「いっちるーん」
生徒会室の扉を勢いよく開け、悠太は叫んだ。
楸 都瑠の姿を探して。
「会長いないけど」
薄暗い教室の中で大柄な男が鞄を持って立っていた。つんつんとした短髪が今日もイケてる。
「テツくんだけ?」
副会長のテツジくん。ひとつ上の先輩。
人の名前を覚えるのが苦手なので、どんな漢字を書くのかもわからない。
テツくんは広い肩幅を窮屈そうに揺らしながら、生徒会室の奥の方からこちらへ向かってくる。
この生徒会室は物置部屋みたいに小さいのだ。
「俺も帰るとこ」
「てことは、いちるん帰っちゃった?」
「ああ、さっき荷物持って出てったとこ」
悠太はその場で大袈裟に項垂れてみせた。
「じゃあ仕方ない、テツくん一緒に帰ろっか」
「部室までならいいぞ」
テツくんは真顔で言う。
この人の、動じないところが愉快で好きだ。
こちらのわがままをわがままと思っていないのか、どんな無茶も何でもないふうに受け止められる。
現に数日前に初めて会話をしたというのに、まるで小さい頃からの知り合いですよ……みたいな顔で隣を歩くんだから。
「なんで急に会長なんだ?」
「なにが?」
「一週間前から不良に絡まれ始めて恐ろしいって、会長が嘆いてた」
「え〜いちるん俺の話してくれてるんだ!」
悠太はめいいっぱい口を広げた笑顔で飛び跳ねた。
「ああ、悩んでたぞ」
テツくんは真面目なトーンでそう言う。
それがやっぱりおかしくて、ケラケラと笑い声をあげてしまう。
「あんまり揶揄ってやるなよ。あいつは繊細だから」
そう言うテツくんの声は、どこか暖かくて。
楸都瑠という人間が愛されているということを物語っているようだ。
「わかってるって」
そもそも、楸都瑠に関わり始めたことに理由なんてない。
絞り出すとすれば、返信ができなかったDMが気がかりだった、という事がその理由にあたるのだろうか。
悠太にしては可愛らしい気がかりを頭の隅に残したまま校内を歩いていた一週間前、
『授業中だぞ』
楸都瑠がそう声をかけてきたから。
昨日の今日で、なんて偶然。
そう、昨日まさにこの人が悠太の動画にコメントを残しダイレクトメッセージまで送ってきたのだ。
楸都瑠は悠太の頭のてっぺんから足元までをじっと見る。
『髪、ワイシャツ、サボり、君は何年何組の生徒だ?』
『二年四組の篠山悠太』
答えられる質問を投げかけられ、素直に答えてしまった。
『篠山悠太、次もそんなふうに髪を結いていたら生徒指導に回すぞ』
それ以上のお咎めなしで立ち去ろうとする、ほっそりとしたシルエットを視線で追う。
『ねぇ楸都瑠、ここにいるあんたもサボりじゃないの?』
サラサラの黒髪が揺れて、その瞳がまた悠太を捉えた。
冷たくて、鋭くて、撃ち抜くような視線。
『保健室で寝ていただけだ……今から教室に戻る』
『それはサボりじゃないの?』
『微熱があるんだから仕方ないだろ』
『俺もあるよ、微熱。いつも目眩してるし!』
『そう、じゃあ今度は保健室で会おうか』
こんな、どうしようもなく相手にされていない言葉のやりとりが、楸都瑠との二度目の会話。
もちろんその後保健室で会うことなんてなかった。
悠太の方は次の日も授業をふらりと抜け出して保健室を覗いたのだが、そこには誰もいなくて。
楸都瑠は病弱なわけではない。そんなことわかっていたのに真に受けたのはどうしてか。
たぶんきっと、もっと話したいと思ったから。
だから生徒会室に向かった。
こんな場所に来るのは初めてで、そもそもこの前まで生徒会室の場所すら知らなかった悠太が、そこまでしたのはなぜか。
いやいや、いつもの気まぐれだよね。
そう強がりたくなるほどに。
生徒会長様の引力は、その眼差しは、悠太を強く惹き付けた。
「テツくん、俺下だからここで!」
三年の昇降口の前で悠太はテツくんに手を振った。
「下?」
「俺の下駄箱、二階」
不思議そうにしているテツくんにピースサインを見せる。
「ああ、そうか……あまりに馴れ馴れしいから同級生かと」
「え、上履きの色違うのに」
悠太達の通う高校では学年ごとに色の振り分けがされており、身につけるアイテムに指定があった。ジャージとネクタイ、それから上履き、それくらいだろうか。生徒達はそれらで学年を把握しあう。
悠太はガバッと足を上げ、上履きの緑色をテツくんに見せつける。
「足元なんて見てなかった、せめてネクタイをしてくれ」
テツくんがふっと微笑む。珍しい表情だ。
「なんで笑ったの?」
「いや、特に。それじゃあまた」
テツくんはいつも通りの真顔に戻っていた。
この人はやっぱり面白い。何を考えているのかさっぱりわからなくって面白い。
悠太は重たい足取りで階段を降りる。これから何をしよう。どこかの部活に混ざって身体を動かすか、散歩でもするか。
本当だったら楸都瑠と一緒に帰るはずだったのだ。昨日、生徒会室でそう約束したはずなのに。
『仕事の邪魔だ、今日はやることが多いから帰ってくれ』
楸都瑠は書類の束に目を通しながら一切こちらを見ることなく言った。手伝おうか?と言っても相手にして貰えない。
『じゃあさあ、明日ならいいの?』
『ああ、そうだな、明日かまってやる』
思わぬ返事に悠太は顔を上げて喜んだ。
『ほんと?じゃあ明日一緒に帰ろーよ』
『わかったわかった』
たしかに楸都瑠は一緒に帰ることを承諾したのに先に帰ってしまうなんて。
どこまでも相手にされていないことがつまらなかった。
悠太は昇降口で靴を履き替え階段を降り、自分の相棒である自転車を迎えに駐輪場へと向かう。
その途中、あまりにも青くて広い空の真ん中に、一本の飛行機雲が作られていくのが目に入った。
悠太はスマホを取り出して、その線が入道雲へと突き込む様を撮影した。ほんの一瞬のことである。この瞬間瞬間を、後から編集して繋げるのだ。
それにしても、七月に入ってから太陽は意地が悪い。人の肌を焼き尽くそうと必死である。蝉までそれに共鳴しやがって、悠太の肌の表面には嫌な汗がじんわりと滲んでいた。
「遅いぞ」
地面の石ころを蹴飛ばしながら歩いていると、よく通る綺麗な声が耳に届き勢いよく顔を上げた。
ほっそりとしたシルエットにどこまでも真っ黒なサラサラの黒髪。透明感のある白い肌。大きな眼鏡。楸都瑠を構成する全てがそこにある。
「いちるん!なんでいんの?」
楸都瑠は駐輪場の傍の木陰で教科書片手に立っていた。これぞ生徒会長!みたいな佇まいが愉快で堪らなくて、悠太は口角を上げて楸都瑠に駆け寄った。
「一緒に帰ろうと言ったのは篠山悠太、君の方だろ」
「こんな暑いところで待たなくても」
そう口にしてから気が付く、楸都瑠の透明な肌には汗ひとつ滲んでいない。同じ太陽の下にいたはずなのに、この人だけ、どこか別の季節を生きているみたいだった。
「連絡手段がなかったから、ここが確実だと思ったんだ」
楸都瑠はそう言うと悠太を置いて歩きだす。
「暑いんだろ?さっさと自転車取ってこい」
悠太は慌てて自転車に駆け寄った。他の自転車とぶつかるのが嫌で奥の方へと停めていることを今日だけは後悔しながら、とにかく慌ただしい動きでスタンドを蹴りつけ楸都瑠の背中を追った。
「いちるん後ろ乗る?」
「法律で禁止されてるから」
「から?」
「続く言葉なんて一つしかないだろ」
楸都瑠は信じられないものを見るように悠太の顔を見た。
「つまんねーの」
悠太は仕方なく、でもどこか満足げな表情で自転車を押して歩いた。
「で、家はどの辺りなんだ」
校門をくぐり抜けたところで問われる。
楸都瑠は右に進むか左に進むかも分からない様子であった。
そうだった、楸都瑠には自転車通学であることだけしか伝えていなかった。
「めちゃくちゃひまわり咲いてる公園知ってる?あれの近く」
「近いな」
「うん、近い近い。チャリじゃなくても全然通えるんだよね」
「ああ、うん。そうじゃなくて、僕の家の近くだ」
「あ〜!!まさかのご近所さんなんだ!」
悠太は精一杯驚いてみせた。
本当は家が近いのはなんとなくわかっていた。
楸都瑠がコメントをした動画、あれはまさに悠太の帰り道であり、あの道を通るなら家の方向は同じだろうとは思っていたのだ。
「知ってて誘ったのか?」
驚き方がわざとらしかったのか、それともなんとなくそう言ったのか、楸都瑠の鋭い言葉にドキリとした。
「まさかまさか、いちるんの家が反対方向でも一緒に帰るつもりだったっすよ」
とりあえず目を見て笑ってみる。
楸都瑠は「そうか」と言って歩き出した。
いやいや、嘘なんてつかなくても良かっただろうか。
悠太は少し考えた。
なんとなーく楸都瑠に近付いてしまったわけだけど、動画のことを隠す必要はあるのだろうか、と。
楸都瑠は言いふらしたりしないだろうから、自分があの動画を作りあなたのDMを無視していますと伝えた方がいいかもしれない。
言うなら話がややこしくなる前の方がいいだろう。
悠太が「あのさ」と口を開くと同時に、楸都瑠が「聞いても良いか?」と言葉を発した。
「先どうぞ」
悠太は心の準備が間に合わず言葉を譲った。
「この間、インスタのDMってやつを初めて送ったんだ」
あれ、まさか自分からその話をするなんて。
「返事が来なくて、きちんと送れているかわからないんだ……見てくれないか?」
やってしまった。
先に話すべきだったか?
楸都瑠は立ち止まりスクールバッグのポケットからスマートフォンを取り出した。
いや、今ならまだ間に合う。
「ああ、その、あのさー」
実はそれ、と続けようとした所で画面を向けられる。表示された画面は案の定、悠太のアカウントに向けてのメッセージだった。
「この人コメントには返信をくれたから、どうして返事がないのか不思議なんだ。これは相手に届いているんだろうか」
「えっと、既読ってなってるから届いてるし見てると思うよー」
ていうか実はそれ、と続けようとした所で楸都瑠が大きな大きな溜め息をついた。
「迷惑、だったかな」
「え?」
「抽象的な質問だし、いや、言葉を正したとしても変なことを聞いている自覚はあるんだ。ただそうさせるほど興味深くて」
「興味深い?」
「僕、初めて一目惚れをしたような感覚になったんだ。すごいぞ、篠山悠太も見た方がいい」
楸都瑠は見たこともない無邪気な笑顔で言った。
あー、これは言えないや。
目の前で自分の作った動画が流れ始め、悠太の進路は嘘つきに決まった。
「どう?すごいだろ、実はここ……ほら、ここに映ってるやつ、あの公園に行く手前の川の横の道なんだよ」
楸都瑠は慣れない手つきで動画を一時停止して言った。
必死で可愛らしいものである。
「篠山悠太は……あまり好きじゃない?」
楸都瑠は不安そうにこちらを見上げた。
その額に小さく汗が滲んでいるのを見て、同じ世界を生きていることに気が付く。
「え、いや?いいと思う。なんか、不思議」
眼鏡の向こうの瞳がやけに大きくて迫力があって、それをじっと見つめながらそう言っていた。
「わかる。なんていうんだろう、二度寝した日の夢みたい。僕はあの現実か夢なのかわからない時間が大好きなんだ」
「いちるん、意外とおしゃべりだね」
「意外でもないよ、君がいつも話しかけてほしくない時にばかり寄ってくるからだ」
「それからさあ、目も大きいね」
悠太が言うと、楸都瑠は首を傾げながら画面を閉じて、スマートフォンを丁寧にしまった。
ここまでが、篠山悠太がオオカミ少年となった経緯。
まっすぐで素直な楸都瑠に対し、ほんのりとした罪悪感を抱いたお話。
そう、悠太は特別心優しい男ではないので、嘘つきになったところで大して気に病むことはなかった。楸都瑠への罪悪感が海ほど広く深いものであれば関わることを控えたのかもしれないけれど、そんなことは全くなく、休日を挟んだ月曜日の放課後も、悠太の両足は生徒会室へと向かっていた。
「いちるんいますかー?」
悠太は躊躇いなく生徒会室の扉を開ける。
電気の点いた窮屈な部屋には、楸都瑠とテツくんをはじめ、生徒会の愉快な面々が揃っていた。
「あれ、今日五人もいるのにここの部屋なの?」
生徒会室は本当に本当に狭い。
椅子も四つしか入らないので五人以上になったら隣の空き教室を使うと聞いていた。
「隣エアコンないから……あと一人来たら移ろうと思ってたけど篠山くんはノーカンだよね?」
ノートパソコンの前に座る青いリボンの女子生徒が恐る恐る、という様子で楸都瑠の顔を見た。
「そうだな、篠山悠太が立ち去ればここにいる五人が快適に作業ができるわけだが、君はどうしたい?」
楸都瑠は他の者に椅子を譲ったらしく、窓際にある腰ほどまでの本棚に座っていた。
「そんなの決まってんじゃん」
悠太は生徒会室に一歩入り込み、後ろ手で扉を閉めた。
「会長がどうしたい?とか聞くから入ってきちゃったじゃないですか!」
ノートに何かを書きなぐっていた緑色のリボンの女子生徒が言う。
悠太はその生徒に見覚えがあった。
「あれ、アコチじゃん」
「篠山さー、なんで会長に絡んでんの?」
アコチは同じクラスの女子だ。中学も同じだったが、ノリ良し顔良しの彼女は常に人気があった。悠太ももちろん話しやすい彼女を気に入っている。
しかし生徒会の一員だったとは知らなかったな。
「なんでだろね、てかなにその紙コップ芸術点たっけ〜!」
アコチの手元に置かれている紙コップにはマーカーペンのド派手なインクで描かれたチワワがいた。そのチワワは少女漫画特有のキラキラした目をこちらに向けている。
「うちのチワ太郎の似顔絵」
「チワ太郎まじやべーなイケメンすぎだろ」
悠太はケラケラと笑い声を上げ「写真撮ってもい?」と聞いてチワ太郎をカメラに収める。
「篠山、ほんとごめんけどチワ太郎の顔に免じて出ていってくんない?篠山の熱気で暑いし狭いし集中できなーい」
アコチが両手を合わせて頭を下げた。
「えーーー、じゃあ俺にも紙コップちょうだい。二個でいいから」
「ジュースもうないよ?」
「紙コップだけでいいから!」
その会話を聞いていたテツくんが奥の戸棚から紙コップを取ってくれた。二つの紙コップは生徒会役員の手を巡り悠太の元へと手渡される。
あまりに連携のとれたスムーズな動きであった。
「さんきゅー」
悠太はそれだけ言って生徒会室を後にした。
紙コップを両手に一つずつ持った悠太はそのまま校内を練り歩き、二、三分ほどかけてある場所へと向かった。
「お邪魔しまーす」
「あれ、篠山くんだ。めずらしい」
ショートカットの女子生徒が大きな布を、これまた大きな布切ハサミで切りながら言った。
「サク嬢!糸ちょーだい」
ここは被服室。
手芸部の友人がせっせと何かを作っている場所で、糸を探すのにも最適な場所。
「いいよ〜、どうゆうのがいい?」
「水糸?ってある?」
スマートフォンに表示された糸電話の材料を見ながら答える。
「え〜なにそれ?手芸用の糸しかないよ」
サク嬢は手を止めずに答えた。
「じゃあ似たようなやつ、糸電話作りたいだけだから」
糸なんかに微塵も詳しくない悠太はヘラヘラとそう言ってサク嬢の横に腰掛ける。
静かに作業をしている他の生徒達がちらりと悠太の姿を見た。
その視線に手を振り返すと、生徒達は何も言わず目を逸らした。
「糸電話作ってどうすんの?」
「電話するに決まってんじゃーん」
少し丈夫な糸を受け取りながら「穴あける針も貸して〜」と言うと、サク嬢はすぐに目打ちを貸してくれた。
二つの紙コップに穴を開け糸を通す。
「あれ、これどうやって止めるんだろ」
「つまようじ必要じゃない?」
悠太はサク嬢のその一言で調理室へと向かうことにした。
「うわ、オカッチまじで料理部やってる。うけるんだけど」
調理室には、たった一人で料理をする男子生徒の姿があった。
「篠山じゃん!なになに味見?」
「え、味見させてくれんの?」
エプロンと三角巾を付ける大柄な男に近寄り、「あー」と口を開ける。
嬉しそうなオカッチは作ったばかりの黄緑色の餅?のような何かを手に取り悠太の口へと運んだ。
「よもぎ生クリーム大福、うまい?試作品なんだけど」
口いっぱいに生クリームと餡子の甘みが広がり、悠太は「ん〜!!」と唸り声を上げて飛び跳ねた。
「うまい!めちゃくちゃうまい!なに?よもぎってなに?」
「よもぎは……なんかね、小さな葉っぱ。園芸部からお裾分けしてもらったから作ったんだ。今週の水曜日に園芸部と茶道部と一緒にお茶会すんだぜ」
どうしてか誇らしげなオカッチの手元を見ると、探していたつまようじが瓶に入って置かれていた。
悠太は目的の小さな木の棒を手に取り、さっそく空いているテーブルで糸電話作りを再開する。
「お茶会そんなに楽しみなん?」
「茶道部にすっげー可愛い後輩いるの、知らない?」
オカッチは自分で作ったよもぎ大福を頬張りながら言った。
「茶道部は八尋が幽霊部員してるってことしか知らない」
残念ながら年下は好みではないのだ。
悠太は自身の親友である男の顔を思い浮かべた。
「そうそう、その野沢が後輩ちゃんとすげー仲良いの、あいつ狙ってたりするかな?」
「知らねー、興味なし!」
どうでも良い雑談を繰り広げているうちに糸電話は完成していた。
「てか篠山はなにしてんの?」
「糸電話作った!これで電話してくる」
呆然とするオカッチに手を振り、悠太は調理室を飛び出した。
いそいそと足を動かす悠太は、少し歩いてからすぐ立ち止まり、ああそうだ言い忘れてた、と調理室へと戻る。
「オカッチー!よもぎ大福ガチで美味かったよ!パティシエになったらまた味見さして〜!」
悠太の叫ぶような声を聞いたオカッチは「りょーかい!サンキュ」と微笑んだ。
悠太は出来上がった糸電話を両手に、生徒会室の隣の空き教室へ向かった。
だだっ広いその部屋は少し寂しくて、閉め切られたドアが室温を上げているはずなのに、どうしてか冷たいような気がして。
つま先からぞわぞわと恐怖を感じてしまう。
悠太はそれと向き合わないように教室の中を足音を立てて進み、ベランダへと続く窓を開けた。
生ぬるい嫌な風が頬を掠める。
悠太はそれすら気付かないふりをしてベランダを左側へと進む。
まっすぐと、生徒会室の方向に。
窓を隔てて、楸都瑠の姿が見えた。その険しい横顔は書類だけを見つめていて、悠太の気配には気が付かない。
真剣な彼の真後ろまでくると、悠太はドンドンドンと窓を叩いた。
「いちるーん、窓開けて!」
楸都瑠はすぐに顔を上げ、滑らかな無駄のない動きでこちらを振り返った。
窓ガラスと大きな眼鏡、二枚のガラスを隔てて目が合う。効果音を付けるのならばパチッというかわいらしい音が似合うだろう。
小さな火花が飛び跳ねるような、線香花火の控えめで小さなあの灯りのような、そんな物を思い出させるように視線がぶつかる。
案外その表情に驚きの色がなく、悠太はそれが少し意外であった。
それから、楸都瑠が黙るから。
だから、続く言葉が見つけられないまま、丸くて綺麗な目を見つめた。
ほどなくして楸都瑠の方からふっと目を逸らすと窓が開く。ほんの短い一連の流れは、少しだけ長く感じた。
「なにしてるんだ」
呆れたような面白がるような曖昧な声で、楸都瑠は言う。
「これ持って!」
糸で繋がれた紙コップの片方を渡すと、楸都瑠は素直にそれを受け取り微笑んだ。
「君は本当にいじらしいな」
楸都瑠がそんなことを言いながらあまりに綺麗に微笑むので、チカチカと、悠太の視界の中に再び火花が散った。
悠太は急いで目を逸らし、元いた空き教室の方へと戻っていく。すぐに窓のサッシに腰掛け、教室ひとつ分離れた場所で紙コップに口を当てた。
「いちるーん、聞こえますか?」
言い終わってから紙コップを耳に当ててみるがなにも聞こえない。聞こえる?聞こえてないの?と何度か紙コップに話しかけたりを繰り返すが音沙汰はない。
「え〜、糸電話って聞こえねーの?」
悠太は立ち上がり生徒会室の方を向く。
窓から上半身を乗り出す形でこちらを見ていた楸都瑠が、細長い腕を一生懸命振りながら糸をピンと張る素振りをした。
「もっと離れろ!糸を張るんだよ!」
透き通るような大きな声に、悠太は少し驚いた。
前から綺麗な声だなとは思っていたが、叫ぶような声は印象が違う。少し高くなるんだな、ほんのり中性的で特徴のある声だ。
悠太はそんなことを思いながらベランダを歩いた。生徒会室と反対方向に、手の中の糸のゆとりがなくなるまで。
「うーん、そろそろいいかな」
教室ふたつ分の距離まで来たところで呟いた。
紙コップから伸びる糸はたるむことなくピンと張られている。
こんなことならもっと短く作ればよかった。
短すぎると見栄えが悪いと思ったのだが、そのせいで楸都瑠の表情がわからないところまで離れてしまった。
悠太は遠くにいる楸都瑠に手を振ってみせてから、紙コップへと話しかける。
「ねぇいちるん、聞こえる?内緒話しようよ」
それだけ言って紙コップを耳に当てた。
少しの間、風の音だけを聞いていた。
内緒話がしたいというのはあくまで思いつきである。それがしたくて糸電話を作ったわけではない。つまり半分以上は冗談のつもりだったので、楸都瑠には軽く流されると思っていたのだけれど。
「わかった。等価交換ってことで、君の秘密ひとつにつきひとつ、僕の秘密も打ち明けるよ」
ピンと張られた糸を伝い返ってきた言葉に悠太は驚き、また小さな火花の音を聞いたのだった。
「秘密……」
悠太は糸電話を使わず、ベランダの広い空気の中で呟いた。
悠太が抱える秘密といえばSNSに動画を投稿しているということ。裏表もない性格のこの男には、それ以外の秘密などパッとは思いつかない。
悠太は考え込んでしまった後、慌てて長い糸を介して言葉を返す。
「俺のことそんなに知りたいの?」
「うん、教えて」
囁くような甘い声が即座に耳に届き、ドクン、と胸が跳ねた。火花なんて可愛いものではない、太鼓を叩くような全身に響く鼓動だ。
悠太はわからなかった。
透き通った、夏の似合う美しい声や瞳のせいでこうなっているのか、それとも自分がついてしまった嘘が暴かれてしまいそうでこうなっているのか。
後者であると思いたかった。
「秘密ね……なんだろ、元カノの一万円する美容液勝手に使い込んだとか」
動画のこと以外で思いついた半年以上も前のどうでもいい秘密を暴露し、冗談めかしく笑ってみせた。
「女性からしたら大変なことなんじゃないか」
「そそ、モテなくなっちゃうから秘密ね」
まあ、その元カノどころか今まで付き合ってきた子は全員大学生以上なので、狭い高校の中で秘密が知れ渡ったとしても悠太にダメージはないのだが。
「ほら一個言ったよ、いちるんも何か教えて!」
悠太はなるべく明るい様子で言った。
「そうだな……ほとんど誰にも自分からは言っていないんだけど、僕は視力が良いんだ。この眼鏡には度が入っていない。君は僕の目が大きいねと言ったけど、たぶんそのせいだろう」
「度が入ってないのと目が大きいの、関係ある?」
「眼鏡をしていると錯覚で目が小さく見えるはずだから、それにしては大きく感じたんじゃないか」
「むずかしくてわかんない」
「まあいいや、とにかく僕は目が良いんだ。内緒にしてくれ」
なんでもない秘密を耳にしながら、悠太は視線を下ろした。
悠太のいるベランダから見えるのは、いわゆる校舎裏の、草木が生茂る整備されていない道。
そこに、生徒が二人歩いてくる姿が見えたのだ。
雰囲気から察するに、女子生徒が男子生徒を呼び出したのだろう。告白だろうか?
生憎、声は聞こえない距離であった。
「篠山悠太、秘密は他にある?」
楸都瑠の糸電話から聞こえる声で現実へと引き戻される。
それから、等価交換、という言葉を思い出した。
つまりは等しい価値の交換。
もしも悠太が動画のことを打ち明けたら、この男はなにを教えてくれるのだろうか。悠太の秘密にふさわしい大きな秘密。
きっとそんなもの用意されていなくて、ただただ悠太が嘘吐きであったと知られてしまうだけだろう。
悠太はにわかに憂鬱な気分になった。
あーあ、隠し事なんてするべきじゃないな。
視界の隅に居続けた男子生徒は、頭を深く下げて女子生徒の前から立ち去った。
悠太はそれをぼんやりと眺めた。
「俺、やっぱり秘密は嫌いかもなあ」
隠し事も、嘘も、平気だと思っていたけれど。本音を語れない不自由さが嫌だった。
「それが秘密?」
「ああ、うん。そうかもね」
ケラケラと笑いながら答える。
「僕も秘密は嫌いだ」
楸都瑠の透明で大人びた声が届く。
「……だよね」
悠太は笑顔のまま、糸電話の外で呟いた。
決して、いたたまれなくなった訳ではないけれど。
悠太は糸電話に飽きたと言ってその場を立ち去った。楸都瑠には「またね」と言って。
とぼとぼと廊下を歩きながら大きな溜め息を吐く。
俺ってば、どうしちゃったんだろう。
隠し事は得意だった。
けれど、嘘をつくのは好きではなかった。
それがこんなにも心と頭の中を蝕むのだろうか。
いや、違う。
さすがに認めないといけない、悠太は楸都瑠に特別な感情を抱いていた。
そうでもなければ生徒会室に通ったりしないのだ。悠太は興味のあるものにしか自ら進んで近づかない、そういう人間なのだから。
「悠太?」
昇降口の少し手前で聞き慣れた声に呼び止められる。
「八尋、なんでいんの」
「部活行ってた」
「ははーん、明日は雪だな」
八尋は「んな珍しくねーよ」と悠太の肩を小突いた。
茶道部の幽霊部員、野沢八尋。
文化部の割には男らしい骨張った鎖骨と胸元をオープンにしながら、ワイシャツをパタパタと仰いでこちらに向かってくる。ブリーチをかけたその前髪がさらさらと鬱陶しく揺れていた。
去年一年間同じ教室で過ごしたこの男は、高校に入ってからできた友人一号。
登校初日、入学前課題を忘れて並んで叱られたのがきっかけだった。
先生の前ではお利口だったくせに、初対面の悠太には『お前と同列なんて最悪だ』なんて悪態をつく男だった。
まあ、悠太が担任に反抗したせいで説教が長引き居残りまで強いられたから、怒るのも当然なんだけど……。
妙に正直で、鈍感で、人に媚びないところが気に入って、気づけば悠太の方がしつこく絡むようになったのだ。
「やぴろくん、この後ひまなら俺と遊ばん?」
靴を履き替えようとする親友に言ってみる。
「全然いいんだけどスマホ部室に忘れたわ。取り行ってくるからチャリ拾って待ってて」
「はあ?おまえさー、ほんとボケっとしすぎ!」
廊下を戻り部室へと向かう八尋の背中に叫んだ。
かったるそうに足を引き摺って歩くその男は、後ろを振り返らずに右の掌をフリフリと揺らした。
とにかく悠太は従順に、自分の自転車と共に校門の横の日陰で八尋を待った。
今の時間、生徒のほとんどは部活に打ち込んでおり人通りは少ない。
なかなか現れない八尋の姿を探してキョロキョロと周囲を見渡すと、小柄な女子が目に付いた。
「アコチ!帰んの?」
チワ太郎の飼い主であるアコチはスクールバッグにチワワのマスコットをぶら下げていた。
「帰る!篠山はなにしてるの?」
「八尋待ってるのー」
汗を滲ませて待ち続ける悠太に同情したのか、アコチは手に持っていたハンディファンを悠太の顔に向けた。
生ぬるい風に感謝の言葉を述べる。
「やひろ……ってあの前髪だけ金髪のクールな子?」
「そーそー、俺のマブ。知り合い?」
楽しそうに話す悠太と対照的に、アコチは首を横に振りながら「ううん」と唸った。サラサラのボブヘアがパラパラと揺れる。
「私だってこう見えて生徒会の一員だからさ、あの前髪はどうなのかな〜って思ったりもしちゃって、話したこともないのに顔と名前覚えちゃったりして」
「あーね」
「注意しようかと思ったけどやめた。そういう損な役回りは他の人に任せちゃおって感じ」
アコチはピースサインをこちらに向けた。
悠太もニコニコとピースを返し、顔に向けられたハンディファンを下ろすようにアコチの手を抑える。
「意外とゆるいよな、校則」
「生徒会が取り締まれって言われても、それ以外にやること多すぎて回んないの。会長見てればわかるでしょー?」
アコチはハンディファンの風で髪を揺らしながら言った。
「わかるわかる、どう見ても糸電話なんてしてる場合じゃねーよな」
「てか篠山まじで急に会長と仲良しだよね。内緒話してたんでしょ?二人の秘密気になりすぎるんだけど」
「えー、元カノのどうでもいい話とかしただけだよ」
さらっと流してやろうと思ったのだが、アコチは予想外にもとんでもない声量で叫んだ。
耳がキン、と痛くなる。
「まって、会長もう別れたの!?」
「……ん?」
「……え?」
アコチは自分の勘違いに気が付いたのか、顔が青褪めていく。
「元カノってのは俺の話ですよアコチさん」
「そうみたいだね」
「いちるんって彼女いるの?」
アコチは微動だにせず、返事もしなかった。
つまりはそれが肯定を示すのだと悠太はわかっていた。
それがわかってしまって、口元が引き攣った。
「これ、内緒のやつかも」
「あはは、そうらしいね」
悠太はケラケラと笑った。
笑え、笑え、と脳に信号を送って、やっと笑った。
そうしないといけないくらいにはショックだったのだ。
なんで、と言われたらわからない。気に入った野良猫がどこかで飼われていたと気が付いた時のような、そんな寂しさに近かった。
「なんで彼女のこと隠してんの?」
なるべく冷静に、なんでもないふうに、いつもの自分ならこう言うだろうな、と思い聞く。
「……ぜーったいに言いふらさないっていうなら教えるけど」
悠太は「誓います」と手を前に掲げて言った。
「彼女さんいい子なんだけど、会長とはタイプが違いすぎるっていうか……カースト上位の騒がしい集団の一人って感じだからバレたくないんだって」
「その子、いちるんのこと恥ずかしいと思ってるの?」
「違う違う、会長が彼女さんのこと隠したがってるの。生徒会長としてああいう子と付き合いがあるのは知られたくないって」
「まじ?そんなやんちゃな子?」
「うーん、篠山の方がよっぽどやんちゃだと思うよ」
アコチは少し笑った後、「みんなに言わないでね」と申し訳なさそうに頭を下げた。
「俺、アコチが悲しむことしないから!」
約束するよー、と微笑みかけるとアコチは安心した表情で「また明日」と手を振った。
悠太は普段の自分を演じ終えた後、冷えきった十本の指先で顔を覆った。
その後なに食わぬ顔で歩いてきた八尋を自転車の荷台に乗せ、ひまわりの咲く公園へと辿りついた。
自転車を押しながら、入り組んだ公園の中を歩く。子供が裸足で駆け回るような小さな川の元まで足を運ぶと、二人はそこの段差に腰掛けた。
「え、悠太なんか凹んでる?」
悠太があからさまに大きな溜め息を五回ほど吐いた時、八尋は言った。通りがかりの自販機で買った缶のアイスココアを飲みながら。
「さっすが八尋!鋭いなー」
茶化すように言ってみせると、八尋は笑いながら舌打ちをした。
「なに?ガチのやつ?」
「ガチのやつってなに」
「いやほら、身内の不幸とかそういう」
「ガチん時の相談役はおまえじゃないわ」
悠太は笑った。
八尋は「間違いねーわ」と微笑みながらまたココアを飲む。
「ちょーっと気になって構ってた子がさ、なんとなんと恋人持ちだったんだよ」
悠太はモヤモヤと抱える嫌な感情を吐き出すように言った。
「はい?」
「いやだからー」
聞いていなかったのかと思いもう一度同じことを言おうとすると、八尋はそれを止めた。
「いや違くてさ、紗良ちゃんはどうしたの?」
「え、2ヶ月前に別れたけど、知らなかった??」
八尋はこくこくと頷いた。
「おまえ本当に人のこと気にしてないのな」
八尋のことは前々から鈍いやつだなと思っていた。その根本的な理由は人への興味のなさにあるのだろうか。
「てかなに、恋人持ちがどうとか今更じゃん。紗良ちゃんの時も略奪だろ」
「ちげーよ!あれは紗良が勝手に好きとか言ってきて勝手に別れてただけ。奪ってやろうなんて少しも思ってなかったし、俺はただ横で可愛いな〜って思ってただけ」
「それで好きにさせちゃうんだからすげーよな、おまえは」
元カノの事なんてどうだって良い。
しつこく紗良の話をしたがる八尋を適当にいなし、悠太は鞄の中に入れたままにしていたチューイングキャンディをひとつ食べた。
「今回は別に付き合いたいとかじゃなくてさ、恋人いんのが無理すぎってだけ」
楸都瑠の透き通る肌を思い出しながら言った。
それが誰かのものであると思うとどうにも苦しい。
「その子がフリーになっても付き合わないの?」
「付き合わないねー」
というか付き合えない、相手男だし。
なんてさすがに言えるわけもなくて。
悠太は言葉を飲み込み溜め息を吐いた。
悠太が男に興味を持ったのは今回が初めてだった。楸都瑠のような線が細くて肌が白い、真面目そうな黒髪の子がタイプだという自覚はあったが、それが性別の壁を超えるなんてことは知らなかった。
ただ漠然と好きだと思ってしまったら、そしてそれを自覚してしまえば、簡単には止められない。
はー、それにしても、まさか自分が男も好きになれるなんて。
「残念ながら、しばらく俺の恋愛話は無しです」
自覚したばかりの恋は始まることもなく終わってしまった。
「別に残念じゃないけど」
「八尋の恋愛話はいつになるんだか」
「恋愛脳は黙ってくれ」
八尋は眉根を寄せ、心底嫌そうな表情をした。
いつも通りの景色だ。
なんだか少し、それに救われた気がする。
楸都瑠の存在が悠太にとってイレギュラーで、少し浮いた物だった。
それがまた無くなったって、前に戻るだけ。
大丈夫、大丈夫。一生懸命に言い聞かせ、悠太は上を向いた。夏の空はあまりに高く、広かった。

