篠山悠太(ささやま ゆうた)

透明な声に名前を呼ばれ、振り返った。

夏休みが始まってから一週間が過ぎた頃。
これは、あの糸電話の一件の後、悠太が生徒会室に通うことを辞めた後の話である。

猛暑日の午後。
姉に頼まれ、CDショップでK-POPアイドルの特典付きアルバムを買ったばかりの悠太は、ここにいるはずのない人物の姿を見つけ、目を丸くした。

「いちるん、なにしてんの」

楸都瑠(ひさぎ いちる)は、意外にもオーバーサイズのTシャツを着ていた。

「本を買いにきたら、篠山悠太をみつけた」

「まじかー、運命だね」

悠太は、楸都瑠のTシャツに描かれたモノクロのグラフィックを見ながら言った。

ここは地元でいちばん大きなショッピングモールの中だ。こんな偶然も有り得なくはないが、できれば起こってほしくなかった。

それをなるべく悟られないように、悠太はいつもの笑顔を浮かべ続けた。

でもやっぱり、心がぶれてしまいそうになるから。楸都瑠を視界に入れたくない。

そう思いながら、店内で一番目立つテーブルに置かれた、知らないアーティストの最新アルバムを何気なく手に取り、興味があるふりをした。

「篠山悠太、君はなにを買ったんだ」

楸都瑠は、悠太の持つ黄色のビニールショッパーを指さした。

「姉ちゃんのおつかいで、韓国の男の子たちのアルバム」

「そうか」

「うん」

短い言葉の後、沈黙。

「それじゃあ、会えてよかった!またね!」

悠太は耐えきれず、その場を立ち去ろうと足を動かした。

ちょうどその時。

「なぜ来なくなった」

焦って引き止めるかのように、楸都瑠は珍しく声を張り上げて言った。
後ろで流れる知らない曲でかき消されてしまえばよかったのに。彼の声はよく通るのだ。

だから仕方がない。悠太も立ち止まる他なくて、逃げてしまいたい気持ちを抑え込んだ。

「え〜、なんとなく?」

「先週、生徒会室の前まで来ただろ。それなのに立ち去った」

「あん時は通り掛かっただーけ」

「急に通いつめて、急に辞めるんだな」

楸都瑠のどこか寂しそうな表情に、悠太は珍しく息が詰まった。

何か言うべきだと、わかっていた。わかってはいた。それなのに、上手く言葉が見つけられなかった。

だって、楸都瑠の言う通りだったから。
悠太はどんな言い訳も、楸都瑠の前では意味をなさないと思った。

悠太が作り笑いのまま小さく唸っていると、楸都瑠は小さく息をついた。

「引き止めて悪かった。暑い日が続くから体調に気をつけて」

動けない悠太を置いて、今度は都瑠の方がそこから立ち去ろうとしている。その背中を見た瞬間、このまま終わりは嫌だなって、わがままにも思ってしまっていて。

「いちるん待って、一緒にレモネード飲も」

気が付けばそう言って、彼の腕を掴んでいた。


「なぜレモネード?」

「暑いから」

店内は思いのほか空いていた。
レモンのグラフィックが立ち並ぶ壁紙を背に、二人は並んで座る。

「レモネード、好きなのか?」

「あーー、まあ、普通?」

氷をガラガラとかき混ぜたあと、勢いよくストローを吸いレモネードを飲み込む。

思っていたよりも苦いその味に、悠太は顔をしかめた。

「そう……で、なんで引き止めたんだ」

「いちるんってば、なんでなんでって子供みたいだね」

悠太はしかめた顔のまま言った。

「君が不可解な行動ばかりするからだろ」

「えー?どの辺が不可解なん」

「生徒会室に通うのも、急に辞めて避けるのも、今こうして引き止めるのも、何もかも不可解だったよ」

楸都瑠はそう言いながら、口の端をかすかに上げ、呆れたように笑っていた。

「あーやだやだ、いちるんは気まぐれっていう言葉を知らないんだね」

「君のそれは、あまりに一貫性がないよ」

「それを気まぐれって言うんだろ」

さらに彼は口元に手を当てて、上品に笑った。

「なにがおもしろいの」

「篠山悠太の拗ねた顔」

悠太は小さく舌打ちをしてから黙り込んだ。
それをおもしろそうに眺める楸都瑠は、レモネードを随分と美味しそうに飲む。

それから、二人は沈黙を楽しんだ。

店の前を忙しく通り過ぎる人々を眺めたり、店内に流れる曲をなんとなく聴いたり。

悠太は楸都瑠が気になって、時々盗み見るように彼の目を見た。

「なにか気になる?」

不思議そうに言う楸都瑠は、ほとんど中身の残っていないコップを目の前の小さな丸テーブルに置いて、悠太の顔を覗き込んだ。

「あ、いや……この曲、さっきの店でも流れてたなあって」

悠太は何か言わねばと思い、そう言った。

CDショップの大きなテーブルで流れていた、透き通った曲。男女のデュオアーティストのようで、男性にしては高い声と、女性にしては落ち着いた声のバランスが心地よい。

「……人気だよね」

「あ、そんな流行ってんだ」

悠太はストローをくるくる回しながら、何気なく聞き返す。楸都瑠が知っていることが少し意外だと思った。

「こういう曲、好き?」

そう尋ねられ、音楽に疎い悠太はうーんと首を傾けた。

「声は好き。二人とも声が綺麗。曲の善し悪しはわかんない、俺好きな曲とかあんまないんだよね〜」

「そう、意外だな。君は普段なにをしてるんだ?」

なにを、と言われましても。

悠太の趣味といえば動画を作ることだ。それ以外は暇をつぶすように生きている。

「え〜?バスケしたり、グラウンドが空いてればサッカーしたり……?」

「夏休みも?」

「うーん、散歩とか、友達と遊び行ったりが多いよ。あんま家にはいないね」

話題に上がった曲が終わり、今度は悠太もよく知る国民的アイドルの曲が流れ始めた。

「いちるんは、普段なにしてんの」

「勉強と、生徒会の仕事かな。夏休み明けの文化祭に向けて少しずつ動かないといけないから」

「ほえ〜、全然休みじゃないね」

悠太は氷の溶けたレモネードを飲む。なんでか少し、甘く感じた。

「だから今日は、篠山悠太に会えて良かったよ」

楸都瑠が笑いかけるから、悠太は動揺を悟られないように「だな」と微笑む。

こういうことを彼女にも言っているんだろうな。
その考えが、一瞬頭をよぎってしまったから。

調子が狂う。らしくない。
それが少しだけ、悠太を苦しめた。


レモネードを飲み干して、今度こそ「またね」と言ってその場を立ち去ろうとしたわけだけど、楸都瑠に「家の方向は同じだろ」なんて言われてしまうと、悠太は「そーだった!」と言う他なくて。

「帰るだけなら一緒に行こう」と言われてしまえば、それに従うしかなかった。

嫌ではないのに、複雑だ。
自分が楸都瑠に惹かれているという事実と、それが叶うはずないという現実。二つが一緒になって悠太を襲うから、向き合いたくないというのに。

もう、どうだっていいのに。

楸都瑠は悠太のことを鬱陶しく思っていないらしい。
どうしてか、傍に居ることを許されている気さえする。

なんとなくそれがわかってしまって、ただただ複雑だった。

他愛もない会話をして、蒸し暑い空気の中歩みを進めて、別れ道で立ち止まった。

「また気が向いたら、生徒会室に来たらいいよ」

楸都瑠は微笑んだ。
眼鏡の向こう側の大きな目を細めて。

暑さのせいか、それが映画のワンシーンのような、どこか遠い世界の光景に見える。

一瞬、連絡先を聞こうか迷った。

でも、できなかった。
無自覚な振りをして近づこうとは思えなかった。

会わなければ気持ちは薄れる。
夏休みはちょうど良い機会だ。

「じゃーまたね!」

悠太は大きく手を振り、その場を立ち去ろうとした。

「待って、ちょっと待ってくれ」

次に引き止めたのは、楸都瑠の方だった。

「良かったら、この本……読んでみてくれないか」

「本?」

楸都瑠は白く細い腕をキビキビと動かして、鞄から一冊の文庫本を取り出した。買ったばかりの新品などではなく、表紙が少し汚れた、読み古された本だった。

「毎週月曜日には生徒会室にいるから、読み終わったら返しに来てほしい」

それはもう決定事項のように告げられて、悠太は流されるままに受け取ってしまった。

「え、いや、本とかあんま読まないんだけど」

勘弁してくれ、そう言おうとしたが、楸都瑠の表情にいつもの余裕が無いように見えて、悠太は言葉を変える。

「わかった……読むだけ読んでみる」

楸都瑠は目を見開き、パッと明るい表情へと変えた。
なにがしたいんだ、この人は。
悠太はそう思いながら、「暑いから帰ろ」と告げる。

楸都瑠は今度こそ、胸元まで手を挙げて小さく手首を捻った。どうにも不器用な動きだった。

別の道へと歩みを進める中で、悠太は考えていた。
鞄の中から本を取り出すとき、楸都瑠の指先がほんの一瞬震えていた理由を。

次第にそれが考えても答えの出ないことだと気が付くと、頭の隅に追いやって、自宅の玄関の扉へと手を掛けた。



『車輪の下』

というタイトルの本を、篠山悠太はとても読む気にはなれなかった。

パラパラと捲ってみたりはした、もちろん気にはなったから。けれど文章の堅苦しさにうんざりして、結局閉じてしまうだけだった。

それから一週間以上はその本の存在を忘れて夏を楽しんだ。

三人の姉に構われるのが嫌でほとんど家の外で過ごしていたが、広く浅い交友関係のおかげで暇をすることはなかった。

三十八度という、体温よりも高い数字を示す天気予報を見たその日は、どうにも外出する気になれず、意味もなくSNSを眺めていた。

数十秒で構成される動画が、代わる代わる流れていく中で、いつかどこかで聴いた曲のミュージックビデオが表示された。

あれ、これどこで聞いたんだっけ。
悠太は少し考えて、ふっと思い出す。
そうだ、偶然いちるんと会った日にお店で流れていたやつだ。

『鯨前線』というアーティスト名を確認した後、そのアカウントの中へと飛び込む。

顔は出さずに活動している男女二人組ユニット。
その過去の曲の切り抜きが並んでおり、悠太はひとつずつスクロールして再生した。

「……すげ、きれーな声」

自分の、掠れたような間の抜けた声が、スマホから流れる綺麗な曲とエアコンの音に紛れて消えていく。

人は、というか悠太は、何かに影響された時、自分の中に入り込んでしまう癖がある。SNSを無意味に見るのをやめて、悠太は自分の中で映像が浮かんでくる感覚を味わった。次の作品に影響する時間だ。

スマホを置いて、身体はだらけたままで思考を巡らせていたその時、

画面がふっと明るくなった。通知だ。



kzs_official

突然のご連絡失礼いたします。



悠太の動画を投稿しているアカウント宛へのダイレクトメッセージだった。

「は?」

その相手は、たった数分前まで見ていた『鯨前線』の公式アカウントだった。

悠太はただ混乱しながらその続きを読む。

『突然のご連絡失礼いたします。鯨前線のマネージャーの中島と申します。現在制作中の新曲に、是非あなたの映像をお借りしたいと考えています。可能でしたら、お話だけでも伺えませんでしょうか?』

そんな文章と共に、鯨前線の活動内容、二人の内一人が悠太の動画のファンであることが書かれていた。

あまりに出来すぎたタイミングにも驚いたけれど。それ以上に、自分の動画がこんな大きな世界に認められていることに、嬉しさと戸惑いが襲う。

あまりにも、現実離れした話に感じる。

『デミ』と『アン』という男女二人組のうち、『デミ』という男性側が悠太のファンだという。
悠太は急いで彼等のアカウントを開き、その男の声を再生した。透き通って伸びていく、綺麗な楽器のような声が部屋に響く。

悠太は戸惑いを通り越して、心がふわふわと浮くような、ワクワクした感覚を味わった。

「どうしよ」

誰かのために動画を作ったことはない。趣味の範疇を超えたいと思ったこともない。依頼ということは誰かの理想を形にしなくてはいけないのだ。そんなこと、できるのだろうか。

悠太は迷って、迷って、迷った末に、『数日、考えさせてください』と返信をした。


その間、悠太はいつも通りに動画を作るのではなく、自分の中でテーマや意味を設定した上での動画制作を試みる。

あー、難しい。

感覚派の悠太だ。
伝えたいこと、表現したいこと、そんなことを考え始めると、作る楽しさは半減してしまう。

悠太は編集中のデータを保存せず、乱暴に閉じる。

依頼は断るべきだと思った。
CDは店に並び、曲はあらゆる場所で流れている。話題性抜群のアーティストのミュージックビデオなんて、荷が重すぎるのだ。

諦めて、空虚な自室の壁を見つめた。

それから急に人生が退屈に思えて、ため息をついた。

そして、どうしてか、楸都瑠の顔が浮かんだ。
あの透明感のある肌と、大きな瞳を、また見たいと思い、本の存在を思い出す。

読めば、会う口実になるんだよなぁ。


悠太は、ジリジリと照り付ける陽射しの中、徒歩十五分程の距離にある学校へと向かった。急いでいないので、いつもの自転車は使わない。

制服を着るのは面倒だったので、ジャージのズボンとワイシャツ姿で、図書室へと向かっていた。

悠太は典型的な形から入るタイプなのだ。
あの静かな空間なら、苦手な読書もできるかもしれない。

「あれ、悠太だ」

校内で声を掛けられ振り返ると、八尋の姿があった。

「え、やぴろん、なんで夏休みに学校にいんの」

制服をしっかりと着ている八尋の姿に、悠太は問いかけた。

「それ俺のセリフね」と、八尋は少し呆れた様子で答える。

「部活もないおまえが、なにしてんの?」

八尋は心底不思議そうに聞いてくる。

「いやさあ、図書室で本読もうと思って」

悠太の言葉に、八尋は何度か瞬きをしてから「ふはっ」と吹き出して笑った。どうやら冗談だと思ったらしい。

「本気だから、馬鹿にしてんな」

「あーそう、まあなんでもいいけど。俺も図書室行くから一緒行こ」

「は、八尋こそ図書室なんて行き方も知らないだろ!?」

「ばーか」

八尋は悠太の言葉に大した反応を見せず、図書室までの歩みを進めた。

「担任が図書室使う課題出すから仕方なく通ってんの」

そう言う八尋は、言葉の割には嫌そうな顔をせず、堂々と図書室の扉を開ける。

「あ、八尋……と、篠山悠太」

図書室の窓際の席に座る人物が悠太と八尋を見て言った。

「なるほど、新島ちゃんと一緒ね!」

八尋の大の仲良し、新島ちとせという男を前に悠太は納得の声を上げた。
この二人は中学からの親友だそうで、性格は全然違うのにいつもくっついている。

「なんで篠山がいんの?」

新島ちゃんにそう聞かれ、悠太は「読書をしに参りました!」と笑ってみせた。

「……そう」

愛想の悪いその言葉にもニコニコと笑顔を向け続ける。

それから、当たり前のように新島ちゃんの隣に座る八尋の姿を横目に、悠太は少し離れた席へと着く。

二人の存在は忘れて、本来の目的を果たさなくてはならない。この退屈な本を少しでも読まなければ、楸都瑠の元へ返しに行けないのだから。


難解な文章を、九ページほど読み進めた頃。

「ていうかさ、悠太なに読んでんの」

勉強に飽きた八尋が、離れた席からこちらを向いて尋ねてきた。

「なんだっけ、『車輪の下』?っていう小説」

悠太は表紙の文字を確認しながら答えた。

「ヘルマン・ヘッセ?」

そう聞いたのは八尋ではなく、新島ちゃん。

「え、なになに?」

なんのことを言われたのかわからない悠太は新島ちゃんに聞き返す。

「著者の名前……ヘルマン・ヘッセだろ。篠山がそういうの読むの、意外」

「これ、有名なの?」

「ヘッセ自体は有名だと思う。国語の教科書にも載ってたし。ほらあの、少年が蛾を潰しちゃう話。あと有名なのは……『デミアン』って話もよく聞くよ。読んだことはないけど」

「こいつが国語の教科書まともに読んでるわけないだろ」

丁寧に語る新島ちゃんに被せるように、八尋が悠太をちゃかした。

ただ、悠太はそれどころではない。

「まってまって、『デミアン』っていう小説があるの?」

悠太は図書室では推奨されていない声量で尋ねた。

「ん?うん、この図書室にもあると思うけど」

悠太は『車輪の下』を閉じて机に置いて、『デミアン』を探すことにした。

埃をかぶったその本は、ドイツ文学のコーナーで見つけた。
こんなの、いったい誰が好んで読むんだよ。
悠太は普段触れてこなかった世界に圧倒されながら、パラパラと活字を眺めた。

鯨前線のデミとアンの名前はきっとここから来ている。彼等もこのヘルマン・ヘッセという人物が好きなのだろうか。

難解な2冊を最後まで読めるかはわからないが、気が付けば貸出の手続きを終えていた。

「八尋はさ、鯨前線って知ってる?」

窓際に座る親友に声をかける。

「あー、あの流行りの」

「デミとアンなんだよ、あの二人組」

「デミとアン?」

八尋はピンときていないらしい、はてなマークを浮かべている。

「なるほど、そういう名前のつながりね。それで篠山は食いついたんだ。確かに偶然じゃなさそう」

八尋より五千倍は鋭い新島ちゃんが言った。

そうなんだよ。

悠太の作品を気に入ったデミも、楸都瑠も、このヘルマン・ヘッセという作家に繋がる。

その偶然には、なんの意味があるのだろう?

「しゃーないなぁ、真剣に読むか」

昨日までよりも興味が湧いた。

ヘッセの小説も、鯨前線も。
それらは不思議と、楸都瑠をよく知る手掛かりのように思えて。

悠太は鯨前線の楽曲を思い出し、脳内で再生した。
遠い夏の、知らない青春を思い出させるような曲を。

透き通った声の持ち主デミがどんな人物なのかはわからない、ただどうしてか、楸都瑠によく似た人なんじゃないかって、そう思ったんだ。


鯨前線のミュージックビデオのことを、引き受けます。と返事をしたのは、図書室から帰る道でのことだった。夕方だっていうのに、鳴き喚く蝉の声が随分と元気で、普段ならきっと苛立つのに、それすら気にならないくらい。悠太は口の端に笑顔を浮かべていた。

「へぇ、それじゃあ中島さんはデミとアンの叔父さんにあたる人なんですね」

その日の夜、マネージャーの中島さんと電話で話すことになった。

「僕の兄さんの子がアンで、姉さんの子がデミだから、二人はいとこの関係なんだ。表面では、姉弟ユニットってことにしてるから、内緒ね」

「いいんですか〜?初対面の奴にこんな秘密を明かしちゃって」

中島さんは「口硬いでしょ?」と笑った。

そのくらいには、打ち解けたのだ。

「それにしても、引き受けてくれてよかった。デミがね、多分返信すらくれないと思うけど頼んでほしいって言うもんだから」

「あんなに丁寧なご依頼がきたら、返信くらいしますよ」

「やっぱりそうだよね、デミが活動名義じゃないアカウントでDMした時は返信がなかったって言ってて……ほら、沢山のメッセージがくるだろうから、全員には返せないんじゃないって言ったんだけど」

「デミが、DMを……?」

残念ながら、普段DMはほとんど来ていない。
来たとしても英語のメッセージばかりのため、母国語のDMが来ていればすぐに気が付くはずだし、覚えているはず。

日本語のメッセージで返信をしなかったのは、楸都瑠からのメッセージだけなのに。
どういうこと、だ。見逃している?いや、そんなはずはない……っていうことは、デミは。

まさか、ありえないか。

『どうしたら同じ景色が見えますか?』

あの日の、返せなかったDMを思い出す。
楸都瑠がデミだとしたら、辻褄は合うのか?

「あのあの、俺の作品を気に入ってくれるなんて、デミは、どんな人なんですか?」

「デミ?デミは破天荒な子だね。型にハマらない子で、自分の好きを追求する子。でも真面目で良い子だよ」

破天荒で、型破り……自分の好きを追求する。
デミの人物像は、生徒会長をピシッと務める楸都瑠とあまり似ていない。

重なるようで重ならない二人。
まあそうか、そもそも楸都瑠が、こんなに人気なアーティストなわけがないか。

なにをそんな都合の良いことを考えてしまったんだろう。

「……そういえば、デミとアンの名前の由来は、ヘッセからですか?」

「そう、よく知ってるね!デミが好きなんだよ、ヘッセの作品」

「考えさせられる話が多いですよね」

そう振ると、中島さんは曖昧に同意した。

「恥ずかしながら読書は苦手で。色々貸してもらったけど、僕が唯一読めたのは詩集を二ページくらいだけだった」

「あはは、俺も本当は読み終えてないんです」

「それじゃ、デミと会ったら大変だよ。デミはちゃんと読めってうるさくて、強制的に読み聞かせが始まったこともあったから」

デミと会ったら、
そんなことが起きたら、全ての答え合わせになるのに。

「なかなか会う機会はないですよね?顔も出さず、ライブもしてないって聞きました」

「そうだね。デミはまだ学生だから、進路に影響してほしくないんだ」

その日の収穫はそれくらい。
作品の話はまた改めてゆっくりと進めていこうと約束をし、電話は静かに切れた。


「いちるん、いますかー?」

中島さんと話をした日から、一週間。

夏休みの、人の少ない校舎を歩き生徒会室の扉を開けると、テツくんが大きな身体を忙しそうに動かしているのが目に飛び込んだ。

生徒会室の片付けをしているようだ。

「会長は、文化祭の話をしてると思うけど」

テツくんはそう言った後に、「随分久しぶりだな」と笑った。

そうそう、いちるんのこと避けてたからね。
そんなこと言えず、悠太もヘラヘラと笑顔を見せる。

「いちるんどこにいるかわかる?」

「教室。でも今行ったらすげー怒られると思う」

「なんそれ」

「まあ、篠山はそれでも行くんだろうけど」

わかってるなら、律儀に居場所を教えなきゃいいのに。
そんな失礼な言葉も飲み込んで、「大正解!」と笑いかける。

「俺は止めたってことにしといてな」

テツくんは諦めモードで言ってから、すぐに片付けを再開した。

五組の方から、数字が小さくなる方へと向かって歩く。一つ一つ、教室の中を覗きながら。

全然いないじゃん、と思う頃。
そう、最後の教室。三年一組。大きく開かれたままの扉の前に立った時、「あ」という声が漏れた。

見てしまった予想外の光景に、時間が止まる。

「篠山悠太……?」

窓際の席の、楸都瑠が言った。
彼の目の前には、知らない女子生徒。二人は机を挟んで、向き合う形で座っていた。

今、絶対手繋いで話してた。

机に広がるプリントの上で、手を握って話していたのを、確かに見た。
見たかったわけじゃない、それでも目に焼き付いて離れなくて、二人の手の重なった部分が、絡め合う指が、なんだかくっきりと脳に張り付いていた。

「ごめんいちるん。借りてた本のこと話したくて。探し回っちゃった」

悠太は笑った。何度も何度も、笑顔笑顔って頭ん中に命令して。なるべく見ないように、手とか、あの子の顔とか、見ないようにって。

いちるんの顔だけ見て、思ったより楽しそうな顔じゃないなって、そういうとこだけ見て、安心して。

口の中が乾く感覚を、必死に気が付かないフリして。

「私、もう行くね」

女子生徒が、綺麗でツヤツヤの長い髪を揺らしながら、教室から出て行く。

背も、女の子にしたら高い方で、姿勢がいい。髪を耳にかけていて、ピアスがチカチカと光を反射して、眩しい。そして悠太に似た栗色の、くるんと巻かれた毛先に、短いスカートをひらひらと動かして、歩いて行く。

見ないようにって思うのに、悠太だって動物だ。動くものとか、派手なものを追ってしまう。彼女の派手な爪の色が目に焼き付いてしまうのだ。

アコチが言ってたっけ。

『会長が彼女さんのこと隠したがってるの』って。

確かに、生徒会長と手を繋ぐには、派手すぎる。

「本がどうした?」

楸都瑠は冷静なまま言った。

「これ、読もうとしたんだけど、漢字が難しくて」

他人の教室っていうのは、なんとなく入りづらくなる魔法がかかっている気がする。悠太は普段、そんな事もお構いなしな性格のはずだが、今回ばかりは、自分達の教室とまるで違いすぎる空間に気圧され、その場に立ちつくしていた。

そんな悠太に、楸都瑠は優しく手招きする。

広がったプリントをひとまとめにする彼の目の前、さっきまで女子生徒がいた席に、悠太はおずおずと腰掛けた。

「どこまで読んだ?」

「……十ページくらい」

「音を上げるのが早すぎる」

楸都瑠は、なにもなかったみたいに笑って、悠太が持っていた文庫本を手に取った。

「読み聞かせてあげようか」

楸都瑠がページをパラパラと捲った。
エアコンの付いていない教室、風がカーテンを揺らす。

その冗談めかしい口ぶりが、昨日のデミの話を思い出させる。

そうだ、そうだった。
いちるんがデミなのかもって、確かめに来たはずなのに。

思わぬ光景に面食らい、本来の目的を忘れるところだった。

「先週、君が図書室に向かうところを見たよ」

「あー、俺の奇跡の一日の話ね」

あれ以来、図書室には行っていない。

「その時もこの本を持っていただろ。読もうとしてくれていて嬉しかった」

楸都瑠が綺麗に笑うから、悠太はなにも言えなかった。

それにしても、と楸都瑠の方が口を開く。
今日は彼の方が饒舌だ。

「君の友達、あの前髪の色はどうにかならないのか」

「八尋のこと?」

前髪が金髪の友人を思い出す。
あいつは髪色以上に周りを惹き付ける雰囲気があるから、妙に目立つんだ。

「仲が良いよね、よく一緒にいるところを見かける」

「親友だから」

悠太はいつもみたいな取り繕った笑顔で話すことをやめて、静かに答えていた。

「生徒会長として、あの髪色になった理由が知りたい」

楸都瑠は反対に笑った。なんでか楽しそうだった。

「え、知らないや」

「聞かなかったのか?」

「うん、八尋は恵まれてるからさ、人に言える悩みだったら金髪になんかしないんだよ」

生ぬるい風が、びゅーっと通り抜けて、悠太の長い前髪を揺らした。

はっとする。

「なーんて」と笑った。

真面目に話しすぎてしまった。

楸都瑠は黙っていた。

「あはは、俺ってば鋭い?」

慌ててヘラヘラと笑ってみせると、楸都瑠は反対に真面目な顔で眉を下げた。

「うん、鋭い。鋭いのにそれを必死に隠してる。僕の眼鏡と一緒だな」

「ねぇ、いちるんって、眼鏡に度が入ってないこと以外に秘密はある?」

「うーん、たいしたものは、思いつかない」

視線を机の辺りに落としたまま、楸都瑠は言った。なんでもない、当たり前のことを話すように。

「さっきの子、彼女でしょ」

尋ねる。
楸都瑠は困ったように笑い、首を傾げた。

そんなわけないと否定しないことが、最大の肯定だと思った。
胸の奥の奥の方に、慣れた痛みが浮かんでいた。

だけどもう、避けたって仕方がない。
知りたい気持ちには逆らえないから。

「いちるんってさー、お姉ちゃんとかいる?俺の家は三人いるんだけど」

「そりゃすごいな。僕は一人っ子だけど、いとこのお姉ちゃんと仲が良いから、姉の大変さは少しわかるよ」

「やっぱさー、まだまだあるでしょ、秘密」

「ないよ、そんな器用じゃないから」

悠太は気が付いていた。

"デミが活動名義じゃないアカウントでDMした時"って中島さんは話していたけど、やっぱり、あのDMをくれたのはいちるんだから。いちるんだけだから。

それが何かの間違いだとしても、いとこのお姉さんがいて、ヘルマン・ヘッセが好きで、学生で、悠太の作品のファンで。

そんな人、二人もいないだろう。

「もう、帰ろうか。今日はこれ以上の仕事もないから」

そして、どうして気が付かなかったんだろう。

楸都瑠の声は、透き通ったビー玉がカラカラと音を立てるよりも、綺麗でよく通るのだ。

悠太は、楸都瑠の声もデミの声も好きだった。

「うん、帰ろ」

やっぱりそうだ、そうだと思ったんだよ。全部全部、ヒントみたいに繋がった。

やっぱりいちるんが、デミなんだ。


楸都瑠は知らない。

動画を作っているのが悠太だということも、
デミが楸都瑠だという事実に、悠太が気付いたことも。

悠太は、二重になってしまった秘密を抱えたまま、楸都瑠の横を歩いて帰路に着く。

「紙飛行機って、飛ばしたことある?」

突拍子もなく言い出したのは楸都瑠だった。

「あるだろ、日本人の全員が」

「全員、かな?」

「義務教育だと思ってたけど」

「義務教育か」

楽しそうに笑う楸都瑠の横顔が、夕日に照らされていた。

「で、それがなに?」

尋ねると楸都瑠は立ち止まり、おもむろにスクールバッグを開くと、中からぐちゃぐちゃの紙飛行機を取り出した。

「今日、みんなで紙飛行機を作ったんだけど、あまり飛ばなくて」

「見るからに飛ばなそー」

「教えて、上手に飛ばす方法。次は勝ちたいんだ」

あまりに真剣に言うから、「いーよ」って言葉と一緒についケラケラと笑ってしまった。

いちるんって、時々無邪気で子供っぽい。

緩む口元を抑えながら、どこか得意になっている自分に気が付いた。
誰も知らない大きな秘密を知ったことで、理解者にでもなったような気がしたのだ。

川沿いの土手の階段の踊り場。
そこまで歩き、二人は座り込んで紙飛行機を折った。

「まず、絶対にゆがまないように折って。それから、先端も折り込むとよく飛ぶんだよ」

「へー、それが義務教育か」

「そ、ほら、真似して折って!」

悠太の横で、身体を小さく丸め込んだ楸都瑠が、一生懸命に飛行機を折っていた。白く細い指が、丁寧に丁寧に、ひと折りひと折り進めていく。

「はい、かんせーい!」

悠太が紙飛行機を大きく掲げると、楸都瑠は横で嬉しそうに拍手をしていた。

沈みかけの、橙色が楸都瑠を染めている。

その光景が綺麗で、思わず撮りたいと思ったけれど、そんなことできるはずがなかった。

感傷に浸るタイプではないんだけど。
今この時が続けばいいなんて、ポエミーなこと考えたりしちゃって。

「篠山悠太、さっそく勝負しよう!」

楸都瑠はメランコリーに浸る悠太なんてお構いなしに、五歳児かって笑顔で川岸へと走り出した。

「どこまで飛べると思う?」

「えー?望むなら、どこまででも!」

「向こう岸まで?」

悠太は「もちろん」と頷いた。

楸都瑠は嬉しそうに、大きく腕を引いてから振りかざし、紙飛行機を手放した。

「あー」

彼が一生懸命折った紙飛行機は、音もなく……川の中へと入水。

張り切っていたから落ち込むのかと思ったけど、楸都瑠は思いのほか平然と、眉を下げて立ち尽くすだけだった。

「……飛ばす時、斜め上にまっすぐ投げるんだよ」

「言うのが遅いなあ」

「チャンスはもう一回!」

悠太はそう言って、楸都瑠に紙飛行機を手渡した。

「いいの?」

頷くと、彼は迷いなく斜め上へとまっすぐに紙飛行機を飛ばす。

白い翼は夕焼けを割いて飛び立つと、川の向こうに着陸した。

「やった!まさか本当に向こうまで飛ぶなんて」

「信じれば飛べるって、ピーターパンも言ってただろ」

「篠山悠太、君はときどき、おもしろいことを言うよね」

楸都瑠は笑っていた。目尻を下げて、嬉しそうに。

この笑顔を作ったのは自分なのだと思うと、それはそれは誇らしく嬉しい気持ちになって、今日は良い夢が見れそうだと予感する。

「で、あの紙飛行機、どうやって回収しようか」

「は?」

楸都瑠が指さしていたのは、川の中の白い紙。
もはや紙飛行機としての形を保てなくなったびしょ濡れの白い紙。

「そのままにするつもりだったのか?」

当然そのつもりでしたけど、なんて言えるはずもなく。

「まあそうか、そうだよなあ。チャリのニケツも許さない男だもんなあ」

「長い棒で取れるかな……?それか、裾をまくれば意外と行けるだろうか。見た目より浅いように思える」

「はいはいはい、いちるんは橋渡って川の向こうの取ってきて!俺が川の中の救出するから!」

いくら夏だからって住宅街のこんな汚い川に入れるわけがない。

楸都瑠の言ったように長い枝を探した悠太は、しゃがみこんで川の方へと腕を伸ばす。

あーあ、何してんだか。

「くそっ」

中々取れないし、バランス崩して川に落ちたら洒落にならないし、よくわかんない鳥が傍でこっち見てるし。

プルプルと震える腕の向こうで、黒い枝の先が白い紙をつつく。

「あとちょっと……」

その矢先。

「うわ!」

いつの間にか戻ってきていたらしい楸都瑠のでかい声と、背中に衝撃。

ギャグ漫画かよって思うだろ。

見事、二人して川の中。

「なにしてくれんだよ!」

「ごめん、でかい鳥にびっくりして……」

「はあ?しょうもな!」

手のひらでじゃりじゃりの土を強く押して、何とか体勢を整える。

顔まで浸からなかったのが不幸中の幸いだ。目元にかかる髪を手の甲で払いながら、同じようにびしょ濡れになった楸都瑠を振り返る。

「……大丈夫?」

川の中で尻もちを着いたままの楸都瑠は、俯いてぷるぷると肩を震わせていた。

「あはは!びっくりしたぁ!」

「なーんだ、笑ってんの?怪我して泣いてんのかと思った」

あははと笑う声が、やっぱり中性的で綺麗で、デミの歌声を思い出す。

「そんな子供じゃないよ」

「子供だろ、紙飛行機飛ばして鳥にびびって川の中って!」


地球温暖化のせいで、夕方だっていうのに随分と暑いから、だからすぐ乾いちゃうんだろうな。

二機の紙飛行機を救いあげた二人は、鞄を置いたままにしていた階段まで戻り、並んで座った。足を広げて、風邪を引きませんようにって願いながら。

「ねぇいちるんって、あの子のどこが好きなの」

教室の光景を思い出し、尋ねる。

「……どこだろう。僕のことを、好きって言ってくれたから」

「そんなことが理由なら、多分、他にもいるよ」

「うん、そうかもね」

そうかもねって、なんだよ。

思ったけど、それ以上の口出しはできなかった。真面目な話で笑顔を奪いたくなかったから。

「まー、色々あるか」

悠太は無頓着なフリをして、両腕を放り投げ伸びをする。

「今日は楽しかったよ、とても」

楸都瑠が笑って言った。
それだけでやっぱり、今日の夜はよく眠れるだろうなって思ったんだ。