目を閉じれば、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
受験生ってただでさえ不安定だ。ましてや家族の、それも一家の大黒柱が生死をさ迷っている状況ともなれば。
高校の推薦受験の日は、みぞれがそぼ降る陰鬱な朝だった。
垂れ込めた雲は日光を遮り、カイロを左右のポケットに入れても底冷えがして足元が凍りつきそうに重い。奥歯が噛み合わず、カチカチと小刻みに鳴る。白い息を吐きながら緊張に頬を染める他の受験生達と比べ、僕はさぞや不健康そうに見えることだろう。
鞄からスマホを取り出し、着信が無いか確認する。もし今日父の容体に異変があったとしても、きっと試験が終わるまでは連絡が来ることはない。わかっていても、確認せざるをえなかった。
「受験生はこちらから試験会場に入室してください」
誘導の係員に促されて受験生がぞろぞろと校舎内に入る頃、引率の先生にトイレに行くと断りを入れてスマホをポケットに入れたまま外に出た。見つからないよう校舎の陰に隠れてスマホの画面を確認する。
着信は無い。
わかっている。こんなことをしている場合じゃない。小論文と面接に集中しなければ。そう思うのに、胸の奥が冷えて大きな氷を飲み込んでしまったみたいに、何も考えられない。
スマホを握りしめたまま、その場にずるずると座り込む。
もう嫌だ。何もかも投げ出して、逃げてしまいたい。
言い知れぬ不安に飲み込まれて、体ごと冷えて固まってしまう。
寒い。
怖い。
嫌だ。
目蓋を強く閉じると、涙が零れ、頬を冷たく濡らした。
どれくらいそうしていただろう。
不意に近付いてきた足音に追い詰められた小動物のようにきゅうっと体を丸めて縮こまらせる。
お願い。見つかりませんように。
願いとは逆に足音は僕の目の前で立ち止まり、音もなく温かい手がふわりと頭を撫でた。
「どうしたの? 具合悪くなっちゃった?」
優しい声に、そっと目を開き、顔をあげた、瞬間息を呑んだ。
「大丈……」
「だっ……! 大丈夫っ⁉ ですかっ……⁉」
「へ……?」
「血っ‼ 血がっ‼」
思わず聞き返してしまうほど、目の前の笑顔の人物は顔の半分が血だらけだった。
「あ、これ? おどかしてごめん。さっきサッカーやってたら接触した時に相手のスパイクが頭かすったみたいでさ」
そう言うと、血塗れ男はツリ目がちの目でにこにこと笑いながらウェアを引っ張り揚げてゴシゴシと顔を拭う。
「まぁ、唾でもつけときゃ治るよ。それより君……」
「いや、そんなレベルの出血じゃないですよ! あの、救急車呼びますね!」
「あー、大丈夫大丈夫。頭ってそもそも結構派手に出血するんだよね。でも皮膚かすっただけで、頭自体はそんなにぶつけてないから」
「じっ……じゃあ、せめて傷口だけでもなんとかしないとっ。あのっ、保健室! 行きましょう!」
「あー。うん、そだね。もし嫌じゃなかったら、保健室まで付き添いお願いできる?」
「はい!」
血塗れの人はウェアの汚れていないところでゴシゴシと拭いた手を差し出す。差し出された手を握ると、優しく、でも力強く引っ張りあげられた。
「保健室けっこう遠いから、申し訳ないんだけどさ」
「いえ! お気になさらず!」
手を繋いだまま2人で歩く。血塗れ男の手は、お日様のようにポカポカとあたたかかった。
「あの……痛い、ですよね」
「んーん。見た目よりは思ったほど痛くないよ。あ、垂れてきちゃった」
「あっ! あの、ちょっと待ってくださいね」
ポケットからハンカチを取り出し、血塗れ男の顎まで垂れた血液をそっと拭う。
「おわー。ごめんね。ハンカチ汚しちゃった」
「いえ。よかったら使ってください」
「ありがと。洗って返すね。ええと、俺、赤城っていうんだけど……」
「あ。白戸です」
「しらとくん、しらとくん。ん。覚えた」
赤城は嬉しそうに、にこ、と笑う。白戸の心臓が、コトリと小さく跳ね上がった。
「しらとくん。保健室ここね。おーい! よっぴー! よっぴー開けてー!」
赤城が校舎一角の勝手口のような扉を叩くと、ほどなくしてスライド式のサッシの扉が開き、眼鏡をかけた小柄な白衣の年配の女性が顔を覗かせる。
「あらぁ! 赤城君、今日もまた派手にやったわねぇ!」
「サッカーやってたらスパイク当たったー。ね、よっぴー。シゲちん来てる?」
「まだだけど、もうすぐ来ると思うから中で治療がてら待ってたら」
「ありがとう。そうさせてもらう。しらとくん、靴そこで脱いで、こっちおいでおいで」
「あ、はい」
サッシ戸を抜けると温かい空気が頬を撫でた。加湿器からか、ハーブのような香りがする。
養護教諭らしき白衣の女性は洗面台で手を洗いながら二人に椅子を勧める。
「はいはい。赤城君そこ座って患部見せてね。あなたもこっちの椅子どうぞ」
「はぁい」
「ありがとうございます」
用意された椅子に座ると、よっぴーは首からかけていた眼鏡をかけ、ペーパータオルで濡れた手を拭いてから赤城の顔を覗き込む。
「で、今日はどこって?」
「ここのこめかみんとこ」
「あー、スッパリいってるわー。これ縫ってもらったほうがいいかもよ? ちょっと触るね」
よっぴーは指先で赤城の髪を分けて患部を調べる。
「んー。縫う時の糸のジジジ、ってなる感触あんま得意でないんだよね。よっぴーのお力でなんとかなんない?」
「血が止まって安静にしとけば、そんなに動かす部位でも無いからテープ貼ってお医者さんと要相談かな。私ができるのはあくまで応急処置。たんこぶとかはできてないみたいね」
「うん。頭は打ってない。皮膚表面かすっただけ」
「よしよし。じゃ、消毒と止血、あとは縫合回避のステリね」
よっぴーはテキパキとカートを引き寄せ、ステンレスの綿花缶をパチンと開けてピンセットで綿花を取り出し、別の瓶から消毒液を染み込ませる。
「ちょっとしみるからねー」
よっぴーは優しげな笑顔から一転、表情が変わり、眼光が鋭く光る。
「では、お覚悟召されい!」
「ひと思いにお願いします!」
「うむ! 赤城某、その心意気や潔し! えい!」
ぺち!
「……っ‼ んにゃあぁぁあっ‼ 覚悟してたけどめっちゃしみるぅう‼ よっぴー優しくしてぇぇぇ‼」
「ええい、往生際の悪い‼ 覚悟を決めたと申したではないか‼ いざ神妙にいたせぃ‼ うりゃうりゃうりゃあっ‼」
「いやあぁぁっ‼」
……えーと? 何、このやり取り?
僕、今何見せられてるの?
「あああ……無理かも……耐えられない……。しらとくんヘルプぅ……」
「はっ! はいっ!」
白戸は、よよよ、と伸びてきた赤城の手を思わず握る。
「あの、お気を確かに」
「ありがと。めっちゃ優しい」
半べその赤城によっぴーは新たな脱脂綿を構え、不敵な笑みを浮かべながら容赦無く迫りくる。
「ふはははは! これでトドメよ‼」
「いやぁっ‼ よっぴーもう勘弁してぇっ‼」
「あわゎ……! あのっ、あのうっ……‼」
赤城を背中に庇いながら白戸が慌てふためいている時、ガラリと引戸が開かれた。
「こらー。廊下まで音漏れてんぞー」
ジャージ姿の短髪胡麻塩頭の男が顔を覗かせる。
「ああっ‼ シゲちん!」
渡りに船とばかりに赤城は逃げの体勢に入る。
「やっぱお前か、赤城。ってか、いい加減先生って呼んで?」
「もう! シゲちん来るの遅ーい! ちょっとこっちこっち!」
「言っとくけど、俺お前と待ち合わせなんかしてねーからな? あ。よっぴー先生、すぐ戻りますんで」
「はい。準備しときますね」
赤城に引っ張られてシゲちんは廊下へと連行される。
「……ふぅ。患者が逃走したから治療は一旦休止ね。お茶淹れるから、あなたも一緒に飲んでいきなさい」
「はい。ありがとうございます。……あの、さっきの、赤城さん? は、いつもあんな感じなんですか?」
「ああ。あの子常連でね。ノリが良いからつい遊んじゃう。ええと、白戸君? アレルギーとか大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「お口に合うといいんだけど」
「ありがとうございます」
手渡された湯飲みに入っていたのは、予想に反した蜂蜜入りのジンジャーティーだった。一口飲むと、喉の奥からほわり、と体が温まる。
「おいしいです」
「ふふ。良かった」
赤城がいなくなると、おふざけモードだったよっぴーは、年齢相応の落ち着いた雰囲気でゆったりとお茶をすする。加湿器の湯気と電気ポットのお湯が沸くポコポコという柔らかい音に包まれ、手の平を温めるジンジャーティーは甘く優しかった。
パタパタと足音が近づき、引戸が開かれ、スマホを手にしたシゲちんが再び顔を覗かせる。
「ええと、君。北中の、白戸天史君、かな?」
「はい!」
名前を呼ばれて思わず直立する。
「ああ。いい、いい。お茶飲み終わってからで。体調は悪くない?」
「はい。大丈夫です」
「あー、……と。知ってるかもしれないけど、今もうすでに小論文の試験が始まってる。開始から15分以上経過してるから合流は難しいけど、事情が事情だから、特別に小論文は別室受験という形で部屋を用意してもらうことになった。で、面接は順番繰り下げという扱いだ。それを飲んだら、教室に案内するから」
「はい!」
慌てて残りのジンジャーティーを流し込む。
「よっぴー先生、ごちそうさまです。あの、すごくおいしかったです」
「お粗末さまです。白戸君。試験、頑張ってね」
「はい! ありがとうございます!」
「よし。じゃ、行こうか」
「はい! よろしくお願いします、ええとシゲちん先せ……」
「繁森先生、な。おい、赤城。妙なあだ名浸透させようとすんなよ」
ため息混じりのシゲちんと対照的に、赤城はけらけらと笑う。
「えぇー? なんかシゲちんはシゲちんって感じしかしないんだけどなー」
「友達かよ! 頼むから先生って呼んで? この年でシゲちんはいい加減キツいわ」
「大丈夫! まだまだシゲちんで全然イケてる! それより白戸くん、付き合わせてごめんね。ハンカチ、洗って返すから」
「あ、えと、はい」
「じゃ、白戸君はこっちに。赤城はちゃんとよっぴー先生に治療してもらえよー」
「ふゎーい」
あ。どうしよう。
このままじゃ駄目だ。
このまま別れたら、絶対後悔する。
「あの! 赤城さん!」
白戸は気づけば自分でも驚くくらいの声量で思わず赤城を呼び止めていた。
「はい! なんでしょう、白戸さん!」
つられて赤城も姿勢を正す。
「僕、絶対、この学校に来ます! もし今日の小論文と面接落ちても、筆記試験で……、それでもし落ちても、来年受験してでも絶対にこの学校に来ます! だから……、だからっ……‼」
ああ、何言っちゃってるんだろう。全然考えがまとまらない。頭の中がぐちゃぐちゃで。
白戸が泣きそうになった時、赤城がへにゃり、と笑顔を浮かべた
「うん! 白戸君と一緒に学校に通えるの、楽しみに待ってる!」
「…………はいっ‼」
ドキドキする。吸い込む空気が甘く感じる。
赤城さんの笑顔がキラキラして、太陽みたいにあたたかくて。こんなに気分が高揚するのって、何年ぶりくらいだろう。
絶対、絶対にまた会いに来るから。
白戸はぺこり、と頭を下げて、笑顔の赤城とよっぴーに見送られながらシゲちんの後ろについて廊下を歩いた。
「いやー。すまんね、白戸君。赤城の付き添いに巻き込まれたって?」
「え? あ、いえ。どちらかというと僕の方がお世話になって……」
「んぁ? はあぁーん? なる程。そういうこと、ね」
シゲちん、こと、繁森先生は、意味ありげにちらりと後ろを振り返る。
「えーと。一応ね、そういう話にしとこっか。うちの問題児が通りすがりの受験生に世話になったって方が、お偉方に聞こえがいいから」
「……あ、はい。わかりました」
「赤城め。一丁前に良い格好しやがって」
ふひひ、と笑った繁森は、いいことを教えてやろう、と白戸にもったいつけて言う。
「喜べ。赤城は今一年だ。白戸君が今年受験に合格すれば、あと2年は一緒に通えるぞ」
「……っ! はい! 頑張ります!」
結局小論文も面接も準備不足で散々な結果の挙句不合格となったが、そこから猛勉強し直して宣言通り筆記試験で合格し、なんとか先輩と同じ高校に通うことができるようになった。あの日一時的に危篤状態となっていた父もその後意識を回復し、天国へと見送るまでの数か月間を受験生として本腰を入れて勉強に取り組む姿を見せ、合格の報せを一緒に喜ぶことができた。
受験生ってただでさえ不安定だ。ましてや家族の、それも一家の大黒柱が生死をさ迷っている状況ともなれば。
高校の推薦受験の日は、みぞれがそぼ降る陰鬱な朝だった。
垂れ込めた雲は日光を遮り、カイロを左右のポケットに入れても底冷えがして足元が凍りつきそうに重い。奥歯が噛み合わず、カチカチと小刻みに鳴る。白い息を吐きながら緊張に頬を染める他の受験生達と比べ、僕はさぞや不健康そうに見えることだろう。
鞄からスマホを取り出し、着信が無いか確認する。もし今日父の容体に異変があったとしても、きっと試験が終わるまでは連絡が来ることはない。わかっていても、確認せざるをえなかった。
「受験生はこちらから試験会場に入室してください」
誘導の係員に促されて受験生がぞろぞろと校舎内に入る頃、引率の先生にトイレに行くと断りを入れてスマホをポケットに入れたまま外に出た。見つからないよう校舎の陰に隠れてスマホの画面を確認する。
着信は無い。
わかっている。こんなことをしている場合じゃない。小論文と面接に集中しなければ。そう思うのに、胸の奥が冷えて大きな氷を飲み込んでしまったみたいに、何も考えられない。
スマホを握りしめたまま、その場にずるずると座り込む。
もう嫌だ。何もかも投げ出して、逃げてしまいたい。
言い知れぬ不安に飲み込まれて、体ごと冷えて固まってしまう。
寒い。
怖い。
嫌だ。
目蓋を強く閉じると、涙が零れ、頬を冷たく濡らした。
どれくらいそうしていただろう。
不意に近付いてきた足音に追い詰められた小動物のようにきゅうっと体を丸めて縮こまらせる。
お願い。見つかりませんように。
願いとは逆に足音は僕の目の前で立ち止まり、音もなく温かい手がふわりと頭を撫でた。
「どうしたの? 具合悪くなっちゃった?」
優しい声に、そっと目を開き、顔をあげた、瞬間息を呑んだ。
「大丈……」
「だっ……! 大丈夫っ⁉ ですかっ……⁉」
「へ……?」
「血っ‼ 血がっ‼」
思わず聞き返してしまうほど、目の前の笑顔の人物は顔の半分が血だらけだった。
「あ、これ? おどかしてごめん。さっきサッカーやってたら接触した時に相手のスパイクが頭かすったみたいでさ」
そう言うと、血塗れ男はツリ目がちの目でにこにこと笑いながらウェアを引っ張り揚げてゴシゴシと顔を拭う。
「まぁ、唾でもつけときゃ治るよ。それより君……」
「いや、そんなレベルの出血じゃないですよ! あの、救急車呼びますね!」
「あー、大丈夫大丈夫。頭ってそもそも結構派手に出血するんだよね。でも皮膚かすっただけで、頭自体はそんなにぶつけてないから」
「じっ……じゃあ、せめて傷口だけでもなんとかしないとっ。あのっ、保健室! 行きましょう!」
「あー。うん、そだね。もし嫌じゃなかったら、保健室まで付き添いお願いできる?」
「はい!」
血塗れの人はウェアの汚れていないところでゴシゴシと拭いた手を差し出す。差し出された手を握ると、優しく、でも力強く引っ張りあげられた。
「保健室けっこう遠いから、申し訳ないんだけどさ」
「いえ! お気になさらず!」
手を繋いだまま2人で歩く。血塗れ男の手は、お日様のようにポカポカとあたたかかった。
「あの……痛い、ですよね」
「んーん。見た目よりは思ったほど痛くないよ。あ、垂れてきちゃった」
「あっ! あの、ちょっと待ってくださいね」
ポケットからハンカチを取り出し、血塗れ男の顎まで垂れた血液をそっと拭う。
「おわー。ごめんね。ハンカチ汚しちゃった」
「いえ。よかったら使ってください」
「ありがと。洗って返すね。ええと、俺、赤城っていうんだけど……」
「あ。白戸です」
「しらとくん、しらとくん。ん。覚えた」
赤城は嬉しそうに、にこ、と笑う。白戸の心臓が、コトリと小さく跳ね上がった。
「しらとくん。保健室ここね。おーい! よっぴー! よっぴー開けてー!」
赤城が校舎一角の勝手口のような扉を叩くと、ほどなくしてスライド式のサッシの扉が開き、眼鏡をかけた小柄な白衣の年配の女性が顔を覗かせる。
「あらぁ! 赤城君、今日もまた派手にやったわねぇ!」
「サッカーやってたらスパイク当たったー。ね、よっぴー。シゲちん来てる?」
「まだだけど、もうすぐ来ると思うから中で治療がてら待ってたら」
「ありがとう。そうさせてもらう。しらとくん、靴そこで脱いで、こっちおいでおいで」
「あ、はい」
サッシ戸を抜けると温かい空気が頬を撫でた。加湿器からか、ハーブのような香りがする。
養護教諭らしき白衣の女性は洗面台で手を洗いながら二人に椅子を勧める。
「はいはい。赤城君そこ座って患部見せてね。あなたもこっちの椅子どうぞ」
「はぁい」
「ありがとうございます」
用意された椅子に座ると、よっぴーは首からかけていた眼鏡をかけ、ペーパータオルで濡れた手を拭いてから赤城の顔を覗き込む。
「で、今日はどこって?」
「ここのこめかみんとこ」
「あー、スッパリいってるわー。これ縫ってもらったほうがいいかもよ? ちょっと触るね」
よっぴーは指先で赤城の髪を分けて患部を調べる。
「んー。縫う時の糸のジジジ、ってなる感触あんま得意でないんだよね。よっぴーのお力でなんとかなんない?」
「血が止まって安静にしとけば、そんなに動かす部位でも無いからテープ貼ってお医者さんと要相談かな。私ができるのはあくまで応急処置。たんこぶとかはできてないみたいね」
「うん。頭は打ってない。皮膚表面かすっただけ」
「よしよし。じゃ、消毒と止血、あとは縫合回避のステリね」
よっぴーはテキパキとカートを引き寄せ、ステンレスの綿花缶をパチンと開けてピンセットで綿花を取り出し、別の瓶から消毒液を染み込ませる。
「ちょっとしみるからねー」
よっぴーは優しげな笑顔から一転、表情が変わり、眼光が鋭く光る。
「では、お覚悟召されい!」
「ひと思いにお願いします!」
「うむ! 赤城某、その心意気や潔し! えい!」
ぺち!
「……っ‼ んにゃあぁぁあっ‼ 覚悟してたけどめっちゃしみるぅう‼ よっぴー優しくしてぇぇぇ‼」
「ええい、往生際の悪い‼ 覚悟を決めたと申したではないか‼ いざ神妙にいたせぃ‼ うりゃうりゃうりゃあっ‼」
「いやあぁぁっ‼」
……えーと? 何、このやり取り?
僕、今何見せられてるの?
「あああ……無理かも……耐えられない……。しらとくんヘルプぅ……」
「はっ! はいっ!」
白戸は、よよよ、と伸びてきた赤城の手を思わず握る。
「あの、お気を確かに」
「ありがと。めっちゃ優しい」
半べその赤城によっぴーは新たな脱脂綿を構え、不敵な笑みを浮かべながら容赦無く迫りくる。
「ふはははは! これでトドメよ‼」
「いやぁっ‼ よっぴーもう勘弁してぇっ‼」
「あわゎ……! あのっ、あのうっ……‼」
赤城を背中に庇いながら白戸が慌てふためいている時、ガラリと引戸が開かれた。
「こらー。廊下まで音漏れてんぞー」
ジャージ姿の短髪胡麻塩頭の男が顔を覗かせる。
「ああっ‼ シゲちん!」
渡りに船とばかりに赤城は逃げの体勢に入る。
「やっぱお前か、赤城。ってか、いい加減先生って呼んで?」
「もう! シゲちん来るの遅ーい! ちょっとこっちこっち!」
「言っとくけど、俺お前と待ち合わせなんかしてねーからな? あ。よっぴー先生、すぐ戻りますんで」
「はい。準備しときますね」
赤城に引っ張られてシゲちんは廊下へと連行される。
「……ふぅ。患者が逃走したから治療は一旦休止ね。お茶淹れるから、あなたも一緒に飲んでいきなさい」
「はい。ありがとうございます。……あの、さっきの、赤城さん? は、いつもあんな感じなんですか?」
「ああ。あの子常連でね。ノリが良いからつい遊んじゃう。ええと、白戸君? アレルギーとか大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「お口に合うといいんだけど」
「ありがとうございます」
手渡された湯飲みに入っていたのは、予想に反した蜂蜜入りのジンジャーティーだった。一口飲むと、喉の奥からほわり、と体が温まる。
「おいしいです」
「ふふ。良かった」
赤城がいなくなると、おふざけモードだったよっぴーは、年齢相応の落ち着いた雰囲気でゆったりとお茶をすする。加湿器の湯気と電気ポットのお湯が沸くポコポコという柔らかい音に包まれ、手の平を温めるジンジャーティーは甘く優しかった。
パタパタと足音が近づき、引戸が開かれ、スマホを手にしたシゲちんが再び顔を覗かせる。
「ええと、君。北中の、白戸天史君、かな?」
「はい!」
名前を呼ばれて思わず直立する。
「ああ。いい、いい。お茶飲み終わってからで。体調は悪くない?」
「はい。大丈夫です」
「あー、……と。知ってるかもしれないけど、今もうすでに小論文の試験が始まってる。開始から15分以上経過してるから合流は難しいけど、事情が事情だから、特別に小論文は別室受験という形で部屋を用意してもらうことになった。で、面接は順番繰り下げという扱いだ。それを飲んだら、教室に案内するから」
「はい!」
慌てて残りのジンジャーティーを流し込む。
「よっぴー先生、ごちそうさまです。あの、すごくおいしかったです」
「お粗末さまです。白戸君。試験、頑張ってね」
「はい! ありがとうございます!」
「よし。じゃ、行こうか」
「はい! よろしくお願いします、ええとシゲちん先せ……」
「繁森先生、な。おい、赤城。妙なあだ名浸透させようとすんなよ」
ため息混じりのシゲちんと対照的に、赤城はけらけらと笑う。
「えぇー? なんかシゲちんはシゲちんって感じしかしないんだけどなー」
「友達かよ! 頼むから先生って呼んで? この年でシゲちんはいい加減キツいわ」
「大丈夫! まだまだシゲちんで全然イケてる! それより白戸くん、付き合わせてごめんね。ハンカチ、洗って返すから」
「あ、えと、はい」
「じゃ、白戸君はこっちに。赤城はちゃんとよっぴー先生に治療してもらえよー」
「ふゎーい」
あ。どうしよう。
このままじゃ駄目だ。
このまま別れたら、絶対後悔する。
「あの! 赤城さん!」
白戸は気づけば自分でも驚くくらいの声量で思わず赤城を呼び止めていた。
「はい! なんでしょう、白戸さん!」
つられて赤城も姿勢を正す。
「僕、絶対、この学校に来ます! もし今日の小論文と面接落ちても、筆記試験で……、それでもし落ちても、来年受験してでも絶対にこの学校に来ます! だから……、だからっ……‼」
ああ、何言っちゃってるんだろう。全然考えがまとまらない。頭の中がぐちゃぐちゃで。
白戸が泣きそうになった時、赤城がへにゃり、と笑顔を浮かべた
「うん! 白戸君と一緒に学校に通えるの、楽しみに待ってる!」
「…………はいっ‼」
ドキドキする。吸い込む空気が甘く感じる。
赤城さんの笑顔がキラキラして、太陽みたいにあたたかくて。こんなに気分が高揚するのって、何年ぶりくらいだろう。
絶対、絶対にまた会いに来るから。
白戸はぺこり、と頭を下げて、笑顔の赤城とよっぴーに見送られながらシゲちんの後ろについて廊下を歩いた。
「いやー。すまんね、白戸君。赤城の付き添いに巻き込まれたって?」
「え? あ、いえ。どちらかというと僕の方がお世話になって……」
「んぁ? はあぁーん? なる程。そういうこと、ね」
シゲちん、こと、繁森先生は、意味ありげにちらりと後ろを振り返る。
「えーと。一応ね、そういう話にしとこっか。うちの問題児が通りすがりの受験生に世話になったって方が、お偉方に聞こえがいいから」
「……あ、はい。わかりました」
「赤城め。一丁前に良い格好しやがって」
ふひひ、と笑った繁森は、いいことを教えてやろう、と白戸にもったいつけて言う。
「喜べ。赤城は今一年だ。白戸君が今年受験に合格すれば、あと2年は一緒に通えるぞ」
「……っ! はい! 頑張ります!」
結局小論文も面接も準備不足で散々な結果の挙句不合格となったが、そこから猛勉強し直して宣言通り筆記試験で合格し、なんとか先輩と同じ高校に通うことができるようになった。あの日一時的に危篤状態となっていた父もその後意識を回復し、天国へと見送るまでの数か月間を受験生として本腰を入れて勉強に取り組む姿を見せ、合格の報せを一緒に喜ぶことができた。
