返事が思い付かなかったのは、いつもの事で。
画面を見れば、楸都瑠から届いた過去四回のメッセージ全てに返信をしていなかった。
デミと交わした言葉も、もうとっくに前の話だ。
鯨前線は炎上をきっかけに活動を休止した。アンのいじめの事実はなかったと発表はされたが、誹謗中傷のショックで活動が困難になっているらしい。そのせいで、ミュージックビデオ作成の仕事も時期が延期となっていた。
悠太にとってそれは恐らく良い事だったのだろう。
二人の関わりはすぐに無くなった。
元々、学年も違えばタイプも違う二人だ。
どちらかが関わろうとしなければ、簡単に消えてしまう、それだけ細くて不安定な関係だったわけで。
文化祭が終わってから一度も関わることなく、楸都瑠は卒業式を迎えようとしている。
「いちるん、居なくなっちゃうのか」
悠太は朝の布団の中で、DMを眺めながら、そう呟いた。
「好きだったなあ」
鮮明に覚えているのは、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す姿だった。
『例えるならクローバーに埋もれてるみたいなんだ』
そう言った表情を、口の端から漏れる綺麗な色のクローバーを、悠太は時々思い出す。
そして、今日まで少しも関わらなかったことを急に後悔しはじめる。
だって、ずるいだろ、卒業式の直前にDMを送ってくるなんて。もっと早く言えたはずなのに。
いちるんってやっぱ臆病だ。
そして悠太も臆病で、意地っ張りだ。
楸都瑠の苦しさや、余裕の無さをわかっていながら、許してあげられなかった自分。そんな自分を、後悔していた。
だっていちるんと過ごす毎日は、特別だったから。
苦しそうで、窮屈そうな楸都瑠になりたいと思ったことは一度もない。なりたくないけど好きだった。自分にない世界を持っている、繊細で美しい、透き通る彼が好きだった。
笑顔が好きで、話すテンポが好きで、楸都瑠と一緒にいる自分のことも好きになれていた。
たとえ、こちらに向ける言葉が嘘だったとしても。
あの時間に、嘘はなかった。
それだけで、良かったはずなのに。
「悠太〜、今日学校は?」
もう出る時間じゃないの〜、と扉の前の母が言った。
「今日さ〜、卒業式だけなんだよね」
「え、もしかして行かないの?」
「え、いや……」
めんどくせ〜って言おうと思ったんだけど。
母の名案に、悠太は乗ることにした。
「行かない!今日の出席は成績に響かないし!」
悠太は部屋着に紺色のパーカーを羽織り、部屋を飛び出した。
「え、どこ行くの!」
「公園!」
登校する学生、通勤する大人、犬の散歩をする人達、その流れを逆向きに歩いて、悠太は慣れ親しんだ公園へと向かった。
朝の、まだ気温が低いその時間。
土の匂いがかすかにして、足元には小さなクローバーの葉がちらほらと顔を出していた。
春はまだ浅いのに、もうこんなふうに息をしている。
足元に広がる幸せに、悠太は微笑んだ。
「あれ、でも、そっか」
四葉のクローバーじゃなきゃ、花言葉は"幸福"じゃないや。
悠太はスマホを取り出して、検索ボックスに文字を打ち込む。
『三葉のクローバー 花言葉』
検索エンジンは音もなく、無機質に答えを映し出した。
「愛、希望、信頼……」
悠太がブツブツと呟きながら画面を見ていると、足元にトン、と小さな衝撃がぶつかる。
画面から更に視線を落とすと、緑色の絨毯の上でこちらを見上げる猫がいた。
「……おまえ!」
去年の春頃、時々この公園で見かけていた黒猫だった。あの時は仔猫だったのに、随分大きくなっている。
でも絶対に、間違いない、白い靴下を履いているみたいな模様と、カギシッポが同じ猫であることを物語っている。
夏の終わりから姿を見せなかったから、どうなったかと思っていたのだ。
悠太はしゃがみ込み、その黒い頭を撫でてやる。嬉しそうにミャーと鳴いた猫は、何か言いたげにこちらを見たあと、どこかへと歩き出す。
「じゃあな〜」
手を振ると、猫は振り返りこちらに戻ってきて、悠太の足を噛んだ。
そして着いて来いと言わんばかりにズボンの裾を引っ張るので、悠太はよくわからないまま猫に従った。
俺、四葉のクローバー探しに来たのに……。
可愛い可愛い黒い塊に心の中で文句をぶつけながら、公園の細い道を歩く。大きな公園の中で、普段あまり立ち入らない方へ方へと向かって行く。
「ニャー!」
猫が走り出し、少しだけ背の高い生垣の下を潜り抜けて消えてしまった。
「おい、俺そこ通れないんだけど!」
猫に大声で文句を言うが、当然返事は無い。
悠太はキョロキョロと周りを見て、迂回しながら猫の消えた方向へと向かう。どうやら、太い木々の隙間、立ち入り禁止と言わんばかりのロープの向こうにいるらしい。
悠太はそのロープをえい、と跨ぎ、少し坂になっている獣道を進む。
そして、少しだけ開けた丘のような場所へと辿り着いた。
「うわぁ」
すっげぇ、綺麗じゃん。
暖かな陽射しが、強く強く射し込むその場所には、一面にクローバーの葉が生い茂っていた。それから、名前も知らない小さな桃色の花も咲き乱れ、その上で転がる黒猫も光に照らされ、輪郭が光っていた。
「なんだおまえ、心が読めんの?」
腹を向ける猫を撫でてやると、嬉しそうにニャーと返事をした。
四葉のクローバーを探し始めたのは、朝の九時頃。それをやっと見つけたのは、十五時半頃だった。
「あった〜!」
それがどのくらい幸運な事なのかわからない。
時間がかかりすぎたのか、それとも早かったのか。
黒猫はとうにどこかへ消えていた。
悠太はその場で寝転び、指先で輝く四葉のクローバーを青空に透かせてみる。
幸福に輝く緑色に、悠太は微笑んだ。
そしてその小さな四つの葉に、楸都瑠の美しい顔を思い出す。
卒業式は、もうとっくに終わっている。
いちるんは高校生じゃなくなったんだ。
大学はどこに行くのか、鯨前線の活動はどうするのか、何も知らない。悠太のことをどう思っているのか、本当はどう思っていたのか、何一つわからない。
そもそもあんなに好きだったのに、楸都瑠の写真や動画は、ひとつも撮っていなかった。連絡先も交換しておらず、手元にあるのは、お互いの顔を隠したSNSのアカウントだけ。
思い返せば思い返すほどに、身体の中身はモヤに包まれて、鬱陶しくなる。答えが出ないことを考え続けるのは、やっぱり嫌いだ。
悠太はスマートフォンを撮り出して、カメラアプリを開く。画面の中央に四葉のクローバーを配置し、空に透かすだけの動画を撮影した。
それから駅に向かった。
快速電車が通り過ぎる時に、同じように四葉のクローバーを中央にした動画を撮った。
その後は気に入っているストリートアートの前で、荒れた空き地の前で、土手の上で、本屋の中で、駐輪場の傍で、撮影をする。
画面中央の四葉のクローバーだけは変わらず、背景が変わっていく様を映像にして、いつものように加工を施す。彩度は低く、ノイズを加えて。
だけどいつもと違うのは、クラシック音楽を流さないことだ。
「どれがいいかなぁ」
鯨前線の曲は、全て聴いた。
その中で一番、デミらしい曲を選ぶ。
そしてこれも、いつもの悠太ならしないことだけど。
『幸せになりますように』
そうキャプション文に書き込んで、投稿ボタンを押した。
これは、いちるんへのメッセージ。
自己満足だってわかってる。
返事ができなかった、今までの後悔を全て返して消してしまいたかったんだ。
届くかはわからないけど。でもすっきりした、これでもう、楸都瑠のことは忘れよう。
次の春が来たら、彼のいない残りの高校生活を充実させるんだ。もっと別の物に夢中になろう。ひとつに拘らなくても世界は広いから。
いちるんみたいな人は、もう探さない。
きっと彼みたいに透明な人は、この世に一人しか居ないから。
本当に綺麗だった。
今まで見た夏の中で、一番綺麗な景色だった。
それを見せてくれただけで、価値があった。特別な時間だった。ありがとう、どうか生きやすく、深呼吸をして、幸せになってね。
そんな想いを込めた、この動画が届きますように。
『4月5日日曜日13時から、デミが生配信をします。』
その投稿をSNSで目にしたのは、春休みの最中だった。
鯨前線は夏に活動を再開すると発表した。それを心待ちにしていたファンは歓喜し、ニュースサイトにも取り上げられるほどの勢いで。
今回の生配信の発表も、驚くほどのスピードで拡散されている。どうやら鯨前線がこのような配信をするのは、活動を始めてから初の事らしい。
あの日悠太が投稿した四葉のクローバーの動画に、DMやコメントは届かなかった。
ハートマークも知らないアカウントから届くばかりで、楸都瑠が見てくれたのかわからない。
不完全燃焼だからだろうか。
やっぱり悠太は、遠い世界の彼をまだ忘れられないでいた。
だからその日、生配信を見るために出かける予定をキャンセルし、静かな家の中でスマートフォンの画面を眺めた。
配信が始まる直前。コメント欄には様々な言葉が飛び交っているけれど、鯨前線を心待ちにしていたファンの肯定的な意見ばかりで、批判は浮かんでこなかった。
悠太は少し、それに安心していた。
「こんにちは」
画面が切り替わり、声が聞こえた。
楸都瑠の、少しだけ作ったような高い声だ。
久々に聞いたその声に、なんだか懐かしい気持ちになる。
小さな画面の中には、アコースティックギターを抱えた上半身が映る。細い首筋に、浮かぶ喉仏と鎖骨の骨。それから、少しぶかぶかのトレーナーの袖が手元まで覆いかぶさっていた。
『え!?これデミ?』
『中の人がこんなに露出したの初めてじゃないか』
『そもそも喋ってるのも初っていうね』
コメントはものすごいスピードで流れ、それを見たのかデミは画面の中で笑った。
「実は僕、先月で高校を卒業したんです。だからこれからは、もっと等身大の僕を見てほしくて」
緊張している様子はなく、どこか生き生きとした声色だった。
「アンちゃんも元気です!ファンの皆さん、ずっと待っていてくれてありがとう。僕達はずっとみんなの声に支えられていました」
『よかった〜!』
『戻ってきてくれて嬉しい』
『やばい涙でてきた、デミくんだいすき』
「今日は……新しい曲を作ってきたので、ここで歌ってもいいですか?」
デミはアコースティックギターを撫でながら言った。
「高校生活を、一番支えてくれた人に向けての曲です。その人が見てるかは、わからないけど」
『デミのソロ曲?うれしい』
『だいすき』
『あなたの声をずっと待っていました』
歓迎ムードのコメントを見たのか、デミはまた笑った。「みんなありがとう」と言いながら、微笑む。
もちろん顔は写していないけど、悠太にはわかるのだ。想像できる、楸都瑠の優しい笑顔。
あの優しい垂れた目尻を思い出して、悠太の胸はぎゅっと締め付けられた。
画面の向こう側のデミは、綺麗な指でギターの弦を押さえる。静かな空気の中で、息を吸う音がスピーカー越しに届いた。
「君が横で眠っていたらって思う」
デミの透明で寂しげな声が、ギターの上で伸びていく。
悠太は二段階、音量を上げた。
「なんて幸せな世界最初の日だろう」
テンポはいいのに切なくて、眠たくて、美しくて、あの透明で儚い日々を思い出させるような、そんな歌声が部屋中に広がっていく。
悠太はコメント欄の表示を閉じて、画面いっぱいに楸都瑠を写した。
「巻き戻しボタンを押して、君との夏をやり直せたら僕は、最初になんて言うんだろう」
その歌詞で二人の時はぐるぐると巻き戻って、あの場所へと辿り着く。
初めてのDM、初めて話したあの廊下。
嘘だらけで始まった、あの場所へ。
「間違いなく傍にいけるようにまた嘘ついたりして、傷つけ解けてしまうんだろうな」
悠太は画面から目を逸らした。
窓の外では春の風が吹き荒れて、桜の花が散っている。
ふいに、あの日を思い出した。
顔が見えないのに声が聞こえる、糸電話をしたあの日、ベランダから見た空を。
「ギターを置いたら教えてくれる?」
サビを迎えたその歌は、楸都瑠の美しすぎる叫びのようだった。
「僕は君の愛する野良猫になれる?」
声が力強く震えていた。
彼にしか出せない世界が広がって、確かに届いて、声の奥に二人で過ごした夏がまた動きだして、通り抜けていくようだった。
「くだらない話ばかり聞かせて、僕はその部屋のどこかで、幸福をただ微睡んでいたいだけ」
叫びは少しずつ静かになって、願いへと変わる。
「幸福を、ただ微睡んでいたいだけ」
今までの鯨前線の曲とはまるで違う雰囲気だった。多分これは、デミの曲じゃない。いちるんの曲だ。楸都瑠の、本心だ。
アコースティックギターの優しい音が止まる。
デミの「ありがとうございました」と呟くその声こそが少しだけ震えていて、悠太はなんでか泣きそうになった。
「曲名は、クローバーです」
そう言ったデミは画面の外から四葉のクローバーを手に取って、カメラへと向けた。
その美しい指先も、どうしようもなく震えていた。
あぁ、これ全部、俺へのメッセージだ。
「……ほんっと綺麗で、ズルいなぁ」
コメント欄を再び表示すれば、拍手の絵文字の嵐が吹き荒れている中で、
『その人のこと、本当に好きだったんだね』
そんな言葉が流れていた。
「短いけれど、配信はこれで終了です。活動再開までは時々弾き語りしようと思っているので、よかったらまた見てください」
デミはまたギターを撫でながら言った。
可愛らしい癖だと思った。
「それでは!桜が綺麗だから、公園を散歩してくるね」
不器用に両手を振った後、デミは配信を閉じた。
しん、と静まり返る部屋。
悠太はその静寂をほんの少しだけ楽しんだ後、上着を一枚羽織って家を飛び出した。
大きな公園だから、桜並木も、いちょう並木もどっちもあって。夏にはひまわりが咲き乱れるし、どんな季節も楽しめるんだ。
だから地元の人間が公園に行くと言えば、ここしかない。
悠太は少しでも早く楸都瑠に会いたくて、自転車に乗ってその公園へと向かった。
約束したわけでもないし、そもそも文化祭の日から一度も交わっていない二人だけど。四つ葉のクローバーっていう曖昧な合言葉で、繋がっている気がしたんだ。それが確かであると、思えたんだ。
公園に着いて自転車から降りた悠太は、黒いボディの相棒を押して歩きながら、周りを見回す。
広くて長い道だから、会える確証なんてないのに。
花見を楽しむ家族や、カップルや、騒がしい学生集団を掻き分けながら、歩みを止めない。
悠太は夢を見ていた。会えると信じていた。
けれど、人気の無い公園の端まで来てしまった時には弱気になった。楸都瑠が向かう先がこの公園だと決まったわけでもないし、すれ違い続けてしまうかもしれない。
こんな曖昧を続けるより、uさんのアカウントで連絡をしてしまった方が早いだろうか。
諦めかけてスマホを開いた、その時だった。
「篠山悠太!」
桜の花びらを乗せた風の音と共に、楸都瑠の綺麗な声が聞こえた。
顔をあげなくたってわかる。そう呼ぶのも、その声も、いちるんの物だから。
「……いちるん」
顔を上げてその姿を捉える。
先程画面越しに見たトレーナー姿の楸都瑠。
悠太の想像に反して、彼は重たい眼鏡をかけていなかった。ガラスを隔てぬ大きな目で瞬きを繰り返している。
彼はこちらに駆け寄り、大きく息を吸った。
視線は悠太の瞳をしっかりと捉えて、揺るがない。
「僕は本当は、授業中に教室を抜け出したい時だってあったよ。微熱がなくたって、静かな校内を寂しく歩いていたかった。誰にも見つからないように。……君だけに、見つかってもいいように」
久しぶりに顔を合わせて語る言葉は、思いもよらぬ物だった。
「えっ、うん。待って、なんの話?」
唐突な話題に頭がついていかず、悠太は少し笑った。
「隠し事をしすぎたって話だよ。僕は自分にまで嘘をつき続けていた」
言葉を紡ぐ表情は、どこか余裕がない。
生徒会長の楸都瑠は、背筋がピンと伸びたどこか手の届かない存在だったから。眼鏡を外した今のいちるんは、なんだか見慣れない。
「怖かったんだ、否定されるのも、批判されるのも。世界中の全てに肯定されたかった。利口でいたかった。演じていた。苦しかった、息ができなかった」
「うん」
「君の見せてくれる世界だけは、僕を自由にしてくれた。僕の見てる監獄みたいな世界じゃなかった。だから気付いたら追いかけていたんだ。けど、本当はそうじゃなくて。そんな言葉にできることじゃなくて」
「うん」
「ただ僕は、君の横顔に一目惚れしただけだった。好きだ、大好きなんだ」
長い間、ずっと聞きたいと思っていたその本心に触れた悠太は、声も出さず頷くことしかできなかった。
するといちるんは、ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、大きく息を吸って、吐いた。
少しの間そうやって、大きな深呼吸を繰り返した後、縋るようにまた口を開く。
「悠太が、好きなんだ」
こちらを見上げた楸都瑠の顔は、泣いているというのに、どうしてか生き生きと、輝いて見える。
「それだけで息ができる。幸せだって思える。これだけで、良かったんだ」
いちるんは、濡れた瞳で笑った。
花が咲くような笑顔だった。
「俺、その笑顔が大好きだよ」
その笑顔が見たいと思った時から、毎日が楽しいと思えた。喧嘩をしたり、酒を飲んだり、タバコを吸ったり、背伸びした悪いことに憧れていたこともあったけれど。楸都瑠の引力に負けたあの日から、そんなことどうでも良くなっていた。
あのDMが届いた日から、本当は、どうしようもなく嬉しくて、自分の意味を見つけた気がしていた。誰かの特別であることが、ただ嬉しくて。
救っているようで、救われているのはいつも悠太の方だったんだ。
「いちるんのこと、好きになってよかったよ」
悠太は自転車をその場に倒して、楸都瑠を抱き締めた。いちるんは胸の中で、声を上げて泣きだした。
「あのね、いちるん。俺たちは、同じ世界は見えないと思うんだ」
悠太はその頭を撫でながら、優しく呟く。
楸都瑠は鼻をすすりながら、「どうして」と言った。
「見る必要もないだろ」
抱き締める腕を解き、ぐしゃぐしゃに濡れた泣き顔を見る。赤い目が、可愛くてたまらない。
悠太はその両頬を片手でぎゅっと掴んで、薄い唇を尖らせる。
そしてキスをした。
周りに人がいるだとか、どうでもよかった。
唇を離して、驚いた表情でこちらをじっと見る楸都瑠に、悠太は微笑みかける。
「俺は撮って、いちるんは歌えばいい。それでずっと隣にいたら、それだけでいいんじゃない?」
「一緒にいてくれるの?」
「とーぜん!これから俺はいちるんのものだよ」
また強く風が吹いて、桜の花びらが二人の間を通り過ぎる。
「僕も、君のものだ!」
勢いよく言う楸都瑠の足元で、土がじゃりっと音を立てる。
いちるんが本当に嬉しそうに笑うから、悠太も釣られて笑った。口角が痛むほどに微笑んだのは、久しぶりだった。
「悠太は、あの日の僕を、もう怒ってない?」
「怒ってない。でもこれからは隠し事なしね」
「うん、約束する」
悠太は倒れた自転車を起こして、楸都瑠に問いかける。
「いちるん、後ろ乗る?」
その問いに、楸都瑠は曖昧に視線を泳がせた。
小さな沈黙の中、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
悠太よりも早くその声に反応した楸都瑠は、キョロキョロと周りを見渡した後、猫の姿が見つけられないことを少し残念そうにしながら、悠太の自転車を撫でた。
「……乗る」
二人は一台の自転車に乗って、春の公園の中を駆け回った。
それから、あの日紙飛行機を飛ばした川沿いの土手を走って、なんでもない言葉を交わす。
話していなかった時間を埋めるように、巻き戻るように。
顔は見えないけれど、悠太の腹に手を回す楸都瑠は微笑んでいるんじゃないかって思った。
だって、俺がそうだから。
「風、きもちーね」
「あはは!そうだね!」
嬉しそうな声色でそう言ったいちるんは、配信で歌った『クローバー』を口ずさんでいた。
深く深く息をして、歌い続けていた。
あまりに綺麗な春だった。
end



