梅雨が明け、本格的に夏の暑さが厳しくなってくる。セミの鳴き声に交ざって帰り支度をした生徒達の、バイバーイ、また明日ねー、という声が隣を通り過ぎてゆく。
「いやもうね、ここまでくると才能だと思うの。俺は」
 大塚が視線はスマホの画面に留めたまま言う。
「才能? 何の?」
 問い返す赤城は痛てて、といいながら腕に一筋走った切り傷を白戸に脱脂綿で拭かれるのを大人しく座って待っていた。
「怪我だよ怪我。よく毎度そんなに出血してんなーと思ってさ。よく貧血にならんな。これだけ出血サービスしてんの赤城と家電量販店くらいだろ」
「俺だって出そうと思って出血してるわけじゃないんだけど」
「そうなんですか?」
 白戸は剥離紙を剥がし、ハイドロコロイド絆創膏をぺたりと患部に貼り付ける。
「ま。白戸が帰る前で良かったな」
「ほんとそれ。白戸、放課後までごめんな」
「いえ。ちょうど駐輪場まで行く途中だったんで」
 ぱちり、と音を立てて救急箱の蓋を締めたところで体操服を着たナオヤが駆け寄ってくる。
「赤城ー。治療終わったー?」
「おー。終わった終わった」
 なぜか誇らしげに絆創膏を見せる赤城と白戸の顔を見てナオヤは呆れ声を出す。
「なんだよ。保健室行ったかと思ったらまた白戸君呼びつけてんの? 白戸君、そろそろ赤城のことパワハラで訴えてやんな」
「いえ。パワハラとかではなく僕将来医療関係に進もうと思っているんで、むしろ赤城先輩には治療の練習に付き合ってもらってるんです」
「こんないいカモなかなかいないだろ」
 大塚が赤城を見てニヤリと笑う。
「あー……、なるほど。まぁそういう理由ならいいんだけどさ。でもな、白戸君。嫌な時はハッキリ嫌だって断っていいんだからな。忙しい時とか気分が乗らない時も、一言ピシッと「保健室行け」って言ってやっていいから、無理はすんなよ」
「はい。ナオヤ先輩、ありがとうございます」
「優しいよね、ナオヤって」
「面倒見良いですよねぇ、ナオヤ先輩ってぇ」
 白戸の後に赤城と大塚がにこやかに続けると、ナオヤが無言で二人の鳩尾目がけて突きをお見舞いした。ぐっ! ふおっ! とそれぞれからくぐもった呻き声が聞こえた。
「……大塚のは明らかおちょくってんだろ」
「ほ……褒めたのに俺までなんで……?」
「なんかムカついたから! ほら! 治療終わったんなら赤城は練習参加な。で、大塚はさっさと帰れ」
「はいはい。言われんでも帰りますわ」
「じゃーな、大塚ー」
 赤城に手を振り、苦笑いしながらスマホをポケットに入れて歩き始める大塚の背中にナオヤはしっしっと払うような仕草をする。
「僕も失礼します」
「おう。白戸君、気ぃつけてな」
「ありがとな、白戸」
「はい」
 ナオヤと赤城に一礼し、駐輪場に向かおうと踵を返しかけた白戸の前で大塚がそうだ、と言って立ち止まる。
「赤城ー。そういやさっききーちゃんが「放課後待ってるからって伝えてくれ」って言ってたぞー」
 あ、そっか。今日金曜だった、と呟いた赤城にナオヤが血相を変えて聞き返す。
「おい赤城! まだあいつと補習やってたのか!?」
「? うん」
「確か先週もだっただろ? ……大丈夫なのかよ」
「心配しなくてもきーちゃん別に怒ったりしないって。補習っつってもわりと雑談タイムだし。あ、でもだいぶ文章表現は良くなってきたってこの間褒められた」
 にこやかに報告する赤城とは対照的にナオヤの表情は晴れない。
「なぁ、英語の勉強だったら確か赤城の姉ちゃんペラペラなんだろ? 姉ちゃんに教えてもらった方がいいんじゃねぇの?」
「出雲ちゃん? スペイン語は話せるけど英語は微妙だった気がするなー。それに仕事でほとんど家にいないし」
「それじゃあ他にもさ! 確か国際科に友達の友達いるっつってなかったか?」
「ああ、サバちゃん? 最近洋食屋さんでバイト始めたって忙しそうだけど」
「誰でもいいんだよ! とにかくあいつ以外なら……!」
「ナオヤ、どうした? きーちゃんに何か気に入らないこと言われた?」
「……っ……別に、そういうわけじゃけど。でも、あいつさ、なんか……」
 言い淀んで俯いたナオヤの首筋に鳥肌が立っているのが見えた。
「……ナオヤ先輩?」
 あまりのナオヤの様子のおかしさに白戸が声を掛けると、ナオヤは顔をあげて慌てて言い繕う。
「あ……。いや、俺の考えすぎかも。赤城が何ともないなら、それでいいんだけどさ」
「あの、ナオヤ先輩。ちょっと顔色が……」
「や。大丈夫! 大丈夫だから! 走ってくりゃ治るから! な、赤城!」
 ナオヤは赤城の背中をぱしん、と一回叩いてグラウンドに向かって走っていった。
「……どうしたんでしょうか、ナオヤ先輩」
「んー?」
 赤城と、戻ってきていた大塚が首を傾げる。
「まぁナオヤは普段から人の好き嫌い激しいけど、ちょっとあそこまでは珍しいな」
「大塚もそう思う?」
 遠くまで走っていったナオヤは振り返って大きく手を振る。
「赤城ー! 早くしろよー! 補習までまだ1、2本走れるだろー!」
「わかったー! すぐ行くー!」
 ナオヤに手を振り返し、赤城は笑顔でじゃーな、と大塚と白戸に手を振って走っていった。
「ま。たまたま虫の居所が悪かっただけかもな。白戸、お疲れさん」
「あ、はい。大塚先輩お疲れ様です」
 大塚と別れた白戸は駐輪場に停めた自分の自転車の鍵を開け、サドルに跨る。
 金曜は夕方5時からにこやかマートで卵が安かったよな。あと、お風呂の洗剤が切れかけてたからドラッグストアで詰め替え買って帰らないと。
 ペダルを漕ぎ出すと、熱気を含んだ空気が髪を揺らした。通り過ぎてゆく視界の端で開き始めた民家の庭先のサルスベリが楽し気に揺れる。
 金曜の放課後の補習、か。
 まだまだ高い位置にある太陽を見て、白戸はぼんやりと考える。
 去年までは問題無かったのに、2年に進級した途端に補習が必要になった赤城先輩の英語の成績。返却されないテストの答案。笑顔や言動が胡散臭いというナオヤの英語教師に対する評価。それに何よりもあの時、首筋に鳥肌を立てたナオヤの音にならなかった口唇の動き。
『……キモチワルイ』
 脳裏に次々と浮かんでは消えていく言葉の数々を辿っていた白戸はふとある考えに行きつき、自転車を急停止させた。耳障りなブレーキ音が周囲に響く。
 ……まさか、な。
 心の中で自分の考えを否定しようとするが、それ以上に脳内に警告音のような物が鳴り響く。
 背中にじわりと嫌な汗が浮かぶのを感じた。
 まさか。でも、もしかしたら。
 白戸は自転車を方向転換させ、再び学校に向けてペダルを漕ぐ。下校途中の生徒達と次々にすれ違う。その中に顔も覚えていないクラスメートがいたのか、あれ、白戸君忘れ物?という声が聞こえたが、白戸は振り返らずに学校までの道を自転車で急いだ。駐輪場に自転車を停め、グラウンドに走る。先ほどまでいた赤城の姿は無く、他の陸上部員と思しき生徒とタイムを記録した紙を覗き込んで話し込んでいるナオヤを見つけた。
「ナオヤ先輩!」
「あれ? 白戸君?」
「すみません。さっき言ってた、赤城先輩が補習を受ける教室ってどこですか?」
「え? ああ。管理棟の3階の第一資料準備室、だけど……」
「わかりました。ありがとうございます」
 ナオヤに一礼し、白戸は管理棟に向かって走る。
 たぶん、杞憂に終わるに違いない。そう心の中で思いながらも、靴を履き替えに下駄箱まで行くのももどかしく、脱いだ靴を手に持って靴下のまま管理棟の3階まで一気に階段を駆け上がる。息を切らしたまま辿り着いた第一資料準備室は鍵は開いていたものの、電気も点いておらず、無人だった。
 膝に手を付き、肩で息をしていた白戸は額の汗を拭う。
 僕、何やってるんだろう。想像力逞し過ぎ。
 自嘲し、汗を拭って額に手をあてたまま、目を閉じて息が整うのを待つ。
 何があるってわけじゃない。ただのナオヤ先輩の好き嫌いや、単なる思い違いかもしれないし。
 遠くから運動系の部活と掛け声が響く。セミの鳴き声に混ざって吹奏楽部の名前も知らない楽器がもの寂し気に鳴いた。
 間違っていたら、後で笑い話にしてしまえばいいだけだ。
 膝から手を離し、上体を起こした白戸は埃っぽい室内に入り、後ろ手に資料準備室の扉を閉めた。部屋の奥へと進み、汚さないように靴底を上向きに返して床に置く。通学鞄を靴の隣に置いて、スマホの画面を見た。5時24分。すでににこやかマートの卵のタイムセールが始まっている時間だ。いざという時に備えて着信音が鳴らないよう、スマホの音を切る。閉め切られた空気の動きが少ない教室はじとりとした湿気を帯びていたが、日が傾きかけて来たせいか、先ほどまでより少し熱が引き、過ごしやすい気温になってきた。
 遠くから聞き馴染みのある声がした気がする。
 白戸はスマホを手にしたまま、足音を立てないように教室のドアの傍へ歩み寄り、耳を澄ませる。ごくりと唾を呑む音が響いた気がして、慌てて口元を手で覆う。
「……で、隣町の鮮度一番って道の駅に売ってる山菜稲荷がおすすめ。蕨とかタケノコが入ってて、山椒の実の醤油漬けが効いててねー」
 間違いない。赤城先輩だ。
 白戸は足音を忍ばせ、荷物を置いている教室の後ろの席の陰になる場所の床に座って身を隠す。
 ほどなくして教室のドアが開く音が響いた。
「ふぅ。放課後とはいえまだ暑いね。少しエアコン入れようか」
「やったー。入れて入れてー」
 2人分の足音と荷物を置く音、椅子を引く音に混ざってエアコンを操作する電子音が聞こえた。
「ふぃー……。極楽ぅー……」
 白戸が潜んでいる床下の埃が巻き上がり、鼻がムズムズするのを鼻を摘まんで必死でやり過ごした。
「あれ? 赤城、香水付けてる?」
「付けてないよ? あ、もしかしたら今日汗拭きシート恵んでもらったから、それの匂いかも。ほら、これ」
「おお! 懐かしい! パッケージは変わったけど、学生時代にこれだいぶお世話になったわ」
「きーちゃんも使ってたの?」
「使ってた使ってた。体育の後とかすーすーして気持ちいいもんな」
「わかるー」
「あ、でもこのシリーズは昔無かった奴だわ。ちょっと匂い嗅いでいい?」
「いいよー」
 静かになったので白戸は2人に気付かれないよう、そっと机の陰から様子を伺い、思わず息を呑んだ。
 何、やってんだよ、あいつ……!
 てっきり汗拭きシートのパッケージから匂いを嗅いでいるのかと思いきや、すらりとした長身の教師と思しき男は体を折り、座っている赤城の首元に顔を寄せていた。
 ナオヤ先輩が言っていた気持ち悪さってこれのことか、と合点がいく。
 異様に距離感が近過ぎる。
「きーちゃんは何て言うか、大人ー、って感じの匂いすんね」
 気が気でない白戸とは対極的に赤城の声には警戒心が微塵も感じられない。
「ふふ。一応嗜みだからね。でも赤城のも結構いい匂い。ミントとシトラスかな? ありがとう」
「そっかー。嗜みなんだ。きーちゃんチョコレートの匂いの香水とかってどこで買えるか知ってる?」
「うーん。そこは香水より香り付き消しゴムとかの方が手っ取り早く見つかりそうだな」
「なるほど。お腹減った時に好きな食べ物の匂いがあればやる気出そうだなーって思ったんだけど」
「じゃあ、チョコレートではないけどこれ飲んだら勉強頑張れるかな?」
「あ! ミントココア! 学校の自販機に無い奴だ! 飲んでいいの?」
「うん。いつも頑張ってる赤城にご褒美な。でも、他の生徒には内緒にして? 生徒全員におごってたら、ただでさえ薄給なのにもやし生活になっちゃうから」
「わかった。内緒ね。ありがとうきーちゃん」
 赤城はペットボトル飲料を喉を鳴らして飲んだ。
「っふゎー! 効くぅー!」
「はは。エナドリみたいになってるじゃん」
 英語教師も自分用のペットボトルの封を切り、コーヒーと思しき飲料を一口飲む。
「さ。お互いに水分補給ができたところで、いい加減本題に入ろうか」
「はーい。めっちゃやる気出てきたー」
 赤城は張り切ってノートを広げる。
「じゃ、今日はおすすめを紹介する作文にしようか」
「おすすめー、は、recommend?」
「そうそう。よく覚えてたね。recommendを使ってさっきの山菜稲荷の説明してくれる?」
「『I recommend Sansai Inari.』」
「残念。山菜稲荷の前には?」
「あ! 『I recommend "the" Sansai Inari.』」
「そうそう。その文章をもう少し詳しく説明してあげて。『道の駅で売っている山菜稲荷をおすすめします』だったらどんな文章になる?」
「『I recommend the Sansai Inari sold at Mitinoeki.』」
「んん? 惜しい。道の駅の前にも?」
「え? ここにも付けるの? 『I recommend the Sansai Inari sold at "the" Mitinoeki.』?」
「そうだね。日本語にはあまり"the"とか"a"の概念が無いから感覚を掴むまでが大変だけど、これが使いこなせるようになると英文がネイティブが喋るみたいに自然に聞こえるよ。ちなみに道の駅はそのままでもいいんだけど、外国では道の駅はそこまでメジャーでないから道の駅を説明する文章を入れた方が親切かな」
「『roadside store』?」
「間違いではないけど、それだとただの道路沿いの売店だね。駐車場とか観光案内、地域物産品を取り扱う施設だから、『roadside station』の方がよりニュアンス的に伝わりやすいよ。観光用のパンフレットとかにもよくそう表現されてるから、訪日客用のパンフレットを見つけたら探してみて」
 思ったより普通に英語の補習してるな。
 さっき不自然なほどに近過ぎた距離感も、机を間に挟んだ教師と生徒のごく常識的な距離だ。
 やっぱり思い過ごしだったのだろうか、と白戸は独り言ちる。
 パーソナルスペースが極端に狭い人間はいくらでも存在する。
 たまたまパーソナルスペースが狭い英語教師と、その距離感が苦手なナオヤが不快に感じた、というだけかもしれない。
 白戸は聞こえないように小さくふぅ、とため息を吐いて、2人に背を向けて床に座り直した。
 こんなことなら、戻ってこなければよかった。
 さっきの光景がちくちくとした胸の痛みと共に思い起こされる。
 自分以外の人に楽し気に笑いかけ、恋人のような距離感でお互いに匂いを嗅ぎ合う姿なんか見たくはなかったのに。
 勝手に勘違いして、勝手に傷ついて。本当に何やってるんだろう。
 ぐっと奥歯を噛んでやるかたない憤懣を押さえ込む。抱え込んだ膝に額を押し当て、ただ時間が過ぎてくれるのを待っている白戸の耳に赤城を呼ぶ教師の声が耳障りに響いた。
「赤城。赤城? おーい、困ったな。眠くなっちゃったのか?」
 白戸は背筋がぞわりと寒くなるのを感じて振り返った。
 思い過ごしならいいのに。
 赤城の声と思しき、もにゃもにゃといううわ言のような音が聞こえる。
「運動もしてきたから疲れてるのかな? ほら、起きて」
 優しい声音で話しかける英語教師は指先で赤城の肩をそっと叩き、その手を赤城の頬へと滑らせる。
 白戸の心臓が早鐘のように鳴っていた。
 さっき赤城先輩が飲んだペットボトル飲料、開栓の音が聞こえなかった。
 直後に蓋を開けた英語教師のペットボトルはパキパキという開栓の音が聞こえたのに。
「あーかーぎーくーん」
 英語教師は上体を机の上に投げ出した赤城の手を指先でそっと摘まんで持ち上げ、空中で放す。ぱたん、と音を立てて赤城の手が机の上に落ちた。
 しばしの沈黙の後、不意に英語教師は席を立ち、ドアに向かう。カチャ、と鍵が閉まる音が聞こえた。教室の後ろのドアの鍵も閉めた男は赤城の隣の椅子に座り、恋人を愛でるように意識の無い赤城の髪を指先で弄び、頬を撫で回す。
 ぎり、と白戸の奥歯が軋んだ。
 ナオヤ先輩が言っていたのはこれだったんだ。
 白戸は怒りに飲み込まれそうになる。
 英語教師は意識の無い赤城の腕を自分の肩に回し、抱き寄せてから、赤城の向こうの椅子を引き寄せ、そっと仰向けに寝かせた。鞄からスマホを取り出し、レンズを赤城に向ける。撮影開始を知らせる場違いに明るい電子音が教室に響いた。スマホを構えたまま、空いている方の手を赤城のシャツに伸ばす。一つ一つボタンが外されていき、一番下のボタンを外した男は器用に片手でシャツを押し広げる。ごくり、と喉を鳴らす音が、静かな教室に響いた。英語教師はゆっくりと体を折って、赤城の腹へと唇を落とした。

 カシャシャシャシャシャシャ!

 突如としてスマホのカメラの連写音が教室内に響き渡った。
「--……赤城先輩から、離れてください」
 スマホのレンズを教師に向けたまま、白戸は静かに言い放った。
 赤城のベルトにかかっていた教師の手が離れ、ゆっくりと白戸の方へ振り向く。
「こんな時間まで、何をしているのかな? 君は」
 予想に反して冷静に返されたことに、白戸は動揺する。
「何か誤解しているみたいだけど、赤城君は少し具合が悪くなったみたいで、休ませていたところだったんだ」
 口元に穏やかそうな笑みまで浮かべ、教師ははだけた赤城のシャツを片手でそっと寄せた。
 ……勝手に先輩に触るな! 怒鳴りたくなる感情をなんとかねじ伏せ、白戸は精いっぱいの冷静さを装って返す。
「そんなわけありませんよね? わざわざ服を脱がせる必要がありますか?」
「意識を失う前に息苦しそうにしてたんでね、少し楽になるようにと手助けしただけのつもりだったんだけど。わかるだろう? 女子生徒でもないんだし、それほど神経質に騒ぐほどのことでは……」
「では、なぜ先に他の先生方を呼んだり、救急車の手配をしたりしていないんですか?」
「君の位置からは聞こえなかったのかなぁ? 赤城君、倒れる前に大したことじゃないんで、人は呼ばなくても大丈夫って言ってたんだよ?」
「赤城先輩! 起きてください! 大丈夫ですか!?」
 大声で呼びかけるが、赤城の胸元は呼吸を示すように規則的に上下しているものの、意識は戻らない。
「先輩! 起きないんだったら、救急車を……」
「さっきから大丈夫だと言っているだろう? ただ寝ているだけだって。それよりもう遅いから、君は早く帰りなさい」
 赤城に近づこうとする白戸を遮ろうとするかのように、教師は顔に笑顔を張り付けたまま立ちはだかる。
「どう勘違いさせてしまったのかわからないけど、本当に眠りこけているだけだよ。大騒ぎするほどのことでもない」
「さっきと説明が違いますね。さっきは具合が悪くて休ませているって言ってましたよね」
「そうだね。具合が悪かったけど、途中でそのまま寝てしまったんだ」
 くそ。ああ言えばこう言う。
「もういいです。そのココアのペットボトル、何か入ってますよね? それとさっき撮った写真を然るべきところに持って行きます。そうすれば」
 白戸の言葉を遮る長い長い溜息を一つ吐いたかと思うと、教師は呻くように低く呟いた。
「……しつっこいなぁ」
 音も無く立ち上がり、机の上にあったペットボトルを手に取った教師は白戸の足元に向けてそれを投げつけた。まだ中身の残るペットボトルは机の脚に当たって大きな音を立て、不規則な動きで床の上を転がっていく。
 白戸は反射的に身を竦めた。
「そうやって名探偵を気取って騒ぎ立てるのは楽しいかい?」
 低い声で尋ねる教師の口元は笑っているのに、目は明らかに笑っていない。白戸は先まで怒りで熱を帯びていた体から一気に血の気が引いてくのを感じた。
 ……逃げなきゃ。
 本能的に一歩後ろに下がった白戸の足は、すぐに背後の椅子にぶつかって派手な音を立てて倒してしまう。
 もとよりそれほど運動神経が良い方ではない。ましてや身長はかろうじて平均値くらいだが、体格が良い方でもない。
 逃げなきゃ。でも、赤城先輩を置いてなんて行けない。どうしたら……。
 逡巡している間に判断が遅れた。ゆっくりと教師が歩み寄ってくるのは教室のドア側から。逃げ道は塞がれている。
 一か八か、やってみるか。
 スマホをズボンのポケットにねじ込み、手近にあった椅子を持ち上げて身体の前で両手で構えてみるが、教師は冷ややかな笑みを浮かべたまま白戸へ向かってゆっくりと歩みを進めた。思わず後退りをするが、足に机があたって耳障りな音を立てる。
「ち……近寄らないでください!」
 自分でも明らかに声が上ずるのがわかる。
「ふふっ……やめておきなよ。大人しくそれを渡せば、何も無かったことにしてあげるよ」
 教師の余裕の態度に、追い詰められているのはどっちだか一瞬わからなくなる。
 白戸は両手で持った椅子を体の前に突き出し、教師を睨みつけたまま首を横に振る。
「どうするの? その椅子で私を殴るつもりかな? いやぁ、怖いよね。最近の高校生って。反抗期が終わってないのか突然キレて暴れだすんだから。ニュースの見出しに載っちゃうかな。『普段は大人しかった優等生が教師を殴って怪我を負わせる』なーんてね」
 臆することなく正面に立ちはだかる成人男性は、背後から教室の電灯に照らされているせいか、ひどく大きな怪物のように見えた。教師は、くすくすと笑いながら白戸が構えた椅子にそっと手をかける。
「……ねぇ。手、震えてるよ?」
 うるさいな!それくらい自覚してるよ!
 声に出さないまでも精一杯の抗議として椅子を握っていた手に力を籠めるが、逆に足払いをされて椅子ごと床へと押し倒される。
「う、っ……!」
 床に打ち付けられた背中の痛みで一瞬息が詰まる。倒れた拍子にポケットにねじ込んだはずのスマホが飛び出して床を滑っていくのが見えた。
 まずい……!
 椅子から手を離して起き上がろうとするが、圧倒的な力の差で椅子ごと押さえ込まれ、胸が圧迫されて息をするのすら難しい。ぎりぎりと椅子が身体に食い込んでくる音が聞こえる。
「んぅっ! ぐっ……!」
 もがいているうちに、涙で歪む視界の端で男の長い腕が伸びて白戸のスマホを拾い上げるのが見えた。
「残念だったね。ゲームオーバーだ」
 歌うように言った教師の顔はスマホ画面のライトで不気味に青白く照らし出されていた。
 無情にも放課後の芸術棟には人気すら無い。
 終わりだ。このまま何も無かったことにされてしまう。赤城先輩が望まない動画を一方的に撮られたかもしれないのに。僕が赤城先輩を守りたかったのに。せめて誰かに連絡を入れていれば。一人で無謀なことをしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
 自分の非力さ、不甲斐なさに、溢れた涙が幾筋もこめかみを滑り落ちた。
「…………ば……ん……」
 不意に耳に飛び込んできた聞き馴染みのある声に、白戸は反射的に目を見開き、視線をを教師の背後へと向けた。教師もつられて後ろを振り返る。そこには教室の灯りに照らし出された赤城が陽炎のようにゆらりと立ち上がっていた。
「…ば……ばん…………な……」
 俯いたまま何やら呟きながらはだけていたシャツをおもむろに脱ぎ捨てた赤城は、一歩、また一歩、とこちらに歩みを進める。
「あ……赤城。目が覚めたのか……?」
 教師の震える声の問いかけには答えず、赤城はカチャカチャと金属音を立ててズボンのベルトを外しながらさらに一歩近づいた。
 明らかに動揺する教師の手が緩んだ隙をついて白戸は全身の力を籠めて身体の自由を奪っていた椅子を払い除け、教師の手からスマホをひったくり返した。
「あっ……!?」
 慌てて体勢を立て直そうと教師が白戸に向き直るが、背後に迫った目の焦点が合っていない赤城に気圧され、力無くその場に尻もちをつく。
「…ぇーが……んっじょかぁら……」
「……赤城、ちょっと待て。話し合おう。ちゃんと単位はやるから、な?」
 赤城には教師の声が聞こえていない様子で、俯いたまま自身のズボンに手をかけた。
「ポタリとせなぁか、にぃっ……!」
 白戸が自由になった胸郭いっぱいに空気を吸い込んで叫ぶのと、赤城がズボンを下ろすのはほぼ同時だった。
「赤城先輩っっ!! 公然猥褻物陳列罪ですっっ!!」
 突然響いた怒号に元来の運動神経の良さで赤城が素早くズボンを引き上げる。
「ぉわぁっ!? ななな何これ!? どこここ!? 何してんの俺!?」
 明らかに動揺しまくる赤城の姿を見て、白戸は安堵の息をつく。
 よかった。いつもの赤城先輩だ。
 白戸は腰を抜かして動けないままの教師を跨いで赤城に走り寄り、先に脱ぎ捨てられたシャツの埃を払って赤城に手渡す。
「寝惚けて家のお風呂と間違えたんですか? 英語の補習を受けるって聞いてましたけど、遅いんで迎えに来たんです」
「遅いって今何時だっけ……?」
 ノートを広げていた机に乗っていたスマホを手に取った赤城は、小首を傾げる。
「あれ? これ、おれのじゃないや。きーちゃんの?」
「へ……? え……、あ、いや、えっと……」
 赤城にスマホを差し出されたものの状況が把握しきれず返事すらできない教師は、赤城の背後から冷ややかに自分を見下ろす白戸の視線に気づき、びくりと肩を揺らした。
「違う? じゃあ白戸の?」
 振り返った赤城に、白戸は笑顔で首を横に振る。
「僕のはここにありますから。それより赤城先輩、何か急いでたんじゃないですか? もうすぐ7時30分ですけど」
「あっ!! 金曜唐揚げフライデー!!」
「それは大変ですね。急がないと」
 赤城は白戸から手渡されたシャツを手早く羽織り、机の上の筆記用具をかき集めて雑に鞄の中に放り込む。それから「あ!」と小さく呟き、鞄の中から何かを取り出して握りこぶしを英語教師に突き出す。男は殴られると勘違いしたのか、ぎゅっと目を閉じて身体を強張らせたが、そうではないことに気づき、恐る恐る目を開く。
「きーちゃん、いっつも遅くまで俺の勉強見てくれてありがとう。よかったら、これ食べて」
 赤城は邪気の無い笑顔で教師の手に個包装の小さなチョコやグミを握らせ、白戸に向き直った。
「白戸ー! 今日これから時間あるー? せっかく待っててくれたんだから、うち寄って夕飯食べてかない?」
「いいんですか?」
「もちろん! あ、でも親御さんに連絡入れてからなー」
「はい!」
 扉に手をかけた赤城は「あれ? なんか教室の鍵閉まってたわ」と首を傾げながらかちゃりと音を立てて開錠した。
「それじゃ、きーちゃん、ばいばーい! 白戸、行こ!」
「はい!」
 シャツの前ボタンを掛け違えたままの赤城は英語教師に向かって元気良く手を振って白戸を引き連れ、嵐のように教室を飛び出していった。
 ポツリと一人教室に取り残された教師は手のひらに残った菓子に視線を落とす。
 一体何が起こった? 口封じに失敗した? 撮影した画像が入ったスマホを持って行かれた? 証拠の写真を撮られた?
 一つずつ頭に浮かぶ疑問に、教師の体温は少しずつ下がっていく。
 赤城の背後から教師を見下ろしていた下級生の冷ややかな視線が脳裏をよぎる。
 どうしたらいい? あいつがこのまま黙っているとは思えない。名前は何と呼んでいた? 今すぐ学年名簿で名前と住所を調べて……。
 まとまらない考えをぐるぐると頭の中で反芻していた時、不意に教室の扉が開いた。
「お前……!」
「赤城先輩が間違えて先生のスマホを持って帰りかけていたので、返しにきました」
 白戸は赤城の後ろをついて回っている時の顔とは打って変わって感情の籠らない顔で教師のスマホを差し出す。
 どういうつもりだ? 何かの罠か?
 真意を測りかねて動けないままの教師の胸にスマホを押し付け、そのまま手を離す。スマホは教師の手にあたり、菓子をまき散らしながら床に転がり落ちた。
「僕が、あなたに要求することは2つ。1つは『ここでは何も起こらなかったことにすること』もう1つは『二度と赤城先輩に近寄らないこと』です」
「……は? 意味が、……いったいどういう」
「あなたも世間に公表されて大事になりたくはないでしょう? 僕も先輩が好奇の目に晒されることは望んでいません。赤城先輩自身何が起きたのか把握できていないようですし、あとはこの場で画像を消してしまえば何も起こらなかったことにできるでしょう?」
 駄目だ。混乱し過ぎて思考が働かない。
 教師の額から一筋の汗が滴り落ちた。
「……見逃す、と言っているのか?」
「そんなわけないですよね。こちらはあなたがやったことの証拠を握っているんです。妙な事をするならやむを得ないとは思いますが、できる限りお互い穏便に済ませたいでしょ? わかったら、さっさとロック解除してください」
 言われるままに震える手で床に転がるスマホを拾い、ロック画面を解除して、ファイルから先ほど撮影した動画をロールする。すっと伸びてきた手がスマホを攫っていった。おそらく画像を削除しているのだろう。黙々とスマホの画面をなぞって操作を終えると、白戸はスマホを手近なテーブルに置いてくるりと踵を返した。
「……ま、待て。さっき言っていた『二度と赤城に近寄らない』っていうのは……」
 廊下から赤城の間延びした声が響く。
「白戸ー! きーちゃんまだいたー?」
「はーい! 無事スマホお返ししましたんで、すぐ行きますねー!」
 赤城に楽し気な声で返答したのとは一転、完全に表情を消した白戸は教師に向かってすっと一礼をした。
「お先に失礼します。『先生』」
 形の良い色素の薄い瞳に射抜かれたように、教師は床にへたり込んだまま、ガラス越しに走り去っていく白戸の横顔を見送ることしかできなかった。
 白戸が追いつくのを廊下の奥で待っていた赤城はシャツの前ボタンをきちんと留め直し、シャツの裾をズボンの中に入れてベルトもきちんと締めていた。
「悪いな。俺がうっかり持ってきちゃってたのに、白戸にパシリみたいなことさせて」
「いえ。僕が持って行くって言いだしたことなんで気にしないでください」
「そか。じゃ、そのお礼に今日は腹一杯唐揚げ食ってって。うちいつも3キロ仕込んでるから、何だったらおみやに持って帰ってもいいし」
「キロ単位なんですか……!?」
 いくら成長期とはいえ母一人子一人世帯の白戸家では想像もつかない量の鶏肉が準備されている事実に衝撃を受けた。
 日が落ちた駐輪場で待ち合わせ、縦列で自転車を漕ぐ。赤城の家には学校から10分程度で到着した。
「自転車こっち停めてー」
 アコーディオン門扉を開けた赤城はカーポートの端にすでに停めてあった中型のバイクの隣に白戸の自転車を誘導する。
「こっちこっち。あ、白戸は生姜味の唐揚げ食べれる?」
「はい。生姜味好きです」
「よかった」
 赤城が玄関ドアを開けた途端に唐揚げの美味しそうな香りがふわりと鼻をかすめる。
「ただいまー唐揚げさーん」
「大和ー? 唐揚げに挨拶する前に父さんにただいましてー?」
 家の中からパタパタとスリッパを鳴らして歩く音が聞こえる。
「あー。唐揚げのことばっか考えてたら間違えた。父上ただいまさーん」
「はいはい、お帰り。あれ。友達かな?」
 奥の部屋からひょい、と顔を出した男性は赤城の背後に立つ白戸に目を留めると、いらっしゃい、と優しく微笑んだ。
「こんばんは。突然すみません」
「後輩の白戸ね。ねぇ、今日唐揚げ白戸も一緒していい?」
「もちろんいいよ。白戸君、あがってあがって」
「はい。お邪魔します」
 白戸が赤城の父にスリッパを用意してもらっている隙に部屋に上がり込んだ赤城が早速大きな唐揚げを口に咥えたまま登場し、白戸に手招きする。
「ひあふぉ、ほっひほっひ!」
「大和は先に制服着替えてきな。絶対食べこぼすだろ。ごめんな、白戸君。いつもこんな風で落ち着きなくって。荷物はこっちに降ろして。あ、大和ー。部屋に行く前に白戸君洗面に案内したげて」
「ふふーん」
 赤城に手招きされるままについていくと、洗面所に案内される。
「ふぇ、ははっふぇ」
 唐揚げに阻まれて何を言っているかはわからないが、蛇口を指差した後にアライグマのように両手をこすり合わせるジェスチャーで手を洗えという意図は伝わった。
「ええと、わかりました。ありがとうございます」
 赤城は両手でサムズアップを示してから洗面所を飛び出していった。手を洗った白戸がハンカチで水気を拭きとっていると、ネイビー地に白抜きで絵本のようなテイストの魚のイラストが入ったTシャツと黒のスウェットに着替えた赤城が廊下から笑顔で手招きする。
「白戸。好き嫌いとかアレルギーとかある?」
「ありません。なんでも食べます」
「お。えらいねー」
 ダイニングキッチンに通され、勧められた椅子に座る。
「大和。手ぇ洗ってご飯よそって」
 すでに大皿にパーティー量の唐揚げが盛られて美味しそうな湯気を上げていた。赤城は行儀悪く唐揚げを1つ摘まみあげて口に咥えてから台所で手を洗い始める。
「こらこら、順番逆だって。手ぇ洗ってから食べなさいよ」
「ふぁーい」
 シンクで手の水分をぴぴぴ、と振って飛ばした赤城は炊飯器を開け、茶碗に昔話の挿絵のように米を盛る。
「はい、白戸」
「あ、ありがとうございます」
 ずしりとした重みに白戸は怯みそうになる。
 米だけでこんなに食べきれるだろうか。
「あの、何か手伝えることはありませんか?」
 テーブルに茶碗を置いた白戸は、手持ち無沙汰に耐えかねて問いかける。
「そんなこと言っていいの? うちは容赦なく客人でも使う家だよ?」
 ツリ目気味の赤城とは対照的に優し気に目尻が下がった赤城の父は、顔は赤城とそれほど似ていないが、笑うと表情がそっくりだ。キッチンカウンター越しに赤城の父からトングが付いたサラダボウルを手渡される。
「そこの食器棚にあるお皿どれ使ってもいいから、自分達が食べたい量よそってくれる?」
「はい」
 赤城の父の分と赤城の分、白戸の分の3人前でいいのだろうか。他の家族の気配を伺うが、聞いていいものかわからないので、とりあえずこの場にいる3人分の皿に野菜を盛り付けた。
「先輩。どうぞ」
 白戸が差し出した野菜の皿を受け取った赤城は再び口いっぱいに唐揚げを頬張ったまま何かを話しながら白戸の方へと野菜の皿を差し出した。
「ふぁあふぉ、ふぉうふぁいおふぃあふぉ」
「え、えと。先輩、何でしょう?」
 問い返す白戸の背後からすっと音も無く手が伸びてきて、赤城が差し出した野菜の皿を受け取った。驚いた白戸が振り向くと、白戸の背後に立っていた若い男は無言でじっと白戸の顔を見つめる。
 足音も気配も一切無かった。
「は……はじめまして。あの、お邪魔してます」
 動揺しつつも何とか頭を下げた白戸の顔を見つめていた男は、長い沈黙の後で白戸の顔を指差して言った。
「……平尾」
「……? えと?」
「いらっしゃい。歓迎の証として平尾にこれをあげるよ」
 読めない表情の男は野菜の皿からフォークで刺したトマトをもう一つの皿に移し、空いている方の手で白戸の肩をぽん、と叩く。
「大きくなーれ」
「…………???」
「あっ! 大和! 隼人がまたトマト避けてる! 1個ねじこんでっ!」
「大和。誕生日おめでとう。これプレゼント」
 赤城の父を無視してもう一つの皿にトマトを移した男はパーティーサイズの山盛り唐揚げの皿を手に、音も無く部屋を出て行った。
「白戸。あれ、兄ちゃん」
 唐揚げを飲み下した赤城が男が出て行った方向を指差す。
「……はぁ」
 顔立ちはどちらかというと赤城の父に似ているが、雰囲気は赤城とも赤城の父とも似ていないダウナー系だ。
「あの、先輩今日誕生日なんですか?」
「いや? 先々月だったけど?」
 ……先輩の兄は、謎だ。
「あー。また逃げられたか……」
 ため息交じりにキッチンカウンターから出てきた赤城の父は、湯気をあげる新たなパーティーサイズの山盛りの唐揚げをどん、とテーブルに置いた。
「白戸君。遠慮しないでお腹いっぱい食べて。ご飯も唐揚げもサラダも沢山おかわりあるからね」
「はい。ありがとうございます」
 これがキロ単位で仕込まれる唐揚げの量か、と白戸は未知の世界を覗いたような心持ちで唐揚げの山を見つめた。