「はぁ…今日も残業か…。」

アキラはいつものようにデスクでパソコンとにらめっこをしていた。果てしないデータ入力と上司からの理不尽な指示に追われる日々。その日も夜遅くまで残業を続け、フラフラの状態で終電間際の電車に滑り込んだ。疲労で重くなった体が、座席に沈み込む。

「…さすがに眠いな」

眠気を感じて目を閉じた瞬間、不意に全身に鋭い衝撃が走った。何が起こったのか全く分からなかったが、強い痛みと共に、意識が遠のいていく…。

そして、ゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。

「え? ここ…どこだ?」

木造の高い天井に、豪華なシャンデリアが輝いている。見渡すと、立派なベッドやアンティーク調の家具が並んでいた。まるでヨーロッパの貴族が住む館のような光景に、アキラはぽかんと口を開けた。

慌ててベッドから起き上がり、自分の体を確認する。スーツ姿だったはずが、見慣れない服に変わっている。ふわりと柔らかいシャツと上質なベスト…。

「え、なんだこれ? 衣装チェンジでもされたのか?」

恐る恐る周囲を見回しながら、頭の中で必死に記憶を遡る。昨夜の残業、終電、そして突然の衝撃。その後の記憶がまるで欠けている。

「夢…いや、でもこの感触…。」

自分の手を握り締め、その温かさを確認した。目の前の光景、空気の匂い、床の質感――すべてがリアルすぎる。鼓動が早まり、思わず深呼吸する。

その時、突然ドアがノックされる音が響いた。控えめでありながら、しっかりとしたリズムのノック。続いて、柔らかな女性の声が聞こえる。

「失礼いたします、教育係様。」

中に入ってきたのは、上品なメイド姿の女性だった。彼女は柔らかな微笑みを浮かべ、アキラに丁寧なお辞儀をする。

「え、教育係って俺のこと? なんかの間違いじゃない?」

混乱するアキラに、メイドはにっこりと微笑んだ。その笑顔は親しみやすいようでいて、どこか毅然とした雰囲気を漂わせている。

「あなた様はリリス様の教育係として任命されました。本日より、彼女の指導をお願いいたします。」

「リリス様? 誰それ?」

「公爵家のご令嬢です。」

メイドは微笑みながらも少し困った様子で答える。

「リリス様はとても個性的な方でして…教育係を務められる方は、これまで誰一人として長く続きませんでした。」

アキラの心には、一抹の不安がよぎる。どういう事だ…?

目の前のメイドの冷静な態度とは裏腹に、自分だけが事態に取り残されている感覚に陥る。

「つまり、俺が今からその子を教えろってこと?」

「はい、その通りです。」

言葉は簡潔で明快だが、アキラにとっては全く納得できない状況だった。頭の中で何度も「教育係」という言葉が反響する。

「ちょ、ちょっと待って。そもそも俺、教育なんてやったことないし…なんで俺なんだよ?」

メイドは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。

「それは…おそらく、何か特別な理由があるのだと思います。ただ、詳細については私には分かりかねます。」

「理由が分からないって…。」

自分の中の疑問が渦巻く中、メイドに促されて広い廊下を歩き出した。途中、窓から外を見ると、美しい庭園が広がり、遠くには城のような建物が見えた。

「ここ、どこなんだ…? 俺、たしか電車に乗ってて…その後は…?」

記憶を辿ろうとするが、肝心な部分がぼんやりしている。

やがてメイドが大きな扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。

「リリス様、教育係の方をお連れしました。」

中から聞こえたのは、少女の高飛車な声だった。

「ふん、また新しいのが来たのね。どうせすぐに辞めるんでしょ?」

扉が開き、アキラの目に飛び込んできたのは、豪華なドレスに身を包んだ美しい少女だった。長い金髪が背中で輝き、鋭い目つきが彼を射抜く。

「あなたが教育係? パッとしない顔ね。それで、私に何を教えるつもり?」

リリスの言葉に、アキラは呆然と立ち尽くす。頭の中は混乱でいっぱいだった。

(いやいや、状況がわからなさすぎる! 俺、昨日まではブラック企業の社畜だったんだぞ? 急に教育係って、何のジョークだよ!)

だが、周囲の豪華な内装やリリスの鋭い視線はあまりにも現実的で、夢のようには感じられない。

「教育係って言われても…俺に何ができるんだよ?」

つい口をついて出た言葉に、リリスは冷ややかな視線を向けながら「ふん」と鼻を鳴らす。

「その程度の覚悟で来たの? やっぱり無能ね。」

(くっ…なんなんだこの態度は! お嬢様キャラ全開すぎるだろ!)

内心でツッコミを入れつつも、リリスの鋭い視線に負けたくないという思いが湧き上がる。アキラは一度深く息を吸い込んで、心を落ち着けようとした。

「とにかく、話を聞いてみるしかないか…。でも、覚えておけよ。俺だってただの平凡な会社員じゃないんだからな!」

誰に向けて言ったのかわからない決意を胸に、アキラは小さく拳を握った。

初対面から手強い相手に圧倒されつつも、アキラの異世界での奮闘の日々が、少しずつ動き出そうとしていた。