「悠太〜、文化祭の学園演劇、参加しない?」
夏休みが開けてから少し過ぎた後の昼休み。賑わう教室の中で机に突っ伏し項垂れていた時に、ミッチーという、よく一緒にバスケをする友人に声を掛けられた。
彼はクラスで一番身長が高い。
手足の長いその体を、不自由そうに、窮屈そうに折り曲げて悠太の隣の席に腰掛けた。
「学園演劇……?去年の三銃士のやつ?」
悠太は全くもってピンとこない話に、眉をひそめて聞き返す。
「そそ、今年はロミオとジュリエット」
この学校の文化祭では、演劇部の発表とは別に"学園演劇"という催しを行う。
三学年合同、誰でも参加OK!という建前の裏に隠れた参加条件のひとつは、"顔が良い奴"であった。そんな事生徒全員が知っている。
そんなものに誘うミッチーも誘われる悠太も、顔の造形は悪くはないが、特段整っているわけでもない。悠太に自信があるのは、両目の二重幅が均等な事くらいだ。
「ミッチー、俺がイケメンだって言いたいの?」
ヘラヘラと笑うと、ミッチーは真面目な顔のまま首を横に振った。
「違う違う、二人で裏方やろうぜって誘い!一年に可愛い子がいるんだよ」
「いや、違うはひどくね?」
「いーからやろーぜ!去年八尋が音響とか地味な仕事やってただろ?それでクラス出店の仕事ほとんど来なかったし、ぜってー楽だよ」
学校行事に燃えるタイプではない悠太にとって、それはそれは魅力的な誘いであった。
「おけ、参加する」
悠太は親指を立ててミッチーにグッドサインを送った。
「っしゃ!次のロングホームルームで勝ち取ろうな!」
ミッチーは元気に自分の席へと戻って行った。
午後のロングホームルーム。
案の定、学園演劇なんてやりたがる人ほとんどおらず、勝ち取るまでもなかった。
つまりは争うまでもなく、無事に二人は参加の枠と、クラス出店の役割免除の特権を手に入れた。
ちなみにクラス出店は圧倒的な票を集め縁日に決定。
射的やヨーヨー釣り、輪投げを用意し景品のお菓子を渡そうと盛り上がっており、悠太も少しワクワクした。
浴衣で店番をしたらどうか、なんて話題も上がり、終わりかけの夏がまだ続くことが純粋に嬉しかったのだ。
その数日後の放課後、学園演劇の説明会が行われると担任に告げられた。
「篠山くん、ちゃんと行ってね」
釘を刺され、大きく「はーい」と返事をする。
担任の手前、わざとらしい程にこやかにミッチーと教室を出るが、階段を少し下ったところで足を止める。
「ね〜、これ絶対行かなきゃダメなやつ?」
悠太は眉根をグッと寄せて甘えたような声で尋ねる。
「今日役割とか決めるらしいから、裏方じゃなくてロミオになってもいいならいんじゃね?」
「はー、めんど」
そんなこと言われたら、行くしかないだろう。
一年生が支配する廊下を横切る間、物珍しそうな視線を感じる。普段バスケ部で大活躍している長身のミッチーが妙に目立っているのだ。
慣れない視線にそわそわしていると、目的の空き教室に辿り着いた。
椅子も机も置かれていない教室で円になって話すらしい。黒板には、クラスごとに座るようにざっくりとした指示が書かれていた。
「あれ、いちるんだ」
教室の前の方で生徒会役員達が何かを話しているのが目に入る。
「誰?」
ミッチーに尋ねられ指をさしてみせると、「あぁ」と呆れたような、感心したような声が返ってきた。
「生徒会長にまで変なあだ名つけてんだ」
変な、とは心外である。
楸都瑠は悠太の存在には気が付いておらず、自身の仕事を全うしている。
悠太は退屈な気分のまま、教室に入る際に渡されたプリントをぼんやりと眺めた。
概要や配役、衣装や小道具についての説明をさらさらっと流し見して、参加者の名前を確認する。
いちるんは、やっぱり参加するわけではないんだなあ。
なんでいるんだろ、そう思い顔を上げると、丁度こちらを見ていたらしい楸都瑠と目が合う。
手をヒラヒラと振ると、楸都瑠は少し困ったように笑った。
悲しいことに、手は振り返してくれなかった。
「時間になりましたので、学園演劇の説明会を開始します」
開始時刻ギリギリになってから教室に入ってきたと思えば、一番前に立って話し始める女子生徒がいた。随分と派手な色の爪が目に入り、悠太は「あ」と小さく声を上げた。
あの人、いちるんの彼女じゃん。
「司会進行役を決めるまで、文化祭実行委員長である私、三年一組の緒川がこの場で話を進めます」
相変わらず綺麗だけど派手。そんな印象を抱かせる彼女は、どうやら文化祭の実行委員長様らしい。
だからあの日、二人で話してたのか。
「この演劇は生徒会主催となります。先生方の手を借りない、"私達の舞台"なんです。皆で協力し……」
なるほどなるほど、それでいちるんがいるのか。
悠太は納得し、楸都瑠を盗み見る。
彼は手元のプリントを眺め、真面目で硬い表情を浮かべていた。生徒会長スイッチが入っているその様は、どこか他人みたいに思える。
「今年の脚本について、生徒会から説明をお願いします」
いちるんの出番かな?
そう思っていると、普段あまり生徒会室で見かけない、なんとも冴えない男子生徒が前に出た。
小柄で猫背、そして色白に重たい眼鏡。やや不健康そうな彼はプリントを両の手で持ち、小さな咳払いの後話し始める。
「脚本を務めました。生徒会書記の青木です。ロミオとジュリエットはシェイクスピアの悲劇の一つです。文化祭のステージで主人公二人の死を描くのは如何なものかと思い、結末をハッピーエンドへと改変しました」
『"幸せな"ロミオとジュリエット』となることを、理解してほしいという説明を受ける。
「はえ〜、結末変えるなんてすごいね」
悠太はミッチーに向かって呑気に言ったが、彼は眠たそうに俯いており、ろくに話を聞いていない様子だ。
それを見て、思いのほか自分がこの学園演劇に前のめりになっていると気が付く。
「それでは、ここからの司会進行役として、三年から一人代表者を決めてください」
緒川さんの凛とした声を皮切りに、各クラス二名以上ずつ参加している有志達はザワザワと雑談を始めた。
そういえば、八尋も演劇に参加すると言っていたはずなのに姿が見えない。あいつはサボりだろうか?
悠太はそんなことを考えながら、教室の端で生徒達を見守る楸都瑠の姿を盗み見ていた。
ロミオは、学校一のイケメンである、翔パイセンに。
ジュリエットは、美少女と話題の一年生、久城さんに。
それぞれがすんなりと決まった所で、予想外の言葉が舞う。
「ティボルト役は、野沢八尋先輩がいいと思います!」
遅れてやってきた八尋が、一年の女子の熱すぎる推薦を受け、ティボルトという役を担がれそうになったのだ。
いやいや、やぴろんはそういうタイプじゃないから無理でしょ。
断るだろうな〜と見守っていると、その女子生徒は続けて、とんでもない発言を投げ込んできた。
「ティボルトとマーキューシオ役は元々仲の良い野沢先輩と篠山先輩がやったら、おもしろいと思います」
知らない女子に名前を呼ばれた悠太は、まさか自分の方にパスが回ってくるとは思っておらず、目を真ん丸にしながら八尋へと視線を向けた。
目が合い、え、どうすんの?と眉をひそめ合う。
「なんにせよ各学年からバランス良く役者を募らないといけなかったから、他に立候補者がいなければ二人に検討してもらいたいな」
イケメンの翔パイセンが、悠太達の困惑を察することなく言った。
今年の二年は地味な面々が揃ってしまっている。悠太と八尋が引き受けてくれれば……と思う者も多いのか、「いいんじゃない?」「おもしろそう!」なんて声が続々と上がった。
「悠太悠太、お前の役さ、そこまで出番も多くないから逆に楽かもよ?」
ミッチーが台本をパラパラと捲りながら言った。
「まじ?セリフ少ない?」
「少ない!八尋と殺し合うらしくておもろい」
「なんそれやば、主人公は結末変えて死なせないのに俺らは死ぬの?」
それが妙におもしろくて、「まあ別にやってもいいか〜」と声が漏れる。
周囲は悠太達に期待を含む視線を向けていた。
「俺と八尋やります!」
期待に応えるように手を挙げた。
もちろん、八尋とじゃなきゃやりたくないから無理やりにでも巻き込んでやる。
八尋は一瞬戸惑ってなにか言おうとしたが、すぐに言葉を飲み込み、配役は決定した。
悠太は思わずガッツポーズを浮かべた。文化祭なんて面倒だと思っていたが、これなら楽しくなりそうだ。もう一度八尋と目が合い手を振ると、感情の読めない表情で控えめに手を振り返してくれた。
それからも配役と係を決める話し合いは続いたが、早くに役割が決まった悠太は、映画でも見てるみたいに、その話を聞いていた。
「そしたら来週の金曜日、一回目の読み合わせをするから出演者は台本をよく読んできて。それじゃ解散、ありがとうございました」
翔パイセンのその言葉で、その日の出演者チームは解散。
衣装チームとか大道具チーム、音響係や照明係なんかは、それぞれが集まって話し合いを続けていた。
悠太は教室を出る時、後ろからではなく前から出ようとした。その辺りに、楸都瑠が座っていたからだ。
「いちるん、お疲れ様」
帰り際のフリしてそう声をかけると、楸都瑠は硬い声で「お疲れ様」と言った。なんだか少し、疲れた様子に見える。
「だいじょぶ?」
そう聞いた時、どこかのチームと話していた緒川さんが楸都瑠の元へと駆け寄り、「質問があるんだけど」と言った。
「ああ、ちょっと待って」
楸都瑠は少し冷たく思える態度で彼女にそう言ってから、悠太の方を見た。
「もう帰るなら、一緒に帰らないか?」
「え、いいの?」
「うん。少し待ってて、この話が終わったらすぐ教室を出るから」
「りょ、りょーかい!」
敬礼のポーズを作ると、楸都瑠は硬い表情を崩し、微笑んだ。
悠太は思わぬ展開に、胸がきゅっと締め付けられるような、高鳴るようなふわふわとした感覚に包まれた。
なんだなんだ、いちるんって思ったより俺のこと好きじゃね?
そんなおめでたい思考で頭が支配され、浮き足立つように廊下に出る。
「彼女さん、置いてきて大丈夫だった?」
昇降口を出た所で合流した二人は、グラウンドで飛び交う運動部の声と蝉のジリジリとした声を背景に、歩みを進める。
悠太は何気なく緒川さんのことを尋ねるが、都瑠はなんとも退屈そうな表情で「平気」と言うだけだった。
やはり、彼女の話はタブーらしい。
悠太は叱られた時と似た気分で、目を泳がせて次の話題を探した。
「篠山悠太は、去年の後夜祭は参加したか?」
話題を振ってくれたのは、楸都瑠の方だった。
「後夜祭?仲良い友達の演奏だけ聞いてから帰ったよ」
去年の文化祭を思い出す。
悠太は顔が広いので、「演奏見に来てね」とか、「ダンス踊るから見ててね」とか、軽い誘いの声は沢山聞いた。
なんなら、今年も同様の誘いがちらほら耳に届いている。
ただ今年も、仲の良い友達の「絶対に見に来い」という命令に近い誘いしか見に行く気はない。体育館で行われる後夜祭のステージは、人が集まりすぎて暑苦しいのだ。
「後夜祭の人口密度えげつないから苦手!」
文句を零すと、楸都瑠は「そうなんだよ」と食い付いた。
「混みすぎて後ろから見えないからどうにかしてほしいって散々言われてるんだ。友達の出番だけ見て途中で帰る人もいるみたいだけど、なんとなくでその場に残る人が多いから」
「ステージ以外の所でも、なんかやればいいんじゃね?」
「なんかって、例えば?」
例えば、例えば、後夜祭は、夜だし、祭りだし……。
「花火とか!」
「花火?」
「ステージに興味ない奴、友達の出番が終わった奴、そいつらにはグラウンドで手持ち花火をやってもらう!……楽しそうだし、結構人流れそじゃね?」
「手持ち花火か、なるほど。良いアイディア。やるなあ、篠山悠太」
楸都瑠は顔をくしゃりと歪めて笑った。
不意に、この人の素直な言葉が好きだと思った。
真っ直ぐ褒めてもらえて、ただ嬉しいだけだろうか。
羽の先でくすぐられたみたいな、むず痒い気持ち。自然と笑顔になってしまうような、不思議な感じで満たされる。
「人口密度問題、解決?」
「うん、実行委員と先生に提案してみるよ。これが通れば、きっと最高の文化祭になる」
「やった〜!俺、花火好きなんだ。通るといいな〜!」
「僕も花火は好きだよ。もし議案が通らなかったら、二人で花火しようか」
楸都瑠は調子よく、また笑った。
悠太の気持ちなど露知らず、甘い言葉ばかり出るものだ。
いちるんって、やっぱり俺のこと嫌ってないんだろうな。
理由はわからないけど、お互い心を許し合う関係だと思えた。悠太の淡い恋心から目を逸らすとしたら、これは、ただの友情なのだろうか。
悶々としていると、あっという間に別れ道へと辿り着いてしまった。
「今日、君と帰れてよかったよ」
楸都瑠はほんの少しだけ首を傾けながら笑った。
黒髪がサラサラと揺れる。無邪気で爽やかな動きであった。
「……俺も」
そう口にする時、心臓が変に鳴っていた。
緊張なんかしてないのに、胸の奥、お腹の奥が少し苦しい感じがした。
あーあ。
もっと、二人の家が遠ければ良かった。
それか、近くにファミレスでもあればお腹が空いたって嘘ついて、立ち寄ったのに。
理由なく遠回りをするには暑すぎる夏の終わりを、悠太は少し恨んでいた。
珍しく日が落ち切る前に家に着いた悠太は、自宅のスカスカの靴箱を見て、まだどの姉も家に帰っていないと知る。
玄関で靴を脱いでから、少しひんやりとした家の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
リビングから、トントントンと包丁を動かす音が聞こえる。
「悠太、今日はやいね!」
まな板の前に立つ母が悠太を見て微笑んだ。
「夕飯なに?」
「親子丼と悠太の好きなマリネだよ〜、きゅうりともやしの!」
悠太は「よっしゃ!」と手を挙げてから、スマホを開いた。
あれ、DMきてる。
『お世話になっております。中島です。ミュージックビデオの件でご連絡しました。』
鯨前線のオフィシャルアカウントからのメッセージだった。
依頼を引き受けてから約一ヶ月ほど経った。
今まで具体的な話に移らなかったが、そろそろ動き始めるのだろうか。
悠太はこれといって忙しいわけではないので、いつでも連絡してくださいと言ってあったのだ。
「しばらく部屋にいるから、夕飯できたらメッセージ入れてくれる?」
「はいはーい、それじゃね!」
悠太の母は明るく言って、菜箸を持った手を振っていた。
悠太は自室に戻り、DMに目を通す。
長文のメッセージには、デミが悠太と話をしたがっていること、その際はミーティングや通話ではなく、メッセージでやりとりしたいという希望が、丁寧に綴られていた。
悠太はむしろ安心した。
デミが楸都瑠なら、会うことはおろか、声でお互いがわかってしまうだろうから。
メッセージでのやり取りなら、それがバレることはないだろう。
「デミは……直接話すのが得意じゃない」
楸都瑠を思うと、それは少し違和感があった。生徒会長として凛と佇む彼も、悠太の横で笑う彼も、流暢に話をする人だったから。
まあ、気にしたって仕方がないか。
悠太は中島さんの提案を喜んで引き受けた。
それからデミと悠太は、文字を使って話すようになった。
『半年前くらいから、よく見ていました。動画の雰囲気がとても好きです。それぞれの動画には、伝えたい事などあるのですか?』
『ありがとうございます。特に伝えたい事はありません。ただ、心が動いた瞬間を撮って、心地好いままに繋げています。
僕も少し前から鯨前線を聴いていました。デミさんの歌声、とても好きです。』
『そうなんですか。きっと感覚が優れているんですね。音楽に合わせて画面が切り替わるタイミングも、とてもセンスがあると思っていました。
僕達のMVでも、テンポを意識してもらえると嬉しいと思っています。ただ、あまり気負わず、自由にやってほしいです。曲を初めて聴いた時、受け取ったイメージをそのままに作ってほしいなって思っています。僕らには伝えたい事がありますが、そういうのを、考えずに作ってほしいなあって。
曲も聴いてくださってありがとうございます。声が好きと言われるのは、何よりも嬉しいです。』
彼は文字の上でも、やっぱり流暢だった。
楸都瑠の連絡先は知らない。だから、こんな風に文章を書くって、知らなかったんだ。
素直で、人懐っこい印象を受ける。
悠太は画面を見て、口角が上がっていた。
嬉しかったのだ。
きっとこれは楸都瑠の、悠太には見せない一面だから。それをこっそり知ることができる。自分の立場に……なんていうか、優越感というか、思い上がっていたというか。
『一曲分の動画を作る上で、もう少しデミさんのことが知りたいです。曲ができるまで、メッセージで良いので時々話しませんか?世間話でも大丈夫です。
そのやり取りから受け取ったイメージと、初めて曲を聴いた印象で、動画を作りたいと思います。』
……だから、近付きたくてズルをした。
『もちろんです!話しましょう。平日は学校があるので、金曜日の夜にメッセージでやり取りしませんか?』
なにも知らないデミは、楸都瑠は、無邪気にそう返してくれた。
金曜日の夜、22時頃にDMのランプが灯った。
悠太は自室にある、窮屈な勉強机の前に座っていた。
小学生の頃から部屋にある、木製の机。その上にはあまり物を置いていない。身体を丸め込み、頬杖をついて小さな画面を見る。
『uさん、先日はありがとうございました。
uさんは今週、どんな一週間を過ごされましたか?
僕の学校では文化祭の準備が始まっています。僕らのクラスは焼き鳥屋台をします。火を使い調理もするので、保健所や消防への届け出が必要で大変です。
でも、高校最後の文化祭だから、絶対成功させたいんです!
曲の方は順調で、明日明後日で完成に近付きます!楽しみにしていてくれると嬉しいです。』
デミは悠太のことを、uさんと呼んだ。
"@uuuu_xxxx_"というユーザー名しか付けていなかったからだ。
『デミさん、こんばんは。
文化祭の準備、大変そうですね。でも焼き鳥なんて、素敵ですね。僕も焼き鳥好きです。応援してます!
僕は普段の日常から特に変わったことはなく、普通に過ごしました笑
つまらなくて申し訳ないです。。
曲、すごく楽しみにしています。お姉さんのアンさんとも、いつかお話してみたいです。』
本当のところ悠太の一週間は、何度か楸都瑠と下校をする楽しい毎日が続いていた。
『焼き鳥いいですよね!食べにきてほしいくらいです!
uさんが穏やかな毎日を過ごせていたのなら幸いです(*^^*)
アンもuさんのこと気になってました!大学生でアルバイトもしていて忙しいので、タイミングを見てお話できたら良いですよね。』
『焼き鳥、今度自分で買って食べますね笑
デミさんこそ、学校生活が楽しいといいですね。ご友人は多いですか?部活とかは入っていますか?
アンさんとはぜひ、タイミングをみて!』
『学校生活、最近はすごく楽しいです。
友人は多くはないのですが、生徒会に所属しているので、そこのメンバーとはとても仲良くやっています。
少し前から、ちょっと変わった友人ができたんです。後輩なんですけど、自分とは違うタイプで、一緒にいてとても楽しくて、最近は学校に行くのが前より楽しみになりました。』
長文だがポコポコと続くやり取りに、悠太は初めて手を止め、目を見開いた。
これ、俺のことじゃん。
驚いて、小さな咳が出た。
木製の椅子をガタガタと言わせながら、一度小さく立ち上がり座り直した。本当に、意味もなく。
『そろそろ寝ないといけなくて。
やり取りが少なくて申し訳ないのですが、また来週お話する形でも良いでしょうか?返信が遅くても大丈夫でしたら、いつでもやり取りできるのですが……』
続けてデミからのメッセージがポコンと浮かぶ。
『学校生活、楽しそうで良かったです。
忙しい中で時間を作ってくれてありがとうございます。
また来週話しましょう。このくらいの時間で。
もし難しければ、いつでも断ってください。無理せず話したいです。』
『ありがとうございます!
なんだか、uさんとのお話は息がしやすい感じがします。楽しいです。
また来週を楽しみにしています!
おやすみなさい。』
デミは、最初から最後まで、素直な言葉をぶつけてくれた。
悠太はスマホを机に置くと、少しの罪悪感と高揚感を胸に、そっと溜め息をつく。
知らないフリは大変だ。
自分の素性を明かさないというのも、疲れる。
悠太は当たり障りない誰かを演じながらメッセージをすることに慣れていなかったから、随分と疲れていた。
ただ同時に、楸都瑠の本心を、悠太に向けた想いを覗き見れた事に、驚くほどの満足感を覚えていた。
俺も、学校行くの楽しみだもんな。
『最近は学校に行くのが前より楽しみになりました。』
その文章を見返して、悠太は下唇を噛んだ。
込み上げる想いを、抑えたくて。
三階の、空き教室。
そこには、大きなグランドピアノが置いてあった。
厚手のカーテンは外からの強い陽射しを遮断していて、隙間から零れる光の線だけが、教室の床に射し込む。
「一言だけか?一発、大事にしたらどうなんだ」
現役を引退したピアノは、うっすらと埃を被り、チャコールグレーに近しい色をしていた。
悠太が冷えた床に座る。制服の生地越しにじわりと冷気が伝わった。
「喜んで相手するよ、きっかけをくれるんならね」
ピアノ椅子に腰掛けた八尋が言った。
「くれるなんて言ってない、自分で作ったらどうなんだ」
悠太は少しよれた台本の文字を目で追いかけながら、活字を声に変換する。
「マキューシオ、貴様、ロミオと調子を合わせて……」
また八尋のセリフ、だけど途中で黙ってしまった。
「……おい、次の悠太のセリフ、俺の今のとこに被せんじゃないの?」
八尋は腰の位置にある悠太の頭を肘掛けにしながら言った。
「痛い!やーめーて!」
骨張った肘が悠太のツムジを強く押していた。
「こんな薄暗くて埃っぽい部屋、集中できない。眠い」
「エアコンなしの部屋よりマシだろ。それとも、他の奴らみたいに廊下でやる?」
悠太はブンブンと左右に首を振った。
「エアコンばんざーい」
背後の壁にコツンと後頭部を預け、悠太は上を向く。
規則的に並んだ天井の穴を、ぼんやりと眺めた。
「やぴろんさー、叶わない恋って、どうしたらいいと思う?」
「……前言ってた子?珍しく片想い続いてんね」
ピアノの上に置いていたパックのアイスココアをを手に取りながら、八尋は言った。それからチューっとストローを咥えココアを飲むと、「悠太が弱気なの珍しー」と、なんとも呑気に口にする。
「てか、ほんとに好きなのかな。ぼく友情と恋愛の違いがわかりません」
「いやでも、好きなもんは好きでしょ。友達とは違うんじゃね?」
「そうかな〜?なんかもう、好きって究極友情じゃね?って思ってきたんだけど」
楸都瑠と紙飛行機を飛ばした日を思い出していた。あの日の、夕焼け空を。
二人で、服が乾くまで横並びで座っていたあの時、通りかかる誰もが二人を友人だって思ったはずだ。
「じゃあさ、俺とおまえが付き合うの、考えられる?手繋いだり、そういうの」
八尋はココアと台本をピアノの上に置き、悠太に向かって掌を差し出した。
八尋の指は、細くて長くてごつくて、比較的綺麗なだけの、男の手だった。
悠太が言葉を失っていると、廊下から女子生徒の話し声が聞こえてきた。悠太と八尋のいる教室の前を、なにやら楽しそうな会話を交わしながら通り過ぎて行く。
悠太は、八尋の手に自分の手を重ね、指を交互に絡めた。
八尋の手、生ぬるい。
「手繋ぐくらいなら、余裕かも」
「あっそう」
八尋も、それから悠太も、表情一つ変えず、その手を離さなかった。
「……一発、大事にしたらどうだ」
また天井を見上げながら、セリフを口にした。
「喜んで相手するよ、きっかけをくれるんならね」
八尋はなかなか手を離さない。
「ねぇ八尋、男同士でキスできると思う?」
悠太は言った。
八尋は相変わらず、表情を変えない。
「俺は……友達とじゃ、無理かな」
八尋の声は、いつもと変わらないトーンだった。
「試していい?」
静かになった教室に、悠太の声だけがふわりと響いた。
悠太は立ち上がり、キョトンとした表情でピアノ椅子に座る八尋の目の前に立つ。
「本気?」
八尋は笑った。冗談だと思っているらしい。
その緩む唇を見つめ、両頬を手で包んだ。
前髪だけブリーチをかけた金髪と後ろ髪の黒が、指先で混ざりあっている。
あー、やぴろんイケメンだから、そんな嫌じゃないかも。
悠太はそのまま動けなかった。
そして八尋も、動かなかった。
逃げりゃいいのに、眉一つ動かさないなんて、この子は何を考えてるのか本当にわかんない。
妙な空気が、教室に充満していた。
「あーうける。やっぱ無いね、友達と好きな子は別だわ!」
そう言って大袈裟に離れて見せる。
光の線の上を跨いで、教室の隅まで。
そして俯いて思う。
これがいちるんだったら、多分俺は……。
「悠太って謎だよなあ」
八尋が、首の後ろを掻きながら呟いた。
「いやこっちのセリフだよ。ちょっとは嫌がれっての!俺の方が焦ったわ」
「だって悠太、酔っ払ったって浮気はしない奴だし」
「学校でそーゆー話すんなって!」
悠太が怒鳴ると、「二人きりだしいいじゃん」と、八尋はまた呑気に言ってココアを飲んだ。
その時、教室の扉がガタリと音を立てる。
それから、「失礼しまーす!」という女子生徒の元気な声と共に、扉はガラガラとスライドし開いていった。
「あれ、アコチじゃん!」
「やっほー篠山!喜べ!会長も一緒だよ〜!」
元気にピースサインを向けるアコチの後ろから、楸都瑠、それから、緒川さんが顔を出した。
「演劇練習の見回りで来たけど、ここは問題児コンビだけなんだね〜!」
アコチがきょろきょろと周りを見渡し、あっけらかんと言う。
「問題児〜?大真面目にセリフ読んでたんですけど〜?」
悠太はアコチのテンションに釣られ、冗談交じりに言った。
黙っていた楸都瑠が、教室に足を踏み入れる。
こちらに向かってきたのかと思えばそうではなく、そのまま悠太の横を通り過ぎると、八尋のすぐ横で立ち止まった。
「野沢八尋、その髪……文化祭までには、何とかして来い」
「……」
強い口調に圧倒され、その場の誰もが口を噤んだ。
「前任の会長から聞いてるよ。去年の喧嘩のこと。君一人の印象で学校のイメージを下げるから、舞台に立つつもりなら、その目立つ頭をまずどうにかするのが先だろう……少しは考えろ」
「ちょい待ってちょい待って、そりゃー八尋の意味わからん髪色は目立つけどさ、そんな言い方なくね?」
座ったままの八尋と、その目の前に立つ楸都瑠。
その間に入り込み、八尋を庇うように両手を広げ言うと、楸都瑠は顔を歪めた。
つーか、俺の頭もだいぶ明るい色してるし、あんたの彼女の髪色も絶対一回ブリーチかけてんだろ。横見てみなよ。
本当はそこまで言ってやりたがったが、悠太は言い合いがしたい訳ではない。そっと言葉を飲み込む。
「八尋べつに最近は喧嘩も何もしてないよ。大人しいんだよ」
「最近は大人しいって、そんなの誰がわかるって言うんだ?誤解されたくないなら、注意を受けたくないのなら、最低限の身なりを整えろ」
悠太は言葉を選んで庇ったつもりだったのだが……楸都瑠はヒートアップしたように、語気を強めてそう言った。
悠太は、一瞬、何も言えなかった。
目の前で怒るこの人は、誰なのだろうか?
いちるんでも、デミでもない、生徒会長の楸都瑠?
「……怖いよ、いちるん」
悠太はポロリと言葉を零した。
ちょうどその時、太陽が雲に隠れたのか、外から射し込む光の線が消えて、教室は薄暗いグレーの靄に包まれる。
教室はシンと静まり返り、アコチも、緒川さんも、八尋も、何も言わなかった。
「……あこちゃん、緒川、見回り続けよう」
少し冷静になったのか、声のトーンを落とした楸都瑠は、悠太を見ずに言う。
そして、たったそれだけの言葉を残して、教室を後にした。
アコチも緒川さんもすぐには着いて行かず、二人して顔を見合せた。それから、困ったように悠太の方を見る。
「いや……ちょっと待ってって」
心が追いつかないまま、体が勝手に動き出す。
気がついたら、悠太は教室を飛び出し、その背中を追っていた。
ふんわりと光の差す階段。その踊り場で、悠太は楸都瑠の背中に追いついた。
悠太は彼を呼び止めながら、踊り場まで足を進める。
「いちるん、どうしちゃったの」
楸都瑠は、躊躇いがちに階段の途中で立ち止まるが、こちらを振り向かない。
「君の友人が、非常識だからだろ」
か細い声で言ったその声が、静かな校舎の中に消えていく。
悠太は眉根をぐっと寄せて、無意識に、楸都瑠を睨んでいた。怒っているつもりはなかった。ただ、言葉も視線も、どうしてか鋭くなってしまう。
「俺の友達のこと悪くいうのやめて、こうゆう時だけ正論ぶんなよ!人選んで言ってんじゃん」
「……選んでなんか、」
「無自覚なんだね。自分のことも他人のことも、なんでもわかってますって顔して、無自覚なんだ。八尋責めるなら俺にも同じこと言えよ」
そこまで、捲し立てるように言った。
少しだけ息が荒くなって、ああ、なんでこんな怒鳴っちゃったんだろって、自分の声が反響していて、後悔して。
でも、楸都瑠の顔が見えないから。
どんな顔してるんだろって思いながら、見えないことに安心していた。
「八尋のこと、もう悪く言わないで」
何も言わない楸都瑠の背中に、言葉を落としていくことしか出来なかった。
「……聞いてて、辛いよ」
悠太はそう言って、踊り場から一歩二歩と踏み出して、階段を数歩下った。
そう、辛いのだ。
楸都瑠の知らない姿が、妙に怖くて、辛かった。
「ねえいちるん、ごめんなさいって言って。そしたら俺、いいよって言えるから」
謝ってほしかったのは、悠太に向けてでも、八尋に向けてでもない。それじゃあ何に対してって聞かれたらよくわからないけれど。
たぶん今、一番悲しい顔をしている、いちるん自身に。
ごめんなさいって言葉で、優しくしてあげてほしかった。
だけど楸都瑠は、逃げるように階段を下った。
悠太はそれを追いかけて、彼の細い腕を掴む。
「ねぇ、そしたらまた一緒に帰ろうよ」
悠太は必死になって言葉を投げかけた。
だけど、楸都瑠はやっぱり何も言わずに、弱々しく腕を振りほどいた。それから足を重たそうに動かして、階段を、ただ降りていく。
「……あーあ」
悠太はぼそりと呟いて、その場にしゃがみ込んだ。
「俺、このまま怒ってなきゃいけないじゃんか」
息を潜め、呆然と座り込んでいると、すぐ傍から、階段を上る足音が聞こえた。
いちるんが、戻ってきたのかと思ったけど、違う。
下の階から、小柄な男子生徒の姿が覗く。
「……新島ちゃん?うわぁ、まじか、聞こえてた?」
かなりの大声で話していたことを思い返し、悠太は頭を抱えた。新島ちゃんは多分、様子を見て出てきてくれた様子だったから。
「いや、内容までは……でも、揉めてるなって印象。ごめん、なんか、盗み聞きしちゃって」
「いや、全然!」
無理して笑ってから、少し黙った。
「……会長が、八尋を責めるんだよ」
悠太がぽつりと零す。
新島ちゃんは少しだけ驚いた表情をうかべた後、遠慮がちに腰を下ろし、悠太の横で膝を抱えた。
「髪色と、去年の喧嘩の事で急にすげー怒ってて。でも、髪染めてる奴なんて、俺含め何人もいるだろ?なのに八尋だけ言われるの許せなくて、これって俺が八尋を贔屓してるからかな?新島ちゃんは、八尋が悪い奴って思う?」
「聞く相手、間違ってない?」
新島ちゃんは笑った。
そりゃそうだよね、新島ちゃんは八尋が大好きだから。二人は、親友だから。
悠太は無意識に、八尋を庇ってほしくて聞いたのかもしれない。
「俺は、あの前髪の金髪嫌いだよ。一年の時あんた達が荒れてたのも事実だし、生徒会長はなんにも間違ってないとは、思う」
だけど新島ちゃんの答えは、予想と少し違っていた。
悠太は少しバツが悪そうに、自分の汚れた上履きを見ていた。
「まぁでも、伝え方ってあるよね。篠山と八尋が仲良いのはわかってるだろうし」
新島ちゃんはそう言うと、柔らかく微笑んだ。
「大人だよなぁ、新島ちゃんって」
そう言うと、新島ちゃんは軽く笑った。
「全然。子供だよ、篠山みたいにまっすぐ向き合うの、苦手だし」
立ち上がって小さく伸びをしたその後ろ姿を、悠太はなんとなく見ていた。
ワイシャツの白さが、夏の光で少し眩しく見える。
「……八尋が金髪になった理由、知ってる?」
背中に問いかけると、彼は静かに首を横に振った。
「知らない」
「そっかぁ、俺と新島ちゃんが知らないなら、誰も知らないね」
夏休みが開けてから少し過ぎた後の昼休み。賑わう教室の中で机に突っ伏し項垂れていた時に、ミッチーという、よく一緒にバスケをする友人に声を掛けられた。
彼はクラスで一番身長が高い。
手足の長いその体を、不自由そうに、窮屈そうに折り曲げて悠太の隣の席に腰掛けた。
「学園演劇……?去年の三銃士のやつ?」
悠太は全くもってピンとこない話に、眉をひそめて聞き返す。
「そそ、今年はロミオとジュリエット」
この学校の文化祭では、演劇部の発表とは別に"学園演劇"という催しを行う。
三学年合同、誰でも参加OK!という建前の裏に隠れた参加条件のひとつは、"顔が良い奴"であった。そんな事生徒全員が知っている。
そんなものに誘うミッチーも誘われる悠太も、顔の造形は悪くはないが、特段整っているわけでもない。悠太に自信があるのは、両目の二重幅が均等な事くらいだ。
「ミッチー、俺がイケメンだって言いたいの?」
ヘラヘラと笑うと、ミッチーは真面目な顔のまま首を横に振った。
「違う違う、二人で裏方やろうぜって誘い!一年に可愛い子がいるんだよ」
「いや、違うはひどくね?」
「いーからやろーぜ!去年八尋が音響とか地味な仕事やってただろ?それでクラス出店の仕事ほとんど来なかったし、ぜってー楽だよ」
学校行事に燃えるタイプではない悠太にとって、それはそれは魅力的な誘いであった。
「おけ、参加する」
悠太は親指を立ててミッチーにグッドサインを送った。
「っしゃ!次のロングホームルームで勝ち取ろうな!」
ミッチーは元気に自分の席へと戻って行った。
午後のロングホームルーム。
案の定、学園演劇なんてやりたがる人ほとんどおらず、勝ち取るまでもなかった。
つまりは争うまでもなく、無事に二人は参加の枠と、クラス出店の役割免除の特権を手に入れた。
ちなみにクラス出店は圧倒的な票を集め縁日に決定。
射的やヨーヨー釣り、輪投げを用意し景品のお菓子を渡そうと盛り上がっており、悠太も少しワクワクした。
浴衣で店番をしたらどうか、なんて話題も上がり、終わりかけの夏がまだ続くことが純粋に嬉しかったのだ。
その数日後の放課後、学園演劇の説明会が行われると担任に告げられた。
「篠山くん、ちゃんと行ってね」
釘を刺され、大きく「はーい」と返事をする。
担任の手前、わざとらしい程にこやかにミッチーと教室を出るが、階段を少し下ったところで足を止める。
「ね〜、これ絶対行かなきゃダメなやつ?」
悠太は眉根をグッと寄せて甘えたような声で尋ねる。
「今日役割とか決めるらしいから、裏方じゃなくてロミオになってもいいならいんじゃね?」
「はー、めんど」
そんなこと言われたら、行くしかないだろう。
一年生が支配する廊下を横切る間、物珍しそうな視線を感じる。普段バスケ部で大活躍している長身のミッチーが妙に目立っているのだ。
慣れない視線にそわそわしていると、目的の空き教室に辿り着いた。
椅子も机も置かれていない教室で円になって話すらしい。黒板には、クラスごとに座るようにざっくりとした指示が書かれていた。
「あれ、いちるんだ」
教室の前の方で生徒会役員達が何かを話しているのが目に入る。
「誰?」
ミッチーに尋ねられ指をさしてみせると、「あぁ」と呆れたような、感心したような声が返ってきた。
「生徒会長にまで変なあだ名つけてんだ」
変な、とは心外である。
楸都瑠は悠太の存在には気が付いておらず、自身の仕事を全うしている。
悠太は退屈な気分のまま、教室に入る際に渡されたプリントをぼんやりと眺めた。
概要や配役、衣装や小道具についての説明をさらさらっと流し見して、参加者の名前を確認する。
いちるんは、やっぱり参加するわけではないんだなあ。
なんでいるんだろ、そう思い顔を上げると、丁度こちらを見ていたらしい楸都瑠と目が合う。
手をヒラヒラと振ると、楸都瑠は少し困ったように笑った。
悲しいことに、手は振り返してくれなかった。
「時間になりましたので、学園演劇の説明会を開始します」
開始時刻ギリギリになってから教室に入ってきたと思えば、一番前に立って話し始める女子生徒がいた。随分と派手な色の爪が目に入り、悠太は「あ」と小さく声を上げた。
あの人、いちるんの彼女じゃん。
「司会進行役を決めるまで、文化祭実行委員長である私、三年一組の緒川がこの場で話を進めます」
相変わらず綺麗だけど派手。そんな印象を抱かせる彼女は、どうやら文化祭の実行委員長様らしい。
だからあの日、二人で話してたのか。
「この演劇は生徒会主催となります。先生方の手を借りない、"私達の舞台"なんです。皆で協力し……」
なるほどなるほど、それでいちるんがいるのか。
悠太は納得し、楸都瑠を盗み見る。
彼は手元のプリントを眺め、真面目で硬い表情を浮かべていた。生徒会長スイッチが入っているその様は、どこか他人みたいに思える。
「今年の脚本について、生徒会から説明をお願いします」
いちるんの出番かな?
そう思っていると、普段あまり生徒会室で見かけない、なんとも冴えない男子生徒が前に出た。
小柄で猫背、そして色白に重たい眼鏡。やや不健康そうな彼はプリントを両の手で持ち、小さな咳払いの後話し始める。
「脚本を務めました。生徒会書記の青木です。ロミオとジュリエットはシェイクスピアの悲劇の一つです。文化祭のステージで主人公二人の死を描くのは如何なものかと思い、結末をハッピーエンドへと改変しました」
『"幸せな"ロミオとジュリエット』となることを、理解してほしいという説明を受ける。
「はえ〜、結末変えるなんてすごいね」
悠太はミッチーに向かって呑気に言ったが、彼は眠たそうに俯いており、ろくに話を聞いていない様子だ。
それを見て、思いのほか自分がこの学園演劇に前のめりになっていると気が付く。
「それでは、ここからの司会進行役として、三年から一人代表者を決めてください」
緒川さんの凛とした声を皮切りに、各クラス二名以上ずつ参加している有志達はザワザワと雑談を始めた。
そういえば、八尋も演劇に参加すると言っていたはずなのに姿が見えない。あいつはサボりだろうか?
悠太はそんなことを考えながら、教室の端で生徒達を見守る楸都瑠の姿を盗み見ていた。
ロミオは、学校一のイケメンである、翔パイセンに。
ジュリエットは、美少女と話題の一年生、久城さんに。
それぞれがすんなりと決まった所で、予想外の言葉が舞う。
「ティボルト役は、野沢八尋先輩がいいと思います!」
遅れてやってきた八尋が、一年の女子の熱すぎる推薦を受け、ティボルトという役を担がれそうになったのだ。
いやいや、やぴろんはそういうタイプじゃないから無理でしょ。
断るだろうな〜と見守っていると、その女子生徒は続けて、とんでもない発言を投げ込んできた。
「ティボルトとマーキューシオ役は元々仲の良い野沢先輩と篠山先輩がやったら、おもしろいと思います」
知らない女子に名前を呼ばれた悠太は、まさか自分の方にパスが回ってくるとは思っておらず、目を真ん丸にしながら八尋へと視線を向けた。
目が合い、え、どうすんの?と眉をひそめ合う。
「なんにせよ各学年からバランス良く役者を募らないといけなかったから、他に立候補者がいなければ二人に検討してもらいたいな」
イケメンの翔パイセンが、悠太達の困惑を察することなく言った。
今年の二年は地味な面々が揃ってしまっている。悠太と八尋が引き受けてくれれば……と思う者も多いのか、「いいんじゃない?」「おもしろそう!」なんて声が続々と上がった。
「悠太悠太、お前の役さ、そこまで出番も多くないから逆に楽かもよ?」
ミッチーが台本をパラパラと捲りながら言った。
「まじ?セリフ少ない?」
「少ない!八尋と殺し合うらしくておもろい」
「なんそれやば、主人公は結末変えて死なせないのに俺らは死ぬの?」
それが妙におもしろくて、「まあ別にやってもいいか〜」と声が漏れる。
周囲は悠太達に期待を含む視線を向けていた。
「俺と八尋やります!」
期待に応えるように手を挙げた。
もちろん、八尋とじゃなきゃやりたくないから無理やりにでも巻き込んでやる。
八尋は一瞬戸惑ってなにか言おうとしたが、すぐに言葉を飲み込み、配役は決定した。
悠太は思わずガッツポーズを浮かべた。文化祭なんて面倒だと思っていたが、これなら楽しくなりそうだ。もう一度八尋と目が合い手を振ると、感情の読めない表情で控えめに手を振り返してくれた。
それからも配役と係を決める話し合いは続いたが、早くに役割が決まった悠太は、映画でも見てるみたいに、その話を聞いていた。
「そしたら来週の金曜日、一回目の読み合わせをするから出演者は台本をよく読んできて。それじゃ解散、ありがとうございました」
翔パイセンのその言葉で、その日の出演者チームは解散。
衣装チームとか大道具チーム、音響係や照明係なんかは、それぞれが集まって話し合いを続けていた。
悠太は教室を出る時、後ろからではなく前から出ようとした。その辺りに、楸都瑠が座っていたからだ。
「いちるん、お疲れ様」
帰り際のフリしてそう声をかけると、楸都瑠は硬い声で「お疲れ様」と言った。なんだか少し、疲れた様子に見える。
「だいじょぶ?」
そう聞いた時、どこかのチームと話していた緒川さんが楸都瑠の元へと駆け寄り、「質問があるんだけど」と言った。
「ああ、ちょっと待って」
楸都瑠は少し冷たく思える態度で彼女にそう言ってから、悠太の方を見た。
「もう帰るなら、一緒に帰らないか?」
「え、いいの?」
「うん。少し待ってて、この話が終わったらすぐ教室を出るから」
「りょ、りょーかい!」
敬礼のポーズを作ると、楸都瑠は硬い表情を崩し、微笑んだ。
悠太は思わぬ展開に、胸がきゅっと締め付けられるような、高鳴るようなふわふわとした感覚に包まれた。
なんだなんだ、いちるんって思ったより俺のこと好きじゃね?
そんなおめでたい思考で頭が支配され、浮き足立つように廊下に出る。
「彼女さん、置いてきて大丈夫だった?」
昇降口を出た所で合流した二人は、グラウンドで飛び交う運動部の声と蝉のジリジリとした声を背景に、歩みを進める。
悠太は何気なく緒川さんのことを尋ねるが、都瑠はなんとも退屈そうな表情で「平気」と言うだけだった。
やはり、彼女の話はタブーらしい。
悠太は叱られた時と似た気分で、目を泳がせて次の話題を探した。
「篠山悠太は、去年の後夜祭は参加したか?」
話題を振ってくれたのは、楸都瑠の方だった。
「後夜祭?仲良い友達の演奏だけ聞いてから帰ったよ」
去年の文化祭を思い出す。
悠太は顔が広いので、「演奏見に来てね」とか、「ダンス踊るから見ててね」とか、軽い誘いの声は沢山聞いた。
なんなら、今年も同様の誘いがちらほら耳に届いている。
ただ今年も、仲の良い友達の「絶対に見に来い」という命令に近い誘いしか見に行く気はない。体育館で行われる後夜祭のステージは、人が集まりすぎて暑苦しいのだ。
「後夜祭の人口密度えげつないから苦手!」
文句を零すと、楸都瑠は「そうなんだよ」と食い付いた。
「混みすぎて後ろから見えないからどうにかしてほしいって散々言われてるんだ。友達の出番だけ見て途中で帰る人もいるみたいだけど、なんとなくでその場に残る人が多いから」
「ステージ以外の所でも、なんかやればいいんじゃね?」
「なんかって、例えば?」
例えば、例えば、後夜祭は、夜だし、祭りだし……。
「花火とか!」
「花火?」
「ステージに興味ない奴、友達の出番が終わった奴、そいつらにはグラウンドで手持ち花火をやってもらう!……楽しそうだし、結構人流れそじゃね?」
「手持ち花火か、なるほど。良いアイディア。やるなあ、篠山悠太」
楸都瑠は顔をくしゃりと歪めて笑った。
不意に、この人の素直な言葉が好きだと思った。
真っ直ぐ褒めてもらえて、ただ嬉しいだけだろうか。
羽の先でくすぐられたみたいな、むず痒い気持ち。自然と笑顔になってしまうような、不思議な感じで満たされる。
「人口密度問題、解決?」
「うん、実行委員と先生に提案してみるよ。これが通れば、きっと最高の文化祭になる」
「やった〜!俺、花火好きなんだ。通るといいな〜!」
「僕も花火は好きだよ。もし議案が通らなかったら、二人で花火しようか」
楸都瑠は調子よく、また笑った。
悠太の気持ちなど露知らず、甘い言葉ばかり出るものだ。
いちるんって、やっぱり俺のこと嫌ってないんだろうな。
理由はわからないけど、お互い心を許し合う関係だと思えた。悠太の淡い恋心から目を逸らすとしたら、これは、ただの友情なのだろうか。
悶々としていると、あっという間に別れ道へと辿り着いてしまった。
「今日、君と帰れてよかったよ」
楸都瑠はほんの少しだけ首を傾けながら笑った。
黒髪がサラサラと揺れる。無邪気で爽やかな動きであった。
「……俺も」
そう口にする時、心臓が変に鳴っていた。
緊張なんかしてないのに、胸の奥、お腹の奥が少し苦しい感じがした。
あーあ。
もっと、二人の家が遠ければ良かった。
それか、近くにファミレスでもあればお腹が空いたって嘘ついて、立ち寄ったのに。
理由なく遠回りをするには暑すぎる夏の終わりを、悠太は少し恨んでいた。
珍しく日が落ち切る前に家に着いた悠太は、自宅のスカスカの靴箱を見て、まだどの姉も家に帰っていないと知る。
玄関で靴を脱いでから、少しひんやりとした家の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
リビングから、トントントンと包丁を動かす音が聞こえる。
「悠太、今日はやいね!」
まな板の前に立つ母が悠太を見て微笑んだ。
「夕飯なに?」
「親子丼と悠太の好きなマリネだよ〜、きゅうりともやしの!」
悠太は「よっしゃ!」と手を挙げてから、スマホを開いた。
あれ、DMきてる。
『お世話になっております。中島です。ミュージックビデオの件でご連絡しました。』
鯨前線のオフィシャルアカウントからのメッセージだった。
依頼を引き受けてから約一ヶ月ほど経った。
今まで具体的な話に移らなかったが、そろそろ動き始めるのだろうか。
悠太はこれといって忙しいわけではないので、いつでも連絡してくださいと言ってあったのだ。
「しばらく部屋にいるから、夕飯できたらメッセージ入れてくれる?」
「はいはーい、それじゃね!」
悠太の母は明るく言って、菜箸を持った手を振っていた。
悠太は自室に戻り、DMに目を通す。
長文のメッセージには、デミが悠太と話をしたがっていること、その際はミーティングや通話ではなく、メッセージでやりとりしたいという希望が、丁寧に綴られていた。
悠太はむしろ安心した。
デミが楸都瑠なら、会うことはおろか、声でお互いがわかってしまうだろうから。
メッセージでのやり取りなら、それがバレることはないだろう。
「デミは……直接話すのが得意じゃない」
楸都瑠を思うと、それは少し違和感があった。生徒会長として凛と佇む彼も、悠太の横で笑う彼も、流暢に話をする人だったから。
まあ、気にしたって仕方がないか。
悠太は中島さんの提案を喜んで引き受けた。
それからデミと悠太は、文字を使って話すようになった。
『半年前くらいから、よく見ていました。動画の雰囲気がとても好きです。それぞれの動画には、伝えたい事などあるのですか?』
『ありがとうございます。特に伝えたい事はありません。ただ、心が動いた瞬間を撮って、心地好いままに繋げています。
僕も少し前から鯨前線を聴いていました。デミさんの歌声、とても好きです。』
『そうなんですか。きっと感覚が優れているんですね。音楽に合わせて画面が切り替わるタイミングも、とてもセンスがあると思っていました。
僕達のMVでも、テンポを意識してもらえると嬉しいと思っています。ただ、あまり気負わず、自由にやってほしいです。曲を初めて聴いた時、受け取ったイメージをそのままに作ってほしいなって思っています。僕らには伝えたい事がありますが、そういうのを、考えずに作ってほしいなあって。
曲も聴いてくださってありがとうございます。声が好きと言われるのは、何よりも嬉しいです。』
彼は文字の上でも、やっぱり流暢だった。
楸都瑠の連絡先は知らない。だから、こんな風に文章を書くって、知らなかったんだ。
素直で、人懐っこい印象を受ける。
悠太は画面を見て、口角が上がっていた。
嬉しかったのだ。
きっとこれは楸都瑠の、悠太には見せない一面だから。それをこっそり知ることができる。自分の立場に……なんていうか、優越感というか、思い上がっていたというか。
『一曲分の動画を作る上で、もう少しデミさんのことが知りたいです。曲ができるまで、メッセージで良いので時々話しませんか?世間話でも大丈夫です。
そのやり取りから受け取ったイメージと、初めて曲を聴いた印象で、動画を作りたいと思います。』
……だから、近付きたくてズルをした。
『もちろんです!話しましょう。平日は学校があるので、金曜日の夜にメッセージでやり取りしませんか?』
なにも知らないデミは、楸都瑠は、無邪気にそう返してくれた。
金曜日の夜、22時頃にDMのランプが灯った。
悠太は自室にある、窮屈な勉強机の前に座っていた。
小学生の頃から部屋にある、木製の机。その上にはあまり物を置いていない。身体を丸め込み、頬杖をついて小さな画面を見る。
『uさん、先日はありがとうございました。
uさんは今週、どんな一週間を過ごされましたか?
僕の学校では文化祭の準備が始まっています。僕らのクラスは焼き鳥屋台をします。火を使い調理もするので、保健所や消防への届け出が必要で大変です。
でも、高校最後の文化祭だから、絶対成功させたいんです!
曲の方は順調で、明日明後日で完成に近付きます!楽しみにしていてくれると嬉しいです。』
デミは悠太のことを、uさんと呼んだ。
"@uuuu_xxxx_"というユーザー名しか付けていなかったからだ。
『デミさん、こんばんは。
文化祭の準備、大変そうですね。でも焼き鳥なんて、素敵ですね。僕も焼き鳥好きです。応援してます!
僕は普段の日常から特に変わったことはなく、普通に過ごしました笑
つまらなくて申し訳ないです。。
曲、すごく楽しみにしています。お姉さんのアンさんとも、いつかお話してみたいです。』
本当のところ悠太の一週間は、何度か楸都瑠と下校をする楽しい毎日が続いていた。
『焼き鳥いいですよね!食べにきてほしいくらいです!
uさんが穏やかな毎日を過ごせていたのなら幸いです(*^^*)
アンもuさんのこと気になってました!大学生でアルバイトもしていて忙しいので、タイミングを見てお話できたら良いですよね。』
『焼き鳥、今度自分で買って食べますね笑
デミさんこそ、学校生活が楽しいといいですね。ご友人は多いですか?部活とかは入っていますか?
アンさんとはぜひ、タイミングをみて!』
『学校生活、最近はすごく楽しいです。
友人は多くはないのですが、生徒会に所属しているので、そこのメンバーとはとても仲良くやっています。
少し前から、ちょっと変わった友人ができたんです。後輩なんですけど、自分とは違うタイプで、一緒にいてとても楽しくて、最近は学校に行くのが前より楽しみになりました。』
長文だがポコポコと続くやり取りに、悠太は初めて手を止め、目を見開いた。
これ、俺のことじゃん。
驚いて、小さな咳が出た。
木製の椅子をガタガタと言わせながら、一度小さく立ち上がり座り直した。本当に、意味もなく。
『そろそろ寝ないといけなくて。
やり取りが少なくて申し訳ないのですが、また来週お話する形でも良いでしょうか?返信が遅くても大丈夫でしたら、いつでもやり取りできるのですが……』
続けてデミからのメッセージがポコンと浮かぶ。
『学校生活、楽しそうで良かったです。
忙しい中で時間を作ってくれてありがとうございます。
また来週話しましょう。このくらいの時間で。
もし難しければ、いつでも断ってください。無理せず話したいです。』
『ありがとうございます!
なんだか、uさんとのお話は息がしやすい感じがします。楽しいです。
また来週を楽しみにしています!
おやすみなさい。』
デミは、最初から最後まで、素直な言葉をぶつけてくれた。
悠太はスマホを机に置くと、少しの罪悪感と高揚感を胸に、そっと溜め息をつく。
知らないフリは大変だ。
自分の素性を明かさないというのも、疲れる。
悠太は当たり障りない誰かを演じながらメッセージをすることに慣れていなかったから、随分と疲れていた。
ただ同時に、楸都瑠の本心を、悠太に向けた想いを覗き見れた事に、驚くほどの満足感を覚えていた。
俺も、学校行くの楽しみだもんな。
『最近は学校に行くのが前より楽しみになりました。』
その文章を見返して、悠太は下唇を噛んだ。
込み上げる想いを、抑えたくて。
三階の、空き教室。
そこには、大きなグランドピアノが置いてあった。
厚手のカーテンは外からの強い陽射しを遮断していて、隙間から零れる光の線だけが、教室の床に射し込む。
「一言だけか?一発、大事にしたらどうなんだ」
現役を引退したピアノは、うっすらと埃を被り、チャコールグレーに近しい色をしていた。
悠太が冷えた床に座る。制服の生地越しにじわりと冷気が伝わった。
「喜んで相手するよ、きっかけをくれるんならね」
ピアノ椅子に腰掛けた八尋が言った。
「くれるなんて言ってない、自分で作ったらどうなんだ」
悠太は少しよれた台本の文字を目で追いかけながら、活字を声に変換する。
「マキューシオ、貴様、ロミオと調子を合わせて……」
また八尋のセリフ、だけど途中で黙ってしまった。
「……おい、次の悠太のセリフ、俺の今のとこに被せんじゃないの?」
八尋は腰の位置にある悠太の頭を肘掛けにしながら言った。
「痛い!やーめーて!」
骨張った肘が悠太のツムジを強く押していた。
「こんな薄暗くて埃っぽい部屋、集中できない。眠い」
「エアコンなしの部屋よりマシだろ。それとも、他の奴らみたいに廊下でやる?」
悠太はブンブンと左右に首を振った。
「エアコンばんざーい」
背後の壁にコツンと後頭部を預け、悠太は上を向く。
規則的に並んだ天井の穴を、ぼんやりと眺めた。
「やぴろんさー、叶わない恋って、どうしたらいいと思う?」
「……前言ってた子?珍しく片想い続いてんね」
ピアノの上に置いていたパックのアイスココアをを手に取りながら、八尋は言った。それからチューっとストローを咥えココアを飲むと、「悠太が弱気なの珍しー」と、なんとも呑気に口にする。
「てか、ほんとに好きなのかな。ぼく友情と恋愛の違いがわかりません」
「いやでも、好きなもんは好きでしょ。友達とは違うんじゃね?」
「そうかな〜?なんかもう、好きって究極友情じゃね?って思ってきたんだけど」
楸都瑠と紙飛行機を飛ばした日を思い出していた。あの日の、夕焼け空を。
二人で、服が乾くまで横並びで座っていたあの時、通りかかる誰もが二人を友人だって思ったはずだ。
「じゃあさ、俺とおまえが付き合うの、考えられる?手繋いだり、そういうの」
八尋はココアと台本をピアノの上に置き、悠太に向かって掌を差し出した。
八尋の指は、細くて長くてごつくて、比較的綺麗なだけの、男の手だった。
悠太が言葉を失っていると、廊下から女子生徒の話し声が聞こえてきた。悠太と八尋のいる教室の前を、なにやら楽しそうな会話を交わしながら通り過ぎて行く。
悠太は、八尋の手に自分の手を重ね、指を交互に絡めた。
八尋の手、生ぬるい。
「手繋ぐくらいなら、余裕かも」
「あっそう」
八尋も、それから悠太も、表情一つ変えず、その手を離さなかった。
「……一発、大事にしたらどうだ」
また天井を見上げながら、セリフを口にした。
「喜んで相手するよ、きっかけをくれるんならね」
八尋はなかなか手を離さない。
「ねぇ八尋、男同士でキスできると思う?」
悠太は言った。
八尋は相変わらず、表情を変えない。
「俺は……友達とじゃ、無理かな」
八尋の声は、いつもと変わらないトーンだった。
「試していい?」
静かになった教室に、悠太の声だけがふわりと響いた。
悠太は立ち上がり、キョトンとした表情でピアノ椅子に座る八尋の目の前に立つ。
「本気?」
八尋は笑った。冗談だと思っているらしい。
その緩む唇を見つめ、両頬を手で包んだ。
前髪だけブリーチをかけた金髪と後ろ髪の黒が、指先で混ざりあっている。
あー、やぴろんイケメンだから、そんな嫌じゃないかも。
悠太はそのまま動けなかった。
そして八尋も、動かなかった。
逃げりゃいいのに、眉一つ動かさないなんて、この子は何を考えてるのか本当にわかんない。
妙な空気が、教室に充満していた。
「あーうける。やっぱ無いね、友達と好きな子は別だわ!」
そう言って大袈裟に離れて見せる。
光の線の上を跨いで、教室の隅まで。
そして俯いて思う。
これがいちるんだったら、多分俺は……。
「悠太って謎だよなあ」
八尋が、首の後ろを掻きながら呟いた。
「いやこっちのセリフだよ。ちょっとは嫌がれっての!俺の方が焦ったわ」
「だって悠太、酔っ払ったって浮気はしない奴だし」
「学校でそーゆー話すんなって!」
悠太が怒鳴ると、「二人きりだしいいじゃん」と、八尋はまた呑気に言ってココアを飲んだ。
その時、教室の扉がガタリと音を立てる。
それから、「失礼しまーす!」という女子生徒の元気な声と共に、扉はガラガラとスライドし開いていった。
「あれ、アコチじゃん!」
「やっほー篠山!喜べ!会長も一緒だよ〜!」
元気にピースサインを向けるアコチの後ろから、楸都瑠、それから、緒川さんが顔を出した。
「演劇練習の見回りで来たけど、ここは問題児コンビだけなんだね〜!」
アコチがきょろきょろと周りを見渡し、あっけらかんと言う。
「問題児〜?大真面目にセリフ読んでたんですけど〜?」
悠太はアコチのテンションに釣られ、冗談交じりに言った。
黙っていた楸都瑠が、教室に足を踏み入れる。
こちらに向かってきたのかと思えばそうではなく、そのまま悠太の横を通り過ぎると、八尋のすぐ横で立ち止まった。
「野沢八尋、その髪……文化祭までには、何とかして来い」
「……」
強い口調に圧倒され、その場の誰もが口を噤んだ。
「前任の会長から聞いてるよ。去年の喧嘩のこと。君一人の印象で学校のイメージを下げるから、舞台に立つつもりなら、その目立つ頭をまずどうにかするのが先だろう……少しは考えろ」
「ちょい待ってちょい待って、そりゃー八尋の意味わからん髪色は目立つけどさ、そんな言い方なくね?」
座ったままの八尋と、その目の前に立つ楸都瑠。
その間に入り込み、八尋を庇うように両手を広げ言うと、楸都瑠は顔を歪めた。
つーか、俺の頭もだいぶ明るい色してるし、あんたの彼女の髪色も絶対一回ブリーチかけてんだろ。横見てみなよ。
本当はそこまで言ってやりたがったが、悠太は言い合いがしたい訳ではない。そっと言葉を飲み込む。
「八尋べつに最近は喧嘩も何もしてないよ。大人しいんだよ」
「最近は大人しいって、そんなの誰がわかるって言うんだ?誤解されたくないなら、注意を受けたくないのなら、最低限の身なりを整えろ」
悠太は言葉を選んで庇ったつもりだったのだが……楸都瑠はヒートアップしたように、語気を強めてそう言った。
悠太は、一瞬、何も言えなかった。
目の前で怒るこの人は、誰なのだろうか?
いちるんでも、デミでもない、生徒会長の楸都瑠?
「……怖いよ、いちるん」
悠太はポロリと言葉を零した。
ちょうどその時、太陽が雲に隠れたのか、外から射し込む光の線が消えて、教室は薄暗いグレーの靄に包まれる。
教室はシンと静まり返り、アコチも、緒川さんも、八尋も、何も言わなかった。
「……あこちゃん、緒川、見回り続けよう」
少し冷静になったのか、声のトーンを落とした楸都瑠は、悠太を見ずに言う。
そして、たったそれだけの言葉を残して、教室を後にした。
アコチも緒川さんもすぐには着いて行かず、二人して顔を見合せた。それから、困ったように悠太の方を見る。
「いや……ちょっと待ってって」
心が追いつかないまま、体が勝手に動き出す。
気がついたら、悠太は教室を飛び出し、その背中を追っていた。
ふんわりと光の差す階段。その踊り場で、悠太は楸都瑠の背中に追いついた。
悠太は彼を呼び止めながら、踊り場まで足を進める。
「いちるん、どうしちゃったの」
楸都瑠は、躊躇いがちに階段の途中で立ち止まるが、こちらを振り向かない。
「君の友人が、非常識だからだろ」
か細い声で言ったその声が、静かな校舎の中に消えていく。
悠太は眉根をぐっと寄せて、無意識に、楸都瑠を睨んでいた。怒っているつもりはなかった。ただ、言葉も視線も、どうしてか鋭くなってしまう。
「俺の友達のこと悪くいうのやめて、こうゆう時だけ正論ぶんなよ!人選んで言ってんじゃん」
「……選んでなんか、」
「無自覚なんだね。自分のことも他人のことも、なんでもわかってますって顔して、無自覚なんだ。八尋責めるなら俺にも同じこと言えよ」
そこまで、捲し立てるように言った。
少しだけ息が荒くなって、ああ、なんでこんな怒鳴っちゃったんだろって、自分の声が反響していて、後悔して。
でも、楸都瑠の顔が見えないから。
どんな顔してるんだろって思いながら、見えないことに安心していた。
「八尋のこと、もう悪く言わないで」
何も言わない楸都瑠の背中に、言葉を落としていくことしか出来なかった。
「……聞いてて、辛いよ」
悠太はそう言って、踊り場から一歩二歩と踏み出して、階段を数歩下った。
そう、辛いのだ。
楸都瑠の知らない姿が、妙に怖くて、辛かった。
「ねえいちるん、ごめんなさいって言って。そしたら俺、いいよって言えるから」
謝ってほしかったのは、悠太に向けてでも、八尋に向けてでもない。それじゃあ何に対してって聞かれたらよくわからないけれど。
たぶん今、一番悲しい顔をしている、いちるん自身に。
ごめんなさいって言葉で、優しくしてあげてほしかった。
だけど楸都瑠は、逃げるように階段を下った。
悠太はそれを追いかけて、彼の細い腕を掴む。
「ねぇ、そしたらまた一緒に帰ろうよ」
悠太は必死になって言葉を投げかけた。
だけど、楸都瑠はやっぱり何も言わずに、弱々しく腕を振りほどいた。それから足を重たそうに動かして、階段を、ただ降りていく。
「……あーあ」
悠太はぼそりと呟いて、その場にしゃがみ込んだ。
「俺、このまま怒ってなきゃいけないじゃんか」
息を潜め、呆然と座り込んでいると、すぐ傍から、階段を上る足音が聞こえた。
いちるんが、戻ってきたのかと思ったけど、違う。
下の階から、小柄な男子生徒の姿が覗く。
「……新島ちゃん?うわぁ、まじか、聞こえてた?」
かなりの大声で話していたことを思い返し、悠太は頭を抱えた。新島ちゃんは多分、様子を見て出てきてくれた様子だったから。
「いや、内容までは……でも、揉めてるなって印象。ごめん、なんか、盗み聞きしちゃって」
「いや、全然!」
無理して笑ってから、少し黙った。
「……会長が、八尋を責めるんだよ」
悠太がぽつりと零す。
新島ちゃんは少しだけ驚いた表情をうかべた後、遠慮がちに腰を下ろし、悠太の横で膝を抱えた。
「髪色と、去年の喧嘩の事で急にすげー怒ってて。でも、髪染めてる奴なんて、俺含め何人もいるだろ?なのに八尋だけ言われるの許せなくて、これって俺が八尋を贔屓してるからかな?新島ちゃんは、八尋が悪い奴って思う?」
「聞く相手、間違ってない?」
新島ちゃんは笑った。
そりゃそうだよね、新島ちゃんは八尋が大好きだから。二人は、親友だから。
悠太は無意識に、八尋を庇ってほしくて聞いたのかもしれない。
「俺は、あの前髪の金髪嫌いだよ。一年の時あんた達が荒れてたのも事実だし、生徒会長はなんにも間違ってないとは、思う」
だけど新島ちゃんの答えは、予想と少し違っていた。
悠太は少しバツが悪そうに、自分の汚れた上履きを見ていた。
「まぁでも、伝え方ってあるよね。篠山と八尋が仲良いのはわかってるだろうし」
新島ちゃんはそう言うと、柔らかく微笑んだ。
「大人だよなぁ、新島ちゃんって」
そう言うと、新島ちゃんは軽く笑った。
「全然。子供だよ、篠山みたいにまっすぐ向き合うの、苦手だし」
立ち上がって小さく伸びをしたその後ろ姿を、悠太はなんとなく見ていた。
ワイシャツの白さが、夏の光で少し眩しく見える。
「……八尋が金髪になった理由、知ってる?」
背中に問いかけると、彼は静かに首を横に振った。
「知らない」
「そっかぁ、俺と新島ちゃんが知らないなら、誰も知らないね」

