わかっていたけど、金曜日って奴は必ず訪れる。

その週、楸都瑠と帰る事は一度もなかった。

代わりと言ってはなんだけれど、日毎に涼しく感じられる気候が増え、世界は、九月の終わりを告げていた。

悠太はそれに取り残されないように、袖を捲ったり、下ろしたり、調整を怠らなかった。

「あーあ」

やり場のない溜め息を吐いて、自室の天井を見上げた。少し遠く感じる天井には、自分の声が吸い込まれるだけだった。

今日は金曜日だから、DMをする日。

悠太はそれがわかっていたから、少しだけ早く帰り、夕飯を済ませ、自室にいるわけだけど。

楸都瑠とは、偶然顔を合わせたって気まずい距離感だというのに、デミとは笑顔で話せというのか?

デミがイコール楸都瑠ということを知らなければ、それは簡単だっただろう。

少しだけ冷たい夜風が、悠太の部屋のカーテンをふわりと揺らす。

悠太は自分からメッセージは送らず、デミから送られてくる小さな吹き出しを、ただ待つだけだった。

『uさん、こんばんは。
随分涼しくなってきましたが、今週はどんな一週間でしたか?

MVを依頼している楽曲ですが、ついに完成しました!明日、中島の方から連絡が行くと思います。とても素敵な曲になりましたので、ぜひ楽しみに待っていてください。』

人懐っこい文章が、ポコンと浮かぶ。

『デミさん、こんばんは。
今週は季節の移り変わりを感じたので、撮影が捗りました。デミさんはどんな一週間でしたか?

楽曲、とても楽しみです。気合いを入れてMVを作成しますね。』

返す文章が、先週より一層硬くなってしまったように思えた。嘘が重なって、どんどん自分らしさを失っている。

『僕は今週、色々な悩みで頭がパンクしそうになっちゃったんです。もしご迷惑じゃなければ、話を聞いてくださいませんか?』

『もちろん!僕でよければ。なんでも話してください』

悠太はその文章を送りながら、頭をガシガシと掻いた。文面の跳ねるような様子とは真逆で、表情は、どんよりと暗い。

『ありがとうございます。
実は今、付き合っている子がいるんです。
その子には、デミの活動について話していません。そもそもタイプが違うので、なんだか違和感もあって、他にもっと気になる人もいて。

別れようか、迷っていて。』

あー、最悪だ。
これはきっと、というか絶対、聞いちゃいけない話だ。

思わず指が止まる。

悠太の罪はどんどんと重くなり、頭も重くなる。
知らないフリを選んだ代償が、膨らんだ。

『そうなんですね。違和感っていうのは、例えばどういう時に感じるんですか?』

悠太は演じるしかなかった。
いったい、どこまで嘘を重ねたらいい?

『その子は少し、派手なんです。中身は大人しいけど、流行りの物が好きで、自分を着飾ることも好きで、キラキラしている。

僕はキラキラした物に興味がないし、その子も僕の好きな小説に興味がありません。

だからもっと、隣にいて違和感のない人と一緒にいたい。』

隣にいて違和感のない人。
楸都瑠は、誰を思い浮かべているのだろうか。

聞くべきか、そうでないか、迷いはしたけれど。
ズルい悠太は、自身の置かれている立場を利用せざるを得なかった。

『他に気になっている人は、趣味が似ているんですか?』

『実は、そういう訳じゃないんです。
でも、話していると自然でいられて、その人が起こす行動が、面白いって思うんです。

だけどその人とは友人だから、恋愛には発展しません。それに喧嘩をしてしまったばかりで、今週はあまり話せていなくて。』

もしかして、と悠太の中に一つ、小さな小さなロウソクの火が灯る。期待の火だ。

ちょうど、今日みたいな九月の夜風にかすかに揺れる、小さな灯火。

『デミさんも、喧嘩をするんですね』

『喧嘩というか……うーん、僕が悪いんですけどね。その人の友人に、酷いことを言っちゃって怒らせちゃって。けど僕は、羨ましくなったんです。二人がすごく仲が良いから、嫉妬しちゃって、言葉が強くなりました。後悔しています。』

その火は、大きく燃え上がって、周りのロウを溶かし続ける。

ああこれは、俺のことだ。

確信した瞬間。
これは、知ってはいけない気持ちなのだ、と。
同時に痛いほど理解してしまい、後悔の方が膨らむ。

膨らんで破裂したそれが、ロウソクの火を消し去ってしまった。

悠太は何かを見失った。

『それだけ気持ちが傾いているなら、今の恋人とはお別れした方がいいのではないでしょうか?』

そのせいだろうか。
これは"uさん"の言葉では無い。
まぎれもない悠太の言葉を、意志を持ってフリック入力していた。

どうしよう。どうしたらいい?

ダメだと思うのに、送信ボタンを押す指は止まらなかった。
こんな嘘で、こんな形で、こんな大切なことを探り続けていいのか?

悠太はスマホを机の上に放り投げた。乾いた音が、静かな部屋に響く。

一度、深く深く呼吸を繰り返してみた。少し冷静にならないと……そう思うのに、デミからの返信が気になって、またすぐに小さな板を手に取ってしまう。

『確証もない自分の気持ちを優先して、彼女を傷付けるのが嫌なんです。友人も、友人のままでしかいられないだろうから。

僕は今のままが一番、周りの期待に応えられるので。

顔も知らないuさんにしか言えないんです、こんな話。』

デミの痛々しい本音の後、続け様にメッセージが浮かぶ。

『ごめんなさい!愚痴を聞かせる形になってしまいました。uさんに対しては、息が楽に感じるんです。本当に。』

悠太の方は、息が詰まっていた。

デミは、楸都瑠は、もう少し素直であるべきだ。自分の気持ちを最優先にして、伸びやかに生きてほしい、と強く思う。

八尋に過剰に怒ったのは、きっとこのせいだ。
自身の不自由さが、自由である人間への苛立ちへと変わってしまうのだ。

周りの期待に応える。
生徒会長として、デミとして。
きっとそれは、悠太の想像の何倍も、苦しいのだろう。

悠太はデミの痛みを考えた後、ふっと熱い気持ちを思い出し、困惑する。

……いちるんは、俺を想っているのか。

それはただ嬉しくて、嬉しくて、やっぱり二人の間には、友情以上の何かがあったんだって。
その事実が、ただ嬉しくて。

でもじゃあ二人はこれからどうなるんだろって考えると、よくわからなかった。男同士で付き合う人がいることは知っている。ただその当事者になるなんて、思ってもみなかったから。

悠太は数分返信をしていなかった事を思い返し、急いで文章を打ち込む。

『いえ全然!もう少し自分に素直に、自分を優先してくださいね。日常生活でも、呼吸が楽になりますように、祈っています。』

『このDM、明日中島に見られるのが恥ずかしいので、悩みの部分だけ送信取り消しますね。ごめんなさい。』

そうして、送られてきたメッセージが音もなく消えていく。

悠太はそれに合わせて、自分のメッセージもいくつか削除した。彼の秘密を、守ってやらねばと思ったから。

それから、静かな自室の生温い空気の中、少なくなったやり取りを振り返る。

幻だったのだろうか。

いちるんが、俺のこと気になってるなんて。
消えてしまったメッセージを、脳内で何度も思い返し、悠太は溜め息をついた。

先のことなんてわからない。ただ今は、好きな人が自分を想っているという幸福を、ただ受け止めていたかった。


翌日、中島さんからメッセージが届いた。
完成した曲のデータが送られ、悠太はそれを聴き、驚く。

叶わない恋を歌った、失恋ソングが流れたからだ。デミの声は、力強いはずなのに消えてしまいそうで、美しかった。

悠太はその日から撮影を始めた。

なるべく知らない街に行き、夜の景色を撮った。
時々、学校もサボって朝焼けを撮りにも行った。

夜明けの藍色が似合う曲だったからだ。

楸都瑠とは、あの日以来、会話をしていない。
生徒会室に行くことも、向こうが演劇の見回りの際にこちらに声を掛けることもなかった。

文化祭を成功させたいと言っていた通り、楸都瑠は常に忙しそうに駆け回り、生徒会長の仕事を全うしていた。

二人の恋は、確かに産まれかけていたのに、愚かな嘘で、開花することは無かった。悲しい、蕾のままだ。

金曜日はもう一度巡った。
その日デミとは、他愛もない話をした。

そしてまた訪れた金曜日の放課後、問題が起きた。

八尋がクラスメイトを殴り、流血騒ぎになったのだ。
新島ちゃんをいじめていた男を、殴ったんだ。

悠太は教室の外から見ていたけれど、親友を止めることはしなかった。
そこまでの正義感を持ち合わせていなかったし、どこまでも素直な八尋がカッコイイと思ったからだ。友達のために人を殴れる八尋を、尊敬していた。

だけど、駆け付けた教師と共に頭を抱える楸都瑠の姿を見た時に、ああ……これはまた彼を怒らせてしまうなと思った。

文化祭がもう翌週に迫っていたこと。
八尋が殴った相手にも大きな問題があったこと。
それを一生懸命クラスメイトが証言したことで、八尋は厳重注意に留まり、演劇の役も降ろされることはなかった。

楸都瑠の横顔を盗み見ると、ただただ苦い顔だけが浮かんでいて。その日のDMは忙しいという理由で無くなった。

そして日は巡り、文化祭前日。
午後の授業はどのクラスも準備に当てられていた。

その中で悠太は、楸都瑠に会いに生徒会室の前に来ていた。

けれど、誰もいない。
クラスの準備をしているのだろうか。はたまた、ここ以外のどこかで仕事をしているのだろうか。

悠太は彼の連絡先も知らない。
待つべきか、探すべきか、迷っていると廊下の先からこちらへ向かう人影が見えた。

「アコチ!」

「あ、篠山……どしたの?」

アコチの顔にはいつもの笑顔が浮かんでいなかった。

「忙しい時にごめん。いちるんってどこいるか知ってる?」

尋ねると、アコチは目を逸らし、眉毛を下げた。

「……えっと」

こちらを見ないまま、小さく言う。
歯切れの悪い彼女に、悠太は直感的になにか悪いことが起きているのだと悟った。

「あれから、なんかあった?」

「ううん!大丈夫。あの、会長は……文化祭の準備で今、忙しいと思う」

「今じゃなくてもいいから、話しがしたくて」

「そっかぁ……話せたら、いいね」

どこか他人事のように言ってその場を立ち去ろうとするアコチを、悠太は「まって」と引き止める。

「俺が話したがってたって伝えてくれない?」

「ごめん!できない。今は会長のこと放って置いてあげて。お願い、今はいっぱいいっぱいだから」

アコチは縋るように言った。
楸都瑠を守るように、まるで悠太を近づかせないように。

「俺、そんな傷付けちゃったのかな」

「そうじゃなくて……多分、余裕がないだけだと思うから、」

「わかった。もしできたら、ごめんねって言っておいて」

悠太は顔を引き攣らせ、微笑むことしかできなかった。

アコチと手を振って別れ、悠太は学校の中でお気に入りスポットである、校舎の外階段、そこの踊り場に腰かけた。とても文化祭準備をする気になれなかったからだ。

楸都瑠の気持ちが、わからなかった。

悠太が八尋を庇うことが、そんなにも彼を傷付けたのだろうか。せっかく想ってくれていたのに、それすら捨て去るほどに?

デミと話がしたい。

喧嘩のことはどうなった?と聞いて、本心を知りたい。だけど明日の金曜日は文化祭当日だから、もしかしたら今週も無しで、と言われてしまうかもしれない。

そしたら、どうやって繋ぎ止めたら良いのだろう。

今年の後夜祭では、グラウンドで手持ち花火をやる事が決定していた。

いちるんと、やりたかったな。

『僕も花火は好きだよ。もし議案が通らなかったら、二人で花火しようか』

悠太はあの日の言葉を思い出して、やるせない想いで胸をいっぱいにした。


その後、携帯ゲームという現実逃避を選んだ悠太は校舎の外階段に隠れるように座っていた。

ふいに、コツコツと。
文化祭準備に勤しむ生徒の中で同じくサボる事を選んだ親友の足音が聞こえてくる。

「八尋、クラスの子達と仲良いのになんでここに来ちゃうわけ?」

「クラスにいたって仕事ねーもん」

八尋は何か悩みでもあるのか、曇った顔で言っていた。

「どうせサボるんなら、今日は帰るか」

「めずらし、おまえ家帰りたがんないのに」

「いや家は帰んないよ、ボーリングして帰ろうぜ」

「は?なんで急に」

そんなの八尋を元気付けるためだよ、とは口が裂けても言ってやるものか。

八尋は怪訝そうな顔をしていたが、悠太が歩き出すと大人しく斜め後ろを付いて歩いた。

校門の前で八尋を自転車の後ろに乗せる。他愛もない会話をしながら、いざ駅前のボーリング場へと、ペダルに足を掛けた時。

「二人乗りは違法だから、早く降りて」

透き通る、声がした。

振り返ると、左腕に生徒会の腕章を付けた楸都瑠が、八尋の肩に手を掛けていた。

「そうでなくても、君はその髪や先日の問題行動が目立っているんだから……何度注意しても黒染めしてこないし、どういうつもりなんだ」

続く声に、八尋は顔色を変えずに自転車を降りた。

悠太は無意識に怒りが沸く。

いつまで続けんの?これ。
俺のこと避けといて、また吹っ掛けてくんの?

いい加減にしてくれよ。

悠太は頭の中で叫んだ。

「八尋は悪くねーよ、自転車は俺のだし殴ったのも友達のため」

「理由があったら暴力が許されるとでも?それに、文化祭では地域の方も多く来るんだから誰が見ても誤解されないような行動を心掛けてくれ。何度も言わせるな」

楸都瑠は、悠太を見ることなく八尋を睨み続けた。

八尋に嫉妬しているのかなんだか知らないけれど、自分の都合を生徒会長の顔して押し付けるなんて。

子供っぽい楸都瑠に腹が立つ。

「もういい。いくぞ八尋」

悠太も自転車から降りると、その場で両手を離した。支えを失った自転車がその場に倒れ、タイヤがカラカラと回る。

そして悠太は八尋の手を引き、学校から飛び出した。

もう、付き合いきれない。

そう思ったのは、自分のことを少しも視界に入れようとしない楸都瑠が、嫌で嫌で仕方がなかったからだろう。

八尋に嫉妬してくれるのは少し嬉しい。けど、だったらちゃんと、俺のこと見てよ。

「え、チャリは?」

「真面目な会長さんがどうにかしてくれるだろ」

悠太は振り返らず、そのまま親友との放課後を過ごした。

もちろん、ボーリングは楽しかった。
だけどストライクを三回決めた時、自転車の行方が気になった。

電車通学の八尋と駅で別れてから、悠太は学校へと戻り、駐輪場へと足を運んだ。

辺りはすっかり暗くて、肌寒い。常夜灯の白い明かりだけが少し、チカチカ揺れていた。

自分の相棒である黒いボディの自転車を見つけた。随分と、奥の方に、丁寧に停められていた。それに乗って帰ろうとして、スタンドを蹴りつける。しかし鍵が掛かっていて動かなかった。

よくよく見ると、ベルのところに折り畳まれたメモが挟まれている。悠太は少しかじかむ指先で、それを開く。

『鍵は、二年四組の一番右下、使われていない下駄箱に入れてあります。怒らせるようなことをして、申し訳なかった。』

破ったノートの切れ端に、随分と綺麗な文字で書かれていた。

いちるんって、こんな、綺麗な文字を書くんだ。

悠太はゆっくりと、下駄箱へと向かう。
時刻は二十一時近くを指していた。


「篠山悠太」

昇降口の前で、声を掛けられた。

辺りは薄暗くて、夜風が吹き荒れて木々がザワザワと騒いでいる。今日はやっぱり、風が冷たい。

悠太は驚きで両目を見開いた。

「いちるん、こんな時間まで何してんの」

「待っていた。……君のことを」

いつまで待つつもりだったのだろうか。
今日、自転車を取りに来るかもわからないというのに。

「昇降口の鍵を閉められてしまって。ここで、君の鍵を持って待っていたんだ」

「……いちるん寒くない?平気?」

楸都瑠は、身体を丸め込むように両腕を組んでいた。

「……少し、寒い」

悠太は制服のシャツの上に羽織っていた紺色のパーカーを脱ぎ、楸都瑠へと投げた。

「それ着てさ、一緒に帰ろ」

悠太が言うと、楸都瑠は大人しく頷き、身体に合っていないぶかぶかのパーカーに身を包んだ。

自転車を押して、二人で歩く。
また隣を歩けることが、悠太は嬉しかった。

「あこちゃんから聞いた。避けていて、申し訳なかった」

「……俺こそ、悪いの八尋なのに。怒りすぎたよね」

素直に言えたのは、楸都瑠の綺麗な目が悠太を映していたからだ。

「ほんと、反抗的すぎるよ」

楸都瑠は困ったように、眉を下げたまま笑った。

「でも僕も、あまりに子供だった。君の友人にも不快な思いをさせて、すまなかった」

付け足されたその言葉に、悠太も微笑んだ。

「……いちるんは、八尋が嫌い?」

踏み込んで、聞いてみた。
楸都瑠の心の声を、きちんと聞きたかったから。

「……僕は、高校最後の文化祭を成功させたい」

悠太がカラカラと自転車を押す横で、楸都瑠は立ち止まった。

「それに、」と声がする。

悠太も足を止めた。
頼りない街頭の下で振り返り、自分のパーカーを着る見慣れない楸都瑠の姿を見つめ、言葉を待った。

「……君が、名前で呼ぶから」

楸都瑠は、小さな小さな声でそう言った。

夜の闇に、まるでDMの通知のようにポコンと浮かぶその言葉は、デミの流暢な言葉とは対照的に、消えてしまいそうなほど力のない言葉だった。

「彼のことを名前で呼ぶから」

楸都瑠が、もう一度言った。

「八尋のこと?」

「……そう、他の誰にもあまりにふざけたあだ名で呼んでいるのに。彼だけは違うから」

楸都瑠の本心を、やっとその口から聞けた気がして、悠太の鼓動はトクトクと速く跳ねた。

「八尋のこともあだ名で呼ぶよ、俺」

悠太は言った。笑い飛ばしたりせず言えたのは、デミの本心までもを知っていたからだろう。

「……でも、」

そう言う楸都瑠は、悠太の肘の辺り。
ワイシャツの端っこを摘んで、俯いた。

楸都瑠が触れた所に、全神経が集中していくようだった。

「……でも?」

「僕のことは名前で呼ばないだろ」

彼はその手を離さず、また小さく言う。

「呼んでほしいの?」

「どうだろう、そういうことでもないのかな。わからない」

「……わからない?」

そうだ、と言ってほしかった。

そう言ってくれれば、少し近付くだろう。

どうなるにしたって、悠太だって本心を言えるのに。
その手をこちらから掴んで、引いて歩いてあげられるのに。

「ねぇいちるん、緒川さんとは上手くいってるの?」

悠太が聞くと、楸都瑠は頷いた。

自分の心がすっと冷えていくのを感じる。

どこまでも、自分の気持ちに素直にならない目の前の男が嫌だった。好きなのに、嫌だった。

……好きだから、嫌だった。

「わかりたいんだったら、さっさと緒川さんと別れたら?」

黙ったままの楸都瑠の手を、悠太は優しく振り払う。

「ずるいよいちるん。覚悟もないくせに」

それだけ言うのが、今の悠太の精一杯。

それから二人は、何も言わずに家へと帰り着いた。
パーカーを貸したままにしてしまったことを、少し後悔しながら、悠太は次の日、制服のブレザーを羽織って登校した。


文化祭の一日目。
今日は一般公開はせず、生徒だけでお祭り気分を楽しむ日だった。

悠太はその日の朝、教室に用意された射的や輪投げ、ヨーヨー釣りのミニゲームの間であぐらをかいて座っていた。

クラスメイトが増えて廊下に溢れてきた頃、アコチに声をかけられた。
彼女は縁日に合わせ浴衣を身にまとっている。涼し気な水色に、金魚の柄。そのコントラストが明るい性格の彼女らしい。

腕に生徒会の腕章を着けた彼女から、紙袋を渡される。中には、綺麗に折り畳まれたパーカーが入っていた。

「洗濯してあるから安心してって言ってたよ」

着慣れぬパーカー姿の楸都瑠を思い出す。
たった一晩で洗濯して返してくれるなんて、彼はなんて律儀なんだろうか。

悠太はすぐにそのパーカーに袖を通した。知らない花の香りが身体を包み、慣れない感覚を覚える。

それから、十三時開演の舞台のため、台本へと視線を落とす。周りは縁日に浮かれて浴衣を着たり、顔にペイントを施したり、楽しそうである。

あーあ、いつになったら、いちるんと楽しく過ごせるんだろう。

知り合った頃は楽しかった。
こんなことなら、彼女がいることも、デミであることも、知りたくなかった。

それにもっと早く、自分の秘密を言えばよかったんだ。打ち明けるチャンスなんて山ほどあったのに。

『わかった。等価交換ってことで、君の秘密ひとつにつきひとつ、僕の秘密も打ち明けるよ』

自分があの動画を作っているんだ。って、糸電話越しにそう言っていたら。
そしたら、なんの嘘もなく二人は親しくなっていたかもしれない。

悠太は台本を眺めているのに、頭の中では別のことを考え続けていた。

「てかおまえ、今日元気なくね?」

その声に、現実に引き戻される。
自分が言われているのかと思ったが、話しているのは近くに居たクラスメイト達だった。

「アンちゃんの、結構ショックでやる気出ない」

「わかる、俺もけっこうファンだった」

「良い曲ばっかりだよね、」

"鯨前線"と、彼らは続けた。

「え、アンちゃんってデミとアンの話?」

思いもよらぬ話題に耳を疑った悠太は、台本から視線を上げて彼らに尋ねた。

「そうそう、SNS見てない?アンちゃんの過去のいじめが暴露されてすっげー炎上してんの、鯨前線」

アンとは、楸都瑠のいとこの姉にあたる人だ。
冷たい汗が背中を伝う。

「なんで?」

「なんでって……なんか、昔の同級生が告発?したんだって、朝からそればっかよ」

SNSを開いた瞬間、頭が冷えるような感覚が走った。
鯨前線、アンちゃん、いじめ、主犯格……。
トレンド欄に並ぶ文字列が、悠太の顔に突き刺さっていくようだった。

『前から思ってたけど、鯨前線のアンの声っていじめ主犯格の声だよねw』

『素性を明かさなかったのっていじめまくってたからか、納得』

『いじめられて不登校になった経験あるから笑えない、胸糞悪い』

『血繋がってるデミも性格悪いんだろうな』

『デミのいじめ告発も誰かしろw』

匿名性の暴力が、デミにまで降りかかっていた。

悠太にアンの事実はわからない。だけど、楸都瑠の顔が思い浮かんだ。彼は心が綺麗で、美しい。いじめなんて、無縁だ。

それなのに……きっと彼の濁りのない瞳にも、この心無い文字が飛び込んできているはずだ。

大丈夫、だろうか。

悠太は何かせずにはいられず、"uさん"のアカウントでDMを開いた。

『大丈夫ですか?あまり真に受けないでくださいね。僕は味方です。』

打ち込む指が、少しだけ震えた。

『あなたたちの音楽が、とても好きです。』

送信ボタンを押す直前、その言葉を付け足した。
どうか今すぐにでも届いてくれと祈りながら。

たった一言を送ることに、すごく疲れていた。
悠太は静かに膝を抱え俯く。


ホームルームが終わると、開会式のために体育館へと移動する。

全校生徒がぎゅうぎゅうと集まっているせいか、十月にしては蒸し暑い。

文化祭実行委員長である緒川さんは、これまでのすべてをぶつけるように、眩しいほどの笑顔で壇上に立っていた。
情熱的な挨拶が体育館中に響き、笑い声や拍手があふれ出す。それはまるで、文化祭という舞台が、彼女のためにあるようだった。

「かわいい〜!」

「こっち見て〜!」

拍手と黄色い歓声が交じるなか、悠太はそっと手を止めた。
視線はずっと、舞台袖。もうひとりの壇上に立つ人物を捉えていた。

まぶしい光のすぐ隣に、陰があった。
そこに、楸都瑠が佇んでいたんだ。

どんな表情をしているかなんて見えないけれど、確かにわかるのは、笑っていないこと。

彼女が捌けると、今度は生徒会長である楸都瑠が壇上へと上がった。

「……全校生徒の皆さん、おはようございます」

小さな咳払いの後、そう言った。

いつもより声が小さくて、力がない。マイクを通しているからかノイズ混じりで、風で擦れたみたいな、変な声だった。

その声を聞いた瞬間に、確信する。
酷い言葉の数々を、彼は目にしてしまったんだ。

傷付いた姿が痛々しい。
悠太だけが、彼が隠す苦しみをわかってあげられるのに。

それなのに悠太は、体育館のパイプ椅子に腰掛けながら、ただ楸都瑠の小さな姿を眺めることしかできなかった。無力感に苛まれ、握りしめた掌が汗で濡れる感覚を覚えていた。

「以上をもちまして、第37回文化祭の開会式を終了いたします」

司会進行役がそう告げると、生徒達は素早く立ち上がり、目的の地へと駆け出す。

「よっしゃ!始まった〜!」

悠太も周囲に習い、過剰なまでに文化祭を楽しむことにした。気を病んでいたら、吐いた嘘との辻褄が合わない気がしたからだ。

縁日、たこ焼き、ワークショップ、お化け屋敷。
午前中は学校中の友人達に会いに行き、その催しを楽しみ写真を撮った。

そして午後、ついに学園演劇の本番が始まる。

手芸部が作ってくれた重たい衣装に身を包まれた後、女友達にメイクをしてもらい、舞台に上がる顔ができあがった。

舞台袖で、八尋と共に自分の出番を待つ。
ロミオとジュリエットが恋に落ちていく姿をぼんやりと眺める。練習で何度も見た、そのやり取りを。

その時だった。

「おい、まじかやべーよ」

舞台袖の一角がざわめき、悠太も、隣にいた八尋もそちらを振り返った。
出番を控えていた三年の先輩たちが取り乱し、スマホの画面を凝視していた。

……また炎上の話か?
悠太はなんでもない振りをして「どうしたんですか」と尋ねる。

スマホの画面がこちらに向けられた。
そこには、轟々と燃え上がる炎が映し出されていた。

炎上というか、まじの火災じゃん。

一瞬、なぜこの動画で慌てているのかわからなかったが、すぐに見慣れた中庭が映っていることに気が付く。

「え、これってうちの文化祭すか?」

「そう……これ、俺たちのクラスの」

「まあでも、校内放送も流れてこないし、別に平気ってことだよな……?」

カメラが少し引き、全体が映し出された。
中庭に並ぶ一つの屋台から炎が上がり、慌てる生徒達の光景が流れている。

その中に、楸都瑠の姿が映った。
そしてその屋台はよく見れば……焼き鳥の屋台だった。

『僕らのクラスは焼き鳥屋台をします。』

デミから送られてきたメッセージを思い出した。

悠太の手はひんやりと冷えていく。
楸都瑠のこれまでの努力ごと、全て燃えていくように感じた。

どこまで彼に不運が襲うのだろう、と。神様がいるのならば恨んでやりたいと思った。

だって、高校最後の文化祭を成功させたいって、あんなに頑張っていたのに。

悠太が呆然と立ち尽くす横で、親友の八尋が、先輩の手からスマホを奪い取り画面を凝視し、顔を真っ青にして呟いた。

「……ちとせが当番の時間だ」

スマホが手から滑り落ち、ガタンと大袈裟な音がする。

本番中だが、観客に聞こえていないだろうか。
悠太がそんなことを心配している間に、八尋はティボルトの派手な衣装のまま、どこかへ走り出した。

「……は?」

ちとせとは、新島ちゃんのことだが……。

落ちたスマホを拾い上げる上級生は、困惑した様子でキョロキョロと周りを見渡した。
悠太も意味がわからず、ただ八尋の背中を見つめる。

「……新島くん、火事にトラウマがあるらしくて」

八尋と同じクラスの女子が、恐る恐るという表情で口を開き、こちらを見た。

え、だから?

「いやいやいや、ありえないんだけど、これから俺らの出番じゃん」

「どうしよう、とりあえずみんなに伝えてくる」

女子生徒は走り出し、舞台袖へと戻る主役達に事情を説明していた。

結果として、ジュリエット役の一年生が機転を利かし台本にない台詞で時間を稼ぐことになった。

何分くらいだろうか。小柄な女子生徒がジュリエットのワンピースに身を包んだまま、一生懸命その場を繋いでいる間に八尋は戻ってきて、無事に公演は終了した。

「あー、よかった」

問題なく二人は役を演じ切り、安堵の溜め息を吐いた。

悠太は八尋になにか言ってやろうかと思ったけれど、辞めた。
新島ちゃんのために全てを投げ出す八尋が、やっぱりカッコイイと思ったから。

悠太もできることなら、駆け付けたかった。
楸都瑠の元へ。
だってきっと、炎上のことも、火事のことも、彼にとってはあまりに深い傷だろうから。

「悠太〜暇なら一緒に回らん?」

「やー、疲れたからちょっと昼寝してくる!」

友人の誘いを交わし、どこか一人になれる場所に向かいたいと思った。しかしその足は、無意識に中庭へと向かう。

周囲の生徒は火災があった事を知らないのかと疑うほど、楽しげに校内を歩いている。
そもそも、文化祭が中止せず進行しているという事は、そこまで大きな火災にはならずに済んだのだろう。

北校舎と南校舎の間。喪失の匂いが立ち込める美しい庭からは、屋台が撤去されていた。煙は残っていない。もう、どこかへ消え去り、ただそこには、無が広がっている。

悠太は足元に広がる小さな灰を、その黒を、眺めていた。

ふと、中庭の向こう側、ガラス張りの廊下の隅に目が行く。楸都瑠がひとり、壊れたように片付けを続けていたのだ。遠くてよく見えないけれど、彼の横顔には、色がなかった。

悠太は中庭を挟んだその場所から一歩も動くことが出来ない。八尋のように、走っていくことができなかった。

傍に行って何を言えばいいのか、わからなかったからだ。

そうして、文化祭一日目は終わる。

誰もいなくなった教室。
なんとなく帰る気になれず、悠太はひとりで、クラスメイトが作った輪投げのミニゲームに向き合っていた。

三回投げて、三回とも命中。

ぱたん、と落ちる輪の音が、空っぽの教室に吸い込まれていく。
でも、胸の内側は、少しも満たされなかった。

ぼーっとその場に立ち尽くしていると、背後から、足音が聞こえた。それは、あまりにゆっくりとしたリズムで、近づいてくる。

振り返れば、俯いたアコチが、教室の入り口に立っていた。

「……アコチ、どした」

彼女は身に纏う浴衣の、弾けるような明るさとは対照的に、顔を曇らせて、ぽつりと呟く。

「……後夜祭の花火、中止になっちゃった」

静けさだけが広がる教室で、アコチの震えた声が響く。

悠太は、何も言えない。

「会長も、みんなも、あんなに頑張ったのに」

それだけ言って、彼女は静かに泣いた。
悠太はそっと、彼女の細い肩に手を添える。

その後、何を話したのかはあまり覚えていない。慰める言葉をあまり知らなかったし、アコチも上の空だったから。

その日は金曜日だったけれど、悠太のDMのランプは灯らなかった。


悠太は深夜二時まで、眠らなかった。
正しくは、眠れなくて。

なにかせずには居られずに、姉のパソコンを借りて花火中止に抗議する書面を作成した。

ただただ納得できなかった。当然、頭ではわかっている。花火を中止する教師達の判断は正しいと。それでも、納得できなかった。

大きく設けた署名欄。そこに全校生徒の名前を集めてやる。

悠太は、そんなに熱い人間ではない。
だからこれが、自分の行いらしくないことは、重々自覚していた。

それでも何かしたいと思うのは、楸都瑠の役に立ちたいからだ。

彼が文化祭を成功させたいと言うならば、それを手伝いたい。そして一緒に花火がしたい。それが理由でこんなことをするのは、なんだか笑える。

恋は人を狂わせる、とはよく言ったものだ。


文化祭二日目。ホームルームで花火中止が告げられたあとすぐに、悠太は一年から三年までの全てのクラスを周り、夜中に仕上げたプリントを配った。

手芸部で服を展示している友達にも、園芸部で花を売っている知人にも、化学部で手作りキャンドルのワークショップをしている奴にも、バスケ部も、サッカー部も、ダンス部にも。知り合いみんなに頭を下げてお願いした。

「えー、篠山、そんな花火やりたいの?」

「悠太ってそんな文化祭に燃えてたっけ?」

「篠山が頑張ってんの、珍しいね」

全員が不思議そうな顔をしていたけれど、そんな事どうだっていい。

「じゃ、お願いね!」

それから悠太は、友人達の屋台で、焼きそばや手作りマフィン、綿あめや唐揚げを買った。配られた引き換えチケットをほとんど使い切り、両手にビニール袋を下げ、生徒会室へと向かう。

その小さな部屋の扉には、『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙がされていた。

悠太は躊躇いがちに、ノックの後にガラガラと扉を開ける。

「……おー、篠山か」

生徒会室には、副会長のテツくんと、演劇の脚本を担当した青木くんがいた。

なんか、どんよりしてるな。

普段、カーテンが全開になっている生徒会室は眩しいほどに明るいけれど、今日は少し曇っているからか、いつもより暗い。

「いちるん、見てない?」

二人はどこかの屋台で買ったであろうたこ焼きを前に、なにか、雑談をしていたらしく、口をモゴモゴと動かしながらこちらを見ていた。

「……会長はさっき見回りの当番が終わって、今休んでると思うぞ」

「どこで?生徒会室には来てない?」

そう聞くと、二人は顔を見合せて黙り込んだ。

彼らのすぐ後ろの棚に手持ち花火の袋が置かれていて、それがなんだか悲しくて、悠太は奥歯を噛み締めていた。

「……生徒会室に来ないってことは、一人になりたいんだと思う」

青木くんがポツリと言う。

「昨日は、みんなで何か話したの?」

「何かって?」

「慰めた?いちるんのこと」

二人は首を横に振る。

「会長は、人前で弱音を吐く人じゃない」

テツくんはそう言うけど。
悠太は思った、それは違うって。それじゃダメだって。

「俺が吐かせる」

二人はたこ焼きを食べる手を止めて、また顔を見合わせる。それからテツくんが立ち上がって、大きな身体を揺らしてこちらに向かってきた。

「……会長には、そういう人が必要なんだろうね」

そう言ったテツくんに押されて、悠太は廊下に出る。

「第二音楽室にいるよ」

廊下の奥を指さしたテツくんは、その手で悠太の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

今、いちるんのこと、頼まれたような気がした。

言葉はなくても、そう感じた。

「ありがとテツくん!それと青木くんも!今日も演劇がんばるね!」

悠太は生徒会室の中の青木くんにも手を振る。
その時、曇り空から少し陽が射して、生徒会室がほんのりと明るく照らされた。

ああ、いつもの生徒会室だ。

安心した悠太は廊下を駆け出す。


「……いちるん、入るよー」

第二音楽室の前。コンコンと扉を叩き、悠太は扉を開けた。

カーテンが閉められたその教室は、生徒会室よりも薄暗い。その中で、楸都瑠ひとりだけが、だだっ広い部屋の奥の椅子で、スマホの画面を眺めていた。

その横顔は、電子の光で青白く照らされていて、寂しそう。

「……篠山悠太。どう、したんだ」

楸都瑠は、気まずそうに視線を泳がせながら言った。

なんて言えばいいか、やっぱりわからない。
励ましの言葉なんて、悠太は知らない。

それでも、力になりたい。

「署名集めてきたから、安心して」

「……署名?」

「花火中止に抗議する署名だよ」

そう言いながら、悠太は買い込んだ食べ物たちを机の上に広げる。

「いちるん、どうせ何にも食べてないんだろうから、まずは一緒に美味しいもの食べよ」

「……気持ちは嬉しいけど、遠慮するよ」

「だめ、俺がそうしたいの」

「今は、一人でいたい」

そう言った楸都瑠を無視して、机を挟んだ向かい側に椅子を寄せて座る。それから割り箸を割って、彼に差し出した。

少しもブレない悠太の気迫に負けたのか、楸都瑠は躊躇いがちに箸を受け取って、また口を開いた。

「……花火のことも、仕方がないんだ。何を言ったって無駄だよ。僕たちのクラスがあのボヤ騒ぎを起こしてしまったから」

「でも、高校最後の文化祭、ずっと頑張ってたじゃん!成功させたいって言ってただろ!失敗で終わらせていいの?」

悠太は自分の分の箸を手に取り、唐揚げを頬張った。朝、寝坊をして何も食べていなかったから腹が減っていたのだ。

「……良いわけないよ。でも、もう無理なんだ」

「とりあえず、いちるんも唐揚げか焼きそば食べなよ。美味しいよ。俺ひとりじゃ食べきれないし」

悠太はそう言って、楸都瑠の目の前に焼きそばをスライドさせる。彼は輪ゴムで閉じられたパックをチラリと見たが、手は付けずに箸を置いた。

「……いちるん、ほら、なんか食べないと!元気でないよ」

どれだけ言っても、やっぱり何も口にしない。
静かで美しくて、陶器の置き物みたいな彼は、細い腕で眼鏡のフレームを触って、俯く。

「これ、みんなから回収したプリント」

悠太は数枚の紙を机の上に置いた。

「だから後は、俺といちるんが一緒に先生に抗議すれば完璧だよね」

悠太は自分の作戦が上手くいっていたことが嬉しくて、楸都瑠の力になれることが嬉しくて、笑顔でそう告げたのだが。

楸都瑠は、曇った顔のまま何も言ってくれない。

その時、沈黙を裂くように、教室のスピーカーから小さな電子音が鳴った。

『生徒会主催の学園演劇が、まもなく体育館にて始まります。観覧をご希望の方は、お早めにお越しください』

そのアナウンスに、楸都瑠はハッと顔を上げた。制服姿のままの悠太に思うところがあるのか、小さく口を開いて、何も言わず閉じる。

「これも、ちゃんと見てよ!みんな、こんなにいっぱい名前書いてくれたよ!」

ぱらりぱらりと紙を捲って見せると、楸都瑠は俯いたまま視線だけこちらに向ける。名前の羅列に眉を寄せた後、また視線を逸らす。

「……多分ね、俺が頼んでも無理なんだよ。授業も行事もサボってばっかの問題児だもん」

ピリついた教師にとって、火に油を注ぐ存在であることは自覚していた。

「だから、生徒会長である楸都瑠が行くしかないんだ」

「……こんな時だけ、名前を呼ぶのか」

君はずるいね、と楸都瑠は、曖昧に笑った。

「昨日、出来ることはやったんだ。それでも叶わなかったし、これは至らなかった僕の責任だ。もう無理だよ」

「でも、」

「でも、じゃない。そろそろ行かないと、本番が始まる時間だろ」

楸都瑠は、手元のスマホの時間を見て言った。

「いちるんが先生に提出する所見てからじゃないと、俺は行かないよ」

「……頼むから、優しくしないでくれ」

ピシャリと遮断するような口振りだった。
そしてすぐに、楸都瑠はその教室を去ろうと歩きだした。悠太はそれを追いかけて、細い肩を掴む。

「優しくしたいわけじゃない、俺はいちるんと花火がしたいだけだよ」

そう語りかける時、悠太はなるべく微笑んで、なんでもない風に言ってみせた。安心させたくて。まるで、取り乱す子供を宥めるように。

「……僕だって、君と花火がしたかった!」

だけど、楸都瑠は声を荒らげてそう言って、悠太の手を振り払おうと身をひるがえした。
その時、窮屈に並んだ椅子に足が絡まり、細く頼りない彼は目の前でバランスを崩し、しゃがみこむ。呼吸は浅く、乱れていた。

「いちるん、落ちついて」

悠太も屈みこみ、楸都瑠の両肩を支える。

彼は、俯いたまま。
小さく震える両方の手が、悠太の胸元に迫る。
それから、その細くて白い指で、悠太のパーカーが掴まれた。首元の布が引っ張られて、少し苦しい。

けれど、肩で呼吸を繰り返す目の前の男の方が、よっぽど苦しそうで。
悠太は眉をひそめ、楸都瑠の顔を覗き込む。

「……助けて」

「助けるよ。俺、ここに居るよ」

肩に伸ばした腕を下ろして、背中を撫でてみる。それでも呼吸は、荒いまま。

「いつも、息が、苦しいんだ」

「……溺れてるみたいに?」

「いや、違う。いっそ海の中だったら楽だったのに」

楸都瑠は、何かを必死に吐き出すように、はーはーと呼吸を繰り返して、言葉も一生懸命に、強く強く吐き出していた。

「例えるならクローバーに埋もれてるみたいなんだ。息ができないわけじゃない。深く吸ったらクローバーが口いっぱいに入ってくるから、口を小さく開けて、浅い呼吸を繰り返している」

その言葉に、妙に納得する。
確かに、その薄い唇の隙間から、ハラハラと零れ出る緑色のクローバーが見えた気がした。

それ程までに、彼は何かを欲張って、得ようとして、それが上手くいかなくて、嫌になっているんだって、思った。

悠太の方は、いつだって、本気じゃないから。
だから傷付くことは少ない。

けれど、目の前で震えるこの人は。
きっときっと、いつも一生懸命に上を目指すから、苦しくなってしまうのだろう。

崩れそうな姿を前に、こんなことを思うのは失礼なのかもしれないけれど。

それってすごく、幸せだなって思った。

「いちるん、四つ葉のクローバーの花言葉知ってる?」

楸都瑠は、弱々しく首を横に振った。

「幸福、だよ」

そう告げる悠太の声が震える。
この言葉が、どう伝わってしまうのか、わからなかったからだ。

それから、沈黙が溢れた。

今まで少しも気にならなかった教室の時計の音が、ちく、たくって聞こえてくる。そして、多分だけど、もう本番が始まる時間だろうなって感覚的に思った。

「……口いっぱいの幸せなんて、素敵じゃんか」

悠太は、自分が何を言いたいのかわからなかった。それでも、伝えたかった。苦しいと感じるのは、外側からの痛みじゃなくて、楸都瑠の内側にある、幻のせいなんだって。

「そういう話じゃ、ない……」

「そういう話にしちゃおうよ。例え話なんて事実じゃない。そんないっぱいのクローバー、俺には見えてないもん」

悠太は言う。

「大丈夫」

強く言う。これは、魔法の言葉だ。
どんな時だって、自分を信じる他に前を向く方法なんてないんだから。

「ほら、いますぐ深呼吸して」

悠太は楸都瑠を抱きしめた。
彼は、悠太の胸の中で、大きく息を繰り返していた。


どのくらい、そうしていたのだろう。

遠くから、文化祭を楽しむ人々の喧騒が聞こえてくる。

胸の中で楸都瑠はごそごそと動き、眼鏡が音を立てる。
涙を、拭っているらしい。

「……生徒会長として、こんなこともできないなんて」

「いいんだよ、生徒会長なんてただの肩書きだろ」

「僕にとっては大切な肩書きだ」

楸都瑠は涙と共に、溢れ出る言葉を……駄々を捏ねる子供のような口振りで悠太にぶつけた。

「でもさあ、いちるんは、法律で禁止されてなかったら自転車の後ろに乗っただろ」

そう言うと、楸都瑠はまた黙り込む。

「いちるんはきっとそういう人だって、俺は知ってるよ」

悠太は、楸都瑠の、無邪気で子供っぽくて、どこか悪戯な姿を思い出していた。

例えば、紙コップ二つで電話をした時も。小さな白い翼で、夕焼けを切った時も。
いつだって、笑う姿が、声が、特別だった。

ふいに、楸都瑠が顔を上げる。
眼鏡を外し、左手で目の周りをゴシゴシと拭いながら、悠太を真っ直ぐに見ている。

「でも、僕はいつも良い子だって言われてきたのに」

「良い子が褒め言葉だなんて、誰が言ったの」

こんな時に考えるべき事ではないけれど、眼鏡を外した顔が可愛いと思った。目尻の辺りの下まつ毛が長くて。彼の綺麗な印象が、愛嬌のある印象へと変わる。

楸都瑠は、悠太に反論する言葉を探しているのか、ただそのまま、口を噤んでこちらを見ていた。

「都合の良い子になるなよ」

「でも、それじゃあ嫌われてしまう」

楸都瑠は言った。

「嫌われたらどうなるの?」

「好きでいてほしいんだ」

「好かれてどうしたいの?」

質問を繰り返すと、彼は押し黙る。

気が付けば、彼の呼吸は少し落ち着いていた。
悠太に想いをぶつけたことで、クローバーは少し消えたのだろうか。

「ねえ聞いて、都瑠は、都瑠でいいんだよ」

「……君は、ずるい」

「ずるくていいの!たまにはやりたいようにやってみよ?今、辛いんでしょ?苦しいんでしょ?」

楸都瑠は、深く頷いた。

「これ以上、今より最低な気分になんかなれないから、大丈夫。俺を信じて」

震える指先を、強く掴む。あまりに冷たいその温度を、どうか、悠太自身の熱で暖めてあげられますように。

そう願い、祈ることしかできない。

どれだけ伝えても、与えても、受け取る方が拒んでは、為す術はないと、わかっていたから。

……それから、開演時間から十分ほど過ぎた頃、楸都瑠は眼鏡をかけ直して、やっと立ち上がった。

「僕ひとりで、必ず話をしてくるから。約束するから。君は舞台に上がってくれ」

言葉が、美しい声が、普段の楸都瑠に戻っていた。

「……約束?」

「うん、誓うから。間に合わなくなる前に、早く学園演劇、成功させてくれ。これ以上、僕のせいで文化祭をめちゃくちゃにしたくないんだ」

楸都瑠の目には、仄かな光が宿っていて、悠太は心の底から、安心して、頷いた。


その日の一回目の公演は、問題なく終わった。

もちろん、遅れて舞台袖に着いた時にはロミオ役の翔パイセンに怖い顔で叱られたけど、自分の出演時間に間に合ったからか、昨日の八尋の逃亡劇よりも罪は軽かった。

観客席から、保護者だの他校の生徒だの、一般参加のお客さん達が捌けていく。

悠太は急いで楸都瑠の元へと向かおうと思った。

けれど、彼の居場所がわからない。
連絡先を知らないのはあまりに不便だ。しらみ潰しに探していくしかないのだろうか。

悠太が舞台袖から立ち去ろうとすると、背後から「あの、」と小さな声で呼び止められた。

「篠山くん、会長から連絡があったよ……」

振り返ると、小柄で猫背な青木くんが、オドオドした様子で悠太を見上げていた。

「いちるん、なんだって?」

「花火の交渉が……」

青木くんがそう言いかけて、言葉を止めた。
なんで勿体ぶるんだ?と思ったけれど。青木くんの目線の先は悠太ではなくその後ろにあった。

「交渉、上手くいったよ」

声の方へと振り返ると、楸都瑠が立っていた。

「え、いちるん!ほんとに!?」

「うん。君の署名活動をきっかけに、他の生徒も教師を説得してくれていたらしい」

満面の笑みで微笑む彼の姿を見て、悠太は安堵の溜め息を吐いた。

「今から花火の準備で忙しくなるんだ。君の学園演劇、一度も見られそうにない。申し訳ない」

「そんなのいーよ、練習もリハも沢山見てたじゃん」

「まぁ、うん。……それでも、見たかったな」

楸都瑠は残念そうに言った。
月並な言葉を借りるとすれば、その気持ちだけで嬉しかった。

「篠山悠太」

楸都瑠は改まって悠太の名前を呼んだ。

「話したいことがあるから、後夜祭で、一緒に花火をしてくれないか?」

「え!もちろん!いちるんと線香花火バトルしたい!」

「バトル?風情がないなぁ」

楸都瑠はまた笑った。目尻を下げて、眉毛も下げて、とても穏やかに。息を吸って吐いて、笑っている。

ああ、ほんとよかった。

同級生の泣き顔を見て胸があんなに痛くなったのも、笑顔でこんなに安心するのも、これが初めてだったから。


二回目の公演も、悠太は精一杯ロミオの親友役を演じた。

両親も姉も見に来てくれて、久々に中学の頃の友達にも会えた。

昨日から楸都瑠のことが気がかりで心の底から文化祭を楽しめていなかったから、その反動だろうか。花火問題が解決した今こそ、悠太は心からの笑顔を浮かべることができた。


楽しい時間は過ぎ、文化祭は終わりの時間を迎えた。
閉会式ではクラスの出し物や写真コンテストの結果発表があり、どよめきと歓声が体育館に響く。

誰も昨日のボヤ騒ぎの事なんて口にしていない。笑顔ばかりが溢れていた。

ねぇいちるん、文化祭は成功したって言えるよね。

「これにて、第37回文化祭を終了いたします。後夜祭に参加する生徒は、引き続き体育館での発表をご覧頂くか、グラウンドにて花火へご参加ください。以上」

閉会のアナウンスと同時に体育館に音楽が鳴り響き、毎年恒例のオープニングダンスが始まった。生徒達は最前列へと足を早め、持っていたタオルをブンブンと降ってライブを楽しんでいる。

悠太は軽音部の演奏だけは見ていく約束をしていた。
にぎやかな照明の中で、友人たちが汗を光らせながら演奏する姿を、少し遠くから眺める。ステージが盛り上がるたび、悠太の心も熱くなった。けれど、次第にその熱は別の物へと移り変っていく。

いちるんの話したいことってなんだろう。
演奏を聞き終える頃、胸の中はフワフワと緊張で浮かんでいた。

そろそろ行かないと。

体育館の喧騒を背に、ゆっくりとグラウンドへ向かう。

後ろめたいことをするわけでもないのに、どうしてだろう。足音を立てないように、慎重に歩みを進めていた。


「すまない、花火が足りなくて。取りに行かないといけないんだ」

グラウンドは少し立地が高くなっている。
石でできた階段を登ったところ、つまりグラウンドの入口で、楸都瑠を始め、生徒会のメンバーが立っていた。

その手には、もう少なくなってしまった花火の束。そして、足元にはいくつかのバケツが積み重なっていた。

「いいですよ会長!私達がやるから、篠山と花火しに行ってください!」

アコチに続き、横にいたテツくんも頷いた。

「いや、でも……てつじくんもあこちゃんも、さっきから動き回ってばかりだし、疲れてるだろう」

楸都瑠は申し訳なさそうな顔で二人の顔を見た後に、悠太の方を見た。

「じゃあ、一緒に取りいこうよ。その後花火しよ」

悠太がニコニコと微笑むと、楸都瑠はパァっと明るい笑顔を浮かべ、「それじゃあ行ってくる」と生徒会役員に告げて早々と歩きだす。

この人、頼られるの、好きなんだろうな。

仕事を買ってでるタイプの楸都瑠と、できれば何もしたくない悠太。こんなに違うのに、特別な夜に隣を歩いているなんて、不思議だ。

「思ったよりも花火の参加者が多いんだ。君のアイディアは大成功だよ」

「まだ後夜祭始まったばっかだけど、足りるん?」

「多めに買っておいたから大丈夫だと思う。余れば自治体に寄付すればいいだろうって話していたんだけど、使い切ってしまいそうだ」

「そっかぁ、生徒会ってほんと色々考えてやってんだね」

悠太は感心して、隣を歩く楸都瑠を見た。
楽しそうに話している割には、どこか強ばった表情をしている。

いちるんも、なんか緊張してるじゃん。


「……あのさぁ、話ってなに?」

靴を脱いで、一階の連絡通路から校内へと足を踏み入れた時、悠太は思い切って聞いた。

楸都瑠はわざわざ脱いだ靴を丁寧に揃えてから、校舎へと歩き出す。悠太は、少し先で立ち止まり、その姿を見守っていた。

「緒川と、別れたよ」

そう言ったのは、二人がまた横並びになって歩き始めた時。

悠太は驚きのあまり声も出なければ、横を見ることもできなかった。そのせいで、真っ暗な廊下には、重たい沈黙が続く。

『わかりたいんだったら、さっさと緒川さんと別れたら?』

そう言ったのは、他でもない自分だ。

その責任の重さが、校舎中に蔓延しているようで、悠太は少し息苦しく感じた。

「……すんなり、別れたの?」

「うん。思った何倍もあっさり、ね」

「そう、強いね」

「うん、強くて芯のある女性だった。僕はそんな彼女に対してずっと、失礼なことをしてしまっていたんだ」

「……そう、そっか」

二人がぽつり、ぽつりと言葉を交わしているうちに、その足は生徒会室の前へと辿り着く。

「篠山悠太。君に、お礼がしたい」

扉に手をかけ、生徒会室の電気を点ける。
その白く細い腕をぼんやりと見ながら、悠太はその声を聞いた。

「花火の署名。あれがなかったら文化祭は、最悪のまま終わっていたと思う」

楸都瑠は、棚の上の花火に手をかける。

増量!ボリュームパック!だとかなんとか、派手な文字とカラフルな花火がぎっしりと詰まった、花火の袋。
それがいくつか並んでいたが、楸都瑠が手をかけた時にパタパタと倒れ、何個か床に落ちてしまった。

悠太は急いで駆け寄り、その場にしゃがみこみ、一緒にそれを拾った。

「なにかお礼、できないかな?」

目の前で花火を拾う楸都瑠の視線が、悠太の方へと向けられる。ほんの少し上目遣いで、眼鏡のフレームにかかるその黒髪が、妙に色っぽい。

悠太の心臓は、うるさい程に鳴る。

「お礼?お礼かあ、女の子だったら、ちゅーしてもらう所なんだけど」

冗談か、本心か。

当然冗談だとわかるよう、ケラケラと笑いながら言った。

悠太には勇気が足りないから。
楸都瑠の気持ちをわかっているのに、踏み出すのが怖いから。

ずっと二人の間には、その曖昧な関係が続くんだと思っていた。

だけど、楸都瑠は、違った。

悠太の予想よりもずっと、

「君が言ったんだからな」

綺麗な声だった。
それから、言葉の意味が理解できない内に、楸都瑠は眼鏡を外した。

そして、キメ細やかで透き通った肌色が近付いて、唇に、触れる。

柔らかな感触だった。

今のなにって、そう聞いてしまえたら楽だったけど。

「篠山悠太、ありがとう」

楸都瑠が、あまりに綺麗に微笑むから。

悠太は抑えきれず、その骨張った細い両肩を抱きしめて、ただ離したくないと……そう思った。

足元で、踏みつけてしまった花火の袋が、くしゃりと音を立てる。

「……苦しいよ」

その声が、笑っていた。

悠太は込み上げる幸せに、叫び出したい気分だった。

腕の力を緩め、楸都瑠の肩、そして腕、そして掌まで。撫でるように動かし、その手を握った。

「これで苦しくない?」

楸都瑠は頷き、穏やかな表情で口を開く。

「やっぱり、君と話すと息がしやすいよ」

ああ、直接聞くのは初めてだな。

いつも息がしやすいと言ってくれる。
悠太はその言葉が、ずっとずっと嬉しかった。なんだか、特別と言われている気がして。

それにしても、やっと顔を見て話せた。
いつもは、その言葉を文字で見ていたばっかりだったからさ。

だから、微笑み合えると思っていたのに。

「……いちるん?」

どうしてか、目の前の愛おしい人の顔は、酷く青ざめていた。そして、何かを窺うような視線で悠太の顔をちらりと見て、目が合えばすぐに逸らして。

「なに?どしたの」

悠太は訳も分からぬまま、どうしてかその違和感に気が付いてしまう。

「あれ、」

息がしやすいって言うのは、デミだ。
ダイレクトメッセージ上の、言葉のはずだ。
"uさん"に向けた、言葉だった。
悠太は一度だってそんなこと言われたことがない。本音を聞いたの、今日が初めてのはずなのに。

なんで、悠太に向けて、その言葉が出るんだ。

心臓が、いきなりバクバクと動きだして、痛いくらいだった。

「あれ、なんで?」

楸都瑠は、悠太に握られていた両手を顔に持っていき、息を漏らしながら、その指で顔を覆った。

血の気の引いた、青に近いほど白い顔。

楸都瑠のその肌を見ながら、大きな違和感を、膨れ上がる疑問を、口にする。

「いちるん、全部わかってた?」

声は震えたりせず、ただ真っ直ぐ伸びていった。

「"uさん"が俺だって、知ってた?」

ねえ頼むから、違うって言って。

楸都瑠は、微塵も動かない。

「いつから?」

違うって言えば、済む話じゃん。

楸都瑠は、ずっとずっと、何も言わない。

「DMも?最初の、あれも?俺って知っててあのアカウントでコメントくれたの?」

まさか、と思いながら一番最悪な可能性を口にした。

頼むから違うって言ってくれ。

そう何度も思うのに、

ついに楸都瑠が頷いて、その願いは打ち消されて。

もう、頭がおかしくなるかと思った。

「待って待って、意味わかんない。どういうこと?俺のこと、騙してた?」

考えたくなくて、やめてって何度か口走りそうになって、そんな権利ないからって、黙ったまま立ち去りたかった。

そう思うのに、その場にいたかった。

大きな矛盾。

「俺たちって、嘘でできてたの?」


どのくらいだろう。
生徒会室は、静まり返る。

いちるんは、また小さく頷いて、

「ごめんなさい」と呟いた。

「君の動画を見て、その世界に強く惹かれたんだ。それで、君がどういう人なのか、知りたくなって」

「俺は、思ってた奴と違った?」

「……そりゃ、初めは、君が想像よりもいい加減な人間で、僕は裏切られたような気分にもなったし、戸惑ったよ。でも、」

楸都瑠は、ぽつりぽつりと語った。

悠太は思い出す。

『どうしたら同じ景色が見えますか?』

いちばん最初のDMを。
何度も何度も見返した、文字列を。

「そっか。いちるんが好きなのは、俺が見てる景色だったのか」

ショッピングモールで会った時も、本を貸してくれた時も、一緒に帰ろうと言ってくれた時も。いつだって、篠山悠太に興味があったわけではない。

ずっとずっと、@uuuu_xxxx_に興味があったんだ。

「……それでも俺は、楸都瑠もデミも、どっちも好きだよ」

声が震えた。
救いの言葉を求めて楸都瑠を見つめるが、彼は、曖昧に目を逸らした。

「……僕は、よくわからない」

よく、わからない?

ああ、俺は、なにを見てたんだろ。

これほど傷付いたことは後にも先にもなかったと思う。

たしかに俺は悲しくて、苦しくて。
どくんって、変に心臓が鳴ったんだ。

「……わかった、もういいや。これ以上、可哀想になりたくないや」

なんでもないってフリも一定量超えたら限界みたいで。糸が切れたみたいに、笑ってられなくなっちゃって。

だからもう、話すのも、構うのも、横に立つのも、もういいやって。そう思ったってだけなんだけど。

「ちょうどいいよね。これから受験シーズンでしょ?勉強頑張って、もう二度と顔見せないで」

悠太は立ち上がって、その場を後にした。
大きな音を立てて、生徒会室の扉を閉めて、逃げ出す。

そうすることでしか、目の前の愛おしい人を守ることができないと思った。

たぶん今は冷静じゃなくて。

これ以上酷いことを、言ってしまわないように。

ああ、今まで、いちるんの秘密を知って、得意になっていたからさぁ、バチが当たったね。

馬鹿だなぁ、俺。

馬鹿だよな、俺。