。
「ちょっと森のにおいがしてきたなって思って。マイナスイオン出てるなって」
私の黒い髪とは違う少しだけ茶色っぽいふんわりとした髪の下、眉を下げたくしゃっとした優しい笑顔がこちらに向けられる。
大好きな顔。
温かく包み込んでくれるみたいな、落ち着いた声。
大好きな声。
「マイナスイオンって、結局何?」
私の質問に、彼はシャツの胸ポケットからスマホを取り出した。
「……んーなんか、空気中にある粒子で森林とか滝とかで発生するらしい」
検索で得た情報を読み上げる。
「〝美容や健康にさまざまな効果をもたらすと言われています〟だって」
「何それ、怪しい」
私が苦笑いをすると彼もまたくしゃって、今度は小さく笑った。
「でもなんかさ、落ち着くよな。こういう森林のにおいは」
「……うん、そうだね」
マイナスイオンなんかよりあなたの声が一番落ち着くんだよ、私にとっては。イオンが出てるって言われたら信じてしまいそうなくらい。
一緒にいたら心がざわざわと落ち着かないけど、落ち着くの。
心の中でこっそりつぶやく。
「あ、碧くん」
「……あ、え、ん? どうした」
スマホを見ていた彼が、一瞬間を空けて返事をする。
「キャラメル、食べる?」
「持ってきたんだ」
「うん。家を出る時にね、気づいたらポケットに入れてた」
勉強机の上にあった、食べかけのキャラメルの箱。
「アーモンドが入ってるやつ」
「好きだな、それ」
彼はまた目を細める。
その瞳が私を映すたびに、微笑んでくれるたびに胸がキュッて切ない音を立てる。
「お腹が空いてるんだったら何か食べようか。そのうち長く停まる駅もあるから駅弁でも買う?」
私を気遣う彼の提案に申し訳なさを感じながら首を横に振る。
「お腹は空いてない」
「そっか……まあそうだよな。夕飯は旅館のご馳走だし、腹空かせとくのも大事かもな」
彼はキャラメルを受け取ると今度は困ったように笑って、窓の外に視線をやった。
「……雪とふたり旅は初めてだな」
感慨深げな言葉は遠くを見ながら発せられた。
「最初で最後だね、きっと」
自分の言葉に息が苦しくなる。
「そんなことないだろ」
優しく言ってくれたけれど、こちらを見ない彼だって、この旅がふたりだけで過ごす最後の時間になるという予感を抱いているはずだ。
彼……碧くんは十八歳の高校三年生。もうすぐ高校を卒業して、東京の大学に行く予定だ。
私はもうすぐ高校二年生。大学進学にはあと二年あるけれど、きっと大学へは行かない。
だから、碧くんとはもうすぐお別れ。
「碧くん」
「んー?」
「一緒に来てくれてありがとう……本当に」
「そんな顔するなって」
彼の言葉にまた首を横に振る。
私が無理を言って、今こうして一緒に電車に揺られているのだから。
きっと本当は来たくなかったはずだ。
〝ありがとう〟
心の中でもう一度お礼を言った。
「……綾音さんは大丈夫?」
その名前を口にしたら、また心臓がギュッて掴まれたみたいに苦しくなる。
「綾音? なんで?」
「なんでって……」
私なんかとふたりで、春休みの彼女は寂しい思いをしているんじゃないの?
なんて思ったけど、口に出せない私は卑怯者だ。
「余計なこと考えないで、景色でも見ながらのんびり行こう」
それからしばらく無言の時間が訪れた。
ガタンゴトンって、重たい車体から一定のようなそうでもないようなリズムだけがふたりの隙間を埋めていく。
碧くんとこうして電車に揺られるのはいつぶりだろう。
◇
『ねーお腹空いたー』
私が小学校に上がったくらいだったかな。
夏休みにこんな風にボックス席で特急列車に揺られていた。
『もうすぐお昼だから我慢しなさい』
前に座った母が私をたしなめるように言った。
『お腹すいたー』
幼い私はお腹だって空いていたけれど、母が言うことを聞いてくれないのがもどかしくて、聞き分けのない態度をとっていたのを覚えている。
『あと三駅だから。景色を見てたら楽しいでしょう?』
母が視線をやった窓の外には、夏らしい青々とした田園風景が広がっていた。
『つまんなーい』
今はただ黙って眺めていられる車窓からの景色だって、小学一年の女の子には十五分と耐えられない退屈なものだった。
特急列車の三駅先なんて、想像もつかないくらい遠くのように感じられた。
『もう、この子は……』
当然、母はわがままな私に呆れてため息をつく。
『お腹、空くよね』
そう言ったのは、隣に座った男の子だった。
少し茶色っぽい髪で、穏やかな顔で笑っている男の子。
母には散々わがままを言えたのに、なんだか恥ずかしくなってその子には何も言えなくなってしまった。
『だけどごはんって、お腹が空いてた方がおいしく食べられるんだって』
もじもじとして言葉を発せない私にその子はまた優しく笑いかけて、それから耳打ちをした。
『でも、ちょっとだけ食べちゃおうか』
『えっ』
『手、出して』
私が手のひらを上にして差し出すと、その子はキャラメルを一粒置いてくれた。
『アーモンドが入ってるやつ、食べれる?』
コクリとうなずいた私にその子が見せた笑顔を今でも覚えている。
今と変わらない、くしゃっとした笑顔。
あの日からアーモンドキャラメルは私の好物になった。
それから彼は私の王子様になって——
『あら、よかったわね。さすがお兄ちゃんね』
碧くんはずっと……私のお兄ちゃん。
◇
列車が目的の駅に到着して、プシューってドアが開く。
駅から外に出た瞬間、私の気持ちには全然似合わない春のキラキラした日差しが降り注ぐ。
駅前の並木道はどうやら桜並木のようで、白い花がぽつりぽつりと咲いているのが見える。
「久しぶりだなー、ここ」
「んーなんとなく、来たことあるような……ないような」
ここは、昔旅行に来た小さな温泉街だ……と、碧くんが教えてくれた。
「雪は、あそこの噴水ではしゃいでたよ。お母さんに怒られてた」
昔を懐かしむように笑う碧くん。
私が彼の思い出の中にいるのは嬉しい。
だけど……一緒の思い出が多ければ多いほど、家族なんだって思い知らされる。
恋をするには一番近くて、一番遠い人なんだ、って。
◇
一緒に過ごす時間は、きっと誰よりも多かった。
『今回のテストも学年一位だったのよね。さすがお兄ちゃん』
小学生の頃は学年の順位なんて発表されていなかったけれど、ずっと当たり前のように百点を取り続けていた碧くんは、中学に上がってからは当然のように学年でトップの成績を取り続けた。
期末なんかの大きなテスト時期の夕飯どきには、碧くんの成績がいつもの話題。
『ねえ、あなた』
母が微笑んで言うと、父も満足げに笑う。
それだけで家族四人で囲んだテーブルが明るい空気になる。
彼の頭の良さは、お医者さんをしている父ゆずりなのだと思う。
『それで、雪は? 算数のテストだったんだろう?』
父の視線が碧くんの隣の私に注がれて、飲み込みかけたご飯が喉につかえる。
『お父さん、雪はまだ小学生だから——』
『私は雪に聞いている』
私を気遣ってくれた碧くんの言葉を遮るように父が尋ねる。
『えっと……』
『ちゃんと飲み込んでから話しなさい』
私が焦ってまごついていたら、碧くんがお茶の入ったコップを差し出してくれた。
父の鋭い視線を感じながら、お茶でご飯を流し込む。
『は、八十七、点……』
それは兄の百点に比べたら特別良い点ってわけでもなかったけれど、クラスで二番目か三番目の点数だった。
けれど父には〝百点〟〝一番〟以外の悪い点数でしかないんだって、彼の小さなため息で理解する。
出来の良い兄と、出来の悪い妹。
それが父の中の私たち。
『僕が雪の勉強見るよ』
『それじゃあ碧の勉強が進まないだろう? 私が教える』
碧くんの申し出を却下する父の言葉に、全身が強張った。
父は確かに頭が良くて、小学生どころか高校生の難しい勉強を教えることだってできる人だった。だけどとても厳しくて……。
『雪の学校って勉強が少し進んでるから、僕も復習になってちょうどいいんだ』
『そうか』
父は納得してくれて、私はほっとして息を漏らした。
それから学校から帰ると碧くんが勉強を見てくれるようになった。
勉強は全然好きじゃなかったけど、彼と一緒に過ごす時間が長くなってむしろ嬉しいと思っていた。
私の部屋、二人向き合ってローテーブルの前に座る。
『碧くん、ありがとう』
『え?』
ノートに向かっていた碧くんがこちらを見る。
『勉強見てくれて。……あの時お父さんに嘘、ついてくれて』
私の学校はごくごく普通の小学校で、他に比べて勉強の進みが早いなんてことはなかった。
『ああ。いいんだよ、復習になるのは本当だし』
それも嘘だって、バレバレだけど。
『嫌だっただろ? お父さんに勉強見てもらうの』
私は無言で小さくうなずいた。
碧くんだって良い成績を取り続けなければ怒られるのに。
碧くんはそんな風に、ずっとずっと優しかった。自分のことは二の次で、いつも私の心配ばかりで。
笑顔の碧くんが、ずっと一緒にいてくれた。
碧くんが高校生になる頃までは。
◇
駅から乗り込んだタクシーが旅館の玄関に横付けされる。
「四千百四十円」
運転手さんが事務的に告げる。
「バーコード決済で」
「はい」
「——あ、やっぱり現金で払います」
急に支払い方法を変えた碧くんに運転手さんは一瞬面倒そうに眉を動かして、私は不安を顔に出してしまったらしかった。
「チャージ、してなかったから。待たせるのも悪いじゃん」
彼は私に苦笑いで言った。
「あ、なんか少し思い出してきたかも」
旅館の部屋に案内される途中、ガラス戸付きの縁側のようになった廊下の下がそのまま鯉のいる池になっている景色を見て言う。黒や金、それからカラフルなニシキゴイが縁側の下にまで入り込むように泳ぎ回っている。
「私、これ見て海みたいって思ったの」
池の真ん中には鶴のように形取られた植木と、亀のような形の岩が置かれている。
「亀さんだ!って言って」
「竜宮城みたいって言ってたね」
「そうそう。そうだった」
「かわいかったな、雪」
ふいに〝かわいい〟なんて単語が出て、ドキリとしてしまう。
だけどドキドキするようなことじゃない。
「無邪気だったでしょ。子どもの頃は素直でかわいかったよね」
「あはは」って少しだけ大げさに笑ってみせた。
「かわいいよ、今も」
「え……?」
「雪はずっとかわいい」
彼が私を見つめるように言ったから、今度こそ心臓が落ち着かない音を鳴らす。
そんな資格、ないのに。
「どうかされました?」
案内をしてくれていた法被姿の男性に声をかけられて、二人してハッとする。
「すみません、鯉がきれいだったので」
「うちの自慢の池なんですよ」
碧くんは何事もなかったかのように、穏やかに案内係の人と会話を始めた。
私の心臓だけが、あの場に取り残されたみたいにテンポのズレたリズムを刻んでいる。
案内された部屋は畳の匂いのする和室で、部屋が二つに分かれていて広々としていた。
「出た、旅館の謎の空間」
旅館の部屋に必ずと言っていいほどある窓辺の廊下みたいな、椅子とテーブルの置かれた空間。碧くんが「広縁って言うんだよ」って教えてくれた。
「すごいね、こんな部屋。高そう」
思わずつぶやいてしまった。
「心配? 金なら大丈夫だよ。雪が思ってるほどは高くないだろうし」
高くたって、最初で最後のふたり旅だもんね。たったの一回きりのことだ。
そんなことを思いながら広縁から部屋の方に向き直すと、碧くんが急須と茶筒を取り出してお茶の準備をしていた。
「あ! 私やるよ」
慌てて座卓に向かう。
「べつにいいのに」
「いいからいいから!」
無理矢理付き合わせてお金も出してもらって、このくらいのことはしなくっちゃ。
コポコポと音と湯気を立てながら、緑茶が湯呑みを満たしていく。
「よく予約できたね。高校生だけで」
碧くんにお茶を差し出す。
「さすがに無理だよ」
「え? じゃあ」
「俺が二十歳で、もし聞かれたら雪は十九歳ってことする」
「そうなんだ」
きっと二人とも高校を卒業している成人ということにしたかったんだろう。
「嬉しいな。碧くんに一歳だけ追いつけた」
それから……嘘でも綾音さんよりも年上になれた。
ニコッと得意げに微笑んだら、碧くんも笑ってくれた。
「お菓子食べる?」
彼が、はじめから座卓の上に用意されていた和菓子を渡そうとする。
私は首を横に振る。
「……夕飯までお腹空かせなくちゃ」
「……そっか、そうだな」
また、二人の間に沈黙が訪れた。
ままごとみたいなものだってわかってはいるけれど、一歳でも碧くんに近づけて嬉しい。
同い年だったら良かったのに。何度もそう思ってきたから。
◇
『いいなーお兄ちゃんがかっこよくて。うちのと大違い』
小学校、中学一年、高校一年。
『イケメンのお兄ちゃんがいてうらやましい』
碧くんと同じ学校にいる間は、友だちによく言われた。
私の答えは決まってる。
『どこが?』
『ああ、やっぱ家族だとかっこよく見えなかったりする?』
ちがうよ。
碧くんがお兄ちゃんってことは、私だけが恋愛対象外ってこと。
私は、私以外の全員がうらやましい。
私が中学二年生で、碧くんが高校生になった時期だった。
火曜日と木曜日はすごく憂鬱だった。
『ただいま』
『おかえり。早く準備しなさい』
火曜はお父さんが仕事を早く切り上げて、木曜は休診日で、私の勉強を見るって言い出したから。
碧くんに見てもらっていた私の成績が、父の望むほどには伸びなかったから業を煮やしたんだと思う。
『この計算はこの前も教えたんだから、必ず解きなさい』
父はとても厳しかった。
『なぜ理解できないんだ』
『ごめんなさい』
『不出来なら不出来なりに、努力している姿を見せなさい』
父は——時には手を上げることもあった。
『なんだその顔は』
父は私が怯えた態度を見せると余計に苛立つから、私は表情を殺すことを覚えるしかなかった。
二つの曜日には、同じくらい嫌なことがもう一つ。
『ただいまー』
玄関から碧くんの声がする。
それから……。
『お邪魔します』
女の人の声が続く。
それから、碧くんと彼女の綾音さんはリビングで仲良さそうに勉強をするのがいつもの風景になっていった。
綾音さんはいつも私におやつを買ってきてくれて、それを父のいる私の部屋まで届けてくれた。
綾音さんは頭が良くて物腰が柔らかかったから、父も気に入っているようだった。
私だって素敵な人だって思ってる。
だけど、そう思うたびにたまらなく苦しくなる。
私じゃダメなんだって思い知らされているみたいで。
何度も何度も友だちに言われた。
『でもさ、本当にうらやましい。漫画みたいだよね、親の再婚でかっこいいお兄ちゃんができるなんて』
そう。
私と碧くんは、血が繋がっているわけじゃない。
碧くんの父親と、私の母親が再婚してできた連れ子同士の義兄妹。
恋愛だって禁止されていないはずだ。
だけどダメだった。私なんかじゃ。
いつもいつも、ずっとそばにいたのに。
◇
目の前にお刺身や天ぷら、火のついた小さな鍋なんかのご馳走が並んでいる。
碧くんの言っていた〝旅館のご馳走〟だ。
「わあ。すごいね、おいしそう」
豪華で、やっぱり高かったんじゃないかと心配になってしまう。
「食べようか」
「う、うん……」
煮物、お刺身、色々な種類の小さな小鉢……それぞれに箸をつけようとして、躊躇する。
「どうした?」
「え、あ、えっと……」
汁物のお椀を手に取った。
「あんまり食欲がなくて」
申し訳なくて俯いてぽつりと言う。
「そっか。無理しなくていいよ」
「ごめんね、碧くんがせっかく……」
「しょうがないって」
彼は眉を下げて困ったように笑う。
「……碧くんは」
「ん?」
「碧くんは、食べられる?」
「うん」
笑顔で言われて、心底ホッとした。
それから私は碧くんと話しながら、デザートのゼリーみたいな喉を通るものだけ口にした。
「夜の散歩でもする?」
お風呂から上がって浴衣に羽織り姿になったところで碧くんが言う。
「でも……」
あまり外に出たくはない気分だ。
「気分転換も大事だよ」
彼の声で穏やかに微笑まれてしまえば、断ることなんてできない。
二人で慣れない下駄を履いて、旅館の周りをあてもなく歩く。
「桜、もうすぐって感じだね」
ところどころに桜の樹があって、白い花が月明かりに照らされている。
昼間に見た桜並木より開花が進んでいる気がする。
ふんわりと桜や他の花の香りが漂っている。
春が来てしまった。
「もうすぐ……お別れだね」
「…………」
隣の碧くんは、何も言わない。
「あーえっと、綾音さんとも……旅行とか行く?」
沈黙が怖くて、つい聞きたくもないことを聞いてしまった。
「だから、なんで綾音?」
「だって……行くでしょ? 彼女と卒業旅行くらい」
「綾音は彼女じゃないよ。付き合ってない」
「え? だってあんなに家に来て、仲良さそうに勉強してたじゃない」
つい先日まであった光景を思い出しながら眉を寄せる。
「もしかして、別れちゃったの?」
私の言葉に、碧くんはなぜか「ふっ」と笑った。
「雪は誤解してるよ。はじめから付き合ってなんてない」
「嘘」
「確かに話もあって、仲は良かったけど。あくまでも友だち」
「だ、だって……」
「俺が頼んで家に来てもらってたんだ」
彼の言葉の意味がよくわからない。
綾音さんと付き合ってるって思ってたから、ずっと苦しくて……綾音さんと付き合ってるって思ってたから、大丈夫だって思ってたのに。
「雪。手、つなごうか」
「え?」
戸惑っている間に、碧くんが私の左手を掴んだ。
「み、碧くん!?」
急な出来事にますます戸惑って、変な声を出してしまった。
「昔はよくつないだじゃん。お祭りに、遊園地に、近所のスーパーでも」
「そ、それはそうだけど——」
「ずっと震えてただろ? 手」
指摘されて、心臓がギクリと軋む。
それを察したのか、碧くんの手にギュッて少しだけ力が入る。
「こうしたら、少しは落ち着くだろ?」
落ち着く。
落ち着いてしまう。
昔から知ってるこの温もりには。
お祭りだって遊園地だって、背の高い人混みが怖かった。
だけど碧くんのこの温かい手があれば不安なんてすぐにどこかに行ってしまった。
——だけど、今は?
自分が問いかけてくる。
——落ち着いていていいの?
また、心臓が嫌な音を鳴らす。
「明日はもっと、夕飯減らしてもらおうか」
碧くんが言った言葉に、また戸惑う。
「明日?」
彼は何でもないって顔でうなずいた。
「明日もいるの? ここに」
「明日も、明後日もいてもいいよ。金ならあるし」
「え、でも——」
「それとももっと遠くに行く?」
急な問いかけに、答えが出ない。
「いいよ。ゆっくり考えよう」
左手に重なる温もりに、またわずかに力がこもる。
碧くんは、大丈夫なの?
私の心臓は、さっきからバクバクと落ち着かない。
手から伝わってしまわないだろうか。
「雪は何も気にしなくていい」
本当に?
碧くんがまた私を落ち着かせようとしているのがわかってしまう。
「まだ少し冷えるね。戻ろうか」
だけど、この手を離したくはない。
部屋に戻ると布団が二組、横並びで敷かれていた。
恋心だとか恋愛脳だとか、そういうものが頭の中を支配してくれていたらドキドキとする場面なのだろう。
だけど私の頭も胸も、薄暗い不安だけが埋め尽くしている。
「碧くん」
電気の消えた暗闇で、隣の彼に声をかける。
「んー?」
「手、握ってもいい?」
碧くんが小さく笑ったのがわかった。
私にとっての彼は、こうやってお兄ちゃんと好きな人を行ったり来たりする存在。
碧くんにとっての私は?
◇
『本当にお前は、何をやらせても人並み以下だな』
夢を見ているんだって、なんとなくわかる。
だったらこんな夢は見たくないのに。
『どうして一番になれないんだ』
やめて、夢でまで。
私はあなたの子どもじゃない。
碧くんみたいにはできない。
『……わ、私、医大には行けない。行きたくもない』
『何を馬鹿なことを言っているんだ』
ずっと思っていた。
だけど言えなかった
『もう勉強なんてしたくない』
父の手が、頬を目掛けて振り下ろされる——。
◇
そこでハッとして目を覚ました。
浴衣が汗でひんやりとしている。
まるで現実の出来事のように鮮明で、あの時と同じように鼓動がドクドクと小刻みに震えて、息苦しさで呼吸も乱れている。
考えないようにしていても、やっぱり逃れられないのかもしれない。
暗闇に慣れた目が、隣の空になった布団を映す。
それと同時に、洗面所の方から嘔吐くような声が微かに聞こえてきた。
◇
朝食はお粥とだし巻き卵なんかのちょっとしたおかずだった。
相変わらず食欲はないけれど、これなら少しは食べられる。
「今日はこのあたりを散策してみようか」
昨日の夜に聞こえたものは何だったのだろうというくらい、碧くんの笑顔は朝から爽やかだ。
「この辺りって何があるの?」
私の問いに彼は荷物の中からスマホを取り出す。
そして電源を入れた瞬間、一瞬顔をしかめたのが見てとれた。
「なんかいろいろあるみたいだけど、とりあえず桜かな。有名な枝垂れ桜があるって」
「ふーん。なんか渋いね。っていうか、温泉が渋いもんね」
風流さのカケラもない私の言葉に碧くんは苦笑いを浮かべた。
「でもいい。どこでも」
碧くんと過ごせるなら。
日差しは昨日よりもぽかぽかと暖かいくらいで、ますます春らしい。
夜の散歩とはまた違った雰囲気の温泉街が私たちを見送る。
「いいところだったね」
「まだチェックアウトしてないから戻ってくるけど」
「……あ、そっか。そうだよね」
今日は当たり前のように手を繋いでいる。
旅館の人たちの目に、私たちはどう映っていただろう。
恋人同士?
名字が同じだから学生結婚の夫婦?
それともやっぱり、兄妹?
そんなことを考えながら左上を見たら、碧くんと目があって微笑まれる。
思わずギュッて手に力をこめたら、軽く握り返してくれた。
日差しと同じくらいの温かい手のひら。
今は安心感と同時に、喉の奥をヒリヒリと刺激する。
「ねえ、碧くん」
枝垂れ桜を目指して歩きながら、話しかける。
同じ目的らしき人たちや目的を終えた人たちが、ぽつりぽつりと追い抜いて行ったりすれ違ったりして行く。
「私、どうして碧くんがここに来たのかわかったよ」
「…………」
「私たちが最初に会った場所だからだよね」
私が五歳で、碧くんが七歳だった。
「家族になるんだって、お父さんとお母さんが私たちを会わせた場所」
あの時も春だった。
周囲の人の声がザワザワとし始めて、桜の木のある場所に着いたんだってわかった。
「私、あの時は全然嬉しくなくって」
新しい家族なんてよくわからなかった。
「知らない人たちが急に目の前に現れて、旅行から帰ったら一緒に住むんだなんて言われて」
意味をすべて理解できていたわけではないけれど、不安で不安で仕方なかった。
「だけどあの時から碧くんはずっと優しくて、すぐに好きになった」
優しくされるたびに好きになって、気持ちがどんどん憧れへ、恋心へ、変化していった。
「——だから、謝らなくちゃ……」
声が少し掠れてしまった。
「え……」
「だって……だって、碧くんは、家族の思い出の場所を選んだんでしょ?」
ここに来た意味。
「ごめんなさい。碧くんからお父さんを奪ってしまって」
「雪、違うよ」
彼の言葉に私は俯いて首を横に振った。
「警察に行く」
◇
昨日、お昼を過ぎた頃だった。
『……わ、私、医大には行けない。行きたくもない』
『何を馬鹿なことを言っているんだ』
『もう勉強なんてしたくない』
家にいて、勉強を見るという父に本当の気持ちを言ってしまった。
それから私の頬を目掛けて振り下ろされた手のひらは、目的の場所には当たらなかった。
私の喚くような声を聞いて部屋に駆けつけた碧くんが庇ってくれたから。
『どきなさい、碧』
『やめろよ! 俺が出て行ってからもこんなこと続けるつもりかよ』
『親に向かってなんだその口の聞き方は!』
碧くんが家から出て行ってしまうのは本当に絶望的な決定事項だった。
『こんなことを続けるって言うなら、俺も医大へは行かない。家に残る』
『何を言っているんだ、学費だってもう納入しているし、家だって決まっているんだ』
『関係ない』
『誰の金で養ってやっていると思ってるんだ』
父の言うことはもっともで、とくに私と母は拾ってもらったようなものだった。
だから絶対に逆らってはいけないはずだった。
『バイトも許さないで縛りつけた癖に、恩着せがましいんだよ』
碧くんがそう言った瞬間、父の拳が碧くんの頬に直撃して……それから、抵抗しない彼を蹴ったり踏みつけたり……いくら暴力的な父だって今までそんなことはなかったから、私はパニックになってしまった。
『や、やめて! お父さん!』
グイってシャツを引っ張ってみても全然碧くんから引き剥がせなくて、暴力はどんどんエスカレートしていった。
ただただ〝止めなくちゃ〟って、それだけだった。
気づいたら父の頭から血が流れていた。
何を手にして、どんな風に殴りつけたのかがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
だけど——私がやった。
『雪……』
呆然と立ち尽くしていた私に碧くんが起き上がって声をかけた。
『え……わた……』
手の震えは、その時から止まらない。
『どうしよう……』
どうしよう、どうしよう。
頭の中は、意味もなくそれだけが繰り返されていた。
『警察に行こう』
救急車を呼べば、あの人は助かったのかもしれない。
碧くんも冷静なようで動揺していたんだと思う。
『……行きたくない』
怖かったのか、パニックだったのかわからないけれど、私はそんなことを口走っていた。
『雪、ダメだよ』
私は何度も大きく首を振った。
『だって、この人が碧くんに暴力振るったんだよ? 今までだってずっとひどいことされてきた。なのに、たった一回だけで私は警察に行かなくちゃいけないの?』
『…………』
『……私、どこか遠くへ行く』
『雪』
それからよくわからないまま、行く宛なんてありもしないのに荷物を詰められるだけ詰めて、家を出て行こうとしたら……。
『俺も行くよ』
『でも……』
『雪一人じゃホテルも取れないだろ?』
碧くんがどういう気持ちだったのか、本当のことはわからない。
◇
「だけど、本当は私が許せないでしょ? あの人、碧くんにとっては本当のお父さんだもん」
「警察なら俺が行く」
「え……?」
「雪の言った通りだと思ったから着いてきたんだ。あの人はずっと最低だった。雪がやらなかったら俺がやってた。だから」
碧くんも私も泣いていて、周りからはどう見えているんだろう。
「碧くんは何も悪くないじゃない」
あの時だって無抵抗で。
「……俺がもっとちゃんと守れてたらって、ずっと後悔して、吐き気がしてる」
「え……?」
「雪があの人と二人きりにならないように気をつけてたのに……家を出ていくのだって結局逆らえなくて」
〝雪があの人と二人きりにならないように気をつけてたのに〟
「じゃ、じゃあ……綾音さんが毎回部屋に来たのって」
碧くんは頷いた。
「あの人は世間体を気にするから、他人のが家にいたら手を出してこないだろ?」
「じゃあ……」
ずっと守ってくれてたんだ。碧くんが。
「だけど、だけどやっぱり……碧くんにとっては……私にとっても……あの人は家族だったよね」
正しくなんてなかったけれど、どうしたって良い思い出だって浮かんできてしまう。
碧くんが夜中に吐いていたのだって、私の食欲がないのだって、そういう感情があるからだ。
「碧くんがずっと守っててくれたってわかっただけでも……嬉しい。だから、ちゃんと警察に行く」
きっと、彼のスマホには母からの着信やメールがたくさん届いているはずだ。
「つれてきてくれて、ありがとう」
「ここに来たのは雪の言った通り、最初に家族が会った場所だからで」
「…………」
「ここから良い思い出も始まったんだって思ったから」
碧くんの声も掠れてる。
私はコクコクと頷くことしかできない。
「ねえ碧くん」
「…………」
「私のこと、好きだった? 少しでも、女の子として」
碧くんは、涙を流した顔で、またクシャって笑った。
「ずっと好きだったよ。世界で一番」
それだけで、十分。
ごめんね。
さようなら。
「俺、ちゃんと待ってるから。雪のこと」
fin.