人の峠の裏には

東京から車で5時間。
山間にぽつんと存在する「人坂村(ひとざかむら)」には、妙な噂がある。

「あの村には“いい人”しかいない。でも、誰ひとり、心を見せない」

編集者・谷川春菜は、失踪した元新聞記者・佐久間圭吾の行方を追って、この村に足を踏み入れた。
彼が残した最後の言葉は、ただ一つ――

「“人の峠の裏には”、人の本当の顔がある」

村に入ってすぐ、春菜は違和感を覚えた。

どの住民も笑顔で、礼儀正しい。
道を歩けば「こんにちは」と誰もが挨拶し、宿に案内されたときも、対応は丁寧そのものだった。

けれど――視線だけは、笑っていなかった。

たとえば、宿の女将・大沼静江。

「うちは昔から、余所者にやさしい村でしてね。記者さんもいらしてましたわ。佐久間さん、でしたっけ」

春菜の心が少し跳ねた。

「彼、今どこに?」

「さぁ……ある日、ふっと姿が見えなくなって。警察には言いましたけど、“迷子かしら”って」

そう言ってお茶を差し出す静江の手が、震えていた。

(嘘をついている……でも、罪悪感はない)

村には、何かがある。

けれど、それは伝説でも呪いでもない。
もっと現実的で、もっと恐ろしいもの――

「みんなが“いい人”を演じていること」

誰も怒らない。
誰も否定しない。
でも、本心を誰も話さない。

まるで全員が、ひとつの仮面をつけている。

(人の“性格”の裏には、何があるの……?)

夜。宿の自室で眠れずにいた春菜は、ふと机の引き出しに手を伸ばす。
そこには、誰かの手書きメモが残されていた。

【ここは“本音を出すと殺される村”です。だからみんな、笑っているだけです。
でも、佐久間さんはそれを壊そうとした。だから“消された”。あなたも――】

その先は、破られていた。

春菜の背に冷たいものが走る。

(これは……人の性格の裏にある“恐怖”そのものだ)

この村で誰が「優しい人」なのかは、まったく関係ない。
誰が最初に“仮面”を外すか。それだけが、すべてだった。