「……さむ」

 秋の冷たい風が頬を撫でる。
 黄昏時の空はどこまでも澄んでいて、街外れへと続く道を歩きながら、僕は小さく息を吐いた。
 足元のコンクリートのひび割れ。その隙間を埋めるように、スニーカーのつま先で砂利を蹴りこむ。指先の冷たさを誤魔化すみたいに、ポッケに手を出し入れしてを繰り返す。
 その時ふと、路傍の電話ボックスに反射した自分の顔を見て、笑ってしまった。

「相変わらずつまんない顔してるよなー」

 あまり特徴のない顔であり、つまらなそうな表情。
 成績は平均くらいで、友達の数は決して多くはない。親友と言える人や、ましてや彼女なんて出来たことがない。
 ただ毎日、教室の隅っこで同じことを繰り返してるだけ。そんな高校一年生、早村颯馬(はやむらそうま)の姿。

 学校帰りの道もいつも同じ。
 僕はアスファルトに積もった落ち葉の道を、掃くように進んでいく。イヤホンから流れる音楽は、古いインディーズバンド――母さんが好きだった曲だ。
 母さんが死んでから、もう四年になる。
 あの頃の記憶はどこかぼやけてて、でもこの音楽を聴くと、少しだけそれが輪郭をとる。僕は少しだけ早足になって、帰路を急ぐ。空が少しずつ暗くなってきて、街灯がぽつぽつ灯り始める。

「……ん?」

 ふと、指先のスマホが震えた。取り出して見ると、クラスのグループラインに通知が来ている。普段はすぐには見ないけど、今日は何となく開いた。

「街の端っこに隕石が落ちたかもって!」
「マジ?」
「ネットに写真出てるぞ、見てみ」

 ――そんなメッセージが並んでいる。スクロールすると、誰かがアップした画像が出てきた。荒い画質。僕たちの住む街を、かなり遠くから捉えた写真。
 拡大すると、上空のほうにわずかに尾を引いて、見たこともないような翡翠色の光が尾を引いているのが確認できる。
 コメント欄は「コラっぽくね?」「誰か一緒に見に行く人!」「宇宙から来たか……とうとう終わりの時が」なんて盛り上がっている。

「……隕石?」

 呟いて、立ち止まった。風が強くなって、ブレザーの襟を揺らす。
 僕の通う高校は、街の奥まった位置にある普通の公立校だ。この寂れた街には、なんにも面白いものや科学館もなく、隕石なんて……SF映画や漫画でしか見たことがなかった。
 ぱっと見はただの流れ星……に思える。
 でも、写真を見てるうちに、胸の奥がざわざわしてきた。好奇心ってやつだろうか。
 家に帰る前に寄ってみようかな、なんて軽い気持ち。
 別に大した理由もない。ただ、いつもと違う何かが見たくなった……くらいの気まぐれ。
 僕は方向転換して、隕石が堕ちたという山のほうを目指す。街の喧騒が遠ざかって、代わりに野次馬らしき車が何台か通るのと、普段は聞かないサイレン音がぽつぽつと聞こえる。
 風に草木の匂いが混じってくる。
 スマホを操作して、隕石の写真をもう一度見る。「燃え尽きてね?」なんて呟きながら、足を進めた。






 山頂付近に着いたのは、夕陽がほとんど地平に隠れた頃だった。
 目の前には、ぽっかりと抉れたクレーターがあった。道を少し分け入った場所だけど、周りに人は全くいない。もしかして、僕が第一発見者だったりするんだろうか。

「……」

 スマホのライトで照らす。本当にあった、が最初の感想だ。
 周囲の木が倒れてたりはしない。だけど地面は結構派手に削れていて、その中心に転がってるのは、いかにもな黒っぽい石だった。
 近くに寄ると、表面がザラザラで、熱を持ってそうな気がする。しゃがんで手を伸ばしかけたけど、やめた。触ったら怒られそう、なんて子供っぽい考えが浮かんで苦笑いする。
 立ち上がって、辺りを見回す。草むらが風に揺れて、遠くに街の灯りが微かに見える。
 よく見ると石の周りには、小さな破片が散らばっていた。拾おうか一瞬迷ったけど、そろそろ誰か来るかもしれないし、結局そのままにすることにした。

「……じゃあ帰ろうかな」

 そう呟いたとき強い風が吹いて、ブレザーの襟が今度は立つ。
 僕の通う高校の制服は、この隕石と似た地味な色合いだ。唯奈さん――義姉が同じ学校で、最初の登校日に「ペアルックだね」なんて笑ってくれたけど、僕はそんな気分になれなかった。
 空を見上げると、月が雲に隠れかけている。
 昔のことを思い出す……こんな時間帯に近所の公園を家族みんなで散歩したっけ。あの時はまだ――ちゃんと家族らしかったと思う。

「……ん?」

 クレーターを一瞥し、山道に戻ったその時。ふと誰かとすれ違った。
 一瞬だけ、目が合った気がした。女の子だ。僕と同じ高校の制服を着ている。でも、何かが変だった。
 どこが変なのか、振り返らずに脳内で回想する。さっき制服の事を考えていたからか、それにすぐに思い当たった。
 まずブレザーのボタンが違う。丸じゃなくて、四角っぽい形。制服のラインも、少し線が多かった気がする。
 彼女の髪は肩くらいまでで、少し外にハネてて。顔ははっきりと見えなかったけど、瞳が印象的だった。深い黒色で、ちょっと悲しそうで。
 ……無性に気になってくる。コスプレ? 隕石を見物しに来たのだろうか?
 そう思ってこっそり振り返ったけど、もう影も形もない。虚空に消えたみたいに、忽然と、いなくなっていた。

「……気のせいか?」

 首を振って、深呼吸する。疲れてるのかな、なんて自分に言い聞かせた。
 スマホの時計を見ると、もう七時を回っている。そろそろ帰らないと、父さんにまた何か言われる。僕は肩を落として、山道を急いで下り始めた。砂利が足元で鳴るたび、心がざらつく感じがした。






 家に着くと、玄関で靴を脱ぐのと一緒に、父さんの声が廊下に響いてきた。

「颯馬、今日は遅いな。唯奈はもう塾から帰ってきてるぞ」

「……はーい」

 靴を揃えて、廊下にカバンを置いて、ドアノブを回す。
 リビングに入ると明かりがすごく眩しくて、目を細める。ソファには唯奈さんが座ってて、参考書を広げていた。
 長い髪を耳にかけてシャーペンを走らせてる姿は、絵になっている。
 成績優秀、品行方正、父さんと義母さんの自慢の娘。僕は父さんの連れ子で、母さんが亡くなってからこの家にやって来た。だから唯奈さんとは血が繋がってない。
 彼女と比べられるたびに、僕は……なんというか、置き場のない気持ちになってしまう。

「どこ行ってたんだ?」

 父さんが新聞を畳みながら言う。声に少し苛立ちが混じっていた。

「ちょっと、友達と寄り道してただけ」

 嘘だ。本当は隕石を見に行ってただけ。でも、そんなこと言ったら、「くだらない」って強めに怒られるかも。父さんは眉を寄せて、ため息をついた。

「もっと頑張れってくれ颯馬。お前のことが心配なんだ」

「……分かってるよ」

 テーブルに置かれた水を一口飲んで、目を伏せた。申し訳ないな……って本心から思う。父さんは僕が優秀じゃないせいで、将来苦労するんじゃないか……じゃなくて、義母さんと唯奈さんの僕に対する態度がちょっと変わっていって、家の中が段々変な空気になっていくんじゃ……ってことを、一番気にしている。
 母さんが死んで、父さんはそういうのに気を向けるようになった。
 でも……気持ちは分かる。
 唯奈さんは塾では特別なコースに通ってるし、模試でもいつも上位。僕はテストの平均が60点台、悪ければもっと下をずっとうろついてる。
 だから比べられるたび、胸の奥が重くなる。だけど、どうしても勉強を頑張ろうという気にはなれない。人はそれを、頭が悪いっていうんだと思う。

 ぼんやりしていると、義母さんがキッチンからおかずの皿を持ってきて、テーブルに置いてくれた。美味しそうな匂いが部屋に広がる。夕飯の時間だ。
 唯奈さんが「今日学校でね、現国の先生が――」なんて話し始める。
 でも、頭に入ってこない。時間が止まっているような、味がどこか薄く感じるような。家族みんなの会話が遠くに聞こえて、僕だけ宙に浮いてるみたいだ。

「……ふう」

 小さく息をついた時、視界の端に誰かが立ってる気がした。顔を上げると、息が止まった。

「……え?」

 そこに、いた。あの道ですれ違った女の子が、僕の隣に立っている。
 制服は、やっぱり微妙に違う。ボタンが四角くて、制服のラインがちょっと多い。
 でも、誰も気づいてない。父さんは新聞を読み直してて、義母さんはご飯をよそうために立ち上がって、唯奈さんはテレビの番組を変えて――そして、僕だけが彼女を見ていた。

「……え、あ……誰?」

 声に出さず、口の中で呟いた。僕は思わず立ち上がって……混乱したまま、部屋を出る。夢かどうかをまず確かめようとした。部屋の外は、もしかしたら異世界になっていたりしないだろうか。

「……!」

 なっていない。でも、振り返ると彼女も消えていない。
 というか、こっちに向かって歩いてくる。僕を追いかけてくる。

「うわ、あ……!?」

 僕は思わず速足で、逃げるように階段を駆け上がる。彼女は最初無表情だったのが、徐々に表情を……にやッと不敵な笑みに変えて、僕の後ろをついてくる。

 パニックになった。階段を上がって、ドアを閉めようとする。しかし、彼女はそれをすり抜けて――部屋にまで入ってきた。
 ドアが慣性で閉まると、彼女は遠慮もなくベッドに座って……足をぶらつかせ始めた。片方は素足で、片方は白い靴下の彼女の足が、不規則に揺れている。

「お前、誰だよ!」

 我慢できなくて叫んだ。声が部屋に響いて、自分でもびっくりした。彼女は目を丸くして、笑い出した。

「やっぱり見えてるんだ! あーびっくりした! えーと自己紹介ね。わたしは来瀬(くるせ)レイっていいます。よろしくね、えっと颯馬くん」

「……は?」

 状況が飲み込めないまま、心臓がバクバク鳴っている。彼女――レイ。さっき山の上で見た少女が、僕の部屋の中にいる。どうして?何で? 非現実な光景に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「……」

「……」

 部屋の中がしいんと鳴る。机の上には散らかったノートと、壁に貼った、いつか映画館で貰ったポスター。窓の外からは、街灯の光が薄く差し込んでくる。僕は視線をさまよわせ、とりあえず椅子に腰かけて、目の前のレイを睨んだ。

「いや、え……どういうことなの、なんだよ君は。なんで……ええ? 勝手に人の家に」

 自分でも、まず何を彼女に聞いたらいいか、わからない。

「えー、だって君がわたしを見たからじゃない? あの山でさ、目が合ったよね?」

「……確かに合ったけど」

 丘での一瞬が頭に浮かぶ。あの目。あの制服。確かに見間違いじゃない。でも、こんな形で現れるなんて、ありえない。

「それで繋がっちゃったのかもね。わたし、君にしか見えないみたい。まあ、逆もそうみたいだけど」

「……逆?」

 ふと、レイが立ち上がって、部屋の中を歩き回る。机の上のペン立てを覗き込んだり、本棚を眺めたり。触ってるように見えるけど、何も動かない。試しに手を伸ばしてみた。指先が彼女の腕をすり抜ける。空気みたいに、なんの感触もない。

「……幽霊じゃないよな?」

「違うよ。ほら、影もあるし」

 レイが電気の下で手を振る。確かに薄い影が床に落ちる。電球の光が彼女の髪を照らして、少し茶色っぽく見えた。でも、触れられない。頭が混乱してきて、僕は顔を覆う。

「え、お前……何なんだよ。マジで」

「うーん、わたしも分からないんだよね。でもさ、むっかしの小説で読んだことあるよ。これ、並行世界ってやつかもしれない」

「……並行世界?」

「そうそう。ほぼ一緒だけど別世界のわたしが、君の世界にお邪魔しますみたいな」

 レイは無邪気に笑う。僕は呆れて、ため息をついた。並行世界なんて、母さんの好きだったSF映画でしか聞いたことがない。
 でも、彼女の声が妙に耳に残る。明るくて、軽くて、でも少し寂しそうで……また、置き場所のない記憶が蘇りそうになるが、頭を振って、僕は立ち上がった。

「……とりあえず、どこかに帰ってよ」

「えー、帰れないよ。だって、わたしここにいるしかないもん」

「はあ?」

「君がわたしを見てるから、私はここにいるんだと思う。君が目を閉じたら、消えるかもね」

 試しに目を閉じてみた。真っ暗な視界の中、レイの声が聞こえる。

「いや、素直に閉じないでよ。寂しいじゃん」

 目を開けると、レイが目の前に立ってて、ちょっと拗ねた顔をしていた。距離が近くて、思わず後ずさる。

「……いや、何だよ、これ」

「本日何度目かな、それ」

 くすりと笑う彼女……来瀬レイ。
 僕は、混乱がまったく収まってないのに、なぜか笑いがこみ上げてきた。変な奴だ。もしかしたら、すごくリアルな夢を見てるのかもしれない。

 でも、悪い気はしなかった。家族とギクシャクして、教室でもいてもいなくても同じな僕にとって、こんな不思議な出来事は、初めての救いみたいに、感じた。
 窓の外を見ると、夜が深まってきていた。星がちらちら瞬き、レイの影が揺れる。

「……おま……来瀬さんって、ずっとここにいるつもり?」

「うん、多分ね。あと君が嫌じゃなければ……レイって呼ぶといいよ?」

 嫌じゃない、なんて言えない。でも、追い出す気にもならなかった。そもそも触れない相手なんて、どうしようもないじゃないか。
 僕はベッドに寝転がって、天井を見上げた。レイが隣に座って、僕を見下ろす。

「ねえ、颯馬くん。君ってさ、モテないでしょ。なんかそんな気がする」

「……うるさいなあ」

 人好きのする笑みで酷いことを言われる。
 目を閉じて、彼女の声を聞きながら、いつのまにか眠りに落ちてしまった。あまりにも不思議で、不可解な夜だった。





 *





「……ん」

 朝目が覚めた時、なんだ夢か、と思った。
 枕に顎をのせたまま、ぼんやりと目をこする。カーテンの隙間から日光が差し込んできて、部屋全体を橙色に照らしている。

「うーん……」

 僕は布団の中で体を丸め、昨日の夜のことを思い出す。隕石を見に行ったこと。そこですれ違った女の子……いやにリアリティのある夢だった。昨日はよっぽど疲れていたのか、夜ご飯を食べて制服のまま寝てしまったらしい。

 ふと、枕の横に置いたスマホが震えて、現実に戻される。時刻を見ると七時前。いつもより少し早いけど、学校に行くには丁度いい時間だ。

「おはよ、颯馬くん」

 頭上で声が聞こえた。びくん、と顔を上げると、学習机に寄りかかるように、彼女……レイが座っていた。
 悪戯っぽく笑んで、こっちを見ている。制服姿で、昨日と同じ微妙に違うデザインの制服。四角いボタンが朝陽に反射せずに、奇妙な非実在感と現実感が混在している。
 少し寝癖がついてて、白い靴下が少しずり落ちてて、片方は素足で、それが妙にリアルっぽい。

「あ……」

 現実感がなくて、僕は一瞬固まった。目をこすって、もう一度見た。やっぱりいる。彼女の姿はくっきりとしていて、僕の自覚では目の異常は感じられない。

「……お前、夢じゃなかったのか?」

 声が掠れてた。喉が乾いてて、枕元のペットボトルを見たけど、空っぽだった。レイが首を傾げて笑った。

「えー、失礼だなあ。ちゃんとわたしはここにいるよ。君、寝起きは悪いほうなの?」

 あとさ、レイって呼んでよね。と彼女が立ち上がって、部屋の中を歩き回る。
 何かを触ろうとする仕草を見せるけど、やっぱり何も動かない。ノートの上に置いた鉛筆が、彼女の指をすり抜けてそのまま転がっている。
 僕は頭を抱えた。昨夜の記憶が一気に蘇ってくる。触れられないけど、見えて喋れる――自称幽霊じゃない来瀬レイ。

 時間差で頭が混乱してきて、ベッドから転がり落ちそうになった。慌てて布団を掴んで、体を起こす。立ち上がって向かい合うと、あんまり身長差がないことに気づく。

「何だよ、これ……え、結局本当にいるの、え……」

「コラコラ、もうそのくだりはやったじゃん!」

 僕の動揺を笑い飛ばされる。
 レイがベッドの横にしゃがんで、僕の顔を見上げてくる。彼女の瞳と僕の瞳。しばらくそうして見つめ合うと、安心させるみたいにレイは相好を崩した。

「まあまあ、そんなにおっかなびっくりしなくていいよ。わたし、善人。きみに悪いことしないよ?」

「ぜ、善人は自分で自分のことを善人っていうかな?」

「えー言うんじゃない? 根拠はわたしかな!」

 レイが笑う。その声が妙に耳にまとわりつく。
 僕はレイから目を背け、制服のシャツを手に取った。クローゼットの扉が少し歪んでて、開こうとするたび軋んだ音が鳴る。
 シャツの裾が少しヨレてて、それを指で伸ばしながら、レイをチラッと見た。彼女はベッドに座り直して、鼻歌なんか歌っている。
 僕は一度大きく深呼吸して、いつもみたいに……現実逃避するみたいに、額を軽く抑えた。
 事態は分かった。僕の頭が変になったのでもなく、これは絶対現実だ。でもだからって、僕にはこれは、どうしようもない事態だと気づいた。
 だったら僕にできることと言えば、今日を同じように繰り返すしかない。

「ああ……とりあえず僕は学校行くから。えっと……レイは好きにいたら」

「えー、置いてかれちゃうの? 寂しいなあ」

「知らないよ」

 そう言いながら、昨日彼女がどこにも行けないと言っていたのを思い出す。地縛霊的な……それか、僕にとりついた何かなのだろうか。
 彼女が本当にここに実在しているなら、これからどうなるんだろう。まさか学校にも現れるのか?
 そう考えてるうちに、シャツのボタンを掛け違えてた。慌てて直して、鏡を見た。目の下に薄いクマができてる。けっこうひどい疲れた顔である。
 ため息をついて、櫛で適当に髪を整えた。窓を開けると、朝の冷たい空気が入ってきて、少しだけ目が覚める。

「ねえ、颯馬くん」

 レイがベッドから立ち上がって、僕の横に立った。窓の外を見て、目を細めている。

「ここの朝ってこんな感じなんだ。静かで、ちょっと寒くていい具合だねえ」

「……そりゃ、秋だからね」

 彼女の声に、なぜかドキッとして、回答になってない事を言ってしまう。
 僕の日常を、誰かにちゃんと見られてる感覚――家族とも友達とも違う人に……変な気分がした。
 階段を下りると、当然のように彼女もついてきた。足音が一人分木の床に響いて、少しだけ気持ちがそわそわしてくる。





 朝食の時間はいつもと同じだった。義母さんが焼いたトーストがテーブルに並んでて、父さんのお気に入りのコーヒーの匂いが漂っている。
 唯奈さんはもう食べ終わっていて、長い髪をくるくる巻きながら、慌てたようにスマホを見ていた。
 父さんは新聞を広げて、時々ため息をついている。眼鏡が鼻にずり落ちてて、それを薬指で押し上げるのが父さんの癖だった。

「いただきます」

 トーストの焦げた部分を指で摘まんで、口に放り込んだ。彼女はといえば……とチラッと横を見ると、レイがテーブルの端に座って、僕をじっと見ている。
 膝を立てて、顎を乗っけてる姿が、妙に堂に入っている。
 レイの制服と、唯奈さんの制服をさりげなく交互に見比べる。よく見ると、ボタンに刻まれた意匠も、僕の学校のものと微妙に違うことに気づく。

 ……並行世界。
 そういえば、昨日レイがそんなことを言っていた。本当にそんなものがあるのだろうか
 食事中に考え事はいけない。思わずぶほ、とせき込んでしまい、レイがクスクス笑う。

「大丈夫? 颯馬くん」

 まさかこの状況で言葉を返すわけにもいかない。軽く頷いて首肯する。

「にしても君の朝ごはんの時間、優雅な雰囲気だねえ。わたしん家だと、もうちょっと賑やかだよ。みんなで取り合ったりさ」

「……」

 誰にも気づかれないまま、レイが僕の隣にいる。不思議すぎる状況だった。父さんが新聞を畳んで、僕を見た。眼鏡の奥の目が、少し疲れている。

「颯馬……そろそろ中間テストだろ。頑張って勉強するんだぞ」

「……うん」

 返事をしながら、トーストを飲み込む。喉に引っかかって、また咳き込んだ。コーヒーを飲んで無理やり流し込む。すると唯奈さんがスマホから顔を上げて、こちらを見てくる。
「颯馬、今日は一緒に高校行く? 私もう出るけど」

「い、いやごめん、もうちょっと時間かかるかも」

 唯奈さんは「そっか」って呟いて、立ち上がった。スマホに映るのは、多分塾のスケジュールか何か。彼女の指がタップするたび、小さな音が聞こえる。
 唯奈さんは……そして義母さんも、悪い人じゃない。僕のことを気遣ってくれるし、家族として接してくれているのがわかる。
 それだけに、余計自分がこの家の中で浮いてる感じがして、どうしても、心地が悪い。

 父さんも立ち上がって、仕事に出かける準備を始める。ネクタイを締めながら、母さんに何か呟いている。「今日は少し遅くなる」って声に義母さんが「そう、分かった」って答えて、また慌ただしくキッチンに戻る。皿を洗う水音が、リビングに響いてくる。

「……ねえ、颯馬くん」

 レイが興味深そうに見ていたテレビから視線を外して、僕のほうを見た。

「君の家族って、みんな忙しそうだね。君、もしかして置いてかれてる感じ?」

「……そうかな、不明」

 心の中を見透かされたみたいで、胸がざわつく。でも……確かに、そうかもしれない。父さんは仕事と家のこと……世間体のことを考えて、いつも動いている。
 義母さんは新しい家族を安定させようと頑張ってくれてるけど、僕とはどこか距離がある。
 唯奈さんは優秀な人独特のものか、どこか飄々としていて、どこか近寄りがたくて。
 僕だけが、家族の中でどうなればいいのか……どう動いたらいいのかわかっていない。トーストを手に持ったまま、目を伏せた。今日はご飯のほうがよかったかもしれない。ちょっと胸が焼けて気分が悪くなった。

「……行ってきます」

 鞄を肩に掛けて、玄関に向かった。靴を履いてると、背後に気配がした。振り返ると、レイがなんでか嬉しそうに立っている。白い靴下が、昨日より少し汚れてるように見える。

「ねえ、颯馬くんの学校にわたしも行っていいかな? いいよね!?」

「え、それは、いいけど」

 追い払う気にもなれなくて(というか出来ないし)、そのままドアを開けた。玄関のタイルが少し浮いてて、靴底でその感触を確かめる。
 外に出ると、朝陽が眩しくて、目を細めた。近所の家の屋根に、鴉が止まってて、その家の犬と元気に吠え合っていた。






 学校までの道は、いつもより少し騒がしかった。自転車に乗った中学生が談笑しながら通り過ぎていく。一回レイに突っ込んでいくのを見てひやっとしたけど、案の定なのか、自転車はレイの体をすり抜けていくだけで、僕は感心してしまった。

「ねえ、颯馬くん! 君の世界って面白いねえ。自転車で人に突っ込む肉体言語が主流なのかな」

「……仕方ないよ。だってレイは見えないんだし」

「そういう答えは期待してないなあ」

 ……非現実感が増してきた。
 とりあえず僕はイヤホンを耳に突っ込んで、歩き出す。母さんの好きな曲を流して、少し音量を上げる。イントロが響き出して、心を落ち着かせる。
 考えても意味のないことはできるだけ考えないようにしたい。

「って、こらこら、女の子が隣にいるのにそれはない!」

「うわっ」

 イヤホンをむしり取られた。と思ったが違った。レイが思い切り顔を僕の耳に近づけてきて、イヤホンをスルーして直接僕の鼓膜に口を当てて、喋ってきた。

 まったく感触はないのに、背筋がぞわっとする。

「わ、わかったごめん! 話そう! だからそれやめて……!」

「分かればよろしい」

 ふふんと鼻を鳴らして、レイが回り込むように僕の前に出て、後ろ歩きで進みだす。

「でさ、颯馬くんの学校ってどんな感じ? 賑やか? 楽しい?」

「もうすぐ分かるけど……」

「君の口から聞きたいなあ」

「んー……普通だよ。別に楽しくもなんともない」

「ふーん。わたしん所の学校はね、もっと賑やかだよ。みんな仲良くてさ。教室で騒いだり、休み時間に走り回ったり」

「そうなんだ?」

 レイの声が少し遠くに聞こえた。そういえば、彼女の世界ってどんなとこなんだろう。僕からは確かめるすべもないが……色んな事が、ちょっとだけズレてる世界なんだろうか。



 そうやってしばらく歩くうちに、学校の門が見えてきた。校舎の壁が少し色褪せてて、窓ガラスに朝陽が反射している。鉄製の門が少し錆びてて、風に吹かれるたびギィ……と音がする。制服の群れが、ぞろぞろとそこに吸い込まれていく。
 僕はレイと二人で入って、教室に向かって、階段をわざとゆっくり上がっていく。

「……ここだけど」

「ふうん、なるほどなるほどー!」

 学校に入ってから、ずっと物珍しそうにしているレイが、いよいよか、といった雰囲気で僕のすぐ後ろに張り付いた。

「ち、近い」

「大丈夫!」

 なにが大丈夫なんだろう。
 とにかく教室に入ると、いつもの喧騒が耳に飛び込んでくる。誰かが窓を開けてて、風がカーテンを揺らしてる。僕の席はといえば、教室の窓側の後ろから二番目の席だった。
 外を見ると、校庭で運動部の連中が朝練で走り回っていて、笑い声とボールがバウンドする音が聞こえてくる。

「ここでいいかなー」

 すると、隣にレイが座ってきた。座席じゃなくて、地べたに体育座りをしている。それは、僕の世界じゃなくて、彼女の世界で受けた影響なのか、彼女の髪が、風に揺れてなびいた。

「ここが君の席かあ。けっこういい場所じゃない? 景色も見えるし」

「もう見飽きたけどね」

 周りを見ても、誰もレイに気づかない。彼女が座っているのを無視して、そのまますり抜けていく。すると友達の高見が近くを通りがかり、僕に声をかけてきた。少し汗臭くて、たった今まで走ってましたって感じだ。こいつも朝練か。

「よ、早村。昨日のあれやばかったよな?」

「えーと……隕石?」

「そうそう、ってあんま興味ないのかよ!」

「いや、そうでもないけど……」

 むしろ、誰より早く見に行ってしまったくらいだ。

「あのさあ。俺らクラスで今日見物にいかね?ってなってんだけど早村も行くか?」

「あ、いや……てか、行かないほうが……危ないかも……」

「はは、そんなことねえって。まあ、無理には誘わんけどな」

「あーうん……じゃ、僕は今回パスで」

「りょーかいさん!」

 適当に誤魔化すと、高見は肩をすくめて、別の友達の輪に戻っていく。
 ふと、隣のレイがニヤニヤしてるのに気づいた。彼女の目が、悪戯っぽく光って見える。

「危ないねえ……わたしのどこが危ないんだか」

「……そういうのいいって。でも、隕石の近くで並行世界? のレイと出会ったわけだし……何かやばいことが起こるかも」

「うーんどうだろうね。ぶっちゃけ、そんな感じはしないけど……ただ、色々法則はわかってきたかも?」

「え……ってごめん先生きた」

 小さく呟くと、レイがクスクス笑って、頷いた。
 授業が始まると、数学の先生が黒板に数式を書いていく、チョークの音がカツカツ響いて、教室が静かになる。
 先生の声が、単調に響き、少しだけ眠くなる。でも、レイはどこにも行かなかった。僕のノートを覗き込んできたり、クラスメイトそれぞれの名前を確認して、「あなたが○○さんね、よろしく!」なんて言っている。
 しかし、めちゃくちゃシュールな光景だ。

「へーえ、颯馬くんの世界の数学ってこんな感じなんだ。すっごいねえ。わたしんとこだと、もっと簡単だったよ」

 黒板の横で、先生が書く数式を眺めながら呟く彼女に、「四則演算でもやってたの?」と軽口を……唇を動かして返してみる。すると先生がこっちを見た気がして、慌ててノートに目を落とした。数式が頭に入ってこなくて、鉛筆を握る手が汗ばむ。
 ふと窓の外を見ると、雲がゆっくりと動いている。風が強くなって、カーテンがはためいた。





 昼休み。屋上に上がって弁当を広げた。
 蓋を開くと、義母さんが作ってくれた卵焼きと唐揚げ、炊き込みご飯の香りがふわりと広がる。食堂の騒がしい雰囲気が苦手なので、毎朝作ってくれるのは、本当にありがたいと思う。

「おいしそ~食べられないのが残念だ~」

「食べられなくて安心だ」

 レイといえば、僕の隣に座って、弁当をじっと見つめている。彼女の制服が、別世界の風に揺れる。

「ところでさあ、颯馬君っていつもそんな顔してるの?」

「……どんな顔?」

「寂しそうな顔」

「だったら生まれつきだよ」

 いきなり何を言い出す。
 弁当をかじりながら、目を伏せた。でも……確かに、最近表情筋が動いてないかもしれない。家族とも、友達とも、どこか隔たりがある。
 その原因がほとんど自分にあるんだから、本当、どうしようもないなと思う。
 たった一日とはいえ、傍で見ていたらすぐに分かってしまうものなのだろうか。
 その時バランスを崩して、弁当をひっくり返しそうになる。慌てて手で押さえて、ため息をついた。空を見上げると、雲の隙間に青が覗いて、遠くにトンビらしき鳥が滑空しているのが見える。

「よし!」

「え?」

 ふと、レイが立ち上がって僕の前に立った。
 何をするのかと思えば、彼女がこちらに手をかざした。指が細くて、白い肌が日光に透けて見える。その指先には少しだけ土の汚れがついてて――

「ねえ、これ見て」

「え……ん? 何!?」

 すると、不思議なことが起きた。
 彼女が指で四角形を作る。それはカメラのように、風景を切り取るような仕草とは少し違った指の組み方。
 すると、その指の枠組みの中がゆらっと揺れて、別の景色が見えた。それは、僕が今いる学校の屋上とは違っていて、コンクリート打ちっぱなしの屋根のような場所だ。時刻が違うのか、その景色の中はぼんやり薄暗い。
 錯覚か、遠くで花火のような音が聞こえた気がする。僕は息を呑んだ。心臓がドクンと鳴って、喉が乾いた。

「……え、これ……何……?」

「昨日色々試してて気づいた。これはわたしの世界だよ。こっちとは時間帯が違うみたいだけど……場所は一緒かな。でも、この学校は、わたしの世界だともう廃墟になってるんだけどね」

 囁くようにレイが言う。僕は目を凝らした。確かに、全然雰囲気は違う。だけど、建物の屋根の部分の感じや、角度が……僕が今座っている場所の面影がある。

「ち、近いって」

「え。あ……ご、ごめん!」

 レイが慌てて手を下ろした。思わず僕が顔を近づけすぎた。ちょっと気恥ずかしそうに笑う彼女に、僕は昨日の会話を思い返して言った。

「え、でも待ってよ。レイは昨日『ほぼ一緒の世界』って――」

「ほぼ、ね。例えば君の家の部屋だけど……あれ、位置的には実は、わたしの世界だと、あの場所はわたしの家のわたしの部屋なんだよね。だから、あの部屋でこの枠を作ったら……君の眼には、私の部屋が映っちゃって……そしたら恥ずかしいねえ」

 言ってること分かるかな? と首をかしげるレイ。
 太陽が彼女を透かして、一瞬だけレイの姿形を見失いかける。

「基本的には同じだけど、やっぱりちょっとずつ、ずれた世界に住んでるんだね」

「……レイ、本当に何者なんだよ」

「だから、わたしは並行世界人だって。でも、私にとっては颯馬くんが並行世界人ってわけだよ!」

 レイが笑う。僕は首を振って、ため息をついた。ありえない話だけど、でもありえている現実……

 そういえば、母さんの好きだった映画で、並行世界で離ればなれになった二人――そんな題材があった気がする。愛が時空を超える……みたいな話だったっけ。いや、それは違う映画か?
 なんだか、意味不明さが可笑しく思えて、思わず鼻を鳴らしてしまう。

「ねえ、颯馬くん。明日も一緒に学校行こうよ……それでさ、休日は街にも行ってみない? せっかくなんだから」

「……え、うん」

 なにか……普段の僕の感覚からすると、トンデモなことを言われた気もするけど。
 彼女の言葉に、心のどこかで温かいものが広がった。レイは変な奴だけど、悪い気はしない。校庭の木々を風が揺らして、ザワザワと音が巻いた。




 *




 レイとの時間が日常になり、放課後二人で寄り道するようになった。

「ええ、颯馬くんって帰宅部なの? いけませんなあ……じゃあ、わたしと二人で街中歩き部作ろっか」なんて、子供なことをレイは言って、連れまわされたけど……家に帰っても用事もない僕には、この時間は正直ありがたかった。

 その日は学校近くの公園に行った。
 公園の入り口には、古い鉄の錆びた門があって、それを通り抜けると砂利道が広がる。
 どこかレトロな雰囲気だけど、目立った遊具があるわけでもないので人気はない。ちょっとした穴場だ。
 近くの池には鴨が泳いで、水面が夕陽に反射してまだら模様に光っている。
 ベンチに座ると、レイも隣に座って、なにやら感心したように言った。

「ねえ、颯馬くん。君の世界ってさ、こんな素敵な公園もあるんだねえ。わたしん家の近くには、こんな場所はないよー」

「そう? 普通の公園だと思うけど……近所にもっと大きくて立派な公園もあるし」

「普通がいいんだよ。わたしの世界の方だと、ここらは木とか少なくてさ。コンクリートばっかで、緑なんてほとんど見ないね」

「へーえ……」

「なんか落ち着くねえ」

 明るい彼女の声が、少し遠くに聞こえた。ベンチの横に、誰かが落としたアイスの棒が転がって、砂に埋もれている。
 ちらりと横目で見ると、レイは何やらしみじみと空を見上げていた。ただ座ってるだけなのに何故か楽しそうだ。

「……レイの世界って、結局どこらへんがどう違うの? あまりしっくりきてないんだけど」

「……えー、基本的に似てる印象だけどね。わたしの方がちょっと建物が多くて、でも寂れ気味かな。場所によっては……あ!」

 レイが指さす。すると鴨が一羽羽ばたいて、波紋が水面に広がっていく。

「あんな立派な池も可愛い鳥もわたしの世界にはないなあ。最近思うけど、颯馬くんの世界は何だか色づいて見えるね!」

 そう言って、レイが指で四角を作って、また「枠」を覗かせてくれた。
 そういえば、どうでもいい事だけど、彼女が今している指の組み方は「狐の窓」というらしい。
 昔から伝わる呪いの一種で、この窓を通して見ると、狐や妖怪が化けたものを見破れるとか。
 窓という境界を通して本当の世界を見る……レイが見つけた並行世界同士を繋ぐ方法だけど、これで別世界が覗けるなんて、かなり不思議だ。

「ほら、これ見て! 君の世界のほうがずっと綺麗でしょ?」

 窓の中には、僕たちのいる公園が映っていた。でも、よく見ると風景が微妙に違う。木の葉がもうほとんど落ちて、空が薄い灰色に見える。池はそもそも見当たらず、殺風景な印象が強い
 僕は目を凝らした。窓の中で枯れ葉が巻くけど、音は聞こえない。サイレント映画みたいだ。

「……これがレイの世界? なんか季節が違うのかな?」

「うん、わたしの世界ではこうなんだよ。面白いよね、どこに行っても微妙に違うの」

「……へえ、そうなんだ」

 並行世界の彼女と、同じ景色を見る。レイが手を下ろして笑った。彼女の目が、夕陽に反射して、少し潤んでるように見えた。僕はなんとなくベンチの端を指でなぞった。木の表面が少し湿ってて、冷たい感触が指先に残る。

「ねえ颯馬くん。デートみたいだねえ、こういうの」

「……何だって?」

 また、いきなり変なことを言われる。顔が熱くなって、僕は目を逸らした。レイがクスクス笑う。

「えー、だって二人で公園来てさ、駄弁ってさ、デートっぽいじゃん。わたし、こういうの初めてだよ」

「……そ、勝手に言ってろよ」

 正直心のどこかでドキドキしてた。僕に耐性がないのもあるけど、彼女がいるのが、だんだん当たり前になってきていて、でもその当たり前は、今までの当たり前と少しだけ違う気がした。
 遠くで子供の笑い声が聞こえる。レイがベンチに肘をついて、僕を見て――彼女の髪が顔にかかって、それを指で払う仕草が映える。

「……ねえ、颯馬くんってさ、こういうとこ好きそうだね。静かで落ち着くとこ」

「……まあ。学校とか家だと、なんか息苦しいし」

「ふーん。わたしも好きだよ。君とこうやってると、落ち着くっていうかさ」

「……そう、よかった」

 彼女の言葉に安心する。空が紫に変わり始めて、公園の木々がシルエットになっていく。僕たちはしばらく黙って、夕陽を見ていた。触れられない距離感が、いつもより近く感じる。





 また別の日、レイに提案されて商店街に行った。
 放課後すぐで、あたりにはぽつぽつ主婦らしき人や、下校が早い小学生や通りすがりのサラリーマン。色んな人たちがいた。

 八百屋の軒先に並んだ大根の白や葉物の緑が眩しい。魚屋の氷が溶けて、魚の匂いが少し鼻をつく。
 その全部を、やっぱり物珍しそうに、興味津々でレイは見ていて、なんだかこっちが可笑しくなる。
 僕はたこ焼き屋の前で立ち止まって、財布を出した。たこ焼き屋のおばちゃんが、鉄板をせわしなく動かしてて、ソースと青のりの香ばしい匂いが漂ってくる。レイが隣で目を輝かせた。

「ねえ、たこ焼きって何? 君の世界の食べ物? 美味しそうだねえ」

「……え!? レイの世界ではないんだ!?」

「ないなあ……でも興味関心はすごく湧くなあ。高級品?」

「全然買えるもんだよ。奢るけど食べる?」

「……え、わたし食べられないよ。触れないし。見れるだけでも楽しいけど」

「ああそっか。忘れてた」

 僕はたこ焼きを手に持って、近くのベンチに座った。熱々のたこ焼きから湯気が上がって、ソースの甘い匂いが鼻をつく。
 たこ焼きの上にマヨネーズが垂れて、青海苔がパラついている。

「じい~……」

 レイは僕の隣に座って、じっとたこ焼きを見ている。彼女の目が、エフェクトが入ったように輝いて見える。膝が少し見えるくらい身を乗り出してきている。

「うーんやはり美味しそうだね。わたしの世界だと、こんな屋台もなかった。もっと硬いパンとか、スープばっかりだった。しかも味気なかったしね」

「……そうか。こっちじゃ普通だよ。商店街の他にも祭りとかでもよく出てさ」

「う~ん、すばら! やっぱし君の世界って、温かい感じがする。わたし好きだな~この雰囲気」

 そう言って、あははと笑うレイ。
 だけど彼女の声が、少し寂しそうで、僕は迷いつつも、誤魔化すみたいにたこ焼きを口に放り込んだ。熱くて舌を火傷しそうになって、慌てて息を吐く。たこ焼きの表面はカリッとしてて、ソースの甘さと、タコの歯ごたえが口に広がる。

「ふ、颯馬くんって不器用だねえ。食べるのも下手だなんてさ」

「……うるはいなあ。あふいんだから仕方ない」

 彼女がふふっと笑う。商店街の喧騒が、かすかに響いてくる。
「いらっしゃい!」って呼び込みや、子供が走り回る足音。自転車のベルがチリチリと鳴って――五時を告げる放送が聞こえた。
 僕はたこ焼きを手に持ったまま、レイを見た。彼女がやっぱり楽しそうに、僕をじっと見ている。僕はたこ焼きをもう一つ口に放り込んで、彼女に目をやった。

「……レイはさ、食べられないのに、こうやって見てるの楽しいの?」

「うん、楽しいよ。君が食べてるとこ見てると、なんか嬉しい。わたし、こうやって君と一緒にいると飽きない」

「……っ」

 また、食らった。僕にはそういう作法ってわからないけど……これって一般的な距離の詰め方だろうか。
 それか、並行世界特有の距離感、とかだったりする?

「狐の窓を使って、たこ焼きをそっちの世界に転送とか……できないかな」

「ナイスアイデア! だけど試したけど、なぜか上手くいかなかったなあ」

 残念、とレイが肩をすくめる。名案だと思ったけど、すでに実験済みらしい。
 そのまま適当に二人で駄弁る。電気が一つ一つ灯って、街が夜の色に変わり始める。僕たちはしばらくベンチに座って、商店街を見ていた。今日はいつもより彼女の存在が、僕のそばに感じられた。





 夜、部屋でレイと過ごす。
 僕が机で宿題をしてると、レイがベッドに座って喋りかけてくる。
 レイはちょっと足癖が悪いのか、いつもみたいに足をぶらつかせて、僕を見て言った。

「ねえ、颯馬くん。君ってさ、家族とあんまり喋らないよね」

「……まあね。ギクシャクしてるっていうか……イマイチうまくやれなくて」

「ふーん。どうして? 何かあったの?」

「……分からないよ。父さんはいつも忙しいみたいだし……唯奈さんや義母さんとは、もう二年一緒に暮らしてるけど、やっぱりちょっと距離あるし。まあ、単に僕がコミュ障なせいだと思うけど」

 息を漏らす僕に、レイが首を傾げる。

「そうかあ。でも君くらいの年頃はそんなもんだよ。だから気にしなくても……なんならわたしがいるからね!」

「……うん、そうだな。レイがいてくれるから、最近はちょっとマシかも」

「……ふえっ!?」

 驚いた、という反応をされる。心外だ。僕だって素直に思ったことを言う時がある。
 僕は宿題の手を止めて、彼女の目を見た。レイもベッドの上に座って、僕をじっと見ている。部屋の空気が静かで、窓の外から夜風が吹きこんでくる。僕はノートを閉じて、椅子の背にもたれた。椅子が少し軋んで、ギシッと音がする。
 こほん、と咳払いして、レイが言った。ちょっとからかうような感じだ。

「……ねえ、颯馬くん。君ってさ、学校でもあんまり喋らないよね。友達、あんまりいないんだ?」

「……まあ少ないよ。目立たないほうが楽だし、別にいいかなって」

「ふーん。でもその気持ちわかるかも。わたしも小さい頃は、友達がいっぱいいたよ。教室で騒いだり、休みの日もたくさん遊んでさ。だけど大人になるにつれて、だんだん減っていっちゃうんだよね、そういうの」

「それは分かる」

 彼女の言葉のひとつひとつ。
 どうでもいい話やそうでもない話まで、その日は夜遅くまで沢山話をした。






 ある日、レイが急に姿を消した。家に帰って、夜ご飯を食べて。そうして一緒に部屋に戻ったのに、振り返ったらいなかった。
 僕は慌てて部屋を見回したけど、やはりいない。いたずら好きの彼女の事だから、物陰に隠れて驚かせようとしてるとか……と最初は思った。
 机の上のノートが風に揺れて、パラパラめくれる。僕はベッドに座って、彼女のことを考えた。彼女がいるのが、僕の毎日に、本当に当たり前になっていた。

 次の日、学校に彼女が現れた時、ほっとしたけど、同時に心配した。レイの表情が少し疲れてて、いつもより暗く見えた。

「……レイ、大丈夫? 昨日どこか行ってた?」

「……うん、ちょっと最近寝不足で。でも別に平気だよ。心配してくれたの?」

「……まあ、急にいなくなると、そりゃ気になるし」

「ふふ、可愛いとこあるねえ」

 彼女の笑顔が、無理してるみたいで、僕は気になった。
 ちょっとだけ不安になった僕は、ネットで並行世界のことを調べて、母さんの持っていたSF小説を引っ張り出して読み漁ってみた。
 古い文庫本。表紙が少し黄ばんで、ページの端が折れている。並行世界同士を繋ぐ、狐の窓の事とかも、何か分かるんじゃないかと思ったけど、答えは出なかった。
 ふと、彼女の声が、静かな部屋に響く。

「ねえ、颯馬くんは何読んでるの?」

「……並行世界の本だよ。レイが前に言ってたから、今更気になってさ」

「へえ、小説かあ。面白い?」

「……まあ、ちょっと難しいけど」

 ベッドに寝転がって、いつもみたいにスマホで動画を見ていたレイが話しかけてくる。
 結局、僕は何を調べたらいいのか分からなくなって、本を閉じた。





 別の日、リビングで父さんと口論になった。
 父さんが僕のテストの点数を責めてきて、声が大きくなる。テレビを消した静かな部屋に、父さんの声がやけに響いた。

「颯馬、もっと唯奈を見習って頑張れ。こんな成績で将来どうするつもりだ?」

「……分かってる。でも、僕は唯奈さんじゃないし……僕なりに――」

 声が震えて、自分でも情けない。父さんがメガネを薬指で押し上げる。
 義母さんがキッチンから顔を出して、話に割って入ろうか、困った様子だった。
 唯奈さんは……多分塾に行っているのだろう。
 僕は胸が苦しくて、どうしようもなかった。父さんの視線が重くて、かったるい倦怠感みたいなものが、全身にまとわりつく。
 説教が終わって階段を上る。部屋のドアを開けると、レイがベッドに座っていた。

「……ごめん、ちょっと聞こえた。君も大変だねえ」

「……うん。いつもこうだよ。お前は何やってもダメだって叱られる。ま、その通りだけど」

 そう言うと、ふとレイがベッドの横をぽんぽんと叩いて、僕に着席を促してきた。
 そんな彼女の仕草がおかしくて、心が少し軽くなる。

「わたしは颯馬くんが頑張ってるの、見てるよ?」

「うん……」

「でも家族ってさ、難しいよねえ。わたしん家も、一時期似たような感じだったことあるよ。父さんも母さんも忙しくてさ、余裕がなくなっって……わたしのこと見てくれなかったなあ。タイミングが悪いと、そーなる」

「……そう? レイのとこもそんなんだったんだ」

「うん。だからさ、寂しかったらレイちゃんさんに言いなさい。慰めてあげるから」

「な、なんか言い方恥ずかしいな!」

「あははっ」

 単純だと思うけど、彼女の言葉に、簡単に掬い上げられる。
 その翌日、僕は勇気を出して、リビングでコーヒーを飲んでる父さんに話しかけた。マグカップから湯気が立ち上るのに視線をやって……足の親指に力を入れて、それから、意を決して父さんと目を合わせた。

「……あのさ、僕は僕なりになんとかやってみるから……もう少し、待ってよ」

 上手い言葉が思いつかなかった。ただ、思ったことを口に出しただけだ。
 父さんが目を上げて、黙って僕を見た。少しだけ間があって、ため息をついて……マグカップをテーブルに置く音が、かちりと響く。

「……分かった。お前なりにやってるんだな。俺も、ちょっと言い過ぎた」

 言葉数は少なかったけど、いつもより柔らかかった。母さんがキッチンから顔を出して、僕を見た。少し驚いた顔で、でもその表情はかすかに笑んでいる。
 唯奈さんがスマホから目を上げて、「ん? どしたの?」って呟いた。僕は「なんでもない」とだけ返して、部屋に戻って、また定位置……レイの隣に座って、ぶはあと息を吐いた。
 彼女はそんな僕を見て、にはっと笑う。

「ふふ、颯馬くん、けっこう通じたんじゃないかな、君の頑張ろうって気持ちはさ」

「……うん、レイのおかげだよ。かろうじてだけど、言えた……」

 レイがいるのが、僕の心の支えだった。
 触れられないけど、僕にしか見えないけど――彼女の存在が、いつも通りに入り込んできて、それが、なんというか……心地よくて。
 夜風が吹いて、部屋の空気がふわっと回る。遠くで電車の踏切音が、かすかに聞こえてくる。僕はレイの隣でベッドに寝転がって、天井を見上げた。彼女の存在が、僕にとって……とても大きな意味になっていたんだ、と思う。





 *





「……なんだろ、あいつ」

 放課後、学校の屋上に上がると、空気が湿って重たい感じがした。
 僕は少し錆びたフェンスに寄りかかって、空を見上げる。雲が厚く垂れ込めて、太陽が見えない。フェンスの網の冷たい感触が首を触って、思わず体を離す。
 待ち合わせだった。今日最後の授業。その終わりくらいにレイが僕の隣にやってきて、屋上で待ってるから、と言った。だから急いできたけど……レイは今、どこかに行ってるみたいだ。

「……」

 レイといると安心するし、話していると、少しずつだけど……自分の問題と向き合おうっていうやる気みたいなのがわいてくる。
 でも、最近、彼女の様子が変だ。急にどこかに消えたり、疲れた顔を見せたり。胸の奥でざわつくものがあって、それが無性に気になってくる。

「……ね、颯馬くん」

 声が聞こえた。びくっと体が震えて、慌てて振り返った。
 レイが屋上の中央に立っていた。彼女の影がコンクリートに伸びて、それがゆらゆらと小さく揺れる。風が彼女の髪をそっと弄び、屋上の空気感が少し変わった気がした。
 僕は目をこすって、もう一度彼女を見る。レイの目が、どこか遠くを見てて頬が青白くて……笑顔が少しぎこちない。気のせいだろうか?

「……レイ、どうしたんだよ。というか、最近変だけど大丈夫か?」

「ん……まあね」

 レイがにこりと笑って、かぶりを振った。彼女の髪が揺れて、顔に影を作る。

「うん、大丈夫だよ。ちょっと最近忙しくて。やっぱり君は心配性だねえ」

「……そうかな。でもさ、昨日とかもまた急に消えたし……もしどっか体調悪いなら――」

「ううん」

 彼女が目を逸らして、微笑んだ。それが無理をしてるみたいで、僕は何か焦りを覚える。彼女がフェンスの横に立って、さっきの僕みたいに空を見上げた。
 僕はどうしていいか分からなくて、彼女に近づいて、フェンスの網を小指で握った。鉄の冷たさが指先に伝わって、少し気持ちが落ち着く。

「……ねえ、颯馬くん。君の世界ってさ、本当にいいとこだね。こんな天気でも、なんだか落ち着けるや」

「……普通が一番ってやつ?」

「そ。わたし、こういうの、ずっと憧れてたから。君とこうやってると、いいなあって思うんだ」

 えへへ、と笑う彼女の声が、少し弱々しくて、僕は唾をのむ。
 彼女が僕を見ている。彼女の目が、グラウンドのライトに反射して、吸い込まれるようだ。手持ち無沙汰にポッケに手を突っ込むと、昨日入れた飴の包み紙がかさりと鳴る。何か、否応のない気持ちが、徐々に膨れ上がる。

「……レイ、本当に無理すんなよ。なにかあるなら……その、僕も話聞くから」

「……うん、ありがとう。君は優しいねえ」

 彼女が笑うけど、その笑顔がどこか儚くて、僕の胸がざわついた。彼女が視線をさまよわせて、また空を見上げる。

「え……」

 その瞬間だった、彼女が急に膝をついた。
 それは倒れこむというより、本当にすとんと糸が切れたみたいで……僕はほとんど無意識に、抱きかかえようとするけど、手がすり抜ける。
 レイに近づいた。すると彼女の体から、赤い液体が流れ落ちて、コンクリートに染み込んで見える。僕は息を呑んで、呟いた。

「……おい、レイ。これ、血じゃ……」

 頭が混乱する。

「……う、うん、ごめんね、颯馬くん。ちょっと、きついかも」

 レイの声が震えてて、顔が嘘みたいに青白くて、彼女が目を閉じた。血がレイの制服に広がって、僕は慌てて手を伸ばしたけど、やっぱりすり抜けた。何度も僕の手が彼女をすり抜けて、空を切る。彼女の体がぼんやりとあやふやになっていく感じがして、僕は――自分でもうるさいくらいに、叫ぶ。

「……おいレイ! 待てよ! 何だよ、これ!」

「……颯馬くん、ごめんね……」

 彼女の声が小さくなって、次の瞬間、彼女の体が光に溶けた。僕は息を呑んで、屋上を見回した。もう彼女のいた場所には、血の跡すら残ってない。コンクリートの冷たい感触が指から伝わり、風が背後から吹き抜ける。僕の心臓がバクバクして、どうしようもなくて、ただ、怒鳴る。

「……レイ! どこ行ったんだよ! おい……!」

 フェンスがガタガタと鳴る。僕は鞄を手に持ったまま、屋上を飛び出した。階段を駆け下りて校舎の外に出る。
 風が頬を叩いてくる。
 アスファルトが足裏に響いて、スニーカーの底が擦れる音がする。
 街灯の光の点々と過ぎていく。
 理屈は後から来た。僕は、無意識に走り出して、その場所に向かっていた。

「レイと、出会った場所……!」

 僕は思い出していた。隕石の落下地点。あの山の頂上あたりが、彼女と初めて会った場所だ。
 あそこに行けば、レイがいるかも。
 僕は走った。息が上がって、肺が焼けるみたいだ。喉が乾いて、汗が視界に滲む。

「はあ、はあ……くそ……!」

 山道を走る。レイと最初にすれ違った場所も通り過ぎて、隕石があるはずの場所に向かう。吐きそうだった。気分が悪くて、頭痛がどんどん強くなっていく。いつからか雨が降っていて、僕は水の中で呼吸をするみたいに、思い切り叫んだ。

「……レイ! どこだよ! 近くにいるんだろ……!」

 その時、足がもつれ、空間が歪んだ。
 目の前がゆらっと揺れて、辺りの景色が変わったのだ。

「……!?」

 そこには灰色の空が広がって、崩れたビルが立ち並んでいる。
 遠くで爆音が響いて、煙があちこちで上がっていた。
 地面がひび割れてて、焦げた匂いが鼻をつく。空に赤い光がちらついて、なにか不規則なクラッカーのような残響が、耳に響く。
 僕は立ち上がって、周りを見回した。足元の地面が時々揺れて、崩れたコンクリートの破片が転がる。遠くで誰かの叫び声が聞こえて、それが強い風に混じって。
 僕は動悸をなんとか抑えながら、目を凝らした。
 そこは、テレビの中でしか見たことのない、異国の戦場のようだった。

「うそ、だろ……」

 初めて見るはずなのに、どこか見覚えのある、そんな色合いの世界。
 並行世界。レイの世界だ。僕は息を呑んで、立ち尽くした。






「……何だよ、ここ……」

 突然に、目の前が灰色に変わった気がした。
 空が厚い雲に覆われてて、太陽の光も弱く、薄暗い影が全てを包んでいる。
 風が吹いて、足元の灰が舞い上がって目に入る。僕は目をこすって、咳き込んだ。喉が焼けるようで、焦げた匂いが鼻をつく。

「うっ……」

 遠くで爆音が響いて、地面がまた揺れる。
 遠目に崩れたビルの残骸が立ち並んでいて、鉄筋がむき出しになってる。ビルの窓から割れたガラスが垂れ下がってて、道端に倒れた看板があって……でも、文字が擦り切れて読めない。
 僕は立ち尽くして、周りを見回した。足元の地面に、血の跡が点々と続いてて、思わず狼狽える。

「……レイ……!」

 僕は崩れた道を走り始めた。スニーカーの底がザクザク鳴って、舞い上がった灰が顔にまとわりつく。
 道の端には、壊れた車が横に倒れてて、ガラス片が散らばっていた。車のドアが半開きで、中には血の跡だけが残っている。
 僕は目を逸らして、吐き気をこらえた。この世界が……レイのいたはずの並行世界が、戦争で荒れ果ててるなんて、想像もできなかった。レイがこんな場所で生きてたなんて、信じられない。僕は走った。彼女を探さなきゃ。
 今探さないと、二度と会えないかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。

「……!」

 舗装されてない道を進んでいくと、ビルの上から瓦礫が落ちてきた。下敷きになりそうな人影が見えた。僕は反射で叫んだ。

「……危ない!」

 その声が届いたのかどうか分からない。
 瓦礫が地面にめり込んで、灰が舞い上がる。飛ばされてきたそれが口に入って、苦い味が広がる。

「よかった……大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄る。どうやら、何とか無事だったみたいだ。

「……」

 でも、その人は僕を見ずに、呆然と立ち尽くしていた。触れようとした僕の手がすり抜けて、何も触れない。
 気づいた。僕の影すら地面に映っていない。僕は息を呑んだ。この世界じゃ、僕は半端で……ほとんど存在しないみたいだ。灰、熱……苦しいものばかりが、僕に干渉して、まとわりつく。
 その時、また遠くで爆音が響く。目を凝らすと、遠くの崩れたビルの隙間から、赤い光が漏れてるのが目に入る。
 僕はまた走り出した。レイがどこかにいるはずだ。彼女をこんな世界に置いておけない。


「はあ、はあ……」

 並行世界の学校を見つけた。校舎が半壊して、コンクリートの壁にはひびが入っていた。
 屋根が崩れ、鉄筋がむき出しだ。校庭にが焦げた跡が広がり、砂場に血の跡があって、僕は急いで校舎に近づく。
 入り口のドアが半開きで、風に揺れてガタガタと鳴る。僕はドアを押して、中に入る……廊下は暗くて、床にガラスが散らばっていた。

「……レイ! レイ、どこだよ……!」

 スニーカーの底でガラスがぎしぎし鳴る。所々血の跡が点々と続いて、僕は目を細めて、せき込みながら……心臓を抑えながら、廊下を進んだ。
 怖い……でも、探さないと。レイがすぐそこにいるかもしれない。

 廊下の奥に、保健室を見つけた。木のドアがひび割れて塗装も剥がれている。僕はドアノブに手を伸ばした。
 ドアを押すと、軋む音がして、埃が舞い上がる。部屋の中はぼんやりと窓から灰色の光が差し込んでいる。
 カーテンが破れてて、ベッドが一つあって、白いシーツが乱れて――

「あ……ああ……」

 そこに、レイがいた。彼女は横たわって、制服が血で染まっていた。
 彼女の顔は蒼白で、息が浅い。血が彼女の腕から滴り落ちて、床に小さな染みを作って……僕は訳も分からないまま近づいた。頭が熱くて、胸が締め付けられて、鼻で喋ってるみたいに、間抜けに叫んだ。

「……レイ! 大丈夫か!? レイ……レイ!」

 揺する。揺すろうとする。でも、触れられない。

「ん……」

 ――すると。彼女が目を薄く開けて、僕を見た。彼女の瞳はいつも通りの、らしい視線で……涙が滲んでるそれが、僕の姿を捉えていた。
 彼女が小さく笑って、口を開く。でもそれは……弱々しくて、喉が詰まったみたいに掠れている。

「……颯馬くん、来てくれたんだ。すんごく、びっくりしたよ……」

「レイ……何だよ、これ! お前、血だらけじゃないか! どうしたんだよ!」

 僕は膝をついて、彼女を見た。彼女がベッドに手を置いて、体を起こそうとする。シーツに染み込んだ、鉄の匂いが鼻をつく。彼女の腕に包帯が巻かれてるけど、血が滲み出てて……でも、手を伸ばしたけど、すり抜けてしまう。僕の手が彼女をすり抜けて、空気を撫でるだけだ。
 彼女の目から一筋の涙がこぼれて、ベッドに落ちる。涙が血と混じって、シーツに薄い染みを作る。

「……ごめんね、颯馬くん。わたし、君に嘘ついてた。わたしの世界は、君と同じなんかじゃない。戦争で……ずっと続く争いで、ボロボロなんだよ」

「……っ!? 戦争って……レイ、お前、ずっと……そんなとこにいたのかよ……!」

「……うん。ずっとこうだよ。爆撃が毎日あって、家族も友達も、いなくなっちゃって。だからわたしは……君の平和な世界に、憧れてたんだねえ」

 レイの声が震えている。彼女は無理をするように、ベッドに寄りかかって、僕を見た。
 保健室の窓から、灰色の空が覗く。窓枠がひび割れてて、風が通り抜ける。カーテンの破れた切れ端が痛々しい。僕は目を伏せて、拳を握った。彼女が隠してた真実が、胸に突き刺さる。
 どうして……どうして気づかなかったんだ。普通に……それに憧れていると度々、レイは言ってたじゃないか。なんで、僕は……。
 保健室の空気が冷たくて、血の匂いが強くなる。遠くで誰かの叫び声が聞こえて、それが風に溶ける。

「……ごめん、僕、レイの世界のこと気づかなかった……」

「……謝るのは、わたしの方。全力で隠したもん、わたし」

 ふふ、とレイが笑う。

「うん……でも、君との時間は、すごく楽しかったなあ。君の前では、普通の女の子でいられる気がしてさ。わたし、こんな世界でも……誰かと楽しく遊んでさ……それで、恋なんて、知りたかったんだ、あわよくば、だけど」

「っ……何だよ、それ……」

「……ごめんね。君に戦争のこと、言えなかった。君の笑顔見てると、辛いことも全部消える気がして……君の前では、平和な世界を演じてて、それが、わたしにとっては、すごく大切で……」

 彼女が正面から僕を見た。僕は……息を吸い込もうとするけど、うまくできない。
 彼女がこんな世界で生きてたなんて。
 彼女の笑顔の横で、僕がどんなに下らないことを言ってたかなんて、思い出したくない。
 拳に爪が食い込む。彼女の言葉が……心臓にも爪を立てる。保健室の床に、僕の指から血の滴が落ちて、小さな音が響く。遠くで爆音が近づいてきて、窓ガラスが鳴って――僕はどうしていいか分からなくて、もう一度、彼女を見た。

「……レイは、そんな辛いこと隠して、僕と笑ってたのかよ……」

「……うん。だって本当に、楽しかったもの。君のおかげで、新しい自分を知れた。君と一緒にいられて、わたしは幸せだった。君の世界の景色とか、たこ焼きとか、ふふ、全部宝物だよ」

 彼女の呼吸が浅い。ふと、僕の目から涙が溢れそうになる。
 僕は目を閉じて、ほんの短い時間の……レイとの日々を思い出した。その時だった。

「あ……!」

 僕は考えついて、立ち上がった。彼女が少し目を丸くして、僕を見る。僕は整理しないままに、その思い付きをまくし立てた。

「……待てよ! 『狐の窓』で二つの世界が干渉できるなら、どうにか触れ合えば……レイをこっちの……僕の世界に連れてこられるかもしれない!」

「……え?」

「そうだよ! レイがこっちに来れば、こんな世界から逃げられる。そしたら治療もすぐに……それに僕の世界なら、平和でさ、レイもひどい目に合わずに……それで、ずっと一緒にいられるじゃないか!」

 僕はどう、といわんばかりに彼女を見た。視線が、僅かに揺れている。だけど……少し間があって、彼女が首を振った。

「……ありがとう、颯馬くん。でも、ダメだよ。わたし、一人で幸せになるなんて……それは、できないよ」

「……え、なんで……あ、家族とか友達とか……! じゃ、じゃあそれも、どうにかして……」

「……嬉しいけど、だめなんだ。それに……わたしが君の世界に行けても、この世界で戦争はずっと続いてるなら……わたしは、わたしだけ逃げるなんて、やっぱりそれは、できない」

「そんな、こと……」

 彼女がベッドからよろよろ立ち上がり、僕に近づいた。シーツに赤い跡が残る。彼女の足元に、血の滴がまた落ちて――僕は、彼女の瞳を見返すことができない。レイの覚悟のことが、僕には分からない。想像すらつかない。僕は目を閉じて、叫んだ。

「……レイ、なんで……だって、僕……僕、レイがそんな辛いとこにいるなんて、そんな……」

「……颯馬くんは颯馬くんの世界で、笑っててほしい。君の笑顔が、わたしを救ってくれたから……わたしは、もう十分すぎるくらいなんだ、よねえ」

 視線が混じった。彼女の目が、涙できらめいて、でも深くて静かで。
 彼女が屋上に行こうって言って、僕たちは階段を上がった。崩れた階段が軋んで、手すりが冷たくて……指先の鉄の感触が、不快だ。
 彼女が僕の前を歩いて、血が制服から滴り落ちていく。彼女の背中が、小さく見えて……それがどうしても嫌で、寄り添おうとするけど、それすらもできない。




 屋上に着くと、灰色の空が広がって、風が強くて、崩れたフェンス越しに、遠くで赤い光が踊っているみたいで。何もかもが頼りない。
 僕は彼女を見て、たまらなくなって叫んだ。声が震えているのが、よく分かる。

「……レイ、ここで死ぬつもりかよ! 僕はレイが死ぬの、見たくない! レイがいなくなったら、僕、どうしたらいいか……!」

「……颯馬くん、ごめんね。でもわたしは……わたしが一番望んでることは、君が君のの世界で、毎日楽しく過ごすこと、かなあ」

 彼女の目から綺麗なものがこぼれて、僕も……熱いものが、目の奥から溢れてくる。
 彼女が僕に手を伸ばしたけど、すり抜けた。彼女の制服が、はためいて、僕はその場で子供みたいに、泣き叫んだ。
 声が掠れて、喉が痛くて……でも、それはどうでもよかった。

「……嫌だよ! レイを置いてけない! レイと一緒にいたい!」

 その言葉が、彼女を困らせるだけだって知っているのに。

「……ありがとう、颯馬くん」

 その時だった。一瞬の事だったと思う。彼女が狐の窓を作ったかと思うと……それを、僕の口元に近づけて、押し当てた。

「えっ……」

 僕とレイ。
 気付いたときには、二人の唇と、唇が重なっていた。それは、あまりにもこの場所に似つかわしくなくて……窓越しの、僕の、初めての……

「ふふ、しちゃったね」

「な……え……」

 動揺。困惑。柔らかい感触……

「早村颯馬くん、君のことが、わたしは大好きです」

「レ……」

 ――その時だった。
 ひときわ高いサイレンが鳴り響いた。空が赤く染まって、風が吹き荒れてくる。遠くで爆音が響いて、大きな何かが……迫ってくる。
 レイが叫んだ。彼女の声が、透き通るみたいに。

「……逃げて、颯馬くん! 早く!」

「……嫌だ! レイを置いてけない!」

「……お願いだよ! 君は生きて! わたし、君に会えて幸せだったよ!」

 世界が明るい。僕は目を閉じた。次の瞬間、爆音が耳を劈いて、熱風が頬を叩く。空が赤く燃えて、崩れたフェンスが風に飛ばされる。遠くでビルが崩れる音がして、煙が立ち上る。僕は叫んだ。上も下も分からないままに、ただ声を張った。

「……レイ! レイ……!」

 光が全てを包んだ。僕はしばらく叫び続けたけど、声が宙に浮いてるみたいだった。
 目が眩む。彼女の笑顔が頭に浮かんで、光が消えると、僕はもう元の世界の山頂付近にいた。
 丘の草が焦げてて、夜空に星が瞬いている。
 僕は膝をついて、地面を叩いた。手が震えて、指が土に食い込む。涙が溢れて、地面に落ちる。

「……レイ! 戻ってこいよ! 僕は、レイがいないと……」

 風が吹いて、木々がざわつく。彼女のいない世界が、静かで、冷たい。
 僕はどうしたらいいか分からなくて、そのまま地面に座り込んでいた。土の冷たい感触が体に伝わって、じんじんと、熱を持った体を冷ましていく。






 *






 一ヶ月が経った。
 放課後、教室の窓から冷たい空気が差し込んで、思わず身震いする。やっと冬休みだねーなんて、そんな声を聞きながら、僕は鞄を背負って教室を出た。
 廊下で高見がすれ違いざま、声をかけてくる。

「よお早村、最近元気ないな? 一時期いい感じだったくせによ」

 高見がニヤッと笑って、僕の肩を叩く。僕は目を伏せて、呟いた。

「……ああ、ちょっと疲れてるだけ。気にすんなよ」

「まじかよ。何かあったら言えよ。だって俺ら、親友だろ?」

 長期休み前だからテンションが高いのか。高見がそう言って、僕の背中をドンと押す。僕は小さく笑って、頷いた。

「……おう、ありがと」





 家に帰ると、リビングで父さんがテレビを見ていた。僕が入ると、父さんが言った。

「ああ颯馬、帰ったか。今日、仕事で面白い話があってな……」

「……へえ、どんな話?」

 僕は鞄を下ろして、ソファに座った。父さんが笑って話し出す。

「客先で、宇宙とかオカルトとか変わったものが好きな人がいてな。それでうちの近くの隕石の話になったんだ。その縁で商談も上手くまとまってな――」

「そうなんだ」

 僕は目を伏せて、呟いた。その時義母さんが台所から顔を出して、声をかけてきた。

「颯馬、晩ご飯何がいい? カレーにする? それかエビチリとか食べたい?」

「……カレーでいいよ。義母さんのカレー、僕好きだし」

「ふふ、あら。嬉しいこと言ってくれるじゃない。ちょっと待っててね」

 義母さんが笑って、台所に戻る。すると唯奈さんが階段を下りてきて、スマホをいじりながら言った。

「ね、学校じゃなくて塾の方はさ、一緒に行こうよ。コースは違うけど時間は一緒だし」
「あ、うん。来週からのやつね。僕は大丈夫」

「まあ、一回試してみて合わなければまた考えればいい。頑張れよ颯馬」

「勉強なら家でも私が教えてあげるよ!」

 唯奈さんが笑って、僕の隣に座る。
 学校でも、家でも、少しずつ、でも確かに変化がある……そんなことに、最近気付いた。これからもずっと変わらない日々が続く、なんて思った日もあったけど。でも実際は、そんなことはありえない。
 それは、僕の行動で変わっていく。僕の行動を変えたのは、間違いなく、彼女との出会いがきっかけだった。





 僕は最近毎晩、部屋の窓辺に立って、空を見上げる。
 夜空の星の、温度の薄い明かりが差し込んできて、カーテンが僅かに揺れて、僕は小さく息を吸い込んだ。

「……レイ、会いたい」

 僕は呟いて、ベッドに寝転がった。シーツが冷たくて、体にひたりと吸い付く。
 一人になると、彼女の色んな表情が頭に浮かんで、涙が溢れそうになる。友達や家族との距離は縮まったけど、胸の穴は埋まらない。彼女がいない世界が、ただ静かで嘘みたいで、寂しかった。




 その日、夜の街を散歩してみた。時刻は深夜近く、街の信号機のほとんどが点滅し始める。
 小川の水面が街灯の光に反射して、青色に光る。なんとなく触れた橋の欄干が冷たくて、遠くの車の音が夜に溶けていく。
 僕は目を閉じて、彼女の声を思い出していた。

「……レイ……僕、どうしたらいいのかな」

 本当に、ダサい奴だと思う。自分の上擦った声が、ただ恥ずかしい。
 すると、向かいから歩いてくる足音が聞こえた。軽い靴音が、コンクリートに響いて、僕の耳に届く。
 僕は目を細めて、ありえない……と思いながら、そちらを見た。少女が歩いてくる。制服姿で、髪が肩まで伸びていて。
 その制服は、僕の通う高校のものによく似ていて……でも、よく見ると、細部がところどころ違っていて。

「あ……」

 街灯の光が彼女を照らして、顔が見える。レイだった。彼女が僕を見て、ふわりと笑った。彼女の瞳が反射して、一瞬猫のように光って見えて……僕は息を呑んで、目を凝らす。
 胸がかつてないほど高まって、感情が爆発したみたいに、足が震える。僕はその場でなぜか手を伸ばして、叫んだ。

「……レイ!? な……なんで、生きて……!?」

「……颯馬くん! やっと会えたよー!」

 あと、人を幽霊みたいに言わない!
 なんて――彼女の大きな声が、耳に届く。掠れて、どこか苦し気な……あの時の別れ際の声じゃなくて、優しくて、温かい。僕が一番よく知っている声。

 彼女が僕に駆け寄ってきて、僕も思い切り転がるみたいに詰め寄って、彼女を見た。彼女の制服が、少し汚れてて、袖に焦げた跡が残っていて――

「ど……どうしてだよ!? だってあの時……なんで、ここに……どうして、生きて……!?」

「……うん、そうだねえ。あの爆発自体は、たまたま瓦礫が壁になってくれて、運よく生き残らせてもらったんだけどさ」

 くすり、とレイが笑う。

「……ど、どうやって……どうやってここに来たんだよ!?」

 違う、今聞くべきことは……僕が言いたいことは、そんなことじゃなくて。

「……あの時、君とは触れ合えなかったけど、『狐の窓』で心がずっと繋がってたのかな。多分わたしがまたここに来れたのは、君がわたしを呼んでくれたんだと思う。わたしはただ、君の世界に引き寄せられただけ」

 細かいことは、分からない。でも、そもそも世界はそんな事だらけだ。でも、はっきりと分かることが、ここにはある。

「戦争は終わったよ。わたしの国は負けちゃった。だけど……多分もう、わたしの周りの沢山の人が理不尽に死ぬことはない、と思うんだ」

「……あ……」

 僕は彼女に恐る恐る近づいて、手を伸ばす。彼女がそれに呼応するように、僕の手を……確かに取った。温かい。この冷たい外気を、一瞬で溶かすような、そんな体温を感じる。

「さ、触れる……」

「そりゃ、ここにいるからね、わたしは」

「……僕が、ほんとに、呼んだの?」

「……うん、颯馬くん。君がわたしを想っててくれたから。君の心が、わたしをここに連れてきてくれた。あそこで死ぬはずだったけど、君の声が聞こえた気がして……だから、わたしは諦めなかった。きみがわたしの世界に来てくれて、わたしを救ってくれたんだよ!」

 彼女の目が、少しだけ潤んで見えた。彼女の姿全体が、僕の視界が、滲んだようにぼやける。
 あの時、僕が叫んだ言葉が、僕の思いが、彼女に届いていた。

「……レイ! 本当に……ちゃんと、ここにいるのかよ!」

「……うん、颯馬くん。本当にここにいるよ。君に会いたくて、頑張ったからねえ」

 彼女が僕にもっと近づいてきて、僕の手をぎゅっと握り返してくれる。レイの指が、僕の手を包みこむ。息が詰まる。

「……レイ! 本当の……本当に、お前なんだよな! レイ……!」

「……うん、颯馬くん! やっと君に触れられるよ! でもって、もう離れないからさ!」

 彼女が僕を抱きしめて、鼻声で笑った。彼女の髪が頬に当たって、懐かしい匂いがする。僕は彼女の実在を確かめるみたいに……ゆっくりと抱き返してから、言った。

「ごめん、ダサいこと言うけど……レイがいなくて、毎日寂しかったよ。レイが消えてから、何もかも色褪せてて……」

「……ごめんね、颯馬くん。でもわたしも、君に会いたくてたまらなかったよ」

 あはは、だからお互い様! と彼女が僕の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。彼女の指が、僕のブレザーを握って、少し震えている。僕は彼女を抱きしめて、呟いた。

「……レイ、ずっとそばにいてよ。もう離れないって、約束してくれ。レイのおかげで僕は……最近、学校でも家でも、いい感じなんだ。レイがいてくれたら、それどころじゃ、なくなるから……」

「……うん、颯馬くん。絶対に離れないよ。君と一緒に、ずっといる」

 そこまで言って吹き出すように彼女が笑う。僕も気恥ずかしくなって、思い切り笑った。
 僕たちは橋の上で抱き合って、空を一緒に見上げた。夜空の星の方を僕たちが見下ろしているみたいな、そんな不思議な気持ちになる。
 今ならなんでもできそうな気がした。

「いこう!」

「うん!」

 僕は彼女と手を繋いで、橋を渡った。彼女がいる世界が、どこまでも続いていく。

「……レイ、ありがとう。それと言うのを忘れていたかもなんだけど……」

「ん?」

「僕こそだよ。僕こそ、レイのことが誰よりも大好きなんだ。だから付き合ってください」

 彼女が頷く。僕たちはそのまま夜の街を歩いた。
 レイが僕の隣にいてくれる。それだけで、僕の世界は色づいて。

 交わらない世界が交わって、心が繋がって、恋が僕を変えてくれた。