近ごろの僕は絶好調だ。
唯一の欠点だった自転車を克服、そして新米や旬の野菜で肌と髪はつやつや。順応性もずば抜けているので、新しい友だちができて学校にも馴染んできた。
十月に入り、佐里山町を囲む山々は徐々に色を変え始めた。紅葉、という言葉は知識としては知っていたが、実際に緑から赤や黄色に変わっていく様子を見ていると、自分の中身まで色鮮やかになった気分になる。
スマホを取り出してカメラを構えてみたけれど、目で見るより美しくは撮れなくて断念した。悔しい。今度一眼レフでも買おうか。
雨上がりの朝の山には、綿飴を引き延ばしたような薄い雲がかかっていた。田んぼの脇を自転車で走る。相変わらず電波は悲しいほどに弱いが、あまり気にならなくなってきた。
「天舞くん、おはようさん」
「おじいさん、おはようございます!」
田んぼの脇を自転車で走っていると、文のおじいさんから声をかけられた。
先日稲刈りを終えたばかりの田んぼの真ん中で、藁を小脇に抱えてこちらに手を振っている。
「また遊びにおいでな」
「わかりました! お邪魔しますね!」
片手運転はルール違反、と思いつつも、僕も手を振り返す。文のおじいさんは顔をくしゃくしゃにして笑った。こちらまで気分がよくなる笑い方だ。そんなところは、文とよく似ている。
初めて文の家を訪ねてからというもの、僕と文はより友だちらしくなった、と思う。花ちゃんと紘くんは素直でかわいいし、お母さんは明るく楽しい。おばあちゃんとおじいちゃんはひたすらに優しい。秋田犬のポロまで僕を見ると尻尾を振る。
何よりも、みんな僕を手放しに褒めてくれるのが嬉しい。僕のことは遠慮せずにどんどん褒めてほしい。
先日、名実ともに「家族ぐるみ」になるため、僕は文を自分の家に招いた。
僕たちの住む貸家は、古いが広さはある平屋だ。掃除好きの母さんのおかげでいつも清潔だし、ちゃっかり役場へ勤め始めた父さんが家庭菜園に手を出して庭先も賑やかになった。
僕が文を家に連れて行くと、母さんと父さんはかつてないほどに大喜びしていた。父さんにいたっては柱にもたれかかって「あの天舞がなぁ」と涙ぐんでいた。一体なぜ。
「天舞くんの家って」
「ん?」
「なんていうか……みんな、輝いてるんだね……」
文は僕の両親の顔を見るなりそう呟いていた。確かに、僕ほどではないにせよ、母さんも父さんも背が高いし、顔立ちが整っている。
僕は文の肩をぽん、と軽く叩いて微笑みかけた。
「文には文のよさがある」
「それ、褒めてるんだよね?」
「当たり前だろ」
文は僕の言葉に吹き出して、顔いっぱいの笑顔を見せた。文の笑い方は、人の心をほっこりと温かくする効能がある、と僕は思う。
文はじっと目を見て話を聞いてくれる。僕が話す言葉の一つひとつを取りこぼさず、「そうなんだ」「すごいねぇ」と表情をころころ変えて相槌を打つ。
そんな反応をされると、こちらももっと話を聞かせたくなる。これまで通っていた学校ではなかったことだ。僕の美しさをカメラに収めようと遠くからシャッター音を鳴らす生徒はたくさんいたけれど、こんなに真正面から話を聞いてくれる相手はいなかった。
「文は人の話を聞く天才だと思う」
「何それ。初めて言われた」
天舞くんが人に話す天才なのかもよ、と続けられて、また心が温かくなる。
人とおしゃべりをするのは楽しい。自分が予想したとおりの反応が返ってくることもあれば、思いつきもしなかった考えが戻ってくることもある。
新しい楽しみの発見。僕はまたひとつ賢くなってしまった。
そして文と話せば話すほど、その口から「すごいね」を引き出したくなる。
「僕はよく読者モデルもやっていたから、学校にファンが押し寄せて大変なこともあったんだ」
「そうなんだぁ。天舞くん、かっこいいもんね」
「ま、まあな」
放課後、僕は文に出された数学の課題を手伝うため、一緒に教室に残っていた。
文は数学が苦手らしい。授業中も先生に当てられるとこの世の終わりのような顔をする。だが今は、どんな教科でもこなしてしまう僕の教えをしっかり理解して、ほぼすべての問題を解き終えていた。
というわけで、僕は文に、僕が東京でいかに華麗なる生活を送ってきたかを話して聞かせていた。この町からほとんど出たことのない文には新鮮だろう、と考えて。
いつも通りにこやかな文に、僕は「ふふん」と笑って続ける。
「そしてこれは読者モデルとしては異例なんだが、僕は芸能関係者しか参加できないパーティーに参加したこともある!」
「芸能関係者」
「そう。あちこちの事務所から声をかけられているんだ。高校のうちはできないとお断りしているけれど、ゆくゆくは僕もどこかに所属して活動するかもしれない」
「天舞くんならあっという間に有名人になっちゃいそうだねぇ」
ほう、と感心したように文が息を漏らす。そうだろう、と胸を張りたいところだったが、想定以上にすんなりと受け入れられてしまって拍子抜けだった。いや、褒めてもらっているのに拍子抜けというのも変な話なんだけれど。
たとえば、話の相手が文以外の同級生だったら反応は違っていただろう。僕に羨望の眼差しを向け、御手洗天舞はすごい奴だ、と驚くはずだ。
けれど文は僕の言葉を受け入れるだけだ。それならば文に羨んでほしいかというと、そうでもない。
自分でも考えがまとまらず、僕は半端な笑みを浮かべたまま動きを止めた。すると。
「あれ、御手洗くんと文くん、まだ残ってたんだ」
同級生の萱野さんが教室へ入ってきた。今日は彼女が日直だったから、先生の仕事を手伝っていたのかもしれない。
止まったままの僕の隣で、文が柔らかな声で答える。
「うん。数学の課題を手伝ってもらってた」
「文って本当に数学だめだよね」
呆れた様子でそう言って近づいてきた萱野さんに、文は照れたように笑う。
小学校からほとんど持ち上がりだという佐里山高校の二年生のメンバーは、男女関係なく仲がいい。
「…………」
僕は会話を続ける二人から目を逸らした。
喉のあたりが詰まったようになって、なんとなく苦しい。
薄々気づいていたが、気づかないふりをしていた。
文は、誰にでも優しい。
相手が僕だから笑いかけてくれるわけじゃなくて、相手が誰であっても、優しくにこやかに接するんだ。
***
文と話したあとはいつも晴れやかな気分で帰れるのに、今日の僕はちょっと様子がおかしかった。家に着いても胸のあたりがもやもやして、一向にすっきりしないのだ。ベッドに仰向けになって安静にしていても、どうにも状態は好転しない。
「まさか、何かの重い病……!?」
ハッとして胸を押さえてみるが、よく考えると痛いわけではない。僕は神に愛されているので、内臓まで完璧にできているはずだろうし。
けれど、だとしたらこの状態はなんなのだろう。
身体を起こして腕を組む。気持ちがすっきりしないという状態はよくない。気分を変えなければ、と僕はスマホを手に持った。
「…………」
相変わらず電波は脆弱。都会の華やかな生活を見せられてしまうSNSも、しばらく開いていない。
しかし僕は「たまには気分転換に見てもいいか」と思い、SNSを開いた。数字で示される反応の数は見なかったことにして、この街に来たばかりのころの写真を選ぶ。
青々とした山を背景に、僕が憂いを帯びた微笑みを浮かべている一枚だ。この写真を撮ったとき、僕は「こんな場所でも頑張っているよ」というコメントを付けて投稿するつもりだった。しかし、ちょうどその場所が圏外だったから諦めたのだ。
その他に、僕の自撮りはない。毎日じっくり鏡を見て自分の顔を観察しているが、「ファンに見せるための僕」はあまり意識しなくなった。意識しなくても、僕は飛び抜けて美しい。
ふと思いつきで、なんのコメントも付けずにアップロードしそこねていた写真を投稿してみた。すると、まだ数秒しか経たないうちに、反応の数が増えていく。
かっこいいとか、顔面が強いとか、天舞様とか、背景と顔がちぐはぐすぎて合成に見えるとか。
褒められるのはやっぱり気持ちがいい。それなのに、以前のように満たされいく感覚がない。穴の空いたバケツに水を注いでいるような、手応えのない賞賛。この画面の向こうにだって、生きた人間がいるのに。
――むなしい。
そんなふうに感じた自分に驚いた。この町に来る前の僕は、押し寄せる反応を誇りに思えていたはずなのに。そのとき。
「う、おわっ!」
突然画面に現れた「文」からのメッセージの通知に動揺して、僕はスマホを落としそうになった。
ぶつかる寸前で捕まえたが、危うく僕の顔に傷がつくところだった。
それにしても、文から連絡なんて珍しい。信じられないことに、文は普段、ほとんどスマホをいじらないのだ。現代人とは思えない。
文はゲームもSNSにもまるで興味がない。写真フォルダにはぶれぶれのポロの画像しかなかった。だからフォルダを賑やかにするために僕の自撮りをサービスで入れておいた。ポロもかわいいが、僕だって負けじとかわいい。
「『天舞くんへ』……」
絵文字も何もない、飾り気のない文章を、僕は食い入るように何度も読み返した。
「てんまくん見て! 紘のお芋おっきいよ!」
「花のほうが大きい~!」
「二人とも。悪いが、僕が掘った芋が一番大きい」
「え~!」
次の土曜日。僕は文からの誘いを受けて、鐘月家の畑で芋掘り大会……ならぬさつまいもの収穫の手伝いをしていた。
学校で言うのを忘れそうだから、という理由で文は珍しくスマホでメッセージを送ったそうだけれど「文字を打つのに時間かかっちゃって」と照れる文の姿を見るとむずむずした。僕はやはり何かの病気なのでは。
「てんまくん! これ大きいんじゃない?」
ふかふかの土を一心に掘っていくと、黒に近い色をしたさつまいもが顔を出す。スーパーの店頭で見せる姿とは全く違う。
実際に目で見て、手で触れて重みを感じて初めて、僕は芋が土の中で育つという常識を思い出した。
「お、確かに。でもこっちも大きく見える」
「じゃあこれ花のにする!」
「花、ずるい!」
「けんかはだめだぞ」
収穫の手伝い、といっても僕は花ちゃんと紘くんと掘った芋の大きさバトルをしているだけで、僕たちの後ろでは主力メンバーの大人たちが黙々と収穫を進めていた。もちろん文は主力のほうだ。
「花、紘。天舞くんの言うとおり。けんかはだめです」
二人の騒ぎを聞きつけた文が、わざと険しい顔を作って近づいてくる。花ちゃんと紘くんは「やば」と素直に大人しくなったが、文は元々が優しい顔つきなので、怒ってみせても全然怖くない。
むしろ無理をして叱っている空気が出ていて面白い。それに。
「文。ここ、土がついてるぞ」
「土?」
文の鼻の脇が土で汚れていた。文はすぐにそれを拭こうとして、けれど自分が土まみれの軍手を嵌めていることに気がつき、恥ずかしそうに笑った。
「どうしよう」
文の顔がほのかに赤くなる。出会ったころよりも少し伸びた癖っ毛が頬を撫でていた。
照れて肩をすくめる文の姿を見て、僕は無意識のうちにぽつりと漏らす。
「かわいい」
「え?」
「えっ?」
文に聞き返されて、僕も思わず大きな声が出てしまった。文が不思議そうに瞬きする。今度は僕の顔がじわじわと熱くなる番だった。
かわいい、ってなんだ。
顔に土がついた同級生を見て、なぜそんな言葉が出るんだ。
いや、文は顔立ちはぼんやりしているが、かわいいかかわいくないかで言えばかわいいほうで……いやいやいや、一体何を考えているんだ。僕は混乱したまま口を開いた。
「文、今のは」
「てんまくん、肩にでっかい虫がついてる!」
「む!?」
紘くんの発言に、僕は全身を強張らせた。虫。それもでっかい虫。気のせいか左の視界の隅でもぞもぞと何かが蠢いている気配がする。質量と体積を感じた。
「ひっ……!」
完璧な僕だが、虫とは仲良くなれる気がしない。正直なところ、芋掘り中にも時々、小さな虫がひょっこり出てきたのにも結構ぞっとしていた。なぜあんなに足があるんだ。
そしてそんな不可解な存在が、僕の肩に。
取ってあげる、と後ろから紘くんが手を伸ばしてきた。鐘月家の人々はなんて心強いのだろうか……と思った瞬間だった。
「ほら、でっかい!」
「うぉあ!?」
紘くんはなんと、手で掴んだその虫(直視はできないが足の数は僕よりも多かった)を僕の眼前に突きつけてきたのだ。
僕は悲鳴を上げてのけぞり、その反動で大きくバランスを崩した。そして。
「うごっ!」
ごろん、とその場にひっくり返ってしまった。
見上げた先に広がる空が青い。下が土だったからまだよかったものの、それでも腰がじんと痺れた。身体を起こすとあちこちが土まみれになっている。文の顔の汚れを指摘できる状況じゃない。
「天舞くん大丈夫!?」
「あ、ああ……」
すかさず文が僕の前にしゃがみ込む。紘くんはびっくりしたのか、目をまん丸にして僕を見ていた。すでに正体不明の虫はいなくなっている。
「びっくりしただけなんだ。虫が、大きくて」
僕は苦笑いを浮かべてそう言った。だって本当にそうだったから。
文はしばらく僕を見つめていた。そして突然、「ぶっ」と噴き出して、そのまま楽しそうに声を上げて笑い出した。
「もう。びっくりしすぎだよ、天舞くん」
屈託のない笑顔だった。悪意なんてこれっぽっちもない。
でも僕は上手く笑えなかった。文に、遠回しに「虫なんかで驚くなんて」と言われた気がした。
「…………」
「天舞くん?」
途端に恥ずかしくなった。顔は熱かったが、心臓は凍ったように冷えている。
「ごめん、僕は帰る」
「え?」
「用事を思い出した」
僕は立ち上がり顔を逸らした。文が戸惑っているのがわかる。でも、これ以上ここにはいられなかった。
――僕は、なんてかっこ悪いんだ……!
御手洗天舞は生を受けた瞬間からきらめいている完璧男子で、二十四時間三百六十五日かっこよくなくてはいけないというのに、虫に驚いてひっくり返るなんて。
絶対あってはいけないことだ。土まみれなのは前に自転車のときと同じだったから百歩譲ってまだいいとしても、今回のはだめだ。
「じゃあまた」
何も言わない文にそれだけ告げ、ついでに鐘月家の皆さんにも「それでは」と頭を下げて、僕は楽しかったはずの芋掘り会をあとにした。花ちゃんと紘くんが僕を呼んでいたが、僕の頭は「恥ずかしい」と「みっともない」でいっぱいだった。
文に、かっこ悪いところを見せて笑われてしまった。
消えてしまいたい。
生まれて初めてそう思った。
どんな困難も乗り越えられる僕だけれど、文に情けない姿を晒してしまったことは、どうしても耐えられそうになかった。
週明けの月曜日。僕はこの上なく重い心を抱えて登校した。
嫌なことは眠れば忘れる、と信じてきたけれど、眠るたびに「天舞くんって本当はダサかったんだね」と文に幻滅される夢ばかりを見た。
もし現実でも文からそんなことを言われたら、僕の肌に人生初のニキビができるかもしれない。
「天舞くん、おはよう」
「……おはよう」
いつも通りの時間にやってきた文が声をかけてきてくれた。が、その表情はどこかぎこちない。満点の笑顔ではなくて曇りのある笑顔。口の中でいくつもの言葉が転がっているが、外には出ない。
なんというか、これはたぶん「気まずい」ってやつだ。
「あの、天舞くん」
「文、ごめん。トイレに行ってくる」
「そ、そっか」
ざらついた雰囲気に耐えかねて、僕は席を立った。肌に感じる文の視線。それも振り切って廊下を進み、ひとりトイレへ入った瞬間、僕は深くため息をついた。
「僕は、何をしているんだ……!?」
鏡を見れば、苦悶に満ちた美しい少年がこちらを見ていた。今日もきめ細やかな肌だ、と感心してすぐに「いや、そうじゃないだろ」と頭を振る。
せっかく文が話しかけてくれたというのに、妙にクールに振る舞ってしまった。本来なら「この前は途中でいなくなって悪かった」と謝るべき場面だったのに。
でも文を見たら、僕がすっ転んだ姿で笑っていたところを思い出してたまらなくなる。
恥ずかしい。やっぱり消えたい。
僕が消えたら世界の損失なので本気で消えたいわけではないが、穴があったら入りたい。
始業の時間になり渋々教室へ帰ると、文は顔を上げて口を開き……すぐに俯いてしまった。普段見せてくれる柔らかな微笑みは消えている。
これはまずい。
さすがの僕も焦り始めた。文は視線を落としたまま、机の上で何度も指を組み直す。
僕が変な態度を取っているせいであんなに悲しげなのだろうか。困った。こういうとき、どうしたらいいんだろう。
あいにく僕には友だちと気まずくなったときの対処法の知識と経験がない。友だち、と呼べる相手ができたのはこれが初めてなのだから。
悶々としたまま授業は進み、僕は混乱のあまり昼休みも逃げるように教室から出て行ってしまった。当然、戻ってくると文はますます表情が堅くなっている。どうしていいのかわからず、僕は動揺して一時間につき筆箱を三回落とした。
「天舞くん」
「お……」
そして迎えた放課後。のそのそと片づけをしていた僕に、文が話しかけてきた。口元は笑みの形をしていたけれど、目には不安が映っている。僕は上手く笑えなかった。
悲しい顔をしている文は嫌だ。いや、ちがう。文が悲しいと思っていることが嫌だ。
「一緒に帰らない? その、嫌じゃなかったら」
「嫌じゃない!」
すかさず立ち上がって答えた僕に、文は目を瞬かせた。それから、ふっと表情を緩める。僕の心まで緩んだ気持ちになった。
「じゃあ、帰ろうか」
***
十月の半ばになると、夕方の景色はがらりと変わり、あんなに元気に僕らの帰り道を照らしていた太陽も随分おとなしくなった。
日の短さを全身で感じ、本当に地球は自転しているんだな、なんてことを考える。
僕と文は、自転車を押して帰っていた。
自転車に乗らなかったのは、たぶん今日はゆっくり話しながら帰ったほうがいいと、お互いにわかっていたからだ。
先に話を向けてくれたのは、やっぱり文のほうだった。
「俺、天舞くんの気持ちも考えずに無神経だった。天舞くんのことを笑ったりして。ごめんね」
文なりに色々考えたのだろう。僕は文を悩ませてしまったことが申し訳なくて、慌てて言葉を返す。
「違うんだ。僕はただ、文にみっともないところを見られて恥ずかしかったんだ」
「みっともなくないよ。笑った俺が悪い」
「う、でもあれは……。とにかく、文に幻滅されたと思った」
「俺が天舞くんに? まさか」
そんなこと考えたこともない、という調子で返されて、僕は嬉しいやら照れくさいやら、自分でも説明できない気持ちに戸惑った。
それでも、言わなければいけないことがある。
「……僕も、途中で帰ったりして、ごめん」
「大丈夫だよ」
「紘くんと花ちゃんにも謝らないといけない」
「謝らなくてもいいけど、紘はちょっと落ち込んでるから今度遊びに来てやって」
文が目を細めて微笑む。こっちの胸の奥が温かくなるような笑い方に、ほっとして力が抜けた。
「わかった。今から行く」
「今から?」
「だめかな。でも早く謝りたい。すぐ帰るから」
「だめじゃないよ。ご飯食べて行ってもいいし」
重かった空気がほどけていくみたいに、僕たちは言葉をかわす。文の瞳に橙色の光が映り込む。
ふと顔を上げると、黒い影になった山の向こうへ、焼けるような太陽が沈もうとしていた。
橙から青、そして紺から黒へ。徐々に変わっていく空の色と、その色が照らし出しているなだらかな田畑。神秘的と言ってもいい光景に、僕はそっと呟く。
「きれいだ」
心から純粋に、きれいだと思った。
僕は誰よりも美しいし、輝いているものをたくさん見てきたけれど、今目の前にある風景は、僕が知らなかったものだ。
僕の隣で、文が言う。
「天舞くんは、都会のいいところも知ってるし、田舎のいいところもわかってくれるんだね」
文の言葉には嘘がない。打算やお世辞なんて、文の中には存在しないのかもしれない。
「天舞くんのそういうところ、俺はすごいと思う」
唐突に、わかってしまった。
僕は文が笑うと嬉しい。文の前では「誰よりもかっこいい天舞くん」でいたい。僕が僕を完璧だと思っているだけじゃ、足りない。
上手く回らない舌を動かして、なんとか答える。
「ありがとう」
文がこちらを向く。真っ直ぐに僕を見る瞳が澄んでいて、それもきれいだと思った。
「寒くなってきたね、天舞くん」
「……そうだな」
胸の奥がぎゅっと狭くなる。
僕はきっと、文のことが好きなんだ。
唯一の欠点だった自転車を克服、そして新米や旬の野菜で肌と髪はつやつや。順応性もずば抜けているので、新しい友だちができて学校にも馴染んできた。
十月に入り、佐里山町を囲む山々は徐々に色を変え始めた。紅葉、という言葉は知識としては知っていたが、実際に緑から赤や黄色に変わっていく様子を見ていると、自分の中身まで色鮮やかになった気分になる。
スマホを取り出してカメラを構えてみたけれど、目で見るより美しくは撮れなくて断念した。悔しい。今度一眼レフでも買おうか。
雨上がりの朝の山には、綿飴を引き延ばしたような薄い雲がかかっていた。田んぼの脇を自転車で走る。相変わらず電波は悲しいほどに弱いが、あまり気にならなくなってきた。
「天舞くん、おはようさん」
「おじいさん、おはようございます!」
田んぼの脇を自転車で走っていると、文のおじいさんから声をかけられた。
先日稲刈りを終えたばかりの田んぼの真ん中で、藁を小脇に抱えてこちらに手を振っている。
「また遊びにおいでな」
「わかりました! お邪魔しますね!」
片手運転はルール違反、と思いつつも、僕も手を振り返す。文のおじいさんは顔をくしゃくしゃにして笑った。こちらまで気分がよくなる笑い方だ。そんなところは、文とよく似ている。
初めて文の家を訪ねてからというもの、僕と文はより友だちらしくなった、と思う。花ちゃんと紘くんは素直でかわいいし、お母さんは明るく楽しい。おばあちゃんとおじいちゃんはひたすらに優しい。秋田犬のポロまで僕を見ると尻尾を振る。
何よりも、みんな僕を手放しに褒めてくれるのが嬉しい。僕のことは遠慮せずにどんどん褒めてほしい。
先日、名実ともに「家族ぐるみ」になるため、僕は文を自分の家に招いた。
僕たちの住む貸家は、古いが広さはある平屋だ。掃除好きの母さんのおかげでいつも清潔だし、ちゃっかり役場へ勤め始めた父さんが家庭菜園に手を出して庭先も賑やかになった。
僕が文を家に連れて行くと、母さんと父さんはかつてないほどに大喜びしていた。父さんにいたっては柱にもたれかかって「あの天舞がなぁ」と涙ぐんでいた。一体なぜ。
「天舞くんの家って」
「ん?」
「なんていうか……みんな、輝いてるんだね……」
文は僕の両親の顔を見るなりそう呟いていた。確かに、僕ほどではないにせよ、母さんも父さんも背が高いし、顔立ちが整っている。
僕は文の肩をぽん、と軽く叩いて微笑みかけた。
「文には文のよさがある」
「それ、褒めてるんだよね?」
「当たり前だろ」
文は僕の言葉に吹き出して、顔いっぱいの笑顔を見せた。文の笑い方は、人の心をほっこりと温かくする効能がある、と僕は思う。
文はじっと目を見て話を聞いてくれる。僕が話す言葉の一つひとつを取りこぼさず、「そうなんだ」「すごいねぇ」と表情をころころ変えて相槌を打つ。
そんな反応をされると、こちらももっと話を聞かせたくなる。これまで通っていた学校ではなかったことだ。僕の美しさをカメラに収めようと遠くからシャッター音を鳴らす生徒はたくさんいたけれど、こんなに真正面から話を聞いてくれる相手はいなかった。
「文は人の話を聞く天才だと思う」
「何それ。初めて言われた」
天舞くんが人に話す天才なのかもよ、と続けられて、また心が温かくなる。
人とおしゃべりをするのは楽しい。自分が予想したとおりの反応が返ってくることもあれば、思いつきもしなかった考えが戻ってくることもある。
新しい楽しみの発見。僕はまたひとつ賢くなってしまった。
そして文と話せば話すほど、その口から「すごいね」を引き出したくなる。
「僕はよく読者モデルもやっていたから、学校にファンが押し寄せて大変なこともあったんだ」
「そうなんだぁ。天舞くん、かっこいいもんね」
「ま、まあな」
放課後、僕は文に出された数学の課題を手伝うため、一緒に教室に残っていた。
文は数学が苦手らしい。授業中も先生に当てられるとこの世の終わりのような顔をする。だが今は、どんな教科でもこなしてしまう僕の教えをしっかり理解して、ほぼすべての問題を解き終えていた。
というわけで、僕は文に、僕が東京でいかに華麗なる生活を送ってきたかを話して聞かせていた。この町からほとんど出たことのない文には新鮮だろう、と考えて。
いつも通りにこやかな文に、僕は「ふふん」と笑って続ける。
「そしてこれは読者モデルとしては異例なんだが、僕は芸能関係者しか参加できないパーティーに参加したこともある!」
「芸能関係者」
「そう。あちこちの事務所から声をかけられているんだ。高校のうちはできないとお断りしているけれど、ゆくゆくは僕もどこかに所属して活動するかもしれない」
「天舞くんならあっという間に有名人になっちゃいそうだねぇ」
ほう、と感心したように文が息を漏らす。そうだろう、と胸を張りたいところだったが、想定以上にすんなりと受け入れられてしまって拍子抜けだった。いや、褒めてもらっているのに拍子抜けというのも変な話なんだけれど。
たとえば、話の相手が文以外の同級生だったら反応は違っていただろう。僕に羨望の眼差しを向け、御手洗天舞はすごい奴だ、と驚くはずだ。
けれど文は僕の言葉を受け入れるだけだ。それならば文に羨んでほしいかというと、そうでもない。
自分でも考えがまとまらず、僕は半端な笑みを浮かべたまま動きを止めた。すると。
「あれ、御手洗くんと文くん、まだ残ってたんだ」
同級生の萱野さんが教室へ入ってきた。今日は彼女が日直だったから、先生の仕事を手伝っていたのかもしれない。
止まったままの僕の隣で、文が柔らかな声で答える。
「うん。数学の課題を手伝ってもらってた」
「文って本当に数学だめだよね」
呆れた様子でそう言って近づいてきた萱野さんに、文は照れたように笑う。
小学校からほとんど持ち上がりだという佐里山高校の二年生のメンバーは、男女関係なく仲がいい。
「…………」
僕は会話を続ける二人から目を逸らした。
喉のあたりが詰まったようになって、なんとなく苦しい。
薄々気づいていたが、気づかないふりをしていた。
文は、誰にでも優しい。
相手が僕だから笑いかけてくれるわけじゃなくて、相手が誰であっても、優しくにこやかに接するんだ。
***
文と話したあとはいつも晴れやかな気分で帰れるのに、今日の僕はちょっと様子がおかしかった。家に着いても胸のあたりがもやもやして、一向にすっきりしないのだ。ベッドに仰向けになって安静にしていても、どうにも状態は好転しない。
「まさか、何かの重い病……!?」
ハッとして胸を押さえてみるが、よく考えると痛いわけではない。僕は神に愛されているので、内臓まで完璧にできているはずだろうし。
けれど、だとしたらこの状態はなんなのだろう。
身体を起こして腕を組む。気持ちがすっきりしないという状態はよくない。気分を変えなければ、と僕はスマホを手に持った。
「…………」
相変わらず電波は脆弱。都会の華やかな生活を見せられてしまうSNSも、しばらく開いていない。
しかし僕は「たまには気分転換に見てもいいか」と思い、SNSを開いた。数字で示される反応の数は見なかったことにして、この街に来たばかりのころの写真を選ぶ。
青々とした山を背景に、僕が憂いを帯びた微笑みを浮かべている一枚だ。この写真を撮ったとき、僕は「こんな場所でも頑張っているよ」というコメントを付けて投稿するつもりだった。しかし、ちょうどその場所が圏外だったから諦めたのだ。
その他に、僕の自撮りはない。毎日じっくり鏡を見て自分の顔を観察しているが、「ファンに見せるための僕」はあまり意識しなくなった。意識しなくても、僕は飛び抜けて美しい。
ふと思いつきで、なんのコメントも付けずにアップロードしそこねていた写真を投稿してみた。すると、まだ数秒しか経たないうちに、反応の数が増えていく。
かっこいいとか、顔面が強いとか、天舞様とか、背景と顔がちぐはぐすぎて合成に見えるとか。
褒められるのはやっぱり気持ちがいい。それなのに、以前のように満たされいく感覚がない。穴の空いたバケツに水を注いでいるような、手応えのない賞賛。この画面の向こうにだって、生きた人間がいるのに。
――むなしい。
そんなふうに感じた自分に驚いた。この町に来る前の僕は、押し寄せる反応を誇りに思えていたはずなのに。そのとき。
「う、おわっ!」
突然画面に現れた「文」からのメッセージの通知に動揺して、僕はスマホを落としそうになった。
ぶつかる寸前で捕まえたが、危うく僕の顔に傷がつくところだった。
それにしても、文から連絡なんて珍しい。信じられないことに、文は普段、ほとんどスマホをいじらないのだ。現代人とは思えない。
文はゲームもSNSにもまるで興味がない。写真フォルダにはぶれぶれのポロの画像しかなかった。だからフォルダを賑やかにするために僕の自撮りをサービスで入れておいた。ポロもかわいいが、僕だって負けじとかわいい。
「『天舞くんへ』……」
絵文字も何もない、飾り気のない文章を、僕は食い入るように何度も読み返した。
「てんまくん見て! 紘のお芋おっきいよ!」
「花のほうが大きい~!」
「二人とも。悪いが、僕が掘った芋が一番大きい」
「え~!」
次の土曜日。僕は文からの誘いを受けて、鐘月家の畑で芋掘り大会……ならぬさつまいもの収穫の手伝いをしていた。
学校で言うのを忘れそうだから、という理由で文は珍しくスマホでメッセージを送ったそうだけれど「文字を打つのに時間かかっちゃって」と照れる文の姿を見るとむずむずした。僕はやはり何かの病気なのでは。
「てんまくん! これ大きいんじゃない?」
ふかふかの土を一心に掘っていくと、黒に近い色をしたさつまいもが顔を出す。スーパーの店頭で見せる姿とは全く違う。
実際に目で見て、手で触れて重みを感じて初めて、僕は芋が土の中で育つという常識を思い出した。
「お、確かに。でもこっちも大きく見える」
「じゃあこれ花のにする!」
「花、ずるい!」
「けんかはだめだぞ」
収穫の手伝い、といっても僕は花ちゃんと紘くんと掘った芋の大きさバトルをしているだけで、僕たちの後ろでは主力メンバーの大人たちが黙々と収穫を進めていた。もちろん文は主力のほうだ。
「花、紘。天舞くんの言うとおり。けんかはだめです」
二人の騒ぎを聞きつけた文が、わざと険しい顔を作って近づいてくる。花ちゃんと紘くんは「やば」と素直に大人しくなったが、文は元々が優しい顔つきなので、怒ってみせても全然怖くない。
むしろ無理をして叱っている空気が出ていて面白い。それに。
「文。ここ、土がついてるぞ」
「土?」
文の鼻の脇が土で汚れていた。文はすぐにそれを拭こうとして、けれど自分が土まみれの軍手を嵌めていることに気がつき、恥ずかしそうに笑った。
「どうしよう」
文の顔がほのかに赤くなる。出会ったころよりも少し伸びた癖っ毛が頬を撫でていた。
照れて肩をすくめる文の姿を見て、僕は無意識のうちにぽつりと漏らす。
「かわいい」
「え?」
「えっ?」
文に聞き返されて、僕も思わず大きな声が出てしまった。文が不思議そうに瞬きする。今度は僕の顔がじわじわと熱くなる番だった。
かわいい、ってなんだ。
顔に土がついた同級生を見て、なぜそんな言葉が出るんだ。
いや、文は顔立ちはぼんやりしているが、かわいいかかわいくないかで言えばかわいいほうで……いやいやいや、一体何を考えているんだ。僕は混乱したまま口を開いた。
「文、今のは」
「てんまくん、肩にでっかい虫がついてる!」
「む!?」
紘くんの発言に、僕は全身を強張らせた。虫。それもでっかい虫。気のせいか左の視界の隅でもぞもぞと何かが蠢いている気配がする。質量と体積を感じた。
「ひっ……!」
完璧な僕だが、虫とは仲良くなれる気がしない。正直なところ、芋掘り中にも時々、小さな虫がひょっこり出てきたのにも結構ぞっとしていた。なぜあんなに足があるんだ。
そしてそんな不可解な存在が、僕の肩に。
取ってあげる、と後ろから紘くんが手を伸ばしてきた。鐘月家の人々はなんて心強いのだろうか……と思った瞬間だった。
「ほら、でっかい!」
「うぉあ!?」
紘くんはなんと、手で掴んだその虫(直視はできないが足の数は僕よりも多かった)を僕の眼前に突きつけてきたのだ。
僕は悲鳴を上げてのけぞり、その反動で大きくバランスを崩した。そして。
「うごっ!」
ごろん、とその場にひっくり返ってしまった。
見上げた先に広がる空が青い。下が土だったからまだよかったものの、それでも腰がじんと痺れた。身体を起こすとあちこちが土まみれになっている。文の顔の汚れを指摘できる状況じゃない。
「天舞くん大丈夫!?」
「あ、ああ……」
すかさず文が僕の前にしゃがみ込む。紘くんはびっくりしたのか、目をまん丸にして僕を見ていた。すでに正体不明の虫はいなくなっている。
「びっくりしただけなんだ。虫が、大きくて」
僕は苦笑いを浮かべてそう言った。だって本当にそうだったから。
文はしばらく僕を見つめていた。そして突然、「ぶっ」と噴き出して、そのまま楽しそうに声を上げて笑い出した。
「もう。びっくりしすぎだよ、天舞くん」
屈託のない笑顔だった。悪意なんてこれっぽっちもない。
でも僕は上手く笑えなかった。文に、遠回しに「虫なんかで驚くなんて」と言われた気がした。
「…………」
「天舞くん?」
途端に恥ずかしくなった。顔は熱かったが、心臓は凍ったように冷えている。
「ごめん、僕は帰る」
「え?」
「用事を思い出した」
僕は立ち上がり顔を逸らした。文が戸惑っているのがわかる。でも、これ以上ここにはいられなかった。
――僕は、なんてかっこ悪いんだ……!
御手洗天舞は生を受けた瞬間からきらめいている完璧男子で、二十四時間三百六十五日かっこよくなくてはいけないというのに、虫に驚いてひっくり返るなんて。
絶対あってはいけないことだ。土まみれなのは前に自転車のときと同じだったから百歩譲ってまだいいとしても、今回のはだめだ。
「じゃあまた」
何も言わない文にそれだけ告げ、ついでに鐘月家の皆さんにも「それでは」と頭を下げて、僕は楽しかったはずの芋掘り会をあとにした。花ちゃんと紘くんが僕を呼んでいたが、僕の頭は「恥ずかしい」と「みっともない」でいっぱいだった。
文に、かっこ悪いところを見せて笑われてしまった。
消えてしまいたい。
生まれて初めてそう思った。
どんな困難も乗り越えられる僕だけれど、文に情けない姿を晒してしまったことは、どうしても耐えられそうになかった。
週明けの月曜日。僕はこの上なく重い心を抱えて登校した。
嫌なことは眠れば忘れる、と信じてきたけれど、眠るたびに「天舞くんって本当はダサかったんだね」と文に幻滅される夢ばかりを見た。
もし現実でも文からそんなことを言われたら、僕の肌に人生初のニキビができるかもしれない。
「天舞くん、おはよう」
「……おはよう」
いつも通りの時間にやってきた文が声をかけてきてくれた。が、その表情はどこかぎこちない。満点の笑顔ではなくて曇りのある笑顔。口の中でいくつもの言葉が転がっているが、外には出ない。
なんというか、これはたぶん「気まずい」ってやつだ。
「あの、天舞くん」
「文、ごめん。トイレに行ってくる」
「そ、そっか」
ざらついた雰囲気に耐えかねて、僕は席を立った。肌に感じる文の視線。それも振り切って廊下を進み、ひとりトイレへ入った瞬間、僕は深くため息をついた。
「僕は、何をしているんだ……!?」
鏡を見れば、苦悶に満ちた美しい少年がこちらを見ていた。今日もきめ細やかな肌だ、と感心してすぐに「いや、そうじゃないだろ」と頭を振る。
せっかく文が話しかけてくれたというのに、妙にクールに振る舞ってしまった。本来なら「この前は途中でいなくなって悪かった」と謝るべき場面だったのに。
でも文を見たら、僕がすっ転んだ姿で笑っていたところを思い出してたまらなくなる。
恥ずかしい。やっぱり消えたい。
僕が消えたら世界の損失なので本気で消えたいわけではないが、穴があったら入りたい。
始業の時間になり渋々教室へ帰ると、文は顔を上げて口を開き……すぐに俯いてしまった。普段見せてくれる柔らかな微笑みは消えている。
これはまずい。
さすがの僕も焦り始めた。文は視線を落としたまま、机の上で何度も指を組み直す。
僕が変な態度を取っているせいであんなに悲しげなのだろうか。困った。こういうとき、どうしたらいいんだろう。
あいにく僕には友だちと気まずくなったときの対処法の知識と経験がない。友だち、と呼べる相手ができたのはこれが初めてなのだから。
悶々としたまま授業は進み、僕は混乱のあまり昼休みも逃げるように教室から出て行ってしまった。当然、戻ってくると文はますます表情が堅くなっている。どうしていいのかわからず、僕は動揺して一時間につき筆箱を三回落とした。
「天舞くん」
「お……」
そして迎えた放課後。のそのそと片づけをしていた僕に、文が話しかけてきた。口元は笑みの形をしていたけれど、目には不安が映っている。僕は上手く笑えなかった。
悲しい顔をしている文は嫌だ。いや、ちがう。文が悲しいと思っていることが嫌だ。
「一緒に帰らない? その、嫌じゃなかったら」
「嫌じゃない!」
すかさず立ち上がって答えた僕に、文は目を瞬かせた。それから、ふっと表情を緩める。僕の心まで緩んだ気持ちになった。
「じゃあ、帰ろうか」
***
十月の半ばになると、夕方の景色はがらりと変わり、あんなに元気に僕らの帰り道を照らしていた太陽も随分おとなしくなった。
日の短さを全身で感じ、本当に地球は自転しているんだな、なんてことを考える。
僕と文は、自転車を押して帰っていた。
自転車に乗らなかったのは、たぶん今日はゆっくり話しながら帰ったほうがいいと、お互いにわかっていたからだ。
先に話を向けてくれたのは、やっぱり文のほうだった。
「俺、天舞くんの気持ちも考えずに無神経だった。天舞くんのことを笑ったりして。ごめんね」
文なりに色々考えたのだろう。僕は文を悩ませてしまったことが申し訳なくて、慌てて言葉を返す。
「違うんだ。僕はただ、文にみっともないところを見られて恥ずかしかったんだ」
「みっともなくないよ。笑った俺が悪い」
「う、でもあれは……。とにかく、文に幻滅されたと思った」
「俺が天舞くんに? まさか」
そんなこと考えたこともない、という調子で返されて、僕は嬉しいやら照れくさいやら、自分でも説明できない気持ちに戸惑った。
それでも、言わなければいけないことがある。
「……僕も、途中で帰ったりして、ごめん」
「大丈夫だよ」
「紘くんと花ちゃんにも謝らないといけない」
「謝らなくてもいいけど、紘はちょっと落ち込んでるから今度遊びに来てやって」
文が目を細めて微笑む。こっちの胸の奥が温かくなるような笑い方に、ほっとして力が抜けた。
「わかった。今から行く」
「今から?」
「だめかな。でも早く謝りたい。すぐ帰るから」
「だめじゃないよ。ご飯食べて行ってもいいし」
重かった空気がほどけていくみたいに、僕たちは言葉をかわす。文の瞳に橙色の光が映り込む。
ふと顔を上げると、黒い影になった山の向こうへ、焼けるような太陽が沈もうとしていた。
橙から青、そして紺から黒へ。徐々に変わっていく空の色と、その色が照らし出しているなだらかな田畑。神秘的と言ってもいい光景に、僕はそっと呟く。
「きれいだ」
心から純粋に、きれいだと思った。
僕は誰よりも美しいし、輝いているものをたくさん見てきたけれど、今目の前にある風景は、僕が知らなかったものだ。
僕の隣で、文が言う。
「天舞くんは、都会のいいところも知ってるし、田舎のいいところもわかってくれるんだね」
文の言葉には嘘がない。打算やお世辞なんて、文の中には存在しないのかもしれない。
「天舞くんのそういうところ、俺はすごいと思う」
唐突に、わかってしまった。
僕は文が笑うと嬉しい。文の前では「誰よりもかっこいい天舞くん」でいたい。僕が僕を完璧だと思っているだけじゃ、足りない。
上手く回らない舌を動かして、なんとか答える。
「ありがとう」
文がこちらを向く。真っ直ぐに僕を見る瞳が澄んでいて、それもきれいだと思った。
「寒くなってきたね、天舞くん」
「……そうだな」
胸の奥がぎゅっと狭くなる。
僕はきっと、文のことが好きなんだ。
