【文side】
毎朝、起きるのは午前五時半と決めている。
じいちゃんとばあちゃんはそれよりも早く起きて畑へ行く。俺は洗濯機を回して、その間に朝ごはんの支度をする母さんを手伝い、洗濯が終われば外で家族全員分の服を干す。
「さむ……」
いつの間にか冷たくなった空気が、洗濯物に触れる指先の温度を下げていく。それでもこれは俺に任された仕事なので、黙々と皺を伸ばした。雪が降れば、この大量の洗濯物を家の中に干さなければいけない。
「あ」
全部干し終えて家へ戻ると、居間の座卓に置いていたスマホに、ちょうどメッセージが入っていた。手に取ってみれば、送り主は天舞くん。そもそも俺がスマホで連絡を取り合う相手は天舞くんしかいないのだけれど。
おはよう、という文字に手を振る絵文字。つい頬が緩んで、冷えたままの指先で「おはよう」と返す。最近の俺の日課であり、ささやかな楽しみである。
天舞くんは、本当に優しい性格だと思う。
芋掘りに誘った日、転んでしまった天舞くんを俺が無神経に笑ったのに、俺の謝罪を受け入れ許してくれた。
それに、天舞くんは佐里山町の景色をきれいだと言ってくれる。東京でたくさん素敵なものを見てきたはずなのに、それでもこの町を褒める。
佐里山町は不便で地味な田舎だけれど、俺はこの町が好きだ。だから俺の好きなものを褒めてくれる天舞くんを見ると、無性に嬉しくなる。
「てんまくんから?」
「花、おはよう。そう、天舞くんから」
自分で起きてきた花が、背伸びして俺のスマホを覗き込もうとする。それから俺の顔を見て、にんまりと笑って腕をつついてきた。
「文にい、てんまくんが来てから楽しそうだよね」
「え?」
「なんだかウキウキしてるし、にこにこしてる!」
「そ、そう……?」
自覚がなかったから驚いた。でも確かに、天舞くんと一緒にいるのは楽しいし、遊びに来てくれるのも遊びに行くのもわくわくする。
花はじっと俺を見ながら、また腕に触れてきた。
「トクベツなんじゃない?」
「特別?」
「うん。てんまくんが、文にいのトクベツ」
「特別、ねぇ」
学校の友だちはみんな小学校からの長い付き合いだけれど、家族と友だちの中間のようで、天舞くんのような存在はいなかった。
都会と田舎、真逆の環境で過ごしてきたはずなのに、天舞くんと話をしているとぽんぽん言葉が出てくる。
もしかしたら親友ってやつなのかも、と考えて、そんな自分が恥ずかしくなった。
俺が一方的に天舞くんと仲がいいと思っているだけかもしれないのに。
「天舞くんって楽しい人だからね。また連れてくるよ」
照れ隠しに笑いかけると、花は目を細めてから、呆れたようにため息をついた。
「……文にいって、結構ニブいよね」
「鈍いってなにが?」
「わからないならいいですぅ~」
カワイソー、とかなんとか言って、花は顔を洗いに行ってしまった。俺は花の言葉を反芻してみたが、どうにもピンと来ない。鈍いって、なんの話だろう。可哀想って誰が?
花も難しい話をしてみたい年頃なのかも、なんてのんきに考えながら、俺は自分の頬を指で擦った。
将来はじいちゃんの跡を継いで農業に携わろう、とは思っているものの、学生の本分からはどうしても逃げられない。
学生の本分。特に、テストというものからは。
「どうしよ……」
俺は週明けに控えた中間テストへのストレスに苦しめられていた。田舎だろうがなんだろうが、テストは難しいし、いつも胃がキリキリと痛む。
元々あまり勉強が得意ではない俺は、同級生の中でも下位争いをしている。文系の暗記科目はまだいいが、数学や化学で応用を求められると、たちまち手が止まってしまう。俺には数字の羅列が呪文にしか見えない。
担任の巾木先生からは「家の仕事も大事だけど勉強もしっかりやれよ」と釘を刺されている。
困った。俺が思うに勉強というのは一定のセンスが必要で、しっかりやってもできない人はできないような仕組みになっている。
「文、珍しく難しい顔をしてるな」
「天舞くん」
放課後、数学の教科書を開いてうんうん唸っていたら、天舞くんが話しかけてきた。
今日も今日とて発光するような美しさ。長いまつ毛が下瞼に影を落として、ぱっちりとした目の形を余計に際立たせている。
つい見惚れてしまいそうになる自分に気づき、俺は取り繕うように言った。
「やばいんだよねぇ」
「テストか?」
「そう。数学と、化学と、ていうか全部やばいんだけど」
へろへろの声で言った俺に、天舞くんは「なるほど」と返して肩に手を置いてきた。ふわりと華やかな香りがして、胸がどきりと跳ねた。つい呼吸が浅くなる。
天舞くんって、他の人とは違う匂いがする。
「僕に任せろ、文」
「え?」
「僕が頭脳明晰だということを忘れたのか? この優秀な僕が、文の勉強をみてあげよう」
「いいの?」
俺が身を乗り出して聞くと、天舞くんは自信たっぷりの笑みを浮かべて「もちろんだ」と頷いた。
自己申告のとおり、天舞くんはとにかく成績がよい。一度見たものは覚えてしまうし、家に帰ってからの復習も欠かさないのだという。
そして天舞くんは、教えるのも上手い。
何度か課題を天舞くんに手伝ってもらったことがあるけれど、呪文のような問題を解きほぐして説明してくれるから、俺の頭でも理解できてしまう。
目の前に一筋の光が差した心地で、俺は前のめり気味に言った。
「でもどこでやろうか。うちでやると花と紘が大騒ぎしちゃうし、図書館は早くに閉まっちゃうし」
眉をひそめた俺に、天舞くんは「ごほん」と咳払いをしてから、俺に尋ねた。
「それなら、その、う、うちに来るか……っ?」
「天舞くんの家?」
天舞くんが無言で何度も頷く。お菓子を買ってもらう直前の、そわそわしている紘にちょっと似てるな、と思いながら俺は答えた。
「迷惑でなければ行きたいな。あ、土日でもいい?」
「土日……って、泊まりってことか!?」
「え、いいの?」
どうせならテスト直前の土日の日中に、というつもりで提案したけれど、泊まり、という単語に俺はつい食いついてしまった。
友だちの家に泊まって勉強なんてしたことがない。合宿みたいでわくわくする。
「いい! じゃあ決まりだ」
大きく頷く天舞くんの頬がほんのりと赤い。外は寒いけれど、教室の中は温かいからかもしれない。
「それではお世話になります」
俺も深々と頭を下げると、天舞くんが笑った気配がした。
こうして、俺の悲惨な成績をなんとかすべく、突発の勉強合宿が開催されることになった。
***
その日は朝から曇り空で、お昼すぎに俺が天舞くんの家に着いたころには、今にも降り出しそうなくらいに空模様が怪しくなっていた。
「降るかなぁ」
ひとり呟いてから自転車を停める。
天舞くんの住む家は、俺の家より年季が入って小さいが、不思議と広く感じる。きっと御手洗家の手入れがいいんだろう。
天舞くんの容姿がきらきらに輝いているのはよくわかっているけれど、御手洗家はご両親もすごい。
お母さんは現れた途端、周りに花びらが散りそうなほどの美人だし、お父さんは目鼻立ちがくっきりして「映画の主演やったことありますよね?」と聞きたくなるくらいスタイルがいい。
ちなみに、どちらも芸能人ではなく、お母さんは主婦として家庭菜園を楽しみ、お父さんにいたっては町役場で農林関係の仕事をしている、らしい。家族全員並ぶとまぶしくてサングラスが欲しくなる。遺伝子ってすごい。
「こんにちは。一晩お邪魔します」
「あー! 文くん! ゆっくりしていって!」
「ありがとうございます」
庭先にいたお母さんに緊張しながら声をかけると、天舞くん並みによく通る声で返された。今日も元気だ、と思いながら玄関へ向かったところで、ばたばたと天舞くんが現れる。
「よく来たな! 文!」
「天舞くん。出来の悪い生徒だけど、なんとか面倒見てください」
「任せろ」
頼もしい返事を聞いてから、天舞くんと一緒に一番奥の部屋へ向かう。天舞くんの部屋だ。
八畳の和室は白と灰色で統一されて、少し背の低いベッドの前には足の細いローテーブルが置かれている。本棚には教科書に加えて英語の本。俺が見たこともないような雑誌も並んでいる。
天舞くんの部屋は、いつ来てもおしゃれだ。男子高校生の部屋ってこんなにすっきり片付くことあるんだぁ、なんて考えながら、俺は壁にかかった前衛的な絵を眺める。
こういう絵って、どこで買うんだろう。花と紘の絵や習字が、壁一面に飾られている俺の家とは似ても似つかない。
さらに言えば天舞くんの家は、どれもこれも俺が見たことのないものばかりだ。人の家のものをじろじろ見るなんてよくないけれど、家電もハイテクそうなものを使っているし、この前なんていい香りをぎゅっと集めたような紅茶もごちそうになった。
俺とは全然住む世界が違う。
卑下するわけじゃなくて、事実としてそう思う。
「文も座ったらいい」
天舞くんはローテーブルの脇に腰を下ろし、そう言って隣を勧めてくれた。
「うん。よろしくお願いします」
リュックを下ろして天舞くんの横に座ると、肩がぶつかった。ごめんごめん、と俺が言う前に、天舞くんは「わ!」と思いきり身体を引く。
「……天舞くん?」
「あ、い、いや、なんでもない」
なんでもない、と言うわりには随分目が泳いでいる。俺のぶつかる力が強すぎたのかもしれない。天舞くんって、運動はできるけどすらっとしているし。
「よし、じゃあ数学からだ」
「ええ~……」
「えー、じゃない。こういうのは苦手なのからやったほうがいいんだ」
「はい、御手洗先生」
天舞くんが「先生呼び、悪くないな」と嬉しそうににやけたので、俺もつられて笑った。今度は肘と肘が触れ合って、また天舞くんは「わ」と身体を揺らしたけれど、俺は気にしないことにした。
「う~、ちょっと休憩!」
「だいぶ解けるようになってきたな」
うちでお目にかかれないしゃれた夕食をごちそうになり、それぞれお風呂に入ってから、俺たちは夜の部の勉強会を続けていた。
外では雨が降り出している。
計算をしすぎて頭の内側が熱いが、やっぱり天舞くんは教えるのが上手くて、俺でも基本的な問題ならわかるようになってきた。
「……俺の勉強ばっかり見てもらってるけど、天舞くんは大丈夫?」
「文、僕を誰だと思ってるんだ」
「天舞くん」
即答すると、天舞はわざとらしく前髪をかき上げた。間違いなくかっこいいんだけど、ちょっと仕草が古いのも天舞くんの特徴ではある。
「そう! 僕は普段からコツコツ勉強しているから、テスト前に慌てふためかなくても平気なんだ」
「慌てふためいて失礼しました」
「おっ……いや、今のは嫌味じゃないぞ」
焦ったように言う天舞くんに「ふうん」と返して、俺はわざと肩をぶつけた。
天舞くんもやり返してくる、と思ったのに、なぜか不自然な沈黙が流れる。
天舞くんは咳払いをして、問題集を開いた。
「……雨、強くなってきたねぇ」
「そ、そうだな」
出してもらった烏龍茶をちびちび飲みながら、隣に座る天舞くんを見る。お風呂上がりで大きめの部屋着を着た天舞くんは、いつもよりも雰囲気が大人っぽくて、俺はなんとなく落ち着かない気分になった。
「文?」
「あっ、えっと」
じっと見つめていたら、顔をこちらに向けた天舞くんとばっちり目が合ってしまった。またもや訪れる沈黙。
何か言ったほうがいいかも、と俺は深く考えないまま言葉を紡いだ。
「なんだかわからないけど、緊張するね」
「……緊張してるのか?」
「緊張……してる、かも」
天舞くんがいつもよりももっとかっこよく見えるから。
けれど照れくさくて、そのまま口に出すことはできなかった。俺は肩をすくめて笑ってみせる。
天舞くんは喉の奥を「ぐう」と鳴らしてから、またもや問題集を読み始めた。上下逆さに読んでるけどいいのかな。
俺もペンを持ち直してみたけれど、文章を追っても全然頭に入ってこない。
「……すごい雨」
そうこうしているうちに、外はバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。俺は窓のほうを見て、ひっそりと呟く。
「大丈夫かな。花も紘も、雷が苦手だから」
俺が家にいたら、二人は「文にい!」と半泣きで俺の部屋に駆け込んできていただろう。
今頃どうしてるのかな、と考えていると、天舞くんが「それなら」と口を開いた。
「僕は雷なんて怖くないから、いざとなったら駆けつけてあげよう。そうしたら百人力だ」
「さすがぁ」
自信満々の口調に、頬が緩んだ。
花と紘が天舞くんに懐く理由がわかる。天舞くんは努力に裏打ちされた自信があるから、いつだって「大丈夫」だと言ってくれる。そばにいる人も、天舞くんがいれば大丈夫って気分になる。
「……天舞くんって、すごいよね」
「ん?」
「天舞くんと話してると、元気が出てくる」
「え、あ……そ、そうか」
僕にはそんな力もあるんだな、と天舞くんは目を泳がせた。
でも本当に、天舞くんってすごいと思う。何に対しても手を抜かない。誰かが見てるとか見てないとか、そんなの関係なしに全力を尽くしてしまう。頑張ることに理由を求めない。
俺はそのひたむきさに、知らないうちに勇気づけられている。
「天舞くんはこれから先も、たくさんの人を元気にするんだろうなって思う」
「ま、まあ、僕ならできると思うが」
「天舞くんだもんね」
「そうだ」
頷く天舞くんの瞳に俺が映っている。
今はこうして肩を並べているけれど、それは、天舞くんが優しいからだ。
「……俺は、この先も大したことできない気がする」
不意に、誰にも言うつもりがなかった弱音が口からこぼれ出て、自分でも戸惑った。こんな後ろ向きなこと、言われたほうが困るのに。
でも俺は、いつだって不安だ。
得意だと言えるものがひとつもない。そうやってゆらゆらと不安定なまま大人になるのって、怖いなって思う。
けれど天舞くんは表情を変えずに、静かに、けれどはっきりと言った。
「文はもう十分立派だ。特別何かをしようとか、何かになろうなんて思わなくていい」
天舞くんの声って不思議だ。真っ直ぐに、間違いなく俺に届く。耳だけじゃなくて、心の深いところにも。
「文は、文であるだけで価値がある」
「……そうかな」
「そうだ。自転車に乗れない僕を助けてくれただろ。文は優しいし、気が利くし……。僕は、文が笑っているのを見ると、元気が出る」
元気が出る、なんて言われて驚いた。俺なんかでも、天舞くんを元気づけられるのか。
天舞くんが俺の手を取った。その指先が冷たくてびっくりした。窓の外では雨が激しく降っている。遠くで聞こえる雷の音。
頭の隅で、じいちゃんが田んぼを見に行っていなければいいな、と場違いなことを考えた。
「僕は」
天舞くんの瞳が俺を捉える。
目を逸らせなくて胸の奥がぎゅう、と狭くなった。天舞くんの目って不思議だ。気泡の入っていない硝子玉みたいで、ずっと見ていたくなる。
「僕は、そんな文が」
そのときだ。
ぶつん、と電気が消えて、突然部屋の中が暗くなった。
天舞くんの姿はうっすらと見えていたけれど、叩きつけるような雨の音が部屋に満ちる。
「……停電?」
「そう、みたいだ」
俺が呟いたのに対して天舞くんが掠れた声で返す。電気が途絶えた部屋はしんとして、天舞くんの指の冷たさが余計に際立っているように思えた。
「えっと、ブレーカー、とか」
「あ、そうだな!」
天舞くんはやけに大きな声で応えると、勢いよくその場に立ち上がった。
が、俺の手を掴んだままだったので、俺の身体に引っ張られてぐらりとバランスを崩してしまった。
「天舞く」
危ない、と言おうとしたけれど、最後まで言葉は続かなかった。
天舞くんは口を「あ」の形にしたまま、俺のほうに倒れてきた。暗くてもそれは見えた。俺の口もつられて「あ」の形になる。
ぶつかる、と思った瞬間俺は目を閉じていた。天舞くんの手が俺の肩を掴む。
「ど、わっ!」
「う……」
俺は仰向けに倒れたけれど、覚悟していたほどの衝撃は訪れなかった。
ゆっくりとまぶたを開く。けれどまだ部屋は暗いままで、澄んだ二つの目と視線がぶつかった。
「…………」
「…………」
天舞くんに押し倒されるような格好で、俺たちは無言で見つめ合っていた。
たぶん、俺も天舞くんも、どう反応したらいいのかわからない、という感じ。
「えっ、あ、え」
天舞くんが意味をなさない声を漏らす。
それにしても、天舞くんって下から見てもきれいだ。ずっと見ていても飽きない。こんなに近くで見れる俺って、とても運がいいんじゃないかな。
すぐ近くで感じる呼吸と、天舞くんの甘く華やかな香り。吸い込んだら自分の肺までいい匂いになってしまいそうだ。
そう考え始めたら、気持ちが落ち着かなくなった。雨はずっと強いままだ。
落ち着かないのは、ばちばちと大げさな音を立てる雨のせいなんだろうか。
僕の手は天舞くんに掴まれたままで、互いの指先がぴくりと動いた。
「……天舞くん」
「えっ! あ、わっ、悪い!」
いつまでも倒れたままだとよろしくないのでは、と天舞くんの名前を呼んだら、びょいん、と音がしそうなくらいの反応で避けられた。跳躍力がすごい。掴まれた手が離れていく。
天舞くんはそのままベッドの上に飛び乗ると、正座をして裏返った声で続けた。
「違うんだ、わ、わざとじゃない、そういうつもりは一切ない、信じてほしい」
「う、うん、わかってるよ」
あまりの慌てっぷりに俺のほうも焦ってしまう。びっくりしたけど、怪我をしたわけでもないし。
でも天舞くんは両手で顔を覆って「うぉわ~……」と呻いたきり、動かなくなってしまった。ますます心配になって、俺は身体を起こして天舞くんの顔を下から覗き込む。
「天舞くん、どこか痛めた?」
「……いや、痛めてはないんだが」
その続きを待ってみたが、天舞くんの言葉はそこで終わりだった。
どうしたんだろう。やっぱりどこか怪我とかしたんじゃないかな。
もう一度名前を呼ぼうとしたそのとき。
「天舞~? 文くん? 大丈夫?」
引き戸の向こうから天舞くんのお母さんの声が響いた。それと同時にぱっと電気が点き、天舞くんも顔を上げて答える。
「だっ、大丈夫だ、これ以上なく!」
「…………」
俺は天舞くんの顔を見て、それからさりげなく視線を逸らした。天舞くんは「ちょっと行ってくる」と言い、いそいそと部屋から出て行った。
ひとり残された俺は、意味もなく正座をして首を捻る。
「うーん……?」
気のせいでなければ、だけど。
さっき見た天舞くんは、耳の先まで真っ赤になっていた。
そして中間テストがやってきた。
天舞くんの手伝いの甲斐もあって、俺はなんとか全教科で平均点を取ることができた。
苦手な理系科目も解答欄は全部埋めて、先生からも褒められた。俺にしては上出来だ。
「ありがとう。天舞くんのおかげ」
「ふふん。僕は教え方も超一流だからな」
全教科で満点近くを叩き出した天舞くんは、俺がお礼を言うと誇らしげに胸を張った。これ以上ないほど得意そうな表情を見ていると、なんだか楽しくなってくる。
「でも、文が頑張ったからだろ」
テレビの向こうで輝く芸能人みたいに整った微笑み。でも天舞くんはテレビの向こうじゃなくて、俺の目の前にいる。
天舞くんが優しいことが、嬉しい。
「ありがと。この調子で、次回も頑張らないとなぁ……」
並べたテストをしまいながら漏らすと、天舞くんが「ふふ」と笑って腰に手を当てた。
「また僕の家に来て勉強したらいい」
「そうだね、この前みたいに」
「そう、この前……」
そこまで言ったところで、天舞くんはぴたりと動きを止めた。そしてみるみるうちに、じわじわと顔が赤くなっていく。
なんだろう、と考えて、俺はあの日の一場面を思い出した。
すぐそばで感じた天舞くんの香り。吐息だけが満ちる暗い部屋。
——トクベツなんじゃない?
なぜか、花の言葉が耳の奥で響く。
「…………」
「…………」
「ま、また行くね」
「……ああ」
あの日のように真っ赤になった天舞くんを盗み見ながら、俺は熱くなった自分の頬に手を当てた。
うるさくなった心臓には、気づかないふりをして。
毎朝、起きるのは午前五時半と決めている。
じいちゃんとばあちゃんはそれよりも早く起きて畑へ行く。俺は洗濯機を回して、その間に朝ごはんの支度をする母さんを手伝い、洗濯が終われば外で家族全員分の服を干す。
「さむ……」
いつの間にか冷たくなった空気が、洗濯物に触れる指先の温度を下げていく。それでもこれは俺に任された仕事なので、黙々と皺を伸ばした。雪が降れば、この大量の洗濯物を家の中に干さなければいけない。
「あ」
全部干し終えて家へ戻ると、居間の座卓に置いていたスマホに、ちょうどメッセージが入っていた。手に取ってみれば、送り主は天舞くん。そもそも俺がスマホで連絡を取り合う相手は天舞くんしかいないのだけれど。
おはよう、という文字に手を振る絵文字。つい頬が緩んで、冷えたままの指先で「おはよう」と返す。最近の俺の日課であり、ささやかな楽しみである。
天舞くんは、本当に優しい性格だと思う。
芋掘りに誘った日、転んでしまった天舞くんを俺が無神経に笑ったのに、俺の謝罪を受け入れ許してくれた。
それに、天舞くんは佐里山町の景色をきれいだと言ってくれる。東京でたくさん素敵なものを見てきたはずなのに、それでもこの町を褒める。
佐里山町は不便で地味な田舎だけれど、俺はこの町が好きだ。だから俺の好きなものを褒めてくれる天舞くんを見ると、無性に嬉しくなる。
「てんまくんから?」
「花、おはよう。そう、天舞くんから」
自分で起きてきた花が、背伸びして俺のスマホを覗き込もうとする。それから俺の顔を見て、にんまりと笑って腕をつついてきた。
「文にい、てんまくんが来てから楽しそうだよね」
「え?」
「なんだかウキウキしてるし、にこにこしてる!」
「そ、そう……?」
自覚がなかったから驚いた。でも確かに、天舞くんと一緒にいるのは楽しいし、遊びに来てくれるのも遊びに行くのもわくわくする。
花はじっと俺を見ながら、また腕に触れてきた。
「トクベツなんじゃない?」
「特別?」
「うん。てんまくんが、文にいのトクベツ」
「特別、ねぇ」
学校の友だちはみんな小学校からの長い付き合いだけれど、家族と友だちの中間のようで、天舞くんのような存在はいなかった。
都会と田舎、真逆の環境で過ごしてきたはずなのに、天舞くんと話をしているとぽんぽん言葉が出てくる。
もしかしたら親友ってやつなのかも、と考えて、そんな自分が恥ずかしくなった。
俺が一方的に天舞くんと仲がいいと思っているだけかもしれないのに。
「天舞くんって楽しい人だからね。また連れてくるよ」
照れ隠しに笑いかけると、花は目を細めてから、呆れたようにため息をついた。
「……文にいって、結構ニブいよね」
「鈍いってなにが?」
「わからないならいいですぅ~」
カワイソー、とかなんとか言って、花は顔を洗いに行ってしまった。俺は花の言葉を反芻してみたが、どうにもピンと来ない。鈍いって、なんの話だろう。可哀想って誰が?
花も難しい話をしてみたい年頃なのかも、なんてのんきに考えながら、俺は自分の頬を指で擦った。
将来はじいちゃんの跡を継いで農業に携わろう、とは思っているものの、学生の本分からはどうしても逃げられない。
学生の本分。特に、テストというものからは。
「どうしよ……」
俺は週明けに控えた中間テストへのストレスに苦しめられていた。田舎だろうがなんだろうが、テストは難しいし、いつも胃がキリキリと痛む。
元々あまり勉強が得意ではない俺は、同級生の中でも下位争いをしている。文系の暗記科目はまだいいが、数学や化学で応用を求められると、たちまち手が止まってしまう。俺には数字の羅列が呪文にしか見えない。
担任の巾木先生からは「家の仕事も大事だけど勉強もしっかりやれよ」と釘を刺されている。
困った。俺が思うに勉強というのは一定のセンスが必要で、しっかりやってもできない人はできないような仕組みになっている。
「文、珍しく難しい顔をしてるな」
「天舞くん」
放課後、数学の教科書を開いてうんうん唸っていたら、天舞くんが話しかけてきた。
今日も今日とて発光するような美しさ。長いまつ毛が下瞼に影を落として、ぱっちりとした目の形を余計に際立たせている。
つい見惚れてしまいそうになる自分に気づき、俺は取り繕うように言った。
「やばいんだよねぇ」
「テストか?」
「そう。数学と、化学と、ていうか全部やばいんだけど」
へろへろの声で言った俺に、天舞くんは「なるほど」と返して肩に手を置いてきた。ふわりと華やかな香りがして、胸がどきりと跳ねた。つい呼吸が浅くなる。
天舞くんって、他の人とは違う匂いがする。
「僕に任せろ、文」
「え?」
「僕が頭脳明晰だということを忘れたのか? この優秀な僕が、文の勉強をみてあげよう」
「いいの?」
俺が身を乗り出して聞くと、天舞くんは自信たっぷりの笑みを浮かべて「もちろんだ」と頷いた。
自己申告のとおり、天舞くんはとにかく成績がよい。一度見たものは覚えてしまうし、家に帰ってからの復習も欠かさないのだという。
そして天舞くんは、教えるのも上手い。
何度か課題を天舞くんに手伝ってもらったことがあるけれど、呪文のような問題を解きほぐして説明してくれるから、俺の頭でも理解できてしまう。
目の前に一筋の光が差した心地で、俺は前のめり気味に言った。
「でもどこでやろうか。うちでやると花と紘が大騒ぎしちゃうし、図書館は早くに閉まっちゃうし」
眉をひそめた俺に、天舞くんは「ごほん」と咳払いをしてから、俺に尋ねた。
「それなら、その、う、うちに来るか……っ?」
「天舞くんの家?」
天舞くんが無言で何度も頷く。お菓子を買ってもらう直前の、そわそわしている紘にちょっと似てるな、と思いながら俺は答えた。
「迷惑でなければ行きたいな。あ、土日でもいい?」
「土日……って、泊まりってことか!?」
「え、いいの?」
どうせならテスト直前の土日の日中に、というつもりで提案したけれど、泊まり、という単語に俺はつい食いついてしまった。
友だちの家に泊まって勉強なんてしたことがない。合宿みたいでわくわくする。
「いい! じゃあ決まりだ」
大きく頷く天舞くんの頬がほんのりと赤い。外は寒いけれど、教室の中は温かいからかもしれない。
「それではお世話になります」
俺も深々と頭を下げると、天舞くんが笑った気配がした。
こうして、俺の悲惨な成績をなんとかすべく、突発の勉強合宿が開催されることになった。
***
その日は朝から曇り空で、お昼すぎに俺が天舞くんの家に着いたころには、今にも降り出しそうなくらいに空模様が怪しくなっていた。
「降るかなぁ」
ひとり呟いてから自転車を停める。
天舞くんの住む家は、俺の家より年季が入って小さいが、不思議と広く感じる。きっと御手洗家の手入れがいいんだろう。
天舞くんの容姿がきらきらに輝いているのはよくわかっているけれど、御手洗家はご両親もすごい。
お母さんは現れた途端、周りに花びらが散りそうなほどの美人だし、お父さんは目鼻立ちがくっきりして「映画の主演やったことありますよね?」と聞きたくなるくらいスタイルがいい。
ちなみに、どちらも芸能人ではなく、お母さんは主婦として家庭菜園を楽しみ、お父さんにいたっては町役場で農林関係の仕事をしている、らしい。家族全員並ぶとまぶしくてサングラスが欲しくなる。遺伝子ってすごい。
「こんにちは。一晩お邪魔します」
「あー! 文くん! ゆっくりしていって!」
「ありがとうございます」
庭先にいたお母さんに緊張しながら声をかけると、天舞くん並みによく通る声で返された。今日も元気だ、と思いながら玄関へ向かったところで、ばたばたと天舞くんが現れる。
「よく来たな! 文!」
「天舞くん。出来の悪い生徒だけど、なんとか面倒見てください」
「任せろ」
頼もしい返事を聞いてから、天舞くんと一緒に一番奥の部屋へ向かう。天舞くんの部屋だ。
八畳の和室は白と灰色で統一されて、少し背の低いベッドの前には足の細いローテーブルが置かれている。本棚には教科書に加えて英語の本。俺が見たこともないような雑誌も並んでいる。
天舞くんの部屋は、いつ来てもおしゃれだ。男子高校生の部屋ってこんなにすっきり片付くことあるんだぁ、なんて考えながら、俺は壁にかかった前衛的な絵を眺める。
こういう絵って、どこで買うんだろう。花と紘の絵や習字が、壁一面に飾られている俺の家とは似ても似つかない。
さらに言えば天舞くんの家は、どれもこれも俺が見たことのないものばかりだ。人の家のものをじろじろ見るなんてよくないけれど、家電もハイテクそうなものを使っているし、この前なんていい香りをぎゅっと集めたような紅茶もごちそうになった。
俺とは全然住む世界が違う。
卑下するわけじゃなくて、事実としてそう思う。
「文も座ったらいい」
天舞くんはローテーブルの脇に腰を下ろし、そう言って隣を勧めてくれた。
「うん。よろしくお願いします」
リュックを下ろして天舞くんの横に座ると、肩がぶつかった。ごめんごめん、と俺が言う前に、天舞くんは「わ!」と思いきり身体を引く。
「……天舞くん?」
「あ、い、いや、なんでもない」
なんでもない、と言うわりには随分目が泳いでいる。俺のぶつかる力が強すぎたのかもしれない。天舞くんって、運動はできるけどすらっとしているし。
「よし、じゃあ数学からだ」
「ええ~……」
「えー、じゃない。こういうのは苦手なのからやったほうがいいんだ」
「はい、御手洗先生」
天舞くんが「先生呼び、悪くないな」と嬉しそうににやけたので、俺もつられて笑った。今度は肘と肘が触れ合って、また天舞くんは「わ」と身体を揺らしたけれど、俺は気にしないことにした。
「う~、ちょっと休憩!」
「だいぶ解けるようになってきたな」
うちでお目にかかれないしゃれた夕食をごちそうになり、それぞれお風呂に入ってから、俺たちは夜の部の勉強会を続けていた。
外では雨が降り出している。
計算をしすぎて頭の内側が熱いが、やっぱり天舞くんは教えるのが上手くて、俺でも基本的な問題ならわかるようになってきた。
「……俺の勉強ばっかり見てもらってるけど、天舞くんは大丈夫?」
「文、僕を誰だと思ってるんだ」
「天舞くん」
即答すると、天舞はわざとらしく前髪をかき上げた。間違いなくかっこいいんだけど、ちょっと仕草が古いのも天舞くんの特徴ではある。
「そう! 僕は普段からコツコツ勉強しているから、テスト前に慌てふためかなくても平気なんだ」
「慌てふためいて失礼しました」
「おっ……いや、今のは嫌味じゃないぞ」
焦ったように言う天舞くんに「ふうん」と返して、俺はわざと肩をぶつけた。
天舞くんもやり返してくる、と思ったのに、なぜか不自然な沈黙が流れる。
天舞くんは咳払いをして、問題集を開いた。
「……雨、強くなってきたねぇ」
「そ、そうだな」
出してもらった烏龍茶をちびちび飲みながら、隣に座る天舞くんを見る。お風呂上がりで大きめの部屋着を着た天舞くんは、いつもよりも雰囲気が大人っぽくて、俺はなんとなく落ち着かない気分になった。
「文?」
「あっ、えっと」
じっと見つめていたら、顔をこちらに向けた天舞くんとばっちり目が合ってしまった。またもや訪れる沈黙。
何か言ったほうがいいかも、と俺は深く考えないまま言葉を紡いだ。
「なんだかわからないけど、緊張するね」
「……緊張してるのか?」
「緊張……してる、かも」
天舞くんがいつもよりももっとかっこよく見えるから。
けれど照れくさくて、そのまま口に出すことはできなかった。俺は肩をすくめて笑ってみせる。
天舞くんは喉の奥を「ぐう」と鳴らしてから、またもや問題集を読み始めた。上下逆さに読んでるけどいいのかな。
俺もペンを持ち直してみたけれど、文章を追っても全然頭に入ってこない。
「……すごい雨」
そうこうしているうちに、外はバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。俺は窓のほうを見て、ひっそりと呟く。
「大丈夫かな。花も紘も、雷が苦手だから」
俺が家にいたら、二人は「文にい!」と半泣きで俺の部屋に駆け込んできていただろう。
今頃どうしてるのかな、と考えていると、天舞くんが「それなら」と口を開いた。
「僕は雷なんて怖くないから、いざとなったら駆けつけてあげよう。そうしたら百人力だ」
「さすがぁ」
自信満々の口調に、頬が緩んだ。
花と紘が天舞くんに懐く理由がわかる。天舞くんは努力に裏打ちされた自信があるから、いつだって「大丈夫」だと言ってくれる。そばにいる人も、天舞くんがいれば大丈夫って気分になる。
「……天舞くんって、すごいよね」
「ん?」
「天舞くんと話してると、元気が出てくる」
「え、あ……そ、そうか」
僕にはそんな力もあるんだな、と天舞くんは目を泳がせた。
でも本当に、天舞くんってすごいと思う。何に対しても手を抜かない。誰かが見てるとか見てないとか、そんなの関係なしに全力を尽くしてしまう。頑張ることに理由を求めない。
俺はそのひたむきさに、知らないうちに勇気づけられている。
「天舞くんはこれから先も、たくさんの人を元気にするんだろうなって思う」
「ま、まあ、僕ならできると思うが」
「天舞くんだもんね」
「そうだ」
頷く天舞くんの瞳に俺が映っている。
今はこうして肩を並べているけれど、それは、天舞くんが優しいからだ。
「……俺は、この先も大したことできない気がする」
不意に、誰にも言うつもりがなかった弱音が口からこぼれ出て、自分でも戸惑った。こんな後ろ向きなこと、言われたほうが困るのに。
でも俺は、いつだって不安だ。
得意だと言えるものがひとつもない。そうやってゆらゆらと不安定なまま大人になるのって、怖いなって思う。
けれど天舞くんは表情を変えずに、静かに、けれどはっきりと言った。
「文はもう十分立派だ。特別何かをしようとか、何かになろうなんて思わなくていい」
天舞くんの声って不思議だ。真っ直ぐに、間違いなく俺に届く。耳だけじゃなくて、心の深いところにも。
「文は、文であるだけで価値がある」
「……そうかな」
「そうだ。自転車に乗れない僕を助けてくれただろ。文は優しいし、気が利くし……。僕は、文が笑っているのを見ると、元気が出る」
元気が出る、なんて言われて驚いた。俺なんかでも、天舞くんを元気づけられるのか。
天舞くんが俺の手を取った。その指先が冷たくてびっくりした。窓の外では雨が激しく降っている。遠くで聞こえる雷の音。
頭の隅で、じいちゃんが田んぼを見に行っていなければいいな、と場違いなことを考えた。
「僕は」
天舞くんの瞳が俺を捉える。
目を逸らせなくて胸の奥がぎゅう、と狭くなった。天舞くんの目って不思議だ。気泡の入っていない硝子玉みたいで、ずっと見ていたくなる。
「僕は、そんな文が」
そのときだ。
ぶつん、と電気が消えて、突然部屋の中が暗くなった。
天舞くんの姿はうっすらと見えていたけれど、叩きつけるような雨の音が部屋に満ちる。
「……停電?」
「そう、みたいだ」
俺が呟いたのに対して天舞くんが掠れた声で返す。電気が途絶えた部屋はしんとして、天舞くんの指の冷たさが余計に際立っているように思えた。
「えっと、ブレーカー、とか」
「あ、そうだな!」
天舞くんはやけに大きな声で応えると、勢いよくその場に立ち上がった。
が、俺の手を掴んだままだったので、俺の身体に引っ張られてぐらりとバランスを崩してしまった。
「天舞く」
危ない、と言おうとしたけれど、最後まで言葉は続かなかった。
天舞くんは口を「あ」の形にしたまま、俺のほうに倒れてきた。暗くてもそれは見えた。俺の口もつられて「あ」の形になる。
ぶつかる、と思った瞬間俺は目を閉じていた。天舞くんの手が俺の肩を掴む。
「ど、わっ!」
「う……」
俺は仰向けに倒れたけれど、覚悟していたほどの衝撃は訪れなかった。
ゆっくりとまぶたを開く。けれどまだ部屋は暗いままで、澄んだ二つの目と視線がぶつかった。
「…………」
「…………」
天舞くんに押し倒されるような格好で、俺たちは無言で見つめ合っていた。
たぶん、俺も天舞くんも、どう反応したらいいのかわからない、という感じ。
「えっ、あ、え」
天舞くんが意味をなさない声を漏らす。
それにしても、天舞くんって下から見てもきれいだ。ずっと見ていても飽きない。こんなに近くで見れる俺って、とても運がいいんじゃないかな。
すぐ近くで感じる呼吸と、天舞くんの甘く華やかな香り。吸い込んだら自分の肺までいい匂いになってしまいそうだ。
そう考え始めたら、気持ちが落ち着かなくなった。雨はずっと強いままだ。
落ち着かないのは、ばちばちと大げさな音を立てる雨のせいなんだろうか。
僕の手は天舞くんに掴まれたままで、互いの指先がぴくりと動いた。
「……天舞くん」
「えっ! あ、わっ、悪い!」
いつまでも倒れたままだとよろしくないのでは、と天舞くんの名前を呼んだら、びょいん、と音がしそうなくらいの反応で避けられた。跳躍力がすごい。掴まれた手が離れていく。
天舞くんはそのままベッドの上に飛び乗ると、正座をして裏返った声で続けた。
「違うんだ、わ、わざとじゃない、そういうつもりは一切ない、信じてほしい」
「う、うん、わかってるよ」
あまりの慌てっぷりに俺のほうも焦ってしまう。びっくりしたけど、怪我をしたわけでもないし。
でも天舞くんは両手で顔を覆って「うぉわ~……」と呻いたきり、動かなくなってしまった。ますます心配になって、俺は身体を起こして天舞くんの顔を下から覗き込む。
「天舞くん、どこか痛めた?」
「……いや、痛めてはないんだが」
その続きを待ってみたが、天舞くんの言葉はそこで終わりだった。
どうしたんだろう。やっぱりどこか怪我とかしたんじゃないかな。
もう一度名前を呼ぼうとしたそのとき。
「天舞~? 文くん? 大丈夫?」
引き戸の向こうから天舞くんのお母さんの声が響いた。それと同時にぱっと電気が点き、天舞くんも顔を上げて答える。
「だっ、大丈夫だ、これ以上なく!」
「…………」
俺は天舞くんの顔を見て、それからさりげなく視線を逸らした。天舞くんは「ちょっと行ってくる」と言い、いそいそと部屋から出て行った。
ひとり残された俺は、意味もなく正座をして首を捻る。
「うーん……?」
気のせいでなければ、だけど。
さっき見た天舞くんは、耳の先まで真っ赤になっていた。
そして中間テストがやってきた。
天舞くんの手伝いの甲斐もあって、俺はなんとか全教科で平均点を取ることができた。
苦手な理系科目も解答欄は全部埋めて、先生からも褒められた。俺にしては上出来だ。
「ありがとう。天舞くんのおかげ」
「ふふん。僕は教え方も超一流だからな」
全教科で満点近くを叩き出した天舞くんは、俺がお礼を言うと誇らしげに胸を張った。これ以上ないほど得意そうな表情を見ていると、なんだか楽しくなってくる。
「でも、文が頑張ったからだろ」
テレビの向こうで輝く芸能人みたいに整った微笑み。でも天舞くんはテレビの向こうじゃなくて、俺の目の前にいる。
天舞くんが優しいことが、嬉しい。
「ありがと。この調子で、次回も頑張らないとなぁ……」
並べたテストをしまいながら漏らすと、天舞くんが「ふふ」と笑って腰に手を当てた。
「また僕の家に来て勉強したらいい」
「そうだね、この前みたいに」
「そう、この前……」
そこまで言ったところで、天舞くんはぴたりと動きを止めた。そしてみるみるうちに、じわじわと顔が赤くなっていく。
なんだろう、と考えて、俺はあの日の一場面を思い出した。
すぐそばで感じた天舞くんの香り。吐息だけが満ちる暗い部屋。
——トクベツなんじゃない?
なぜか、花の言葉が耳の奥で響く。
「…………」
「…………」
「ま、また行くね」
「……ああ」
あの日のように真っ赤になった天舞くんを盗み見ながら、俺は熱くなった自分の頬に手を当てた。
うるさくなった心臓には、気づかないふりをして。
