「どうして、僕がっ、こんな目に……!」
田んぼに囲まれた夜道を、僕は呻きながら歩いていた。
辺りは不安になるほど暗く、自転車を押す僕以外にひとけ気はない。ついさっき転んでしたたかに打ちつけた腰が、まだしつこく痛んでいる。
「ひどい、ひどすぎる!」
こんな田舎なんて来たくなかった。
人間には向き不向きがあるんだ。僕は完全に田舎に不向き。僕という素晴らしい人間は、都会で人の注目を浴びてこそ輝けるというのに。
「御手洗くん?」
「ひぇっ!」
そのとき、突然背後から声をかけられて、思わず変な声が出た。おばけが出たかもしれない、と思ったが、その声には聞き覚えがあった。
僕は足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……何か?」
そこには、わずかな街灯の明かりに照らされて、僕と同じくらいの歳の少年が立っていた。彼の傍らでは毛並みのいい秋田犬がハフハフ言っている。
同じくらいの歳、と形容したものの、事実、彼は僕と同い歳だ。
全校生徒約五十人の、佐里山高校の二年生。
挨拶以外に言葉をかわしたことはないが、名前は確か。
「やっぱり御手洗くんだ。あ、俺、同じ高校の鐘月文っていうんだけど」
そう言って、彼はこっちの気が抜けるような柔らかい笑みを浮かべた。
***
この世界に、僕よりも美しい人間っているんだろうか。
これは自惚れでもなんでもなく、純粋な疑問だ。
だって、これまで生きてきた十七年で、僕よりも優れた容姿の人間に出会ったことがない。
テレビやネットで多少整った顔立ちを見かけることはあるけれど、それでも僕……御手洗天舞のきらめくような美しさには勝てないように思う。誇張でもなんでもなく、僕はこの世に生を受けたその瞬間から完璧だった。
完璧に美しいからこそ、僕は周囲から尊ばれ、ちやほやされてきた。注目されることが大好きだ。SNSに写真を上げれば怒涛の勢いで拡散される。読者モデルや企業コラボだってこなしてきた。
僕は見た目がいいだけではなく、文武両道を志す素晴らしき努力家なので、多少の困難は自分の力でなんとかできてしまう。天は二物を与えず、なんて言葉があるけれど、僕に関しては大サービスで七物くらい与えられているんじゃないだろうか。
そう、僕のこれまでの十七年間は順風満帆そのものだった。
それなのに。
「どうして、世界一美しい僕が、こんな目に……!」
時刻は午後八時三十分。僕は土まみれになった自転車のハンドルを押しながら、明かりのまばらな道路を歩いていた。
両脇にはどこまでも続く田んぼ。というかこの町……佐里山町にあるものといえば、田んぼにあとは畑と山。豊かな緑と緑と緑。一番高い建物は町役場。嫌になるくらいの自然に囲まれている。僕の凛とした声の呟きすらもゲロゲロ声にかき消されてしまうのだから泣けてくる。
もう九月に入ったとはいえ空気はぬるく、3Dサラウンドで聞こえてくるカエルの鳴きで頭が痛くなった。
「ひどい、ひどすぎる」
全身が重かった。ちなみに土まみれなのは自転車だけではない。僕もだ。三ヶ月前にスポーツブランドから「ぜひ天舞くんに着てほしい」と贈られたジャージは上下ともに無惨な姿になっている。特に膝と肘の汚れがひどい。
理由は簡単。僕が自転車に乗る練習に四苦八苦したせいだ。
「なぜ、自転車なんか練習しないといけないんだ……!」
嘆きの問いは夜へと消えていく。
でも、「なぜか」なんて僕だってわかっている。この佐里山町において、高校生の通学には自転車が必須。
しかし一体、なんの運命のいたずらだろうか。
僕は、自転車に乗れないのだ。
「どうなってるんだ、どうしてあんなにみんな簡単に乗れるんだ……」
天に愛された僕は、人生で初めてかもしれない挫折を味わっていた。
自転車の練習を始めてもう三日が経つ。母さんがあらかじめ新しい自転車を準備してくれていたのはいいが、僕は小学三年生のとき両親に「自転車に乗れるようになった!」と嘘をついていたので、十七歳にもなって「実は乗れない」とは恥ずかしくて言い出せない。
そんなわけで、夜な夜な僕はこっそりと家を出て、自宅近くに見つけたこぢんまりとした広場で練習をしていた。しかし、この二輪の乗り物、なかなか手強い。
車輪の幅が狭いから、体重をかけるとぐらぐらと不安定になる。そして両足を地面から離した途端平衡を失う。
こんな奇天烈な乗り物、サーカス生まれの選ばれし者しか乗れないと思うのだが、どういうわけか学校のみんなは難なく乗れている。これは全員、サーカス生まれの可能性がある。
サーカスとは無縁で育った僕には、このバランスを取るという感覚がよくわからない。進もうと思っても進む前に転ぶ。脆弱な電波を頼りに、インターネットで調べて「勢いが大事」という知識は得たものの、より一層勢いよく転ぶだけだった。
おかげで、今日は過去最高に土まみれだ。ついでに蚊にも刺される。僕の上質な血はさぞかし美味しいだろう。
「一体どうすれば……」
解決の糸口が全く見えない。僕はこのまま惨めに毎日往復二時間かけて徒歩登校に甘んじるしかないのか。それはそれで体力がつきそうではあるが、僕の理想とする「完璧かつキラキライメージの御手洗天舞」からはほど遠い。
へこたれそうな僕の気持ちを表すかのように、自転車がキコキコと情けなく鳴る。プライドはめしょめしょに折れて、僕は泣き出しそうだった。
そんなときに、どこからか現れた鐘月くんが話しかけてきたのだ。
「御手洗くんと学校の外で会うのって初めてだね。このあたりに住んでるの?」
「……いや、そうでもない」
鐘月くんが随分と人懐っこく話しかけてくるので、かえって警戒してしまう。
そう、鐘月文。記憶力のいい僕は当然知っている。同級生からは「ふみ」と呼ばれていたはずだ。
純朴、を形にしたような真っ黒な髪。華やかな顔立ちではないが、話しかけやすそうな愛嬌がある。身長は僕よりも十センチ以上高い。
これまで僕の周りにはいなかった、どちらかといえばかわいらしいタイプだ。雰囲気が柔らかくて、よく声を上げて笑う。鐘月くんが笑うと、周りがほわっと明るくなる。丸い目がくりくりとよく動いて、その真っ直ぐな視線で見られるとどきりとする。
しかし鐘月くん、なんと学校指定のジャージのファスナーを、襟の一番上まで上げている。ちょっとダサ……いや、僕とは思想が違う。
鐘月くんは不思議そうに首を傾げると、僕の自転車に視線を送ってきた。
「自転車、どうしたの? パンク?」
「あ、え」
これはまずい。背中に冷や汗が浮いた。
まさか自転車に乗れないので練習をしていました、なんて言えるわけがない。東京から来た完璧男子御手洗くんがそんなこともできないのか、と絶対に馬鹿にされる。
「服も汚れてるけど、大丈夫? どこかで転んだりとかした?」
「いや! 違う、違うんだ!」
無様に転んだことを知られたくなかった。恥ずかしさと焦りで声が裏返ってますますかっこ悪い。
鐘月くんは丸い目を瞬かせて僕を見たが、その真っ直ぐな眼差しが痛かった。
僕は慌てて自転車のハンドルを握り直す。
「ごめん! 急いでるんだ!」
ここで颯爽とサドルに跨り……たいところだったが、まだ才能が開花していない僕は自分の瞬足でその場から走り去った。
よく考えたらそこで自転車に乗らない時点で怪しかったわけだけれど、その事実に気づいたのは、僕が家の玄関に倒れ込んでからだった。
翌朝、僕は日の出とともに起床し、人目を避けて学校まで歩いた。同級生たちに姿を見られたくないから朝早く出たというのに、田んぼで作業している大人たちにはバッチリ見つかってしまう。「御手洗さんとこの息子さんは早起きで偉いねぇ」なんて褒められても苦笑いで返すしかない。
誰もいない校舎には窓から朝日が差し込んでいて、涼しい空気も相まって清々(すが)しい。が、僕の気持ちは濁りに濁っていた。
昨晩の僕の姿を、鐘月くんは一体どう捉えたのだろう。
窓際の一番後ろの席に座った僕は、悶々(もん)と一人で不安と戦っていた。徐々に増えていく同級生から、ちらちらと視線を感じる。
まあ、清らかな朝日を浴びて憂いを帯びた今の僕は、この世のものとは思えないほどにきらめいているから当然と言える……と考えていたそのとき。
「御手洗くん、おはよう」
「ひいっ!」
僕の悩みの原因のうちのひとつ、こと鐘月くんが、僕のすぐそばに立っていた。全然気づいていなかったのでびっくりした。もしかして鐘月くん、忍びの末裔か?
「おは、よう……」
僕は昨晩と同じくらいの声量で驚いてしまったことが恥ずかしくて、軽く握った手を口元に当てたままぼそぼそと挨拶を返す。鐘月くんは少し視線を泳がせてから、僕の肩をつついて「ちょっといい?」と言ってきた。
「……まあ、大丈夫だ」
できるだけ平静を装って立ち上がったが、僕の心は千々(ぢ)に乱れていた。なんだ、何を話すつもりなんだ、鐘月くんは。
僕たちは教室を出て、ひと気の少ない階段下の倉庫の前で立ち止まった。もうすぐ授業が始まる時間だ。そわそわと落ち着かない僕とは対照的に、鐘月くんは抑えた声で尋ねてくる。
「違ったらごめん」
「……何が?」
「もしかして、御手洗くんって自転車に乗るの苦手?」
「うぐ」
ここでさらりと「何を言っているんだ鐘月くん」と躱せればよかったが、図星を突かれた僕はわかりやすく固まってしまった。
「やっぱり、そう?」
バレていた。なんてこった。僕の完璧さを崩す人間が現れるなんて。もうおしまいだ。
鐘月くんは僕をゆする気かもしれない。大人しそうな顔をして恐ろしい。お小遣いはあまりないからせいぜい僕のSNSアカウントにゲスト出演させてあげることくらいしかできないが、まずはジャージの着方から指導したほうがいいかもしれない。
「あー、怒らないで聞いて」
「ん?」
「からかおうとか、そういう気持ちはなくて」
おそらくどんどん顔つきが険しくなっていたであろう僕に、鐘月くんは困ったように笑いかけてきた。
「佐里山に住んでるとみんな乗れるから焦っちゃうんだけどさ。でも、普段自転車を使わない都会の人だと、乗れない人も結構いるみたいだし」
前にも都会から引っ越してきた人がそうだった、と鐘月くんは静かに続けた。
自転車に乗れない人間の前例があった、と知った途端、僕も俄然元気が出てきた。目の前に光が差した気分だ。
そうか。自転車に乗れない、いや、乗れるようになる機会に恵まれなかったのは、都会育ちあるあるだったのか。
僕は前のめり気味に答える。
「そうなんだ。東京は電車があるから」
「うんうん」
「少し練習すればコツは掴めるはずなんだけど、僕もなかなか多忙で時間が取れなくてね」
取り繕うような言葉ばかりが口から出てくる。しかし鐘月くんは澄んだ目で僕を見つめると、大きく頷いて言った。
「じゃあ、俺も練習付き合おうか?」
「えっ」
「一人だとバランス取るの難しいでしょ。進もうとしても倒れちゃう」
「そう! バランスが難しい!」
どうやら鐘月くんは、適当に僕を慰めようとしているわけではなさそうだ。僕にはわかる。自転車に苦しめられたことがある人間でなければ、こんな真剣な顔つきはできない。
「俺も中学まで自転車乗れなかったんだよね。だから、乗れるようになるまでの感覚、ちょっとわかるよ」
「……!」
「走り出しのときに、後ろを支えられるだけでも全然違うからさ」
大人しそうな顔をして恐ろしい、という前言は撤回しよう。
鐘月くん、君はなんて心がきれいな男だろうか。
佐里山町に来て乾きかけていた僕の心の砂漠に、ささやかな雨が降ってきたような心地だった。
「ぜひ、お願いしたい!」
僕は思わず鐘月くんの両手を取ると、鐘月くんが目を見開く。こうして見るとやはりくりくりして愛嬌のある目だ、と思いつつ、僕はハッと我に返って続けた。
「ちなみに、他の人には内緒にしてほしい」
「もちろん」
「絶対に絶対だ」
「約束するよ」
鐘月くんがくすくすと笑う。笑われたのは不本意だが、僕を馬鹿にしている、というよりは、僕たちの間にできた秘密を楽しんでいるような、ひそめた笑いだった。
「広くて練習できるところ、知ってるよ」
「頼もしいな、鐘月くん」
「どうも」
鐘月くんがまた楽しそうに笑う。そして、彼は用心深く周りを見渡してから、僕の家の近くにあるという練習場所を教えてくれた。
かつてはテニスコートとして使われていたものの、現在は空き地になっているところ。
集合時間は、完全に日が沈む前の、夜七時。
よく考えてみれば、同級生と夜に待ち合わせなんてするのは初めてかもしれなかった。
僕は幼少期から完璧すぎたので、周りの同世代も引け目を感じてか、僕に話しかけてくることはなかった。
それでも誰もが僕の容姿を褒めたたえたし、ネットに顔写真を上げれば「こんな顔になりたい」と羨まれた。高校に入ってからはネットを通じて声をかけられることも増えて、芸能関係者の知り合いだっている。
僕はそれで十分だった。自分が顔だけの男じゃないことも知っている。誰よりも僕が、僕を信じている。
だから無理に誰かと仲良くしようなんて思わなかった。友だちとか親友とか、憧れないと言ったら嘘になるが、必要不可欠なものではない、と考えている。
……確かにそうだった、はずなのだけれど。
「御手洗くん、そのまま進んで!」
「鐘月くん! 離さないでくれよ!」
夜の秘密訓練を始めて早一週間。
僕は自分の内に眠っていた自転車乗りの才能を見事開花させ、鐘月くんの支えがあればペダルを漕ぎ出せるようになっていた。
「もう離してるよ」
「え!?」
信じていたのに裏切ったのか、と振り返ろうとしたところで、鐘月くんが「前を見る!」と、ぴしゃりと指示してきた。気圧されて前を見たまま進んでみると、自分が一人でペダルを漕いでいることに気づく。鐘月くんが用意してきていた懐中電灯が僕の足元を照らしていた。
なるほど、動き出してしまえば簡単じゃないか。さすが僕だ。
あちこちに雑草の生えた元テニスコートを、ぐるりと一周してみせると、鐘月くんは興奮したように手を叩いた。鐘月くんの愛犬ポロも、つられてぴょこぴょこと跳ねている。かわいい。ほっこりする。
「すごい! 乗れてるよ!」
「当然……」
ブレーキを使って止まったところで、鐘月くんが駆け寄ってきた。薄闇の中でも、澄んだ目がきらきらと光っている。
僕も嬉しいが、鐘月くんは僕以上に喜んでいるように見えた。
認めよう、やっぱり鐘月くんはいい人だ。
鐘月くんが冗談めかして言う。
「悔しいなぁ。俺はまともに乗れるようになるまで一ヶ月かかったのに」
「まあ、僕は何をやらせても上手くできてしまうからね」
ふふん、と笑って乱れた前髪を直すと、鐘月くんは心底感心したように「すごいねぇ」と漏らしたので力が抜けた。
田舎育ちのせいなのか元々の性格なのか、鐘月くんは素直すぎるところがある。どうかそのまま育ってほしい。
「もう少し練習していく?」
「したい。いいかな」
「大丈夫」
しっかりと感覚を掴みたくて、僕はその後もコートの中を自転車でぐるぐると走ってみた。乗れば乗るほど、徐々にコツが掴めてくる。
漕ぎ出しには不安が残るが、この分なら明日から自転車で通学できそうだ。そう思うとほっとして、また力が抜けた。やっと自転車に乗らない理由をあれこれ言い訳をする毎日とお別れできる。
「鐘月くん、ごめん。遅くなった」
「全然いいよ」
腕時計を見るともう夜の八時になっていた。鐘月くんは「ポロの散歩のついでだし」と言ってくれたが、この一週間毎晩付き合ってくれたことは、感謝してもしきれない。
「帰ろっか、御手洗くん」
暗い道を二人で並んで帰った。僕は自転車を押し、鐘月くんはポロのリードを握って歩く。
控えめな鈴虫の声と、ポロがワフワフ言っている声だけが聞こえて、遠くに灯る家々の光が特別なもののように思えた。
遠くに来てしまったな。
嘆くわけではなく、事実としてそう思った。僕は遠いところへ来た。これまでとは全く違う場所へ。
ふと、顔を上げてみる。この町には高い建物がない。だから、空がよく見えた。
「きれいだ」
「え?」
「星がたくさん出てる」
名前の知らないたくさんの星が、広すぎる空にまたたいていた。星は数えられるものだと思っていた。東京では、まばゆいライトで隠されていた小さな星たち。
「本当だ。明日は晴れだね」
僕の隣で鐘月くんが軽やかに言う。
そうか、星がたくさん見える夜の次の日は晴れなのか。
完璧な僕でも、知らないことがある。気になったりわからないことは、ネットで調べたら大体答えが見つかると思っていたが、そうでもないらしい。
そういえば、この一週間、僕はほとんどSNSを開かなかった。佐里山町はいつだって電波が悪いから。でも、理由はそれだけじゃない。
「秘密の特訓もおしまいだね。まあ、夜もだいぶ冷えるようになってきたし」
鐘月くんの足元で、ポロが答えるように「ワフ」と鳴いた。あまりにも呑気な鳴き声に、僕と鐘月くんは同時に吹き出す。顔を上げると、目が合った。線で繋いだみたいに。
「御手洗くん。本当によかったね」
心からそう言っているんだろうな、というのがわかる。人に自分の笑顔がどう見られているとか、そんなことを考えていない。僕にはできない笑い方だった。
練習している間、僕はこの笑顔に勇気づけられていた。僕と鐘月くん、二人だけの秘密の特訓。
僕は鐘月くんのおかげで自転車に乗れるようになった。だから、この特訓は今日で終わりだ。
明日からはこうして待ち合わせをすることもない、と気づいてしまったら、途端に落ち着かない気分になった。いつの間にか僕は、夜が来るのが楽しみになっていた。
この場所に来て、鐘月くんが「今日も頑張ろうね」と笑うのを見ると、ほっとした。僕は誰かを頼ってもいいんだってわかったから。
鐘月くんと言葉をかわして、失敗したら二人で改善方法を話し合って、上手くいったら喜び合うのが楽しかった。
明日からその時間がなくなるのが、寂しい。
「鐘月くん」
「ん?」
喉から押し出されるみたいに、僕は鐘月くんを呼んでいた。そのまま勝手に言葉が続く。
「僕は……その、御手洗くんと呼ばれるより、天舞と呼ばれたほうが嬉しい」
鐘月くんの丸い目がますます丸くなった。
いきなり僕は何を言っているんだ、と自分でも驚く。
でも、だって……鐘月くんは、他の同級生のことは名字ではなく名前で呼んでいる。僕だけ仲間はずれにされるのは納得できない。
「じゃあお言葉に甘えようかな」
鐘月くんが楽しそうに言う。
「せっかく仲良くなれたわけだし」
「う……ま、まあ」
仲良く、という言葉に少しだけ動揺した。
そして、なんだか照れくさい気分になる。ためらう必要なんかないのに、僕の声は小さくなった。
「……僕も、君を『文』と呼んでもいいかな」
「いいよ」
鐘月くんが頷く。僕は自分がハンドルをきつく握りすぎていることに気づいた。掌が湿っている。
「じゃあまた明日、天舞くん」
分かれ道へ来たところで、鐘月くんは手を振り去っていった。ポロがくるりと丸まった尻尾を振っている。
僕は一人と一匹の背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
「おはよう、文」
翌朝、学校の駐輪場で文と会った。僕が小慣れた様子で自転車を停めるのを見て、文が頬を緩める。
「おはよう、天舞くん」
まだ暑さの残る、けれど爽やかな秋の匂いを感じる九月。
僕は世界一美しく完璧な男、御手洗天舞。
そんな僕に、友だちができた。
田んぼに囲まれた夜道を、僕は呻きながら歩いていた。
辺りは不安になるほど暗く、自転車を押す僕以外にひとけ気はない。ついさっき転んでしたたかに打ちつけた腰が、まだしつこく痛んでいる。
「ひどい、ひどすぎる!」
こんな田舎なんて来たくなかった。
人間には向き不向きがあるんだ。僕は完全に田舎に不向き。僕という素晴らしい人間は、都会で人の注目を浴びてこそ輝けるというのに。
「御手洗くん?」
「ひぇっ!」
そのとき、突然背後から声をかけられて、思わず変な声が出た。おばけが出たかもしれない、と思ったが、その声には聞き覚えがあった。
僕は足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……何か?」
そこには、わずかな街灯の明かりに照らされて、僕と同じくらいの歳の少年が立っていた。彼の傍らでは毛並みのいい秋田犬がハフハフ言っている。
同じくらいの歳、と形容したものの、事実、彼は僕と同い歳だ。
全校生徒約五十人の、佐里山高校の二年生。
挨拶以外に言葉をかわしたことはないが、名前は確か。
「やっぱり御手洗くんだ。あ、俺、同じ高校の鐘月文っていうんだけど」
そう言って、彼はこっちの気が抜けるような柔らかい笑みを浮かべた。
***
この世界に、僕よりも美しい人間っているんだろうか。
これは自惚れでもなんでもなく、純粋な疑問だ。
だって、これまで生きてきた十七年で、僕よりも優れた容姿の人間に出会ったことがない。
テレビやネットで多少整った顔立ちを見かけることはあるけれど、それでも僕……御手洗天舞のきらめくような美しさには勝てないように思う。誇張でもなんでもなく、僕はこの世に生を受けたその瞬間から完璧だった。
完璧に美しいからこそ、僕は周囲から尊ばれ、ちやほやされてきた。注目されることが大好きだ。SNSに写真を上げれば怒涛の勢いで拡散される。読者モデルや企業コラボだってこなしてきた。
僕は見た目がいいだけではなく、文武両道を志す素晴らしき努力家なので、多少の困難は自分の力でなんとかできてしまう。天は二物を与えず、なんて言葉があるけれど、僕に関しては大サービスで七物くらい与えられているんじゃないだろうか。
そう、僕のこれまでの十七年間は順風満帆そのものだった。
それなのに。
「どうして、世界一美しい僕が、こんな目に……!」
時刻は午後八時三十分。僕は土まみれになった自転車のハンドルを押しながら、明かりのまばらな道路を歩いていた。
両脇にはどこまでも続く田んぼ。というかこの町……佐里山町にあるものといえば、田んぼにあとは畑と山。豊かな緑と緑と緑。一番高い建物は町役場。嫌になるくらいの自然に囲まれている。僕の凛とした声の呟きすらもゲロゲロ声にかき消されてしまうのだから泣けてくる。
もう九月に入ったとはいえ空気はぬるく、3Dサラウンドで聞こえてくるカエルの鳴きで頭が痛くなった。
「ひどい、ひどすぎる」
全身が重かった。ちなみに土まみれなのは自転車だけではない。僕もだ。三ヶ月前にスポーツブランドから「ぜひ天舞くんに着てほしい」と贈られたジャージは上下ともに無惨な姿になっている。特に膝と肘の汚れがひどい。
理由は簡単。僕が自転車に乗る練習に四苦八苦したせいだ。
「なぜ、自転車なんか練習しないといけないんだ……!」
嘆きの問いは夜へと消えていく。
でも、「なぜか」なんて僕だってわかっている。この佐里山町において、高校生の通学には自転車が必須。
しかし一体、なんの運命のいたずらだろうか。
僕は、自転車に乗れないのだ。
「どうなってるんだ、どうしてあんなにみんな簡単に乗れるんだ……」
天に愛された僕は、人生で初めてかもしれない挫折を味わっていた。
自転車の練習を始めてもう三日が経つ。母さんがあらかじめ新しい自転車を準備してくれていたのはいいが、僕は小学三年生のとき両親に「自転車に乗れるようになった!」と嘘をついていたので、十七歳にもなって「実は乗れない」とは恥ずかしくて言い出せない。
そんなわけで、夜な夜な僕はこっそりと家を出て、自宅近くに見つけたこぢんまりとした広場で練習をしていた。しかし、この二輪の乗り物、なかなか手強い。
車輪の幅が狭いから、体重をかけるとぐらぐらと不安定になる。そして両足を地面から離した途端平衡を失う。
こんな奇天烈な乗り物、サーカス生まれの選ばれし者しか乗れないと思うのだが、どういうわけか学校のみんなは難なく乗れている。これは全員、サーカス生まれの可能性がある。
サーカスとは無縁で育った僕には、このバランスを取るという感覚がよくわからない。進もうと思っても進む前に転ぶ。脆弱な電波を頼りに、インターネットで調べて「勢いが大事」という知識は得たものの、より一層勢いよく転ぶだけだった。
おかげで、今日は過去最高に土まみれだ。ついでに蚊にも刺される。僕の上質な血はさぞかし美味しいだろう。
「一体どうすれば……」
解決の糸口が全く見えない。僕はこのまま惨めに毎日往復二時間かけて徒歩登校に甘んじるしかないのか。それはそれで体力がつきそうではあるが、僕の理想とする「完璧かつキラキライメージの御手洗天舞」からはほど遠い。
へこたれそうな僕の気持ちを表すかのように、自転車がキコキコと情けなく鳴る。プライドはめしょめしょに折れて、僕は泣き出しそうだった。
そんなときに、どこからか現れた鐘月くんが話しかけてきたのだ。
「御手洗くんと学校の外で会うのって初めてだね。このあたりに住んでるの?」
「……いや、そうでもない」
鐘月くんが随分と人懐っこく話しかけてくるので、かえって警戒してしまう。
そう、鐘月文。記憶力のいい僕は当然知っている。同級生からは「ふみ」と呼ばれていたはずだ。
純朴、を形にしたような真っ黒な髪。華やかな顔立ちではないが、話しかけやすそうな愛嬌がある。身長は僕よりも十センチ以上高い。
これまで僕の周りにはいなかった、どちらかといえばかわいらしいタイプだ。雰囲気が柔らかくて、よく声を上げて笑う。鐘月くんが笑うと、周りがほわっと明るくなる。丸い目がくりくりとよく動いて、その真っ直ぐな視線で見られるとどきりとする。
しかし鐘月くん、なんと学校指定のジャージのファスナーを、襟の一番上まで上げている。ちょっとダサ……いや、僕とは思想が違う。
鐘月くんは不思議そうに首を傾げると、僕の自転車に視線を送ってきた。
「自転車、どうしたの? パンク?」
「あ、え」
これはまずい。背中に冷や汗が浮いた。
まさか自転車に乗れないので練習をしていました、なんて言えるわけがない。東京から来た完璧男子御手洗くんがそんなこともできないのか、と絶対に馬鹿にされる。
「服も汚れてるけど、大丈夫? どこかで転んだりとかした?」
「いや! 違う、違うんだ!」
無様に転んだことを知られたくなかった。恥ずかしさと焦りで声が裏返ってますますかっこ悪い。
鐘月くんは丸い目を瞬かせて僕を見たが、その真っ直ぐな眼差しが痛かった。
僕は慌てて自転車のハンドルを握り直す。
「ごめん! 急いでるんだ!」
ここで颯爽とサドルに跨り……たいところだったが、まだ才能が開花していない僕は自分の瞬足でその場から走り去った。
よく考えたらそこで自転車に乗らない時点で怪しかったわけだけれど、その事実に気づいたのは、僕が家の玄関に倒れ込んでからだった。
翌朝、僕は日の出とともに起床し、人目を避けて学校まで歩いた。同級生たちに姿を見られたくないから朝早く出たというのに、田んぼで作業している大人たちにはバッチリ見つかってしまう。「御手洗さんとこの息子さんは早起きで偉いねぇ」なんて褒められても苦笑いで返すしかない。
誰もいない校舎には窓から朝日が差し込んでいて、涼しい空気も相まって清々(すが)しい。が、僕の気持ちは濁りに濁っていた。
昨晩の僕の姿を、鐘月くんは一体どう捉えたのだろう。
窓際の一番後ろの席に座った僕は、悶々(もん)と一人で不安と戦っていた。徐々に増えていく同級生から、ちらちらと視線を感じる。
まあ、清らかな朝日を浴びて憂いを帯びた今の僕は、この世のものとは思えないほどにきらめいているから当然と言える……と考えていたそのとき。
「御手洗くん、おはよう」
「ひいっ!」
僕の悩みの原因のうちのひとつ、こと鐘月くんが、僕のすぐそばに立っていた。全然気づいていなかったのでびっくりした。もしかして鐘月くん、忍びの末裔か?
「おは、よう……」
僕は昨晩と同じくらいの声量で驚いてしまったことが恥ずかしくて、軽く握った手を口元に当てたままぼそぼそと挨拶を返す。鐘月くんは少し視線を泳がせてから、僕の肩をつついて「ちょっといい?」と言ってきた。
「……まあ、大丈夫だ」
できるだけ平静を装って立ち上がったが、僕の心は千々(ぢ)に乱れていた。なんだ、何を話すつもりなんだ、鐘月くんは。
僕たちは教室を出て、ひと気の少ない階段下の倉庫の前で立ち止まった。もうすぐ授業が始まる時間だ。そわそわと落ち着かない僕とは対照的に、鐘月くんは抑えた声で尋ねてくる。
「違ったらごめん」
「……何が?」
「もしかして、御手洗くんって自転車に乗るの苦手?」
「うぐ」
ここでさらりと「何を言っているんだ鐘月くん」と躱せればよかったが、図星を突かれた僕はわかりやすく固まってしまった。
「やっぱり、そう?」
バレていた。なんてこった。僕の完璧さを崩す人間が現れるなんて。もうおしまいだ。
鐘月くんは僕をゆする気かもしれない。大人しそうな顔をして恐ろしい。お小遣いはあまりないからせいぜい僕のSNSアカウントにゲスト出演させてあげることくらいしかできないが、まずはジャージの着方から指導したほうがいいかもしれない。
「あー、怒らないで聞いて」
「ん?」
「からかおうとか、そういう気持ちはなくて」
おそらくどんどん顔つきが険しくなっていたであろう僕に、鐘月くんは困ったように笑いかけてきた。
「佐里山に住んでるとみんな乗れるから焦っちゃうんだけどさ。でも、普段自転車を使わない都会の人だと、乗れない人も結構いるみたいだし」
前にも都会から引っ越してきた人がそうだった、と鐘月くんは静かに続けた。
自転車に乗れない人間の前例があった、と知った途端、僕も俄然元気が出てきた。目の前に光が差した気分だ。
そうか。自転車に乗れない、いや、乗れるようになる機会に恵まれなかったのは、都会育ちあるあるだったのか。
僕は前のめり気味に答える。
「そうなんだ。東京は電車があるから」
「うんうん」
「少し練習すればコツは掴めるはずなんだけど、僕もなかなか多忙で時間が取れなくてね」
取り繕うような言葉ばかりが口から出てくる。しかし鐘月くんは澄んだ目で僕を見つめると、大きく頷いて言った。
「じゃあ、俺も練習付き合おうか?」
「えっ」
「一人だとバランス取るの難しいでしょ。進もうとしても倒れちゃう」
「そう! バランスが難しい!」
どうやら鐘月くんは、適当に僕を慰めようとしているわけではなさそうだ。僕にはわかる。自転車に苦しめられたことがある人間でなければ、こんな真剣な顔つきはできない。
「俺も中学まで自転車乗れなかったんだよね。だから、乗れるようになるまでの感覚、ちょっとわかるよ」
「……!」
「走り出しのときに、後ろを支えられるだけでも全然違うからさ」
大人しそうな顔をして恐ろしい、という前言は撤回しよう。
鐘月くん、君はなんて心がきれいな男だろうか。
佐里山町に来て乾きかけていた僕の心の砂漠に、ささやかな雨が降ってきたような心地だった。
「ぜひ、お願いしたい!」
僕は思わず鐘月くんの両手を取ると、鐘月くんが目を見開く。こうして見るとやはりくりくりして愛嬌のある目だ、と思いつつ、僕はハッと我に返って続けた。
「ちなみに、他の人には内緒にしてほしい」
「もちろん」
「絶対に絶対だ」
「約束するよ」
鐘月くんがくすくすと笑う。笑われたのは不本意だが、僕を馬鹿にしている、というよりは、僕たちの間にできた秘密を楽しんでいるような、ひそめた笑いだった。
「広くて練習できるところ、知ってるよ」
「頼もしいな、鐘月くん」
「どうも」
鐘月くんがまた楽しそうに笑う。そして、彼は用心深く周りを見渡してから、僕の家の近くにあるという練習場所を教えてくれた。
かつてはテニスコートとして使われていたものの、現在は空き地になっているところ。
集合時間は、完全に日が沈む前の、夜七時。
よく考えてみれば、同級生と夜に待ち合わせなんてするのは初めてかもしれなかった。
僕は幼少期から完璧すぎたので、周りの同世代も引け目を感じてか、僕に話しかけてくることはなかった。
それでも誰もが僕の容姿を褒めたたえたし、ネットに顔写真を上げれば「こんな顔になりたい」と羨まれた。高校に入ってからはネットを通じて声をかけられることも増えて、芸能関係者の知り合いだっている。
僕はそれで十分だった。自分が顔だけの男じゃないことも知っている。誰よりも僕が、僕を信じている。
だから無理に誰かと仲良くしようなんて思わなかった。友だちとか親友とか、憧れないと言ったら嘘になるが、必要不可欠なものではない、と考えている。
……確かにそうだった、はずなのだけれど。
「御手洗くん、そのまま進んで!」
「鐘月くん! 離さないでくれよ!」
夜の秘密訓練を始めて早一週間。
僕は自分の内に眠っていた自転車乗りの才能を見事開花させ、鐘月くんの支えがあればペダルを漕ぎ出せるようになっていた。
「もう離してるよ」
「え!?」
信じていたのに裏切ったのか、と振り返ろうとしたところで、鐘月くんが「前を見る!」と、ぴしゃりと指示してきた。気圧されて前を見たまま進んでみると、自分が一人でペダルを漕いでいることに気づく。鐘月くんが用意してきていた懐中電灯が僕の足元を照らしていた。
なるほど、動き出してしまえば簡単じゃないか。さすが僕だ。
あちこちに雑草の生えた元テニスコートを、ぐるりと一周してみせると、鐘月くんは興奮したように手を叩いた。鐘月くんの愛犬ポロも、つられてぴょこぴょこと跳ねている。かわいい。ほっこりする。
「すごい! 乗れてるよ!」
「当然……」
ブレーキを使って止まったところで、鐘月くんが駆け寄ってきた。薄闇の中でも、澄んだ目がきらきらと光っている。
僕も嬉しいが、鐘月くんは僕以上に喜んでいるように見えた。
認めよう、やっぱり鐘月くんはいい人だ。
鐘月くんが冗談めかして言う。
「悔しいなぁ。俺はまともに乗れるようになるまで一ヶ月かかったのに」
「まあ、僕は何をやらせても上手くできてしまうからね」
ふふん、と笑って乱れた前髪を直すと、鐘月くんは心底感心したように「すごいねぇ」と漏らしたので力が抜けた。
田舎育ちのせいなのか元々の性格なのか、鐘月くんは素直すぎるところがある。どうかそのまま育ってほしい。
「もう少し練習していく?」
「したい。いいかな」
「大丈夫」
しっかりと感覚を掴みたくて、僕はその後もコートの中を自転車でぐるぐると走ってみた。乗れば乗るほど、徐々にコツが掴めてくる。
漕ぎ出しには不安が残るが、この分なら明日から自転車で通学できそうだ。そう思うとほっとして、また力が抜けた。やっと自転車に乗らない理由をあれこれ言い訳をする毎日とお別れできる。
「鐘月くん、ごめん。遅くなった」
「全然いいよ」
腕時計を見るともう夜の八時になっていた。鐘月くんは「ポロの散歩のついでだし」と言ってくれたが、この一週間毎晩付き合ってくれたことは、感謝してもしきれない。
「帰ろっか、御手洗くん」
暗い道を二人で並んで帰った。僕は自転車を押し、鐘月くんはポロのリードを握って歩く。
控えめな鈴虫の声と、ポロがワフワフ言っている声だけが聞こえて、遠くに灯る家々の光が特別なもののように思えた。
遠くに来てしまったな。
嘆くわけではなく、事実としてそう思った。僕は遠いところへ来た。これまでとは全く違う場所へ。
ふと、顔を上げてみる。この町には高い建物がない。だから、空がよく見えた。
「きれいだ」
「え?」
「星がたくさん出てる」
名前の知らないたくさんの星が、広すぎる空にまたたいていた。星は数えられるものだと思っていた。東京では、まばゆいライトで隠されていた小さな星たち。
「本当だ。明日は晴れだね」
僕の隣で鐘月くんが軽やかに言う。
そうか、星がたくさん見える夜の次の日は晴れなのか。
完璧な僕でも、知らないことがある。気になったりわからないことは、ネットで調べたら大体答えが見つかると思っていたが、そうでもないらしい。
そういえば、この一週間、僕はほとんどSNSを開かなかった。佐里山町はいつだって電波が悪いから。でも、理由はそれだけじゃない。
「秘密の特訓もおしまいだね。まあ、夜もだいぶ冷えるようになってきたし」
鐘月くんの足元で、ポロが答えるように「ワフ」と鳴いた。あまりにも呑気な鳴き声に、僕と鐘月くんは同時に吹き出す。顔を上げると、目が合った。線で繋いだみたいに。
「御手洗くん。本当によかったね」
心からそう言っているんだろうな、というのがわかる。人に自分の笑顔がどう見られているとか、そんなことを考えていない。僕にはできない笑い方だった。
練習している間、僕はこの笑顔に勇気づけられていた。僕と鐘月くん、二人だけの秘密の特訓。
僕は鐘月くんのおかげで自転車に乗れるようになった。だから、この特訓は今日で終わりだ。
明日からはこうして待ち合わせをすることもない、と気づいてしまったら、途端に落ち着かない気分になった。いつの間にか僕は、夜が来るのが楽しみになっていた。
この場所に来て、鐘月くんが「今日も頑張ろうね」と笑うのを見ると、ほっとした。僕は誰かを頼ってもいいんだってわかったから。
鐘月くんと言葉をかわして、失敗したら二人で改善方法を話し合って、上手くいったら喜び合うのが楽しかった。
明日からその時間がなくなるのが、寂しい。
「鐘月くん」
「ん?」
喉から押し出されるみたいに、僕は鐘月くんを呼んでいた。そのまま勝手に言葉が続く。
「僕は……その、御手洗くんと呼ばれるより、天舞と呼ばれたほうが嬉しい」
鐘月くんの丸い目がますます丸くなった。
いきなり僕は何を言っているんだ、と自分でも驚く。
でも、だって……鐘月くんは、他の同級生のことは名字ではなく名前で呼んでいる。僕だけ仲間はずれにされるのは納得できない。
「じゃあお言葉に甘えようかな」
鐘月くんが楽しそうに言う。
「せっかく仲良くなれたわけだし」
「う……ま、まあ」
仲良く、という言葉に少しだけ動揺した。
そして、なんだか照れくさい気分になる。ためらう必要なんかないのに、僕の声は小さくなった。
「……僕も、君を『文』と呼んでもいいかな」
「いいよ」
鐘月くんが頷く。僕は自分がハンドルをきつく握りすぎていることに気づいた。掌が湿っている。
「じゃあまた明日、天舞くん」
分かれ道へ来たところで、鐘月くんは手を振り去っていった。ポロがくるりと丸まった尻尾を振っている。
僕は一人と一匹の背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
「おはよう、文」
翌朝、学校の駐輪場で文と会った。僕が小慣れた様子で自転車を停めるのを見て、文が頬を緩める。
「おはよう、天舞くん」
まだ暑さの残る、けれど爽やかな秋の匂いを感じる九月。
僕は世界一美しく完璧な男、御手洗天舞。
そんな僕に、友だちができた。
