湿気を含んだ靴音が時折廊下に響く。窓の外ではしとしとと煙るような雨が降り続いていた。
「……ええと。で、結局、今日はどこをぶつけたと……?」
 いつも通り救急箱を手にした白戸は困惑気味に問うた。
「こっちー。青タンなってるかもー」
 半べそで体操服の短パンを下ろそうとする赤城を前から大塚がどつき、横からナオヤがズボンを引き上げる。
「赤城、セクハラ」
「猥褻物陳列罪」
 大塚とナオヤに言われて赤城は三方をきょときょとと見まわしながらうろたえる。
「ええっ⁉ じゃあどうすれば……?」
「大塚先輩。ナオヤ先輩。とりあえず何があったか、おおまかでいいんで教えてもらえますか?」
「今日雨降ってたろ? で、陸部外連できないから、廊下往復ダッシュの筋トレメニュー組まれてたらしいんだけどな」
「大掃除のワックス塗りたてのとこトップスピードで赤城が突っ込んだ。で、勢いよくすっ転んで、ケツ打ってそのまま廊下をここの柱までカーリングのストーンみたいに滑走した」
「ああ……。それで赤城先輩後ろが湿気てるんですね」
 説明通り、赤城の体操服の短パンの臀部と背中、後頭部はびっしょりと濡れている。
「この感じだと頭もぶつけたんじゃないですか? ちょっと後頭部触っても大丈夫ですか?」
「あー? そういえば打ったかも?」
「おい白戸、ワックス手に付くぞ」
「大丈夫です。後で洗えばいいんで」
 白戸は躊躇無く濡れた赤城の後頭部を優しく撫でる。
「……ちょっとたんこぶできてますね。吐き気や頭痛はありませんか?」
「言われるまで気づかなかったくらいだから、そんな大したことないんじゃないかな。それより尻の方が重症っぽいわー……」
「わかりました。とりあえず保健室に行って氷もらいましょう。どっちもまずは冷やすのが先決でしょうから。赤城先輩、歩けそうですか?」
「んー。歩くのは大丈夫」
 痛む尻をさすりながら歩きだした赤城は、ふと気づいて振り返る。
「あ! でも、つっちーに教室戻るついでに着替え持ってきてもらう約束したんだよね」
「着替えくらいはナオヤが保健室持って行ってやれよ。もとはといえばお前が赤城に廊下走らせたんだろ」
「りょー」
「ところで他の陸上部の方は大丈夫だったんですか? 同じ場所で練習してたんですよね」
「赤城が先陣切って派手にすっ転んでくれたおかげで、陸部メンバー全員無事だった。こいつメンバーよりぶっちぎりで速いもんでな。な、赤城。お前の貴重な犠牲は忘れない」
「……なんかありがたみ感じねーな」
 赤城は口を尖らせ、涙目で尻をさする。
「そもそも赤城先輩、陸上部じゃありませんでしたよね?」
「そうそう。平野先輩が元々調子悪かった膝悪化させちゃってさ。助っ人で今度の大会赤城に出てもらう予定だったんだよな」
「ナオヤ先輩。その大会、いつですか? スケジュール教えてください」
 スマホを取り出す白戸に大塚は呆れた声をあげる。
「おーい、白戸。大会休日にやるんだぞ。休みの日まで赤城のお守りするつもりか?」
「大塚先輩。何言ってるんですか? 陸上競技なんて赤城先輩がケガしないはずがないじゃないですか。とりあえずアイシングと包帯と絆創膏と消毒液多めに補充しておかないと」
「さすが赤城係! 抜かりないな。大会は来月末の日曜な。場所と細かい時間は後でLYINEで送るから」
「はい、ナオヤ先輩。ぜひお願いします」
「白戸大会来るの⁉ ねぇねぇナオヤ! この前言ってた昼飯のラーメンの話だけどさぁ……」
「あー。はいはい。白戸君の分もって言うんだろ? だったらこっちもそれなりの見返りはもらわないと」
「平野先輩の記録超え」
「ぬっるー!」
「じゃ、うちの陸部の記録更新」
「んー。まぁそれでいっか。陸部の奴らに言っとく」
「よしっ!」
 まだ大会すら始まっていないのに、赤城は一人ガッツポーズをする。
「んじゃ、ま。お互い交渉成立っちゅーことで。白戸。赤城のこと、保健室までよろしくな。さっき言ったように着替えはナオヤが持って行くし、俺は第二の被害者が出ないようにここでワックスが乾くまで張り紙作って見張りしとくから」
「はい。では、赤城先輩。行きましょうか」
「おう!」
 赤城は飛び跳ねるように白戸の隣を歩く。
「なあ、白戸! 大会の会場近くのラーメン屋でめっちゃ旨い所があるんだ!」
「へぇ? 何味ですか?」
「貝白湯! 絶対食わせてやるから楽しみにしてて!」
「食べたこと無いんで楽しみです」
 雨降りで湿気た廊下を歩く生徒はまばらだ。一階の廊下の突き当りにある保健室の扉には『外出中』の札が下がっている。
「ありゃりゃ。よっぴー留守だって」
「大丈夫ですよ。氷嚢の場所はわかってますんで、そちらのベッドの縁に腰かけておいてください」
 先に保健室の中に入った白戸は勝手知ったる様子で棚から氷嚢を二つ取り出し、冷凍庫に入っている氷を詰めてタオルで包む。
「冷やしますね」
「ん」
 先に後頭部に氷嚢をあて、それから腰と臀部の間の仙骨の辺りにも氷嚢をあてると、赤城は「ふぃー」っと空気の抜けるようなため息をついて脱力する。
「大丈夫ですか? 痛みます? それともあてる場所がずれてますか?」
「んーん。なんかぼあぼあしてる感じだったのが、すーってして気持ちいい。ね、これどれくらいこうしてたらいいの?」
「10分から15分くらいですね。あまり冷やしすぎもよくないので」
「そんなに長い時間氷嚢持ってんのもキツイな。うつ伏せに寝てその上に乗っけとくか」
 白戸はそれくらい大丈夫ですよ、と言おうとしたが、すでに靴を脱いだ赤城はもぞもぞとベッドに上がり込み、伏臥位になって自力で後頭部と臀部に氷嚢を乗せ直す。が、赤城が少し体勢を動かした途端に後頭部の氷嚢が滑り落ちそうになったので白戸が慌てて元の位置に直す。
「おっと。悪いな。ありがと」
「いえ。この体勢ならそんなにきつくないので、先輩もゆっくり休んでください」
 白戸は手近にあったキャスター付きの丸椅子を手繰り寄せてベッドの隣に腰かける。
 ふはっと赤城の笑い声が聞こえたので顔を覗き込むと、赤城はさらに声をあげて笑った。
「どうしたんです?」
「白戸って、いつも消毒薬の匂いすんのな。最近俺、この匂い嗅いだだけでケガとか痛いの治まるようになってきたなーって思って」
「プラシーボ効果って奴ですか?」
「たぶんそれ! 白戸効果!」
 赤城の言葉に白戸はふ、と吐息ともつかない笑い声を漏らす。
「お、今笑ったね?」
「気のせいじゃないですか? そんなお手軽に治るなんて」
「いやいや。嘘じゃないって。今だってだいぶ痛みが引いてきた。まぁ氷嚢のおかげもあるんだろうけど」
「ふぅん?」
 白戸は氷嚢を押さえているのと反対の自分の手を見つめ、赤城の髪を指先でそっと梳く。色素が薄い白戸の髪とは対照的に、赤城の髪は漆黒だ。
「んー? どした?」
「ああ、すみません。痛みが早く飛んでいくようにと」
 引っ込めかけた白戸の手を赤城がそっと掴んで自分の頭に乗せ直す。
「なるほど。気持ち良いはずだ」
 赤城は満足気に目を閉じてゆるりと笑う。許しを得た白戸はワックスで固まりかけた髪をほぐすように優しく赤城の髪を梳いた。
 不意に廊下から足音が近づいてきてノック音の後で保健室のドアが開き、ナオヤが顔をのぞかせる。
「赤城ー。着替え持ってきたぞー」
「あー。ナオヤ、ありがとな」
 赤城は喉の奥でくぅぅ、と唸りながら猫のように伸びをしてベッドから起き上がる。
「ふぅ。気持ち良すぎて眠りかけてたわ。白戸、ありがと」
「いえ」
 赤城の体から滑り落ちた氷嚢を回収した白戸は赤城の後頭部を撫でる。まだ少し膨らみは感じられるものの、氷嚢でしっかり冷えたようで、熱っぽさは落ち着いたように思える。
「赤城。今日はもう練習はいいから帰りな。でも明日は練習参加な。あとさ、ここ来る途中で会ったんだけど、きーちゃんから伝言。金曜の放課後準備室来いって」
「あー、はいはい」
 赤城は体操服からナオヤから受け取った制服に着替え始める。
「きーちゃん?」
「ああ、白戸君は知らないか。きーちゃんは俺らの担当の英語の先生な。二年の英語はエグいぞー。単語暗記するだけでは点数取れなくなるから。な、赤城」
「そうそう。出題されたテーマに沿って英作文書かされんの」
「へぇ。文法が頭に入ってないと、ってことですか?」
「そう。で、赤城はそれが苦手すぎて、きーちゃんから目ぇつけられてるってわけ」
「目ぇつけられてるってか、空き時間に勉強見てもらってるってだけ」
 着替え終わった赤城は体操服のワックスで濡れた部分を内側に丸め込んでサブバッグに詰め込む。
「テスト返却されないから過去問は参考にできんし、去年までは赤城英語の成績それほど悪くなかったのに今年に入ってから急に成績落ちたよな」
「きーちゃん確かにテストの採点は厳しいめだけど、怒ったりしないし、教え方丁寧だし、良い先生だよ」
「えー? 俺あいつ苦手かも。なんか笑顔や言動が胡散臭い」
「白戸は英語担当誰?」
「JTEで村山先生と、ALTでジャクソン先生の二人体勢です」
「村山? そんな奴いたっけ?」
「ナオヤ。去年俺らの担当だったろ? あのおじいちゃん先生」
 合点がいった、という様子でナオヤがぱちん、と両手を打ち合わせて鳴らす。
「ああ! トンちゃん!? 通り名の方でばっかり呼んでたから一瞬誰かわかんなかったわ!」
「まだ眉毛専用の櫛持ち歩いてんのかな? 元首相に似てるっていうの自慢してたもんな。ALTは新しい先生に変わったんだ?」
「先輩達の時は違う先生だったんですか?」
「うん。エリー先生っていう黒人の背の高い先生」
「ヒール履いてなくても赤城よりちょっと背ぇでかかったな」
「赤城先輩身長どれくらいですか?」
「175。エリー先生180近くあったんじゃないかな」
「何食ったらあんなに伸びるんだろうな。俺だって牛乳とか煮干しとかちゃんと食ってんのにさ」
 高校生男子の平均身長よりややコンパクトなサイズのナオヤは悔しそうに口を尖らせ、自分の頭と赤城の肩口を背比べしながらトントンと横なぎにチョップする。
「物理的に伸ばしてみる? 白戸。はい、こっち」
「? はい」
 赤城に手渡されるままナオヤの手を掴まされた白戸は首を傾げる。
「いくぞー、白戸。手ぇあげてー。はーい、捕らわれた宇宙人!」
「……………」
 左右から赤城と白戸に腕を引っ張り上げられたナオヤはぷらん、と宙にぶら下がった。
「こら、赤城! ちょっとばかしデカいからって調子乗んなよ! ぶら下がり健康器くらい、とっく、お試し済みなんだよ! それでもって伸びてねぇんだよ!」
 びちびちと活き良く暴れるナオヤはぶら下げられたまま器用に赤城の尻に蹴りを入れる。
「だぁっ! ちょっ、今日そこ怪我してんだから手加減っ……!」
 赤城は笑いながら大げさな仕草で尻をさする。
「うるせーわ! 俺だって繊細な心に傷負ったわ! じゃーな。俺練習戻るけど、金曜忘れんなよ。赤城が行き忘れたら俺が伝達ミスったみたいになるんだから」
「んー。行く行く。ナオヤ、着替えも持ってきてくれてありがとなー」
 足音荒く保健室を後にするナオヤの後姿を見送り、赤城は大きく伸びをしてから、さて、俺らも帰るか、と白戸に声をかけた。