「喜・怒・哀・楽・欲。……五大感情を差し上げた」
彼は遠くを見つめながら、飄々と言った。

   ***

セミなのか、何の虫なのか、わからないけれど鳴き声が聞こえている。
太陽の日差しはものすごく暑くて、黙っていてもしっとりと汗をかく教室の中。
汗なのか湿気なのかわからないような湿っぽい匂い。
水分補給が必要だからと言われ登校前に母親に飲まされたスポーツドリンクの味が口の中にまとわりついている。
チャイムと同時に入ってきた担任の先生は、来年で定年退職を迎えるらしい。今日は一人じゃなく誰かと一緒に入ってきた。
「転校生を紹介します」
かすれた声が耳に届く。
え?
え?
私は瞬きを繰り返した。目を見開いた。目をこすった。
夢でも見ているのかもしれない。
ありふれた行動だが、手の甲をつねってみる。普通に痛い。
転校してきたのは、大好きな俳優の小野寺拓斗だった。
彼は俳優の仕事ができなくなり、現在休業中だが、なぜ彼がここにいるのか。
体を休めるために人口の少ないこの学校に来たの?
私がいる高校にはクラスメイトが十人しかいない。全員が幼い頃から知っている幼馴染みたいなものだ。
そんな私たちの空間に宝石のように輝いていて、麗しい小野寺拓斗がやってきた。
しかし彼は人形のようだった。
もしかしたら、人形なのかもしれない。
「小野寺拓斗です。よろしくお願いします」
黒板の前で挨拶をすると、山本さんの隣に座ってくださいねと言われた彼がゆっくりと歩いて近づいてくる。そして私の隣の席に腰を下ろした。
「よろしく」
「よ、よろしくね」
ものすごくファンです。
そんな言葉を気軽に言っていいのだろうか。
体調を崩して休業しているということなので、あまり負担になることを言わない方がいい。
友達として接していこう。それがいい。
授業が始まる。
大嫌いな数学。
ただでさえ公式がわからないというのに、隣に小野寺くんが座っているなんて気が散る。
先生の声が遠くに聞こえ、しまいには口パクに見えてしまう。
こんなんじゃ私の心臓は持たないよ……。

昼休みになると、クラスの女子で集まって作戦会議をした。
「やばいよね」
「やばすぎる」
「どうしよう。やばい」
内容があまりにもなさすぎてやばい。
私たちは小野寺くんの登場にやばいとしか言えなくなっていた。
でもテレビで見ていた小野寺君とは様子が違う。
ずっと無表情なのだ。
「体調が悪いって言ってたけど……心の病気とかなのかな」
「芸能界の仕事をしてたら辛いこともいっぱいあるだろうね」
勝手な想像をして勝手な噂をする。
「事情があるかもしれないけど、クラスメイトとして仲良くしようね」
「それがいいと思う。そしてごく普通に」
普通にするというのはものすごく難しいことだけど、それで一致した。

小野寺くんはやっぱり人形だった。
肌が白くて髪の毛がちょっと金髪っぽくて、まつ毛が長くて綺麗な二重で。
見た目が人形だと言っているのではない。
見た目も人形に見えるけれど。
私たちが大爆笑していても笑わない。
授業で誰もが涙してしまう映像を見せられても泣かない。
もちろん怒らないし、欲しがらない。
登校し、授業を受けて、私たちとは必要最低限の会話をして帰っていく。
仲良くなろうとしても仲良くなれる気がしなかった。
そうするとクラスの男子たちが「あいつなんか変じゃない」「ちょっと気持ち悪いんだけど」と、陰口を叩くようになってしまった。
「やめなよ。色々あってきっとここにいるんだから。そういうこと言うのはやめなって」
私が注意すると教室の中が静まり返った。
話が聞こえていたはずなのに無表情で一緒に腰をかけた。全く表情を変えないのだ。少し心配になってくる。

もしかしたら人見知りなのかもしれない。
こんなに少ない人数なのだからどうせなら仲良くしたい。
しかも元々私は彼のファンだったし。
そんな気持ちで積極的に話しかけるようになった。でも仲良くなれないまま夏休みに突入してしまった。
勇気を出して私は小野寺くんの家まで遊びに行った。
大きな一軒家。そこには老夫婦が住んでいると聞いたことがあったが、老夫婦は小野寺くんの祖父母だったのだ。
チャイムを鳴らすと中から年齢を重ねた深みのある女性の声が聞こえた。
「小野寺くんの同級生の山本凛と申します」
玄関のドアがガラガラと開き、白いエプロンをして白髪が1つにまとめられた老婆が出てきた。私の姿を見ると顔をクシャッとして出迎えてくれる。
「わざわざ来てくれてありがとう。入って」
入れてもらうつもりなんてなかったのにせっかくだから入ることにした。玄関の段差を乗り越えて歩いていくと、古い家なので床がギシギシと音が鳴る。
俳優として活躍していたキラキラとしたイメージの小野寺くんがここに住んでいるなんて信じられない。リビングに倒されると部屋の中は物で溢れかえっていた。
「おじいちゃんがね、物を捨てられない人なのよ。暑いでしょう。麦茶でも飲む?」
「ありがとうございます」
どこに座ったらいいのかわからないのでとりあえず床に座らせてもらった。壁には小野寺くんが俳優だった時のポスターがたくさん貼られている。
じっと見つめていると足音が聞こえ、小野寺くんが入ってきた。
私はペコッと頭を下げる。
「お邪魔してます」
「……」
小野寺君は何も言わずに私の隣に座った。
「縁側に行きなさい。気持ちがいいから」
おばあちゃんはグラスに麦茶を二つ注いで置いてくれた。だから私たちは一緒にお茶を飲むことになった。
「ずっとファンだったの。だから初めて姿を見た時は夢かと思った。でも小野寺くんは人形みたい。表情も変わらないし……。俳優の仕事をしてたなんて信じられないよ」
「喜・怒・哀・楽・欲。……五大感情を差し上げた」
彼は遠くを見つめながら、飄々と言った。
「え?」
意味がわからないと思った。主語がない。
「誰に差し上げたの?」
「小野寺拓斗に」
「……?」
寂しそうな瞳を見ていると悲しくなってきた。
ゆっくりとこちらを向いた。小野寺君は無感情という顔のまま語りだした。
「仕事では感情を自由に操れたけど、プライベートではうまくいかなかった」
憧れの仕事をしていた人が目の前にいて、私は勝手にテンションが上がっていた。
しかし、私の心を軽くしてくれた彼は苦しみの中で演技をしていたのだ。
鼻の奥が痛くなってきた。
我慢できなくなってついには涙をポロリと流してしまった。
「山本さんはプライベートで泣けるんだね」
「小野寺君は……そんな、人生を送っちゃダメだよ」
会話が成立してない。
でも私は、小野寺君の演技に救われたのだ。
「両親が事故で亡くなってしまった時、私は生きる気力を失ったの。生きていて嬉しいことがあっても共有することができない。悲しいことがあっても慰めてくれる親がいない。切なくて苦しくて自分は何のために生きてるのかなって思った。そんな時にね、小野寺君が出演している映画を見たの。余命宣告された男の子が部活でサッカーを頑張ってて、インターハイを目指している話」
「あぁ……。あの撮影中はすごく暑かったよ」
「そんな裏話があったんだね。あの映画を見て、感情がすごく揺さぶられた。そして元気をもらって生きていこうと思えたんだよ」
「……」
「本当にどうもありがとう」
心を込めてお礼をするけれど彼の心には届いていないようだ。
「どうしたら小野寺君は……五大感情を取り戻せるの?」
「それがわかったら、苦労しないさ」
微かに笑った。
「笑顔、作ってくれた」
「これはファンサ」
「……」
「仕事モードに入れば、感情表現はできるよ。
でも普通の生活では怒ったり喜んだり楽しんだり楽しんだり、そんな気持ちは湧き上がらないんだ」
どちらかというと私は感情表現がオーバーなほうかもしれない。
どうすれば、感情を引き出すことができるのだろう。

小野寺くんと別れて家に戻りながら歩いていた私は、悶々と考え込んでいた。
彼に救われた私は彼を救いたい。
余計なお世話かもしれないけど……。
しかし、解決策なんか見つからない。
方法がわかっていれば、小野寺拓斗は休業することなんてなかったのだろうから。

ずっとずっと考えていた。
私の心を救ってくれた小野寺拓斗がまた輝けるためにはどうするべきなのか。
いつも歩いている道なのに気がつけばいつもと風景が違っていた。
そしてある一軒のお店の前に立ち止まる。
『どんなことでも、物でも、交換します』
引き寄せられるように私はその店の中に入った。がらんとして何もない。椅子とテーブルだけがある静かな空間だった。
「すみません」
声をかけるがその気配はない。ドアが開いてドキッとして振り返ると、そこには中年女性が立っている。
「いらっしゃいませ」
紫色のワンピースを着てマスクをしているからはっきりと顔はわからないが美人だというのは伝わってくる。
「どんなことでも交換できるんですか?」
「ええ」
「じゃあ……失ってしまった感情を取り戻すために何かをあげたらその感情を取り戻すことはできますか?」
考えすぎて私の思考はおかしくなってしまったのかもしれない。しかし彼女は笑うことなくしっかりと頷いた。
「できますよ」
「本当ですか? 喜・怒・哀・楽・欲。……五大感情をなくしてしまった人がいて」
「それは大変ですね。でも大丈夫ですよ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。あなたのそれらをくれたら、感情として与えますから」
不思議というか不気味というかわからなかったけど。
私の感覚を渡すことができれば、小野寺君は感情を復活させることができるということか?
「でもあまりにも不思議すぎて信じられないです」
「そうであれば、与えたい相手と一緒にここにいらっしゃい。百聞は一見にしかずですよ」

   *

「小野寺君……。私恩返しがしたいの」
夏休みが終わって私は放課後彼を呼び出した。
「……」
「私の感覚を一つあげるから、取り戻してみない?」
こんなこと真剣に言っているなんてすごくバカバカしい。でもあれから真剣に考えたのだ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。全てが人間にとって大切なことで、どれかを失ってしまうのは怖い。
それでも私は感情を彼に復活させたかった。
いいも悪いも言わず、小野寺君は一緒についてきてくれた。
『どんなことでも、物でも、交換します』
店の中に入ると女性は前と変わらずに「いらっしゃいませ」と挨拶をしてくれた。
椅子に私と小野寺君は並んで座る。
「二人は何かを交換したいのね」
「はい……嗅覚と、喜を……お願いします」
小野寺君は、相変わらず無反応だ。私がとんでもないことを言っているのに彼には感情の変化がないので何も思わないのだろう。
「了解。では最後に収穫の思い出を作ってらっしゃい」
「思い出ですか?」
「もうあなたは匂いが分からなくなってしまうの。鼻の香りとか食べ物の匂いとか、忘れたくないものをしっかりと嗅いでくること。これでいいと思った時にこの飴を舐めて。そうすれば交換が完了するから」
小さな箱を渡された。この中にその不思議な飴が入っているとのことだ。

私は小野寺君と土曜日に会う約束をして、匂いの記憶をいっぱい残しておきたいと思い一緒に出かけてもらうことにした。

土曜日になり、私は小野寺君を連れて、花がたくさん咲いている公園に行った。
甘い香りがする。
残暑がちょっと強くて暑い日だったから、隣を歩いている小野寺君の汗の匂いがする。
出店があってフランクフルトを焼いている。
肉の焼けた香ばしい香りがする。
花畑の中に入ると甘い香りだけじゃなく、草の青々とした匂いもする。
自分の大切な嗅覚を小野寺君にあげたいと思うのは、心から感謝していて、映像の中の世界だったけど彼のことが大好きだったから。
夕方になるまで私はたくさん匂いを嗅いだ。
この飴を舐めたら、もう匂いはしない。
でも綺麗な花を見て全く喜びもしない小野寺君の姿を見るほうが辛い。
「飴……舐めるね」
口の中に放り込むと体が一瞬ふわりと浮いたような気がした。しばらくして私は本当に匂いがしなくなってしまった。
「……すごく綺麗なところに連れてきてくれてありがとう」
小野寺君は、とても優しい顔をして笑ったのだ。
「嬉しいよ。嬉しくてたまらない」
私の手をぎゅっと握ってくれた。心臓がドキンと跳ねた。

あなたの他の感情も見てみたい。
怒・哀・楽・欲。
視覚、聴覚、触覚、味覚を、小野寺君と思い出を作りながら差し出してしまうかもしれない。

          完