退屈な授業が終わると同時に、僕は教室を飛び出し音楽室へ向かう。それはこの校舎にある素敵なグランドピアノに惹かれているためであり、そこに住み着く陽気で可愛らしい幽霊に会うためでもある。
二ヶ月前に僕はこの学校の特進科に転校してきた。母方の祖父母の家で暮らすことを望んだのは、環境を変えたかったからだ。僕に過干渉気味な母親へ勇気を出して「もう、ヴァイオリンは弾きたくない」と最初こぼした時、母親は顔色を変えず「何を言っているの? 冗談なんて凛大朗らしくないわね」と本気にしていなかった。だけど、僕が毎日弾いていたヴァイオリンを弾くのをやめ、練習をサボり、家出まがいのことを繰り返して初めて僕の言葉を信じ出した。次に始まったのは「凛大朗は特別な子なのよ? 神様から選ばれたの。もちろん、凛大朗が努力しているのも分かっているわよ? けど、努力だけでは国際コンクールで最年少優勝なんて出来やしないの。神様から与えられた特別な才能よ?」という、諭しだった。僕に言い聞かせるようにそう唱え続ける母親も色々限界だったのかもしれない。でも、僕はもう疲れ果ててしまったんだ。ヴァイオリンは自由に自己表現出来る手段だったはずなのに、いつしか競争に勝つため奏でる自分の音が、ひどく醜く、歪なものだと感じるようになってしまった。そんな演奏をする自分のこともどんどん嫌になってしまった。「おじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らしたい。今の学校も転校したい」ヴァイオリンに触れなくなってそう言い出した僕に、母親はもう何も言わなかった。淡々と転校の事務手続きや荷造りの手伝いをしてくれ、僕の出発を見送ってくれた。
そうして僕は音大付属で中高一貫の、音楽のエリートばかりが集まった学校から、祖父母の家から通える私立へと転校してきた。音楽科のある学校を選んだのは母親の最後の執念かもしれない。だけど、僕の転入先を音楽科ではなく、特進科にしてくれたのは、母親の優しさで愛情だろう。
** *
転校した当初は「国際ヴァイオリンコンクール最年少優勝者、浅木凛大朗」として校内のいたるところで騒がれたりもしたけれど、僕が無愛想かつ誰もいないはずなのにピアノの音がする、幽霊が出ると噂の音楽室に足繁く通っているということが知れ渡ると、蜘蛛の子を散らすように僕の周りからは人がいなくなった。だけど、それで良かった。ヴァイオリンを弾く気はもう、ない。ただの音楽好きとして顔出しはせず、SNSにヴァイオリンの次に得意なピアノを弾いた動画を気まぐれにアップしてささやかな反応をもらう。今まで個人でSNSを1つもしたことがなかった僕に使いこなせているのかは分からないけれど、何も知らないことを始めるのは単純に楽しいし、それで満足だ。国際コンクールで優勝した時よりも、今の方が純粋に音楽を楽しめているような気がする。そんなことをぼうっと考えていると、特進科の校舎の外れにひっそりとたたずむ音楽室の木製のドアが見えてきた。ドアノブを回して室内に足を踏み入れると、「凛大朗、おっそーい。待ちくたびれちゃった」という女の子の鈴のようなソプラノの声が響いた。「ごめん。ホームルームが長引いちゃってさ」と答えると、白いワンピース姿の幽霊は口をぶうっと膨らませる。くりっとした二重の大きな瞳も相まって、その表情はまるでリスのような小動物を思い起こさせて愛らしい。
* * *
僕は彼女のことをクララ、と呼んでいる。クララは自身の名前を覚えていない、というので便宜上呼び名に困った僕は、僕の好きな女性ピアニスト「クララ・シューマン」から名前を拝借した。クララ自身もその命名を気に入っているみたいで、僕がクララと呼ぶ度に顔が少しほころぶ。クララはいつからかこの音楽室で住み着くようになった幽霊で、僕は「この美しいピアノは誰が弾いているんだろう?」と気になって音楽室へ入り、クララと出会った。最初こそ、その非科学的な存在に腰が抜けるほどびっくりしたものだけれど、いきなり「あなた、私のことみえるの? こわくないの? やったぁ! 一人で寂しかったんだよね。ねぇねぇ、見てよ、私が着てるワンピース。なんで幽霊って白いワンピースがデフォルトなんだろうね。あははっ」なんて満面の笑みで言う女の子の笑顔に僕は一目惚れをした。幽霊に恋だなんて我ながら不毛なことをしていると思うけど、「ねぇ、凛大朗、今日は何を弾いてくれるの?」そうキラキラとした目で見つめてくるクララがやっぱり僕はどうしたって好きだ。
「そうだな。フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』にしようかな」そう言いながら鍵盤の前に座り、軽く指慣らしをしていると、クララもピアノの近くにきて、僕が奏でる音に反応してうっとりとした顔を見せる。青空から降りそそぐ太陽光を受けて、その表情はよりあたたかく感じる。
「凛大朗の奏でる音は、世界一きれいな音色だよね」それは僕にとって、クララからの最上級の褒め言葉だ。ぐっと感情を込めて導入部分を弾き始めると、クララは目を閉じて僕が演奏するピアノを全身で浴びるように神経を研ぎ澄ませて聞き入る。両手を耳に寄せて、時にはメロディに乗せて体を揺らして。その姿を見られるのが嬉しくて、その姿が見たくて、僕は今日もピアノを弾く。クララに捧げて。そういう毎日が続いてきたし、これからもずっと続くものだと思ってた。
* * *
その日の放課後も音楽室にいて、クララとローベルト・シューマンの『トロイメライ』を連弾して遊んでいたら、ピアノの動画をアップしているSNSに一件のDM通知がきた。
「凛大朗のファンから?」なんて、無邪気な顔でからかうようにして僕のスマホをのぞき見ようとするクララに「ひどいピアノだ、っていう批判かもよ」と僕も手の平を天井に向け、顔をしかめておどけてみせた。けれど、メッセージを送ってきた相手のSNSのアイコンを見て僕は固まった。クララの顔とそっくりだったから。というか、ぱっちりとした二重も小さな鼻も、ぷっくりとした唇も均整の取れた配置の顔のパーツが全く一緒だ。「どういう、こと?」画面を見ながら、かすれた声を出す僕に続き、クララも窓に映る自分の顔と見比べながら「それ……私?」と困惑した様子を見せる。恐る恐る画面をタッチして通知を開いてみると、そこには「交通事故に遭って昏睡状態にある双子の妹が、あなたの奏でるピアノの音だけには反応を示します。どうか、もう少し更新頻度を上げてもらえないでしょうか?」とメッセージが記されていた。
「交通事故? 昏睡状態? 私、幽霊じゃないの……?」戸惑うクララに対し、「返事してみるよ。出来たら、この双葉っていう子にも会ってくる」そう力強く言ってみたけれど、僕もひどく混乱していた。小刻みに震える手でスマホを操作し、返信すると、すぐに返事がきた。偶然か必然か、近くに住んでいるので明日にでも会いたい、と。クララとの穏やかで幸せな日々が終わりを迎えるかもしれない。ふと、そんな予感がした。
* * *
双葉に指定された場所は、学校のすぐ近くにある大きな総合病院だった。併設のカフェで待っていると、程なくしてクララにそっくりなセーラー服を着た女の子が現れた。間違いなく双葉だろう。「あの」と声を掛けると、双葉は僕の顔を見て、心底驚いたという風な様子で「あなた! ヴァイオリニストの浅木凛大朗?」と大きな声を上げた。「あぁ、はい」と緩やかに返事をすると、瞬く間に双葉の瞳から大粒の涙があふれ出してきて僕はぎょっとする。「そっか、あなただったんだ、あのピアノ。そりゃあの子も反応するはずだ」と涙を流しながら笑顔を作ろうとする。その姿が何だか痛々しくて、見ていられなくて、そっとハンカチを手渡した。そのハンカチを受け取りながら「ごめんなさい、取り乱して」と謝罪する双葉と連れだって歩き出す。案内されたのは、ある個室だった。扉には「佐野一華」とネームプレートがついている。「どうぞ。妹に会ってやって下さい」そう言われながら病室に入ると、クララがベッドに横たわって静かに眠っていた。勧められるままパイプ椅子に腰掛けると、双葉も同様に椅子に座り、クララに話しかけた。「一華。一華が大好きな浅木凛大朗だよ? 本人。すごいね、こんなことってあるんだね。良かったね、会えて」ぽろぽろと涙を流しながらクララの手を握る双葉は、僕の方に向き直り「この子が、私の双子の妹の一華っていいます。姉が双葉で妹が一華」そう言いながら双葉は弱々しく微笑む。「交通事故で昏睡状態って書かれてましたけど、いつから?」と問うと、双葉は目を伏せながら「私のせいなんです。私をかばって一華は事故に遭いました。半年前のことです。目立った外傷も脳に異常もないんですけど、目を覚まさなくて。けど、ほら。あなたのピアノの動画を流すと手を握り返してくれるんですよ」双葉がスマホから僕のピアノ動画を流すと、本当にクララはわずかだけれど手をぴくぴくっと動かしている。それがクララの生きている何よりの証拠だと思った。
「一華は本当にあなたのことが大好きだから。いつか、あなたと共演できるピアニストになりたいっていうのが、あの子の夢だから」双葉は涙を流しながら言う。
「ピアニスト?」
「はい。あなたが国際コンクールで優勝する前から、一華はずっとあなたのファンだったんです。同い年にすごいヴァイオリニストがいるって。自分も負けてられないって大騒ぎで。そのブレザー、N学園のものですよね? 一華はN学園の音楽科に在籍しているんです。ピアノ専攻で」
「え……。そう、だったんですか。じゃあ、今の僕を見たらがっかりさせちゃうかもしれませんね」思わず自虐的な言葉が出てしまった。
「逆ですよ」
「え?」
「自分が有名ピアニストになって、表舞台にもう一度引きずり出すんだって意気込んでました。あのピアニストと共演したいから、またヴァイオリンを弾きたくなるようなピアノ演奏をしてみせるって」 涙を流しながらも優しくそう言う双葉の言葉は、まるでクララ本人に言われているかのような感覚がした。
* * *
翌日の放課後、音楽室に入ると、クララはピアノの前にちょこんと座りながら「どうだった?」と聞いてきた。けど、その声はどこにも何も疑問に思っている節がない。あぁ、クララは記憶を取り戻したんだなってことがすぐに理解出来た。
「ある女の子の話を聞いてくれる? どこにでもいるような女の子の話なんだけど」そう前置きをしながら、クララはピアノを弾き始めた。僕が先日演奏したリストの『ラ・カンパネラ』を僕以上にうまく、表現力豊かに弾きこなす。
「同年代の音楽家を目指す子の中でもね、とびっきり素敵な音色を奏でる男の子に出会ったの。出会ったっていっても、一方的にだけどね? その男の子は『神童』って呼ばれるくらい有名人で、色んな国内のコンテストで優勝しちゃうようなすっごい人。雑誌とかテレビのメディアでも特集されるくらいに。最初はね、興味本位だったの。もてはやされてるその男の子の演奏は、どんなもんなのかなって。だけど、聞いた瞬間圧倒された。本物だって思った。それから、その男の子のファンになって、追いつきたいって気持ちが出てきた。負けてられないって。その男の子はどんどん飛躍していって、遂には国際コンクールで優勝しちゃったの。ニュースをみた時、私も自分のことのように飛び跳ねて喜んだな。だけどね、その男の子、それ以来ヴァイオリンから離れちゃったんだよね。私はその男の子じゃないから本当の気持ちまでは分からないけど、きっと心が少し疲れちゃったんだなって思った。それでも、私はその男の子の音が好きだから、いつか共演出来るようなピアニストを目指そうって。協奏曲を一緒に奏でたいって願いを込めながら毎日練習に励んだ」歌うように言葉を吐いていたクララはそこで黙ると同時にピアノの演奏も中断した。室内が静寂に包まれる。クララは僕の方に視線をやると、こらえきれないといった感じで涙をこぼし始めた。
「こわいの」クララはそう一言言うと、次々涙を流す。
「凛大朗がヴァイオリンをまた弾く気になってくれたのはとっても嬉しい。それも、私がきっかけだってことも。きっと、憧れの凛大朗のヴァイオリンと協奏曲を演奏出来たら、私は体に戻れるんだと思う。分かってる。理解してる。だって私の体がそう告げてくるんだもの。けど、体に戻れば、今までこの音楽室で、二人で過ごした記憶が消えてしまうかもしれない。それが、こわい」僕が手に持っているヴァイオリンケースを見つめながら、クララは叫ぶように言葉を発した。
それに対して、僕は「なくならないよ」と静かに断言する。
「一華が僕を見つけてくれたように、もし一華がこの音楽室での記憶を全て失っても、今度は僕が一華を見つけてみせる」僕の言葉に一華は目を見張る。久しぶりに調弦したヴァイオリンを手にして、「『別れの曲』は弾かないよ」と静かに微笑むと、一華もやっと泣き止んでくれた。
「じゃあ、リストの『愛の夢 第三番』でいい? 私の一番好きな曲」と言って泣き笑いのような顔で鍵盤に手を乗せる。二人で呼吸の合図を取り合って演奏を始めると、一華の儚く美しい音色に心を持って行かれそうになる。一華へ僕の想いが伝わるように、これまでの楽しい時間に浸るように夢中で演奏していると、徐々に一華の体が光を帯びて薄く透けて消えていくのが見えた。
そうして演奏が終わった時、音楽室には僕一人の姿しかなかった。
* * *
僕は徐々にヴァイオリニストに戻るため、そして一華に誇れる演奏をするため、今日も音楽室でヴァイオリンに向き合っている。きぃっと扉の開く音が響いて、振り返ると、そこにいたのは……。
「おかえり。僕が見つけるはずだったのに、また見つけられちゃったね」
「いやぁ、世界一きれいな音色が聞こえてきちゃったからさ」
自然と引き寄せられるようにお互いに歩み寄る僕たちの姿を、夕陽がキラキラと照らし続けていた。
(了)
二ヶ月前に僕はこの学校の特進科に転校してきた。母方の祖父母の家で暮らすことを望んだのは、環境を変えたかったからだ。僕に過干渉気味な母親へ勇気を出して「もう、ヴァイオリンは弾きたくない」と最初こぼした時、母親は顔色を変えず「何を言っているの? 冗談なんて凛大朗らしくないわね」と本気にしていなかった。だけど、僕が毎日弾いていたヴァイオリンを弾くのをやめ、練習をサボり、家出まがいのことを繰り返して初めて僕の言葉を信じ出した。次に始まったのは「凛大朗は特別な子なのよ? 神様から選ばれたの。もちろん、凛大朗が努力しているのも分かっているわよ? けど、努力だけでは国際コンクールで最年少優勝なんて出来やしないの。神様から与えられた特別な才能よ?」という、諭しだった。僕に言い聞かせるようにそう唱え続ける母親も色々限界だったのかもしれない。でも、僕はもう疲れ果ててしまったんだ。ヴァイオリンは自由に自己表現出来る手段だったはずなのに、いつしか競争に勝つため奏でる自分の音が、ひどく醜く、歪なものだと感じるようになってしまった。そんな演奏をする自分のこともどんどん嫌になってしまった。「おじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らしたい。今の学校も転校したい」ヴァイオリンに触れなくなってそう言い出した僕に、母親はもう何も言わなかった。淡々と転校の事務手続きや荷造りの手伝いをしてくれ、僕の出発を見送ってくれた。
そうして僕は音大付属で中高一貫の、音楽のエリートばかりが集まった学校から、祖父母の家から通える私立へと転校してきた。音楽科のある学校を選んだのは母親の最後の執念かもしれない。だけど、僕の転入先を音楽科ではなく、特進科にしてくれたのは、母親の優しさで愛情だろう。
** *
転校した当初は「国際ヴァイオリンコンクール最年少優勝者、浅木凛大朗」として校内のいたるところで騒がれたりもしたけれど、僕が無愛想かつ誰もいないはずなのにピアノの音がする、幽霊が出ると噂の音楽室に足繁く通っているということが知れ渡ると、蜘蛛の子を散らすように僕の周りからは人がいなくなった。だけど、それで良かった。ヴァイオリンを弾く気はもう、ない。ただの音楽好きとして顔出しはせず、SNSにヴァイオリンの次に得意なピアノを弾いた動画を気まぐれにアップしてささやかな反応をもらう。今まで個人でSNSを1つもしたことがなかった僕に使いこなせているのかは分からないけれど、何も知らないことを始めるのは単純に楽しいし、それで満足だ。国際コンクールで優勝した時よりも、今の方が純粋に音楽を楽しめているような気がする。そんなことをぼうっと考えていると、特進科の校舎の外れにひっそりとたたずむ音楽室の木製のドアが見えてきた。ドアノブを回して室内に足を踏み入れると、「凛大朗、おっそーい。待ちくたびれちゃった」という女の子の鈴のようなソプラノの声が響いた。「ごめん。ホームルームが長引いちゃってさ」と答えると、白いワンピース姿の幽霊は口をぶうっと膨らませる。くりっとした二重の大きな瞳も相まって、その表情はまるでリスのような小動物を思い起こさせて愛らしい。
* * *
僕は彼女のことをクララ、と呼んでいる。クララは自身の名前を覚えていない、というので便宜上呼び名に困った僕は、僕の好きな女性ピアニスト「クララ・シューマン」から名前を拝借した。クララ自身もその命名を気に入っているみたいで、僕がクララと呼ぶ度に顔が少しほころぶ。クララはいつからかこの音楽室で住み着くようになった幽霊で、僕は「この美しいピアノは誰が弾いているんだろう?」と気になって音楽室へ入り、クララと出会った。最初こそ、その非科学的な存在に腰が抜けるほどびっくりしたものだけれど、いきなり「あなた、私のことみえるの? こわくないの? やったぁ! 一人で寂しかったんだよね。ねぇねぇ、見てよ、私が着てるワンピース。なんで幽霊って白いワンピースがデフォルトなんだろうね。あははっ」なんて満面の笑みで言う女の子の笑顔に僕は一目惚れをした。幽霊に恋だなんて我ながら不毛なことをしていると思うけど、「ねぇ、凛大朗、今日は何を弾いてくれるの?」そうキラキラとした目で見つめてくるクララがやっぱり僕はどうしたって好きだ。
「そうだな。フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』にしようかな」そう言いながら鍵盤の前に座り、軽く指慣らしをしていると、クララもピアノの近くにきて、僕が奏でる音に反応してうっとりとした顔を見せる。青空から降りそそぐ太陽光を受けて、その表情はよりあたたかく感じる。
「凛大朗の奏でる音は、世界一きれいな音色だよね」それは僕にとって、クララからの最上級の褒め言葉だ。ぐっと感情を込めて導入部分を弾き始めると、クララは目を閉じて僕が演奏するピアノを全身で浴びるように神経を研ぎ澄ませて聞き入る。両手を耳に寄せて、時にはメロディに乗せて体を揺らして。その姿を見られるのが嬉しくて、その姿が見たくて、僕は今日もピアノを弾く。クララに捧げて。そういう毎日が続いてきたし、これからもずっと続くものだと思ってた。
* * *
その日の放課後も音楽室にいて、クララとローベルト・シューマンの『トロイメライ』を連弾して遊んでいたら、ピアノの動画をアップしているSNSに一件のDM通知がきた。
「凛大朗のファンから?」なんて、無邪気な顔でからかうようにして僕のスマホをのぞき見ようとするクララに「ひどいピアノだ、っていう批判かもよ」と僕も手の平を天井に向け、顔をしかめておどけてみせた。けれど、メッセージを送ってきた相手のSNSのアイコンを見て僕は固まった。クララの顔とそっくりだったから。というか、ぱっちりとした二重も小さな鼻も、ぷっくりとした唇も均整の取れた配置の顔のパーツが全く一緒だ。「どういう、こと?」画面を見ながら、かすれた声を出す僕に続き、クララも窓に映る自分の顔と見比べながら「それ……私?」と困惑した様子を見せる。恐る恐る画面をタッチして通知を開いてみると、そこには「交通事故に遭って昏睡状態にある双子の妹が、あなたの奏でるピアノの音だけには反応を示します。どうか、もう少し更新頻度を上げてもらえないでしょうか?」とメッセージが記されていた。
「交通事故? 昏睡状態? 私、幽霊じゃないの……?」戸惑うクララに対し、「返事してみるよ。出来たら、この双葉っていう子にも会ってくる」そう力強く言ってみたけれど、僕もひどく混乱していた。小刻みに震える手でスマホを操作し、返信すると、すぐに返事がきた。偶然か必然か、近くに住んでいるので明日にでも会いたい、と。クララとの穏やかで幸せな日々が終わりを迎えるかもしれない。ふと、そんな予感がした。
* * *
双葉に指定された場所は、学校のすぐ近くにある大きな総合病院だった。併設のカフェで待っていると、程なくしてクララにそっくりなセーラー服を着た女の子が現れた。間違いなく双葉だろう。「あの」と声を掛けると、双葉は僕の顔を見て、心底驚いたという風な様子で「あなた! ヴァイオリニストの浅木凛大朗?」と大きな声を上げた。「あぁ、はい」と緩やかに返事をすると、瞬く間に双葉の瞳から大粒の涙があふれ出してきて僕はぎょっとする。「そっか、あなただったんだ、あのピアノ。そりゃあの子も反応するはずだ」と涙を流しながら笑顔を作ろうとする。その姿が何だか痛々しくて、見ていられなくて、そっとハンカチを手渡した。そのハンカチを受け取りながら「ごめんなさい、取り乱して」と謝罪する双葉と連れだって歩き出す。案内されたのは、ある個室だった。扉には「佐野一華」とネームプレートがついている。「どうぞ。妹に会ってやって下さい」そう言われながら病室に入ると、クララがベッドに横たわって静かに眠っていた。勧められるままパイプ椅子に腰掛けると、双葉も同様に椅子に座り、クララに話しかけた。「一華。一華が大好きな浅木凛大朗だよ? 本人。すごいね、こんなことってあるんだね。良かったね、会えて」ぽろぽろと涙を流しながらクララの手を握る双葉は、僕の方に向き直り「この子が、私の双子の妹の一華っていいます。姉が双葉で妹が一華」そう言いながら双葉は弱々しく微笑む。「交通事故で昏睡状態って書かれてましたけど、いつから?」と問うと、双葉は目を伏せながら「私のせいなんです。私をかばって一華は事故に遭いました。半年前のことです。目立った外傷も脳に異常もないんですけど、目を覚まさなくて。けど、ほら。あなたのピアノの動画を流すと手を握り返してくれるんですよ」双葉がスマホから僕のピアノ動画を流すと、本当にクララはわずかだけれど手をぴくぴくっと動かしている。それがクララの生きている何よりの証拠だと思った。
「一華は本当にあなたのことが大好きだから。いつか、あなたと共演できるピアニストになりたいっていうのが、あの子の夢だから」双葉は涙を流しながら言う。
「ピアニスト?」
「はい。あなたが国際コンクールで優勝する前から、一華はずっとあなたのファンだったんです。同い年にすごいヴァイオリニストがいるって。自分も負けてられないって大騒ぎで。そのブレザー、N学園のものですよね? 一華はN学園の音楽科に在籍しているんです。ピアノ専攻で」
「え……。そう、だったんですか。じゃあ、今の僕を見たらがっかりさせちゃうかもしれませんね」思わず自虐的な言葉が出てしまった。
「逆ですよ」
「え?」
「自分が有名ピアニストになって、表舞台にもう一度引きずり出すんだって意気込んでました。あのピアニストと共演したいから、またヴァイオリンを弾きたくなるようなピアノ演奏をしてみせるって」 涙を流しながらも優しくそう言う双葉の言葉は、まるでクララ本人に言われているかのような感覚がした。
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翌日の放課後、音楽室に入ると、クララはピアノの前にちょこんと座りながら「どうだった?」と聞いてきた。けど、その声はどこにも何も疑問に思っている節がない。あぁ、クララは記憶を取り戻したんだなってことがすぐに理解出来た。
「ある女の子の話を聞いてくれる? どこにでもいるような女の子の話なんだけど」そう前置きをしながら、クララはピアノを弾き始めた。僕が先日演奏したリストの『ラ・カンパネラ』を僕以上にうまく、表現力豊かに弾きこなす。
「同年代の音楽家を目指す子の中でもね、とびっきり素敵な音色を奏でる男の子に出会ったの。出会ったっていっても、一方的にだけどね? その男の子は『神童』って呼ばれるくらい有名人で、色んな国内のコンテストで優勝しちゃうようなすっごい人。雑誌とかテレビのメディアでも特集されるくらいに。最初はね、興味本位だったの。もてはやされてるその男の子の演奏は、どんなもんなのかなって。だけど、聞いた瞬間圧倒された。本物だって思った。それから、その男の子のファンになって、追いつきたいって気持ちが出てきた。負けてられないって。その男の子はどんどん飛躍していって、遂には国際コンクールで優勝しちゃったの。ニュースをみた時、私も自分のことのように飛び跳ねて喜んだな。だけどね、その男の子、それ以来ヴァイオリンから離れちゃったんだよね。私はその男の子じゃないから本当の気持ちまでは分からないけど、きっと心が少し疲れちゃったんだなって思った。それでも、私はその男の子の音が好きだから、いつか共演出来るようなピアニストを目指そうって。協奏曲を一緒に奏でたいって願いを込めながら毎日練習に励んだ」歌うように言葉を吐いていたクララはそこで黙ると同時にピアノの演奏も中断した。室内が静寂に包まれる。クララは僕の方に視線をやると、こらえきれないといった感じで涙をこぼし始めた。
「こわいの」クララはそう一言言うと、次々涙を流す。
「凛大朗がヴァイオリンをまた弾く気になってくれたのはとっても嬉しい。それも、私がきっかけだってことも。きっと、憧れの凛大朗のヴァイオリンと協奏曲を演奏出来たら、私は体に戻れるんだと思う。分かってる。理解してる。だって私の体がそう告げてくるんだもの。けど、体に戻れば、今までこの音楽室で、二人で過ごした記憶が消えてしまうかもしれない。それが、こわい」僕が手に持っているヴァイオリンケースを見つめながら、クララは叫ぶように言葉を発した。
それに対して、僕は「なくならないよ」と静かに断言する。
「一華が僕を見つけてくれたように、もし一華がこの音楽室での記憶を全て失っても、今度は僕が一華を見つけてみせる」僕の言葉に一華は目を見張る。久しぶりに調弦したヴァイオリンを手にして、「『別れの曲』は弾かないよ」と静かに微笑むと、一華もやっと泣き止んでくれた。
「じゃあ、リストの『愛の夢 第三番』でいい? 私の一番好きな曲」と言って泣き笑いのような顔で鍵盤に手を乗せる。二人で呼吸の合図を取り合って演奏を始めると、一華の儚く美しい音色に心を持って行かれそうになる。一華へ僕の想いが伝わるように、これまでの楽しい時間に浸るように夢中で演奏していると、徐々に一華の体が光を帯びて薄く透けて消えていくのが見えた。
そうして演奏が終わった時、音楽室には僕一人の姿しかなかった。
* * *
僕は徐々にヴァイオリニストに戻るため、そして一華に誇れる演奏をするため、今日も音楽室でヴァイオリンに向き合っている。きぃっと扉の開く音が響いて、振り返ると、そこにいたのは……。
「おかえり。僕が見つけるはずだったのに、また見つけられちゃったね」
「いやぁ、世界一きれいな音色が聞こえてきちゃったからさ」
自然と引き寄せられるようにお互いに歩み寄る僕たちの姿を、夕陽がキラキラと照らし続けていた。
(了)

