人に好きになってもらうって、何をどうやったらいいんだ。
 人、というか僕の場合はとある特定の人物……正直に名前を言ってしまうと、鐘月文という友だちに好きになってほしい。そしてあわよくば恋仲になりたい。
「おはよう、天舞くん」
「おはよう、文」
 ぱっと明るい笑顔で挨拶をされるたび、僕は「文と同じ歳に生まれてよかったな」と密かに母さんと父さんに感謝している。
 あとは佐里山町に引っ越してきたときにぐだぐだと内心で文句を言っていたことについても謝ろう。
 母さん、父さん。田舎暮らしに憧れてくれてどうもありがとう。
 席替えをして僕の斜め後ろの席になった文は、鼻を赤くして「ふふ」と気の抜けた笑顔を見せた。
 かわいい。かわいくて恋の矢が胸を貫通する。思わず「うっ」という声も漏れた。
 文は特別容姿が整っているわけではないけれど、仕草や表情の一から十まで全部に愛嬌があってかわいい。つい視線を持っていかれてしまって困る。ここがのどかな町だからまだいいものの、都会に出たら危なくてひとりで歩かせられない。
「毎朝寒いね~。手袋してても指がかじかんじゃう」
「指が!?」
 気づけば暦は十一月終盤。文の指先が寒さに負けるなんてあってはならないことだ。
 僕は身を乗り出して言った。
「それは大変だ。なんとかしないと」
「大げさだねぇ」
 そういえばこの前、ネットで防寒機能が高い手袋を見かけたから注文してみてもいいかもしれない……と、考えていると。
「あ、天舞くん。俺、手袋が欲しいわけじゃないからね」
「えっ」
「この前耳当てもらったばっかりだし」
「…………」
 にっこりと迫力のある笑みを浮かべる文に先手を打たれた。なぜ僕が手袋を注文しようとしていたとわかったんだ。
 さすが文は僕を理解している、と感心していたところで、隣の席の羽瀬川くんが噴き出した。
「御手洗くん、また文に貢ごうとしてんの?」
「貢ぐ!?」
「だってそうじゃん。文が『あれいいなぁ』って言ったら週明けにはもうプレゼントしてる」
「いや、それは……まあそうだな」
「認めるんかい」
 だって僕が文にせっせと贈り物をしているのは事実だ。
 プレゼントとはすなわち真心。文があれこれ欲しがるような性格ではないとはわかっているが、ほんの少しでも喜んでほしい。僕はこのために読者モデルのバイト代をこつこつ貯めておいたのかもしれない。
 そしてこれは最近気づいたことだけれど、自分のためにものを買うよりも、買って誰かに贈るほうが断然楽しい。
 文と出会ってから、僕はどんどん新しい自分を発見している。
 僕の人生で、誰かを好きになるのはこれが初めてだ。つまりは初恋。まさかこの自然に囲まれた町で、自分以上に夢中になれる相手と出会うとは。人生は何が起こるかわからない。
 初恋の相手が文という素敵な相手で、僕は本当に幸せだと思う。
 文を知れば知るほど、僕は文に()かれていく。
 できることなら質問リストを作って文に一問ずつ投げかけたいし、ころころ変わっていく表情をすべて記録したい。が、僕は理性のある紳士的な人間なので、その辺は自制している。
「あ、俺今日日直だった」
 文はそう言って教室を出ていく。窓際の暖房機がしゅんしゅんと音を立てる中、羽瀬川くんはさらに僕に話しかけてきた。
「御手洗くんって、結構健(けな)()だよなあ」
「ん?」
「せっせと文に尽くしてるじゃん。態度でさ、わかっちゃうっていうか」
「こら、羽瀬川。からかうんじゃないの」
 僕が答える前に、萱野さんが話に入ってきた。羽瀬川くんには難しい顔を向けるが、僕には表情を緩めてみせる。
「気にしないで、御手洗くん。私は応援してるし!」
「ありがとう、助かります」
「そこも認めるんだ?」
 羽瀬川くんが呆れたように聞いてきたので、僕はしっかりと頷いてみせた。
 そう、周りの同級生には、僕が文に恋をしていることがバレてしまっている。
 たぶん、この学校には恐ろしく察しのいい人間たちが揃っているのだと思う。自転車も乗れるし推察能力も高い、選ばれし佐里山町の青少年たち。
 萱野さんがぽつりと続けた。
「文も気づかないの、逆にすごいよね……」
「僕のアプローチが自然すぎるからだと思う」
「そうかぁ?」
 羽瀬川くんのぼやきは流して、僕は(ほお)(づえ)をつき外を眺めた。
 灰色の曇り空がもう何日も続いている。窓ガラスには憂いを帯びた僕が映っていた。ダウナーな僕も魅力的だ。
 文を好きになって、学んだことがある。
 恋愛というものは、なかなか手強く、攻略しがたい。
 
***
 
「というわけで、これ持って帰らないか」
「……『というわけで』っていうのは?」
「まあそれはいいだろ」
「えー、そういうもの? それにこれ、何?」
 文が僕の家に遊びに来た帰り、僕はマフラーを巻く文に紙袋を差し出した。
 文は受け取りつつも、首を傾げて僕に尋ねてくる。首を傾げるのもかわいくて、心の中で「ああ~」と声が出た。口から音が出なかっただけ偉い。
「僕が知る限り日本で一番おいしいクッキーだから食べてほしい。取り寄せたんだ」
「取り寄せ? そんないいもの、もらっていいの?」
「もらってほしい!」
 すかさずそう返すと、文は目を丸くしてから「そっか」と答えた。
「ありがとう。花と紘、クッキーが大好きだからきっと喜ぶよ」
「あ……っ、そ、そうか。よかった、二人が喜んでくれるなら、それで……」
 本音を言えば文に優先して食べてほしかったが、よく考えたら家族思いの文が美味しいものをひとりじめするはずがない。「ははは」と乾いた笑いを浮かべた僕を、文がじっと見つめる。
「なんだか、俺ばっかり天舞くんからもらってない?」
「文からももらってるだろ。野菜とかお米とか」
「そうだけどそうじゃないっていうかさぁ」
 文が不満げに唇を(とが)らせる。その仕草もまたかわいいのでつい「それはかわいいので頻度を考えたほうがいい」と言いそうになったが、鉄の理性でなんとか耐えた。
 文は細く息を吐いてから、決意を込めた面持ちで言う。
「やっぱりもらいすぎている気がするので納得がいきません。今度、何か俺にもお返しさせて」
「お返し、って」
「俺にできることならなんでもするよ」
「…………」
 一瞬、本当に一瞬だけ邪念が働いたが、僕は誠実な人間なのですぐにそれを打ち消した。文は僕を友だちだと思っているのに、その信用を壊してはいけない。
「じゃあ、何か思いついたらお願いする」
「うん。そのときは教えて」
 また明日、無邪気に顔をほころばせた文を見送ってから、僕は深いため息をついた。
 そのままくるりと回れ右をして、とぼとぼと家の中へ入り、自分の部屋へと向かう。
「ど、どうしたらいいんだ……!?」
 僕は文のことが好きだが、文はおそらくそうじゃない。いや、友人として好ましく思ってくれているのはひしひしと伝わってくるけれど、恋愛としての「好き」ではない。
「こんなにずっと一緒にいるのに、好きになってもらえないなんて……」
 僕は世界一と言っても差し支えないほどの美貌だし、頭脳明晰でスポーツも万能。性格だって人格者と言っていいだろう。恋人にするならこれ以上ない良物件だという自負がある。
 だが、文は僕を「すごいねぇ」と褒めてはくれるものの、ときめいている様子はない。あまり認めたくないことだが、今のところ僕に恋愛感情を抱いている可能性は限りなくゼロに近い。
 ネットで調べたところによると、意中の相手に好きになってもらうためには、まめな接触と的確な気遣い、そして相手を褒めたりプレゼントを贈ったりして、好感度をじわじわと高めることが重要だという。
 僕はそれらの教えを律儀に守っているというのに、文はいつもほんわりと笑うだけだ。そうやって笑ってくれるだけでも僕は幸福な気分になるが、目的はそうじゃない。
 僕が文と目が合うたびにドキドキするように、文にも僕にドキドキしてほしい。つまりは僕を恋愛対象にしてほしいのだ。
 しかし、そもそも僕も文も男だ。
 僕は愛さえあれば性別や年齢なんて関係ないという考えだけれど、文がそうだとは限らない。佐里山町で純真に育った文からすれば、恋は男女でするもの、という考えが自然なのかもしれない。
「はっ!」
 自分の部屋に足を踏み入れたとき、僕はとある可能性に思い至ってしまった。
「まさか……文には、好きな子が!?」
 突然頭を殴りつけられたような衝撃が走った。
 そう、もし文が誰か他の女の子に恋をしていたら。たとえば萱野さんなんて、文には及ばないまでも愛嬌があるし面倒見もいい。文とは小学校からの付き合いだというし、仲もよさそうだ。
 万が一、文に好きな人がいるとしたら。
「た、耐えられない……」
 僕はよろめいてベッドへと倒れ込んだ。文はいつか誰かと付き合うのかもしれない。想像するだけで、いや、想像できないくらい辛い。
 けれど文の幸せを願うなら、文の恋を応援するべきなんじゃないのか。たとえ、僕の心が粉々になったとしても……。
「いや、やっぱり僕と付き合ってほしいな」
 すっ、と身体を起こして呟く。僕は文が好きだから付き合いたい。いたってシンプルな考えだ。
「…………」
 ついさっきまで、文が座っていたテーブル脇の空白を見つめる。
 テスト勉強を教えてからというもの、文はわからない課題があると僕を頼るようになってくれた。
 ごめんね、と申し訳なさそうに僕を見上げるときの文は、ちょっと弱々しくて、それもかわいい。
 今日の文も格別に素敵だった。隣に座って、僕の説明を「ふんふん」と聞いたあと、難しい顔で問題を解いていた。突き出した唇が子供っぽくて、けれどその横顔をいつまでも見ていたいと思った。
 これまで出会った誰よりも、文は魅力的だ。
「はああ~……」
 僕は両手で顔を覆い、ベッドの上を転がった。そしてその反動のままどすんと床へと落ちたものの、僕は武道の心得もあるので完璧な受け身を取って着地した。それでも葛藤はなくならない。
「…………」
 つい、雨の夜の出来事を思い出す。
 僕はバランスを崩して、それで、文を押し倒したような形になってしまった。
「う……」
 床にうずくまって頭を抱える。
 記憶力抜群の僕の脳裏には、あの夜の映像がばっちりと刻み込まれてしまっている。
 暗い部屋のなかで、僕を見つめる文の瞳が光っていた。風呂上がりの清潔な香りを捉えた瞬間、心臓が壊れるかと思った。よく笑う文のなめらかな頬。
 触りたい。
 撫でて、形を確かめたい。
 その欲を抑え込むのに必死だった。掴んだ文の手首は確かに男のものなのに、見た目よりも細く感じた。
 天舞くん、と文が僕を呼んでくれなかったら、危なかった。自分をコントロールできなくなったのは初めてだ。
「困った」
 ()()った顔を軽く振ってから、僕はスマホを手に取った。相変わらず開く回数は減ったが、それでも操作に慣れた指がSNSを選んでしまう。
「…………」
 画面に映るのは楽しく華やかな世界。僕もこの中にいたときは楽しかったし、その気持ちは今も嘘じゃない。
 たくさんの「もう投稿はしないの?」の通知。嬉しいけれど、正直なところ反応に困る。今の僕は、自撮りや投稿どころではないのだ。
 僕はスマホを枕元に放り投げた。
「恋とは、難しい!」
 (あま)()の人に褒められても、たった一人の心を掴むことができなければ意味がない。
 はあ、とまた深いため息をつきそうになったところで、僕はスマホの画面に広告が浮かんでいるのが見えた。なんとなく興味を惹かれて、のそのそと覗き込んでみる。
「これは……」
 その広告を見ている間、僕の頭の中では文の「今度、何か俺にもお返しさせて」が繰り返し響いていた。
 
 それから一週間。
 久しぶりに乗った電車に揺られながら、僕は隣に座る文の存在を意識し続けていた。
「天舞くん?」
「はいっ! なんでしょう!」
「なんで敬語なの?」
「な、なんとなく……ですけど……」
 謎の言葉遣いをしてしまう自分をなんとかしたい。が、なんとかならない。
 乗り換えもしてかれこれ一時間近く文と隣に座っている。当然腕がぶつかるし、文の一挙手一投足がわかってしまう。話すときは顔も近い。僕は今日一日、まともに過ごせるのだろうか。
「……あと十五分くらいで着く」
「はーい」
 そう、今日は何を隠そう僕と文の初デートの日なのだ。
 アプローチの手段に困った僕は、「お返し」として、文に「買い物に付いてきてほしい」と頼んだのだ。
 向かうは佐里山町から電車を乗り継いで二時間の(あお)(しま)()(とう)(きょう)ほどではないにせよ、このあたりでは一番活気がある街だ。
 文と出かけるにあたって、念の為「街の専門ショップでしか手に入らないスニーカーを買う」という設定も用意してある。
 本当にそのスニーカーが欲しいわけではないけれど、文がぱっと明るく笑って「楽しそう」と返してくれたので、僕はもうそれだけで報われた気分になった。ちょうど周りにいた友人たちは、文からは見えないようにそっと拍手をしてくれた。
 文はこの(おう)()をデートだとは認識していないだろうが、僕にとっては立派なデートだ。好きな相手と二人きりで遠出する。これがデートじゃないならなんなのか教えてほしい。
「迷子になったらどうしよう」
 駅に停まるたび、車内の人は増えていく。人混みに慣れていないという文は、さっきからきょろきょろとあたりを見回して落ち着かない。
 僕は胸を張って言った。
「迷子にはさせないから大丈夫だ」
「そう? 天舞くんは頼りがいがありますねぇ」
 おどけた様子で顔を覗き込んでくる文に、僕は気絶しそうになった。かわいい。生まれてきてくれてありがとう。毎日を文の誕生日にしたい。
 文は今日は大きめの白のパーカーにモスグリーンの上着を羽織っている。去年買ったものらしいが、「サイズ大きかったかも」と少し余った袖をいじっている姿を見ているだけで奥歯がむずむずした。
「あ、もうすぐだね」
「そうだな」
 電車が停まったのと同時に席を立ち、車外へと出る。文はすでに人の波に圧倒されているようで、立ち止まりそうになっていた。
「文」
 ここで止まったら危ない、と反射的に腕を取った。身体ごと僕に引き寄せられた文は、「わ」と声を漏らして僕の胸にぶつかる。
 今度は僕の動きが止まりそうだったけれど、自分に「天舞さん、気を確かに」と言い聞かせて足を進めた。文が肩をすくめて言う。
「鈍くさくてごめん。ありがと」
「……礼には及びません」
「だからなんで敬語?」
 くすくすと笑う文は、学校にいるときよりもはしゃいでいるように見えた。
 歩いている途中で、僕は文の腕を取ったままだと気づいてそっと手を離す。掌の汗がすごい。
 横目でちらちらと文を見ながら、僕たちがもし恋人だったら、こんなとき自然な流れで手を繋ぐんだろうな、と考えた。
 僕はなんでもできる神に愛された人間だが、今のところ「手を繋ぐ」なんて大業は成し遂げられそうになかった。こんなことなら恋愛なるものをちゃんと経験しておけばよかった。でも、はたして文以外に心を惹かれることなんてあるのだろうか。
 僕は文に好きになってほしいけれど、それ以上に嫌われたくない。
 
 駅を出て歩けば、まだ十一月だというのに、街のあちこちには早くもクリスマスの空気が漂っていた。
 僕も東京に住んでいたころは、イベントごとにはアンテナを立ててこまめに「映える」自撮りを投稿していたものだが、佐里山町で暮らしていくうちにすっかり疎くなってしまった。
 そういえば先月、花ちゃんと紘くんが白い布を被ってハロウィンごっこをしていたっけ。時間の流れ方は、その場所によって違うらしい。
 僕は馬鹿正直に目的の店でスニーカーを買い、街に着いて早々に目的を達してしまった。昨日立てた計画では、食事と買い物を済ませてから、スマートに用件を済ませる予定だったのに。
 休日の店はどこも混んでいて、僕と文はハンバーガーセットを忙しなく食べただけで終わってしまった。小さな口で一生懸命ハンバーガーを頬張る文もよかった……とかなんとか浮かれている場合じゃない。これは僕の理想のデートからは外れている。
 ぎりぎりと歯ぎしりをする僕には気づかず、文はあちこちを物珍しそうに眺めながら言う。
「クリスマス、かあ。一年経つのって早いよね。この前、稲刈りが終わったばっかりなのに」
 のんびりとした話し方にほっとした。文は癒しの波動でも出てるんじゃないだろうか。
「そうだな。佐里山町はもう少ししたら雪が降るんだろ?」
「うん。去年は雪が多くてさぁ……。あ、天舞くんのところも、慣れないうちは雪かき大変だろうから手伝いに行くからね」
 そう言って文は力強く拳を使ってみせる。しっかり者で面倒見がいいところも文の魅力だ。僕はまた胸をときめかせた。
「それにしても、混んでるねぇ」
「何かイベントがあるのかもしれないな」
「へぇ、イベント」
 文はその響きにいまいちピンと来ていないようだった。
 佐里山町ではイベントといえば町を挙げての運動会や役場が主催する収穫祭、学校の学芸会くらいなので仕方がない。
 通りすがりの女子高生たちが「向こうでファッションイベントやってるって!」とはしゃいでいた。どうやら某有名雑誌のイベントが出張してきているらしい。
 文が感心したように言う。
「人間って、こんなにたくさんいたんだねぇ」
「東京はもっと多い」
「俺、潰れて死ぬかも」
「文が死んだら困る」
「そう? じゃあ助けてもらお」
 文がさりげなく僕の肘のあたりを掴んできた。途端にぶわっと汗が浮く。こうして前触れなく僕のときめきポイントを突いてくるから気が抜けない。やっぱり文を一人で都会に出したら誘拐されてしまう。
 文は人の多さにたじろいで、電車を降りてからというもの、僕にひっついて離れなかった。こちらのやかましい心音が伝わってしまうかもしれないと気が気でない。
 僕はいつからこんなに意気地のない男になったのか。
 ふと視線をやったショーウィンドウに、僕と文の姿が映っていた。
 朝に念入りにセットした髪に乱れはないし、昨晩はなかなか寝つけなかったものの、顔のコンディションだっていい。
 でもそんなことよりも、文の横顔を見てしまう。許されるなら写真を撮りたい、と思う僕はだいぶ恋心を(こじ)らせているんだろう。
「あ、クリスマスになったらこの辺でイルミネーションもやるみたいだね」
 そういえばテレビで見たことあるかも、と続けた文の視線の先には、ケーキ屋の店先に貼られた色とりどりのポスター。十二月の後半になれば、このあたり一帯は光の装飾で彩られるのだという。
「イルミネーション……」
 僕は想像力が豊かなので、その単語を見た瞬間、脳内で映像が再生された。イルミネーションを一緒に見る、僕と文。
 マフラーとダッフルコートでモコモコになった文が、鮮やかな光の粒に照らされて笑う。「天舞くん、きれいだね」と言う文に、僕は颯爽と「もちろんイルミネーションも僕も美しいが、今一番輝いているのは文だよ」という言葉を贈る。文は驚いたあと、嬉しそうに目を細めて……。
「天舞くん?」
「はっ!」
 横から現実世界の文に名前を呼ばれ、僕の脳内映画は上映を終了した。
 不思議そうに首を傾げて顔を覗き込む文は、今の僕には刺激が強い。そのかわいい角度はなんなんだ。こっちは初恋なんだから、ちょっとは手加減してくれ。
 しかしそこまで考えて、僕はぴたりと動きを止めた。そして文と二人、ケーキ屋の前で立ち止まる。 
 僕には、脳内で映画を公開する前に、確かめるべきことがあった。
「ふ、文は……」
「うん」
「今年の、クリスマスは、その、何か予定は立てているのか?」
「予定?」
 そう。そもそも文がフリーなのかどうかをはっきりさせたい。万が一好きな相手がいたら……いや、その先は悲しくなるので考えないでおこう。
「誰かと、一緒に過ごす、とか」
 自分で聞いておきながら、心臓が痛くなってきた。もしここで文が「うん、好きな子がいるから誘おうと思ってる」なんて言い出したら、僕は泡を吹いて倒れるかもしれない。
 文がじっと僕を見つめる。周囲のざわめきが聞こえなくなる。文の口がゆっくりと開いた。
 そのときだった。
「あれっ、天舞くんじゃない?」
「はい?」
 突然後ろから肩を叩かれて振り向くと、薄い色のサングラスをかけた中年の男が立っていた。スタイルがよくて若々しく見えるが、どうにもうさんくさい。
 しかしこの男、どこかで見たことがある。
「わ、絶対そう! 天舞くん、こんなところでどうしたの!」
「あ……」
 背中をばんばんと勢いよく叩かれて思い出した。 
 そうだ。この人は僕が芸能関係者のパーティーに招待されたときに、しきりに話しかけてきたモデル事務所の社長……だった気がする。
 当時の僕は名刺をもらってご機嫌になっていたけれど、文と大事な話をしている今この瞬間は、全くご機嫌になれない。
「ええとですね、今ちょっと」
「いや~、会えて嬉しいよ! 今ちょうどモデルさんたちもファンミーティングやるところだからさ、天舞くんも行こうよ!」
「えっ!? いや、僕は」
 断る隙も与えられず、社長にぐいぐいと腕を引っ張られていく。僕は手に持っていたスニーカー入りの袋を落としてしまった。
 呆気に取られている文を呼ぼうとしたが、その姿は人波に紛れて見えなくなってしまった。天舞くん、と聞こえたのは気のせいだろうか。
 これはまずい。本当にまずい。
 僕の焦りなんて気にせずに、社長はどんどん足を進めていった。
「あの、本当に困りますので!」
「いいじゃん。ちょっとだけだよ~」
 イベントが開かれている広場は、若者たちでごった返していた。
 耳が痛いくらいの爆音で、軽快な音楽が鳴っている。
 即席のランウェイの上でポーズを決める華やかなモデルたち。向けられる無数のレンズ。
「あれって天舞じゃない?」
「本当だ! なんでここにいるの?」
 視線が一斉にこちらを向く。僕が知らない人たちが、天舞、と口々に僕の名前を呼ぶ。
 そういえば僕はそこそこの有名人だった、ということを今更思い出した。
 佐里山町では、僕はただの「御手洗天舞」として扱われていたから、もてはやされたり騒がれたりする感覚を忘れていた。
「本物のほうがいいじゃん!」
「やばい、顔ちっちゃい~」
 広場の真ん中まで進むと、ますますあたりは騒がしくなった。四方八方からシャッター音が響いてうるさい。勝手に当てられるライトが眩しかった。
「やっぱり天舞って顔きれいだよね~!」
「かっこいい~」
 そう。それは確かにそうだ。僕は誰よりも美しい。完璧な人間であり続けてきた。
「あ、天舞くんだ。初めまして」
「こんにちは~。最近投稿してないよね? どうしたの?」
 磨き上げられた容姿のモデルたちも話しかけてくる。上手く笑えなかった。僕はこんなところで、こんなことをしている場合じゃない。
 褒められるのも憧れの視線を受けるのも好きだった。自分が特別だと実感できるからだ。僕は特別な存在である自分を誇りに思っていた。
 けれど今の僕は、こんな状況を喜べない。
「天舞くん、このあとさぁ」
「本当に! 無理です!」
 またもや肩を叩こうとしてくる社長を振り切り、僕は人の少ないところを狙って駆け出した。
 僕の勢いに驚いた人たちが避けたところを通り抜け、がむしゃらに足を動かす。後ろから僕を呼ぶ声と、シャッター音が追いかけてきた。
「文!」
 先ほどのケーキ屋から少し離れた店先で、文はしゃがみ込んでいた。僕の声に顔を上げるが、心なしか青ざめている。
 僕は文の隣にしゃがんだ。息が切れて仕方がない。
「悪かった、文」
「……ううん。天舞くん、俺のところ来て大丈夫?」
「いい。だって僕は文と遊びに来たんだ」
 それ以外何を言えばいいのかわからなかった。
 文は笑いかけてくれたけれど、その表情は堅い。
「天舞くんって、本当にすごい人だったんだね」
 文から差し出された言葉が、嬉しくなかったのは初めてだった。
 僕はずっと文に「天舞くんはすごい」と思ってもらいたかった。
 けれどこれは、僕と文の間に線を引くようなものだ。
「……ごめん、俺、人に酔ったかも」
「文」
「恥ずかしい。ちょっと歩いただけなのに」
 文は僕から目を逸らして立ち上がった。僕は耳の奥が痺れた感覚に襲われて、何も返さないでいた。
「帰ろっか」
 どこからか、陽気なクリスマスソングが流れてくる。ふと、文が僕の買ったスニーカーの袋を持ってくれていることに気づいた。
「文、それ」
「うん」
「……ありがとう」
 重い空気の中、僕は文から袋を受け取った。
 心臓が痛かった。ときめきではなく、嫌な痛み。
 一瞬触れた文の指先は、ひどく冷たかった。