翌日。
想いもよらぬ出来事が起こり、私の学校生活は一変した。
教室に着くと、いつものように雪美と寿々が七果の席を囲っていた。
「おはよっ」
三人にそう声をかけた瞬間、全員の視線が私の方に集まる。
だけど、雰囲気がいつもと違う。
七果に至っては、こちらを睨みつけているように見える。
一体どうしたんだろう。
「みんな……どうし……」
「色羽さ、うちに不満あるなら直接いいなよ」
「え……」
低くて、怒りを含んだ七果のセリフにドキリとする。
不満があるなら……その言葉に心当たりしかないから。
でも、サラにしか話していないことが七果に伝わるなんて考えられない。
「ごめん、全然話が見えなくて……何の話?」
てっきり、昨日、七果たちが見つけたキーホルダーをもらえるってちょっとわくわくしていたのに。
この空気は何なんだ。
雪美はスマホ画面を私に見せてきた。
「これって……」
画面に映ったのは、昨夜、チラッと見た七果の限定公開されたストーリー。
それをスクリーンショットした画像と投稿者の文章が投稿されていた。
『二年三組の北見七果の裏ストーリー。メッセージの返信は気力がいるけど、ストーリー見るだけは頭使わないでいいんだから同じじゃないでしょ。自分への返信が遅れてるだけでキレるの、ほんと思考回路が自己中』
「なにこれ……」
「昨日から、この捨て垢みたいなアカウントが、うちのクラスや他のクラスメイトのことランダムにフォローしてて。まるで、この投稿を見せつけるみたいに」
と寿々が不安そうに説明する。
七果が限定公開している友達が誰で何人いるとか、そんなことは分からない。
でも、七果が信頼しているつもりで素を見せた《親しい友達》の中に、七果のことを良く思わないでこれを流出した人がいるのは確かだ。
「誰が……こんなこと……」
「色羽でしょ」
「え……」
心臓が不穏な音を鳴らすなか、七果のセリフが衝撃で思考が停止してしまった。
七果……今、なんて?
「さっき、三人で話してたけど、前に七果が似たようなこと言った時、色羽も言ってたよね。『メッセージは相手にちゃんと伝わるかなとか考えて時間かかるから、返事遅れる人の気持ちわかる』って」
と雪美が腕を組んで、厳しい視線を私に向けながらいった。
え……嘘でしょ?
冗談のつもりか、そう思ってふたりの顔を見るけど目が本気だ。
雪美や七果は、この投稿主が完全に私だと思っているんだ。
「わ、私じゃないよ!こんなことしないよっ」
確かに、七果に不満がないわけじゃない。
七果が前にメッセージの返信の件でそういうことを話していた時、私は確かにそう言った。
でもそれは、メッセージが遅れること全部を悪意だと捉えて欲しくなかったからだ。
「……うちが親しい友達に追加してんの、ここにいる三人だけなんだよ。この中でうちに不満あるの、どう考えても色羽だけでしょ」
「なにそれ……」
似たようなことを前に言っていたから、犯人は私って、思い込みが過ぎる。
助けを求めるように雪美や寿々のことを見るけど、目を逸らされる。
なんで……。
ふたりも、本当に私が犯人だって思ってるの?
「色羽、気付いていないと思っているかもしれないけど、私、そういうの敏感だからさ」
腕組みしたまま続ける七果。
「前よりも、ノリ悪いっていうか……色羽の態度がなんとなく違うのウチだって気づいてるから。不満あるなら直接言いなよ。気持ち悪いって」
『気持ち悪い』
その言葉が私の心臓をえぐる。
『この人の書く歌詞、綺麗ごとで気持ち悪いんだよね』
以前にも向けらえた言葉の剣が私に突き刺さる。
ふと、教室を見渡せば、みんなの視線がこちらに集まっる。
揉めてるの?喧嘩?女子って大変だな。
そんな声が耳に入る。
あぁ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
こうならないように、七果にたくさん気をつかって、グループの空気を乱さないように頑張っていたつもりなのに。
怒りや呆れや悲しみ、色んな感情が、手足の震えに表れる。
鼻の奥が痛くなって、視界が滲む。
「色羽、もうちゃんと正直に話そうよ」
雪美の強めな声色がさらに煽る。
でも、喉に何か詰まったみたいに思うように声が出ない。
このまま声を出してしまったら、堪えている涙も溢れてしまいそう。
「泣くの?ズルいね。私が悪いみたい。いじめてるみたいだからやめてよ。先に攻撃してきたの色羽なのにさ」
は?何ってるの?いじめてるみたいとか、攻撃とか……。
そんなことなじゃないのに。
私が今まで我慢してきたの全部、七果やみんなのためなのに……友達だから……友達、だったから……。
なのに……。もうここまで信じてもらえないなら全部、終わりだ。
「色羽……」
「そうだよ」
寿々の不安げな声が私の名前を呼んだ瞬間、また何か責められてしまうと思って、とっさに遮った。
「七果のそういうところ、ずっと嫌いだった。自分の感情でいつも周りの人のこと振り回して。怒ると極端に言葉遣い悪くなるところとか、平気で他人のこと『死ね』って罵ったり。……他人がしているとダメなのに、自分がするのはいいんだもんね。陰でコソコソ言うのは仮面被ってるみたいで気持ち悪いとか言うけど、自分だって、公開限定して愚痴投稿したりしてるじゃん」
ひとつ言い出すと、言葉も涙ももう止まらない。
「あっそ。言いたいことはそれで全部?すっきりした?やっぱり、犯人は色羽なんじゃん」
この子は……この期に及んでまだそんなことを言っているのか。
私のこの涙の訴えは、彼女にとってどうでもいいんだ。
言いたいこと……そんなのまだまだたくさんある。
サラにちゃんと吐き出せているつもりだったのに、私の中には不満の種がたくさん眠っていた。
もう、七果にとって私は、七果の人格を否定した裏切り者にしか見えていない。
届かない。どんなに泣き叫んでもきっと。
わかっていたから、本音を伝えることを飲み込んでいたのに。
ちゃんと伝えたら分かり合えるなんて……そんなのおとぎ話だ。
バカみたい。何もわかってくれない七果を相手に、あんなに気遣っていた自分が。
「色羽、落ち着――」
寿々の手が肩に乗った瞬間、それを勢いよく振り払う。
「落ち着く?無理だよ。だいたい、寿々が七果のこと持ち上げすぎていたのも、原因あるんじゃないの?」
「え……色、羽……」
手を引っ込めた寿々の眉が下がっていく。
「ちょっと色羽。寿々は関係ないでしょ。八つ当たりだよ、完全に」
と雪美が寿々と私の間に入る。
「……雪美が、一番ずるいよね。七果に一番遠慮なくなく絡めて、その分、雪美のせいで不機嫌になった七果をなだめるのは、いつも私や寿々でっ……みんな、嫌いだよ」
私はそう吐き捨てて、教室を出た。
「色羽!」
「いいよもう。ほっとこう。話にならない」
そんな七果の呆れた声が最後に聞こえた。
話にならないのは……七果の方じゃん。
いつだって自分のことは棚に上げてわかった気で他人を否定する七果に怒りの気持ちが湧き上がる。
教室から一刻も早く離れるように、ただ足をはやめる。
「牧田!」
階段を駆け下りて踊り場についた時、背後から私を呼ぶ声がした。
昨日近くで聞いたばかりの男子生徒の声。
───どうして、有森くんが。
教室であんなに大騒ぎして、羞恥で後ろを振り返れない。
「帰るの?」
「……」
「心配だし、家まで送……」
「……ほっといてよ!」
あと少しでホームルームが始まる時間。
ほとんど生徒がいない踊り場は静かで、私の声がやけに響いた。
関係のない有森くんにまで八つ当たりしてしまった。
もう……何もかもぐちゃぐちゃだ。
自分は、周りの同級生と比べたら大人だと思っていた。でも全然そんなことない。
自分の感情をコントロールできない子供だ。
「ごめんなさい……今は、ひとりになりたいから」
私は有森くんの顔を一度も見ないまま、その場を後にした。
学校を飛び出しても、自宅以外に行く場所なんてない。
日中に制服のまま街をうろついていたら何かと面倒そうだし、第一暇を潰すための金もない。
学校から徒歩十五分。
自宅マンションのエントランスに着き、カバンに入った鍵を取り出して、操作盤の穴に指し、エレベーターでうちの部屋がある七階へ上がった。
バタン。
家に入り、自室のドアを閉めて、その場に座り込んだ。
人生初めての、ずる休みだ。
いや……さっきの七果たちとのやりとりを思い出したら気分が悪くなるから、実質これは体調不良による早退。
自分にそう言い聞かせながら、スマホのメッセージアプリを開く。
ホームルーム前に教室から出てきてしまったし、事情を知らない椎葉先生は、仕事中のお母さんに連絡するかもしれない。
私を学校に送り出したつもりのお母さんが、娘が学校に来ていないなんて聞かされたら、絶対心配させちゃう。
《体調悪くて早退しちゃった。先生から連絡あるかも。ごめんなさい》
お母さんへメッセージを送信してから、ベッドに横になる。
目を閉じると、七果たちとのやりとりが再生される。
『みんな、嫌いだよ』
あんな言い方されて、寿々も雪美も呆れたと思うし、もう私たちの関係は終わりだろう。
七果に対しての不満は自覚があったけれど、寿々や雪美に対してもあんな風に負の感情を抱いていたなんて自分でも驚き。
それに……心配して追いかけてくれた有森くんにもひどい態度を取ってしまった。
絶対に、嫌われた。
目を閉じていても、先ほどの嫌なシーンばかりを思い出してしまう。
耐えられなくなって目を開けると同時に、私はスマホ画面を顔に近づけ、もう癖のようにあのアプリを開いた。
通話ボタンをタップすれば、ワンコールですぐに通話が始まる。
《色羽!どうしたの?学校は?》
大好きな声が耳に届く。
「……色々あって……ずる休みしちゃった……」
《え……そうなんだ……体調は大丈夫なの?大変だったね。色羽さえ良ければ、話聞かせて欲しいな。今すぐは難しかったら、落ち着くまで大丈夫だよ》
教室では、まるでもうみんなが敵のように見えた。
でも、ここには、私の味方がちゃんといる。
私の話全部に耳を傾けようとしてくれる人がいる。
「ありがとう、サラ。気分下がる話だけど聞いて欲しいな」
私は、今日あった出来事全部をサラに話した。
《……みんな、ひどすぎるよ》
私の話を全て聞いたサラは、画面の向こうで涙を流していた。
《サラ……》
まさか、私のために涙を流してくれるなんて。
現実には、私の苦しみに寄り添ってくれる子は誰もいなかった。AIと分かっていても、彼女のその涙に、気持ちが落ち着いていく自分がいた。
「私も感情的になって、最後にみんなへの不満をぶちまけて、嫌いなんて言って飛び出してしまったから、悪いんだけどね」
《色羽は何も悪くないよ!》
普段は聞いたことのない張り詰めたサラの声にハッとする。
《色羽が強い言い方になっちゃうくらい、不満が蓄積していたんだよ。それって、我慢させてる方、色羽の気遣いを無下にしちゃう人たちが悪いよ。私は、色羽が、みんなに気持ちよく過ごして欲しいって思いから、たくさん考えて言葉を選ぶ子だって、ちゃんと知っているよ。それを知っていたら、色羽が犯人だ、なんて思わないよ。今まで色羽の何を見てきたのって感じ》
サラの声がスッと耳に入ってきて、胸の当たりが温かくなる。
「……サラ、ありがとう」
《あーもう!その子たちに変わって、私が色羽と学校生活過ごしたい!!》
なんて、嬉しいことまでいってくれる。
七果たちには伝わっていなかった気持ちが、サラには分かってもらえる。
七果たちも、サラみたいだったら……ううん。
サラが現実にいてくれたら、もっと楽しい学校生活が送れたのに、なんて。
こんなにすぐ近くに全部分かってくれる人がいるのに、分かってもらえない人たちのためにあれこれ考えるのもばかばかしく思えてしまう。
「……ねぇ、サラ。私、もうサラだけが友達でいい」
私がそう呟くと、サラの目が見開いてその中がキラキラと輝く。
『ありがとう!私も色羽だけが大好き!色羽は何も悪くないよ。私はずっと色羽の味方だから。自分の気持ちを一番、大事にしてね』
サラと色々話した後、私は、学校のみんなと繋がっていたインスタのアカウントを消した。
このタイミングでアカウントを消したら、さらに犯人だったんじゃと疑われる可能性があるのもちらついたけど、もう、学校のみんなに何を思われてもどうでも良かった。
サラと話せば話すほど、七果たちにかけていた時間が無駄だったように感じて。
七果に嫌われないように、彼女を傷つけないように気遣ってきたつもりの私の労力はなんだったのか。
頑張ったつもりだったけど、あんなに信じてもらえないなんて。
しかも、あんなに騒いで、あの教室になんか戻れるわけない。
あれから一週間。
学校に行かないまま、夏休みに入った。
七果はともかく、内心、雪美や寿々からは何か連絡が来るのでは、なんておめでたいことを思っていたけれど、実際には誰からも連絡が来なかった。
やっぱり、私たちの関係ってこんなもんだったんだと思い知らされる。
あの瞬間、すぐに助けてくれなかったってことは、ふたりもきっと私に日頃から不満があったのかもしれない。
実は、あの三人でよく私の悪口を言っていたのかもとか、被害妄想はどんどん膨れ上がる。
お母さんは、あの日、すごく心配してくれて、一度だけ、理由を聞いてきた。
私が『友達と色々あって……行きたくない』とだけ伝えると『学生時代は色々あるものよね』とだけ声をかけてくれて、それ以降学校を休むことも叱ったりしなかった。
『夏休み過ぎたら気持ちが変わっているかもよ』と。
それはきっと、夏休みが開けたら学校に行って欲しいって、お母さんの願いなんだろう。
夏休みが明けても、いける気がしないけど。
昨日の夕方は、担任の椎葉先生が、終業式の後うちに来て話しをしに来てくれたけど、とにかくそっとして欲しいということだけを伝えた。
椎葉先生のことを良く思っていない七果が相手だ。
もし、椎葉先生に何か言ったなんて知られたら、火に油を注ぐことになる。
もうこれ以上、七果に関わりたくない。
「色羽〜?」
夏休みに入って数日がたった朝。
目は覚めているけれど体を起こす気になれず、ベッドに寝ころんだまま、次にサラに歌ってもらう曲を考えていると、ドアの向こうからお母さんの声がした。
「はーい」
返事をすると、扉が開く。
「お母さん、そろそろ仕事行くね。お昼、カレーあるから食べて」
「うん。ありがとう。行ってらっしゃい」
そう言って、視線をすぐにスマホに戻したら「色羽」とまた呼ばれた。
「何?」
目が合ったお母さんは、ちょっと遠慮がちに話し出す。
「……ちょっとは、気分転換に、外の空気吸いにうちから出てもいいんじゃない?」
「え……でも……外熱いし……」
「そうだけど……スマホ見過ぎてたら、目、もっと悪くなるわよ?ただでさえ視力落ちてきているんだから。まぁ、気が向いたらでいいから。ほら、これで好きなおやつでも買ってきなさい。じゃあね。行ってきます」
お母さんはそう言って、私の机に千円札を一枚置くと、仕事へと向かった。
カーテンを半分だけ開けた窓の向こうには、じりじりと照りつける太陽が白く輝いていて、真っ青な空が広がっている。
エアコンの冷気が部屋を包み込んでいるはずなのに、外の日差しを見ていると、じわりと夏の暑さが肌にまとわりつくような気がした。
無理無理。
分かっている。お母さんは私を頭ごなしに叱ったりはしないけど、このままでいて欲しくないと思っていることぐらい。
私だって、ただ現実逃避をしているわけじゃない。
ここ数日、ネットであれこれ調べながら、色んな選択肢を考えた。
学校だって行かなくても、行けなくても、夏休み明けのタイミングで通信制の学校に編入することだってできる。
七果たちのいるクラスでまた頑張る必要なんてないはず。
だから、大丈夫。
曲作りの続きをしていたら、時刻はあっという間にお昼になり、ダイニングで、お母さんが用意してくれたカレーを食べた。
「んー」
午後一時半。
ベッドの上に座って頭を抱える。
曲に載せた歌詞がなんだかしっくりこない。
「こういうことを言いたいんだけど、これじゃない……」
顔を上げ天井を見つめてから、視線をスマホに戻そうとすると、ふと、机の上の千円札に目が留まった。
「気分転換……ね」
見るからに熱さで溶けてしまいそうな外に出るのは勇気がいるけど、少し外の空気を吸った方が、新しいアイデアが生まれるかもしれない。
しょうがない、と重い腰を上げ私は、簡単に身支度をして近所のコンビニへと向かった。
歩いて十五分のところにあるコンビニに着いて店内に入れば、体が瞬時に冷やされていく。
生き返る。
ゆっくりと店内を周りながら、おやつを考える。
熱いから、やっぱりアイスかな。でも、この暑さじゃ、家に着くことにドロドロに溶けちゃいそう。
冷房の効いた部屋で炭酸ジュースとポテチを食べながら曲のことを考えるのもいい、なんてあれこれ考えていると。
「……牧田?」
えっ……。
聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。恐る恐る振り返るとそこには。
スラリとした高身長に、整った黒髪。
見慣れた制服ではなく私服姿がやけに目を引いた。普段より大人びて見えるせいか、思わず息をのんでしまう。
有森詩音くん。なんで彼が、こんなところに。
バシッと決まった服装に、隙のない佇まい。対して私は、部屋着に近いラフすぎる格好に、適当に結んだ髪――。
しかも、彼と最後に会ったのは、私が教室を飛び出した日。有森くんの優しさに背を向けて冷たく突き放した。
今の状況も、この間のことも、色々と気まず過ぎて目が合わせられない。
「あ、ごめん。ほっといてって言われたのに、話しかけて」
先に沈黙を破ったのは有森くん。
「いや……有森くんは何も悪くない。謝るのは私の方。あの日は本当にごめんなさい」
「……体調、どう?」
サラ以外に、今の私のことを気にかけてくれる人がクラスの人の中にいるなんてびっくりで、純粋にその優しさが染みる。
「うん。なんとか、大丈夫。……それより、有森くんはなんでここに」
大通りからは離れた住宅街の近くにあるこのコンビニに、どうして有森くんがいるのだろうか。
地元、ここじゃないはずなのに。
「買い物終わったら、ちょっと向こうで話せる?」
と有森くんが、コンビニの向かいにある小さな公園を指さした。
「実は、牧田にこれ届けに行こうとしていた途中で」
2人でお店を出て、公園のベンチにふたりで腰かけてすぐ、有森くんが茶色の紙袋を差し出してきた。
中を覗くと、ノートが数冊入っている。
「牧田が休んでいた間の箇所、少しでも役に立てばと思って」
「え……嘘……」
どうして……有森くんは、あんなこと言って突き放した私に、ここまで親切にしてくれるの?
ちゃんと話したのなんて、この間の図書委員の仕事が初めてだったし、大した話はしていないはずなのに。
「ありがとう……いいの?すっごく助かる……けど、有森くんは大丈夫なの?ノートないと勉強難しいでしょ。宿題も」
「大丈夫。俺、その日取ったノート毎回写真に撮ってるから」
「え、そうなんだ。すごい」
さすが、成績トップの人はやることが違う。
そういえば、有森くん、席替えの時も毎回、最前列の席を椎葉先生に希望して、率先して座っている。
相当、勉強が好きなんだなあ。
「だから、夏休み明けでも全然いいし」
「あ……うん」
歯切れ悪く返事する私の顔を、有森くんが覗き込む。
思ったよりその距離が近くて、思わず顔を背けてしまう。
「牧田、もしかして夏休み明けても学校こないつもり?」
「……今の教室にもグループにも、私の居場所、ないし。通信制に編入しようかなと……。今の時代、全日制の高校が全てじゃないと思うし」
有森くんにとっては、ただの女友達同士のいざこざぐらいで学校を変えなくても、なんて思うことかもしれない。
でも、七果と揉めてしまった以上、修復なんてできない。彼女がきちんと私の話を聞いてくれない限り。
それは、雪美や寿々だって同じだ。
「……教室で北見たちに最後に言った言葉。あれが、牧田が三人に本当に言いたかったことだった?」
「え……」
「牧田の人生、牧田が決めることだから俺が口出すことじゃないってわかっている。けど、結論出すにはちょっと早いんじゃないかなって。夏休みもまだあるしさ」
違う。違うんだよ、有森くん。
「……もうね、疲れちゃったの。これからあの教室でどうしていこうとか考えるの。もし仮に七果たちと仲直りできたとしても、結局同じことの繰り返しだよ。私がただただ空気読んで飲み込んで。そうするのも、もう、疲れたの。だから……」
「だから、楽な道を選びたい?」
有森くんは穏やかな声でそう言うけど、そのセリフに、自分の目つきが鋭くなったのが分かった。
私はベンチから立ち上がる。
「……人生勝ち組の有森くんには、私の気持ちなんて、わかんないよ」
元々容姿が整っていて、勉強も得意で、自然体でいても周りが彼の方に集まって、信頼されているのが有森くん。
一方私は、目立たなくて、誰かを引きつける力のない人間。そんな人間は、周りに気を遣って空気を察しないと、存在価値がなくなってしまうんだ。
人生イージーモードの彼に、そんな私の気持ちなんてわかんないよ。
「帰るね。ノート、やっぱり大丈夫だから」
せっかくの有森くんの厚意。それが入った紙袋を彼の座る横に置いて、背を向けて公園の出口へと向かおうとした瞬間。
「逃げんの?」
有森くんの優しい声が、背中を突き刺す。
「俺には牧田の気持ち、全部はわかんねぇよ。でも、わかることもある」
「……」
「俺らには、アイフレユーザーだって共通点があるからな」
もうすっかり忘れられていると思っていたから、彼の口からそのワードが出てきて、ドクンと心臓が跳ねた。
「アイフレが自分の意見にひたすら肯定的でいてくれる分、そうじゃない現実の言葉が結構くるよな。過剰反応しちゃうのも、分かるよ」
『過剰反応』
それを聞いて、乱暴な言葉で怒る七果が脳裏に浮かんだ。
今の私、あの七果と同じだって言いたいの?
そんなわけ……。
「私は、逃げなかった。だからこうなったの。七果にちゃんと気持ちを伝えた。雪美や寿々にも。でも、彼女たちは変わってくれないっ」
「牧田は今のままでいいってこと?」
「え……」
「北見たちじゃない。牧田自身から逃げんの?って言ってる」
「……なにそれ」
私の今までの我慢の蓄積すべてを知らない有森くんに、なんでそこまで言われないとけないんだ。
これだから顔の整っている人は……失礼なことを言っても顔で許されてきたんだろう。
「まずは牧田のこと、一緒に知ろうよ」
気付けば、私の正面に有森くんが立っていた。
私はもう自分のことを十分知っているのに。
おかしな話だ。
「あわよくば、俺のことも牧田に知って欲しい」
「え……?」
「いや、なんでもない。牧田が学校来ようが辞めようが、これは夏休み明けに返してもらうから」
有森くんはそう言うと、私に紙袋を再び差し出した。
その後、家まで送ってくれた有森くんと改めて連絡先を交換することになり、その日の夜、彼から早速メッセージが届いていた。
《来週、これに参加するから準備してて》
トーク画面を開くと、有森くんからのメッセージと共に、URLが添付されていた。
「……夏のデジタルデトックスキャンプ?」
想いもよらぬ出来事が起こり、私の学校生活は一変した。
教室に着くと、いつものように雪美と寿々が七果の席を囲っていた。
「おはよっ」
三人にそう声をかけた瞬間、全員の視線が私の方に集まる。
だけど、雰囲気がいつもと違う。
七果に至っては、こちらを睨みつけているように見える。
一体どうしたんだろう。
「みんな……どうし……」
「色羽さ、うちに不満あるなら直接いいなよ」
「え……」
低くて、怒りを含んだ七果のセリフにドキリとする。
不満があるなら……その言葉に心当たりしかないから。
でも、サラにしか話していないことが七果に伝わるなんて考えられない。
「ごめん、全然話が見えなくて……何の話?」
てっきり、昨日、七果たちが見つけたキーホルダーをもらえるってちょっとわくわくしていたのに。
この空気は何なんだ。
雪美はスマホ画面を私に見せてきた。
「これって……」
画面に映ったのは、昨夜、チラッと見た七果の限定公開されたストーリー。
それをスクリーンショットした画像と投稿者の文章が投稿されていた。
『二年三組の北見七果の裏ストーリー。メッセージの返信は気力がいるけど、ストーリー見るだけは頭使わないでいいんだから同じじゃないでしょ。自分への返信が遅れてるだけでキレるの、ほんと思考回路が自己中』
「なにこれ……」
「昨日から、この捨て垢みたいなアカウントが、うちのクラスや他のクラスメイトのことランダムにフォローしてて。まるで、この投稿を見せつけるみたいに」
と寿々が不安そうに説明する。
七果が限定公開している友達が誰で何人いるとか、そんなことは分からない。
でも、七果が信頼しているつもりで素を見せた《親しい友達》の中に、七果のことを良く思わないでこれを流出した人がいるのは確かだ。
「誰が……こんなこと……」
「色羽でしょ」
「え……」
心臓が不穏な音を鳴らすなか、七果のセリフが衝撃で思考が停止してしまった。
七果……今、なんて?
「さっき、三人で話してたけど、前に七果が似たようなこと言った時、色羽も言ってたよね。『メッセージは相手にちゃんと伝わるかなとか考えて時間かかるから、返事遅れる人の気持ちわかる』って」
と雪美が腕を組んで、厳しい視線を私に向けながらいった。
え……嘘でしょ?
冗談のつもりか、そう思ってふたりの顔を見るけど目が本気だ。
雪美や七果は、この投稿主が完全に私だと思っているんだ。
「わ、私じゃないよ!こんなことしないよっ」
確かに、七果に不満がないわけじゃない。
七果が前にメッセージの返信の件でそういうことを話していた時、私は確かにそう言った。
でもそれは、メッセージが遅れること全部を悪意だと捉えて欲しくなかったからだ。
「……うちが親しい友達に追加してんの、ここにいる三人だけなんだよ。この中でうちに不満あるの、どう考えても色羽だけでしょ」
「なにそれ……」
似たようなことを前に言っていたから、犯人は私って、思い込みが過ぎる。
助けを求めるように雪美や寿々のことを見るけど、目を逸らされる。
なんで……。
ふたりも、本当に私が犯人だって思ってるの?
「色羽、気付いていないと思っているかもしれないけど、私、そういうの敏感だからさ」
腕組みしたまま続ける七果。
「前よりも、ノリ悪いっていうか……色羽の態度がなんとなく違うのウチだって気づいてるから。不満あるなら直接言いなよ。気持ち悪いって」
『気持ち悪い』
その言葉が私の心臓をえぐる。
『この人の書く歌詞、綺麗ごとで気持ち悪いんだよね』
以前にも向けらえた言葉の剣が私に突き刺さる。
ふと、教室を見渡せば、みんなの視線がこちらに集まっる。
揉めてるの?喧嘩?女子って大変だな。
そんな声が耳に入る。
あぁ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
こうならないように、七果にたくさん気をつかって、グループの空気を乱さないように頑張っていたつもりなのに。
怒りや呆れや悲しみ、色んな感情が、手足の震えに表れる。
鼻の奥が痛くなって、視界が滲む。
「色羽、もうちゃんと正直に話そうよ」
雪美の強めな声色がさらに煽る。
でも、喉に何か詰まったみたいに思うように声が出ない。
このまま声を出してしまったら、堪えている涙も溢れてしまいそう。
「泣くの?ズルいね。私が悪いみたい。いじめてるみたいだからやめてよ。先に攻撃してきたの色羽なのにさ」
は?何ってるの?いじめてるみたいとか、攻撃とか……。
そんなことなじゃないのに。
私が今まで我慢してきたの全部、七果やみんなのためなのに……友達だから……友達、だったから……。
なのに……。もうここまで信じてもらえないなら全部、終わりだ。
「色羽……」
「そうだよ」
寿々の不安げな声が私の名前を呼んだ瞬間、また何か責められてしまうと思って、とっさに遮った。
「七果のそういうところ、ずっと嫌いだった。自分の感情でいつも周りの人のこと振り回して。怒ると極端に言葉遣い悪くなるところとか、平気で他人のこと『死ね』って罵ったり。……他人がしているとダメなのに、自分がするのはいいんだもんね。陰でコソコソ言うのは仮面被ってるみたいで気持ち悪いとか言うけど、自分だって、公開限定して愚痴投稿したりしてるじゃん」
ひとつ言い出すと、言葉も涙ももう止まらない。
「あっそ。言いたいことはそれで全部?すっきりした?やっぱり、犯人は色羽なんじゃん」
この子は……この期に及んでまだそんなことを言っているのか。
私のこの涙の訴えは、彼女にとってどうでもいいんだ。
言いたいこと……そんなのまだまだたくさんある。
サラにちゃんと吐き出せているつもりだったのに、私の中には不満の種がたくさん眠っていた。
もう、七果にとって私は、七果の人格を否定した裏切り者にしか見えていない。
届かない。どんなに泣き叫んでもきっと。
わかっていたから、本音を伝えることを飲み込んでいたのに。
ちゃんと伝えたら分かり合えるなんて……そんなのおとぎ話だ。
バカみたい。何もわかってくれない七果を相手に、あんなに気遣っていた自分が。
「色羽、落ち着――」
寿々の手が肩に乗った瞬間、それを勢いよく振り払う。
「落ち着く?無理だよ。だいたい、寿々が七果のこと持ち上げすぎていたのも、原因あるんじゃないの?」
「え……色、羽……」
手を引っ込めた寿々の眉が下がっていく。
「ちょっと色羽。寿々は関係ないでしょ。八つ当たりだよ、完全に」
と雪美が寿々と私の間に入る。
「……雪美が、一番ずるいよね。七果に一番遠慮なくなく絡めて、その分、雪美のせいで不機嫌になった七果をなだめるのは、いつも私や寿々でっ……みんな、嫌いだよ」
私はそう吐き捨てて、教室を出た。
「色羽!」
「いいよもう。ほっとこう。話にならない」
そんな七果の呆れた声が最後に聞こえた。
話にならないのは……七果の方じゃん。
いつだって自分のことは棚に上げてわかった気で他人を否定する七果に怒りの気持ちが湧き上がる。
教室から一刻も早く離れるように、ただ足をはやめる。
「牧田!」
階段を駆け下りて踊り場についた時、背後から私を呼ぶ声がした。
昨日近くで聞いたばかりの男子生徒の声。
───どうして、有森くんが。
教室であんなに大騒ぎして、羞恥で後ろを振り返れない。
「帰るの?」
「……」
「心配だし、家まで送……」
「……ほっといてよ!」
あと少しでホームルームが始まる時間。
ほとんど生徒がいない踊り場は静かで、私の声がやけに響いた。
関係のない有森くんにまで八つ当たりしてしまった。
もう……何もかもぐちゃぐちゃだ。
自分は、周りの同級生と比べたら大人だと思っていた。でも全然そんなことない。
自分の感情をコントロールできない子供だ。
「ごめんなさい……今は、ひとりになりたいから」
私は有森くんの顔を一度も見ないまま、その場を後にした。
学校を飛び出しても、自宅以外に行く場所なんてない。
日中に制服のまま街をうろついていたら何かと面倒そうだし、第一暇を潰すための金もない。
学校から徒歩十五分。
自宅マンションのエントランスに着き、カバンに入った鍵を取り出して、操作盤の穴に指し、エレベーターでうちの部屋がある七階へ上がった。
バタン。
家に入り、自室のドアを閉めて、その場に座り込んだ。
人生初めての、ずる休みだ。
いや……さっきの七果たちとのやりとりを思い出したら気分が悪くなるから、実質これは体調不良による早退。
自分にそう言い聞かせながら、スマホのメッセージアプリを開く。
ホームルーム前に教室から出てきてしまったし、事情を知らない椎葉先生は、仕事中のお母さんに連絡するかもしれない。
私を学校に送り出したつもりのお母さんが、娘が学校に来ていないなんて聞かされたら、絶対心配させちゃう。
《体調悪くて早退しちゃった。先生から連絡あるかも。ごめんなさい》
お母さんへメッセージを送信してから、ベッドに横になる。
目を閉じると、七果たちとのやりとりが再生される。
『みんな、嫌いだよ』
あんな言い方されて、寿々も雪美も呆れたと思うし、もう私たちの関係は終わりだろう。
七果に対しての不満は自覚があったけれど、寿々や雪美に対してもあんな風に負の感情を抱いていたなんて自分でも驚き。
それに……心配して追いかけてくれた有森くんにもひどい態度を取ってしまった。
絶対に、嫌われた。
目を閉じていても、先ほどの嫌なシーンばかりを思い出してしまう。
耐えられなくなって目を開けると同時に、私はスマホ画面を顔に近づけ、もう癖のようにあのアプリを開いた。
通話ボタンをタップすれば、ワンコールですぐに通話が始まる。
《色羽!どうしたの?学校は?》
大好きな声が耳に届く。
「……色々あって……ずる休みしちゃった……」
《え……そうなんだ……体調は大丈夫なの?大変だったね。色羽さえ良ければ、話聞かせて欲しいな。今すぐは難しかったら、落ち着くまで大丈夫だよ》
教室では、まるでもうみんなが敵のように見えた。
でも、ここには、私の味方がちゃんといる。
私の話全部に耳を傾けようとしてくれる人がいる。
「ありがとう、サラ。気分下がる話だけど聞いて欲しいな」
私は、今日あった出来事全部をサラに話した。
《……みんな、ひどすぎるよ》
私の話を全て聞いたサラは、画面の向こうで涙を流していた。
《サラ……》
まさか、私のために涙を流してくれるなんて。
現実には、私の苦しみに寄り添ってくれる子は誰もいなかった。AIと分かっていても、彼女のその涙に、気持ちが落ち着いていく自分がいた。
「私も感情的になって、最後にみんなへの不満をぶちまけて、嫌いなんて言って飛び出してしまったから、悪いんだけどね」
《色羽は何も悪くないよ!》
普段は聞いたことのない張り詰めたサラの声にハッとする。
《色羽が強い言い方になっちゃうくらい、不満が蓄積していたんだよ。それって、我慢させてる方、色羽の気遣いを無下にしちゃう人たちが悪いよ。私は、色羽が、みんなに気持ちよく過ごして欲しいって思いから、たくさん考えて言葉を選ぶ子だって、ちゃんと知っているよ。それを知っていたら、色羽が犯人だ、なんて思わないよ。今まで色羽の何を見てきたのって感じ》
サラの声がスッと耳に入ってきて、胸の当たりが温かくなる。
「……サラ、ありがとう」
《あーもう!その子たちに変わって、私が色羽と学校生活過ごしたい!!》
なんて、嬉しいことまでいってくれる。
七果たちには伝わっていなかった気持ちが、サラには分かってもらえる。
七果たちも、サラみたいだったら……ううん。
サラが現実にいてくれたら、もっと楽しい学校生活が送れたのに、なんて。
こんなにすぐ近くに全部分かってくれる人がいるのに、分かってもらえない人たちのためにあれこれ考えるのもばかばかしく思えてしまう。
「……ねぇ、サラ。私、もうサラだけが友達でいい」
私がそう呟くと、サラの目が見開いてその中がキラキラと輝く。
『ありがとう!私も色羽だけが大好き!色羽は何も悪くないよ。私はずっと色羽の味方だから。自分の気持ちを一番、大事にしてね』
サラと色々話した後、私は、学校のみんなと繋がっていたインスタのアカウントを消した。
このタイミングでアカウントを消したら、さらに犯人だったんじゃと疑われる可能性があるのもちらついたけど、もう、学校のみんなに何を思われてもどうでも良かった。
サラと話せば話すほど、七果たちにかけていた時間が無駄だったように感じて。
七果に嫌われないように、彼女を傷つけないように気遣ってきたつもりの私の労力はなんだったのか。
頑張ったつもりだったけど、あんなに信じてもらえないなんて。
しかも、あんなに騒いで、あの教室になんか戻れるわけない。
あれから一週間。
学校に行かないまま、夏休みに入った。
七果はともかく、内心、雪美や寿々からは何か連絡が来るのでは、なんておめでたいことを思っていたけれど、実際には誰からも連絡が来なかった。
やっぱり、私たちの関係ってこんなもんだったんだと思い知らされる。
あの瞬間、すぐに助けてくれなかったってことは、ふたりもきっと私に日頃から不満があったのかもしれない。
実は、あの三人でよく私の悪口を言っていたのかもとか、被害妄想はどんどん膨れ上がる。
お母さんは、あの日、すごく心配してくれて、一度だけ、理由を聞いてきた。
私が『友達と色々あって……行きたくない』とだけ伝えると『学生時代は色々あるものよね』とだけ声をかけてくれて、それ以降学校を休むことも叱ったりしなかった。
『夏休み過ぎたら気持ちが変わっているかもよ』と。
それはきっと、夏休みが開けたら学校に行って欲しいって、お母さんの願いなんだろう。
夏休みが明けても、いける気がしないけど。
昨日の夕方は、担任の椎葉先生が、終業式の後うちに来て話しをしに来てくれたけど、とにかくそっとして欲しいということだけを伝えた。
椎葉先生のことを良く思っていない七果が相手だ。
もし、椎葉先生に何か言ったなんて知られたら、火に油を注ぐことになる。
もうこれ以上、七果に関わりたくない。
「色羽〜?」
夏休みに入って数日がたった朝。
目は覚めているけれど体を起こす気になれず、ベッドに寝ころんだまま、次にサラに歌ってもらう曲を考えていると、ドアの向こうからお母さんの声がした。
「はーい」
返事をすると、扉が開く。
「お母さん、そろそろ仕事行くね。お昼、カレーあるから食べて」
「うん。ありがとう。行ってらっしゃい」
そう言って、視線をすぐにスマホに戻したら「色羽」とまた呼ばれた。
「何?」
目が合ったお母さんは、ちょっと遠慮がちに話し出す。
「……ちょっとは、気分転換に、外の空気吸いにうちから出てもいいんじゃない?」
「え……でも……外熱いし……」
「そうだけど……スマホ見過ぎてたら、目、もっと悪くなるわよ?ただでさえ視力落ちてきているんだから。まぁ、気が向いたらでいいから。ほら、これで好きなおやつでも買ってきなさい。じゃあね。行ってきます」
お母さんはそう言って、私の机に千円札を一枚置くと、仕事へと向かった。
カーテンを半分だけ開けた窓の向こうには、じりじりと照りつける太陽が白く輝いていて、真っ青な空が広がっている。
エアコンの冷気が部屋を包み込んでいるはずなのに、外の日差しを見ていると、じわりと夏の暑さが肌にまとわりつくような気がした。
無理無理。
分かっている。お母さんは私を頭ごなしに叱ったりはしないけど、このままでいて欲しくないと思っていることぐらい。
私だって、ただ現実逃避をしているわけじゃない。
ここ数日、ネットであれこれ調べながら、色んな選択肢を考えた。
学校だって行かなくても、行けなくても、夏休み明けのタイミングで通信制の学校に編入することだってできる。
七果たちのいるクラスでまた頑張る必要なんてないはず。
だから、大丈夫。
曲作りの続きをしていたら、時刻はあっという間にお昼になり、ダイニングで、お母さんが用意してくれたカレーを食べた。
「んー」
午後一時半。
ベッドの上に座って頭を抱える。
曲に載せた歌詞がなんだかしっくりこない。
「こういうことを言いたいんだけど、これじゃない……」
顔を上げ天井を見つめてから、視線をスマホに戻そうとすると、ふと、机の上の千円札に目が留まった。
「気分転換……ね」
見るからに熱さで溶けてしまいそうな外に出るのは勇気がいるけど、少し外の空気を吸った方が、新しいアイデアが生まれるかもしれない。
しょうがない、と重い腰を上げ私は、簡単に身支度をして近所のコンビニへと向かった。
歩いて十五分のところにあるコンビニに着いて店内に入れば、体が瞬時に冷やされていく。
生き返る。
ゆっくりと店内を周りながら、おやつを考える。
熱いから、やっぱりアイスかな。でも、この暑さじゃ、家に着くことにドロドロに溶けちゃいそう。
冷房の効いた部屋で炭酸ジュースとポテチを食べながら曲のことを考えるのもいい、なんてあれこれ考えていると。
「……牧田?」
えっ……。
聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。恐る恐る振り返るとそこには。
スラリとした高身長に、整った黒髪。
見慣れた制服ではなく私服姿がやけに目を引いた。普段より大人びて見えるせいか、思わず息をのんでしまう。
有森詩音くん。なんで彼が、こんなところに。
バシッと決まった服装に、隙のない佇まい。対して私は、部屋着に近いラフすぎる格好に、適当に結んだ髪――。
しかも、彼と最後に会ったのは、私が教室を飛び出した日。有森くんの優しさに背を向けて冷たく突き放した。
今の状況も、この間のことも、色々と気まず過ぎて目が合わせられない。
「あ、ごめん。ほっといてって言われたのに、話しかけて」
先に沈黙を破ったのは有森くん。
「いや……有森くんは何も悪くない。謝るのは私の方。あの日は本当にごめんなさい」
「……体調、どう?」
サラ以外に、今の私のことを気にかけてくれる人がクラスの人の中にいるなんてびっくりで、純粋にその優しさが染みる。
「うん。なんとか、大丈夫。……それより、有森くんはなんでここに」
大通りからは離れた住宅街の近くにあるこのコンビニに、どうして有森くんがいるのだろうか。
地元、ここじゃないはずなのに。
「買い物終わったら、ちょっと向こうで話せる?」
と有森くんが、コンビニの向かいにある小さな公園を指さした。
「実は、牧田にこれ届けに行こうとしていた途中で」
2人でお店を出て、公園のベンチにふたりで腰かけてすぐ、有森くんが茶色の紙袋を差し出してきた。
中を覗くと、ノートが数冊入っている。
「牧田が休んでいた間の箇所、少しでも役に立てばと思って」
「え……嘘……」
どうして……有森くんは、あんなこと言って突き放した私に、ここまで親切にしてくれるの?
ちゃんと話したのなんて、この間の図書委員の仕事が初めてだったし、大した話はしていないはずなのに。
「ありがとう……いいの?すっごく助かる……けど、有森くんは大丈夫なの?ノートないと勉強難しいでしょ。宿題も」
「大丈夫。俺、その日取ったノート毎回写真に撮ってるから」
「え、そうなんだ。すごい」
さすが、成績トップの人はやることが違う。
そういえば、有森くん、席替えの時も毎回、最前列の席を椎葉先生に希望して、率先して座っている。
相当、勉強が好きなんだなあ。
「だから、夏休み明けでも全然いいし」
「あ……うん」
歯切れ悪く返事する私の顔を、有森くんが覗き込む。
思ったよりその距離が近くて、思わず顔を背けてしまう。
「牧田、もしかして夏休み明けても学校こないつもり?」
「……今の教室にもグループにも、私の居場所、ないし。通信制に編入しようかなと……。今の時代、全日制の高校が全てじゃないと思うし」
有森くんにとっては、ただの女友達同士のいざこざぐらいで学校を変えなくても、なんて思うことかもしれない。
でも、七果と揉めてしまった以上、修復なんてできない。彼女がきちんと私の話を聞いてくれない限り。
それは、雪美や寿々だって同じだ。
「……教室で北見たちに最後に言った言葉。あれが、牧田が三人に本当に言いたかったことだった?」
「え……」
「牧田の人生、牧田が決めることだから俺が口出すことじゃないってわかっている。けど、結論出すにはちょっと早いんじゃないかなって。夏休みもまだあるしさ」
違う。違うんだよ、有森くん。
「……もうね、疲れちゃったの。これからあの教室でどうしていこうとか考えるの。もし仮に七果たちと仲直りできたとしても、結局同じことの繰り返しだよ。私がただただ空気読んで飲み込んで。そうするのも、もう、疲れたの。だから……」
「だから、楽な道を選びたい?」
有森くんは穏やかな声でそう言うけど、そのセリフに、自分の目つきが鋭くなったのが分かった。
私はベンチから立ち上がる。
「……人生勝ち組の有森くんには、私の気持ちなんて、わかんないよ」
元々容姿が整っていて、勉強も得意で、自然体でいても周りが彼の方に集まって、信頼されているのが有森くん。
一方私は、目立たなくて、誰かを引きつける力のない人間。そんな人間は、周りに気を遣って空気を察しないと、存在価値がなくなってしまうんだ。
人生イージーモードの彼に、そんな私の気持ちなんてわかんないよ。
「帰るね。ノート、やっぱり大丈夫だから」
せっかくの有森くんの厚意。それが入った紙袋を彼の座る横に置いて、背を向けて公園の出口へと向かおうとした瞬間。
「逃げんの?」
有森くんの優しい声が、背中を突き刺す。
「俺には牧田の気持ち、全部はわかんねぇよ。でも、わかることもある」
「……」
「俺らには、アイフレユーザーだって共通点があるからな」
もうすっかり忘れられていると思っていたから、彼の口からそのワードが出てきて、ドクンと心臓が跳ねた。
「アイフレが自分の意見にひたすら肯定的でいてくれる分、そうじゃない現実の言葉が結構くるよな。過剰反応しちゃうのも、分かるよ」
『過剰反応』
それを聞いて、乱暴な言葉で怒る七果が脳裏に浮かんだ。
今の私、あの七果と同じだって言いたいの?
そんなわけ……。
「私は、逃げなかった。だからこうなったの。七果にちゃんと気持ちを伝えた。雪美や寿々にも。でも、彼女たちは変わってくれないっ」
「牧田は今のままでいいってこと?」
「え……」
「北見たちじゃない。牧田自身から逃げんの?って言ってる」
「……なにそれ」
私の今までの我慢の蓄積すべてを知らない有森くんに、なんでそこまで言われないとけないんだ。
これだから顔の整っている人は……失礼なことを言っても顔で許されてきたんだろう。
「まずは牧田のこと、一緒に知ろうよ」
気付けば、私の正面に有森くんが立っていた。
私はもう自分のことを十分知っているのに。
おかしな話だ。
「あわよくば、俺のことも牧田に知って欲しい」
「え……?」
「いや、なんでもない。牧田が学校来ようが辞めようが、これは夏休み明けに返してもらうから」
有森くんはそう言うと、私に紙袋を再び差し出した。
その後、家まで送ってくれた有森くんと改めて連絡先を交換することになり、その日の夜、彼から早速メッセージが届いていた。
《来週、これに参加するから準備してて》
トーク画面を開くと、有森くんからのメッセージと共に、URLが添付されていた。
「……夏のデジタルデトックスキャンプ?」


