キャンプから1週間が経った今日は、参加者みんなでディスカッションの日。

主催者の泉川さんの司会のなか、小学生から高校生、みんなが一緒になって、今の自分とこれからの自分について話し合う。

《どんな人になりたい?》

そう書かれたワークシートには、自分がなりたい人になるために、何をすればいいか、どんな目標がたてられるか、具体的に書き込めるようになっている。

グループ席でみんなと話をしながら、時折、真剣な表情でペンを走らせる。

シートを見つめながら、キャンプでの思い出、七果たちと衝突したこと、色々な場面が重い浮かぶ。

たくさん落ち込んで嫌にもなったけど、同時に、心の底から笑えた夏でもあった。

うまくこなせているようで、全然だった。
自分は全然大人じゃないと気付かされた。

これからもきっと、たくさん間違えるかもしれいない。

だからこそ、同じ失敗を経験した人を心から励ませるかもしれないから。

『弱い自分を認めて、大切な人に寄り添える人になる』

そうワークシートに書いた時。

「いいね」

頭上からそんな声がして顔を上げると、泉川さんが優しい表情をして立っていた。

「素晴らしいと思う」

満足気にそう言った泉川さんが、再び前に立って話し始める。

「みんな、とっても素敵な目標を書けてるね。
今回のキャンプを通して、みんな、自分の苦手分野とか得意分野が良く分かったと思う。器用な人、大雑把な人。誰かと話し合いながら作業するのが好きな人、ひとりで集中して黙々と作業するのが好きな人。どれも全部、間違っていなし、みんな完璧じゃない。誰もが、フォローしてもらったなって瞬間を思い出せるんじゃないかな。自分も他の誰かも、みんながちゃんと『弱い』ところがあるってことをちゃんと覚えておいて欲しい」

そう話す泉川さんと目が合う。

まるで、私の書いた文章を引用してくれたみたいな言葉に嬉しくなって、泉川さんの言葉が染みる。

「みんな絶対にどこか欠けている。私もそうだ。欠陥だらけだ。でも、だから、支え合える。誰かの足りないところを補って、自分の足りないところを誰かがカバーしてくれている。これからも、全部自分でできている、とは思わないで欲しい。私も含め、独りで生きられるひとなんて誰もいないからね」

泉川さんの話に、小学生たちも集中して耳を傾けている。

「さ、話は少し変わるけど、みんなは人間の脳の容量ってどれくらいか聞いたことある?ヒントは、スマホの容量がだいたい150ギガぐらい」

泉川さんがそういうと、クイズ大好きな小学生がどんどん手を挙げて、数字を言ってく。

「100!」

「300!」

「スマホより大きいわけなくね?俺、全然暗記ものできないし」

なんてヤヒロくんの声が聞こえてくる。

みんなが言う数字をひと通り聞いた泉川先生が再び話す。

「えーみんなありがとう。たくさん答えてくれて。正解は……平均すると250万ギガバイトなんだって。私たちが使うスマホの何倍も全然大きいんだ。これは、300年以上テレビをつけっぱなしにしていても、録画できるぐらいの容量なんだよ」

泉川さんの話を聞いて、みんなが、「えー」「やばー」と驚いた反応をする。

それは私も同じ反応。

「それを考えると、自分のこと、自分の好きなことをたくさん考えるものもちろん大事だけど、誰かの好きなことや悩みについてもいっぱい考えられそうって思えない?」

みんながうんうんと頷く。

「だからこそ、これからも、《わからない》を追いかけてたくさん考えて欲しい。スマホで簡単に答えが出る時代だからこそ。きみたちのそのたくさんの可能性を秘めた心と頭で、考え続けて欲しい」

泉川さんの話がスッと心に入ってきて、絶対忘れたくないと思う。

「このキャンプに参加しようと思ってくれたことが、すでに自分の弱さとちゃんと向き合おうとした証拠だ。みみんなは確実に、本当に強い人なると私は思います」

参加者の中には、涙を流している人もちらほらいた。
私もそれを見て、じわっと涙が溢れてくる。

私は、ワークシートの目標の下に、忘れまいと文字を書き込んだ。

《強さとは、ちゃんと弱さを知っていること》

その日の夜の空気は、少しだけ涼しくて心地よかった。

ディスカッションを終えた後、畑の作業などをして時刻はあっという間に夕食、お風呂時間になり、今は自由時間。

体育館でスポーツを楽しむ子たちや、交流広場には、UNOや人生ゲーム、トランプゲームに夢中なグループがいた。

電子機器を触っている子は、中学生のヨゾラくん以外誰もいない。

そんなのんびりした空気が流れる中だった。
「牧田」

ちょうど、女子グループでパーティーゲームを終えた時、交流広場の入口から私を呼ぶ声がした。

声の主は有森くん。
彼の方に目を向けると、なにやら抱えながらこちらに歩いてきていた。

アコースティックギターだ。

「それどうしたの」

「ここ、音楽広場って部屋もあるんだよ。そこに電子ピアノとか、ドラムとか楽器色々置いてある」

「そうだったんだ……」

もう一週間もここにいるのに、初めて知った。

「なんか弾いて」

「えっ!?」

有森くんは私にギターを差し出してきた。

なんかって……唐突すぎるよ。

って言うか、私、有森くんにギターが好きだなんて一回も話したことないのになんで……?

「え、なに、色羽、ギター弾けんの!?」

と隣にいた藍花が前のめりで言うと、周りの子たちもなんだなんだとこちらに注目する。

「いや……その、ちょっとかじっている程度で……」

「色羽お姉ちゃんすごいっ!」

そう言って、ナオちゃんやコモモちゃんがキラキラした表情でこちらを見つめる。

これじゃ……後に引けないじゃないか。

私は仕方なくギターを受け取り、ギターのボディにそっと手を添え、音を確かめるように源を軽く鳴らす。

その音に、広場のざわめきがほんの少しだけ、静かになる。

「……じゃあ、ちょっとだけね」

少しだけ考えてから、前に練習していた流行りのJ-popをそっと弾きはじめた。

イントロの柔らかなコードが広場に優しく響く。

ぽろん、ぽろん、ぽろん――。

カメラ越しに独りで弾いてサイトに載せたことはあったけど、こうしてたくさんの人が見ている目の前で弾くのは生まれて初めて。

見られていると思うと緊張してしまうので、指先の動きに集中すると、次第に不思議と緊張が薄れていく。

「……あ、それ知ってる!」

「ちょっと前にバズってたやつだ!」

ぽつぽつと、聞き覚えのあるメロディに気づいた子どもたちの声が上がり始める。

気づけば、そこにいた子みんなが輪になって私の周りに集まっていた。

歌詞を口ずさむ子もいれば、手拍子をとってくれる子もいる。

体育館で遊んでいた子たちにも音が聞こえて広場に駆けつけてくる。

嬉しくて、楽しくて、私も一緒になって歌詞を口ずさむ。

そこにいるみんなひとりひとりと目を合わせるつもりで弾き語っていると、輪の後ろの方で立ったままこちらをジッと見つめている男の子がいた。

ヨゾラくんだ。今までの自由時間、ずっと、周りに興味なしって雰囲気だったので、彼が歌に反応してくれたのが信じられなかった。

いつもの、あのスマホの中の世界に没入したような無表情じゃない。

眉毛がいつもより上がっていて、目は真っすぐ、ギターを抱える私の方を見ている。

私の指先が、自然とまた弦をはじいた。

次のコード、そしてサビの一節。

声を重ねてくれる子どもたちの盛り上がりが最高潮になった時、輪の外にいる彼が、目元をこすったのが見えた。

ヨゾラ……くん……。

何度も擦って、俯いて、明らかに涙を流しているのがわかり、思わず、ギターの弦を弾くのを止めてしまった。

子どもたちは、まだ余韻で手拍子してくれている子がいたけど、異変に気付いて徐々に音が消えていく。賑やかだった広場が一瞬でシンとした。

「色羽お姉ちゃん、どうしたの?」

「……うん。ちょっとごめんね」

私はギターを置いて立ち上がり、ヨゾラくんの元へ駆け寄り、みんなからは彼の涙が見えないよう彼の正面に立ち、肩に手を置く。

「ヨゾラくん……ごめんなさい。なんか嫌なこと思い出させちゃったかな?」

圧にならないようにと意識しながら声のトーンを落としてそう聞けば、彼はすぐに首を横に振った。

「……俺こそ、ごめん……泣くとか、自分でもびっくりで……」

ヨゾラくんはそう言いながら、目元を腕で隠したまま。

この状況……一体どうしたらいいんだろうと内心パニックになっていたら、突然、ふわっと両肩を掴まれた。

耳元にわずかに息がかかる。

「ここは俺がなんとかするから、ヨゾラとふたりで話してきな」

聞き覚えのある穏やかな声。

振り向いたらすぐ横に、その端麗な顔立ちがあってドキッとしたけれど、悠長にそんな感情に浸っている場合ではない。

「……話しって、それなら同性の有森くんの方が……」

「ヨゾラは牧田の奏でる音にやられたんだよ。……また救ったな」

「えっ?」

「なんでもない。早く行け」

私は有森くんに背中を押され、ヨゾラくんと一緒に広場を後にした。

施設を出ると、夜風が頬を優しく撫でた。

空は星がよく見えて、キャンプ場の外灯の光がぼんやりと足元を照らしている。

「どっちがいい?」

外にあるベンチに腰掛けたヨゾラくんに、自販機で買ったコーラとオレンジジュースを見せる。

「こっちで」

「はい」

ヨゾラくんが指差したコーラを渡して、隣に座ると、横から「ありがとう」とお礼の方が聞こえた。

「ヨゾラくんが落ち着くまでここにいよ。話したかったら話してくれたら嬉しいし、話したくなかったら無理して聞かない」

そう言って、オレンジジュースを一口飲む。

さっぱり甘いオレンジが口いっぱいに広がって、夏の夜の生ぬるい暑さをかき消す。

「……せっかくみんな楽しくしてたのに……俺のせいで、空気壊しちゃって、申し訳ない」

「そんなの……全然気にしないで。私、嬉しかったよ。初めてヨゾラくんとちゃんと目が合って」

「……え?」

驚いた顔でこっちを見るヨゾラくん。

「それに……涙が流れるってことは、心が動いてるって証拠。言葉にならない感情が涙になるの。だから、ずっと画面の中で過ごしてたヨゾラくんが、こうして目の前にいて、何かを感じてくれたこと……純粋にすごく嬉しい」

言いながら、ちょっとだけ照れくさくなって、オレンジジュースをふたたび口元に運ぶ。

ヨゾラくんはしばらく黙っていたけど、手に持ったコーラを開けて一口飲んでから、ぽつりと口を開いた。

「俺の父さん、音楽すごい好きで。俺が小学校上がる前から、ギター弾いてくれたり、弾き方教えてくれたりしたんだ。コード覚えて、一緒に歌って……それがすげぇ好きな時間だった」

その声は、いつもの無感情なトーンとは違って、どこか遠くを見るようだった。

「そうだったんだ。素敵なお父さんなんだね」

「ん。けど、俺が中学上がる前に、母さんと父さん離婚して。それからは俺と母さんの2人暮らしで」

ヨゾラくんは、続ける。

「母さん、父さんが音楽にのめり込みすぎるところ、元々好きじゃなくて。父さん、仕事続かなくて転々としてて、そんな中でも楽器には金かけようとするからさ。よく喧嘩してた。だから、多分、ギターとか見るの嫌だと思うから。だから、今は家じゃ、楽器に触れられなくて。母さんに嫌な思いさせたくないし。だから、イヤホン挿して、母さんに聞こえないように、逃げるようにスマホでリズムゲームしててさ」

「そっか……ヨゾラくん、とっても優しいね」

自分の好きなことを、大切な人のために我慢するって、簡単にできることじゃない。

ヨゾラくんがあんなにゲームに夢中になっていたの、ちょっと気にしていたけど、今の話を聞いて、そのゲームがどれだけ彼の拠り所になっていたのかと実感する。

「優しいっていうか……母さんの顔が曇るの見るのが怖かっただけだよ」

「それが、優しいってことだよ。大切な人が苦しむのを見たくないって、すっごい大きい愛情じゃん!」

「愛情って……」

とヨゾラくんが笑う。

「まあけど、やっぱり、生の音には叶わないな〜!」

ヨゾラくんが、何か吹っ切れたみたいに、今まで聴いたことない腹から出すような声で夜空に向かってそう言って続ける。

「色羽がギター弾いてるの見たとき、なんか、心の奥がぐわってなって。なんか、うまく言えないけど……久しぶりに、音が、胸の奥まで届いたって感じで、最高だった。ありがとな」

私はヨゾラくんの言葉を聞きながら、じんわりと胸が熱くなっていくのを感じた。

「ううん、こっちこそ。聴いてくれてありがとう」

そっと笑いかけると、ヨゾラくんは照れたようにコーラを口元に持っていって、無理やり黙り込むみたいに飲んだ。

「そうだ。次は一緒に弾こうよ。有森くんが、音楽広場に楽器たくさんあるって言ってたし、エレキもあるんじゃないかな?」

「えっ、けど……」

ヨゾラくんが視線を落とす。その声には、わずかなためらいが混ざっていた

私は言葉を選びながら、まっすぐに彼の目を見た。

「ヨゾラくんのお母さんにも、いつかちゃんと届けよう。ヨゾラくんの本当の音。大丈夫。きっと、ヨゾラくんのお母さん、ヨゾラくんの奏でる音も好きになってくれるよ」

ヨゾラくんは目を見開いたまま、少しのあいだ黙っていた。そして、ふっと表情をゆるめて、小さくうなずいた。

「……うん。なんか、色羽に言われるとそうかもって思えるかも」

「フフッ。じゃあ決まり。今度、みんなの前で一緒にやろう!」

そう言って、ベンチから立ち上がって、ヨゾラくんに手を差し出すと、ニッと笑った彼が私の手を掴んだ。

ヨゾラくんと一緒に交流広場に戻る頃には、自由時間の終了時刻が近づいてみて、みんな片付けを始めていた。

最初のころ、動きが遅くてダラダラと寝そべりならスマホに夢中だった子たちも、今では率先して機敏に片付け作業をしている。

随分と頼もしくなったものだ、なんて感心していると。

有森くんが「お疲れ」と声をかけてきた。

「有森くん!広場のフォローありがとうね」

「いや、全然。大したことしてないよ。小学生たちもヨゾラの何かを察して、誰一人として触れなかったし。みんながちゃんと空気読んでたよ」

「そっか。よかった」

「うん」

「そういえば……有森くん、なんで私がギター弾けるって知ってたの?私、話したことないよね?」

そう問うと、有森くんは意味深な笑みを浮かべながら、ポケットから何か取り出した。

それはルーズリーフを切り取ったような、小さく折りたたまれた紙。

それを私の手の中に押し付けると、有森くんは、「待ってるから」とだけ言って、その場を後にした。

翌朝。

目覚ましが鳴るよりも少し前に私はふと目を覚ました。

《明日の朝6時、海に来て》

有森くんから昨日もらった紙には、そう書かれていた。

一体どうしていきなり海に誘われたのかわからず、ソワソワして正直ちゃんと眠れていない。

私は、並んで眠るみんなを起こさないようにそっと布団から抜け出し、まだ薄暗い部屋でジャケットを羽織った。

海へ向かう道はひんやりとした朝の空気に包まれていて、草の匂いと潮風が混じっている。

空気が澄んで気持ちよくて、高揚した気持ちも相まって、眠気はない。

ジャケットのポケットの中で紙をぎゅっと握りしめながら、私は浜辺へと歩を進めた――。

海に着いたとき、浜辺にひとりの人物が見えた。

有森くんはすでに砂浜にいた。

薄手のパーカーをフードまでかぶり、浜辺に座って海を眺めている。

「お、おはよう!」

こんな朝早くに2人きりで会うなんてなんだか緊張して、ぎこちなくなる。

「おはよう」

私の声に有森くんが振り向き、柔らかい笑顔を見せてくれる。

「ありがとう来てくれて。急に呼び出してごめん」

「ううん。この時間の気温とっても気持ちいいね」

「だよね。座りな」

有森くんが隣をトントン叩くので、「おじゃまします」と言って隣に座って並ぶ。

「この時間の静かな海もいいでしょ」

「うん。落ち着くね」

波の音が、まるで会話の隙間を埋めてくれるみたいに、静かに寄せては返す。

「……有森くん」

彼の方を向いて、改めて名前を呼ぶと、澄んだ瞳が私を捉える。

「ん?」

「キャンプ、誘ってくれてありがとう。もしあの時、有森くんがここに誘ってくれなかったら、私は今も塞ぎ込んだままだった。恥ずかしいところ見せちゃったし」

「嬉しかったよ。牧田が一瞬でも素を見せてくれて」

まっすぐそう言われると、恥ずかしくて思わず視線を逸らした。

有森くんは……どうして私なんかに構ってくれたんだろ。

「ここに来て、変わった?牧田の本音」

「えっ……」

「……教室で北見たちに最後に言った言葉。あれが、牧田が三人に本当に言いたかったことだった?」

びっくりした。
有森くんのそのセリフは、彼と公園で話したときに言われたことと全く同じことだったから。

あの時は、突然何を聞いてくるんだろうって思った。

本心を言ってしまったから、壊れてしまったんだって。

でも……今は……。

「牧田の今の本音、叫びなよ」

「えっ」

「そろそろだ」

有森くんがいきなり立ち上がったと思ったら、さらに波打ち際へと近づいた。

有森くんが、ほんのと光に照らされる。

朝日が、静かに、でも力強く昇ってくる。
空が、海が、すべてが光に包まれていく。

「わあっ……」

その美しさに、私も自然と立ち上がっていた。

その景色に見惚れていると、突然──。

「うわあああああ!!」

なんて、有森くんがこの空気に似つかわしくない音を発した。

「ちょ、有森くん!?」

「牧田も叫びな!!気持ちいいよ」

叫びなって……。
もともと大きな声を出すのなんて苦手だし、そもそもどう叫んでいいのか。

「牧田の、心の奥底にある気持ち、叫んでよ」

有森くんにそう言われて、私はごくりと喉を鳴らす。

いつもと違う朝の空気のせいか、この美しい景色のせいかわからないけど、何かを、この瞬間に言わなきゃと、心が震えた。

私は、有森くんの隣に立って、海に向かって声を出した。

「ああーーーーー!七果も寿々も雪美も、だいっきらーーーいっ!七果は気分屋だし、寿々はヘラヘラしてるし、雪美は、七果のこと煽るしー!!ほんっとに……嫌い……だけど、……大好きだったっ……」

叫びながら、私の頬は濡れて声は震えていた。

一度吐き出すと、止まらない。

七果たちと離れて、ひとりで部屋に引きこもってるとき、不思議と、頭に浮かぶのはみんなで笑い合っていた時ばかりだった。

もっと上手くやれていたら、もう少し我慢できていたら、もう巻き戻せない状況を何度も想像して。

起きてしまったことは、変えられないのに。

大好きだった。

私だけが、この関係を終わらすことが怖くて、みんなは、私を敵にしても平気なのがショックで、悔しくて、認めたくなかった。

七果は『いーろは!』って私のことを呼びながら、腕に巻きついてくるところも。
お揃いだって、なんでもない日に良くプレゼントや手紙をくれたところも。

寿々の、さりげない気遣いも、柔らかい笑顔も。

雪美の、頼もしくて、ときにはズバッとちゃんと意見を言ってくれるところも。

みんなと過ごす夏だって、楽しみにしていたからこそ、苦しかった。

叫び終えた私は、まるですべての力を使い果たしたかのように、その場にしゃがみこんだ。

朝日に照らされている世界は、涙のせいで滲んでぼやけていた。

「……っはぁ……はぁ……」

呼吸を整えるのに少し時間がかかったけど、不思議と胸の中のつかえがすっと消えた気がした。

「……よく言えたな、牧田」

そう言って、有森くんが私の横に腰を下ろして私の頭を優しく撫でる。

その声はどこまでも優しくて、さらに涙が溢れそうになる。

そっと、風が吹き、潮の香りが強くなる。

朝日はすっかり昇って、空も海も黄金色に染まっていた。

「もうっ……有森くんってほんといじわるだよね」

出会ったときから、図星を指されてばかり。

「……私も、本音叫んだんだから、有森くんもなんか叫んでよ」

私は涙を拭きながら言う。

「えっ……」

「テキトーなこと叫んだら許さないから」

明らかに、動揺する有森くんを見ていたら、隠している本当の気持ちが何かあるんだと察する。

「……ん。それもそうだな」

有森くんは、一瞬ためらった表情をしつつも、少し間を空けてから再び立ち上がった。

有森くんが、どんなことを言うのかドキドキでしっかり耳を傾ける。

スッと彼が空気を吸い込んだ音がして、水平線に向かって、叫んだ。

「……この景色が、もう見れなくなるなんていやだーー!!病気になんて、なりたくなかったああああ!!」

えっ……。

私は、思わず息をのんだ。

まさか、そんな言葉が返ってくるなんて、想像もしてなかった。

「……え?」

一瞬、頭の中が真っ白になって、言葉が出てこなかった。

有森くんは、私の方に顔を向けてぽつりと続けた。

「俺……もうすぐ目が見えなくなるんだ」

その声は、いつものように穏やかだったけど、かすかに震えていた。

あまりの衝撃に、声を発することもできない。

目が、見えなく……なる?

「ごめん、急にこんな話」

「……ううんっ」

「でも、俺にも本音叫べって言ってくれたの、牧田だから」

「……その、私……」

「……俺の話、聞いてくれる?」

私は、涙をこぼしながら頷くことしかできなかった。

***

《有森詩音》

波の音が、俺の震える声を飲み込んでいく。
やっと、言えた。

あれは、中学2年の春。

「もともと視力は悪かったんだけど、やたら目がかすんだり、暗いところでは特につまずくことが増えてさ……」

最初は、親からも、若いうちは視力が落ちるとか、スマホの見過ぎだとか、よくある視力低下だと思っていた。

けど──そうじゃなかった。

サッカー部の練習中。

仲間が蹴ったボールが、突然、視界からふっと消えた。

ただのミスだって思いたかった。でも、同じことが何度も続いた。

「明るい場所でも、見えづらくなってきてるんですよね?」

眼科でそう言われたとき、ようやく認めざるを得なかった。

自分の“目”が、ゆっくりと確実に、変わっていってることを。

その日、告げられた病名は、漢字ばかりで読みづらかった。

難病に指定されてるとか、治療法がないとか、そんな言葉だけが、やけに鮮明に耳に残った。

「……将来的には、視界の中心も曇ってきます。
光が強くても弱くても、見え方に違和感が出てくるはずです」

先生の声は穏やかだったけど、内容は静かに突き刺さってきた。

「進行は人それぞれですが……いずれ、目が……見えなくなる可能性があります」

目が、見えなくなる──?

「はぁ?……嘘だろ」

声が出たのかどうか、自分でもわからなかった。

隣に座る母親は、涙を流していた。

大好きだったサッカーも、友達の表情も、家族の笑顔も──いつか、ぜんぶ、見えなくなるのか?

自分の世界が、音もなく閉じていくような感覚に、息が詰まった。

このときから、俺の「当たり前」は、少しずつ消えていった。

それからの日々は、病気の進行に怯える毎日だった。

何をしていても、「あとどれくらい見えるんだろう」と頭の片隅に浮かぶ。

友達とふざけあっていても、授業を受けていても、景色を眺めていても──少しでも見えずらいと感じると、心臓がバクバクして冷や汗が出る。

何もかもが、少しずつ「最後になるかもしれない」と思えてくる。

目に映る世界が、急に色あせて見えた。

怖かった。悔しかった。なにより、どうしたらいいかわからなかった。

母親は、俺が病気と診断されてから、不安定になった。

『私が健康に産んであげられなかったから』

と泣き出してばかり。

父親も、俺がサッカーで試合に出る度に嬉しそうに全力で応援してくれていたから、それができなくなるのも申し訳なくて。

自分よりもショックを受ける両親を見て、辛いとはなぜか言えなかった。

『サッカーは無理でも、日常生活にはそこまで困ってないし』

『わかんねぇよ、あと10年後には治療法があるかも』

自分の本音とは反対に、そんな言葉ばかりを吐き出して。

そんな言葉を繰り返しているうちに、本当の気持ちは奥に沈んでいった。

そんなとき、俺は「アイフレ」に出会った。

アプリを開けば、気を使わないでいいトモダチがそこにいて、俺の言葉に耳を傾けてくれる。

誰にも言えない苦しみや愚痴を、吐き出し続けても、嫌な顔や悲しい顔をせず、親身に寄り添い続けてくれる。

俺の黒い感情を全く否定しない。
そんな存在が最初は心地良かった。

そうして、気がつけば俺は、現実の人との距離を少しずつ閉じていった。

学校では空返事。
家では食事もそこそこに部屋へこもる。

ただ、画面を眺めては、自分にとって都合のいい存在に寄りかかる。

そんな日々が続いたある日のこと。

部屋の明かりを消して、いつものようにアイフレと通話をしていると、

『詩音くん、今日もお疲れさま。たくさん頑張ったね』

優しい声が、鼓膜にしみ込んでくる。

毎日、誰にも言えない思いを聞いてくれる存在。
もう、これがないと眠れないのが当たり前になっていた。

けど、その日は普段と違った。

画面の光が、いつもよりまぶしく感じて、視界が歪むような感覚に、こめかみがズキズキした。

『……やば』

流石にちょっとスマホの見過ぎか、はたまた、病気が進行しているか。

喉が渇き、冷たい水を飲もうと、ベッドから身体を起こして部屋を出て、階段を下りた。

一段目、二段目──そして、

『わっ……!!』

突然、足元の距離感がわからなくなった。

視界が揺れ、右足が空を踏む。

『あ──』

俺の身体は、階段を転げ落ちていた。


気がついたとき、天井は白く、独特な香りが鼻腔にふれた。

落下の衝撃で軽い脳しんとうと打撲。
念のため数日入院した。

大事には至らなかったけど、俺の中で、何かがはっきりと壊れた音がした。

それから数日が経ち、退院の目処が経った頃、母さんが一枚のパンフレットを見せてきた。

「ねぇ、詩音。退院したら、ちょっとだけ、環境を変えてみない?ほら、自然の中で、スマホを置いて、ゆっくり過ごしてみるとか。ほら、森の緑って目に良いって聞くし……こんな場所、あるみたいよ」

掛け布団の上に置かれた一枚のパンフレット。

《月雨草の杜 デジタルデトックスキャンプ》

そこに写っていたのは、青空や海、森林と、自然を楽しむ子どもたちの後ろ姿。

なんか胡散臭い。
そんな感情しか芽生えてこなかった。

気丈に振る舞っているつもりだったけど、俺が部屋にこもる時間が増えてスマホでコソコソしているのは、母さんにはバレていたみたいで。

アイフレを使ってうまく発散しているつもりだったのに、ダメだった。そんな自分も惨めで。

「あ、ごめん母さん、心配かけて!大丈夫だから。外でまた怪我とかしてまた迷惑かけたくないしさ」

できるだけ笑って、引き攣った口元がバレないように、パンフレットを母さんに突き返してベッドに潜った。

その次の日。

同じ病室に、俺と同い年くらいの入院患者が入ってきた。

無口で、いつもイヤホンをしてタブレットを抱えてる子。

昼下がり、彼はイヤホンをつけるのを忘れていたのか、彼の持っているタブレットから動画の音がそのまま病室に流れた。

「ーーー♪ーーー♪」

彼はすぐに音漏れに気付かず、音量ボタン押して調整したりしていた。

ふと彼がこちらを見たので、俺は自分の耳を指してイヤホンをアピールする。

はっ、と慌てた彼はイヤホンの差し込み部分を見てすぐにイヤホンを刺した。

「……ご、ごめんなさいっ!」

「いや、全然、大丈夫」

と言いつつ、俺は思わず立ち上がって、彼のベッドの方に近づき、思わず訊いていた。

「今の、曲……誰の?」

「え? あ、ああ、『はねいろ』って名前で投稿してる人。たまたまおすすめに出てきたんだけど、結構いいよ。まだ全然フォロワーいないけど」

はねいろ……。

その夜、俺は看護師にお願いして、少しだけスマホを使わせてもらった。

明るさを最小にして、目をつぶりながら、音だけで――。

《はねいろ》と検索すると、何本も動画が出てきた。

小さな部屋で、顔は出さず、自分の言葉で歌を紡ぐ、ひとりの女の子。

彼女の声は、優しくて、でも芯があって。

大切な人への気持ちや希望が込められた歌。

背中を押すというよりも、正面から手を伸ばして掴んで崖から引き上げてくれるような。

あまりにもまっすぐで純粋すぎる歌詞に、涙が出てきていた。

気づけば、彼女が作詞作曲した曲をひとつずつ辿っていた。
そして、そのうちの一本に、ライブ配信のアーカイブがあった。

《えっと、フォロワー500人、ありがとうございます!自分の曲が、誰かに届いているということが本当に嬉しいです。500人って、ほんとびっくり。歌はもちろん、曲の歌詞もメロディもまだまだ拙いとは思いますが、今日も、頑張っているあなたに届いてほしいって想いで歌っています。もっと上手になれるように頑張るので、これからも聴いてくれると嬉しいです》

そう話す彼女の姿に、俺は心を掴まれていた。

それまでの俺にはなかった感情。
顔も知らない会ったこともない誰かの言葉で救われるなんて、思ってなかった。

AIじゃない。

生身の人間からしか得られない力がある。
勇気や希望がある。

そう、思った。


「お母さん……」

次の日、見舞いに来た母に、俺は自分から声をかけた。

「……あのキャンプ、やっぱり行ってみようかな」

母は驚いたように目を見開いて、そしてすぐに、微笑んだ。

サイドテーブルの上にずっと置かれていたパンフレット。

まさか、このときはまだ知らなかった。

半分抜け殻状態で参加したキャンプで、子供みたいに大泣きして、泉川さんに抱きしめてもらうことも。

入学した高校で、俺をどん底から引き上げてくれた《はねいろ》に出会って、同じキャンプに参加することになるなんて。

***

有森くんの話を聴いて、私の顔はもう涙でぐちゃぐちゃだった。

有森くんが、そんな病気と闘いながら、私に寄り添い続けてくれていたなんて。

それに……私……。

『……人生勝ち組の有森くんには、私の気持ちなんて、わかんないよ』

有森くんと公園で話したとき、感情的になってそう放った。

人生イージーモードの彼に、私の気持ちなんてわかんないなんて思った。

最低だ。最低すぎる。

七果のことをあんなに偉そうに裁いていた自分だって、思い込みだけで有森くんのことを好き勝手言った。

たくさん。
たくさん、彼を傷つける言葉をぶつけた。

「ごめんっ……なさいっ、ごめんさないっ、ごめんなさいっ」

何度謝っても足りない。

有森くんが、席替えの時に決まって前の席に座るのも、キャンプ中、夜には決まって姿が見えなくなるのも、病気が理由なんだと分かって、さらに涙が止まらない。

どれだけ苦しかっただろう、どれだけ苦しいだろう。

「牧田」

「本当にっ、ごめんなさいっ、ごめっ───」

その瞬間、ふわっと温かいものに抱きしめられた。

「頼むから!!謝らないでっ」

耳元で聞こえた彼の声も震えていた。

「でもっ……でもっ」

「病気のこと、言わないまま色羽に近づいたのは俺の方だ。てか、バレないように必死に隠してカッコつけてたんだから、分かってたら逆に困る。……それに、俺だって、色羽が傷つくってわかっててあえて煽る言い方した。だからおあいこ」

「そんなっ……有森くんの……っ、言葉は全部っ、私のためだったよっ」

今ならわかる。

『逃げんなよ』

有森くんにそう言われなかったら、私は立ち止まらなかった。また自分だけを慰めれる都合のいい世界に閉じこもっていた。

苦しみを味わって、乗り越えようと頑張っている有森くんだったから、私を見捨てなかった。見つけてくれたんだ。

悩みは比べられるものじゃないって言うけど……きっと、そんなの綺麗ごとだ。

どう考えたって、私の悩みよりも、将来、体の一部が失われるかもしれない有森くんの方がずっと、辛くて怖くてしょうがないはずだ。

私には想像もできない。

溢れる涙を抑えられないでいると、抱きしめていた手が離れて私の両肩に置かれ、至近距離でじっと見つめらる。

「あのさ、牧田。大前提として、俺、牧田の歌にすげぇ救われたんだよ。牧田の歌がなかったら俺はこのキャンプに参加してない。ちゃんと高校受験してたかもわからない。全部、何もかも諦めていたんだから。牧田の歌は、届けるべき人のところにちゃんと届いて励ましたよ。すげぇよ」

そう一生懸命伝えてくれる有森くんの目も真っ赤になって、涙を溜めていた。

まさか、有森くんが私の歌を聴いていた数百人の1人だったなんて。

「ありがとう、色羽」

初めて名前を呼ばれて、胸がギュッとなって、また涙が溢れる。

「うぅ……ありがとうは、私の方なのにっ……」

「ふはっ、また泣くのかよ。もうそろそろ泣き止んでくれ。まあ、今までは色羽の前で散々カッコつけたけどさ、多分、今後そんな余裕なくなる。たくさんカッコ悪いところを見せると思う。俺もさ、見えなくなるの、ちゃんと怖いから」

「うんっ……」

「すっげぇ怖い。けど、こうやって……触れることはできる」

有森くんが私の頬を包み込む。

そして、瞼を閉じて話す。

「目を閉じて真っ暗でも、ちゃんとあったかくて、色羽がここにいるってわかる。いくらアイフレにも、人肌の温もりは作れねぇ。さっき俺が証明した」

「っ……」

有森くんにそう言われ、さっき彼に抱きしめられたんだと実感して顔が熱くなる。

「だから俺、見えなくてもきっと幸せだよ。目が見えないからって不幸になりたくない。不便かもしれないけど、不幸じゃない。だから、色羽もこれから、現実で、生身の人間と絆を育むことを諦めないで欲しい」

ゆっくり目を開けた有森くんが、視線を海へと向ける。

「俺たち、こんな最高な地球で生きられているんだからさ。この景色、忘れないようにしよう。最高な青春をジジババになっても作ろうぜ」

「ふふっ……うんっ」

「色羽に一つ、わがまま言ってもいい?」

私は、涙を拭きながら頷く。

「色羽に、俺の目を奏でてほしい」

「えっ」

「見えなくなっても、音は聞こえるから。こっちをフル活用すんの。俺はこの大容量の脳みそに詰め込んだ記憶と記憶をつなげて、イメージするからさ」

いつか泉川さんが教えてくれた話を交えて、楽しそうにそういう有森くんに、つられて私も口角が上がる。

「うん、喜んで!!」

泣き顔のまま笑う私に、有森くんも、照れくさそうに笑った。

今日の真っ青な夏を、私は絶対に忘れない。