『雪花』
妙に耳馴染みの良い声がわたしの名前を呼んだ気がして、そっと瞼をあげるとさっきと変わらぬ雪景色の中でポツンと俯きながら揺れた白い花に目を奪われた。あの教室で唯一わたしを名前で呼んでくれる、その声が聞こえたから。さっきまでの吹雪が嘘みたいに風も雪も止んでいて、あんなに震えていたはずの足も手も不思議と軽く感じられた。慌てて雪の上にしゃがみこんだまま、さっきまでそこになかった花の近くへと這い寄る。
「……ま、つゆき?」
そしてその花が季節外れなのに咲いているスノードロップであることに気が付く。穏やかな風が吹けば、項垂れた小さな白い花が返事をするように揺れる。
「松雪⋯⋯ごめん。気付かなくて、約束破ってごめん。ひとりにしてごめん⋯⋯まつゆき、ごめん。ほんとうに⋯⋯ほんとうにごめん」
意味なんてないのかもしれない。自己満足なのかもしれない。謝ることで赦されたかったのかもしれない。その花が松雪である、なんて確証はないのに。それでも彼かもしれない花に、わたしはただ謝ることしか出来なかった。走り出した瞬間は『ごめん』以外にも伝えたいことがあったはずなのに、今となっては他の言葉が出てこない。
『馬鹿だなぁ。そんなに謝って』
スノードロップの花が小さく揺れると同時に、また耳馴染みの良い声がどこからか聞こえてくる。今度こそ、自信を持って「松雪?」と彼の名前を呼ぶ。
「聞き間違い、じゃないよね」
『1日離れたくらいで、もう僕の声を忘れちゃった?』
「⋯⋯忘れるわけない。忘れられるわけないよ」
『じゃあ、わかるだろ』
はは、といつもの調子で松雪が笑うから、つられて頬が緩みそうになる。一気に身体全体が脱力して、花の近くに投げ出していた指先がすこし雪の中に沈んだ。姿は見えない、だけどたしかに松雪がいた。雪の中で身体が冷やされすぎて聞こえた幻聴かとも思ったけれど、松雪らしい言葉でちゃんとわたしの言葉に返事がある。それだけで彼がここにいると信じるには充分すぎる理由になった。
「松雪、待たせてごめんね」
『ほんとうだよって言いたいところだけど、別に雪花が気に病むことないよ』
ほんの悪戯心だったから、と付け加えられた声は静かに吹いた風にすぐに消されていってしまった。
『意地なんてはらずに直接誘えばよかったな』
「⋯⋯っ」
うまく言葉が出せない。松雪の言葉になんて返したらいいのか、わからなかった。胸の奥がぎゅっと掴まれて苦しくて痛い。
『後悔なんて今更かなって思ったけど、案外悪くなかったわ。お馬鹿な隣の席がこうやって迎えに来てくれるんだからさ』
あえて語尾をあげて話す松雪。
『雪花ってさ、あんな⋯⋯大きい声、出せたん⋯⋯だな』
やめてよ。わざと語尾をあげたまま喋るなら、最後まで貫いてよ。言葉に詰まるくらいなら、鼻をすするくらいなら、声を震わすくらいなら⋯⋯最初から大袈裟なくらい元気に話さないでよ。揺れる言葉を隠せないのなら、隠さないでよ。なんて、心の中でどれだけ喋ろうとも松雪には聞こえていないようで、彼は深く息を吸ってから言葉を続けた。
『もし。もしさ、このまま雪花と話せなくなるんなら。その前にきみの伝えたいことが僕と同じだったら幸せだなって思うんだけど、よかったら答え合わせしてみない?』
冬でよかった、と今日はじめて思った。睫毛が凍りついてなかったら、きっとわたしの瞳からは今にも涙がこぼれてしまっていたはずだから。
『僕らはきっと運命だから、せーので言っても揃いそうだよな』
言葉で返事をするかわりに大きく頷く。「うん」とか「わかった」とか以上に、その頷きには松雪への言葉に出来ない感情が入っていた。いつだったか、松雪がさ
『僕らってどっちも雪の花の名前だよね』
『僕は待雪草、きみは雪の花』
『知ってる? 雪はさ、春先に咲く花を守るために降るんだよ』
って捲したててきたことがあった。「きっと、だから運命なんだよ」わたしの顔を覗き込みながら、松雪が珍しく歯を見せずにやさしく微笑んでそう付け加えた言葉の真意は結局わからずじまいだったけれど……。こんな形で答え合わせが出来る、なんて。嬉しくないはずなのに、その答えはどうしようもなく聞きたくて仕方がない。また穏やかな風が吹く。『せーの』松雪の合図が聞こえてくる。わたしたちは互いに大きく胸いっぱい空気を吸ってから、口を開いた。
『「好きだよ。きみと毎年、桜が見たい」』
ふふ。はは。わたしと松雪の笑い声が混じる。一語一句揃うなんて、ほんとうに運命みたいだ。わたしたちは同じ気持ちを持って、同じものを望んで、同じ未来を見ていたんだ。松雪は一緒に桜を見るという約束を忘れていなかった。こんな状況でさえなければ、勢いあまって嬉しさのあまり松雪に抱き着いていただろう。
『”うん”って言ってあげられなくてごめんね』
だけど、それも今となってはもう叶わない。
『だから雪花はもう帰りな』
じゃないと僕みたいになっちゃうよ? なんて不謹慎な冗談を言う松雪。きっと、わたしが俯いたから。元気づけようとしてくれる松雪のやさしさが辛い。胸の奥に刺さって抜けない棘、みたいにじくじくと痛みだす。嫌だ、とわたしは首を横に振った。
「だって松雪が⋯⋯松雪がさ、いない世界なんて嫌だよ。寂しい⋯⋯」
松雪のいない教室は物足りない。松雪のいない教室は寂しい。明日には彼の机に花瓶が置かれるかもしれない。それを見なくちゃいけない、なんてそんなの耐えられない。松雪がいない世界なんて、なくていいよ。松雪がいるあたたかい世界で生きたい。
『馬鹿だよ、やっぱり雪花は。お前にここで凍死されたって全然うれしくないからな。雪花が昨日の夜ここに来なかったのも運命だし、僕がここで雪に埋まったのもそれもまた運命だ』
「⋯⋯馬鹿は、松雪もだよ。ひとりで逝かないでよ」
『いやいや、別に逝くつもりなんてなかったんだけどなあ。でもさ、ほんとうはよかったって思ったんだ。ここに雪花がいなくてよかったなって思ったんだ。きみが春を迎えて桜を見られるんだって、せっかく慣れてきたクラスでみんなとこれからも仲良く暮らせるんだって思ったら、不思議だよな。自分が死ぬかもしれないことへの恐れよりも、雪花がこの場にいないことへの安心が勝ったんだ』
「やっぱり馬鹿だよ、松雪は」
松雪の言葉を咀嚼しながら、なんとか口に出せた言葉以外を喉の奥になんとか飲み込んだ。そんなの⋯⋯そんなのわたしだってきっと一緒だ。彼と同じ立場なら、同じことを願って、同じことに安堵してしまうだろうから。わかるからこそ、もどかしかった。松雪が次の春まで生きて桜を見れるなら、クラスメイトと楽しく1年を終えてくれるならこんなに幸せなことはなかった。だから、もう今のわたしには彼の意志を無視して自分を犠牲にすることなんて出来なかった。
『大丈夫だよ。僕を見つけても、僕が消えるわけじゃないだろ』
「じゃあ、教えて。松雪はどこにいるの?」
『わかるだろ、雪花なら』
恐る恐る、目の前のスノードロップの根本に積もった雪を掻き分けてみた。
「⋯⋯ねえ。やっぱり怖いって言ったら、松雪は笑う?」
『しょうがないな。じゃあ、僕がとっておきの話をしようか』
とっくに冷たさを感じなくなっていたはずの指先がかじかんできた。なんとなく、そうなんとなく悪い予感がした。本当は目を逸らしてしまいたかった。松雪は生きてるって信じたかった。先生が、警察が、クラスメイトが、わたし以外のすべてのひとが望みを捨てていても、たった1週間だけど松雪の隣にいたわたしだけは可能性が低くくても0ではない望みを捨てたくなかった。みんなが諦めてるのを見て悔しかった。なんで誰も松雪が生きてるって信じてあげないのって。憤慨したくて我慢して、どうやってこの気持ちをおさめたらいいかわからなくなっていた。彼がなにを望んでいるのかも、ほんとうの彼がどんな姿をしているのかも、わからないふりをして逃げ続けられるならば、逃げて逃げて逃げてこの世界に残った彼のほんの一部と暮らしたかった。
『昨日さ、流星群だったって言っただろ』
『雪花ってさ、流れ星見たら祈るタイプ?』
『僕はさ、祈るタイプなんだ。それも結構まじめにさ、小さい頃から流れ星を見たらちゃんと願いごとを3回唱えるくらいにはしっかり祈るタイプ。うわ⋯⋯意外って思ってるな、その顔』
松雪の”とっておきの話”に背中を押されながら、雪を掻き分ける指先を動かし続けた。”この雪の下に松雪がいる”そんな現実から目を逸らさなかったのは、不思議と彼が近くにいる気がしたから。かじかんで震える指先に雪が張り付いても、次々に降り注いでいく雪を払い分け続けた。すると程なくしてもうほとんど動かなくなった指先が硬いものに触れた。
『⋯⋯雪花。きっと今のきみならもう大丈夫だよ』
「そう、かな⋯⋯」
現実を見るのが怖かった。直視しなくて良いなら、見ないでいたかった。現実は痛くて、寂しくて、ひんやりとしているから。
『うん、絶対。だって、昨日祈ったんだ。”雪花ともう一度会えますように”って。だから大丈夫。そこにいる僕も、ここにいる僕もきみに会うことを心の底から望んでいたからな』
松雪の言葉がなかったら、たぶん無理だった。でも彼の強い意志のこもった言葉をうけて、視界が歪むのも気にせず、紫色に変色した感覚のない指を必死に動かした。それからほどなくして、形の大部分を現した硬いものを雪の中から引っ張り出す。それは男性の腕だった。
わたしの指先ほど変色はしていないが、霜に覆われているのか雪よりも白くなてしまった腕。わたしのよりも一回り大きい松雪の手を思い出す。あの日、わたしの頭を撫でた、あの腕。今のわたしの指先の感覚では、もうその手が冷たいのか、あたたかいのかわからかなったけれど。そっと彼の手に顔をよせ、頬をつけてみる。ざらざらとした霜に守られた腕はわたしの知らない感触をしていた。
『きみはいつもあたたかいね、雪花』
けれど松雪がそう言うから、また目の前が歪みかける。目頭が熱い。鼻の奥がつーんとして痛い。松雪、と唇だけで名前を呼んで、そっと硬くなってしまった手の甲にキスをしてみる。けれどわたしたちは映画でもドラマでも漫画でもない。だから魔法がかかって彼の手にかかった霜が溶けるわけもなく、彼の腕を胸元に抱きしめたまましゃがみこんで動けなくなったわたしの上に静かに雪が降り積もるだけだった。背中に感じる雪の冷たさに、世界が戻りつつあることに気が付く。
『⋯⋯僕を見つけてくれてありがとう』
嫌だ、待って。まだ、離れたくない。どんなに松雪に背中を押されても、わたしにはまだうまく現実を見ることが出来ない。だって、松雪が隣にいない明日が来るのは怖い。⋯⋯どんな顔をして生きていけばいいか、わからない。目的地をなくしたまま進む冒険隊みたいに、どこか心もとない。彼がいない通学路、彼がいない教室、彼の座っていない隣の席、そのどれもを直視できる自信がわたしにはまだない。そんなわたしを知ってか知らずか、ゆっくりとした口調で『上を向いて』と松雪が囁いた。
『雪花。いつか2人で本物の桜、見ような』
彼のやわらかい声で紡がれた言葉が消えた瞬間、わたしたちの周囲に降る雪が満開の桜に変わった。雪で出来た桜の木から、はらりはらりと花びらのような雪が舞い落ちてくる。思わず息をのんで「⋯⋯綺麗」と漏らせば、姿は見えないままの松雪が『だろ?』と笑った。それからすぐに『だから』と彼は言葉を続けた。
『大丈夫、その時までゆっくりでいいよ。もしゆっくりしすぎてきみが僕のことを忘れても、今度はちゃんと雪花を誘うから』
「⋯⋯うん」
『約束、守れなくてごめん』
「⋯⋯ううん、まだ⋯⋯まだ、だよ。まだ約束、破られてなんかない! 桜が咲いたら、わたしが絶対に松雪を屋上に連れていくから⋯⋯」
だから、春になるまで待っていて。そう言いたかったのに、最後の方はうまく言葉に出来なかった。もどかしい。でもこれがほんとうに彼と言葉を交わす最期になるなら、ここで伝えたい言葉を飲み込むのはちがうと思った。だから胸元に抱きしめた松雪の腕のかたまった小指に自分の小指を絡めて、しっかりと雪の桜を見つめながら口を開く。
「もう一度、改めて約束する。わたしはいつかの春、また絶対に松雪と桜を見る」
小さく、でも確実に松雪が鼻をすする音が聞こえた。
『ほんとうはさ、僕なんて忘れて前を見て生きてって言うべきなんだろうけどさ。ごめんね⋯⋯僕がおかしいのかもしれないんだけど、すごくうれしいんだ』
「うん。⋯⋯れない。わたし忘れないよ、松雪のこと。それに絶対きみのこと、ひとりになんてしないから」
『馬鹿だなあ、雪花は。でも、ありがとうな』
「うん。松雪こそ、ありがとう」
『またね、雪花』
ーーーーまたね、松雪。
もう聞こえないかもしれないけど、心の中でそっと彼に別れの挨拶をする。
そして雪の上で揺れているスノードロップを1輪抜くと、松雪の腕と一緒に大切に抱きしめながらその場に立ち上がった。周りを見渡せば、もう雪でできた桜の木はなかった。かわりにいつもと変わらない雪景色が広がっているだけだった。でも今のわたしがするべきことは、心の中で不思議なほど明確な形を持っていた。だからもう迷わなかった。待っててね、松雪。わたしだけじゃなくて、みんなにもちゃんと松雪を見つけてもらおう。それで春になったら、みんなで一緒に桜を見よう。夏には花火を見て、秋は色づいた裏山を見て、冬には今度こそ一緒に流星群を見上げよう。約束だよ、松雪。
ゆっくりきらきらと舞い落ちる雪が降る中、わたしは後ろを振り返らずに裏山から学校に向かって走りだした。



