あの後高校入学してすぐに赤城先輩を探し回り、保健委員という立場を利用して半ば強引に距離を縮めた。
赤城先輩にちゃんと謝ろう。そう決意して2年の教室に向かったものの、赤城はまだ登校していなかった。
「よ。何? また赤城のやらかし?」
そう言って白戸の背中を叩いたのはナオヤだ。
「ナオヤ先輩。おはようございます。赤城先輩に何かあったとかではなく僕が先輩に用事があって来たんですけど、まだ登校してないみたいですね」
「ああ。赤城だいたいこのくらいの時間には鞄置いてサッカーとかバドミントンとかやってることが多いけど」
そう言ってナオヤはわざわざ赤城の席までいって鞄が無いかチェックしてくれる。
「珍しいな。まだ来てないみてぇだわ」
「……そうですか。ナオヤ先輩、わざわざありがとうございます」
「いや、いいよ。あ、そういえばこないだの金曜日さぁ……」
言いかけたナオヤは言い淀み、指先で顎を掻きながら言葉を探す。
「ええと、行ったんだよな? 管理棟の資料準備室」
「……はい」
あの日ロック解除された英語教師のスマホのロール画面に保存されていた画像は赤城の物ばかりではなかった。サムネイルには別の学校の制服を着た学生の画像も沢山並んでいた。中学生と思しき幼さの残る子供の画像や目を背けたくなるような際どい画像まで。
それらがネットの拾い画像なのか、英語教師が実際に手を下したものかの判別はつかなかった。
不幸中の幸いといってよいものかはわからないが、ナオヤの写真は見当たらなかったが、中には意識があり、生徒が自主的に服を脱いだ事を思わせるような画像まで含まれていた。
白戸にはどこまで制裁を加えていいのか加減がわからない。再発防止のためには公に事件化することが正解なのかもしれない。しかし生徒が脅されてやった行為なのか、それとも成績のために自主的に教師に身を捧げたのかがわからない以上、下手に動くことは被害者自身の人生も破滅に導く可能性がある。
きっと何年経っても正解などは無いのだろう、と、白戸は思う。
ナオヤは白戸の様子を窺うように歯切れ悪く続ける。
「……どう、思った? 白戸君的には。見たんだろ? 英語の、あの……」
「いけ好かん、ですかね。一言で言うと。生理的に受け付けない感じがしました」
ナオヤはぽかんと口を開けて白戸の顔を凝視し、一瞬の後に弾けたように腹を抱えて笑いだした。
「あっはっはっ! いけ好かん、か。いいな、それ。今度使わせてもらお」
「そんなに笑えますかね?」
「や。ちょっと安心したってだけ。他はみんな、あいつのこと良い先生だ、とかしか言わねぇからさ」
笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を拭っていたナオヤは白戸の肩越しに廊下の奥を見て、あ、赤城。と呟いた。
「赤城先ぱ……」
白戸は振り返ったが、廊下に溢れる登校してくる生徒達の中に赤城の姿を見つけることはできなかった。
「あ? なんだ? あいつ朝からうんこか?」
ナオヤが訝しげに廊下の先を睨む。
「赤城先輩でしたか? すみません。僕、見つけきれなくて……」
「一瞬だったからよくわからんけど、たぶん赤城。あ、りんたろー! さっき赤城とすれ違わんかったか?」
廊下の向こうから登校してきたりんたろーは、首を横に振る。
「赤城? 会ってないよ」
「んあぁ? っかしーな。俺結構動体視力は良い方なんだけど……」
「りんたろー先輩、おはようございます」
「おはよう白戸君。また赤城の怪我で呼び出された?」
「いや、その赤城自身がまだ教室に来てないんだわ」
「へぇ。珍しいな。いつもならだいたいこのくらいの時間なら来てるのに」
「だよな」
結局その日は予鈴が鳴るまで赤城は登校してこなかった。
「赤城、今日に限って遅刻か? 白戸君、伝言でもあれば赤城が登校次第伝えとくけど」
「あ、いえ。直接会って言いたいので。でも、ありがとうございますナオヤ先輩。失礼します」
白戸はりんたろーとナオヤに頭を下げ、自分の教室に帰る道すがら赤城の姿を捜したが、結局見つけることはできなかった。
少し残念に思いながらも、心のどこかでほっとしている自分に気付く。謝るにしても何と言って謝ったらよいものか考えあぐねていたからだ。単に問題をほんの数時間先送りしただけだが、その分少し落ち着いて考えを練り直すことができる。
まずはきちんと赤城先輩に謝ることだ。
あんな半ギレで喧嘩腰な態度、誰がどう見ても失礼過ぎる。
きちんと謝って、それから……。それから、僕はどうしたらいいんだろう、と白戸は途方に暮れた。
もう一度、正式に告白し直す? 否、すでに言った同じ内容を言い直しても、結局赤城先輩を困らせるだけだ。興味関心の無い相手からの告白を繰り返されても迷惑なだけだということは白戸自身、身を以って知っている。
迷惑、なんだろうな。
白戸は何度目とも知れないため息を吐いた。
結局考えが纏まらないまま朝のSHを終え、2年の教室に向かった白戸にりんたろーが声をかけてくる。
「白戸君。あの後赤城チャイムギリで来たけど、SH終わった瞬間にまたすぐ出てったよ」
「そう、ですか」
「なんかあいつ今日忙しねぇな」
ナオヤが首を傾げる。
結局その後昼休みと放課後にも訪ねてみたが、白戸が赤城に会うことは叶わなかった。
翌日も白戸は朝から2年の教室を訪ねたが、赤城の姿は見当たらない。
白戸が手持無沙汰に廊下で赤城の登校を待っていると、イヤホンをしたまま登校してきたちーちゃんが声をかけてくれた。
「白戸君おはよ。赤城? まだ会えてない?」
「ちーちゃん先輩おはようございます。なんだかすれ違ってしまって」
「そっか。まぁあいつあちこちの部活の助っ人やってたりするから、またどっかの部活に引っ張られてんのかもな」
「ああ、そうですね」
白戸は赤城が陸上部の助っ人をしていたことを思い出す。
もしかしたらと可能性を信じて待ってみたが、その日も予鈴が鳴るまで赤城は現れなかった。
教室の自分の席に戻った白戸は、考えたくなかった可能性にじわりと捕らわれ始めていた。
赤城先輩に、避けられているのかもしれない。
その考えを打ち消したくて、目を閉じて首を横に振る。
ちーちゃん先輩も言っていたじゃないか。赤城先輩はまたどこかの部活の助っ人に駆り出されているのかもしれない。教室に行けば会えるとばかり考えていたけど、案外教室以外の方が遭遇する可能性があるかもしれない。
白戸はルーティン化しかけていた赤城の教室への日参から巡回に舵を切り、休み時間や放課後にボールで遊んでいるグループや運動部に赤城の姿が無いか探したが、結局その日も赤城と接触することは叶わなかった。
翌日の朝も赤城の教室ではなく駐輪場や朝練中の運動部を巡回してみたが、赤城とはすれ違いすらしない。
万策尽きた白戸が2年の教室を訪ねても、やはり赤城の席はすでに空席だった。
見かねた大塚が白戸に声をかける。
「赤城だろ? またチャイム鳴ると同時に教室飛び出してったぞ」
「どこに行ったかはわかりませんか?」
「あいつ無駄に運動神経良いからなぁ。陸部ですら追いつけんのだわ」
「しかも廊下走るんじゃなくて教室の反対のベランダから飛び降りて走ってくから、誰も行き先までは予測できんしなぁ」
りんたろーがベランダを指さし、ナオヤが同意するように頷く。
「サッカーとか3on3とかも来なくなったしな。放課後の陸部の練習も、ここ2、3日顔出さねぇし」
「昼休みに食堂でも購買でも見かけなくなったし」
りんたろーの言葉に白戸は顔色を変える。
「あの……赤城先輩、お昼ごはんが食べられていないってことですか?」
「いや、それは心配いらん。俺赤城が食パン咥えて駆け抜けていくの見たわ」
とちーちゃん。
「おいおい。一昔前の漫画の登場人物気取りかよ」
「いや。トリプルソフトの6枚切り1袋咥えて、左右違うジャムの瓶握り締めてた」
「逆に食欲すごいな」
大塚が呆れとも感心ともつかない表情で言う。
「あ、そういえば俺も見た。赤城、でっかい太巻き1本咥えたまま走り去ってった」
「俺も! 赤城がカステラ1本咥えて走ってんの見たわ!」
りんたろーとナオヤがそれぞれに手をあげる。
「……なんか、赤城の面白目撃情報が着々と増えてくな」
「こりゃ明日あたりはそろそろフランスパン来るだろ」
「外国アニメだと連なったソーセージとかぶら下げて走りそう」
「いや、国民的アニメでいくとお魚咥えて走るんじゃねぇの?」
ちーちゃんの目がきらりと光る。
「賭ける?」
「フランスパンにA定食bet」
「大根一本に醤油ラーメンbet」
「おいおい連なったソーセージはどこ行ったよ!」
「外国物だとありそうだけど、ガチで狙いに行くならもっと身近な食い物だろ」
「俺魚丸々一尾にコロッケパン2個bet。魚種はあえて指定無し。シラスからマグロまで何でも有りで」
「……お前らなぁ。少しは真面目に考えてやれよ」
大塚の言葉にちーちゃんがスマホを手に取る。
「もうさ。こんな時は文明の利器を使うべきだろ」
「ちーちゃん何やってんの?」
「人工知能に頼る。『動きの速い生き物(特に霊長類ヒト目ヒト科)を捕獲するためのアイデアをいくつか提案して』」
「えーと、何々? 『動きの速い生き物、特に霊長類ヒト目ヒト科(=ヒト科:ヒト、チンパンジー、ゴリラなど)のように知能が高く、警戒心が強く、運動能力にも優れた動物を捕獲することは極めて難しく、倫理的・法的な問題も強く関わってきます。そのため、合法・非侵襲的かつ倫理的な目的(例:研究、保護、医療)に限った方法を以下に提案します』。うーん。知能が高くなく警戒心が強くない霊長類で検索し直した方がいいかな」
「おい。赤城の捕獲には許可(例:動物倫理委員会の承認)がいるらしいぞ」
「『餌で誘引してトラップ。もしくは吹き矢か麻酔銃』」
「『鏡や音声などを使った知的な誘引。霊長類は知的刺激に興味を示す(例:自分の姿が映る鏡、他個体の鳴き声)』か。鏡は女子に借りるとして、他個体の鳴き声は誰が担当するよ?」
「ちーちゃんお仕事でーす」
「残念。担当はギターでーす。つっちー呼んで来いよ。あいつシロテテナガザルとホエザルの鳴き真似プロ並みだぞ」
「いや。それ本物のサル呼び込むんならいいけどさ」
完全に遊びモードに突入した3人を横に、大塚が指先で自身の額をコリコリと掻きながら言う。
「ま。無理に追い回して怪我人出すのも本末転倒だし、ほとぼりが冷めれば捕まるだろ」
白戸は消え入りそうな声で「……いえ」と小さく呟いた。
「もう大丈夫です。もし赤城先輩と話すことができたら、「もう追い掛け回すような真似はしないので安心してください」とお伝えいただけますか?」
「え? あ、えーと……。いいのか? それで」
「はい。大塚先輩も、ちーちゃん先輩もナオヤ先輩もりんたろー先輩も、皆さん色々ご協力くださってありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
白戸は深々と一礼をして、教室を後にした。心なしかいつもぴしり、とした背中が、今日はしょんぼりと丸まって見える。
「いやいやいや良くないよねこういうの、絶対良くないって! 何あれ喧嘩? ねぇ、何があったか聞いてないの? 大塚!」
ナオヤが背後から大塚の両肩を握って揺さぶるが、大塚は首を横に振る。
「別に今までだって白戸が少々不遜な態度取ったところで赤城は怒るようなタイプじゃなかったろ?」
「確かに。赤城と白戸君じゃ喧嘩自体成立しなさそう」
とりんたろー。
「じゃあ白戸君が何か赤城を脅すようなことを?」
「あれじゃね? 予防接種にビビッて逃げる犬」
「接種時期4~6月よ? とっくに終わってるって」
ポケットからフリスクを取り出して数粒口に放り込みながらちーちゃんがぼんやりと赤城の机を撫でる。
「まぁでもほんと妙だよな。赤城が誰かを避けるなんて初めて見るわ」
差し出したナオヤの手にも数粒フリスクを振り出し、大塚とりんたろーにも手のジェスチャーのみでいるかどうかを問うてから再びポケットに入れる。ナオヤはもらったフリスクをぽりぽりと噛み砕きながら言った。
「ほんとそれ。赤城、授業中もずっとぼーっとしててさ。行動がおかしくなってからは、いまいち感情が読めないっていうか。LYINEもそもそも既読すらつかんし」
「それそれ。生物の授業なのに古典の教科書開いてたりな」
「赤城の目元のクマ見たか? あれやっぱ体調悪いの?」
「の割には元気よく走りすぎだろ」
「いや……」
大塚が昼休みにベランダから一階へとジャンプした赤城を見た時は、数日前なら着地後すぐに走り出していったところだったが、今日は着地の体勢が崩れ、数歩よろけてから走り始めた。
「いよいよ本格的に怪我する前に、調整かけるべき、か」
大塚はルーズリーフを一枚取り出し、「白戸から伝言『もう追い掛け回さないので安心してください』だと」と書いて赤城の机の上に置く。
「なるほど。スマホも直接の話し合いも難しいなら、古典的だけどこれしかないか」
ちーちゃんが関心したように頷き、ナオヤがぽつりと呟く。
「白戸君に追い掛け回されなければ、赤城、前みたいに一緒に遊べるかなぁ?」
「どうだろうな。前見た時は、白戸君が付いて回ること自体、むしろ喜んでるように見えたんだけどな」
ちーちゃんはナオヤの頭をぽんぽんと軽く叩く。ナオヤは煩わし気にその手を払った。
「おいやめろ! 縮んだらどうする!」
「ごめん。りんたろー、俺の代わりにナオヤ伸ばしといて」
「こんな感じでいいかな」
りんたろーが大きな手でナオヤの頭を真上から鷲掴み、そっと上に引っ張る。
「吸引分娩みたいなんやめろ! 胎児期から新生児期思い出すわ!」
「おぐっ……!」
肘鉄を脇腹にまともに食らい、りんたろーが身体を折って静かに蹲った。
不意に授業開始のチャイムが鳴り、教室に戻ってくる生徒達の一番最後にふらりと赤城が教室に入ってくる。席に戻った赤城は机の上のルーズリーフを手に取り、何度か読み返した後で大塚を振り返る。何か言いたげに赤城が口を開きかけたが、折悪しく社会科の教師が大きな掛図を手に教室に入ってきた。
「おーい。休み時間終わってるぞー。きちんと席に着けー」
結局赤城はルーズリーフを握りしめたまま体の力が抜けてしまったかのように、すとん、と席に着いた。
「すみません! 気分が悪いので保健室に行ってきます!」
白戸は教師の返事も待たずに教科書とスマホを手に音楽室を飛び出し、渡り廊下を抜けて階段を上がり、真っ直ぐに2年の教室へと走る。
「大塚先輩!」
教室の後ろのドアを勢いよく開けると、自習中だったらしい教室中の視線が白戸に集まる。
「白戸⁉ さっきLYINEで送った通り、赤城がふらついて倒れかけて……」
「赤城先輩は!?」
「掛図の角に顔面ぶつけて鼻血出して……。結構な量出血してたから取りあえず保健室に連れて行こうとしたんだけど、あいつ急に走り出してな。保健室と真逆の方向に走ってったから、どこに行ったんだかわからなくて……。今授業担当してた先生が自習にして捜しに行ってるけど、俺らでも捕まえられない赤城を先生が捕まえられるとは到底思えないし……。一応赤城が飛び出してすぐにナオヤが後追いかけたんだけど」
「ごめん、白戸君。見失ったわ。こうなるんだったらこの前から昼休みに赤城が走ってった場所、無理矢理追いかけてでも特定しとけばよかったんだけど……」
大塚の隣でナオヤがしょんぼりと項垂れる。
「たらればを今言っても意味が無いだろ。それにいつも昼休みに赤城が走っていく方向とも違うみたいだったし」
とちーちゃん。
「確かに。ベランダジャンプじゃなくて、一応今日は廊下に向けて飛び出してったな」
りんたろーが指差した廊下の方向を白戸も見つめる。確かに保健室とは逆方向だ。
「わかりました。ありがとうございます。捜してみます」
「俺らもそれぞれに散って捜してみる。見つかったらLYINE入れるから」
「はい。お願いします」
大塚達と別れ、りんたろーに教えてもらった方向に廊下を辿る白戸は、数メートル先の小さな赤黒い点に視線を奪われた。
大塚先輩は、赤城先輩が鼻血を出したと言っていた。もしかしたら。
しゃがみ込んで確認すると、半分だけ丸く、半分は伸びたような歪な形の模様。白戸は伸びた形の方向へと目を皿のようにして廊下を進む。
あった。先の血の跡からだいぶ離れてはいるが、先ほど同様に半分だけ丸く、半分は伸びた形。廊下の端で上下に分かれる階段に行き当たり、上下どちらに行くか逡巡したが、踊り場に血の跡を見つけた白戸は下の階へと向かう。ほどなくして白戸は、白戸の教室前の廊下に蹲る赤城の姿を見つけた。
「先輩!」
白戸の声に弾かれたように顔をあげた赤城は、後ろ手に壁を支えにしながらゆっくりと立ち上がる。白い壁にべたりと赤い血の手形が付いたのを見て、白戸は総毛立った。大塚からは赤城が顔面をぶつけて鼻血を出したという情報しか入っていないが、それ以外でどこか怪我でもしているのだろうか。悪い妄想に押し潰されそうになるのを耐えながら、白戸は赤城のもとに駆け寄った。
金曜日の夜以来、土日を挟んで5日振りに見た赤城は目の下にクマをこさえ、頬も少し痩せたように見える。
「……しら、」
白戸の顔を見て口を開きかけた赤城は、俯いて首を横に振る。ぱたた、と音を立てて床と赤城自身の上履きにも血が零れ落ちた。
「赤城先輩。取りあえず、鼻血だけ止めちゃいましょう。ちょっと待ってくださいね。今用意しますから」
……冷静に。あくまで冷静に。自分に言い聞かせながら白戸は教室に入り、机の横のフックにかけてあるいつもの救急箱を開け、使い捨ての冷却パックと脱脂綿を取り出した。
逃げられませんように、と心の中で願いながら、赤城に歩み寄る。
出血しているのは右の鼻のみ。失礼します、と一言断りを入れ、脱脂綿を出血している方の鼻に詰める。使い捨ての冷却パックを赤城の鼻にあてながら、残りの脱脂綿で顎まで垂れた血液を拭う。
「喉に逆流しちゃうんで、上は向かず、下を向いたまま小鼻を指で摘まんで押さえてください。5分くらいで止まると思います」
大人しくされるがままに赤城は鼻にあてられた冷却パックを受け取り、パック越しに小鼻を指で押さえた。
顎にまで垂れた血液は雫状に形作られたまま既にゼリー状に赤黒く固まりかかっている。カッターシャツの胸元と上履きに付着した血液は落ちるだろうか。まだ乾いていない今なら落ちやすいかもしれない。ウエットティッシュも持ってはいるが、カッターシャツと上履き両方を拭くほどの量は足りないだろう。脱脂綿を少し多めに濡らしてこようと白戸が歩み始めた瞬間、赤城の手から冷却パックが滑り落ちた。
「待って、白戸」
聞いたこともないような、掠れて弱々しい声。赤城は不安気な表情で白戸に向かって伸ばしかけた手を、引っ込めてよいのかそのまま伸ばしてよいのか逡巡して宙で泳がせる。
「……垂れちゃった血を拭きたいので、脱脂綿を濡らしてきますね。一緒に行きますか?」
無言のまま微かに頷いたように見えた赤城の指先を、白戸は息を止めたままそっと掴んだ。今更ながら、逃げられないことに白戸はそっと安堵の息を漏らす。手を繋ぐ、というにはあまりにもささやかな、赤城の指先だけ白戸が握った状態で、手洗い場に移動する。何ら抵抗も逃げる様子も見せず、赤城は静かに後ろについてきた。
「先輩の手にも血が付いているみたいですけど、鼻以外にどこか痛い所はありますか?」
言われて初めて気が付いた、という様子で赤城は自身の手を不思議そうにぼんやりと見つめ、首を横に振る。
「わかりました。手を洗いましょうか」
握っていた手をそのまま蛇口に誘導し、固まりかけた血液を流水で濯ぐ。ハンドソープをつけると石鹸の匂いに混ざって不思議と濡らす前より金気臭い匂いがして、ピンク色の泡が立った。ハンドソープを洗い流し、持っていたハンカチを手渡してから、水で濡らした脱脂綿で赤城の鼻から顎にかけて垂れた血液を拭いていく。顎で固まった雫状の血液は脱脂綿越しに摘まんで取ると、水分にふやけて脱脂綿の中で赤黒く広がった。顔がある程度小綺麗になったところで、カッターシャツと上履きに取り掛かろうとしてはた、と手が止まる。
「先輩。直接脱脂綿で濡らすと冷たいと思います。体操服を取ってきますんで、ちょっと待っててもら……」
「……白戸」
思い詰めた表情で名前を呼ばれ、白戸は思わず居住まいを正す。
「……はい」
赤城は体を半分に折り、白戸に深々と頭を下げた。
「ごめん」
……ごめん、ごめん。ごめん……。
白戸は赤城からの謝罪の言葉を、ゆっくりと頭の中で数回反芻し直した。赤城から謝られるようなこと、すなわち、この前の白戸の告白に対しての答え、だ。
白戸は俯いて、きゅ、と唇を引き結んだ。
大丈夫。ここ数日避けられていたことから、覚悟はしていた。そもそも好きだとなかなか言い出せなかったのも、振られたり気持ち悪がられて避けられたりするかもしれないと思うと一歩踏み出す勇気が出なかったからだ。引導を渡されて、むしろすっきりする。
「……いえ。こちらこそ、勝手なことばかり言ってすみませんでした」
白戸も深々と頭を下げる。
あれほど欲しがっていた答えを聞くのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
「あの」
俯いたままの白戸の声が震える。
駄目だ。動揺するな。
自分を叱咤し、顔をあげて努めて明るい声を出す。
「勝手ついでに、我儘言わせてもらってもいいですか? よかったら僕が言った告白を無かったことにして、前みたいな関係に戻らせてもらえませんか?」
未練がましいと嫌がられるだろうか。それとも気持ち悪いと拒絶されるか。
考えろ。どんな言い回しをしたら、少しでも傍にいられるか。
「変な意味ではなくて、純粋に心配なんです。先輩が怪我をしてないか、とか、具合が悪くなってないか、とか。あの、せめて、今救急箱に入ってる分の治療道具消費しきるまで、とかでもいいです。僕だけでは一生かかってもあの量の絆創膏とか使い切れなさそうですし、それに……」
「……嫌だ」
静かに返された一言に次の言葉が音も無く掻き消され、糸のように細い息を吐き出すことしかできなかった。
嫌、ですか。
できることなら上滑りして零れた言葉を拾い集めて葬り去ってしまいたい。万に一つの可能性に賭けたのに、完全に玉砕だ。
全身の力が抜けてしまいそうになる。不意に強い力で手を握られ、顔をあげた白戸は泣きそうな顔の赤城と目が合った。
「ごめん。白戸。避けるみたいな真似して。でも、お願い。俺のこと「好きだ」って言ってくれたこと、無かったことにしないで」
「……へ?」
予想外の言葉に、白戸は間の抜けた返答しかできなかった。
「あれから、ずっとぐるぐるして、考えが纏まんなくて」
握られた手が、すごく熱い。
赤城は大きく息を吸って、吐いて、目を閉じて寄り掛かるように白戸の肩に額を乗せた。
「俺が怪我する度にいつも白戸が来てくれるの、嬉しくて。でも、周りの奴らからは甘えすぎとか、いつか白戸に彼女ができたら譲ってあげないと、とか言われてるし。でも俺、白戸と一緒にご飯食べるのとか楽しいし。白戸のこと考えたら、自分で自分のことできるようにならなきゃいけないのにって。でもそうなったら白戸と離れなくちゃいけなくなるって。白戸から好きって言ってもらえて、だったら他の人に譲らなくていいじゃんとか考えたんだけど、それは俺だけの都合が良い考えだし。そう考えたら、なんか眠れなくなって。ずっと頭がぐるぐるして。でも、顔合わせて何て言ったらいいかわかんないし。今日も顔ぶつけて鼻血出て、そしたら白戸に会いに行く理由できたって嬉しくて、でも教室来たら白戸がいなくて……」
耳元で紡がれる言葉に、白戸は赤面する。
握られた手に、肩を温める体温に、自惚れてもいいのだろうか。
「俺、好きって言われて嬉しいのに、無かったことにされるのとか、絶対に嫌」
「……あ、赤城先輩、それって、……う、わ!」
肩にかかる重量が急に増加し、重心のバランスが取れずに白戸はたたらを踏む。
「あの、せんぱ……?」
「あーっ!! 見ーっけ!!」
廊下いっぱいに場違いな大声が響いた直後、ぱぁん!と何かを叩く小気味良い音が響き渡る。
「他クラスまだ授業中だし、俺らも自習で教室待機ってことになってんだよ!」
「そうだったわ! でもさすが赤城係! 白戸君確保おつー!」
「やっぱり白戸が見つけたか」
廊下を走ってくるナオヤと少し遅れて大塚が速足で歩いてくる。
「で、どったの? これ?」
「あの、僕にもよくわからないんですが、もしかしたら赤城先輩、寝てませんか?」
「おーい、赤城ー」
「生きてるかー?」
ナオヤと大塚がそれぞれ赤城の顔をのぞき込んだり肩を叩いたり脇腹を指先で刺したりしていたが、結論として二人ともが同意の意味を籠めて頷く。
「白戸君の言う通り、たぶん寝てる」
「間違いないな」
「やっぱりそうですか。さっきあんまり眠れてないって話してたんで、もしかしたらとは思ってたんですが」
耳元からは規則正しい健やかなる寝息が聞こえてくる。
「なぁんだ。単なる睡眠不足か。赤城、起きなー? このままじゃ白戸君が可哀想ー」
「起きないな。保健室にでも放り込むか」
「運ぶ? どうする? 3人いるから騎馬戦スタイル?」
「やんねーわ! りんたろー呼ぶ。あいつなら赤城運べるだろ」
大塚がスマホで呼び出しをかけると、ほどなくしてバタバタと走る足音が近づいてくる。
「なんだよ。やっぱ白戸君とこか。またちーちゃんに負けたわ」
そう言いながらりんたろーがポケットから出したグミの袋をちーちゃんに差し出す。
「帰巣本能かな。まいどありー」
「りんたろー。悪いけどこれ保健室まで運んでくれないか? さっきから起こそうとしてみたけど完全眠りこけてて起きんのだわ」
「おっけ。背負うからこっちにやって」
大塚とちーちゃんが赤城の上半身を抱え起こし、りんたろーの背中に寄り掛からせる。
白戸は赤城の体温が肩から離れていくのを密やかに心寂しく思っていたが、りんたろーがよいしょ、と赤城を背負いあげた時につん、と引っ張られ、まだ手を握られっぱなしだったことに気付いた。
「あれ? 赤城ー? 手ぇこれどうしたのよ?」
ナオヤが赤城の手を掴んでぶらぶらと揺らしてみたが、がっちりと握られていて放す気配は無い。
「ああ、無理して外さなくていい。保健委員副委員長。保健室まで付き添い頼めるか? 俺は授業担当してた先生に赤城確保の連絡入れてくるから」
「はい」
「りんたろー。重いだろうけど頼むな」
「あーい」
「俺とナオヤは赤城がずり落ちた時用の補助要員で保健室まで送り届けてくるわ」
「じゃな大塚。また後で」
「おう。ご安全に」
大塚と離れた後、時折授業の音が聞こえる静かな廊下を抜け、渡り廊下を抜けて、保健室のドアをノックした。
はーい、と聞き覚えのある声がして、ドアが開く。
「あらあら。常連さんが、今日はずいぶんと大所帯ね」
よっぴーが顔を覗かせると、消毒液とハーブティーが混ざった匂いがふわりと廊下に溢れた。
「赤城先輩が顔面をぶつけて鼻血を出したそうです。簡単な処置はしました。たぶんそろそろ血は止まったと思うんですが、寝不足も重なってしまったみたいでそのまま寝入ってしまったので、少し休ませてもらえませんか?」
「はいはい。わかりました。奥のベッドまで運んでもらえる?」
カーテンを開けた壁沿いのベッドに移動し、ちーちゃんとナオヤ、白戸の補助でゆっくりと赤城を降ろす。
「すげぇな赤城。全然起きんわ」
「ほんと。よく見たらクマすご。何日寝てないんだか。白戸君の手もずっと握ったままだし」
ナオヤが頬っぺたを引っ張ってもりんたろーが目の下のクマを撫でても、赤城は一向に目覚める気配が無い。
「まぁただの寝不足なら、少し寝りゃ復活するっしょ。じゃ、俺らは教室帰るか」
「そだな」
立ち上がって伸びをするナオヤとりんたろーをよそに、ちーちゃんはじっ、と白戸の顔を覗き込む。
「あれ? 白戸君、ちょっと顔色悪くない?」
わざとらしいセリフにナオヤとりんたろーも便乗する。
「あ、ホントだ。ちょっとこっち座りな」
「こっちこっち」
寝ている赤城の枕元をポンポンと叩かれ、白戸は動揺する。
「え? え、でも、あの」
「うーん。熱は無いみたいだけど、貧血かなぁ?」
「白戸君偏頭痛持ちって言ってたし、少し休んでいった方がいいよ」
「ね、よっぴー。白戸君も具合悪いみたいだし、少し休んでっていいよね?」
「あら、だったらこっちのベッド用意しましょうか?」
心配そうに覗き込むよっぴーに、棒演技の三人組が揃って首を横に振る。
「大丈夫。邪魔にならないように赤城は小さめに丸めとくし」
「そうそう。他のベッドは他の子が来た時用に空けといたげて」
「白戸君もちょびっと休んでいくだけだから、ここで大丈夫だよね?」
「えと、あ、はい。大丈夫です」
首を傾げるよっぴーに、白戸も同じ角度に首を傾げ、偏頭痛、と言われたことを思い出して慌てて空いている方の手の平をこめかみにあてて見せる。
「まぁ本人がそれでいいならいいわ。私は仕上げなきゃいけない書類があるから、何かあったら声をかけてね」
「はい。ありがとうございます」
背中を向けて机に向かったよっぴーを見て、ちーちゃんは白戸に親指を立てて見せ、白戸の頭をくしゃりと撫でる。
「俺たち教室帰るから、赤城のことよろしくな」
りんたろーもちーちゃんに続いて無言で白戸の頭を撫で、それを見てナオヤも手を伸ばして白戸の頭を撫でていった。
「白戸君もお大事にな」
あっと言う間に仕切りのカーテンが引かれ、三人組が失礼しましたー、と言いながら保健室を出ていく気配がする。ドアが閉まると、カーテン越しによっぴーが書類を書くさらさらという音とポットのお湯がこぽこぽと沸く音、あとは規則正しい赤城の寝息だけが取り残された。
白戸は赤城を起こさないよう、心の中だけで、失礼します、と断りを入れてそっと赤城の枕元に腰かける。
仮病、とか。赤城先輩の所に行く以外、自分のためには初めて使った。一人だったら絶対バレてたな。と、白戸は独り言ちた。
先輩方と自分の精一杯の演技力でもぎ取った貴重な時間。
白戸は握られたままの手を、そっと握り返す。握られたままの手と、眠っている赤城の目の下にできたクマ。それらがすべて自分に向けられた物だと知り、白戸は改めて自分の足掻きが無駄でなかったと微笑んだ。
赤城先輩にちゃんと謝ろう。そう決意して2年の教室に向かったものの、赤城はまだ登校していなかった。
「よ。何? また赤城のやらかし?」
そう言って白戸の背中を叩いたのはナオヤだ。
「ナオヤ先輩。おはようございます。赤城先輩に何かあったとかではなく僕が先輩に用事があって来たんですけど、まだ登校してないみたいですね」
「ああ。赤城だいたいこのくらいの時間には鞄置いてサッカーとかバドミントンとかやってることが多いけど」
そう言ってナオヤはわざわざ赤城の席までいって鞄が無いかチェックしてくれる。
「珍しいな。まだ来てないみてぇだわ」
「……そうですか。ナオヤ先輩、わざわざありがとうございます」
「いや、いいよ。あ、そういえばこないだの金曜日さぁ……」
言いかけたナオヤは言い淀み、指先で顎を掻きながら言葉を探す。
「ええと、行ったんだよな? 管理棟の資料準備室」
「……はい」
あの日ロック解除された英語教師のスマホのロール画面に保存されていた画像は赤城の物ばかりではなかった。サムネイルには別の学校の制服を着た学生の画像も沢山並んでいた。中学生と思しき幼さの残る子供の画像や目を背けたくなるような際どい画像まで。
それらがネットの拾い画像なのか、英語教師が実際に手を下したものかの判別はつかなかった。
不幸中の幸いといってよいものかはわからないが、ナオヤの写真は見当たらなかったが、中には意識があり、生徒が自主的に服を脱いだ事を思わせるような画像まで含まれていた。
白戸にはどこまで制裁を加えていいのか加減がわからない。再発防止のためには公に事件化することが正解なのかもしれない。しかし生徒が脅されてやった行為なのか、それとも成績のために自主的に教師に身を捧げたのかがわからない以上、下手に動くことは被害者自身の人生も破滅に導く可能性がある。
きっと何年経っても正解などは無いのだろう、と、白戸は思う。
ナオヤは白戸の様子を窺うように歯切れ悪く続ける。
「……どう、思った? 白戸君的には。見たんだろ? 英語の、あの……」
「いけ好かん、ですかね。一言で言うと。生理的に受け付けない感じがしました」
ナオヤはぽかんと口を開けて白戸の顔を凝視し、一瞬の後に弾けたように腹を抱えて笑いだした。
「あっはっはっ! いけ好かん、か。いいな、それ。今度使わせてもらお」
「そんなに笑えますかね?」
「や。ちょっと安心したってだけ。他はみんな、あいつのこと良い先生だ、とかしか言わねぇからさ」
笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を拭っていたナオヤは白戸の肩越しに廊下の奥を見て、あ、赤城。と呟いた。
「赤城先ぱ……」
白戸は振り返ったが、廊下に溢れる登校してくる生徒達の中に赤城の姿を見つけることはできなかった。
「あ? なんだ? あいつ朝からうんこか?」
ナオヤが訝しげに廊下の先を睨む。
「赤城先輩でしたか? すみません。僕、見つけきれなくて……」
「一瞬だったからよくわからんけど、たぶん赤城。あ、りんたろー! さっき赤城とすれ違わんかったか?」
廊下の向こうから登校してきたりんたろーは、首を横に振る。
「赤城? 会ってないよ」
「んあぁ? っかしーな。俺結構動体視力は良い方なんだけど……」
「りんたろー先輩、おはようございます」
「おはよう白戸君。また赤城の怪我で呼び出された?」
「いや、その赤城自身がまだ教室に来てないんだわ」
「へぇ。珍しいな。いつもならだいたいこのくらいの時間なら来てるのに」
「だよな」
結局その日は予鈴が鳴るまで赤城は登校してこなかった。
「赤城、今日に限って遅刻か? 白戸君、伝言でもあれば赤城が登校次第伝えとくけど」
「あ、いえ。直接会って言いたいので。でも、ありがとうございますナオヤ先輩。失礼します」
白戸はりんたろーとナオヤに頭を下げ、自分の教室に帰る道すがら赤城の姿を捜したが、結局見つけることはできなかった。
少し残念に思いながらも、心のどこかでほっとしている自分に気付く。謝るにしても何と言って謝ったらよいものか考えあぐねていたからだ。単に問題をほんの数時間先送りしただけだが、その分少し落ち着いて考えを練り直すことができる。
まずはきちんと赤城先輩に謝ることだ。
あんな半ギレで喧嘩腰な態度、誰がどう見ても失礼過ぎる。
きちんと謝って、それから……。それから、僕はどうしたらいいんだろう、と白戸は途方に暮れた。
もう一度、正式に告白し直す? 否、すでに言った同じ内容を言い直しても、結局赤城先輩を困らせるだけだ。興味関心の無い相手からの告白を繰り返されても迷惑なだけだということは白戸自身、身を以って知っている。
迷惑、なんだろうな。
白戸は何度目とも知れないため息を吐いた。
結局考えが纏まらないまま朝のSHを終え、2年の教室に向かった白戸にりんたろーが声をかけてくる。
「白戸君。あの後赤城チャイムギリで来たけど、SH終わった瞬間にまたすぐ出てったよ」
「そう、ですか」
「なんかあいつ今日忙しねぇな」
ナオヤが首を傾げる。
結局その後昼休みと放課後にも訪ねてみたが、白戸が赤城に会うことは叶わなかった。
翌日も白戸は朝から2年の教室を訪ねたが、赤城の姿は見当たらない。
白戸が手持無沙汰に廊下で赤城の登校を待っていると、イヤホンをしたまま登校してきたちーちゃんが声をかけてくれた。
「白戸君おはよ。赤城? まだ会えてない?」
「ちーちゃん先輩おはようございます。なんだかすれ違ってしまって」
「そっか。まぁあいつあちこちの部活の助っ人やってたりするから、またどっかの部活に引っ張られてんのかもな」
「ああ、そうですね」
白戸は赤城が陸上部の助っ人をしていたことを思い出す。
もしかしたらと可能性を信じて待ってみたが、その日も予鈴が鳴るまで赤城は現れなかった。
教室の自分の席に戻った白戸は、考えたくなかった可能性にじわりと捕らわれ始めていた。
赤城先輩に、避けられているのかもしれない。
その考えを打ち消したくて、目を閉じて首を横に振る。
ちーちゃん先輩も言っていたじゃないか。赤城先輩はまたどこかの部活の助っ人に駆り出されているのかもしれない。教室に行けば会えるとばかり考えていたけど、案外教室以外の方が遭遇する可能性があるかもしれない。
白戸はルーティン化しかけていた赤城の教室への日参から巡回に舵を切り、休み時間や放課後にボールで遊んでいるグループや運動部に赤城の姿が無いか探したが、結局その日も赤城と接触することは叶わなかった。
翌日の朝も赤城の教室ではなく駐輪場や朝練中の運動部を巡回してみたが、赤城とはすれ違いすらしない。
万策尽きた白戸が2年の教室を訪ねても、やはり赤城の席はすでに空席だった。
見かねた大塚が白戸に声をかける。
「赤城だろ? またチャイム鳴ると同時に教室飛び出してったぞ」
「どこに行ったかはわかりませんか?」
「あいつ無駄に運動神経良いからなぁ。陸部ですら追いつけんのだわ」
「しかも廊下走るんじゃなくて教室の反対のベランダから飛び降りて走ってくから、誰も行き先までは予測できんしなぁ」
りんたろーがベランダを指さし、ナオヤが同意するように頷く。
「サッカーとか3on3とかも来なくなったしな。放課後の陸部の練習も、ここ2、3日顔出さねぇし」
「昼休みに食堂でも購買でも見かけなくなったし」
りんたろーの言葉に白戸は顔色を変える。
「あの……赤城先輩、お昼ごはんが食べられていないってことですか?」
「いや、それは心配いらん。俺赤城が食パン咥えて駆け抜けていくの見たわ」
とちーちゃん。
「おいおい。一昔前の漫画の登場人物気取りかよ」
「いや。トリプルソフトの6枚切り1袋咥えて、左右違うジャムの瓶握り締めてた」
「逆に食欲すごいな」
大塚が呆れとも感心ともつかない表情で言う。
「あ、そういえば俺も見た。赤城、でっかい太巻き1本咥えたまま走り去ってった」
「俺も! 赤城がカステラ1本咥えて走ってんの見たわ!」
りんたろーとナオヤがそれぞれに手をあげる。
「……なんか、赤城の面白目撃情報が着々と増えてくな」
「こりゃ明日あたりはそろそろフランスパン来るだろ」
「外国アニメだと連なったソーセージとかぶら下げて走りそう」
「いや、国民的アニメでいくとお魚咥えて走るんじゃねぇの?」
ちーちゃんの目がきらりと光る。
「賭ける?」
「フランスパンにA定食bet」
「大根一本に醤油ラーメンbet」
「おいおい連なったソーセージはどこ行ったよ!」
「外国物だとありそうだけど、ガチで狙いに行くならもっと身近な食い物だろ」
「俺魚丸々一尾にコロッケパン2個bet。魚種はあえて指定無し。シラスからマグロまで何でも有りで」
「……お前らなぁ。少しは真面目に考えてやれよ」
大塚の言葉にちーちゃんがスマホを手に取る。
「もうさ。こんな時は文明の利器を使うべきだろ」
「ちーちゃん何やってんの?」
「人工知能に頼る。『動きの速い生き物(特に霊長類ヒト目ヒト科)を捕獲するためのアイデアをいくつか提案して』」
「えーと、何々? 『動きの速い生き物、特に霊長類ヒト目ヒト科(=ヒト科:ヒト、チンパンジー、ゴリラなど)のように知能が高く、警戒心が強く、運動能力にも優れた動物を捕獲することは極めて難しく、倫理的・法的な問題も強く関わってきます。そのため、合法・非侵襲的かつ倫理的な目的(例:研究、保護、医療)に限った方法を以下に提案します』。うーん。知能が高くなく警戒心が強くない霊長類で検索し直した方がいいかな」
「おい。赤城の捕獲には許可(例:動物倫理委員会の承認)がいるらしいぞ」
「『餌で誘引してトラップ。もしくは吹き矢か麻酔銃』」
「『鏡や音声などを使った知的な誘引。霊長類は知的刺激に興味を示す(例:自分の姿が映る鏡、他個体の鳴き声)』か。鏡は女子に借りるとして、他個体の鳴き声は誰が担当するよ?」
「ちーちゃんお仕事でーす」
「残念。担当はギターでーす。つっちー呼んで来いよ。あいつシロテテナガザルとホエザルの鳴き真似プロ並みだぞ」
「いや。それ本物のサル呼び込むんならいいけどさ」
完全に遊びモードに突入した3人を横に、大塚が指先で自身の額をコリコリと掻きながら言う。
「ま。無理に追い回して怪我人出すのも本末転倒だし、ほとぼりが冷めれば捕まるだろ」
白戸は消え入りそうな声で「……いえ」と小さく呟いた。
「もう大丈夫です。もし赤城先輩と話すことができたら、「もう追い掛け回すような真似はしないので安心してください」とお伝えいただけますか?」
「え? あ、えーと……。いいのか? それで」
「はい。大塚先輩も、ちーちゃん先輩もナオヤ先輩もりんたろー先輩も、皆さん色々ご協力くださってありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
白戸は深々と一礼をして、教室を後にした。心なしかいつもぴしり、とした背中が、今日はしょんぼりと丸まって見える。
「いやいやいや良くないよねこういうの、絶対良くないって! 何あれ喧嘩? ねぇ、何があったか聞いてないの? 大塚!」
ナオヤが背後から大塚の両肩を握って揺さぶるが、大塚は首を横に振る。
「別に今までだって白戸が少々不遜な態度取ったところで赤城は怒るようなタイプじゃなかったろ?」
「確かに。赤城と白戸君じゃ喧嘩自体成立しなさそう」
とりんたろー。
「じゃあ白戸君が何か赤城を脅すようなことを?」
「あれじゃね? 予防接種にビビッて逃げる犬」
「接種時期4~6月よ? とっくに終わってるって」
ポケットからフリスクを取り出して数粒口に放り込みながらちーちゃんがぼんやりと赤城の机を撫でる。
「まぁでもほんと妙だよな。赤城が誰かを避けるなんて初めて見るわ」
差し出したナオヤの手にも数粒フリスクを振り出し、大塚とりんたろーにも手のジェスチャーのみでいるかどうかを問うてから再びポケットに入れる。ナオヤはもらったフリスクをぽりぽりと噛み砕きながら言った。
「ほんとそれ。赤城、授業中もずっとぼーっとしててさ。行動がおかしくなってからは、いまいち感情が読めないっていうか。LYINEもそもそも既読すらつかんし」
「それそれ。生物の授業なのに古典の教科書開いてたりな」
「赤城の目元のクマ見たか? あれやっぱ体調悪いの?」
「の割には元気よく走りすぎだろ」
「いや……」
大塚が昼休みにベランダから一階へとジャンプした赤城を見た時は、数日前なら着地後すぐに走り出していったところだったが、今日は着地の体勢が崩れ、数歩よろけてから走り始めた。
「いよいよ本格的に怪我する前に、調整かけるべき、か」
大塚はルーズリーフを一枚取り出し、「白戸から伝言『もう追い掛け回さないので安心してください』だと」と書いて赤城の机の上に置く。
「なるほど。スマホも直接の話し合いも難しいなら、古典的だけどこれしかないか」
ちーちゃんが関心したように頷き、ナオヤがぽつりと呟く。
「白戸君に追い掛け回されなければ、赤城、前みたいに一緒に遊べるかなぁ?」
「どうだろうな。前見た時は、白戸君が付いて回ること自体、むしろ喜んでるように見えたんだけどな」
ちーちゃんはナオヤの頭をぽんぽんと軽く叩く。ナオヤは煩わし気にその手を払った。
「おいやめろ! 縮んだらどうする!」
「ごめん。りんたろー、俺の代わりにナオヤ伸ばしといて」
「こんな感じでいいかな」
りんたろーが大きな手でナオヤの頭を真上から鷲掴み、そっと上に引っ張る。
「吸引分娩みたいなんやめろ! 胎児期から新生児期思い出すわ!」
「おぐっ……!」
肘鉄を脇腹にまともに食らい、りんたろーが身体を折って静かに蹲った。
不意に授業開始のチャイムが鳴り、教室に戻ってくる生徒達の一番最後にふらりと赤城が教室に入ってくる。席に戻った赤城は机の上のルーズリーフを手に取り、何度か読み返した後で大塚を振り返る。何か言いたげに赤城が口を開きかけたが、折悪しく社会科の教師が大きな掛図を手に教室に入ってきた。
「おーい。休み時間終わってるぞー。きちんと席に着けー」
結局赤城はルーズリーフを握りしめたまま体の力が抜けてしまったかのように、すとん、と席に着いた。
「すみません! 気分が悪いので保健室に行ってきます!」
白戸は教師の返事も待たずに教科書とスマホを手に音楽室を飛び出し、渡り廊下を抜けて階段を上がり、真っ直ぐに2年の教室へと走る。
「大塚先輩!」
教室の後ろのドアを勢いよく開けると、自習中だったらしい教室中の視線が白戸に集まる。
「白戸⁉ さっきLYINEで送った通り、赤城がふらついて倒れかけて……」
「赤城先輩は!?」
「掛図の角に顔面ぶつけて鼻血出して……。結構な量出血してたから取りあえず保健室に連れて行こうとしたんだけど、あいつ急に走り出してな。保健室と真逆の方向に走ってったから、どこに行ったんだかわからなくて……。今授業担当してた先生が自習にして捜しに行ってるけど、俺らでも捕まえられない赤城を先生が捕まえられるとは到底思えないし……。一応赤城が飛び出してすぐにナオヤが後追いかけたんだけど」
「ごめん、白戸君。見失ったわ。こうなるんだったらこの前から昼休みに赤城が走ってった場所、無理矢理追いかけてでも特定しとけばよかったんだけど……」
大塚の隣でナオヤがしょんぼりと項垂れる。
「たらればを今言っても意味が無いだろ。それにいつも昼休みに赤城が走っていく方向とも違うみたいだったし」
とちーちゃん。
「確かに。ベランダジャンプじゃなくて、一応今日は廊下に向けて飛び出してったな」
りんたろーが指差した廊下の方向を白戸も見つめる。確かに保健室とは逆方向だ。
「わかりました。ありがとうございます。捜してみます」
「俺らもそれぞれに散って捜してみる。見つかったらLYINE入れるから」
「はい。お願いします」
大塚達と別れ、りんたろーに教えてもらった方向に廊下を辿る白戸は、数メートル先の小さな赤黒い点に視線を奪われた。
大塚先輩は、赤城先輩が鼻血を出したと言っていた。もしかしたら。
しゃがみ込んで確認すると、半分だけ丸く、半分は伸びたような歪な形の模様。白戸は伸びた形の方向へと目を皿のようにして廊下を進む。
あった。先の血の跡からだいぶ離れてはいるが、先ほど同様に半分だけ丸く、半分は伸びた形。廊下の端で上下に分かれる階段に行き当たり、上下どちらに行くか逡巡したが、踊り場に血の跡を見つけた白戸は下の階へと向かう。ほどなくして白戸は、白戸の教室前の廊下に蹲る赤城の姿を見つけた。
「先輩!」
白戸の声に弾かれたように顔をあげた赤城は、後ろ手に壁を支えにしながらゆっくりと立ち上がる。白い壁にべたりと赤い血の手形が付いたのを見て、白戸は総毛立った。大塚からは赤城が顔面をぶつけて鼻血を出したという情報しか入っていないが、それ以外でどこか怪我でもしているのだろうか。悪い妄想に押し潰されそうになるのを耐えながら、白戸は赤城のもとに駆け寄った。
金曜日の夜以来、土日を挟んで5日振りに見た赤城は目の下にクマをこさえ、頬も少し痩せたように見える。
「……しら、」
白戸の顔を見て口を開きかけた赤城は、俯いて首を横に振る。ぱたた、と音を立てて床と赤城自身の上履きにも血が零れ落ちた。
「赤城先輩。取りあえず、鼻血だけ止めちゃいましょう。ちょっと待ってくださいね。今用意しますから」
……冷静に。あくまで冷静に。自分に言い聞かせながら白戸は教室に入り、机の横のフックにかけてあるいつもの救急箱を開け、使い捨ての冷却パックと脱脂綿を取り出した。
逃げられませんように、と心の中で願いながら、赤城に歩み寄る。
出血しているのは右の鼻のみ。失礼します、と一言断りを入れ、脱脂綿を出血している方の鼻に詰める。使い捨ての冷却パックを赤城の鼻にあてながら、残りの脱脂綿で顎まで垂れた血液を拭う。
「喉に逆流しちゃうんで、上は向かず、下を向いたまま小鼻を指で摘まんで押さえてください。5分くらいで止まると思います」
大人しくされるがままに赤城は鼻にあてられた冷却パックを受け取り、パック越しに小鼻を指で押さえた。
顎にまで垂れた血液は雫状に形作られたまま既にゼリー状に赤黒く固まりかかっている。カッターシャツの胸元と上履きに付着した血液は落ちるだろうか。まだ乾いていない今なら落ちやすいかもしれない。ウエットティッシュも持ってはいるが、カッターシャツと上履き両方を拭くほどの量は足りないだろう。脱脂綿を少し多めに濡らしてこようと白戸が歩み始めた瞬間、赤城の手から冷却パックが滑り落ちた。
「待って、白戸」
聞いたこともないような、掠れて弱々しい声。赤城は不安気な表情で白戸に向かって伸ばしかけた手を、引っ込めてよいのかそのまま伸ばしてよいのか逡巡して宙で泳がせる。
「……垂れちゃった血を拭きたいので、脱脂綿を濡らしてきますね。一緒に行きますか?」
無言のまま微かに頷いたように見えた赤城の指先を、白戸は息を止めたままそっと掴んだ。今更ながら、逃げられないことに白戸はそっと安堵の息を漏らす。手を繋ぐ、というにはあまりにもささやかな、赤城の指先だけ白戸が握った状態で、手洗い場に移動する。何ら抵抗も逃げる様子も見せず、赤城は静かに後ろについてきた。
「先輩の手にも血が付いているみたいですけど、鼻以外にどこか痛い所はありますか?」
言われて初めて気が付いた、という様子で赤城は自身の手を不思議そうにぼんやりと見つめ、首を横に振る。
「わかりました。手を洗いましょうか」
握っていた手をそのまま蛇口に誘導し、固まりかけた血液を流水で濯ぐ。ハンドソープをつけると石鹸の匂いに混ざって不思議と濡らす前より金気臭い匂いがして、ピンク色の泡が立った。ハンドソープを洗い流し、持っていたハンカチを手渡してから、水で濡らした脱脂綿で赤城の鼻から顎にかけて垂れた血液を拭いていく。顎で固まった雫状の血液は脱脂綿越しに摘まんで取ると、水分にふやけて脱脂綿の中で赤黒く広がった。顔がある程度小綺麗になったところで、カッターシャツと上履きに取り掛かろうとしてはた、と手が止まる。
「先輩。直接脱脂綿で濡らすと冷たいと思います。体操服を取ってきますんで、ちょっと待っててもら……」
「……白戸」
思い詰めた表情で名前を呼ばれ、白戸は思わず居住まいを正す。
「……はい」
赤城は体を半分に折り、白戸に深々と頭を下げた。
「ごめん」
……ごめん、ごめん。ごめん……。
白戸は赤城からの謝罪の言葉を、ゆっくりと頭の中で数回反芻し直した。赤城から謝られるようなこと、すなわち、この前の白戸の告白に対しての答え、だ。
白戸は俯いて、きゅ、と唇を引き結んだ。
大丈夫。ここ数日避けられていたことから、覚悟はしていた。そもそも好きだとなかなか言い出せなかったのも、振られたり気持ち悪がられて避けられたりするかもしれないと思うと一歩踏み出す勇気が出なかったからだ。引導を渡されて、むしろすっきりする。
「……いえ。こちらこそ、勝手なことばかり言ってすみませんでした」
白戸も深々と頭を下げる。
あれほど欲しがっていた答えを聞くのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
「あの」
俯いたままの白戸の声が震える。
駄目だ。動揺するな。
自分を叱咤し、顔をあげて努めて明るい声を出す。
「勝手ついでに、我儘言わせてもらってもいいですか? よかったら僕が言った告白を無かったことにして、前みたいな関係に戻らせてもらえませんか?」
未練がましいと嫌がられるだろうか。それとも気持ち悪いと拒絶されるか。
考えろ。どんな言い回しをしたら、少しでも傍にいられるか。
「変な意味ではなくて、純粋に心配なんです。先輩が怪我をしてないか、とか、具合が悪くなってないか、とか。あの、せめて、今救急箱に入ってる分の治療道具消費しきるまで、とかでもいいです。僕だけでは一生かかってもあの量の絆創膏とか使い切れなさそうですし、それに……」
「……嫌だ」
静かに返された一言に次の言葉が音も無く掻き消され、糸のように細い息を吐き出すことしかできなかった。
嫌、ですか。
できることなら上滑りして零れた言葉を拾い集めて葬り去ってしまいたい。万に一つの可能性に賭けたのに、完全に玉砕だ。
全身の力が抜けてしまいそうになる。不意に強い力で手を握られ、顔をあげた白戸は泣きそうな顔の赤城と目が合った。
「ごめん。白戸。避けるみたいな真似して。でも、お願い。俺のこと「好きだ」って言ってくれたこと、無かったことにしないで」
「……へ?」
予想外の言葉に、白戸は間の抜けた返答しかできなかった。
「あれから、ずっとぐるぐるして、考えが纏まんなくて」
握られた手が、すごく熱い。
赤城は大きく息を吸って、吐いて、目を閉じて寄り掛かるように白戸の肩に額を乗せた。
「俺が怪我する度にいつも白戸が来てくれるの、嬉しくて。でも、周りの奴らからは甘えすぎとか、いつか白戸に彼女ができたら譲ってあげないと、とか言われてるし。でも俺、白戸と一緒にご飯食べるのとか楽しいし。白戸のこと考えたら、自分で自分のことできるようにならなきゃいけないのにって。でもそうなったら白戸と離れなくちゃいけなくなるって。白戸から好きって言ってもらえて、だったら他の人に譲らなくていいじゃんとか考えたんだけど、それは俺だけの都合が良い考えだし。そう考えたら、なんか眠れなくなって。ずっと頭がぐるぐるして。でも、顔合わせて何て言ったらいいかわかんないし。今日も顔ぶつけて鼻血出て、そしたら白戸に会いに行く理由できたって嬉しくて、でも教室来たら白戸がいなくて……」
耳元で紡がれる言葉に、白戸は赤面する。
握られた手に、肩を温める体温に、自惚れてもいいのだろうか。
「俺、好きって言われて嬉しいのに、無かったことにされるのとか、絶対に嫌」
「……あ、赤城先輩、それって、……う、わ!」
肩にかかる重量が急に増加し、重心のバランスが取れずに白戸はたたらを踏む。
「あの、せんぱ……?」
「あーっ!! 見ーっけ!!」
廊下いっぱいに場違いな大声が響いた直後、ぱぁん!と何かを叩く小気味良い音が響き渡る。
「他クラスまだ授業中だし、俺らも自習で教室待機ってことになってんだよ!」
「そうだったわ! でもさすが赤城係! 白戸君確保おつー!」
「やっぱり白戸が見つけたか」
廊下を走ってくるナオヤと少し遅れて大塚が速足で歩いてくる。
「で、どったの? これ?」
「あの、僕にもよくわからないんですが、もしかしたら赤城先輩、寝てませんか?」
「おーい、赤城ー」
「生きてるかー?」
ナオヤと大塚がそれぞれ赤城の顔をのぞき込んだり肩を叩いたり脇腹を指先で刺したりしていたが、結論として二人ともが同意の意味を籠めて頷く。
「白戸君の言う通り、たぶん寝てる」
「間違いないな」
「やっぱりそうですか。さっきあんまり眠れてないって話してたんで、もしかしたらとは思ってたんですが」
耳元からは規則正しい健やかなる寝息が聞こえてくる。
「なぁんだ。単なる睡眠不足か。赤城、起きなー? このままじゃ白戸君が可哀想ー」
「起きないな。保健室にでも放り込むか」
「運ぶ? どうする? 3人いるから騎馬戦スタイル?」
「やんねーわ! りんたろー呼ぶ。あいつなら赤城運べるだろ」
大塚がスマホで呼び出しをかけると、ほどなくしてバタバタと走る足音が近づいてくる。
「なんだよ。やっぱ白戸君とこか。またちーちゃんに負けたわ」
そう言いながらりんたろーがポケットから出したグミの袋をちーちゃんに差し出す。
「帰巣本能かな。まいどありー」
「りんたろー。悪いけどこれ保健室まで運んでくれないか? さっきから起こそうとしてみたけど完全眠りこけてて起きんのだわ」
「おっけ。背負うからこっちにやって」
大塚とちーちゃんが赤城の上半身を抱え起こし、りんたろーの背中に寄り掛からせる。
白戸は赤城の体温が肩から離れていくのを密やかに心寂しく思っていたが、りんたろーがよいしょ、と赤城を背負いあげた時につん、と引っ張られ、まだ手を握られっぱなしだったことに気付いた。
「あれ? 赤城ー? 手ぇこれどうしたのよ?」
ナオヤが赤城の手を掴んでぶらぶらと揺らしてみたが、がっちりと握られていて放す気配は無い。
「ああ、無理して外さなくていい。保健委員副委員長。保健室まで付き添い頼めるか? 俺は授業担当してた先生に赤城確保の連絡入れてくるから」
「はい」
「りんたろー。重いだろうけど頼むな」
「あーい」
「俺とナオヤは赤城がずり落ちた時用の補助要員で保健室まで送り届けてくるわ」
「じゃな大塚。また後で」
「おう。ご安全に」
大塚と離れた後、時折授業の音が聞こえる静かな廊下を抜け、渡り廊下を抜けて、保健室のドアをノックした。
はーい、と聞き覚えのある声がして、ドアが開く。
「あらあら。常連さんが、今日はずいぶんと大所帯ね」
よっぴーが顔を覗かせると、消毒液とハーブティーが混ざった匂いがふわりと廊下に溢れた。
「赤城先輩が顔面をぶつけて鼻血を出したそうです。簡単な処置はしました。たぶんそろそろ血は止まったと思うんですが、寝不足も重なってしまったみたいでそのまま寝入ってしまったので、少し休ませてもらえませんか?」
「はいはい。わかりました。奥のベッドまで運んでもらえる?」
カーテンを開けた壁沿いのベッドに移動し、ちーちゃんとナオヤ、白戸の補助でゆっくりと赤城を降ろす。
「すげぇな赤城。全然起きんわ」
「ほんと。よく見たらクマすご。何日寝てないんだか。白戸君の手もずっと握ったままだし」
ナオヤが頬っぺたを引っ張ってもりんたろーが目の下のクマを撫でても、赤城は一向に目覚める気配が無い。
「まぁただの寝不足なら、少し寝りゃ復活するっしょ。じゃ、俺らは教室帰るか」
「そだな」
立ち上がって伸びをするナオヤとりんたろーをよそに、ちーちゃんはじっ、と白戸の顔を覗き込む。
「あれ? 白戸君、ちょっと顔色悪くない?」
わざとらしいセリフにナオヤとりんたろーも便乗する。
「あ、ホントだ。ちょっとこっち座りな」
「こっちこっち」
寝ている赤城の枕元をポンポンと叩かれ、白戸は動揺する。
「え? え、でも、あの」
「うーん。熱は無いみたいだけど、貧血かなぁ?」
「白戸君偏頭痛持ちって言ってたし、少し休んでいった方がいいよ」
「ね、よっぴー。白戸君も具合悪いみたいだし、少し休んでっていいよね?」
「あら、だったらこっちのベッド用意しましょうか?」
心配そうに覗き込むよっぴーに、棒演技の三人組が揃って首を横に振る。
「大丈夫。邪魔にならないように赤城は小さめに丸めとくし」
「そうそう。他のベッドは他の子が来た時用に空けといたげて」
「白戸君もちょびっと休んでいくだけだから、ここで大丈夫だよね?」
「えと、あ、はい。大丈夫です」
首を傾げるよっぴーに、白戸も同じ角度に首を傾げ、偏頭痛、と言われたことを思い出して慌てて空いている方の手の平をこめかみにあてて見せる。
「まぁ本人がそれでいいならいいわ。私は仕上げなきゃいけない書類があるから、何かあったら声をかけてね」
「はい。ありがとうございます」
背中を向けて机に向かったよっぴーを見て、ちーちゃんは白戸に親指を立てて見せ、白戸の頭をくしゃりと撫でる。
「俺たち教室帰るから、赤城のことよろしくな」
りんたろーもちーちゃんに続いて無言で白戸の頭を撫で、それを見てナオヤも手を伸ばして白戸の頭を撫でていった。
「白戸君もお大事にな」
あっと言う間に仕切りのカーテンが引かれ、三人組が失礼しましたー、と言いながら保健室を出ていく気配がする。ドアが閉まると、カーテン越しによっぴーが書類を書くさらさらという音とポットのお湯がこぽこぽと沸く音、あとは規則正しい赤城の寝息だけが取り残された。
白戸は赤城を起こさないよう、心の中だけで、失礼します、と断りを入れてそっと赤城の枕元に腰かける。
仮病、とか。赤城先輩の所に行く以外、自分のためには初めて使った。一人だったら絶対バレてたな。と、白戸は独り言ちた。
先輩方と自分の精一杯の演技力でもぎ取った貴重な時間。
白戸は握られたままの手を、そっと握り返す。握られたままの手と、眠っている赤城の目の下にできたクマ。それらがすべて自分に向けられた物だと知り、白戸は改めて自分の足掻きが無駄でなかったと微笑んだ。
