夏の暑さがひと段落し、セミの鳴き声がじりじり焼くようなアブラゼミからツクツクボウシにバトンタッチする。
文化祭が近づく中、校内全体が浮足立ち、あちらこちらから出店の試作の美味しそうな香りが立ち昇る。
ホワイトボードに書かれた日程表を背に、白戸は教室内の面々に向き直る。
「以上で文化祭当日の巡回及び傷病者受け入れ担当のスケジュールが決定いたしました。変更を希望する場合は早めにグループLYINEで連絡し、他スケジュール担当と調整してください。また、当日は晴天が予定され、火器取り扱いや閉鎖的な脱出ゲーム、ステージ設営スタッフ、来客らの熱中症が想定されますので、各自こまめな水分補給の呼びかけをお願いいたします。では委員長、お願いします」
白戸が振り返ると、三年の保健委員長が頷いて席を立ち、保健委員全員ににこりと笑いかけた。
「来賓の皆様、また、全校生徒が文化祭を楽しめるよう、我ら保健委員が縁の下の力持ちとして尽力しましょう! それでは皆様、ご安全に!」
「「ご安全に!」」
保健委員全員が唱和し、誰ともなく拍手が起こってから委員会は解散となった。
「白戸。誘導看板の印刷上がったぞ」
「大塚先輩。ありがとうございます。沢井先輩。最終確認お願いできますか?」
白戸は大塚から受け取った文化祭当日に校内各スポットに配置予定の来客を保健室へ誘導する案内板に貼るポスターを委員長の沢井と確認する。ポップな色使いでカプセルや注射器のイラストをあしらわれたポスターの中央には大きな文字で『保健室』の文字が踊る。
「うん。これなら遠くから見た時の視認性もいいし、楽し気な雰囲気が出て、どこに配置しても馴染むね」
「ではこのまま通しますね。それと芸術棟第二多目的室に当日の巡回用の腕章の準備、火傷や熱中症対策用の冷却パックの搬入と粉末のスポーツドリンク、タオル、ビニール手袋、絆創膏、消毒液などの搬入も完了しました」
「お疲れ様。これで安心して文化祭が迎えられそうだね。白戸。自分のクラスの手伝いや、回ってみたい模擬店なんかもあるだろう。こっちの仕事はこれくらいにして、見回りついでに行っておいで」
「はい! ありがとうございます。失礼します」
沢井に頭を下げた白戸はそのまますぐに大塚に駆け寄る。
「大塚先輩、ポスターさっきのでオッケー出ました! それであの、赤城先輩は、」
「教室でお化け屋敷の最終調整してる。早く行ってやんな」
「はい!」
保健委員の招集場所になっていた芸術棟から教室棟に速足で抜け、通いなれた2年の教室へと向かう。途中すれ違うのは大きな段ボールだったり、カラフルな衣装だったり、忙しない空気なのに皆日常を離れて楽し気だ。
「あ! 白戸君! こっちこっち!」
「つっちー先輩!」
顔なじみのつっちーに手招かれ、白戸は赤城の教室へと歩み寄る。
「ちょうどよかった。今暗幕貼り終えたところで、誰かお試しで感想聞きたかったんだ。白戸君入って入って! 暗いから足元気を付けてね!」
「はい」
「皆ー! お客様が入りまーす! 各自配置について、予行演習通り精一杯恐怖体験を味わわせてくださーい!」
つっちーの呼びかけに暗闇の中から活気溢れる返事があちこちから返ってくる。
「後で感想聞かせてね。じゃ、いってらっしゃーい」
近くのスピーカーから調子っぱずれの音階のピアノの音が流れ、不気味なドアの開閉音が響き渡る。足元を照らす青白い間接照明にスモークが焚かれ、不思議な雰囲気を演出している。
歩みを進めると、通路の先に音も無く大きな黒い影がすっと横切るのが見えた。歩くというより滑るように移動する影は、糸か何かで引っ張っているのだろうか。
入口で聞いたのと別のスピーカーから読経の声が流れ、たくさんのぬいぐるみや人形が並ぶひな壇の中で市松人形にスポットライトが当たり、その人形だけが小刻みに震え始めた途端に複数の少女の笑い声がそこかしこから響き渡った。暗闇の中で人の姿は見えないのに、誰かの息遣いや動く気配だけは色濃く感じられる。足元をペタペタと小さな足音を立てて何かが走り抜ける気配がした。
通路の角を曲がってすぐ、誰かにぶつかりそうになって慌てて足を止める。相手も驚いた様子で立ち止まったと思いきや、それは設置された鏡に映りこんだ自分の姿だった。薄暗がりで突然現れる自分の姿というのもなかなか心臓に悪い。鏡の前を通り抜けようとした瞬間、鏡の自分の姿の背後に突然逆立ちした少女の人形が映りこむ。ぎょっとして振り返るが、そこには暗がりが広がっているだけで鏡に映りこんだ人形の影も形も見当たらない。
すごいな。どういう仕掛けになってるんだろう。
純粋に感心しながら先に進もうとすると、プシューッ!という音と共に背後から首筋に冷たい風があたる。
「わ!」
驚いて思わず声をあげた。
暑い日にこの演出は驚くし、涼しくて気持ちいいだろうな。
通路の途中に不意にスポットが当たり、バラバラにされた人形の手や足が次々と不気味にライトアップされる。
曲がり角を曲がると『出口』と書かれたドアと、その手前に一体の日本人形が置かれているのが見えた。
これも動いたりするのだろうかと訝りながら人形と距離を測りつつ通過しようとした瞬間、人形が配置されているのと反対、すなわち背中を向けていた方の壁から一斉に手が飛び出した。
思わず壁から飛び退いた白戸は、ふと気付いて壁に歩み寄り、一対の手の指先をそれぞれ左右の指先で摘まんだ。
「……赤城先輩」
壁の向こうから、あれ? 何でわかったの? と緊迫感の無い声があがる。
「え? 白戸君、赤城の手ぇ当てたって?」
「急遽変更なったから、そもそもここに赤城が配置されてんの知らなかったっしょ?」
「あれだけ暗いのにすげぇな」
暗がりの中から続々と黒いアームカバーを付けたちーちゃん、りんたろー、ナオヤが登場する。
「うーん……俺、顔とか見えてた?」
三人の後ろから不思議そうに首を傾げながら赤城が姿を現した。
「いえ、顔は見えませんでしたよ」
「じゃあ白戸君、手だけで赤城の見分けつくのか?」
ナオヤが興奮した様子で問いかけるが、白戸はいたって冷静だ。
「見分けっていうか……。他の皆さんの手はこう、でしたよね?」
白戸は体の前で両手の平を広げるジェスチャーをする。
「え? 赤城どうやってた?」
「え? こう、だけど」
赤城は両手でピースサインを出す。
「カニ!? 何でよ!?」
「ハンドマンがそんなご機嫌じゃダメだろ!」
ナオヤとりんたろーが一斉にツッコミを入れる。
「え? だって手の形なんて指示無かったし、よく怖いの最後まで乗り切ったね、の意味をこめて……」
「こめちゃ駄目! 最後までお客さんを驚かすことに徹しろ!」
勢いよくツッコミを続けるナオヤに、そりゃこんなことするのは赤城だよなぁ、とりんたろーが苦笑いする。
「つっちーの提案通り、本番前にお試しで白戸君にチェック入れてもらっておいてよかったな」
黒いアームカバーを外しながらちーちゃんは手でパタパタと自身の顔を扇いだ。
教室内に冷房は入っているけど、狭い場所で待機しているのは結構蒸し暑いのかもしれないな、と保健委員らしく白戸は考える。
「白戸君。他の演出で気になるところは無かった? 明らかに不自然な所とか、改善点とか全部教えてくれる?」
あとから合流してきたつっちーがメモ代わりのスマホを構えて改善点を書き留める。
「音楽とかスモークとか、照明の感じもすごく雰囲気が出ていて怖かったです。あと鏡の仕掛けとか、どうやったのかわからないのも沢山あって、迫力ありました」
「ふんふん。エアダスターのとこ声が出てたみたいだけど、タイミングはあれくらいで大丈夫?」
「はい。ばっちり首筋で、予想外の方向からでびっくりしました。ラストも人形の方に何か仕掛けがあるのかと思ってたら、反対側からの襲撃で。締めに最高の演出だと思います」
「よっしゃ! 狙い通り!」
つっちーはガッツポーズをして見せた。
「あとはカニさえ駆除してしまえば完璧!」
「赤城、手はパーな。で、こう、突き出した後に小刻みに揺らす」
「こう?」
ナオヤとりんたろーにレクチャーを受け、赤城がひらひらと両手を振って見せる。
「大和以外もしくじる奴いるかもだから、ハンドマン係に入る奴に動作の指示徹底な。よし。もっぺんハンドマンとこだけリハ入れんぞー」
旗振り役のつっちーに促され、ハンドマン係達はぞろぞろと通路脇の暗幕から壁の後ろに戻っていく。途中赤城の、あだっ、という声が聞こえた。
「ハンドマン準備できたかー?」
つっちーの呼びかけに、壁の向こうからオッケー、と返ってくる。
「じゃ、白戸君。悪いけどもう一回お願い」
「わかりました」
通路を出口に向けてゆっくりと歩く。一度仕掛けを知ってしまっているとはいえ、一斉に勢いよく壁から飛び出す無数の手は迫力があった。レクチャーの効果があったのか、赤城の物と思しき手も、他の手と同時に出現し、不気味にゆらゆらと揺れる。
「怖いです! 完璧ですね!」
「よし! 完璧いただきました!」
つっちーの呼びかけに、揺れていた手が次々と壁の向こうに引っ込んでゆく。
「やったー! 完璧完璧ー!」
「じゃ、休憩なー」
「裏暑ー」
黒いTシャツの首元を揺らしながら出てくるハンドマン達の中から白戸は赤城を捕まえる。
「赤城先輩。さっき裏に入った時に、痛いって言ってましたけど、どこかぶつけましたか?」
「あ、いや。ぶつけたとかじゃなくて壁板のささくれが手に刺さったみたいでさ」
赤城の言葉にスマホのライトを構えたつっちーが寄ってきて赤城の手を照らす。
「どれどれ? あー。ほんとだ。痛そうだな。バリ取りが甘かったかなー。大和、ささくれが出てたのだいたいどこらへんかわかる? 他の怪我人が出る前にサンダーかけるわ」
「壁板って言っちゃったけど、正確には壁板の後ろの骨組みになってる角材のとこ。壁板本体は合板だからたぶんささくれは出ないと思う」
「わかった。次入るまでに改善しとくから、大和も休憩入って」
「わかった。つっちーも適当に休憩しな」
「ん。これ終わったら俺も休憩入るわ。白戸君協力ありがとう」
「あ、はい。こちらこそ体験させていただいて、ありがとうございました」
つっちーに頭を下げてから、白戸は赤城の袖を引く。
「赤城先輩。今から休憩なら、手に刺さったささくれ取りましょう」
「ああ。白戸、お願いできるか?」
「はい。救急箱にピンセットが入ってるので取ってきますね」
「あ、でもこの中じゃ暗くて見えにくいか。俺も一緒に行くよ。ちょっと出てくるわー」
「失礼します」
「おう。いってらー」
「お大事にー」
つっちー達に見送られ、赤城と白戸は教室を出る。白戸はいつもの一年の教室ではなく芸術棟の方に足を向けた。
「あれ? 救急箱教室じゃないの?」
「はい。うちのクラス出店予定で教室が大改装中なんで、私物は委員会用に確保してある芸術棟の方に置いてるんです」
「白戸のクラスはフルーツ串だっけ?」
「ええ。イチゴ飴とかブドウ飴とかに砕いたポッピングキャンディーとかフリーズドライフルーツの粉末をくっつけたのを売るそうです」
「うわ、それめっちゃ美味しそう!」
「試食したらすごく美味しかったんで、赤城先輩の分予約して確保してあります」
白戸の言葉に赤城が子供のように目を輝かせる。
「ほんと!? やった! すっげー楽しみ! 俺も知り合いの屋台で色々試食させてもらって美味い店は事前調査済みだから、当日お互いに合う時間に一緒に回ろ」
「はい! あ、3年の沢井先輩のクラス、冷やしレモンラーメンやるそうですよ」
「おお! それは絶対外せんな!」
「前に陸上大会の時赤城先輩に食べさせてもらった貝白湯もすごく美味しかったですもんね」
「だろ? 今度は夏の冷やし坦々が美味い店連れてくからな!」
「辛いのもいいですね!」
白戸は無人の第二多目的室の扉を開け、積み重なる段ボールの間を縫って教室の隅に置いていた救急箱を手に取る。
「赤城先輩。手を見せてください」
「ん」
ピンセットを取り出した白戸はそっと赤城の手を取る。
「ああ、これは痛そうですね」
右手の人差し指の付け根の部分に小さな木片が刺さっているのが見えた。木片の刺さっている箇所の皮膚が少し赤くなっている。
「ごめんな、白戸。今日は救急箱のお世話になる予定じゃなかったんだけど」
「大丈夫ですよ。あ、これ中に割れたのがちょっと残っちゃったな。先輩、もうちょっと待ってくださいね」
ピンセットを手に赤城の手を熱心に見つめる白戸の前髪が、秋の柔らかい陽光にきらきらと光る。
「あ! よかった。小さい方の欠片も取れまし……」
不意に前髪に触れた感触に、白戸は思わず固まる。
「赤城先輩?」
「んー?」
笑って聞き返しながら、赤城はちゅ、ちゅ、と白戸の頭に唇を落とす。
「あの、どうしたんですか?」
「うん。なんか頭可愛いなって思って」
何度目かのキスを前髪に受け、白戸は俯いたままポツリと呟く。
「頭だけじゃなくて、別のとこがいいです」
ふはっ、と笑う気配がして、白戸の前髪が揺れた。白戸がそっと顔を見上げると赤城のツリ目気味の瞳が嬉しそうに細まる。
赤城は握ったままの白戸の手を握り返して引き寄せ、白戸の唇に自身の唇をそっと重ねた。一瞬柔らかい熱が離れたので白戸が目を開くと、赤城は空いている方の手を白戸の頬に当て、鼻と鼻をこすり合わせ、もう一度唇だけで白戸の唇を優しくはむはむと食んだ。
「ぶっ……くくく。なんか、違くないですか?」
吹き出し、肩を震わせて笑う白戸に、赤城が微笑む。
「違わないよ。これも治療の一環」
そう言って赤城は白戸の頬にキスをして、そのまま首筋にもちゅ、と唇を落とす。
「ほらね。もう痛くない。いつもの白戸効果」
赤城はささくれが取れた手のひらを白戸に見せてにこりと笑う。窓から差し込む光が赤城の揺れる黒髪に落ちてきらきらと光る。
白戸は笑って赤城の首筋に顔を埋め、肺一杯に吸い込んだ。
赤城先輩は今日も、陽だまりの優しい香りがする。
《了》
文化祭が近づく中、校内全体が浮足立ち、あちらこちらから出店の試作の美味しそうな香りが立ち昇る。
ホワイトボードに書かれた日程表を背に、白戸は教室内の面々に向き直る。
「以上で文化祭当日の巡回及び傷病者受け入れ担当のスケジュールが決定いたしました。変更を希望する場合は早めにグループLYINEで連絡し、他スケジュール担当と調整してください。また、当日は晴天が予定され、火器取り扱いや閉鎖的な脱出ゲーム、ステージ設営スタッフ、来客らの熱中症が想定されますので、各自こまめな水分補給の呼びかけをお願いいたします。では委員長、お願いします」
白戸が振り返ると、三年の保健委員長が頷いて席を立ち、保健委員全員ににこりと笑いかけた。
「来賓の皆様、また、全校生徒が文化祭を楽しめるよう、我ら保健委員が縁の下の力持ちとして尽力しましょう! それでは皆様、ご安全に!」
「「ご安全に!」」
保健委員全員が唱和し、誰ともなく拍手が起こってから委員会は解散となった。
「白戸。誘導看板の印刷上がったぞ」
「大塚先輩。ありがとうございます。沢井先輩。最終確認お願いできますか?」
白戸は大塚から受け取った文化祭当日に校内各スポットに配置予定の来客を保健室へ誘導する案内板に貼るポスターを委員長の沢井と確認する。ポップな色使いでカプセルや注射器のイラストをあしらわれたポスターの中央には大きな文字で『保健室』の文字が踊る。
「うん。これなら遠くから見た時の視認性もいいし、楽し気な雰囲気が出て、どこに配置しても馴染むね」
「ではこのまま通しますね。それと芸術棟第二多目的室に当日の巡回用の腕章の準備、火傷や熱中症対策用の冷却パックの搬入と粉末のスポーツドリンク、タオル、ビニール手袋、絆創膏、消毒液などの搬入も完了しました」
「お疲れ様。これで安心して文化祭が迎えられそうだね。白戸。自分のクラスの手伝いや、回ってみたい模擬店なんかもあるだろう。こっちの仕事はこれくらいにして、見回りついでに行っておいで」
「はい! ありがとうございます。失礼します」
沢井に頭を下げた白戸はそのまますぐに大塚に駆け寄る。
「大塚先輩、ポスターさっきのでオッケー出ました! それであの、赤城先輩は、」
「教室でお化け屋敷の最終調整してる。早く行ってやんな」
「はい!」
保健委員の招集場所になっていた芸術棟から教室棟に速足で抜け、通いなれた2年の教室へと向かう。途中すれ違うのは大きな段ボールだったり、カラフルな衣装だったり、忙しない空気なのに皆日常を離れて楽し気だ。
「あ! 白戸君! こっちこっち!」
「つっちー先輩!」
顔なじみのつっちーに手招かれ、白戸は赤城の教室へと歩み寄る。
「ちょうどよかった。今暗幕貼り終えたところで、誰かお試しで感想聞きたかったんだ。白戸君入って入って! 暗いから足元気を付けてね!」
「はい」
「皆ー! お客様が入りまーす! 各自配置について、予行演習通り精一杯恐怖体験を味わわせてくださーい!」
つっちーの呼びかけに暗闇の中から活気溢れる返事があちこちから返ってくる。
「後で感想聞かせてね。じゃ、いってらっしゃーい」
近くのスピーカーから調子っぱずれの音階のピアノの音が流れ、不気味なドアの開閉音が響き渡る。足元を照らす青白い間接照明にスモークが焚かれ、不思議な雰囲気を演出している。
歩みを進めると、通路の先に音も無く大きな黒い影がすっと横切るのが見えた。歩くというより滑るように移動する影は、糸か何かで引っ張っているのだろうか。
入口で聞いたのと別のスピーカーから読経の声が流れ、たくさんのぬいぐるみや人形が並ぶひな壇の中で市松人形にスポットライトが当たり、その人形だけが小刻みに震え始めた途端に複数の少女の笑い声がそこかしこから響き渡った。暗闇の中で人の姿は見えないのに、誰かの息遣いや動く気配だけは色濃く感じられる。足元をペタペタと小さな足音を立てて何かが走り抜ける気配がした。
通路の角を曲がってすぐ、誰かにぶつかりそうになって慌てて足を止める。相手も驚いた様子で立ち止まったと思いきや、それは設置された鏡に映りこんだ自分の姿だった。薄暗がりで突然現れる自分の姿というのもなかなか心臓に悪い。鏡の前を通り抜けようとした瞬間、鏡の自分の姿の背後に突然逆立ちした少女の人形が映りこむ。ぎょっとして振り返るが、そこには暗がりが広がっているだけで鏡に映りこんだ人形の影も形も見当たらない。
すごいな。どういう仕掛けになってるんだろう。
純粋に感心しながら先に進もうとすると、プシューッ!という音と共に背後から首筋に冷たい風があたる。
「わ!」
驚いて思わず声をあげた。
暑い日にこの演出は驚くし、涼しくて気持ちいいだろうな。
通路の途中に不意にスポットが当たり、バラバラにされた人形の手や足が次々と不気味にライトアップされる。
曲がり角を曲がると『出口』と書かれたドアと、その手前に一体の日本人形が置かれているのが見えた。
これも動いたりするのだろうかと訝りながら人形と距離を測りつつ通過しようとした瞬間、人形が配置されているのと反対、すなわち背中を向けていた方の壁から一斉に手が飛び出した。
思わず壁から飛び退いた白戸は、ふと気付いて壁に歩み寄り、一対の手の指先をそれぞれ左右の指先で摘まんだ。
「……赤城先輩」
壁の向こうから、あれ? 何でわかったの? と緊迫感の無い声があがる。
「え? 白戸君、赤城の手ぇ当てたって?」
「急遽変更なったから、そもそもここに赤城が配置されてんの知らなかったっしょ?」
「あれだけ暗いのにすげぇな」
暗がりの中から続々と黒いアームカバーを付けたちーちゃん、りんたろー、ナオヤが登場する。
「うーん……俺、顔とか見えてた?」
三人の後ろから不思議そうに首を傾げながら赤城が姿を現した。
「いえ、顔は見えませんでしたよ」
「じゃあ白戸君、手だけで赤城の見分けつくのか?」
ナオヤが興奮した様子で問いかけるが、白戸はいたって冷静だ。
「見分けっていうか……。他の皆さんの手はこう、でしたよね?」
白戸は体の前で両手の平を広げるジェスチャーをする。
「え? 赤城どうやってた?」
「え? こう、だけど」
赤城は両手でピースサインを出す。
「カニ!? 何でよ!?」
「ハンドマンがそんなご機嫌じゃダメだろ!」
ナオヤとりんたろーが一斉にツッコミを入れる。
「え? だって手の形なんて指示無かったし、よく怖いの最後まで乗り切ったね、の意味をこめて……」
「こめちゃ駄目! 最後までお客さんを驚かすことに徹しろ!」
勢いよくツッコミを続けるナオヤに、そりゃこんなことするのは赤城だよなぁ、とりんたろーが苦笑いする。
「つっちーの提案通り、本番前にお試しで白戸君にチェック入れてもらっておいてよかったな」
黒いアームカバーを外しながらちーちゃんは手でパタパタと自身の顔を扇いだ。
教室内に冷房は入っているけど、狭い場所で待機しているのは結構蒸し暑いのかもしれないな、と保健委員らしく白戸は考える。
「白戸君。他の演出で気になるところは無かった? 明らかに不自然な所とか、改善点とか全部教えてくれる?」
あとから合流してきたつっちーがメモ代わりのスマホを構えて改善点を書き留める。
「音楽とかスモークとか、照明の感じもすごく雰囲気が出ていて怖かったです。あと鏡の仕掛けとか、どうやったのかわからないのも沢山あって、迫力ありました」
「ふんふん。エアダスターのとこ声が出てたみたいだけど、タイミングはあれくらいで大丈夫?」
「はい。ばっちり首筋で、予想外の方向からでびっくりしました。ラストも人形の方に何か仕掛けがあるのかと思ってたら、反対側からの襲撃で。締めに最高の演出だと思います」
「よっしゃ! 狙い通り!」
つっちーはガッツポーズをして見せた。
「あとはカニさえ駆除してしまえば完璧!」
「赤城、手はパーな。で、こう、突き出した後に小刻みに揺らす」
「こう?」
ナオヤとりんたろーにレクチャーを受け、赤城がひらひらと両手を振って見せる。
「大和以外もしくじる奴いるかもだから、ハンドマン係に入る奴に動作の指示徹底な。よし。もっぺんハンドマンとこだけリハ入れんぞー」
旗振り役のつっちーに促され、ハンドマン係達はぞろぞろと通路脇の暗幕から壁の後ろに戻っていく。途中赤城の、あだっ、という声が聞こえた。
「ハンドマン準備できたかー?」
つっちーの呼びかけに、壁の向こうからオッケー、と返ってくる。
「じゃ、白戸君。悪いけどもう一回お願い」
「わかりました」
通路を出口に向けてゆっくりと歩く。一度仕掛けを知ってしまっているとはいえ、一斉に勢いよく壁から飛び出す無数の手は迫力があった。レクチャーの効果があったのか、赤城の物と思しき手も、他の手と同時に出現し、不気味にゆらゆらと揺れる。
「怖いです! 完璧ですね!」
「よし! 完璧いただきました!」
つっちーの呼びかけに、揺れていた手が次々と壁の向こうに引っ込んでゆく。
「やったー! 完璧完璧ー!」
「じゃ、休憩なー」
「裏暑ー」
黒いTシャツの首元を揺らしながら出てくるハンドマン達の中から白戸は赤城を捕まえる。
「赤城先輩。さっき裏に入った時に、痛いって言ってましたけど、どこかぶつけましたか?」
「あ、いや。ぶつけたとかじゃなくて壁板のささくれが手に刺さったみたいでさ」
赤城の言葉にスマホのライトを構えたつっちーが寄ってきて赤城の手を照らす。
「どれどれ? あー。ほんとだ。痛そうだな。バリ取りが甘かったかなー。大和、ささくれが出てたのだいたいどこらへんかわかる? 他の怪我人が出る前にサンダーかけるわ」
「壁板って言っちゃったけど、正確には壁板の後ろの骨組みになってる角材のとこ。壁板本体は合板だからたぶんささくれは出ないと思う」
「わかった。次入るまでに改善しとくから、大和も休憩入って」
「わかった。つっちーも適当に休憩しな」
「ん。これ終わったら俺も休憩入るわ。白戸君協力ありがとう」
「あ、はい。こちらこそ体験させていただいて、ありがとうございました」
つっちーに頭を下げてから、白戸は赤城の袖を引く。
「赤城先輩。今から休憩なら、手に刺さったささくれ取りましょう」
「ああ。白戸、お願いできるか?」
「はい。救急箱にピンセットが入ってるので取ってきますね」
「あ、でもこの中じゃ暗くて見えにくいか。俺も一緒に行くよ。ちょっと出てくるわー」
「失礼します」
「おう。いってらー」
「お大事にー」
つっちー達に見送られ、赤城と白戸は教室を出る。白戸はいつもの一年の教室ではなく芸術棟の方に足を向けた。
「あれ? 救急箱教室じゃないの?」
「はい。うちのクラス出店予定で教室が大改装中なんで、私物は委員会用に確保してある芸術棟の方に置いてるんです」
「白戸のクラスはフルーツ串だっけ?」
「ええ。イチゴ飴とかブドウ飴とかに砕いたポッピングキャンディーとかフリーズドライフルーツの粉末をくっつけたのを売るそうです」
「うわ、それめっちゃ美味しそう!」
「試食したらすごく美味しかったんで、赤城先輩の分予約して確保してあります」
白戸の言葉に赤城が子供のように目を輝かせる。
「ほんと!? やった! すっげー楽しみ! 俺も知り合いの屋台で色々試食させてもらって美味い店は事前調査済みだから、当日お互いに合う時間に一緒に回ろ」
「はい! あ、3年の沢井先輩のクラス、冷やしレモンラーメンやるそうですよ」
「おお! それは絶対外せんな!」
「前に陸上大会の時赤城先輩に食べさせてもらった貝白湯もすごく美味しかったですもんね」
「だろ? 今度は夏の冷やし坦々が美味い店連れてくからな!」
「辛いのもいいですね!」
白戸は無人の第二多目的室の扉を開け、積み重なる段ボールの間を縫って教室の隅に置いていた救急箱を手に取る。
「赤城先輩。手を見せてください」
「ん」
ピンセットを取り出した白戸はそっと赤城の手を取る。
「ああ、これは痛そうですね」
右手の人差し指の付け根の部分に小さな木片が刺さっているのが見えた。木片の刺さっている箇所の皮膚が少し赤くなっている。
「ごめんな、白戸。今日は救急箱のお世話になる予定じゃなかったんだけど」
「大丈夫ですよ。あ、これ中に割れたのがちょっと残っちゃったな。先輩、もうちょっと待ってくださいね」
ピンセットを手に赤城の手を熱心に見つめる白戸の前髪が、秋の柔らかい陽光にきらきらと光る。
「あ! よかった。小さい方の欠片も取れまし……」
不意に前髪に触れた感触に、白戸は思わず固まる。
「赤城先輩?」
「んー?」
笑って聞き返しながら、赤城はちゅ、ちゅ、と白戸の頭に唇を落とす。
「あの、どうしたんですか?」
「うん。なんか頭可愛いなって思って」
何度目かのキスを前髪に受け、白戸は俯いたままポツリと呟く。
「頭だけじゃなくて、別のとこがいいです」
ふはっ、と笑う気配がして、白戸の前髪が揺れた。白戸がそっと顔を見上げると赤城のツリ目気味の瞳が嬉しそうに細まる。
赤城は握ったままの白戸の手を握り返して引き寄せ、白戸の唇に自身の唇をそっと重ねた。一瞬柔らかい熱が離れたので白戸が目を開くと、赤城は空いている方の手を白戸の頬に当て、鼻と鼻をこすり合わせ、もう一度唇だけで白戸の唇を優しくはむはむと食んだ。
「ぶっ……くくく。なんか、違くないですか?」
吹き出し、肩を震わせて笑う白戸に、赤城が微笑む。
「違わないよ。これも治療の一環」
そう言って赤城は白戸の頬にキスをして、そのまま首筋にもちゅ、と唇を落とす。
「ほらね。もう痛くない。いつもの白戸効果」
赤城はささくれが取れた手のひらを白戸に見せてにこりと笑う。窓から差し込む光が赤城の揺れる黒髪に落ちてきらきらと光る。
白戸は笑って赤城の首筋に顔を埋め、肺一杯に吸い込んだ。
赤城先輩は今日も、陽だまりの優しい香りがする。
《了》
