5月8日木曜日

その時教室には、彼女だけが佇んでいた。
思い返せばそれは……偶然だったのだろうか。

「楸くん、私と付き合ってくれない?」

三年一組。よく晴れた日の放課後。
生徒会の仕事の途中で、机の中に忘れた筆箱を、教室に取りに戻った時の事だった。

「……緒川」

今年初めて同じクラスになった女の子。
派手な見た目とは裏腹に頭が良くユーモアもあると知ったのは、隣の席になった時だ。

ちょうど席替えをしたばかりで、お互いの席は窓際の一番前の席と、真ん中の席に離れてしまっていた。

「楸くんのこと、好きなの」

離れた席の辺りから、彼女はまっすぐ、こちらの目を見て言っていた。

「いつから?」

確かに親しく話していたけれど、好かれるほど仲良くしていたつもりはなかった。だからこそ、理由を尋ねたくてそう聞いたのだけれど。

「ゴールデンウィークの前から」

彼女は長い髪を耳にかけながら口を開く。

「一昨日、ゴールデンウィークが終わったばかりだろ」

「自覚した時から、もし二人きりのチャンスができたら伝えようって思っていたの」

「それが思ったより早く来たんだな」

「その通り」

彼女は堂々と、それでいて嬉しそうに笑っていた。

自信でも、あるのだろうか。

都瑠は、緒川瀬奈の髪を見た。淡い茶色に、毛先は少し白っぽくすら思える。
それから、爪を見た。ぷっくりと膨れた爪には、銀色の装飾がされている。

そして、彼女の顔を見た。綺麗に整った顔には、当然のように化粧が施されていた。

「どうして僕なんだ」

「頭が良くて、おもしろい。それに居心地が良いから」

彼女はまた自信満々に笑みを浮かべて答えた。

誰かに認められるのは、単純に嬉しい。都瑠は、告白をされたことなんて今まで無かったわけで。当然、どこか舞い上がっている部分もあっただろう。

「僕も、君と話すのは好きだよ」

「それじゃあ付き合ってくれる?」

「……うん、わかった」

少しだけ悩んで、そう言った。
特別好きだったかと言われたらそうではないが。一緒にいたら、知らない感情を得られるかもしれないと思った。

それから、笑った彼女の目元を見る。
しっかりと引かれたアイライン。その力強さに、何かを試されている気がして、息が詰まりそうだ。

「その代わり、一つ条件」

緒川は首を傾げる。また、茶髪がサラリと揺れた。

「その髪色を黒に。爪をまっさらに。メイクをゼロに。そうしたら、君と付き合っていることを周りに公表してもいい」

「そうしなかったら?」

「誰にも知られないようにするだけだよ。この関係は内密にしたいんだ」

「私の見た目のせい?」

その通りである。
生徒会長として、本来は取り締まらなければいけない対象をそのまま許すわけにはいかない。

ただ、それを直さなければ付き合わないだとか、そこまで厳しく言うつもりもなかった。

髪を染めるのも、派手な装飾をするのも、正直個人の自由である。損をするのは自分だけなんだから、都瑠は注意をするだけが仕事だろう。

けれど、恋人関係と知られた場合、都瑠にまで損が回る。それは避けたかった。

「悪いが僕は、生徒会長だから」

都瑠も、自信があるように言って見せた。

「うん。わかった、内緒でいいよ」

彼女は当然そちらを選んで、頷いた。

そうして僕達は、恋人という関係になった。
それはどこか名ばかりの、あるようで、ないに等しい関係だったとも言える。

けれど、どこか救われていた。
誰かに選んでもらえたことが、やっぱり嬉しかったのだ。まだ本物の恋になれなくても、きっといつか、変わるだろう。そう信じて止まなかったのだ。


6月14日土曜日

梅雨に入り、雨が続くある日。

その日は学校が休みで、鯨前線としての仕事があった。二年前から従姉妹の杏ちゃんと始めたアーティスト活動が、半年ほど前から凄まじい人気を博すようになった。

きっかけはアニメの主題歌に曲が使われたことで、注目されてからは新曲を出す度にSNSで拡散されるようになった。

その生活に中々慣れない都瑠は、頻繁にSNSをチェックし、自分達に向けられる世間の声を隅から隅まで確認していた。

その日も、レコーディングを終えた車の中で、鯨前線というワードを検索ボックスに入れる。

『流行りの鯨前線の良さがわかってきた、癖になる』

『鯨前線のデミの声好きだ〜』

そんな肯定的な意見が溢れていて、都瑠はほっと胸を撫で下ろした。世間の目に晒される中、自分が間違っていないか、そればかりが気になっていた。

「杏ちゃん、駅ついたよ」

運転席でハンドルを握る、悟くんが言った。
マネージャーであり、二人の叔父にあたるその男は、車を停めてからこちらを振り返り、「杏ちゃん!」と大きな声で言う。

都瑠の隣でウトウトと微睡んでいたらしい杏ちゃんは、「はーい」と眠たそうな声を出した後、大きなあくびをした。

そしてノロノロと荷物を手に取り、たどたどしく傘を差してロータリーへと降り立つ。

「杏ちゃん、アルバイト頑張って。気を付けて向かってね」

どこかぼんやりとしている杏ちゃんにそう声を掛けると、嬉しそうに手を振られる。

「都瑠、またね〜!悟くんもありがとう!」

大きな荷物を肩にかけた杏ちゃんは、足をもつれさせながら、人混みの中に消えて行った。

「杏ちゃんは本当に危なっかしいね。しっかり者の都瑠とは正反対だ」

悟くんは笑う。
そして車は都瑠の自宅へと動き出した。

都瑠はスマートフォンの上で指を滑らせて、今度は別のSNSアプリを開く。

「あ、」

更新されてる。

都瑠の口角は無意識に上がり、嬉々として画面をタップした。

クラシック音楽と共に、仄暗い動画が流れ出した。最初はカエルの鳴き声と、雨粒に揺れる大きな葉っぱ。それから水溜まりの反射、ビニール傘越しに道を歩く所。

「あれ、また見てるの?」

そう声を掛けられ、一時停止ボタンを押した。

「悟くん、しー!新しい動画だから……ちょっと待ってて」

そう伝え、再生ボタンを押す。

梅雨らしい景色と音楽の中、段々と晴れの日が増え最後にはクチナシの花が画面いっぱいに広がった。

「……終わった?」

ルームミラー越しに目を合わせながら悟くんが言う。ほんの少しだけ、面白がるような声だった。

「ごめん……終わった」

「本当に好きだよね、その人の動画」

都瑠はそれを否定しない。

「ちょっと寂しくて、ノスタルジックな気持ちになるから好きなんだ」

見たこともない世界なのに、どこか懐かしくて寂しくて、夢と現実の間みたいな景色。

時々更新される、その人の動画がとても好きだった。

初めてその動画と出会った時に、泣きそうになった事をよく覚えている。

そして、心から欲しいと思った。
その才能と、薄暗い美しい世界を。

同じ景色を見たい。同じ様に世界を感じたい。

どうすればいい?
どうして自分は持っていないのか。

嫉妬心のような、劣等感のような、そんな感情を飛び越えて、ただただ欲しいと思った。

つまり、猛烈に惹かれていたのだ。
その世界に。

動画の風景に随分見覚えがあったから、最初は、家が近いのかな、と思った。

位置情報の関係でオススメに出てきたのかもしれない。なんて、その出会いに驚きながらも、欲しくて堪らないその才能を毎日眺めていた。

動画主には、名前がなかった。
"@uuuu_xxxx_"というユーザーネームだけで、名前がついていなかったんだ。

だから勝手に、uさんって呼んでいた。

uさんは、どんな人なんだろう。

サラリーマンかな?大学生かな?もしかしたら、おじいちゃんカメラマンとかだったりするかもしれない。

無意識に、男性だと決め込んでいたのは、作風が随分と渋くて大人びていたからだ。

「ミュージックビデオとか、作ってもらえないかな」

車の中で、都瑠はポツリと呟いた。

「その人に?」

「うん。鯨前線の曲に合わないのはわかってるけど、ちょっと静かなバラードとかなら、どうかなぁって」

「……そうね〜、ちょっと考えてみるか」

悟くんは、意外にもそう言った。

「いいの?」

「都瑠が何かやりたいって言うの、初めて聞いたから。叔父さん的には叶えてやりたいよ〜」

「悟くん、最高」

都瑠は笑った。

鯨前線の活動は、元々は杏ちゃんの夢だった。
だからこそ、杏ちゃんがやってみたいと言うことは全て叶えてきたし、実際にそれが成功していた。

だから都瑠は自分の理想など、あまり口にはしなかった。都瑠の自我が、鯨前線らしくないと評価されてしまうのが怖かったから。

だけど、そんな臆病な気持ちを飛び越えるほどにuさんの動画に惹かれてしまった。

どうにかして、近付きたかった。
手に入れたかった。

それはあまりに、身勝手だろうか。

「都瑠のそれは、『デミアン』の……ほら、なんだっけ、なんたら君が、デミアンに惹かれる気持ちと、ちょっと似てるね」

「え……?」

ヘルマン・ヘッセの『デミアン』は、活動名の由来にするほど、好きな小説だった。

「ちゃんと読んだわけじゃないけど、なんとなく覚えてるよ。都瑠が自分の殻を破るのが、少し重なっただけ」

悟くんは、なんでもない風に言った。

けれど都瑠にとってそれは、妙な感覚だった。
主人公のシンクレールがデミアンに抱く感情は、一言で表せないほどに複雑だったからだ。

都瑠がuさんに向ける好意は、もっと簡単で単純な憧れだと、願いたかったんだ。


6月19日木曜日

ある日のことだ。
都瑠は、恋という言葉の、本当の姿を知ることとなる。

それは長い梅雨の最中。

「会長〜!来週の風紀チェック、絶対引っかかる人多いですよね。多めに印刷しますか?」

まだエアコンを解禁していない生徒会室には、サーキュレーターの音が響いていた。

パソコンの前には、二年生の真田あこが眉間に皺を寄せて座っている。

生徒会室には、二人きりだった。
副会長のてつじくんも、会計のえみちゃんも、書記のよしくんも、掛け持ちしている部活動に参加することが多い。だから、あこちゃんはいつも人一倍頑張っていて、都瑠はそれに負けないように、良い見本でありたいと思っていた。

都瑠は静かに彼女の背後へと回り、肩越しにパソコンの画面を覗き込む。

エクセルシートに、校則違反の生徒に渡すチェックシートが表示されている。

「ああ、チェックシートか。用意してくれてありがとう。あこちゃんは仕事が早いな」

「えへへ〜!明日には風紀委員に回したいと思ってます!」

「一年生は初めての風紀チェックだし、引っかかる生徒も多いだろう。多めに印刷してほしい」

年に三回行う抜き打ちの風紀チェック。
校則が緩いことで知られているこの高校にとって、形だけの取り組みとも言える。

その準備を進めてくれていたあこちゃんに、都瑠は礼を言う。彼女は目を細め、ほんの少し顎を上げて歯を見せて、嬉しそうに笑っていた。

そして、その日できる仕事はほとんど終わらせた都瑠は、あこちゃんと共にA4に印刷したチェックシートを四分割に切るという、地道な作業に取り掛かる。

「会長は、緒川先輩にも風紀チェックの日程は内緒にしてますか?」

生徒会の役員には、緒川と交際している事を話していた。内密な関係とはいえ、お互い、信頼できる人間にだけ打ち明けることにしたのだ。

だから時々、あこちゃんは恋愛話を都瑠に持ち掛ける。

「当然だろう。全員平等だ」

「あの髪じゃ生徒指導行きですね〜」

「それが緒川の選択だから、仕方ないよ」

「まあでも、女の子は見た目でクラスの立ち位置も変わりますし……みーんな、ルッキズムに悩まされてるんですよ」

「そういうものか?」

あこちゃんは切りそろえたボブスタイルで、風紀の乱れなど一切感じさせない容姿をしている。
全員、彼女を見習えばいいのに、と思うのだけど。

「今年の風紀チェックは一年男子担当なので、女の子の怖い顔見なくて済むんですけどね」

あこちゃんは安心したように息をついていた。


そんないつも通りの一日。
一人で帰路に着く途中、それは起こった。

雨続きの毎日の中で、久しぶりに太陽が顔を出したその日の夕方は、とても心地好くて。
都瑠は、少しだけ遠回りをして帰ることにした。

夏になるとひまわりが一面に咲くことで有名な、地元の公園。その中を歩き、普段あまり立ち入らない散歩コースへと足を踏み入れた。

その先で、見掛けたのだ。

淡い淡いミルクティー色の結かれた髪、だらしなく着崩された白いワイシャツ。制服のスラックスは大きく捲られていて、筋肉質なふくらはぎが見えていた。有名スポーツメーカーのスニーカーを履いた同じ学校の生徒が、数メートル先を歩いている姿を。

頭の先から足元まで。どうしてか鮮明に焼き付いたのは、ちょうど風紀チェックの話をしていたからだろうか。

ああ、この生徒はチェックシート全てにレ点が入って、生徒指導の教師へと回されるだろう。

そう思い、自然と歩くスピードを落としていた。そうしなければ、その男子生徒に追いついてしまいそうだったのだ。

なんでこの人は、こんなに歩くのが遅いんだろう。進んでいるようで、進んでいないじゃないか。

よくよく見れば、その男子は手に持ったスマートフォンをゆっくり動かして、なにか撮影しているようだった。

「こら、噛むなって」

その男は笑いながらそう言って、足を上げた。
そこには、小さくて黒い仔猫がぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

なんだ、猫を撮っていたのか。

「おまえ、靴下履いてるみたいで可愛いな〜」

独りだと言うのに、男は大きな声で仔猫に話しかけている。少し掠れた笑い声とその光景に、都瑠もつられて笑みがこぼれた。

邪魔をしては悪いと思い、来た道を戻ろうと思った。だけどどうしてかその光景を見ていたいと思い、足が動かなかった。

すると仔猫は、地面に腹を向けて転がり、その男のスニーカーに頭を擦り付け甘え始めた。

「おまえもっと警戒心もてよ!俺が悪人だったらどうすんの〜焼いて食われちゃうぞ!」

そんなことをまたもや大きな声で言うから、都瑠は少し笑ってしまった。
それからその男は、またスマートフォンを構え、今度は猫の前足をアップで撮影し始めた。

なんだか、独特な撮り方だな……。

と思ったその時、直感的に気が付いた。

彼がそうなんだ、って。

その妙な確信は、その翌日に現実となった。
仔猫の前足が動画作品となりuさんのアカウントから更新されたのだ。

自分の直感が当たっていた喜びなんてものはなくて、ただ絶望感に襲われた。

あの才能の持ち主は、ほとんど年齢が変わらない、同じ高校の生徒だったのだ。
しかも、見慣れぬ生徒……つまり同じ学年では無いということは、年下なんだ。

羨ましい。羨ましい。
欲しい、近付きたい、知りたい、同じ世界を見たい。

わがままな欲が湧き上がり、それを必死に見ないように、見ないようにってかき消した。頭を横に振って、忘れようとした。

それでも、何度も浮かんでしまう。
明るい髪色に、いい加減に着こなした制服姿。いったい何年何組の、誰なんだろう。
黒い仔猫の、白い靴下を愛おしそうに見つめるその横顔を何度も思い出して、都瑠は眉根を寄せた。

話してみたい。
僕にも、笑いかけてほしい。
叶うなら、あの仔猫になりたかった。
どうしてそう思うのか、わからなくて戸惑った。

その時に都瑠は、uさんの動画を手に入れたいのか、同じ世界を見たいのか、彼の笑顔を手に入れたいのか、わからなくなった。

緒川に抱く気持ちなんて、この十分の一すら持ち得ていないのに。どうして、と何度も自分に問い掛ける。

そう、だから、もっとわかりやすく、この世界でよく使われる言葉を借りるとしたら、それは、やっぱり恋だった。

彼の世界にも、彼の笑顔にも。ただ一目惚れしたのだと自覚した。それは都瑠にとっての、最初の恋だ。
胸が深く苦しくなる、知らない感覚だったのだ。


6月22日日曜日

その想いは、寝ても醒めない物だった。

都瑠は愚かにも思ってしまったのだ。
uさんにも、自分のことを知ってほしい、と。

SNSを開く。鯨前線のアカウントでも、個人の物でもなく、新しいアカウントを作成することにした。

@ichiru_0402

都瑠という名前は、珍しい。
生徒会長として名前も知れ渡っているだろうから、このユーザー名でコメントをすれば、あの男子生徒は気が付いてくれるかもしれない。

『すごく綺麗ですね、いつも通る帰り道がこんなに綺麗なんて』

『嬉しいコメントありがとう。けど消した方がいいかも、住んでる場所わかっちゃうよ。』

SNSに疎いフリをして打ち込んだコメントには、すぐに返信が来た。

それだけで嬉しくて、嬉しくて。
都瑠は画面を凝視したまま、しばらく何もできなくなった。宝物みたいなその画面をスクリーンショットに収めて、もうきっと来るはずのない返信を、待ち侘びるように過ごす。

ああ、そわそわする。

胸は高鳴っていた。

都瑠は、もっともっと、と欲が出て、ダイレクトメッセージを送る画面を開いていた。

『どうしたら、同じ景色が見えますか?』

しかしその日、返信が来ることはなかった。

その翌日。返事を待ち寝付けなかったせいか、午後の授業で気分が悪くなった。保健室へ行き熱を測ると、珍しく微熱があった。

恋に浮かれて体調を狂わすなんて。
自分が恥ずかしい。

「ありがとうございました」

少し休んだ後、教室に戻ろうと保健室の扉を閉めた、その時。

廊下の先にuさんを見つけた。
都瑠は思わぬ偶然に戸惑うことなく、導かれるように彼に近づいた。

「髪、ワイシャツ、サボり、君は何年何組の生徒だ?」

頭のてっぺんからつま先まで。
この前見た姿と同じかどうか確かめながら言った。生徒会長として、あくまで注意をするために、と心の中で言い訳をしながら。

「二年四組の篠山悠太」

ささやま、ゆうた。

uさんの名前は、悠太っていうのか。

ミルクティー色の髪がサラリと揺れて、彼はこちらを向いた。
その瞳の中に、自分が映ることが嬉しかった。

「篠山悠太、次もそんなふうに髪を結いていたら生徒指導に回すぞ」

都瑠はその名前を確かめるように口にした。
すると、こちらを見ていた篠山悠太が、キョトンとした表情で口を開いた。

「ねぇ楸都瑠、ここにいるあんたもサボりじゃないの?」

それ以降、どんな会話をしたのか覚えていない。

篠山悠太は、僕の名前を知っている。

その事実が嬉しかった。だってきっと、あのアカウントが都瑠の物だって、気が付いたはずだから。

自分の珍しい名前と、生徒会長という役職に感謝しよう。

都瑠は、浮かれていた。
当然だろう。篠山悠太は僕を見て、僕を知った。
uさんの世界に、ほんの少し入り込んだんだ。

上手くやれば、もっともっと近付けるかもしれない。生徒会長の立場も、デミの立場も、全部使おう。全部使って、もっともっと、篠山悠太に近付こう。

そして、同じ景色を見るんだ。

そう思うと、胸が高鳴った。未来が明るく思えた。希望を知った、楽しくなった、あの、ミルクティー色の髪に触れたくなった。止められなかった。


「篠山悠太っていう生徒のこと、教えてくれないか。あこちゃん、同じクラスだろう」

その日の放課後、体調不良なんて忘れて、生徒会室に顔を出した。篠山悠太のことを、あこちゃんに聞くためだ。

「篠山?会長、知り合いなんですか?」

まあそんなところ、と曖昧に答える。

「今は仲良くなりましたけど、中学の時は柄の悪い年上のグループと付き合いがあったり、大学生と付き合ってたり、とにかくヤンチャな人で怖かったですよ〜」

「中学も一緒なのか」

「そうなんです!初めて同じクラスになって隣の席になった時には、保健室登校を覚悟しました!」

「でも、今は仲良いんだ?」

「ほら、ヤクザが一般人には優しい……みたいな感じで、案外優しい普通の男の子だったんです。それで今は普通の男友達です!」

それに、とあこちゃんは続ける。

「去年も他校の人と喧嘩して顔に怪我して登校した時ありましたけど、最近は落ち着いてますね」

そうか、そうなのか。
篠山悠太という人間の解像度が上がり、鮮明になっていく。


それから数日。
生徒会室に、篠山悠太が訪れるようになった。

これからどうやって関わっていこうかと悩んでいたから、とても有難いことだった。あのコメントやDMがきっかけで、興味を持ってくれたのだろうか。

一緒に帰ったり、話をしたり。校内で偶然会う度に、「いちるんだ!」と人懐っこく手を振られたり。
ああ、それから紙コップで糸電話をした日もあった。

そうやって近づくたびに、苦しくなった。
好きな人がそばにいるというだけで、世界はこんなにも楽しくて、明るくて、美しくなるというのに。
その世界のどこにも、自分の恋は存在を許されていない気がして。

そして、ある時ふと思った。
もしも僕が女だったら、この想いは許されるのに。

両想いだとか、付き合うだとか、そんなことまで望んでいない。
ただ、「好きです」と言っても否定されない世界にいたかった。許されたかった、認められたかった。

なんで僕は、男なんだろう。

気持ち悪がられないよう、必死に隠さなきゃいけない。無関心を演じなければいけない。こんなに毎日楽しいのに、いつか終わりが来るとわかっている。

どうして僕は、男なんだろう。
どうして彼も、男なんだろう。
どうして僕は、彼を見つけてしまったのだろう。
あの笑顔を、愛おしいと思ってしまったのだろう。

いや、そんなこと、考えたって仕方がない。
隠し通してでも、近付くんだ。見てもらうんだ。知ってもらうんだ。同じ世界に触れるんだ。

それだけでいい、それだけで。


8月2日土曜日

偶然、ショッピングモールで篠山悠太に会った。
夏休みに入って、連絡先も交換したわけではないから、接点が無くなったと思っていた矢先のこと。

鯨前線のアルバムの発売日だから、店頭に並ぶCDを見に行っただけなのだが。

ああ、来てよかった。

素直にそう思い、すぐに帰ろうとする篠山悠太を引き止めた。

そしてその日の別れ際、『車輪の下』という小説を渡した。本当は『デミアン』を渡せたら良かったけれど、その日持っていたヘッセの本は、それだけだったから。

「毎週月曜日には生徒会室にいるから、読み終わったら返しに来てほしい」

小説は、夏休みという曖昧な距離の中で唯一の、二人の繋がりだ。
次に会う口実であり、作戦である。

そして、この熱が冷めないうちに次の手を打たなければいけない。

これは焦りではない。気まぐれな篠山悠太の心が、どこか離れていってしまう気がしたから、色んな方法で繋ぎ止めるしかないのだ。距離を詰めるしかないのだ。

都瑠はその翌週、悟くんに電話を掛け、uさんのアカウントにDMを送るようお願いした。
鯨前線からのミュージックビデオ作成の依頼のDMだ。

「僕が自分のアカウントからDMを送ったら返事が来なかったから、無理かもしれないけど」

「わかった、鯨前線の公式アカウントからメッセージ送ってみるね」

どうか引き受けてくれますように。

その願いは叶い、uさんはその仕事を引き受けてくれた。


それから約一ヶ月後、都瑠はデミとして……篠山悠太はuさんとして、互いに偽りの姿でメッセージを交わすようになった。

文化祭の話をした。
生徒会の話もした。
篠山悠太のことを匂わせるような話もした。

『少し前から、ちょっと変わった友人ができたんです。後輩なんですけど、自分とは違うタイプで、一緒にいてとても楽しくて、最近は学校に行くのが前より楽しみになりました。』

これを送った時、ポコポコと続いていたレスポンスが止まった。uさんが、少し手を止めたのだ。まるで、息を呑んだかのような沈黙だった。

きっと、気が付いている。

ここまですれば、気が付かないはずがないだろう。uさんは、篠山悠太は、きっと、デミが都瑠だと気が付いたはずである。

都瑠は、そう確信していた。


9月22日月曜日

季節は巡り、文化祭の準備が本格的に始まった。

数ある生徒会の仕事の中で、演劇の練習の見回りだけが億劫で、都瑠はなるべく、他の仕事で忙しい振りをした。

「会長〜緒川さん来ましたよ、見回り行きましょ!」

あこちゃんの声に振り向く。
文化祭実行委員長である緒川が生徒会室の前でこちらを覗いていた。

「ああ、すまない。キリが良いところで向かうから、先に行っててくれ」

都瑠はなんでもないプリントに目を通しながら、いたって平然と言って見せた。

見回りに行けば、学園演劇に参加した篠山悠太に会える。だけど、彼はいつも仲の良い友人、野沢八尋と楽しそうに笑っているから。それを見るのが嫌だった。

それは単純な嫉妬心で。
野沢八尋が羨ましかった。違和感なく肩を組めるその距離に、行きたかった。そうはなれない悔しさに直面するのが辛かった。

都瑠は二人を見送った後、しばらくして生徒会室を出た。重たい足を動かして、練習場所の教室へと向かう。

三階の廊下には眩しいほどの光が射し込み、その場の温度を上げている。窓は開いているが、少しも風は吹き込まない。遠くから、運動部の掛け声が聞こえるだけで、その廊下はあまりに静かだった。

「……いい?」

その時。どこからか、篠山悠太の声が聞こえた気がした。

声のする教室の前を通り掛かる。この教室は空き教室で、使われなくなったグランドピアノを置いていたはずだ。
中の様子が気になったが、廊下側の窓はすりガラスで何も見えない。

……見えない方が、良い時もあるか。

都瑠はその教室を通り過ぎて、目的の場所へと向かおうと思った。
けれど、教室の後ろ側の扉が、少し開いている事に、気が付いてしまう。

都瑠は篠山悠太への関心に打ち勝てず。廊下に誰もいないことを確認し、その細い隙間から、教室の中へと目を向けた。

「──っ!」

その光景に、言葉を失う。

なんだ、なにをしているんだ。

薄暗い教室に、二人の生徒だけ。
ピアノの前に座る野沢八尋に、篠山悠太が……顔を、近付けていて。
まるで、口付けをしていたように見えた。

あれは演技じゃない。そんな台本、僕は見ていない。

都瑠はすぐに目を逸らし、音を立てないように廊下を歩いた。背中におかしな汗が溢れて、ワイシャツが張り付く感覚がした。

気持ち悪い、嫌だ、やめてくれ。

普段聞かない自分の心音が、身体中にバクバクと響く。
鼓膜を破る太鼓の音、一時停止を押しても鳴り止まない音源みたいな、そんな、ドンドン、バクバク。

「あ、会長!」

廊下に響くあこちゃんの声で、都瑠は目を覚ます。

「ああ、あこちゃん……見回り、終わった?」

「下の教室は見てきました!今日は色々なところで分かれて練習してるみたいです」

「そう、なんだ」

「なのでとりあえず三階の空き教室に向かってます」

先程の、教室のことだ。

「行きましょ行きましょ」

行きたくない、なんて言えるはずもなくて。
あこちゃんと緒川の後ろを着いて歩いた。

どうか、何かが始まっていませんように。
扉に手をかけるあこちゃんの後ろで、都瑠は震える指先を身体の後ろに隠して、祈ることしかできない。

「失礼しまーす!」

扉は勢いよく開かれた。都瑠はこっそりと目を瞑る。

「あれ、アコチじゃん!」

篠山悠太の、なんでもない声で目を開けると、野沢八尋と彼の距離は数メートル開いており、まるで何もなかったかのように笑っていた。

野沢八尋に目を向けると、彼は篠山悠太の背中を見て微笑んでいた。パックのアイスココアを飲みながら、なんだか余裕そうに、目にかかる金髪を、耳にかけながら。するとその金色がチカチカと光って、都瑠の目の奥を焼いた。

だから、そのふざけた髪色が目障りで堪らなく感じたんだ。

都瑠の二本の足は、野沢八尋の前へ。
そしてこの口は、愚かにも彼の名前を言葉にする。

「野沢八尋、その髪……文化祭までには、何とかして来い」

少しも優しくなんかない、あまりに鋭い声色が自分の腹から飛び出した。

我慢しなきゃ。止まれ、止まれ。
ここで過剰に怒るのはおかしい。

頭ではそう思うのに、なんだか変だ。焼かれた目の奥が、破れた鼓膜が、都瑠をおかしくしている。

「前任の会長から聞いてるよ。去年の喧嘩のこと。君一人の印象で学校のイメージを下げるから──」

言葉が止まらない。誰の声だ?誰の意思だ?

篠山悠太が彼を庇うように前に立ち、広げた腕で野沢八尋の肩に触れた。
その困った表情と指先を見て、都瑠は後に引けなくなった。

「最近は大人しいって、そんなの誰がわかるって言うんだ?誤解されたくないなら、注意を受けたくないのなら、最低限の身なりを整えろ」

そうして、彼を否定することでしか、気持ちの行き場を見つけられなかった。

僕は僕が情けない。

どこまでが、生徒会長として違和感のない言動だっただろうか。今まで、誰かをこんなに叱ることはなかったのに。

派手な緒川の事も、篠山悠太のこともこんなに叱ったことはないのに。

きっと僕は間違えた。選ぶ言葉も、態度も、想いすら。
それがわかっていたから、逃げ出すようにその教室を後にした。

篠山悠太が後を追ってやってくる。

都瑠はなにを言われても、もう取り返しのつかないことが分かっていたから、熱い手に腕を掴まれても、早足で、その場を立ち去ることを選んだ。

恥ずかしかった。消えてしまいたかった。
逃げ出したかったんだ。ずっとずっと手が震えていた。


その週の金曜日。
都瑠はデミの仮面を借りて、uさんに本音を打ち明けた。篠山悠太のことが気になっていると、伝わるように話をしたのだ。

これで変わらず返信が来れば、安心できるから。
試せば試すほどに、安心できるから。

彼の優しさに、甘えていたかった。

『羨ましくなったんです。二人がすごく仲が良いから、嫉妬しちゃって、言葉が強くなりました。後悔しています。』

篠山悠太は、ぶつけられる本音をどう受けとるのだろう。画面の中の紫色の吹き出しは、もはや謝罪ではなく、告白だった。

『それだけ気持ちが傾いているなら、今の恋人とはお別れした方がいいのではないでしょうか?』

その返信に、都瑠を包む時が止まった。

篠山悠太は、僕の気持ちを、どう受けとった?
どうして肯定してくれるのだろう。どうして。

どうして……僕は男で、彼も男なのに。どうして平然と、受け入れるんだ?

近付ければ友達でいいのに、仔猫でもいいのに。恋じゃなくてもいいと、言い聞かせていたのに。
僕は、彼にとっての何になろうとしている?

都瑠は戸惑った。拒否してくれれば、諦めがついたかもしれない。もうこのまま、遠のいていくだけだったのに。いざ受け入れられれば、わからない。

僕はこの先、どうしたらいい。


10月9日木曜日

あれから、篠山悠太とは話をしなくなった。
どんな顔をして向き合えばいいのかわからず、避けていた。

それなのに、文化祭の前日。

明日に迫る文化祭のため準備に精を出し、忙しなく動き回るその傍で。
自転車の二人乗りをする生徒を見つけてしまった。

野沢八尋と、篠山悠太だった。

都瑠は自分の気持ちに嘘が付けず、また野沢八尋を注意した。生徒会長としての注意半分、嫉妬半分の、醜い感情だった。
篠山悠太は、僕の嫉妬を受け止めてくれると思ったんだ。

だけどそんな訳もなく、彼は怒り、自転車を置いてその場を立ち去った。

都瑠は彼の真っ黒の自転車を駐輪場に停めて、盗まれないよう鍵を掛けた。

「……僕は、この自転車の後ろに、乗りたかっただけなのに」

誰もいない、太陽の陽射しを遮る駐輪場の中で、小さく呟いた。

そしてその日の夜、自転車を取りに戻った篠山悠太を待ち、謝罪をした。彼は真顔のまま都瑠へとパーカーを投げて、それを着るよう言った。冷えた身体で、その温もりと篠山悠太の香りを受け止める。

その温かさが、驚く程に幸せだった。

「……いちるんは、八尋が嫌い?」

彼は、暗い夜道に響く鈴虫の声に紛れて、静かに言った。

「彼のことを名前で呼ぶから」

「八尋のこと?」

「……そう、他の誰にもあまりにふざけたあだ名で呼んでいるのに。彼だけは違うから」

都瑠は言った。受け止めてくれるって知っていたから。本音が言えた。

篠山悠太の、自転車を押す腕へと手を伸ばす。
そのワイシャツの隅を、遠慮がちに摘んだ。手が届く距離にいることがただ嬉しいだけなのに。それ以上を望んでしまう。

「僕のことは名前で呼ばないだろ」

小さく言った。声が、震えた。

「呼んでほしいの?」

篠山悠太にそう聞かれ、都瑠は言葉を詰まらせる。何か言わなきゃ、黙っちゃダメだ。

でも、どんな言葉で飾れば幸せな結末が待っているのか、わからない。

「どうだろう、そういうことでもないのかな。わからない」

素直に言えば、篠山悠太は眉根を寄せて、口元を歪ませる。

「……わからない?」

冷たい声だった。

「ねぇいちるん、緒川さんとは上手くいってるの?」

この言葉は、あのDMの続きだ。
そう、思った。

「わかりたいんだったら、さっさと緒川さんと別れたら?」

都瑠にとってその言葉は、命令のように聞こえた。

家に帰り、パーカーを洗濯機に入れてスイッチを押した。

それから、スマートフォンで緒川の連絡先を開き、通話ボタンを押す。それは、洗濯メニューを選ぶ感覚と同じくらい、軽やかなものだった。

「……緒川、ごめん、夜遅くに」

「ううん。どうしたの?文化祭のこと?」

「いや、違う。僕と、別れてほしいんだ」

「……え?」

洗濯機が、ガコンガコンと大きな音を立てて回っている。

「そう、そうね、わかってた。今までありがとう」

彼女はそう言って、すんなりと電話を切った。

篠山悠太が望むのであれば。こうする他ない。

都瑠はこの頃、女になりたいと思わなくなっていた。
導かれるまま、許されるまま、彼に近付こうと必死になるばかりだった。

けれど同時に、世間の目ばかりが気になって。
誰にも邪魔されないように、世界に二人きりだったら良かったのにって。そんな非現実的なことばかり思って、自分の馬鹿さ加減に呆れてたんだ。


10月10日金曜日 文化祭1日目

スマートフォンがけたたましく鳴っている。アラームの音だ。眠い目をこすりながら画面を開き停止ボタンを押す。

そのまま通知を確認すると、悟くんから長文のメッセージが目に飛び込んできた。

「……いじ、め?」

飛び起きた。頭がついていかない。
強く目を擦って、画面を見返す。

鯨前線のアンがいじめ主犯格だった、というデマが飛び交い炎上しはじめているという内容が、浮かんでいる。

都瑠は急いでSNSの検索ボックスに鯨前線の文字を打ち込む。それだけで、検索予想に「アン」「いじめ」「主犯格」などの文字が並んだ。

掌に、汗が滲んだ。お腹の奥の奥が痛かった。
鋭すぎる批判の声を目にして、急いで閉じた。こんなの真に受けたら、おかしくなる。

悟くんからのメッセージには、大人が対応するからなんの発言もしないように、なるべくSNSを開かないように、と書かれていた。

杏ちゃんは、いじめなんてするわけない。

あんなぼんやりとしていて攻撃性のない女の子、他に知らないくらいだ。身内の前だけではなく、それはどこでだって同じはず。都瑠は信じていた。

だからきっと大丈夫、そう思うのに、燃えていく地位があまりに怖くて。震える指先に力を込めたまま、文化祭へと向かった。

そして、どうしてか、悪いことは続くものだ。

順調に進んでいたと思っていた文化祭は、「火事だ!」というその一言で、地の底へと落ちていく。

そして、そう、今にもちぎれそうなほどに張り詰めた一本の糸が音もなく切れてしまったのは、轟々と燃え上がる炎を見上げた時だった。

『生徒会長なんだから手本となるように』

先生の声。

『今年は楸くんが生徒会長だから大丈夫』

生徒の声。

『アーティスト活動を続けたいなら、成績も生徒会もしっかりやりなさい』

両親の声。

『都瑠は私と違って優秀だから』

杏ちゃんの声。

『デミは綺麗だね』

ファンの声。

『ちゃんとしなきゃダメだ。このままじゃダメ、どうにかしないと、どうにか立て直せ』

自分の声。

沢山の声が、炎の中から聞こえてくる。

高校生活最後の文化祭は、自分が生徒会長として動く最後の大きなイベントだった。
だからこそ、どこまでも真面目に、誰よりも成功を願い、遅くまで学校に残り自分の役割を果たしたというのに。

その生真面目さや仕事量など関係なく、不運は訪れるものなのだと思い知る。

まさか自分が所属するクラスでこんな騒ぎを起こしてしまうなんて。

怪我人がいなくて良かったとか、被害が最小限で良かったとか、それでも怖がらせてしまった生徒に申し訳ないだとか、そんな感情を抱くまでに随分と時間がかかった。

糸が切れ、炎を瞳の中に映した僕は、『どうにかしろ』と叫ぶ頭と反対に、ああもうどうにでもなれ、と無責任にも思ってしまっていたのだ。

そんな自分が嫌だった。
何ひとつ上手くできない自分が嫌だった。
文化祭を事故なく無事に成功させる、なんて毎年できていたことがどうしてできないのか。

都瑠は自分を責めるばかりだった。

炎の中に、鯨前線のデミがいた。
生徒会長の楸都瑠も、そこにいた。
理想の自分の皮をかぶったその姿が、燃えて、黒く、崩れ落ちていく。
でも僕は、どうすることもできなかった。

完璧に演じきれば、その姿になったのと同じだから。だから僕は理想の自分を演じ続けてきたのに。

永遠などない。どれだけ上手くやったって、どれだけ努力したって、たったひとつの出来事で全部燃えてしまうんだ。

涙も出なかった。

不幸と言うには軽薄すぎて、何気ない憂鬱の上に笑顔を貼り付けて誤魔化せてしまうような、その程度のことだから。

完璧な自分など何処にもいないと思い知るだけだったから。


10月11日土曜日 文化祭2日目

『俺、花火好きなんだ。通るといいな〜!』

いつだか一緒に帰った時に、篠山悠太がそう言ったから。だから、後夜祭で花火がしたいと、教師に無理を言って実行に移した。安全面に問題がないよう、準備に時間をかけた。

それなのに、都瑠のクラスでボヤ騒ぎが起きた。
だから、花火も中止になった。当然のことだった。

もう、文化祭なんてどうでもよかった。
杏ちゃんの炎上も、やっぱりデマで。杏ちゃんは誹謗中傷を目にしてずっと泣いているって言ってた。

そして気が付いてしまう。この世界は、努力が報われる世界ではないのだと。都瑠は地獄の底の底に落ちてしまい、隠れるようにあまり人の訪れない第二音楽室に身を隠した。

ただ呆然と、SNSを流れる言葉を読んで、鯨前線が悪者にされる様を見続けていた。

どろどろと沈む第二音楽室の扉が、コンコンと叩かれ、篠山悠太がやってきた。

「署名集めてきたから、安心して」

そんな言葉と共に。

「……署名?」

一昨日、妙な空気で彼と別れたことを思い出し、都瑠は目を逸らした。

「花火中止に抗議する署名だよ」

だけど、彼はもうそんな事気にも留めていない様子でこちらへ向かってくる。

「いちるん、どうせ何にも食べてないんだろうから、まずは一緒に美味しいもの食べよ」

両手いっぱいに持った屋台の食べ物を机へと広げて、なんとも不器用に、都瑠を励ましてくれた。

それだけでなく、篠山悠太は本当に全校生徒からの署名を集めたようで、その紙を差し出した。その上、一緒に教師を説得しに行こうと都瑠を誘った。

もう、無理なのに。そんな事、しなくていいのに。

時計を見れば、彼が出演する演劇の時間が迫っている。

「いちるんが先生に提出する所見てからじゃないと、俺は行かないよ」

それなのに、そんな事言うから。

「……頼むから、優しくしないでくれ」

都瑠はそれだけ言葉を残して、立ち去ろうとした。
あまりに情けなくて、もう強がれなくて、自分が自分じゃなくて。これ以上、見せたくない。本当の自分を知られたくない。嫌われたくない。

そう、思うのに。

「優しくしたいわけじゃない、俺はいちるんと花火がしたいだけだよ」

肩を掴まれる。
都瑠の心臓は、突き刺されたように痛かった。

「……僕だって、君と花火がしたかった!」

そのために、これまで頑張ってきたというのに!

その暖かな手を振り払おうとして、バランスが崩れる。都瑠は足を縺れさせて、その場にしゃがみ込んだ。

息が苦しい。息が、苦しい。
酸素が薄い、空の上にいるみたいに、呼吸は細く、浅くなる。

篠山悠太も座り込み、都瑠と同じ高さまで目線を下げた。都瑠は無意識に、彼のパーカーの首元を掴んで、縋るように「助けて」と零す。

「助けるよ。俺、ここに居るよ」

甘く優しい声で、篠山悠太はそう言って、都瑠の背中を撫でた。呼吸が、苦しい。

「いつも、息が、苦しいんだ」

「……溺れてるみたいに?」

篠山悠太は、言葉を探すようにそう言った。

「いや、違う。いっそ海の中だったら楽だったのに」

海の中なら、火もつかない。
それから酸素もないから、こんな風に悩むことなく目を閉じていられるのに。

「例えるならクローバーに埋もれてるみたいなんだ。息ができないわけじゃない。深く吸ったらクローバーが口いっぱいに入ってくるから、口を小さく開けて、浅い呼吸を繰り返している」

自分でも、なにを言っているのかわからなかった。だけど、小さな小さな葉っぱに、いつも埋もれているような気がしたんだ。目を開けると、緑色の隙間から、太陽の光が透けて見えるような、でもどうやったって届かないような。そんな気がして。

「いちるん、四つ葉のクローバーの花言葉知ってる?」

唐突に言われ、首を横に振る。

「幸福、だよ」

篠山悠太の声も、どうしてか震えていた。

そして、それが事実なら、この世界は残酷だと思った。幸せを望めば望むほど、息苦しくなるのだから。

「……口いっぱいの幸せなんて、素敵じゃんか」

美しい景色でも見たかのように、篠山悠太の瞳には光が集まって、揺れていた。

都瑠は振り払うように首を横に振る。やっぱり、わからない。篠山悠太の見えている世界は、都瑠のものとは全然違うのだ。

「そういう話にしちゃおうよ。例え話なんて事実じゃない。そんないっぱいのクローバー、俺には見えてないもん」

篠山悠太は続けて言った。

「大丈夫」

力強く、言った。

「ほら、いますぐ深呼吸して」

そうして抱きしめられる。溢れるほどのクローバーを掻き分けて、都瑠の腕を引き寄せて、いとも簡単に、緑の葉っぱを振り払う。

都瑠はその温もりの中で、口いっぱいの四葉のクローバーを一生懸命に吐き出し続けた。

怖かった。その暖かさが幸せで、怖かった。
だってもう、こんな幸福を知ってしまったら、後戻りできないだろう。


それから、彼と僕がキスをしたのは。
後夜祭の花火が、無事に決行した後だった。

彼の集めた署名と他の生徒の説得のおかげか、教師は考えを変えた。

そもそもボヤ騒ぎも、生徒会と文化祭実行委員に落ち度はなかった不幸な事故であったと、納得してくれたのだ。

都瑠は救われた。
立ち直ることができた。

「なにかお礼、できないかな?」

だからそう聞いた。純粋な、問いかけだった。

「お礼?お礼かあ、女の子だったら、ちゅーしてもらう所なんだけど」

だけど、篠山悠太はイタズラにそう言って笑うから。都瑠の気持ちを知っていて、そんなことを言うから。

「君が言ったんだからな」

僕は彼に口付けをして、感謝の言葉を伝えた。

その時の心境は、不思議なものであった。
心臓はトクトクと高鳴っているのに、なんだか満足感が強くて。緊張よりも、嬉しさが勝っていて。

救いである篠山悠太と、心が通じたようで、ただ嬉しかったのだ。近付きたかった距離に来られたんだ。

彼は、都瑠のことをまた抱きしめて、逞しい腕に力を込めた。

「……苦しいよ」

都瑠は笑った。今この瞬間、世界が終わればいいのに、と思いながら。

「これで苦しくない?」

篠山悠太はその両手で都瑠の手を包み込み言った。

その頃には、口いっぱいのクローバーは消え去って、苦しさなんて無くなっていた。都瑠は広い広い原っぱで、両手を広げ寝転んでいるようだった。

篠山悠太といると、いつもそうだ。二人きりでいる時だけは、いつも、呼吸が楽になる。

彼の生き方が、羨ましい。

「やっぱり、君と話すと息がしやすいよ」

都瑠は言った。

篠山悠太も笑った。

その時、血の気が引いた。

僕、今なんて言った?

息がしやすい。そう言い続けたのは、デミの時だった。DMの上でだけ、uさんを褒める言葉として使っていた。

「……いちるん?」

篠山悠太は、気付いていないだろうか。
大丈夫かもしれない。誤魔化せるかもしれない、不思議そうにこちらを見る篠山悠太に、何かを言って誤魔化さなければ。

そう思うのに、言葉が出なかった。
また、塞がれたみたいに息ができなくなった。

「あれ、なんで?」

だんだんと、篠山悠太の顔が歪んでいく。

それを見て、顔を手で覆った。塞いで、消して、忘れて、見ないフリ。どうか僕を消してくれ。

「いちるん、全部わかってた?」

篠山悠太は、すごく鋭い。そんなのずっと、わかっていたのに。

「"uさん"が俺だって、知ってた?……いつから?DMも?最初の、あれも?俺って知っててあのアカウントでコメントくれたの?」

その言葉達は、ゆっくりと、彼の唇から零れ落ちた。ついさっき、口付けをしたばかりのその隙間から、溢れ出て、消えていく。

都瑠は、頷くことしかできなかった。

「俺たちって、嘘でできてたの?」

その問いに、「ごめんなさい」としか、言えない。

篠山悠太は知ってしまった。

あの動画は篠山悠太が作っているのだと、最初から知っていたことに。デミの正体に気が付くように仕向けたのは、都瑠だということにも。

なんにも、なんにも知らなかったのに。
ぜんぶぜんぶ、知ってしまった。

でも、決して騙したつもりなんてなかった。
だって篠山悠太だって黙っていたじゃないか。

騙すつもりも、面白がるつもりもない。
ただただ自分を偽りすぎて、どこからが人を傷付ける嘘かわからなくなっていた。

騙したつもりなんてなかった。
……だけど、その言葉がまかり通るとも思わなかった。

「そっか。いちるんが好きなのは、俺が見てる景色だったのか」

それは事実であった。けれど、それだけではなかった。

当然、篠山悠太自身が好きだった。
そうじゃなきゃ、キスなんてしない。後夜祭の花火だって、とっくにどうでもよくなっていたはずだ。

君との約束だから、僕は。

「……それでも俺は、楸都瑠もデミも、どっちも好きだよ」

心の中の声が、口に出せていたら良かったのに。
篠山悠太の言葉に、都瑠は臆病になった。

だって、好きだと言ったらどうなる?
嘘が許されるのか?臆病でズルい愚かな僕は、また抱きしめてもらえる?

手を繋いで歩くことも許されない男二人が、こんな残酷な世界でどうなっていくんだ。親は悲しみ、互いの存在を隠して生きていくのか?

「……僕は、よくわからない」

叶うのならば、その言葉ごと受け止めてほしかった。

「……わかった、もういいや。これ以上、可哀想になりたくないや」

だけど、そんなに上手くはいかない。
傷つきたくなくて傷つけてるようじゃ、上手くいきっこないんだ。自分を守れば守るほど、大切な人を突き刺してしまうって知らなかったんだ。

「ちょうどいいよね。これから受験シーズンでしょ?勉強頑張って、もう二度と顔見せないで」

僕は、嘘をつきすぎたから。
いいや、楸都瑠として生まれてきたから。

あの仔猫になることも、友人になることも、自転車の荷台に座ることも、できるはずないんだ。

わかっていた。わかっていたよ。
だから、行かないで、なんて。

口が裂けても言えなかった。