人の峠の裏には

朝。谷川春菜は、宿の窓から村の風景を見下ろしていた。

木々に囲まれた人坂村は、どこを見ても静かで、美しい場所だった。
だがその風景が、かえって不気味に思える。
まるで、村全体が“何か”を覆い隠しているようだった。

朝食をとる間、女将の静江は終始にこやかに話しかけてきた。

「今日は、集会があるんですよ。外からのお客様にもぜひ見ていただきたいわ」

「集会……ですか?」

「ええ。村の“和”を守るための大事な時間なんです」

静江はにこやかに笑った。
だが、その目だけは、また笑っていなかった。



午前十時。村の広場に、小さな集会所が建っていた。

そこに集まっていたのは十数名の村人たち。
老若男女すべてが笑顔を浮かべていた。

(全員……本心が見えない)

誰もが「普通のいい人」だった。
しかし、その“完璧さ”こそが、春菜の違和感の正体だった。

司会を務めていたのは、村の“まとめ役”と呼ばれる老人――棚橋謙作。

「本日も、問題なく過ごせたことを感謝し、報告をお願いします」

「……はい、山本家、異常ありませんでした」

「鈴木家、変わりありません」

「大沼家、滞在中の方にも、良く接しております」

(“異常なし”って……何を監視してるの?)

報告はまるで、監視体制の記録のようだった。

そのとき、棚橋が春菜に目を向けた。

「谷川さんでしたか。昨日お越しになった。……記者の方が残した資料、お探しですね?」

「……はい。もし何かご存じであれば」

「そうですね。人の心というのは、外から来た人には、なかなか見えないものでして」

「でも、見ようとはしていますよ。私たち“中の人間”を」

春菜はドキリとした。

言葉の端々に、明確な警戒と圧力があった。

「……その探究心が、時に“不調和”を生みます。お気をつけて」

集会が終わったあと、村人たちはまた、にこやかな顔でそれぞれの家へ戻っていった。
まるで、何事もなかったように。

けれど、春菜は確信していた。

(この村の“秩序”は、本音を押し殺すことでしか成り立ってない)

そうして、集会所の裏手を回ったときだった。

壁に何かが彫りつけられていた。

それは、指でなぞるようにして刻まれた言葉だった。

「本音を言ったら、いなくなった」

「本当の笑顔を、ここではしてはいけない」

春菜は、言葉の意味をゆっくりかみしめた。

(“本音”が、この村では最大の罪……?)

そのとき、背後から声がした。

「……あなたも、“本音”を探しているんですね」

振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。
どこか冷めた瞳で、春菜を見つめている。

「だったら、消される前に、僕が教えますよ。“人の性格の裏”ってやつを」

青年の名は――水原透(みずはら とおる)

そして彼こそが、この村で唯一“笑わない男”だった。