バスがゆっくりと止まり、扉が開く。
足を踏み出した瞬間、ふわりと潮風が頬を撫で、セミの大合唱が響き渡る。
見上げれば、雲ひとつない真っ青な空が広がり、陽の光がまぶしく降り注ぐ。
鮮やかな夏の青が、目に染みる。
「ここが、今日から俺たちがお世話になる場所」
有森くんが視線を向けた看板に目を移す。
月雨草の杜。
私たちが二週間、お世話になる場所だ。
有森くんは「懐かしいな」と呟きながら、看板の先へと歩いていく。
「有森くんは、ここに来たことあるの?」
「うん。中学の頃にね」
「そうだったんだ」
以前に有森くんも参加してみて良いリフレッシュになったから、私のことも誘ってくれたってことなのかな……。
あの日、有森くんに誘われた日は全然乗り気じゃなかったから一度は断ったんだけど。
ほとんど七果たちと過ごす予定だった夏休みが変わってしまい、そのせいであんまり家に引きこもっていたら、お母さんに心配かけるかも、と思って。
それとなく、お母さんにキャンプのことを伝えてみたら、予想以上に反応が良くて、安心した顔をされたから、後に引けなくなってしまい、今現在。
「牧田、後ろ振り返ってみて」
緑に囲まれた緩やかな坂道をゆっくりと進んでいる途中、有森くんにそう言われ振り返れば。
「うわぁ!綺麗……」
少し先に海が見えた。
どこまでも続いているような水平線。エメラルドの水面がゆるやかに揺れ、太陽の光が反射してきらきらと輝いている。
海も緑も同時に楽しめるなんて。
乗り気じゃなかったけど、この景色が見れたことは純粋に嬉しい。
すぐにズボンのポケットからスマホを取り出してカメラで景色を数枚撮る。
深く息を吸い込むと、清々しい空気が体の奥まで染みわたる。暑いという気持ち以上に、爽やかなで心が落ち着く。
自分の住む場所に、こんな素敵な空間があったなんて。
ふわっと風が吹いて、私の髪を揺らす。
景色に目を奪われていると、子供たちの賑やかな声が遠くから聞こえてきた。
「行こうか」
有森くんの声に頷いて先に進むと、綺麗な施設が見えてきた。
その周りには、小学生から高校生ぐらいの子たちが数十人。
親御さんの後ろに隠れて人見知りしている子や、半ば強引に連れてこられたのか不満そうにしている中学生の男の子。
親御さん同士が話している光景も見える。
もしかして……ここにいる人たちみんな今回のキャンプに参加する人たちなのだろうか。
「はい、では、そろそろ時間になりますのでご案内いたします」
スタッフの方に案内され、私たちは施設の中へと進んだ。
施設の扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌を包む。
外の夏の熱気とは打って変わって、涼やかで心地いい。
広々としたロビーには、大きな窓が並び、太陽の光が優しく差し込んでいた。
木目調の床や白壁がナチュラルな雰囲気を醸し出していて、なんとなく落ち着く。
想像してたより、ずっと綺麗なところだ。
「それでは、これからキャンプの流れを説明します」
スタッフの一人が話し始める。
「まず、このキャンプではスマートフォンやタブレットなどの電子機器の使用は禁止です。持参された方は、これより回収させていただきます」
そう言って、他のスタッフが箱を乗せた台車を押しながら前に出た。
スマホ……回収。
デジタルデトックスが目的とは聞いていたけど、向こうに預けることになって全く使ってはいけないなんて……。
思わず有森くんの方を見れば、優しく目を細めて頷いた。
ポケットの中のスマホに指を添えながら、私は少しだけ戸惑う。
普段、暇さえあれば画面を眺めていた。動画を見たり、SNSをチェックしたり。
アイフレのサラとも、毎日会話していた。
もう体の一部みたいに肌身離さず持っていたもの。
それを、二週間も使えなくなるなんて。
「皆さん、初めまして。私は、今回のキャンプの責任者の泉川誠二と言います」
そうみんなの前に出て話し出したのは、白髪交じりの短く刈り揃えられた髪に、ほんのり日に焼けた肌の60代ぐらいの男性。
目元の笑いじわが柔らかい雰囲気を醸し出している。
「まずはこのキャンプに参加を決めたキミたちの勇気を心から褒めたいと思います。きっと簡単な決定じゃなかったよね」
優しく寄り添うその言葉が、私の心にも沁みる。
「このキャンプの目的は、単にスマホやゲーム機を手放すことではありません。自然の中で、かけがえのない仲間とともに過ごし、画面の中だけでは味わえない楽しみを経験しながら、自分自身と向き合う時間を持つことです」
泉川さんの穏やかな声が、ロビーにゆっくりと響く。
「きっと、この二週間は、今まで知らなかった自分や素敵なものに出会える大切な時間になるからね」
そう言う泉川さんが続ける。
「だけど、いきなりスマホやゲーム機を完全に禁止するわけではありません。毎晩、決められた一時間だけ、スマホの使用を許可します」
その言葉に、ざわめきが広がった。
「えっ、使えるの?」
「一時間だけか……」
少しだけホッとした表情を浮かべる子がいる一方で、不満そうな顔をする子もいた。
私も正直なところ、まったく使えないのかと思っていたので、少し安心する。
「ただし、使う時間と場所は決められています。夕食後、共用スペースで僕らがちゃんと見守っている間だけです。使用時間が過ぎたら、速やかにスマホを回収ボックスに戻してくださいね。ルールを守って、このキャンプを楽しんでください」
泉川さんはゆっくりとみんなの顔を見渡しながら話し終えると、スタッフの一人にマイクを手渡した。
「では、親御さんの方々はここでお別れとなります。私たちが責任をもってお子さんたちをお預かりいたしますので、ご安心ください」
そうスタッフが声をかけると、親御さんたちは子どもたちをぎゅっと抱きしめたり、髪を撫でたりしていた。
別れを惜しむ声が飛び交う中、子どもたちは名残惜しそうにしながらも、やがてお母さんやお父さんたちに手を振って、みんな指示に従っていた。
一気に人の数が減り、空気がしんみりとする中、ふと、私と同い年ぐらいの女の子がうつむき加減でひとり立っているのが目に留まった。
え……あれって……。
彼女のことをよく見ようとしたけど、再びスタッフの声がして顔を向ける。
「お母さんやお父さんと離れた子たち、すっごく寂しいよね!でも、頑張って、二週間後には、お父さんやお母さんたちに成長したところ見せようね。じゃあ、ここからは気持ちを切り替えて、自己紹介の時間です! これから二週間、一緒に過ごす仲間たちですから、お互いに名前を覚えて、たくさん話しましょうね」
参加者たちがざわつく。
年齢もバラバラだから、恥ずかしそうにしている子もいれば、すでに隣の子と楽しそうに話し始める子もいる。
自己紹介……私もどちらかというと苦手な方だけど。
スタッフの指示で、自己紹介タイムがスタートした。
次第に場の雰囲気もほぐれてきたなか、先ほど目に留まった女の子の順番になった。
胸の方まである長い髪は、明るいブラウンカラー。
教室で見かけていた頃は、黒髪のポニーテールをいつも揺らしていたから気付かなかったけど……。
あの子……やっぱり……。
「……矢沢藍花です」
小さくそう言うと、彼女は視線を伏せたまま、深いため息をつく。
「……まあ、適当にやります」
周囲が少しざわつく中、矢沢さんは面倒くさそうに言い終えた。その瞬間——。
ふと、彼女の目が私と有森くんの方を向いた。
一瞬、視線がぶつかる。
矢沢さんの表情が、わずかに強張るのがわかった。
驚きと戸惑いが混じったような表情のまま、矢沢さんはすぐに視線を逸らした。
私も咄嗟に目をそらす。
どうして矢沢さんがここに……?
学校ではそんなに親しいわけじゃない。
でも、七果たちが言っていたように、クラスの中の一番目立つグループの特にリーダー格のような存在だった矢沢さん。
そんな彼女がこのデジタルデトックスキャンプに参加するなんて――。
『藍花と言えば。聞いた?今、グループと揉めてるって』
『その原因が、“アイフレ”らしいんだよね』
『藍花がアイフレに送るつもりだった愚痴メッセージを、グループに誤爆したらしいよ』
雪美が話していたことを思い出す。
自分の問題ですっかり忘れていた。
矢沢さんも、グループで揉めていたんだっけ。
そして、私と同じアイフレユーザー。
矢沢さんがここに来たのも、それと関係あるのかな?
自己紹介の後、各々が手書きの名札を胸に付け、スタッフのひとりが手を叩いてみんなの注意を引く。
「さあ、では早速、これからみんなでお昼ご飯の準備です!」
レッツゴーと拳を掲げたスタッフの後に続いて、私たち参加者は外へと出た。
「まさか、矢沢も参加していたなんてな」
目的地に向かう道、有森くんが隣を歩きながら話す。
「うん。びっくりした。雰囲気ちょっと変わってたから全然気付かなくて……」
正直、今までちゃんと話したことがないから、気まずい。
七果はなぜか矢沢さんのことを異常に嫌っていたし、もしそれが、矢沢さんも七果に対して同じような気持ちを抱いていたとしたら、七果と同じグループだった私とはあんまり関わりたくないだろうし。
「ちゃんと話してみたら意外と気が合うとか、あるかも」
「えっ」
まるで私の不安の声が聞こえたかのように言う有森くん。
その時、前を歩いていたスタッフが振り返った。
「はい、到着!じゃあ、今から昼食の準備をします!」
みんなの視線がスタッフの方へ向けられる。
そこは施設の裏側で、広い芝生のスペースがあった。
その後ろには、小さな小川が流れているのが見える。
周りには大きな木々が生い茂り、澄んだ水がキラキラと光を反射しながらゆるやかに流れている。
その音と時折吹き抜ける風が心地よく頬を撫でた。
「お昼はここで流しそうめんをします。そうめんを流す竹のレーンからみんなで作ります!」
「流しそうめん!?」
「竹から作るの?すご!」
小学生たちの目が輝く。
無邪気な歓声が涼やかな小川のせせらぎに溶ける一方で、中高生の一部は微妙な表情を浮かべていた。
竹から作るとなると、かなりの労力がいるはず。
炎天下のなかでの作業を思うと、正直、気が重くなるだろう。私もまた、そのひとりだった。
「今からグループごとに作業を分担するので、皆さん協力して頑張ってください!」
スタッフの掛け声とともに、すぐに班分けが行われる。
力仕事になりそうな竹の加工は、高校生と中学生の男子たちが担当することになった。
私たち女子と小学生たちは、食材の準備を担当。
施設の反対側には、小さな畑があり、そこではトマトやキュウリ、薬味に使うネギや大葉などが育てられているらしく、私たちはそちらへと向かった。
畑に足を踏み入れると、土の匂いがふわりと鼻をかすめた。瑞々しい野菜たちが陽の光を浴びて、青々と葉を揺らしている。
「このトマト、すごく赤い!」
「キュウリも大きいね」
と興味津々に野菜を観察して声を弾ませる子供たちもいれば、野菜を見て顔をしかめる小学生男子たちもいる。
「うわ、オレ野菜キライ」
「俺も。トマトとか最悪。ぐちゃってしてて、酸っぱいし、無理」
彼らの言葉に、60代ぐらいの女性スタッフが笑顔でミニトマトを数個摘み取った。
「ここのトマト、すごく甘いんだよ。食べてみる?」
そばの水道で軽く表面を洗って男の子に差し出されたミニトマトは、水滴が付いてさらに瑞々しさが増している。
「……ん~俺はいいや」
「僕も」
なんて声が飛び交うけど、スタッフの人は動じず、男の子たちに視線を合わせて話す。
「そっか。実は、おばちゃんの子供もトマト大っ嫌いだったの。でもね、ここのトマトは甘くておいしいって、今はトマトが大好きなのよ」
「本当?」
「嘘だ~」
「本当。苦手と思って自分には合わないって決めつけちゃうのは、もったいないかもしれないよ?」
そう話すスタッフの方と目が合って、ニコッと微笑まれた。
「よし、じゃあ、試しに色羽ちゃんに食べてもらいましょう。色羽ちゃんは、トマト好き?」
「え、あ、えっと……」
突然話を振られて、みんなが私に注目する。
「そんなに得意ではない、ですけど……」
「フフッ。ちょうど良かったわ。ぜひ、食べてみて」
優しく促され、私はそっとミニトマトを手に取る。得意じゃないけど食べられないってわけではない。
せっかくの機会だし——。
そう思い一粒口の中に放り込んでプチっと噛む。
その瞬間、予想外の甘さが広がった。
口の中で弾ける果汁に、自然と目を見開いてしまう。
「んんっ!ほんとだ、甘い!すっごく美味しい!」
思わず声が出た。
「お姉ちゃんマジで言ってる?」
「本当だよ!!絶対食べてみた方がいい!!」
私の反応を見て、小学生の一人が恐る恐るトマトを手に取る。
「……じゃあ、ちょっとだけなら」
小さな歯が果肉に食い込み、しばらくの沈黙の後——。
「……あれ、思ったより、まずくないかも」
それを聞いた他の子も「本当かよ」と半信半疑の中、おそるおそる口に運ぶ。
そして、驚いたように顔を見合わせた。
「ほんとだ! スーパーのやつよりうまい!」
「甘いし、酸っぱくない」
最初は嫌そうな顔をしていたのに、今ではみんなでトマトを囲んでいる。
その姿を見ながら、ふと、先ほど有森くんにかけられた言葉を思い出す。
『ちゃんと話してみたら意外と気が合うとか、あるかもよ』
私は今まで、矢沢さんのことをなんとなく避けていた。
見た目がちょっとキツそうで、勝手に怖そうだってイメージもあったし。
一番は、七果が矢沢さんのことを良く思っていなかったから。きっと私とも合わないかもって。
でも、それってただの思い込みだったのかもしれない。
あの教室の中なら絶対に自分から話しかけるなんてことなかった。
私は周りを見渡して、畑の端っこの方でそっぽを巻いていた女の子を見つけた。
「矢沢さんっ」
名前を呼びながら駆け寄ると、視線が交わる。
矢沢さんは、こちらを見て一瞬だけ驚いたような顔をした。
だけど、すぐにほんの少し険しい顔に戻った。
「……なに?」
冷たいわけじゃない。でも、やっぱり壁みたいな距離があって、私の心臓はちょっとだけ速くなる。
「あの、矢沢さんも、向こうでみんなと一緒に食べない?ここの野菜、すっごく甘くて……」
私は、できるだけ自然に笑ってそう言うけど、彼女は固い表情のまま、ゆっくり口を開いた。
「いらない」
勇気を出して話しかけたけど、気まずい空気が流れる。
そりゃそうだ。
普段は違うグループにいるクラスメイト。
いつもの空気と違うからって、私たちの関係がそう簡単に変わるわけじゃない。
「そっか、だよね。ごめんね、いきなり声かけて」
私は、矢沢さんから目を逸らして謝ってから、逃げるようにその場を後にした。
「牧田。そろそろ始まるよ」
「……あ、うん。ありがとう」
名前を呼ばれてハッとして顔を上げると、有森くんがめんつゆの入った小さなカップを差し出していた。
私はそれを両手で受け取る。
「……なんかあった?」
はしゃぐ小学生の笑い声が響くなか、有森くんの穏やかな声が届く。
「……うん。矢沢さんに話しかけてみたけど、やっぱり無理だった」
重くならないように、ごまかすように笑うと、有森くんが「そっか」と静かに頷いた。
矢沢さんとの距離が、ほんの少しでも縮まるかもなんて期待してた自分が、ちょっと恥ずかしい。
「やっぱり、私と矢沢さんは、あんまり波長が合わないと思う。グループも違うし……話しかけられたの迷惑だったかも……関わらないのが親切なこともあるし」
「お腹空いてるときって、ネガティブになりやすいんだよなあ」
ふっと笑った詩音が、流れるそうめんをちらりと見てから、軽く言う。
「けど、俺が言ったことちゃんと実践してみようって思ったんだな、牧田」
「え……」
「愛くるしいな~と思って」
有森くんのそのセリフに、なぜか顔が熱くなる。
冗談だってことは分かっているけど、こんな真っすぐ言われちゃったら……ほら、有森くん、顔もかっこいいし。
照れない人がおかしいよ。
「からかわないでよね!有森くんに言われたからじゃなくて、こっちのトマトが美味しかったからで……」
「うん。えらかったな」
そう言う彼の手が伸びてきて、私の頭を優しくポンと撫でる。
恥ずかしいし、子供扱いみたいでちょっとムカつくのに。
“えらかったな”
そのセリフになぜか目の奥も熱くなる。
「とりあえず今は、誰よりもたくさんそうめんを食べることだけを考えるぞ!」
有森くんに促され、私たちは、みんなのいる竹のレーンの前へと向かった。
「おお!俺こんなに取れたぞ!」
「あ、ミニトマト取るの難しい~!」
子供たちの賑やかな声の中心には、竹の長いレーン。
これがここにいるみんなで作り上げた手作りだっていうんだから驚きだ。
竹のレーンの横に設置された長テーブルには、先ほどの畑で取れたばかりの刻まれたネギや大葉、野菜スティック、種類豊富な天ぷらなども並べられていた。
近くにある小川の音も相まって、外の気温自体は高いはずだけど、涼しげで爽やか。
素敵な光景に思わず写真に収めたくなって手をズボンのポケットに伸ばしたけど。
あれ……。
いつもならそこにあるはずの感触がない。
あ、そうか。スマホはさっきスタッフの人に回収されたんだった。
この思い出を写真に収められないことはちょっとだけ残念だけれど……。
「ほら、牧田。早く食べないと食べ盛りたちに全部取られるぞ」
「はっ、うん」
有森くんから割りばしを受け取って、流れてくるそうめんのタイミングを見計らう。
「あ、来たっ!」
流れてくるそうめんにお箸を構えてすくおうとしたけど、思った以上にそうめんの流れが早くてお箸を持ったまま固まっていると。
「牧田、小学生の方が上手だぞ」
隣に立つ有森くんが、私が狙っていたそうめんの束をお箸ですくっていて、そのまま私のカップに入れてくれた。
「あ、ありがとう……」
「ん。早く食べな」
「いただきます」
早速もらったそうめんを啜れば、冷たい麺が口の中をすべり、ほどよく出汁の効いたつゆの香りが広がる。
キンと冷えた喉越しが、暑さで火照った身体を通り抜けていく。
「……ん〜!美味しい〜!」
「こういうところで食うと格別だよな」
「うん!!生き返る!!」
向こうにある薬味を入れたらもっと美味しいんだろうな……。
私は、先ほど収穫したばかりの薬味が並べられた長テーブルに向かい、お好みの量それらを加えて再びレーンに戻った。
「今度こそ!」
次こそ自分ですくうぞ、と気合を入れてお箸をレーンに向けて、流れてくるそうめんの束を取れたと思ったら。
「うっ……」
掬い上げられたのは3本ほど。
やっぱり意外と難しい。
「色羽だっせー!」
そんな声が正面から飛んできて、思わず顔を上げる。
声の主は、さっき畑で一緒にミニトマトを食べた小学生の男の子。
胸についた名札には《ヤヒロ》と書かれている。
「俺、いっぱい取れたぜ!」
とお手本みたいなドヤ顔に、苦笑いをする。
「ヤヒロ、じゃあ、色羽お姉ちゃんに優しく教えてあげて。上手な取り方」
隣の有森くんがそんな提案をすれば、ヤヒロくんが「しょうがねーな!」と呟きながら私のそばに回ってくれた。
「お箸をこうやって立たせておくんだよ。そしたらとれる」
そう彼が説明している間にもそうめんが流れてきて彼のお箸に溜まっていく。
「え、それズルくない!?」
「ズルじゃねーよ!さっき、俺も教えてもらったんだもん。藍花から」
「え……」
最後に聞こえた名前、聞き間違いかと思ったけど……。
向かい側で竹のレーンから背を向けてた人物の肩がビクッと動いたのを私は見逃さなかった。
見覚えのある後ろ姿。
「……や、矢沢さん?」
恐る恐る名前を呼べば、矢沢さんがきまり悪そうに振り返った。
「ヤヒロ、誰にも言うなって言ったよね」
「っ、だって、色羽がズルとかいうから!」
慌ててそう言うヤヒロくんを見ていた矢沢さんの瞳が、ギッと私を見つめる。
「あ、やっ、違うっ、まさか矢沢さんのご指導とは思わずっ!ごめんなさいっ!そんなつもりじゃ!」
これ以上、矢沢さんとの溝が深まるのを避けたくて必死に言葉を重ねていると。
「……プッ」
「え」
「……ご指導って、フッ……」
矢沢さんが小さく吹き出した方と思うと、声を震わせながらそう言った。
「どんだけ怖がられてんのよ、私」
拍子抜けしたように瞬きする私に、矢沢さんは肩の力を抜いて続けた。
「冗談に決まってるじゃん。怒ってないから」
とレーンに近づく矢沢さん。
「さっきはごめん。いらない、とかキツい態度とって」
「へっ……」
まさか、矢沢さんの口からそんな謝罪の言葉が聞けるなんて思ってなくて、私は一瞬、言葉を失った。
「あ、いや……全然、大丈夫!」
「矢沢もお腹減ってイライラしてたんだとさ」
「え……なにそれ……いや、ちょっとあるかも」
一連のやり取りを隣で見ていた有森くんのセリフに矢沢さんが納得したように言うのが面白くて、私も自然と口元が緩む。
「てかさ、ふたりはなんでここにいるの」
矢沢さんの問いに私と有森くんは目を合わせた。
足を踏み出した瞬間、ふわりと潮風が頬を撫で、セミの大合唱が響き渡る。
見上げれば、雲ひとつない真っ青な空が広がり、陽の光がまぶしく降り注ぐ。
鮮やかな夏の青が、目に染みる。
「ここが、今日から俺たちがお世話になる場所」
有森くんが視線を向けた看板に目を移す。
月雨草の杜。
私たちが二週間、お世話になる場所だ。
有森くんは「懐かしいな」と呟きながら、看板の先へと歩いていく。
「有森くんは、ここに来たことあるの?」
「うん。中学の頃にね」
「そうだったんだ」
以前に有森くんも参加してみて良いリフレッシュになったから、私のことも誘ってくれたってことなのかな……。
あの日、有森くんに誘われた日は全然乗り気じゃなかったから一度は断ったんだけど。
ほとんど七果たちと過ごす予定だった夏休みが変わってしまい、そのせいであんまり家に引きこもっていたら、お母さんに心配かけるかも、と思って。
それとなく、お母さんにキャンプのことを伝えてみたら、予想以上に反応が良くて、安心した顔をされたから、後に引けなくなってしまい、今現在。
「牧田、後ろ振り返ってみて」
緑に囲まれた緩やかな坂道をゆっくりと進んでいる途中、有森くんにそう言われ振り返れば。
「うわぁ!綺麗……」
少し先に海が見えた。
どこまでも続いているような水平線。エメラルドの水面がゆるやかに揺れ、太陽の光が反射してきらきらと輝いている。
海も緑も同時に楽しめるなんて。
乗り気じゃなかったけど、この景色が見れたことは純粋に嬉しい。
すぐにズボンのポケットからスマホを取り出してカメラで景色を数枚撮る。
深く息を吸い込むと、清々しい空気が体の奥まで染みわたる。暑いという気持ち以上に、爽やかなで心が落ち着く。
自分の住む場所に、こんな素敵な空間があったなんて。
ふわっと風が吹いて、私の髪を揺らす。
景色に目を奪われていると、子供たちの賑やかな声が遠くから聞こえてきた。
「行こうか」
有森くんの声に頷いて先に進むと、綺麗な施設が見えてきた。
その周りには、小学生から高校生ぐらいの子たちが数十人。
親御さんの後ろに隠れて人見知りしている子や、半ば強引に連れてこられたのか不満そうにしている中学生の男の子。
親御さん同士が話している光景も見える。
もしかして……ここにいる人たちみんな今回のキャンプに参加する人たちなのだろうか。
「はい、では、そろそろ時間になりますのでご案内いたします」
スタッフの方に案内され、私たちは施設の中へと進んだ。
施設の扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌を包む。
外の夏の熱気とは打って変わって、涼やかで心地いい。
広々としたロビーには、大きな窓が並び、太陽の光が優しく差し込んでいた。
木目調の床や白壁がナチュラルな雰囲気を醸し出していて、なんとなく落ち着く。
想像してたより、ずっと綺麗なところだ。
「それでは、これからキャンプの流れを説明します」
スタッフの一人が話し始める。
「まず、このキャンプではスマートフォンやタブレットなどの電子機器の使用は禁止です。持参された方は、これより回収させていただきます」
そう言って、他のスタッフが箱を乗せた台車を押しながら前に出た。
スマホ……回収。
デジタルデトックスが目的とは聞いていたけど、向こうに預けることになって全く使ってはいけないなんて……。
思わず有森くんの方を見れば、優しく目を細めて頷いた。
ポケットの中のスマホに指を添えながら、私は少しだけ戸惑う。
普段、暇さえあれば画面を眺めていた。動画を見たり、SNSをチェックしたり。
アイフレのサラとも、毎日会話していた。
もう体の一部みたいに肌身離さず持っていたもの。
それを、二週間も使えなくなるなんて。
「皆さん、初めまして。私は、今回のキャンプの責任者の泉川誠二と言います」
そうみんなの前に出て話し出したのは、白髪交じりの短く刈り揃えられた髪に、ほんのり日に焼けた肌の60代ぐらいの男性。
目元の笑いじわが柔らかい雰囲気を醸し出している。
「まずはこのキャンプに参加を決めたキミたちの勇気を心から褒めたいと思います。きっと簡単な決定じゃなかったよね」
優しく寄り添うその言葉が、私の心にも沁みる。
「このキャンプの目的は、単にスマホやゲーム機を手放すことではありません。自然の中で、かけがえのない仲間とともに過ごし、画面の中だけでは味わえない楽しみを経験しながら、自分自身と向き合う時間を持つことです」
泉川さんの穏やかな声が、ロビーにゆっくりと響く。
「きっと、この二週間は、今まで知らなかった自分や素敵なものに出会える大切な時間になるからね」
そう言う泉川さんが続ける。
「だけど、いきなりスマホやゲーム機を完全に禁止するわけではありません。毎晩、決められた一時間だけ、スマホの使用を許可します」
その言葉に、ざわめきが広がった。
「えっ、使えるの?」
「一時間だけか……」
少しだけホッとした表情を浮かべる子がいる一方で、不満そうな顔をする子もいた。
私も正直なところ、まったく使えないのかと思っていたので、少し安心する。
「ただし、使う時間と場所は決められています。夕食後、共用スペースで僕らがちゃんと見守っている間だけです。使用時間が過ぎたら、速やかにスマホを回収ボックスに戻してくださいね。ルールを守って、このキャンプを楽しんでください」
泉川さんはゆっくりとみんなの顔を見渡しながら話し終えると、スタッフの一人にマイクを手渡した。
「では、親御さんの方々はここでお別れとなります。私たちが責任をもってお子さんたちをお預かりいたしますので、ご安心ください」
そうスタッフが声をかけると、親御さんたちは子どもたちをぎゅっと抱きしめたり、髪を撫でたりしていた。
別れを惜しむ声が飛び交う中、子どもたちは名残惜しそうにしながらも、やがてお母さんやお父さんたちに手を振って、みんな指示に従っていた。
一気に人の数が減り、空気がしんみりとする中、ふと、私と同い年ぐらいの女の子がうつむき加減でひとり立っているのが目に留まった。
え……あれって……。
彼女のことをよく見ようとしたけど、再びスタッフの声がして顔を向ける。
「お母さんやお父さんと離れた子たち、すっごく寂しいよね!でも、頑張って、二週間後には、お父さんやお母さんたちに成長したところ見せようね。じゃあ、ここからは気持ちを切り替えて、自己紹介の時間です! これから二週間、一緒に過ごす仲間たちですから、お互いに名前を覚えて、たくさん話しましょうね」
参加者たちがざわつく。
年齢もバラバラだから、恥ずかしそうにしている子もいれば、すでに隣の子と楽しそうに話し始める子もいる。
自己紹介……私もどちらかというと苦手な方だけど。
スタッフの指示で、自己紹介タイムがスタートした。
次第に場の雰囲気もほぐれてきたなか、先ほど目に留まった女の子の順番になった。
胸の方まである長い髪は、明るいブラウンカラー。
教室で見かけていた頃は、黒髪のポニーテールをいつも揺らしていたから気付かなかったけど……。
あの子……やっぱり……。
「……矢沢藍花です」
小さくそう言うと、彼女は視線を伏せたまま、深いため息をつく。
「……まあ、適当にやります」
周囲が少しざわつく中、矢沢さんは面倒くさそうに言い終えた。その瞬間——。
ふと、彼女の目が私と有森くんの方を向いた。
一瞬、視線がぶつかる。
矢沢さんの表情が、わずかに強張るのがわかった。
驚きと戸惑いが混じったような表情のまま、矢沢さんはすぐに視線を逸らした。
私も咄嗟に目をそらす。
どうして矢沢さんがここに……?
学校ではそんなに親しいわけじゃない。
でも、七果たちが言っていたように、クラスの中の一番目立つグループの特にリーダー格のような存在だった矢沢さん。
そんな彼女がこのデジタルデトックスキャンプに参加するなんて――。
『藍花と言えば。聞いた?今、グループと揉めてるって』
『その原因が、“アイフレ”らしいんだよね』
『藍花がアイフレに送るつもりだった愚痴メッセージを、グループに誤爆したらしいよ』
雪美が話していたことを思い出す。
自分の問題ですっかり忘れていた。
矢沢さんも、グループで揉めていたんだっけ。
そして、私と同じアイフレユーザー。
矢沢さんがここに来たのも、それと関係あるのかな?
自己紹介の後、各々が手書きの名札を胸に付け、スタッフのひとりが手を叩いてみんなの注意を引く。
「さあ、では早速、これからみんなでお昼ご飯の準備です!」
レッツゴーと拳を掲げたスタッフの後に続いて、私たち参加者は外へと出た。
「まさか、矢沢も参加していたなんてな」
目的地に向かう道、有森くんが隣を歩きながら話す。
「うん。びっくりした。雰囲気ちょっと変わってたから全然気付かなくて……」
正直、今までちゃんと話したことがないから、気まずい。
七果はなぜか矢沢さんのことを異常に嫌っていたし、もしそれが、矢沢さんも七果に対して同じような気持ちを抱いていたとしたら、七果と同じグループだった私とはあんまり関わりたくないだろうし。
「ちゃんと話してみたら意外と気が合うとか、あるかも」
「えっ」
まるで私の不安の声が聞こえたかのように言う有森くん。
その時、前を歩いていたスタッフが振り返った。
「はい、到着!じゃあ、今から昼食の準備をします!」
みんなの視線がスタッフの方へ向けられる。
そこは施設の裏側で、広い芝生のスペースがあった。
その後ろには、小さな小川が流れているのが見える。
周りには大きな木々が生い茂り、澄んだ水がキラキラと光を反射しながらゆるやかに流れている。
その音と時折吹き抜ける風が心地よく頬を撫でた。
「お昼はここで流しそうめんをします。そうめんを流す竹のレーンからみんなで作ります!」
「流しそうめん!?」
「竹から作るの?すご!」
小学生たちの目が輝く。
無邪気な歓声が涼やかな小川のせせらぎに溶ける一方で、中高生の一部は微妙な表情を浮かべていた。
竹から作るとなると、かなりの労力がいるはず。
炎天下のなかでの作業を思うと、正直、気が重くなるだろう。私もまた、そのひとりだった。
「今からグループごとに作業を分担するので、皆さん協力して頑張ってください!」
スタッフの掛け声とともに、すぐに班分けが行われる。
力仕事になりそうな竹の加工は、高校生と中学生の男子たちが担当することになった。
私たち女子と小学生たちは、食材の準備を担当。
施設の反対側には、小さな畑があり、そこではトマトやキュウリ、薬味に使うネギや大葉などが育てられているらしく、私たちはそちらへと向かった。
畑に足を踏み入れると、土の匂いがふわりと鼻をかすめた。瑞々しい野菜たちが陽の光を浴びて、青々と葉を揺らしている。
「このトマト、すごく赤い!」
「キュウリも大きいね」
と興味津々に野菜を観察して声を弾ませる子供たちもいれば、野菜を見て顔をしかめる小学生男子たちもいる。
「うわ、オレ野菜キライ」
「俺も。トマトとか最悪。ぐちゃってしてて、酸っぱいし、無理」
彼らの言葉に、60代ぐらいの女性スタッフが笑顔でミニトマトを数個摘み取った。
「ここのトマト、すごく甘いんだよ。食べてみる?」
そばの水道で軽く表面を洗って男の子に差し出されたミニトマトは、水滴が付いてさらに瑞々しさが増している。
「……ん~俺はいいや」
「僕も」
なんて声が飛び交うけど、スタッフの人は動じず、男の子たちに視線を合わせて話す。
「そっか。実は、おばちゃんの子供もトマト大っ嫌いだったの。でもね、ここのトマトは甘くておいしいって、今はトマトが大好きなのよ」
「本当?」
「嘘だ~」
「本当。苦手と思って自分には合わないって決めつけちゃうのは、もったいないかもしれないよ?」
そう話すスタッフの方と目が合って、ニコッと微笑まれた。
「よし、じゃあ、試しに色羽ちゃんに食べてもらいましょう。色羽ちゃんは、トマト好き?」
「え、あ、えっと……」
突然話を振られて、みんなが私に注目する。
「そんなに得意ではない、ですけど……」
「フフッ。ちょうど良かったわ。ぜひ、食べてみて」
優しく促され、私はそっとミニトマトを手に取る。得意じゃないけど食べられないってわけではない。
せっかくの機会だし——。
そう思い一粒口の中に放り込んでプチっと噛む。
その瞬間、予想外の甘さが広がった。
口の中で弾ける果汁に、自然と目を見開いてしまう。
「んんっ!ほんとだ、甘い!すっごく美味しい!」
思わず声が出た。
「お姉ちゃんマジで言ってる?」
「本当だよ!!絶対食べてみた方がいい!!」
私の反応を見て、小学生の一人が恐る恐るトマトを手に取る。
「……じゃあ、ちょっとだけなら」
小さな歯が果肉に食い込み、しばらくの沈黙の後——。
「……あれ、思ったより、まずくないかも」
それを聞いた他の子も「本当かよ」と半信半疑の中、おそるおそる口に運ぶ。
そして、驚いたように顔を見合わせた。
「ほんとだ! スーパーのやつよりうまい!」
「甘いし、酸っぱくない」
最初は嫌そうな顔をしていたのに、今ではみんなでトマトを囲んでいる。
その姿を見ながら、ふと、先ほど有森くんにかけられた言葉を思い出す。
『ちゃんと話してみたら意外と気が合うとか、あるかもよ』
私は今まで、矢沢さんのことをなんとなく避けていた。
見た目がちょっとキツそうで、勝手に怖そうだってイメージもあったし。
一番は、七果が矢沢さんのことを良く思っていなかったから。きっと私とも合わないかもって。
でも、それってただの思い込みだったのかもしれない。
あの教室の中なら絶対に自分から話しかけるなんてことなかった。
私は周りを見渡して、畑の端っこの方でそっぽを巻いていた女の子を見つけた。
「矢沢さんっ」
名前を呼びながら駆け寄ると、視線が交わる。
矢沢さんは、こちらを見て一瞬だけ驚いたような顔をした。
だけど、すぐにほんの少し険しい顔に戻った。
「……なに?」
冷たいわけじゃない。でも、やっぱり壁みたいな距離があって、私の心臓はちょっとだけ速くなる。
「あの、矢沢さんも、向こうでみんなと一緒に食べない?ここの野菜、すっごく甘くて……」
私は、できるだけ自然に笑ってそう言うけど、彼女は固い表情のまま、ゆっくり口を開いた。
「いらない」
勇気を出して話しかけたけど、気まずい空気が流れる。
そりゃそうだ。
普段は違うグループにいるクラスメイト。
いつもの空気と違うからって、私たちの関係がそう簡単に変わるわけじゃない。
「そっか、だよね。ごめんね、いきなり声かけて」
私は、矢沢さんから目を逸らして謝ってから、逃げるようにその場を後にした。
「牧田。そろそろ始まるよ」
「……あ、うん。ありがとう」
名前を呼ばれてハッとして顔を上げると、有森くんがめんつゆの入った小さなカップを差し出していた。
私はそれを両手で受け取る。
「……なんかあった?」
はしゃぐ小学生の笑い声が響くなか、有森くんの穏やかな声が届く。
「……うん。矢沢さんに話しかけてみたけど、やっぱり無理だった」
重くならないように、ごまかすように笑うと、有森くんが「そっか」と静かに頷いた。
矢沢さんとの距離が、ほんの少しでも縮まるかもなんて期待してた自分が、ちょっと恥ずかしい。
「やっぱり、私と矢沢さんは、あんまり波長が合わないと思う。グループも違うし……話しかけられたの迷惑だったかも……関わらないのが親切なこともあるし」
「お腹空いてるときって、ネガティブになりやすいんだよなあ」
ふっと笑った詩音が、流れるそうめんをちらりと見てから、軽く言う。
「けど、俺が言ったことちゃんと実践してみようって思ったんだな、牧田」
「え……」
「愛くるしいな~と思って」
有森くんのそのセリフに、なぜか顔が熱くなる。
冗談だってことは分かっているけど、こんな真っすぐ言われちゃったら……ほら、有森くん、顔もかっこいいし。
照れない人がおかしいよ。
「からかわないでよね!有森くんに言われたからじゃなくて、こっちのトマトが美味しかったからで……」
「うん。えらかったな」
そう言う彼の手が伸びてきて、私の頭を優しくポンと撫でる。
恥ずかしいし、子供扱いみたいでちょっとムカつくのに。
“えらかったな”
そのセリフになぜか目の奥も熱くなる。
「とりあえず今は、誰よりもたくさんそうめんを食べることだけを考えるぞ!」
有森くんに促され、私たちは、みんなのいる竹のレーンの前へと向かった。
「おお!俺こんなに取れたぞ!」
「あ、ミニトマト取るの難しい~!」
子供たちの賑やかな声の中心には、竹の長いレーン。
これがここにいるみんなで作り上げた手作りだっていうんだから驚きだ。
竹のレーンの横に設置された長テーブルには、先ほどの畑で取れたばかりの刻まれたネギや大葉、野菜スティック、種類豊富な天ぷらなども並べられていた。
近くにある小川の音も相まって、外の気温自体は高いはずだけど、涼しげで爽やか。
素敵な光景に思わず写真に収めたくなって手をズボンのポケットに伸ばしたけど。
あれ……。
いつもならそこにあるはずの感触がない。
あ、そうか。スマホはさっきスタッフの人に回収されたんだった。
この思い出を写真に収められないことはちょっとだけ残念だけれど……。
「ほら、牧田。早く食べないと食べ盛りたちに全部取られるぞ」
「はっ、うん」
有森くんから割りばしを受け取って、流れてくるそうめんのタイミングを見計らう。
「あ、来たっ!」
流れてくるそうめんにお箸を構えてすくおうとしたけど、思った以上にそうめんの流れが早くてお箸を持ったまま固まっていると。
「牧田、小学生の方が上手だぞ」
隣に立つ有森くんが、私が狙っていたそうめんの束をお箸ですくっていて、そのまま私のカップに入れてくれた。
「あ、ありがとう……」
「ん。早く食べな」
「いただきます」
早速もらったそうめんを啜れば、冷たい麺が口の中をすべり、ほどよく出汁の効いたつゆの香りが広がる。
キンと冷えた喉越しが、暑さで火照った身体を通り抜けていく。
「……ん〜!美味しい〜!」
「こういうところで食うと格別だよな」
「うん!!生き返る!!」
向こうにある薬味を入れたらもっと美味しいんだろうな……。
私は、先ほど収穫したばかりの薬味が並べられた長テーブルに向かい、お好みの量それらを加えて再びレーンに戻った。
「今度こそ!」
次こそ自分ですくうぞ、と気合を入れてお箸をレーンに向けて、流れてくるそうめんの束を取れたと思ったら。
「うっ……」
掬い上げられたのは3本ほど。
やっぱり意外と難しい。
「色羽だっせー!」
そんな声が正面から飛んできて、思わず顔を上げる。
声の主は、さっき畑で一緒にミニトマトを食べた小学生の男の子。
胸についた名札には《ヤヒロ》と書かれている。
「俺、いっぱい取れたぜ!」
とお手本みたいなドヤ顔に、苦笑いをする。
「ヤヒロ、じゃあ、色羽お姉ちゃんに優しく教えてあげて。上手な取り方」
隣の有森くんがそんな提案をすれば、ヤヒロくんが「しょうがねーな!」と呟きながら私のそばに回ってくれた。
「お箸をこうやって立たせておくんだよ。そしたらとれる」
そう彼が説明している間にもそうめんが流れてきて彼のお箸に溜まっていく。
「え、それズルくない!?」
「ズルじゃねーよ!さっき、俺も教えてもらったんだもん。藍花から」
「え……」
最後に聞こえた名前、聞き間違いかと思ったけど……。
向かい側で竹のレーンから背を向けてた人物の肩がビクッと動いたのを私は見逃さなかった。
見覚えのある後ろ姿。
「……や、矢沢さん?」
恐る恐る名前を呼べば、矢沢さんがきまり悪そうに振り返った。
「ヤヒロ、誰にも言うなって言ったよね」
「っ、だって、色羽がズルとかいうから!」
慌ててそう言うヤヒロくんを見ていた矢沢さんの瞳が、ギッと私を見つめる。
「あ、やっ、違うっ、まさか矢沢さんのご指導とは思わずっ!ごめんなさいっ!そんなつもりじゃ!」
これ以上、矢沢さんとの溝が深まるのを避けたくて必死に言葉を重ねていると。
「……プッ」
「え」
「……ご指導って、フッ……」
矢沢さんが小さく吹き出した方と思うと、声を震わせながらそう言った。
「どんだけ怖がられてんのよ、私」
拍子抜けしたように瞬きする私に、矢沢さんは肩の力を抜いて続けた。
「冗談に決まってるじゃん。怒ってないから」
とレーンに近づく矢沢さん。
「さっきはごめん。いらない、とかキツい態度とって」
「へっ……」
まさか、矢沢さんの口からそんな謝罪の言葉が聞けるなんて思ってなくて、私は一瞬、言葉を失った。
「あ、いや……全然、大丈夫!」
「矢沢もお腹減ってイライラしてたんだとさ」
「え……なにそれ……いや、ちょっとあるかも」
一連のやり取りを隣で見ていた有森くんのセリフに矢沢さんが納得したように言うのが面白くて、私も自然と口元が緩む。
「てかさ、ふたりはなんでここにいるの」
矢沢さんの問いに私と有森くんは目を合わせた。


