彼の名は高木伊織。
高校2年の夏、勇気を振り絞って大好きな女の子への想いを伝えるもあっさり玉砕してしまう。
失恋を受け入れたくない。できるならやり直したい。
長年の初恋片思いをすっかり拗らせた後悔に塗れる彼に奇跡が訪れる。偶然タイムリープで告白前に戻る手段を手に入れたのだ。
今度こそ。何度でも。
失敗しても必ずまた立ち上がる。
君にたどり着くまで決して諦めない。
きっとそう決意に燃えていた。
この話の主人公はそんな彼―――ではなく、伊織のタイムリープに巻き込まれてしまった哀れな女こと私、雨宮木葉である。
一体何が起きているのか、理解できなかった。
ほんの一瞬まるで眠るように意識を失ったような感覚はあった。
次に目を開けると、周りはしんと静まり返っている。見慣れた2年D組の教室、今はどうやら授業中らしい。
机の上には小テスト、目の前の黒板には7月3日、日直小林・佐藤の文字。黒板の中心でチョークでぐるぐる雑に囲まれた英語の期末試験範囲。何もかも既視感があった。
おかしい、と私は思わず瞬きを繰り返す。寝起きみたいに頭の中に霞がかかってどうしてここにいるのかうまく思い出せない。
目を閉じるとカンカン五月蝿い警音と点滅を繰り返す赤いランプが脳裏に鮮明に蘇る。
―――そうだ。確かにさっきまで夜の“地獄踏切”の傍にいたはずなのに。
壁にかかった時計を思わず二度見してしまう。初めは自分の目を疑って、もう一度見て今度は混乱する。夢でも見ているのだろうか。
7月3日の午前9時前。これは私にとっては“過去のはず”の日時だった。
カンニングを疑われるのではと懸念して、格好だけ机に伏せたままこっそり目線を上げる。
窓際、前から2番目の席には見慣れた幼馴染の後ろ姿を見つける。伊織の襟足は今朝見た時と同じように寝癖で少し跳ねていた。
私の記憶では1時間目のこの授業の後、彼は私の元へやってくる。
一晩中考え事してたせいでテスト全然できなかったと泣き言から始まって、それから唐突に“決意”を打ち明けてくるのだ。
「―――」
胸の奥が少しだけざわっとして、私は無意識に小さく唇を噛む。
無心になりたくて目の前の小テストに向き合うのに、期待に反してあっという間に解答欄は全て埋まってしまった。当然だ。既に1度受けていてなんなら答えも全部知っている。私は投げやりに手の中のシャーペンを机に転がすとため息をついた。
やがてテスト終了時刻を伝えるタイマー音がけたたましく響いて、答え合わせの後、チャイムに合わせて解答用紙を回収した教師がさっさと教室を出て行く。
それを待っていたかのようにガタッと勢いよく立ち上がった伊織が、窓際の席から机の間を縫って私の元へ駆けてくる。
「木葉、おはよ。今のテストできた? 俺めちゃめちゃやばかったんだけど」
「……なんで?」
「ちょっと考え事してたせいで全然勉強できなくて」
机の上の教科書とノートを閉じながら、私はゆっくり顔を上げる。
目があって、私の顔を覗き込むようにした伊織が、へへっと照れ臭そうに笑った。
「決めたんだ。俺、今日咲良咲良ちゃんに告白する」
きっぱりした伊織の声が2度目とは思えない威力でぐさりと胸に刺さる。
それと同時にこれが現実だと実感させられる。あまりの痛みで夢ならとっくに醒めているに違いない。
世界が一瞬で色を失う。
思わず顔を歪めそうになるのを堪えた私は、そっか、と1度目と同じようにどうにか笑った。
泣き出しそうな自分に気付く。
だけど伊織に気付かれるわけにはいかなかった。
だめだ、泣くな。
何度も言い聞かせて、同時に無意識にぐっと上を向く。
目の前の恋する伊織。痛む胸を必死に隠す惨めな自分。なにもかもが全部繰り返しだった。
―――タイムリープ。
さっきから頭の隅をちらついていたその言葉が少しずつ確信に変わっていく。
それは最近まで夢中になって見ていたアニメの設定で、過去に後悔がある主人公が望む未来を目指して何度もやり直しを行うというものだった。
ということは、この場合やり直しを願った伊織が過去に戻ってきたということになる。
そんなファンタジーありえない。さっきまで胸の中でど正論を主張していたはずのリアリストの私は気付けばどこかへ行ってしまい、代わり現れたロマンチストな私がだけどおかしいと首を傾げる。
アニメの設定ではタイムリープを望んだ本人以外は周りの人間は繰り返す時間の流れには気付かない。
諦めないと決めた主人公だけがこの現象への自覚と未来の記憶を保持しているものだと相場が決まっているはずだ。
だけど目の前の伊織は1度目と一言一句違わず同じ言葉を繰り返した。
台本やなにかしらの誓約が用意されている可能性をギリギリ疑う。だけど嘘が下手な伊織に器用に私を騙す演技ができるはずがない。
つまり伊織にはこの先起こるであろう今日の出来事への記憶がないと考える方が自然だった。
だとしたらなぜ私にだけ?
あんまりだ。いっそ全部一緒に消して欲しかった人生で最悪の記憶と痛みを、忘れられないどころかまさか繰り返させられるなんて。
行き場のないやるせなさを抱えて私は無意識に窓の外の空を見上げる。
恨みがましく睨んだ空は、梅雨明け前なはずなのに皮肉なくらい綺麗によく晴れていた。
伊織は中学生の頃から咲良ちゃんのことが好きだった。
幼稚園時代からの幼馴染である私の家にその日の夜すぐに飛んできて、一目惚れしたと恥ずかしそうに報告してきた。
あの時の胸の痛みは多分一生忘れられない。
本当は泣き出してしまいそうだった。
だけど私はぐっと上を向いて、応援するよ、と笑った。
伊織と私はいつも当たり前にすぐ近くにいて、昔からなんでも言い合うことができる仲だった。
だけどその日を境に私には初めて伊織へ隠し事ができた。
決して伝えることはできない。だけど。
―――私は本当はずっと伊織のことが好きだった。
咲良ちゃんへの気持ちを自覚したくせに、意気地なしの伊織はなかなか想いを伝えられなかった。
だけど一言でも会話が出来た日はご機嫌でそのことを私に報告してきて、その度ずっとこっそり傷ついてきた。
昔からもちろん可愛かったけど、高校生になってお化粧を覚えた咲良ちゃんは学年1の美女候補として度々噂されるようになった。隣のクラスの私や伊織の耳にもはっきりそれが届いていた。
他の男に取られて後悔する前に自分の気持ちを伝えたい。だけど一体どんなタイミングで?といつもうじうじ弱音を聞かされ続けてきた。
そんな伊織にチャンスは唐突にやってきた。
きっかけは昨晩投稿された咲良ちゃんのストーリーだった。
中学からの顔見知りという特権をどうにか利用して咲良ちゃんと伊織はSNSで繋がっている。(不安だから傍にいてくれとフォローする瞬間は謎に伊織に立ち会わされた)
具体的な投稿内容な知らないけど、そこに踊る『彼氏がいなくて寂しい』という文字を見て今だと決めたと1度目同様、2度目の伊織は頬を染めて照れたように笑った。
決意したならさっさと男らしく咲良ちゃんの元へ走ればいいのに、この日の伊織は休み時間の度に私の元へやってきては情けなく助けを求めてきた。
ようやく放課後会う約束を取り付けるDMを送れたのは急遽偶然自習になった4時間目の数学の授業中だった。昼休みに入ってから来た他の約束があるからその後ならという返信にまるでカップル成立の瞬間かと錯覚するくらい伊織は飛び上がって喜んだ。
何度も告白のシュミレーションをして待ち合わせの校舎裏へ向かった伊織を見送って、帰宅途中にすぐに伊織から『ダメだった』と短いメッセージが来る。
いてもたってもいられずすぐに引き返して私は伊織の元へ走った。
校舎裏で項垂れたままの伊織を見つけると、私はその腕を引いて学校の外へと連れ出す。
とにかく何か気が紛れることを。その一心で一駅先まで歩いて伊織が好きなゲームセンターとスポーツが複合したレジャー施設でくたくたになるまで遊んだ。
咲良ちゃんのことは聞けなかった。
だけど伊織が時々楽しそうに笑うから、それだけでなんだか嬉しかった。
たっぷり遊んだ帰り道、時刻は21時を過ぎていた。
お互いの親には一緒にいると連絡してある。少しくらい遅くなっても平気だと踏んで、定期を使って帰るべく再び高校最寄り駅までの線路沿いの道をコンビニアイスを食べながら並んでゆっくり歩いた。
「ついでに学校戻って肝試しでもする?」
「絶対しない。そもそもおばけなんていないから」
幼い頃から何度も繰り返されたいじりと共に、隣で伊織のにやにやする。強がる私を馬鹿にするように笑ってから、すっかり暗くなった空を見上げて伊織は大きく伸びをした。
「今日楽しかった。身体動かす気分じゃ無いと思ってたけど来て正解だった」
「そっかよかった。少しは気分転換になった?」
「だな、ありがと。木葉みたいな優しいやつが傍にいてくれて俺は本当に幸せだ」
深い意味はないってわかってるけど、伊織の言葉に軽率に嬉しくなる。
伊織にとって私はただの幼馴染だ。だけど、もし。このまま私が傍にいられるとしたら―――いつか、今度は伊織が私のことを好きになってくれるかもしれない。
だとしたら諦めたくない。今度は私が頑張ってみたい。この後続くはずの未来に、そう密かに誓った。
「咲良ちゃんさ、ついさっき彼氏ができたんだって」
初めて伊織が咲良ちゃんの名を口にしたのは目的地である駅の目前だった。
聞こえてはいたけどどう反応していいかわからず、私は無言のまま自分の足元を見てしまう。
聞けば伊織と会う直前に咲良ちゃんは仲の良いクラスメイトに告白をされていた。彼氏の座を射止めたその同級生も、どうやら咲良ちゃんの昨晩の投稿を見ていたらしい。
「バカだよな。せめてもう少し早く気持ちを伝えてればもしかしたら俺が付き合えてたかもしれないのに」
こぼれ落ちたその後悔が、鳴り出した無機質な踏切のサイレンにかき消される。
黄色と黒の遮断桿が傾いて、私たちはその手前で足を止めた。
「悔しい。やり直したい」
そう呟いた伊織の声が微かに震えていた。
それに気付いてゆっくり顔を上げる。そして、思わず小さく息を呑む。
横顔のままの伊織が、肩を震わせて泣いていた。
「っ、」
固まる私を冷やかすように、上り電車が1本、轟音と共に目の前を横切る。
通り過ぎた後も踏切は開かない。暗闇にぽつりと浮かぶ赤い矢印がまだ下り電車の通過を予告していた。
“地獄踏切”と揶揄されるこの踏切は一度はまるとなかなか通れないことで有名で、その悪名はここでの立ち往生が多くの生徒の遅刻の理由になったことに起因する。
待っている間にもう一度反対向きの矢印が点灯する。
傍にある駅のホームの電光掲示板に目をやる。次の下りの発車予定時刻22時ちょうど。上りは通過待ち。2本の電車が恐らくこの踏切を同時に通り抜ける。
そして2度目の私はゆっくり悟る。電車がすれ違ったはずの瞬間から先の記憶が千切れている。
ということはきっとそれが、その瞬間が―――もう一度今日をやり直すためのタイミングだと。
気付けば駅のホームに停っていた下り電車がゆっくり滑り出す。踏切へ迫り来るその車両に、鼓動がだんだん加速する。
必要条件はわからないし、同じようにできる保証もない。上手くいくかは分からない。
だけど。
そう覚悟した時、少しだけ躊躇うように胸が震えた。気付かぬふりで何かを沈めるようにぐっと上を向く。
これ以上、泣いてる伊織を見たくない。
理由なんてそれで十分だった。
「じゃあやり直そう」
「え?」
私を見下ろす伊織の瞳を、点滅する赤くて丸いランプの残像が揺れる。
カンカン繰り返す警音の中で、私は伊織の腕を掴んで小さく笑った。
「咲良ちゃんと結ばれるまで私は伊織の応援するよ」
その直後。
目の前の電車達が風を切る音が耳を刺した瞬間を最後に、ぷつりと意識が切れた。
次に目を開けると、私は再び授業中の2年D組にいた。
窓から吹き込む少しだけ湿気った風も、夏服姿のクラスメイト達も、全部記憶通りの光景だった。
瞼の裏にはついさっきまでの光景が目に焼き付いている。
踏切の音、通り過ぎる電車―――それから伊織の頬を伝った涙。
順番に思い出して、胸がぎゅっと苦しくなる。
子供の頃から一緒にいるけど、あんな風に誰かを想って泣く伊織を見るのは初めてだった。
それだけ咲良ちゃんへの気持ちが本気だっていう証拠だと思う。
わかってる。伊織がずっと好きだったのは咲良ちゃんだ。
伊織にとって咲良ちゃんと結ばれる、それ以外の未来は全部いらない。
……そんなこと、とっくにわかってるよ。
私は何かを振り切るように首を左右に小さく振ると、残り時間1分でささっと目の前の小テストの解答用紙を全て埋めた。
「伊織、咲良ちゃんに今この場ですぐに連絡して」
3回目のこの日も悪意なく告白宣言をしてきた伊織に私は迷わず提案する。
私からの謎の催促を受けて一度ぽかんとしてから、まるで馬鹿げてるとでも言いたげに伊織は弱く肩をすくめて笑う。
「いやいや、そんなの無理。文章だってちゃんと考えなきゃだしせめて次の休み時間に」
「何悠長なこと言ってるの。あの咲良ちゃんだよ? 他の男に先越されたらどうするの」
逃げ腰の伊織の首根っこを掴む勢いで私はきっぱりそう言い返す。
「……そっか、それもそうだよな」
詰め寄る私にたじろいでいた伊織は、引かない私に渋々その場でスマホを取り出した。
何の抵抗なのかのろのろSNSアプリを立ち上げる伊織を監視しながら、私は席から立ち上がると身を乗り出す。
スマホの画面を覗き込むと、伊織が放課後に時間をもらえないかというような内容の文章を何度も打ったり消したりしているのが見えた。
放課後では遅い。それでは間に合わないと私はもう知っている。
「昼休み」
「え?」
「会う約束するのは放課後じゃなくて昼休みにして」
「やだよ非常識だろ。昼休みバタバタさせたくないし、俺も放課後の方がゆっくり心の準備できるし」
「いいからいう通りにして」
そうもだもだする伊織の代わりにスマホを奪って私がメッセージを送りたいくらいだった。焦ったくなってちらりと壁掛け時計を見上げる。急がないと休み時間が終わってしまう。
どうにか伊織を説得しないと。
心に決めて、私は伊織の顔を覗き込む。
「……私は伊織に後悔して欲しくないんだよ」
必死になってそう訴える私に、伊織は少しだけ困ったような顔をする。
だけど私の真剣さが伝わったのか、わかったよ、と小さく呟くと伊織は作りかけのメッセージの“放課後”を“昼休み”に打ち替えた。
昼休みに来てもらうには校舎裏は遠すぎる。
そんな謎の配慮の元、伊織は集合場所を2年の教室が並ぶ校舎4階端の空き教室を指定していた。
休み時間が終わるギリギリにどうにかメッセージを飛ばしたので、OKの返事が来たのは次の休み時間だった。伊織調べによると咲良ちゃんのランチはいつも自宅から持ってきたお弁当であり、C組の教室内で仲良しグループ女子数名と過ごしているらしい。
伊織は具体的な時間を決めず、お昼を食べ終えてからの流れ集合を提案した。
だけど万が一にも待たせてるわけにはいかないと、伊織は昼休みが始まるや否や購買へ駆け込むと買ってきたパンを待ち合わせ場所の空き教室で食べることにしていた。
「待ってる間不安だから一緒に飯食ってよ」
そう縋ってくる伊織に私は必死に抵抗する。
さすがに耐えれられない。何が悲しくて好きな人の告白現場に立ち会わなくてはならないのだ。
「やだよ。1人で行きなよ」
「そんな冷たいこと言うなよーー、そこをなんとか」
そんな私の私情を知らない伊織の猛追に屈して、ご飯だけ食べたら私だけ先に教室へ戻るという約束で渋々一緒に空き教室を目指すことになった。
女子力高めな咲良ちゃんはきっとゆっくりお弁当を食べて遅れてやってくる。急いでパンを食べようとする私を偏見込みでそんな風に伊織は引き止めた。
不安だからできるだけ1人になりたくない。そんな甘えた気持ちが透けて見えた。
その証拠に早々にパンを食べ終えた伊織は緊張からか露骨にその口数が少なくなる。
「……緊張する。上手く言えるかな」
そわそわ時計を見ながら、伊織は同じようなことを何度も1人で呟いていた。
その度に胸の奥に込み上げる暗い気持ちを、私は黙ったままカフェオレと一緒に何度も飲み込んだ。
あと少し。
教室に現れた咲良ちゃんに、伊織が長年の想いを打ち明ける。
ライバルを出し抜いて先制を決めることに成功した伊織の告白はきっと上手くいく。
この空き教室を出る頃には、きっと伊織と咲良ちゃんは彼氏と彼女になるのだ。
とっくに受け止めたつもりだった。
だけどいざ目の当たりにすると、その瞬間の痛みを想像して心が怯む。
これ以上は無理だ。気が狂いそうだった。
「食べ終わったから私行くね」
「ん、付き合ってくれてありがとな」
出た2人分のゴミをビニール袋にまとめると、私は座っていた椅子からさっさと立ち上がる。
緊張の面持ちのままそれを見送る伊織に、私はふうと思わず息を吐いた。
「伊織、顔固すぎ。咲良ちゃんびっくりするよ」
そっか、と素直に頷いて、伊織は自分の頬をほぐすよう両手でぶにぶにつねる。
エビデンス不明のマッサージを始めた伊織をしばらく見下ろしてから、私はふと小さく笑った。
「……大丈夫だよ、今度はきっと上手く行くから」
「え?」
どうやら聞こえなかったらしい。
私の突然の呟きに顔を上げる伊織を、なんでもない、といなして小さく肩をすくめる。
「頑張ってね」
そう言い残して空き教室から出た私は、直後その場で立ち止まる。
ちょうど同じタイミング。
教室を訪れた咲良ちゃんと鉢合わせて、私は頭が真っ白になる。
「あれ、木葉ちゃん。こんなところで何してるの?」
立ち尽くす私を見て不思議そうに首を傾げる咲良ちゃんに、何か言わなくてはと気持ちばかりが焦る。
別にもちろんやましいことなんて何もない。だけどなんとなく、ここで伊織と2人きりだったことは咲良ちゃんに知られなくなかった。
どうにか誤魔化したいのに言葉が何も出てこない。
「俺が誘ったんだ。一緒に飯食ってた」
「あそうなんだ、仲良いんだね」
そんな私の気も知らないで、背後から伊織の声が私を追い抜いて咲良ちゃんに届く。
多分それを言葉通りに受け取った咲良ちゃんがふふっと小さく笑う。
昼食に付き合わされただけの幼馴染。
気を遣い尽くして呼び出された好きな子。
伊織の中での立ち位置の差が露骨に浮き出て、なんだか消えてしまいたくなる。
「ごめん。私、行くね」
そうどうにか言い残して、そのまま私は空き教室を後にする。
咲良ちゃんは、またね、と手を振ってくれた。伊織の顔は見られなかったけど、多分伊織も私の方を見ていなかった。
きっと結果を知らせるメッセージが伊織から届いているはずだった。
だけど臆病な私は鞄にしまい込んだままのスマホを昼休みが終わるまで見ることができなかった。
伊織は昼休み終了のチャイムが鳴ってから、ギリギリ滑り込むように教室へ戻ってきた。
教室を横切って自分の席へ小走りで向かう。その姿を無意識に目で追ってしまうけど、伊織は私の視線には気付かなかった。
午後の古典の授業が始まってからも、私は窓際の伊織の後ろ姿を何度も何度も見てしまう。
背中からはその感情はわからない。だけど長年の片思いの成就に胸を躍らせていることが容易に想像できた。
聞いてくれよ木葉。
ついに俺、咲良ちゃんと。
そうご機嫌で報告してくる伊織の姿を想像しては、その度胸が暗く重たくなる。
伊織がずっと咲良ちゃんを好きだった事を私は多分誰よりも知っている。一緒に喜んであげたいと思ってるのは嘘じゃない。
だけど、本当でもない。
「―――」
自分の性格の悪さが嫌になる。
伊織の事を応援すると決めたはずなのに、聞き分けない気持ちがいつまでも燻ったまま晴れなかった。
5時間目が終わっても、何なら放課後になっても、結局伊織は私のところへ報告にはこなかった。
授業が終わるなり鞄を持ってさっさと出ていってしまう姿が見える。
咲良ちゃんと早速放課後デートの可能性もある。
だけど、なんとなく様子がおかしい。
私は伊織が出て行った後に、ようやく自分の鞄の底に沈めたはずのスマホを取り出すと急いで画面をつけた。
ホーム画面にぽこんと通知が現れる。
受信済みのメッセージ。その内容が目に飛び込んで来て、直後私はガタッと音を立てて立ち上がるとかき集めた荷物を鞄にまとめて急いで伊織を追いかけた。
『ダメだった』
スマホの画面に浮かぶ短い文は、やり直す前のそれと同じだった。
どうして?
こうなる過去を変えたくて、やり直してきたはずだったのに。
『今どこ?』とメッセージを送ろうとして私は途中でスマホを鞄に押し込む。
その時間すら惜しかった。きっとまだ追いつける。そう根拠もなく信じて駅へ向かう道をがむしゃらに走った。
夏の夕方、まだまだ陽が高い。
少し湿気った空気が喉に張り付いて息が苦しくなる。
走りながら私はすぐに通知をみなかったことを何度も後悔した。私が自分のことを守ることに必死になっている間、伊織の心はきっと1人で泣いてた。
どうしてもっと早く読んであげなかったのだろう。
ダメだった、その文字の後ろで伊織は一体どんな顔しているんだろう。
息が切れる。だけど行かなくちゃ。
懸命に走って、追いかけて、ようやく見つけた伊織の後ろ姿に向かって必死に手を伸ばす。
背後からシャツを右手で掴むと、驚いたように振り返った伊織がすっかり息の上がった私を見下ろして状況を理解したように苦笑した。
「なんだよ、やっとメッセージ読んだの?」
「……ごめん」
「別にいいよ。むしろそんな必死に走らせてごめん」
荒い呼吸を繰り返しながらシャツの左半袖で額の汗を乱暴に拭う私の姿に伊織が困ったように笑う。
私はぶんぶん首を左右に勢いよく振ると、下校中の生徒の目を避けるように掴んだままの伊織のシャツを引いて路地へ連れ込んだ。
「何があったの?」
「え?」
「伊織がふられるわけないじゃん。だって、」
過去の失敗を繰り返さぬよう、告白のタイミングを前倒しした。
失敗する理由なんてないはずだった。
だけどそれを上手く説明できず黙り込む私に、伊織が不思議そうに首を傾げる。
「だって?」
「……なんでもない。でもどうして?告白できなかったの?」
「したよちゃんと。だけど」
2人きりの暗い路地。弱く笑う伊織の瞳が悲しげに揺れた。
「伊織くんが私のこと好きなわけない、冗談でしょって笑われちゃった」
伊織の口から出たその言葉に、ドクンと鼓動が冷たく跳ねる。
なにそれ、と口からこぼれ落ちた不満が小さく震えるのに自分でも気付く。
「違うじゃん。どうしてちゃんと説明しなかったの」
「はは、なんでだろ。なんか頭真っ白になっちゃって」
眉を弱く下げる伊織は、目を伏せたまま弱く笑う。
やるせなくなって私はスマホの時計を見る。今日をやり直す前の咲良ちゃんは放課後に告白してきたクラスメイトと付き合ってしまった。
ダメだ。もう間に合わない。思わず唇を噛み締めた私に、伊織は遠い目のままぽつりと呟く。
「ずっと好きだったんだ。やっと気持ち伝えたのに信じてもらえなかったのは想定外で」
降ってきたその声に、私は握りしめたスマホからゆっくり顔を上げる。
晴れた空を背負った伊織の表情が、夏の陽に影って、なんだか消えてしまいそうに見えた。
「せっかくチャンスだったのに情けねぇ」
そう続けた寂しそうな伊織の瞳に、胸がぎゅっと痛くなる。
言葉を失って思わず黙り込んでしまう私に、帰ろう、と伊織が駅に向かって歩き出す。
どんな言葉をかけたらいいのかわからず、私はただいつもより小さく見えるその背中を無言で追いかけることしかできなかった。
家に辿り着いた私達は、そのまま寄り道をせず解散する。
部屋のベッドに制服のまま飛び込んだ私は、見慣れた天井を見上げながらさっきまでの出来事を何度も何度も振り返る。伊織の悲しそうな笑顔が頭の中から離れない。
落ち込む伊織の傍にいたい。
大丈夫だよと元気付けたい。
そしてなにより、考えようによってはこれは私にとってはチャンスだ。
このまま傍にいて傷心の伊織につけこめば、私たちの未来は変わるかもしれない。
もしかしたら、伊織が、私のことを好きになってくれるかもしれない。
そんな打算が頭の中をちらつく。
だけど本当にこんな終わりでいいの?きちんと正しく気持ちが伝わってないのに?
伊織は、そして私は、それで本当に後悔しないの?
答えのない問いをぐるぐるくる返してはああもうどうしようと頭を抱えることしかできない。
ただの幼馴染・雨宮木葉は、自分でも情けないくらい本当に無力だった。
ご飯を食べ終えて試験勉強でもしようと机に向かってみるけど全然集中できない。
伊織は今頃なにをしてるんだろう。SNSを開けば咲良ちゃんが『彼氏ができた』と報告しているかもしれない。
それを目にする伊織の気持ちを想像するだけでいてもたってもいられなくなる。
ちらりと目をやると机の上のデジタル時計の表示は21:15。
私はその文字をしばらく見つめてから、ベッドに放り出したスマホを手に取る。
お節介かもしれない。……でも。
決意じみた気持ちを胸に発信ボタンを押すと、3コール目で伊織が出た。
「もしもし伊織。正直に答えて」
「……なんだよ急に」
「もしできるなら今日をもう一度やり直したいって思う?」
唐突な私からの質問に、画面越しに伊織の戸惑いを感じる。
だけどその数秒後。何かを考えるように黙ってから、伊織がまるで絞り出すように呟いた。
「悔しい。やり直したい」
スマホの向こうで伊織の声が微かに震える。
こぼれた伊織の本音を受けて、私はもう一度時計を見る。
22時。地獄踏切前。
―――今すぐ家を出れば、まだ間に合う。
「すぐに来て。ついてきてほしいところがあるの」
私はぎゅっとスマホを握りしめて、そうきっぱりした声で告げた。
「ついてきて欲しいところって言うから何かと思ったら学校?」
電話を受けて家まで迎えに来てくれた伊織を連れて、私たちは2人で高校行きの電車へ乗り込む。
行き先を聞いて目を丸くするドア際の伊織は、直後にからかうようににやにやし出す。続く台詞を察した私は先回りでいじられを阻止する。
「言っとくけど肝試しはしないよ」
「分かってるよ。どうせおばけなんかいないとか言うんだろ」
唇を尖らせる私を薄笑いでいなして伊織はドアにもたれて窓の外を流れる景色を眺める。
向かい合って立つ私はその横顔を無意識にこっそり盗み見る。
伊織は笑っている。だけどその笑顔の裏側にある傷の存在を思うと胸がぎゅっとなる。
いつも通りに振る舞う伊織の空元気にどう声をかけていいか分からず、私はごとごと音を立てる電車の中でただ俯くことしかできなかった。
励ますような気の利いた言葉は1つもかけられぬまま時間だけが過ぎる。
口数も少なく何となく歪な雰囲気を感じつつも、どうにか私達は高校の最寄り駅へ降り立った。
ホームにある電光掲示板の時計は21時55分。
急がないと、とつい小走りになる私に、大した説明もされてないのに伊織は結局文句も言わずついてきてくれた。
改札を抜けるとすぐに目的地である踏切が見えた。
生徒のいない夜の通学路は、見慣れたはずなのに何だか知らない道みたいだった。
「なに? 踏切になんかあんの?」
運良く開いていた踏切を急いで潜り抜けて、無事に辿り着いた目的地で振り返る私に不思議そうに首を傾げた伊織が続く。
2人が線路を渡り終えたのとほぼ同時。
暗い静かな世界に前触れなく鳴り響く警音が目的の電車の到着を予告する。
私は何かを堪えるように上を向く。
ゆっくり傾き始めた遮断桿を見上げながら私は静かに唇を噛み締める。
……私じゃだめかな。
本当は私だって、ずっと伊織のことを。
言いたかった本当の気持ちをぐっと飲み込む。
“過去の今日”、この場所で悔しいと泣いていた伊織の顔が頭をちらつく。
咲良ちゃんの代わりにはなれない。
だけど、伊織の力になる方法を私は知っている。
私は目を閉じると決意を込めて深呼吸をする。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は、夏の夜の匂いがした。
「伊織、私ね過去に戻る方法を知ってるんだ」
響く踏切の音に私の少しだけ掠れた声が混ざる。
2本の電車がすれ違う一瞬前、目の前で目を丸くする伊織をまっすぐ見て、私は小さく笑った。
「何回でもやり直そう。伊織が幸せになるまで」
伊織が咲良ちゃんにたどり着けるよう未来を必ず書き換える。
たとえ私が、伊織と共にいる未来を手放すことになったとしても。
4度目の7月3日に戻った私はさっさと英語の小テストの答案用紙を埋めて終えると、伊織の告白の失敗の原因を考えていた。
本気にされなかった、と伊織は言っていた。
だとしたら本気だと伝わる告白って一体どういうものなんだろう。
伊織がどんな言葉で咲良ちゃんに想いを伝えたかはさすがに無神経すぎる気がして聞けない。
だけど気の利いたおしゃれな台詞や口説くような甘い言葉を伊織が駆使できるとは思えない。
言葉に添えられるような、何か良い手段はないのか。
考えても分からず頭を抱える私を、テストの出来が悪かったのかと隣の席のクラスメイトが心配そうにちらちら見ていた。
なんの答えも出ぬままチャイムが鳴り、安定の告白宣言をかましてくる伊織に私はずいっと詰め寄る。
「伊織、スマホ貸して。咲良ちゃんの今までの投稿見たい」
何かしらの情報が転がってるかもしれない。
そう広げた右手を差し出してしつこく催促する私に、はじめは渋っていた伊織が嫌々SNSを見せてくれた。
「間違えてもリアクションするなよ」
ひやひやしながら私の一挙一動を見守る邪魔くさい伊織を無視して最初に表示された昨晩投稿されたらしいストーリーを覗き込む。
と、同時に思わず目を丸くする。
その内容は咲良ちゃんの独り言が発信されたものではなく、誰かから寄せられた質問に彼女が答えた形式のものだった。
質問文は『理想の告白は?』
その答え『花束とか貰えたら嬉しい!寂しいことに彼氏いないけど』
2つの枠に囲われたそのやりとりを見て私は思わずスマホをがばっと覗き込む。
誤操作を恐れて悲鳴をあげた伊織に構っている余裕はなかった。
『彼氏がいなくて寂しい』そう投稿されていたと聞かされていたけど、これは明らかに解釈違いすぎる。
どこをどう読めばそうなるのかと伊織を問い詰めたいけど今はそれどころじゃない。
なんてことだ。咲良ちゃんが望む告白について、こんなに分かりやすくヒントが書かれているではないか。
「これだ!」
画面から顔を上げた私は、なにが?と首を傾げる伊織にスマホを押しつける。
「伊織、今すぐ咲良ちゃんに連絡して。昼休み、4階空き教室」
「え、え、」
「いいから早く」
この先の展開をすでに履修済みの私とは違って“1周目”の伊織は私からの煽りにただおたおたする。
それでも私の剣幕に押されて言われた通りにメッセージを送るのを見届けて私は思わず強く頷く。
よし、大丈夫。今度こそきっと上手くいく。
みなぎるそんな自信を胸に私は隣の伊織を笑顔で見上げる。
「今日の4時間目始まったらすぐに出かけるよ」
「何言ってんだよ、俺数学だけは絶対サボれない」
「大丈夫。今日はどうせ自習だから」
そう自信満々に言い返す私に、そうだっけ、と伊織は不思議そうな顔で首を傾げた。
「出かけるって、なんで花屋?」
約束の4時間目。連れてこられた駅前商店街の花屋の看板を見上げた伊織がそう間抜けたことを言いだす。
思わずその場で崩れ落ちそうになるのをどうにか堪えた私は、小さくため息をついて顔を上げる。
「咲良ちゃんの投稿見たでしょ。理想の告白は花束もらうこと」
「そういえば書いてあったかも」
「だから告白する時に伊織も花束贈るよ」
当然の私の提案に、げ、と伊織は露骨に嫌そうに顔を顰める。
「無理無理やだよそんなキザなこと」
「できなくないやるの。伊織の気持ちが冗談なんかじゃないってちゃんと分かってもらうの」
恥ずかしいからやだと続く伊織の逃げ腰構文を遮って、私は隣の伊織の瞳を真っ直ぐ見上げる。
「伊織だって咲良ちゃんが喜んでくれたら嬉しいでしょ」
迷いなくそう主張する私に、伊織の瞳が迷いでぐらつく。
しばらく何か言いたげな目のまま黙った伊織が、わかったよ、とようやく腹を括ったのをきっかけに私達は2人揃って花屋の店内へ足を踏み入れた。
店内には出来合いのブーケもあったけど、すぐに声をかけてくれた店員さんのご厚意もあって1から花束を作ってもらうことになった。
とはいえ咲良ちゃんの好みが分からない。選べないと頭を抱える伊織に店員さんがくすくす笑う。
「お相手様のイメージだけでも教えてください」
「イメージ……とにかく可愛くて、女の子らしくて、守ってあげたくなるっていう感じですかね」
そう恥ずかしそうにぶつぶつ打ち明ける伊織に、店員さんは手際よく花を選んでくれる。
プロの手で選ばれたピンクと白のお花達は、誰がどう見ても可愛くて女の子らしかった。告白と共に差し出される花束として申し分なさそうだ。
ブーケを作ってもらう間、手持ち無沙汰の私は店内に溢れる花達をなんとなく眺めていた。
普段花に触れ合う丁寧な暮らしとは縁がないけど、こうしていざ目の前にするとさすがに気分が華やぐ。
「木葉は好きな花とかあるの?」
「えー、特にないなあ。咲良ちゃんと違って女の子らしいお花とか似合わないし」
とにかく可愛くて、女の子らしくて、守ってあげたくなる。
目の当たりにしたばかりの伊織の中での咲良ちゃん像に心が沈む。つい俯いてしまう私に伊織がぷっと小さく吹き出す。
「そんな卑屈になるなよ。まあ確かに別に女子っぽくはないけど」
そう苦く笑う伊織は目の前に並んだカラフルな切り花を見渡す。
その中心で咲き誇る鮮やかな黄色―――ひまわりの花と私の顔を見比べて伊織は満足そうに頷いた。
「例えばこれとか木葉っぽい」
「……え?」
「ずっと上向いてるイメージ。あといつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ。すごいいいやつ」
「いやいや何言ってるのそんなわけない」
てっきり咲良ちゃんと比較して扱き下ろされるものだと思っていた私はその言葉を思わず全力で否定してしまう。
私の反応に少しだけ面白くなさそうな顔をしてから、これもください、と伊織はひまわりを1輪店員さんのところへ持っていく。
買ったお花を受け取った伊織はお店から出るとひまわりの花を私に差し出してくる。
「こっちは木葉にあげる。ついてきてくれたお礼」
「え、いやそんなお礼とかいいよ。私が勝手にやってるだけで」
「いいから。俺があげたいだけ」
ぐいっと強引に押し付けられて、私は結局ひまわりを受け取る。
よく晴れた空の下、私の顔を覗き込むようにこちらを見上げる大きな花と目が合う。見つめ合うよう固まる私に伊織は何故か満足そうに笑う。
「いつもありがとう。俺、木葉がいてくれて本当によかった」
少しだけ眩しそうに目を細めて笑う伊織に胸がいっぱいになる。
直前までの沈んだ心が嘘みたいに晴れて、その反動で何故か泣き出しそうになる。
ずるい。こんなの嬉しいに決まってる。
「……嬉しい。大事にする」
そう呟いた自分の声が震えた。
思わずぎゅっと目を閉じた私に、大袈裟だな、と伊織は困ったように笑った。
ばれる前に学校へ戻った私たちは4階空き教室へ買ってきた花を隠すと、急いで自習中の教室へ戻る。
授業が終わって昼休みになると、お昼ご飯を食べ終えた咲良ちゃんが前回と同じくらいの時間に待ち合わせの教室へ現れる。
私は伊織がくれたひまわりを後ろ手で隠して先に空き教室を後にする。
廊下になってひとりきり、私はひまわりをもう一度覗き込む。
いつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ。
伊織がくれた言葉と花を、思わず両手でぎゅっと抱きしめる。
私は“すごくいいやつ”なんかじゃない。
だけど、伊織の中ではせめてそうでありたい。
伊織の気持ちは今度こそ咲良ちゃんに届く。
その時はきちんと笑って、二人のことを祝福しよう。
そう心の中で改めて誓うと、私は深く息を吐いてそのままもう一度目を閉じた。
先に戻った私は今度こそ失敗しないようにと教室で笑顔で伊織を迎えるつもりだった。
だけど伊織は今回も昼休み終了のチャイムが鳴ってから、ギリギリ滑り込むように教室へ戻ってきた。
教室を横切って自分の席へ小走りで向かう伊織は私の視線には気付かない。
やり直す前と同じその光景に、なんだか悪い予感がした。
私は鞄の中に手を突っ込むと既に教壇に立っている古典の先生の目を盗むように、机の影でこっそりスマホの画面を覗く。
と、同時に、どくんと鼓動が冷たくなる。
スマホに浮かぶ―――『ダメだった』の文字に、私は思わずばっと窓際の伊織を見る。
後ろ姿からは伊織の気持ちはわからない。
だけどその気持ちを想像するだけで、胸がどうしようもなく苦しくなる。
今度はなにがダメなの。
なんで何度やってもうまくいかないの。
……どうして私はいつまでも伊織の力になれないの。
そんな風に自問して私は膝の上でスマホをぎゅっと握りしめることしかできなかった。
どう声をかけていいかわからないまま放課後になってしまい、伊織が一人でさっさと帰ろうとしてしまう。
私は急いで帰り支度をすると、教室を出ていく伊織をすぐに追いかけた。
「伊織!」
廊下で追いついて声をかけると、伊織の背中が小さく跳ねる。
聞こえていたはずなのに伊織は振り返らない。違和感を持ちつつも私は走って伊織に追いつくとその顔を覗き込んだ。
「一緒に帰ろ。私話聞くよ。どっか寄り道してもいいし」
そうへらりと笑う私は、直後に思わず固まる。
俯いたままの伊織は私の目を見ようとしない。伊織を纏うどこか拒絶するみたいな空気に気付いた、その直後。
「……ごめん。今日は一人で帰りたい」
「え?」
投げやりに吐き捨てられたその言葉に、胸がさっと冷たくなる。
何かを予感して心がすくんだ。
「ちょっと考えたいことあるから一人にしてほしい」
続いた想像しなかった伊織の言葉に、頭の中が真っ白になる。
その場で黙り込んだまま思わず固まってしまう。
何も言わない私を置き去りに、伊織はさっさと一人で歩きだしてしまう。
小さくなっていくその背中が見えなくなるで、私はその場で立ち尽くしすことしかできなかった。
家に帰ってご飯を食べてから、とてもテスト勉強する気分になれなくて私はついベッドに寝転ぶ。
机の花瓶に飾ったひまわりをぼんやり眺めながら、伊織は今頃どうしてるんだろうとそればかり考えてしまう。
何度もやり直してきた過去、いずれも『ダメだった』のメッセージの後伊織は私に本音を聞かせてくれた。
だからこそ、“一人で考えたいこと”の内容に想像がつかない。
伊織の告白が失敗したのなら、きっと今回も咲良ちゃんには彼氏ができてしまっているはずだ。
やり直させてあげたい。だけどあんな風に拒絶されてしまった以上、こちらから連絡をする勇気もなかなかできない。
そんな風にぐずぐずする私の傍で不意にスマホが震える。
長めのバイブに着信を受けていることに気付いて、私は急いで起き上がると枕元のスマホを掴んだ。
「もしもし木葉?」
聞きなれた声がして、それだけでなんだか泣きそうになる。
伊織だ。伊織の声だ。私は無意識に唇を噛みしめると、ベッドの上で正座したまま天井を見上げる。
「伊織、外にいるの?」
「うん、散歩したい気分でさっきからずっと歩いてる。あ、もしかして勉強してた?」
「ううんしてないよ」
そう力強く首を左右に振る私に、よかった、と耳元で伊織が小さく笑う。
「ちょうど今木葉の家の近くにいるんだけど出てこれない? アイスでも食おうよ」
「すぐ行く!」
伊織の言葉にベッドから飛び降りると、部屋着を脱ぎ捨てて私は急いで支度をする。
飛び出した部屋のドアを閉める直前。
デジタル時計の20:05の白い文字が、暗い部屋にぽつりと浮かぶのが見えた。
大慌てで飛び出した私を家の前で迎えてくれた伊織に笑われる。
思ったより元気そうなその姿に内心ほっとしつつ、一緒にコンビニで買ったアイスを食べながらぶらぶら散歩した。
きっと聞いてほしい話があって呼び出されたということはさすがにわかっていた。
だけどぽつぽつ中身のない会話こそするものの伊織はなかなか肝心な話をしてこない。
時間だけが過ぎてつい焦れてしまう。
もし伊織がやり直しを望むとすれば、タイムリミットがある。
「伊織、今日どうしてダメだったの?」
痺れを切らしてついに本題に入る私に、伊織が食べ終えたアイスの棒を口にくわえたまま目を丸くする。
何が?って顔を本気でする伊織に、私はもどかしさからつい眉を顰めてしまう。
「話聞いてほしくて呼んだんじゃないの?」
「いや、なんとなく木葉の顔が見たくなっただけ」
そう軽く笑う伊織にますますじれったくなる。
そんな冗談を言ってる場合じゃないのに。
「告白したんでしょ?なんでダメだったの?」
「えー。もういいよ、その話は」
「なんでよくないよ。咲良ちゃんにはなんて言われたの?」
食い下がる私に伊織がようやくその足を止める。
少し何かを考えこむようにして黙ってから、伊織が迷った末にようやく重たいその口を開いた。
「伊織くんは私のこと好きなわけないって言われて」
「なんで?花束まで渡したのに?」
やり直す前と結局同じ展開を辿ったことを知って私は思わず伊織に詰め寄ってしまう。
「何か隠してるでしょ。ちゃんと話してよ」
伊織の不自然な態度を指摘すると、嘘が下手な伊織はぎくりとその顔を強張らせる。
それから何かに迷うように目を泳がせてから、伊織は私の目を見ぬまま言いにくそうに呟いた。
「……伊織くんはずっと木葉ちゃんのことを好きだと思ってたって言われたんだ」
続いた予想もしなかった言葉に、頭をがつんと殴られる。
「え?」
悪い冗談かと思った。
だけど困った顔したまま俯く伊織はそれ以上なにも言わない。
それが理由?
まさか、私のせい?
考えるだけで足元が崩れていく。めまいがした。
「違うじゃん。なんでちゃんと言わないの」
「はは、さすがに言ったよ。でもうまく伝わらなかった」
「そんなのやだよ。ねえ今から咲良ちゃんのところ行こう。違うって今度は私も一緒に」
「いいんだって」
必死になる私を、伊織のはっきりした声が制する。
思わずぴたっと動きを止めた私を見たまま、月明かりの中で伊織が弱く笑った。
「もういいよ。咲良ちゃんのことは諦める」
そう呟く伊織の横顔に、隣の私ぎゅっと唇を噛んだ。
伊織にとって私はただの幼馴染だ。
私との仲を誤解されたせいで諦めるとか―――そんなの、絶対に許せない。
私は伊織の腕を掴むと、弾かれたようにその場を駆け出した。
「おい木葉、どこ行くんだよ」
「いいから着いてきて」
急な私の暴走に訳が分からなそうな伊織を説明なしに高校行きの電車へ押し込む。
何度も繰り返してきた22時、地獄踏切前。無事に辿り着いて思わずほっとする私に、伊織は不審顔で唇を尖らせる。
「こんなところに何の用が」
「やり直すの。今度こそちゃんと」
私の声とカンカン鳴り始めた警音が、伊織の不満を遮る。
掴んでいた腕を離して隣の伊織を見上げる。目があって、私を見つめた伊織の瞳が何かに驚いたように微かに揺れた。
「……私のせいでごめん」
初めから好きでごめん。
伊織は私を好きじゃないのにごめん。
もし私のこの気持ちが伊織の恋の邪魔になるなら―――次はもう絶対に間違えたりしない。
再び7月3日の朝に戻った私に少しも迷いはなかった。
1時間目の英語終わりの休み時間に伊織にDMするよう念を押すと、私はそのまま急いで隣のクラスの2年C組へ向かった。
自分がやるべきことは分かってるつもりだった。
「咲良ちゃん、今ちょっと時間ある?」
「あれ、木葉ちゃんどうしたの?」
勇気を持って入口付近から声をかけると、自分の席で友達と談笑する咲良ちゃんは私に気付いてドア際まできてくれる。久しぶりに間近で見る咲良ちゃんは、心が怯みそうになるほど本当に可愛かった。
「忘れ物? 何か教科書でも貸す?」
「ううん違うの、ちょっと聞いてほしい話があるんだ」
「え、なんだろ珍しいね」
そう目を丸くして笑う咲良ちゃんを廊下まで連れ出す。
クラスこそ一緒になったことは1度もないけど、私だって伊織と同じく一応咲良ちゃんの同じ中学だった。もちろんお互い認知しあっているし、その気になればこんな風に話しかけることだってできる。
なんでもっと早くこうしなかったんだろう。そう何度も自分を責めるけど、今の私には後悔より先にやるべきことがある。
「咲良ちゃん、あのね。私と伊織はただの幼馴染なの」
急に本題を切り出す私に、咲良ちゃんは小さく首を傾げる。
「? うん、知ってるよ。中学の時から仲良しだったよね」
「そう。だけど伊織にはずっと前から他に好きな人がいるの。私じゃなくて別の人」
わかりきった事実を口にした時、胸がぎゅっと痛くなる。
こっそり息を吐いて、私は用心深く顔にしっかり笑顔を貼り直す。
咲良ちゃんにも、そしてもちろん伊織にも、私の本当の気持ちには決して気付かせない。
「伊織は私のことなんか好きじゃないよ」
そう。伊織の好きな人は私じゃない。
ずっと傍にいたけどただそれだけ。初めから一度も伊織は私のことを好きにならなかった。
だからそんな悲しい誤解が2人の未来の障害になるなんて耐えられない。
私はぎゅっと拳を握りしめると咲良ちゃんの目を真っ直ぐ見る。
「本当にずっと伊織はその子のことだけが好きだったの。だからそれだけ信じてあげて欲しい」
私からの唐突なお願いに、わかった、と咲良ちゃんは不思議そうな目をして曖昧に頷いた。
不躾な呼び出しにも優しい咲良ちゃんは深く言及しないで黙ったまま話を最後まで聞いてくれる。そのお陰で私は無事に自分の使命を果たすことができた。
良かった。これでもう大丈夫。
……良かった。
まるでいい聞かせるように心の中で呟いて、まるで庇うように今でもまた痛む胸に手を当てた。
やり直して通算5度目の伊織の告白はうまくいくと確信している。
だけど当然過去の記憶がない伊織は、昼休みの空き教室で用意した花束を手に今回も緊張に震えていた。
「大丈夫だよ。絶対上手くいくから」
「なんで分かるんだよ、無責任なこと言うなよ」
そう怨みがましく私を睨む伊織に、分かるよ、と私は思わず笑ってしまう。
「伊織はとにかく咲良ちゃんが信じてくれるようにちゃんと気持ち伝えて。絶対に大丈夫だから諦めないで」
伊織が好きなのは初めからずっと咲良ちゃんだけだった。
私なんかじゃない。
叶わないとわかっていたくせに未練がましく捨てることもできなかった愚かな気持ちが伊織の望む未来の邪魔するなんて絶対に許さない。
大丈夫。絶対上手くいく。
だから同時にこれからは、伊織の一番傍にいられるのは私じゃなくなる。
だとすればこれが私にとっても最後のチャンスだ。
今を逃せばきっと二度と伝えることはできない。
一度くらい自分の気持ちを伝えてみたかった。
―――だけど。
私は伊織がくれたひまわりを手に取ると、気持ちを全部隠したまま笑った。
「頑張って。私は伊織が幸せになってほしいって本気で思ってるよ」
そう笑顔で言い残す私は、そのまま先で空き教室を後にする。
1人きりになった廊下を歩きながら、不意に泣き出しそうな自分に気付く。
だけど決して泣いたりしない。
自分が選んだこの結末が正しいと信じてる。
似合うと言って貰えた花に恥じない自分でいたい。
私は両手で抱えたひまわりの花の真似をして、何かを堪えるようにぐっと上を向いた。
先に戻った私が自分の席でぼんやりしていると、伊織が数分遅れて教室へ入ってくるのが見えた。
無意識に時計に目をやると昼休みはまだ数分残っている。教室を見渡して私の姿に気付いた伊織は自分の席へ戻らず真っ直ぐこちらへ向かってくるのが見えた。
スマホに伊織からのメッセージはない。
成功ルートは“結果”の報告をどうやら今この場で直接受けることになるらしい。
過去と違う展開に未来が変わった予感が確信へ変わっていく。私の元へなにも知らない伊織が笑顔のままやってくる。
「木葉、聞いてよ俺さ」
咲良ちゃんと付き合うことになったよ。
続くであろうセリフに、私は何かに耐えるようにこっそり膝の上で両手を握り締める。だけど。
「ダメだった。せっかく応援してくれたのにごめん」
「……え?」
続いた予想外の言葉に私は言葉を失ってしまう。
目の前の伊織は困ったように笑っている。平気そうなのか強がりなのか見た目からは判断がつかなくて、私はただ戸惑うことしかできない。
「なんで? また信じてもらえなかったの?」
「? またって何?」
「ごめんなんでもない。でもどうしてダメだったの?」
「……いや、それがちょっと自分の中でもまだ整理ついてなくて。夜、木葉の家まで行ってもいい?その時に話すから」
そう何故か少し気まずそうな伊織に、全然納得できないなりに私はどうにか頷く。
それと同時に昼休みが終わるチャイムが鳴って、午後の授業に備えて伊織はさっさと自分の席へ戻ってしまった。
初めて迎えるこの展開に残された私は自分の席で首を傾げてしまう。
だけどだんだん冷静になると、『ダメだった』と残してった伊織の言葉の重みだけが徐々に胸の中で増して行く。
どうして。今度は何がダメだったんだろう。
今すぐ問いただしたい気持ちをぐっと堪えて、私はただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。
家に別々で帰宅してからもなかなか伊織から連絡は来なくて、ようやく私のスマホが震えたのは20時を過ぎた頃だった。
散歩しようぜ、と家まで迎えにきてくれた伊織と一緒にコンビニアイスを並んで食べる。伊織が話し出してくれるのを大人しく待ちたかったけどとっくに焦れてしまった私は結局我慢できなかった。
「どうしてダメだったの? 咲良ちゃんはなんて?」
何の前置きもなくそう切り出す私に、伊織は驚いたように口の中のアイスをごくんと飲み込む。
それから居心地悪そうに目を泳がせて、たっぷり黙り込んでから渋々その口を開いた。
「……実は告白できなかったんだ」
「え!?」
想像もしなかった伊織の言葉に、私は思わず立ち止まる。
私の反応に伊織は気まずそうに俯いてしまう。どうやら本当らしい。
「なんで?緊張しちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃなくて。一応しようとはしたんだけど」
「じゃあなんで」
何度も繰り返した過去の今日の中で、伊織が告白自体をできなかったことは一度もなかった。
状況が分からずただじっと伊織の答えを待つしかできない私に、伊織は再び沈黙してから観念したように息を吐いた。
「なんか途中で自分の気持ちがよくわからなくなっちゃって」
そう力なく笑う伊織に、なにそれ、と無意識に声が震える。
きっかけは分からない。だけど伊織が気持ちを見失っている間にも無情にも時間は進んでしまう。今頃、きっと。
「どうしよう。咲良ちゃんもう彼氏できちゃってるよ」
「あれ、よく知ってるな。さっきSNSに上がってたの木葉も見たの?」
俯く私の隣で伊織が不思議そうに首を傾げる。
私は首を左右に振ると、そのはずみで私の中で何かが切れた。
「ううん、見てない。何回もやり直したから知ってるだけ」
そう続いた私の言葉に、え、と伊織が間抜けな声を上げる。
「やり直した?」
「うん。これで5回目。ごめんまた失敗しちゃった」
「なんだよ失敗って」
多分冗談だとでも受け取ったらしい伊織は、軽く笑って私に調子を合わせてくる。
顔を上げられないままの私は、真実を伝える決意をして静かに口を開いた。
「1回目の今日伊織はね、咲良ちゃんに振られてやり直したいって泣いてた。力になりたいって思ってる時にたまたまタイムリープする方法を見つけて、伊織が望むなら上手くいくまで何度でもやり直させてあげようって決めたの」
くすりともしない私に、伊織がようやく違和感に気付いたらしい。
どうやら本気で言っている。だけど鵜呑みにするには内容があまりにも嘘くさい。伊織の動揺が全て分かりやすく顔に書いてある。
「なに言って、」
「無理して信じなくてもいいよ。もしまた過去に戻ったら伊織は今の私の話も全部忘れちゃうから安心して」
思わず力なく笑ってから私は隣の伊織を見上げる。
突然の私の言葉にただ戸惑うだけの伊織を、私はぶれずに見上げると静かに笑った。
「伊織は咲良ちゃんのことがちゃんと好きだよ。だからこんな風に終わったら絶対後悔する」
微笑んでみせる私に伊織の瞳が微かに揺れる。
だけど私には迷いはなかった。
咲良ちゃんのことが好きな伊織をずっと傍で見てきた。
後悔なんて絶対にさせない。
私が泣いて終わる未来より、伊織が泣いて終わる未来の方が、許せない。
「大丈夫。上手くいくまで私がついてる。もう一回だけやり直そう」
そうもう一度静かに笑う私は、伊織の腕を引く。
タイムリープのことを初めて打ち明けられた伊織は、その話を信じたのかどうかはよく分からない。だけど黙ってついてきてくれた伊織と一緒に私は無事に地獄踏切前に辿り着いた。
時刻は21時55分。
間に合ったことに安堵する私の隣で、ずっと黙っていた伊織がようやくその口を開く。
「木葉はさ、なんで俺のためにここまでしてくれるの?」
ぽつりと呟く伊織の声が、束の間の静寂した夜の空に溶ける。
振り返ると同時に、何度も聞いたカンカンという踏切の音が周囲に響き渡る。ゆっくり降りてくる遮断桿を一度見上げてから、私は伊織の目を真っ直ぐに見た。
「好きだから」
「え?」
辺りは電車の到着を告げる警音で満ちている。
私の声は伊織には届かなかったかもしれない。だけどもうどっちでも良かった。
「伊織のことが本当はずっと好きだった。だから泣いてる伊織を見たくなかった。幸せになって欲しかった。自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった」
恋する伊織を誰よりも近くでずっと見てきた。
他の女の子を真っ直ぐ見つめる横顔に
―――いつかこっちを見ないかな、こっそりそんな風に祈ることさえ出来なかった。
伊織の思い描く未来に私の姿は無い。
伊織にとって必要ない私のこの気持ちは、伝えないまま消すと決めた。
私では伊織を幸せにできない。
ならばせめて、他の誰かと幸せになる助けになりたかった。
静かに微笑む私に伊織は息を呑んだきりなにも言わない。
ただ黙って私を見下ろす伊織の向こう、迫り来る電車が遠くに見える。タイムリミットだ。
「伊織が私のことを好きじゃないことはわかってる。困らせるから言うつもりもなかった」
「っ、でも」
「大丈夫。言ったでしょ?今日をやり直すと伊織はどうせ全部忘れちゃうから」
どちらにしても伊織は全て忘れてしまう。
だったら、私も一度だけ、隠したはずの本当の気持ちを打ち明けてみたかった。
伊織には他に好きな子がいる。
だから私のこの気持ちは隠したまま消し去ると決めていた。
だけど。ずっと。
本当は、私。
「大好きだよ、伊織。今度こそ一番好きな子と幸せになってね」
そう呟いたのを最後に、堪えきれずに涙が溢れた。
目の前の伊織が何故か泣き出しそうな顔をしたのを最後に、私の記憶はぷつりと途絶えた。
はっと意識を取り戻すと、2年D組の教室にいた。
1時間目の英語の授業中。黒板の文字、目の前の小テスト、全てに見覚えがあった。
自分が何故ここにいるのか、初めは理解できなかった。おかしい。一瞬前まで確かに夜の地獄踏切にいたはずだったのにと窓際の席で混乱する。
タイムリープする方法を見つけた。
耳の奥で地獄踏切前の―――木葉のセリフが頭を過ぎて俺は思わずはっとする。
疑っているわけではなかった。だけど信じたわけでもなかった。だってこんなのあまりにも非現実的すぎる。それでも何度考え直してもこの状況、木葉の言う通りだった。
蒸すような暑さと動揺からか身体がじわりと汗ばむ。
俺は微かに震える手を口元に当てて少しでも落ち着こうと深く息を吸った。
さっきの木葉の話によれば、時間を逆戻りできたのは木葉自身だけだったはずだ。
今回どうして俺が戻ってくることができたのかはよく分からなかったけど、とにかく状況を確かめようと俺は授業が終わるなり立ち上がって木葉の席へと向かった。
「咲良ちゃんに今すぐDMして会う約束して。放課後じゃ遅いから昼休み、場所はどこでもいいけど校舎裏が嫌なら4階の空き教室で。絶対に言う通りにしてね」
試しに咲良ちゃんへの告白宣言をする俺に、木葉は記憶の中のシナリオ通りにそう言い残してさっさと教室を出ていってしまう。
やり直しの前、夜に投稿された咲良ちゃんの彼氏ができた報告ポストをふと思い出す。
放課後じゃ遅い。他の男に取られてしまう。きっと過去の失敗を元に木葉は俺に教えてくれていたらしい。
なにそれお人好しすぎるだろ。放っておいたら俺の告白は勝手に失敗に終わるはずなのに。
つい首を傾げつつ指示に従ってメッセージを送った俺の元へ木葉が戻ってきたのは次の授業が始まる直前だった。
「4時間目の数学は自習だから抜けてお花を買いに行くよ」
時間がないからかそう雑な説明だけして木葉は自分の席に戻っていく。
木葉が過去に5度今日をやり直しているのが本当だとしても、俺には前回の今日の記憶しかない。だけど木葉のセリフ、振る舞い、全てが俺の記憶と同じだった。
木葉は今回のタイムリープの自覚がない?
自分の中で生まれたその仮説の真意はわからないけど、そう考えるのがすごく自然だった。
だとしたら俺に木葉が何度も今日をやり直していることを打ち明けたことも。そしてなにより。
伊織のことがずっと好きだった。
踏切前での木葉のあの“告白”も、記憶を持っているのはきっと俺だけという事になる。
木葉が全て忘れている。だとしたらこっちもいつも通りに振る舞わなくては。そう心に決めて俺は1人小さく頷いた。
約束の4時間目、訪れた花屋で前回同様おまかせ花束の完成を待つ間、俺は今回も迷わず木葉にひまわりの花を選んだ。
「いつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ」
選んだ理由をそう説明しても木葉は納得が行かなそうな顔をしている。
本心で言ったのに信じてもらえなかったことが面白くなくて、俺は結局買ったひまわりを押し付けるように木葉に渡した。
選んだ花を女の子に贈るなんてキザなこと、絶対にしたくないって思ってた。
だけどそれ以上に、俺の言葉を信じようとしない木葉に、伝えた気持ちが本心だってちゃんと分かって欲しかった。
本人に自覚があるかは分からないけど、木葉は時々不意にぎゅっと上を向く癖があるのを俺は知っていた。
太陽を見上げる少しだけ凛々しい横顔と、ぱっと咲いたような笑顔が本当にひまわりの花みたいだって思ったんだ。
できれば喜ばせたかったのに、花を受け取った木葉は何故か泣き出しそうに顔を歪めた。
「……嬉しい。大事にする」
そう声を震わせる木葉に、胸がぎゅっと切なくなる。
好きだよ、と踏切前で笑った木葉の顔が頭をちらつく。目の前で大事そうにひまわりを抱きしめる木葉を見てるとなんだかすごく堪らない気持ちになった。
ついに訪れた昼休み。
前回同様緊張で落ち着かない俺に、絶対に上手く行くから大丈夫だと笑った。
「頑張って。私は伊織が幸せになってほしいって本気で思ってるよ」
そう笑って空き教室を出て行く木葉にどうしようもなく胸が掴まれる。
踏切前で泣いていた木葉の姿がさっきから頭を離れない。
去り際木葉は笑っていた。
だけど笑顔の裏側で一体どんな気持ちだったんだろう?
今どこかで1人きり、一体どんな気持ちでいるんだろう?
考え出すとじっとしてられなくて、咄嗟に追いかけてしまいたくなる。
だけど代わりに入ってきた咲良ちゃんに気付いて、俺は慌ててその場で踏みとどまる。
「伊織くん、お待たせ。話ってなに?」
目の前で首を傾げる咲良ちゃんに伝えたい気持ちは決まっているはずだった。
こんなところへわざわざ呼び出された時点で、多分咲良ちゃんも俺の用件を察していたと思う。
だけど言葉が何も出てこない。
頭の中、どうしようもないくらい、木葉でいっぱいだった。
思わず黙り込んでしまう俺をよそに、花束に気付いたらしい咲良ちゃんがぱっと嬉しそうに笑う。
「わ、綺麗なお花!くれるの?」
「あ、うんよかったら」
「嬉しい、ありがとう!もしかして昨日のストーリー見てわざわざ用意してくれたの?」
両手で受け取ってくれた花束を見て微笑む咲良ちゃんに、俺は何も言えなくなる。
選んでくれたのは花屋さんだ。俺は恥ずかしさを言い訳に結局花を1つも選べなかった。馬鹿正直に黙る俺に、ふふ、と何かを含んで咲良ちゃんが笑った。
「でも意外だな。私ずっと伊織くんは木葉ちゃんのことが好きなんだと思ってた」
その言葉に咄嗟に顔を上げる。
今もまだ花束を見つめる咲良ちゃんに狼狽える俺は首を左右に振った。
「違うよ。木葉はただの幼馴染で」
「うん、知ってる。木葉ちゃんがさっき休み時間にわざわざ言いにきてくれたから」
「え?」
涼しく笑う咲良ちゃんに、俺は言葉を失う。
思わず固まってしまう俺を見て、咲良ちゃんは笑顔のままで静かに続けた。
「伊織が好きなのは私じゃない。伊織にはずっと他に好きな子がいたからそれだけは信じてあげてほしいって」
がん、と頭を殴られたような衝撃が走る。
あまりの痛さに呆然とする俺の頭に、絶対に今すぐメッセージをしろと言い残して去った木葉の姿が蘇る。
あの時どこに行ったのかと疑問だった。
だけどまさか、咲良ちゃんに会いに行っていたなんて。
伊織が好きなのは私じゃない。
そんな悲しい言葉、木葉は咲良ちゃんに一体どんな気持ちで?
俺の前ではいつも笑顔の木葉と、最後に泣いていた踏切前の木葉。
頭の中で何度も混ざって、想像するだけで胸がぐちゃぐちゃになる。
「―――」
黙り込んでしまう俺を見ていた咲良ちゃんが、何かに思い至ったようにふと顔を上げる。
「伊織くんはさ、私のこと好きなわけないと思うよ」
「……いや、俺は」
「じゃあ私のどこが好き? このお花だってきっと伊織くんが選んだんじゃないよね」
何かを見通すような咲良ちゃんの目に、ぎくりと胸が冷たくなる。
再び黙ってしまう俺を見て、小さく肩をすくめた咲良ちゃんが手の中の花を見つめて続けた。
「私ね、似合うお花を選んであげられるって、その子のことが大事な証拠だと思うんだ」
実際、俺は咲良ちゃんのことをよく知らない。
どんな性格で、どんなものが好きで、どんな時どんな風に笑うのか全然分からない。
もっと言うなら花には別に興味がないし、色や形の違いなんてよく分からない。
だけどあれは、ひまわりの花は。
あの花だけは本当に―――木葉の笑った顔によく似合うってそう思ったんだ。
自分の中で何かにたどり着いた気がして、思わず息を呑む。
それから急激に気まずくなって、俺はその場で俯くことしかできなくなる。
「咲良ちゃん、ごめん、俺」
「ううん大丈夫。あ、せっかくだからこのお花はもらってもいい?」
お花好きなの、とにっこり微笑む咲良ちゃんになんだか救われた気持ちになって俺は深く頭を下げた。
決して答えが出たわけじゃないし、頭の中は酷く散らかったままだった。
少し頭を冷やしたくて、告白の結果報告もそこそこに夜会いに行く約束だけして俺は1人になる。
家に帰って部屋の中で目を閉じても、何故か木葉のことばかり考えてしまった。
木葉はいつも傍にいてくれた。
俺の一番の味方でいてくれた。
いつでも笑顔で周りを、いや俺を、一緒に元気にしてくれていた。
だけどその裏側で、俺に隠れていつも自分の気持ちを犠牲にしていたとしたら?
1人で泣いていたとしたら?
想像するだけでいてもたってもいられなくなる。
木葉はばかだ。なんで言わないんだよ。
いつも傍にいたはずなのに、隣でこっそり傷つくなよ。
考えがまとまったわけじゃない。
だけどどうしようもなく木葉に会いたくなって、俺は結局その気持ちだけを携えて自分の部屋を飛び出した。
こちらの事情を知らない木葉は、告白をできなかったと聞いた途端やり直そうと俺の腕を引く。必要ないと説得したいのに木葉は聞く耳を持たない。
まるで自分のことみたいに必死になるその姿に胸が掴まれて苦しくなくなる。
結局木葉に連れられ目的の駅へ到着してから、降り立ったホームで俺はふと立ち止まる。
上り線、通過待ち。電光掲示板にはすでに目的の電車の到着時刻が表示されていた。
「大丈夫。上手くいくまで私がついてる」
やり直す度にきっと傷付いてたくせに、木葉は俺の前で全部隠してそう笑った。
「……なんで?」
「え?」
「木葉はなんで俺のためにここまでしてくれるの?」
微かに震えた俺の声が、風の音だけが鳴るホームに溶けて消える。
1回でも十分なのに、5回も繰り返したの?
すごいよ。普通できないよ。
自分の気持ちより俺なんかの気持ちを大事にしないでよ。
木葉は俯く俺に少しだけ目を丸くして、それから迷いなく微笑んだ。
「好きだから」
澄んだ瞳で笑う木葉に、俺の方が泣き出しそうになる。
思わず黙り込む俺に、木葉はぐっと1度空を見上げて、それから笑顔のまま穏やかな声で続ける。
「伊織のことが本当はずっと好きだった。伊織に幸せになって欲しかった」
何かを堪えて弱く揺れる瞳に気付く。
同時に、胸が痛くてどうしようもなかった。
ふと上を見上げて、それから笑う木葉を今まで何度も見てきた。
だけどそれは癖なんかじゃない。
きっと自分の気持ちを隠した木葉は、そうやって何度も零れてしまいそうな涙を堪えてくれてた。
傷付けてごめん。
気付かなくてごめん。
心の中、何度もそう繰り返す。
「自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった」
そう笑った木葉の肩が微かに震えていた。
傷を隠して笑う木葉の優しさに、儚さに、胸の奥から温かい気持ちがぶわぶわ迫り上がってくる。
なんだろう。愛しいな。
初めて味わう感情に俺は唇を噛み締めた。
不意に目の前の強くて弱い小さな女の子を、抱きしめたくてたまらなくなる。
自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった。
俺だってだよ。
俺だって木葉が悲しい方が嫌だよ。
もし木葉が傷つかずに済むなら、全部やり直してでも来るはずだった未来を書き換えたいよ。
多分まだ、恋とはとても呼べない。
急に気持ちが変わったり、何かはっきりした答えがあるわけじゃない。だけど。
これって、今胸の中にあるこの気持ちって―――これからも木葉の傍にいる理由にならないですか。
俯いたまま立ち尽くす俺に、目の前の木葉はホームの時計を見上げて焦れたように俺の腕を掴む。
「伊織、早くしないと時間が」
「もういいよ」
迫るタイムリミットに慌てる木葉に、俺は小さく首を振る。
後悔だらけだった。
タイムループして今日を繰り返すだけじゃ全然足りない。
本当は最初から何もかもやり直したかった。それができないならせめて―――未来だけは一緒に。
カンカンと乾いた踏切の音が鳴り始めるのが聞こえる。
でも、と諦めようとしない木葉の手をそっと振り払って、俺はその目を真っ直ぐ見つめる。
「もうやり直しは必要ない。今の自分にとって誰が一番大事か分かった気がするから」
そう笑う俺を追い抜いて、目的の電車が風を切って駆けていく。
電車が通過したあとの2人きりのホーム。遠くでは地獄踏切の警音が今もまだ鳴り続けていた。
カンカン無機質な音が夜の空に無情に響いている。
その音を遠くに聞きながら、私は去っていく電車をただ呆然と見送ることしかできなかった。
「……どうして」
うわ言みたいに呟きながら、間に合わなかったことに絶望と困惑が胸の中でぐちゃぐちゃ混ざる。
タイムリープに失敗してしまった。
伊織にやり直しのチャンスをあげる方法はもうない。
ただその事実だけが大きくのしかかって、私は伊織の顔を見ることが出来なかった。
「伊織、ごめん」
そう続けた瞬間、堪えきれなくて両目から涙が溢れる。泣き出す私を黙って見ていた伊織が、不意に私の腕をゆっくり掴む。
はっとして顔を上げる。
涙で揺らいだ世界の中で、伊織が真っ直ぐに私を見ていた。
「木葉、俺」
初めて見る伊織の表情に、まるで何かを予感したように心が揺れる。
何度でも諦めなかった。
その先で君は誰にたどり着いた?
7月3日、22時1分。きっとこれから、まだ知らない私達の新しい未来が始まる。
高校2年の夏、勇気を振り絞って大好きな女の子への想いを伝えるもあっさり玉砕してしまう。
失恋を受け入れたくない。できるならやり直したい。
長年の初恋片思いをすっかり拗らせた後悔に塗れる彼に奇跡が訪れる。偶然タイムリープで告白前に戻る手段を手に入れたのだ。
今度こそ。何度でも。
失敗しても必ずまた立ち上がる。
君にたどり着くまで決して諦めない。
きっとそう決意に燃えていた。
この話の主人公はそんな彼―――ではなく、伊織のタイムリープに巻き込まれてしまった哀れな女こと私、雨宮木葉である。
一体何が起きているのか、理解できなかった。
ほんの一瞬まるで眠るように意識を失ったような感覚はあった。
次に目を開けると、周りはしんと静まり返っている。見慣れた2年D組の教室、今はどうやら授業中らしい。
机の上には小テスト、目の前の黒板には7月3日、日直小林・佐藤の文字。黒板の中心でチョークでぐるぐる雑に囲まれた英語の期末試験範囲。何もかも既視感があった。
おかしい、と私は思わず瞬きを繰り返す。寝起きみたいに頭の中に霞がかかってどうしてここにいるのかうまく思い出せない。
目を閉じるとカンカン五月蝿い警音と点滅を繰り返す赤いランプが脳裏に鮮明に蘇る。
―――そうだ。確かにさっきまで夜の“地獄踏切”の傍にいたはずなのに。
壁にかかった時計を思わず二度見してしまう。初めは自分の目を疑って、もう一度見て今度は混乱する。夢でも見ているのだろうか。
7月3日の午前9時前。これは私にとっては“過去のはず”の日時だった。
カンニングを疑われるのではと懸念して、格好だけ机に伏せたままこっそり目線を上げる。
窓際、前から2番目の席には見慣れた幼馴染の後ろ姿を見つける。伊織の襟足は今朝見た時と同じように寝癖で少し跳ねていた。
私の記憶では1時間目のこの授業の後、彼は私の元へやってくる。
一晩中考え事してたせいでテスト全然できなかったと泣き言から始まって、それから唐突に“決意”を打ち明けてくるのだ。
「―――」
胸の奥が少しだけざわっとして、私は無意識に小さく唇を噛む。
無心になりたくて目の前の小テストに向き合うのに、期待に反してあっという間に解答欄は全て埋まってしまった。当然だ。既に1度受けていてなんなら答えも全部知っている。私は投げやりに手の中のシャーペンを机に転がすとため息をついた。
やがてテスト終了時刻を伝えるタイマー音がけたたましく響いて、答え合わせの後、チャイムに合わせて解答用紙を回収した教師がさっさと教室を出て行く。
それを待っていたかのようにガタッと勢いよく立ち上がった伊織が、窓際の席から机の間を縫って私の元へ駆けてくる。
「木葉、おはよ。今のテストできた? 俺めちゃめちゃやばかったんだけど」
「……なんで?」
「ちょっと考え事してたせいで全然勉強できなくて」
机の上の教科書とノートを閉じながら、私はゆっくり顔を上げる。
目があって、私の顔を覗き込むようにした伊織が、へへっと照れ臭そうに笑った。
「決めたんだ。俺、今日咲良咲良ちゃんに告白する」
きっぱりした伊織の声が2度目とは思えない威力でぐさりと胸に刺さる。
それと同時にこれが現実だと実感させられる。あまりの痛みで夢ならとっくに醒めているに違いない。
世界が一瞬で色を失う。
思わず顔を歪めそうになるのを堪えた私は、そっか、と1度目と同じようにどうにか笑った。
泣き出しそうな自分に気付く。
だけど伊織に気付かれるわけにはいかなかった。
だめだ、泣くな。
何度も言い聞かせて、同時に無意識にぐっと上を向く。
目の前の恋する伊織。痛む胸を必死に隠す惨めな自分。なにもかもが全部繰り返しだった。
―――タイムリープ。
さっきから頭の隅をちらついていたその言葉が少しずつ確信に変わっていく。
それは最近まで夢中になって見ていたアニメの設定で、過去に後悔がある主人公が望む未来を目指して何度もやり直しを行うというものだった。
ということは、この場合やり直しを願った伊織が過去に戻ってきたということになる。
そんなファンタジーありえない。さっきまで胸の中でど正論を主張していたはずのリアリストの私は気付けばどこかへ行ってしまい、代わり現れたロマンチストな私がだけどおかしいと首を傾げる。
アニメの設定ではタイムリープを望んだ本人以外は周りの人間は繰り返す時間の流れには気付かない。
諦めないと決めた主人公だけがこの現象への自覚と未来の記憶を保持しているものだと相場が決まっているはずだ。
だけど目の前の伊織は1度目と一言一句違わず同じ言葉を繰り返した。
台本やなにかしらの誓約が用意されている可能性をギリギリ疑う。だけど嘘が下手な伊織に器用に私を騙す演技ができるはずがない。
つまり伊織にはこの先起こるであろう今日の出来事への記憶がないと考える方が自然だった。
だとしたらなぜ私にだけ?
あんまりだ。いっそ全部一緒に消して欲しかった人生で最悪の記憶と痛みを、忘れられないどころかまさか繰り返させられるなんて。
行き場のないやるせなさを抱えて私は無意識に窓の外の空を見上げる。
恨みがましく睨んだ空は、梅雨明け前なはずなのに皮肉なくらい綺麗によく晴れていた。
伊織は中学生の頃から咲良ちゃんのことが好きだった。
幼稚園時代からの幼馴染である私の家にその日の夜すぐに飛んできて、一目惚れしたと恥ずかしそうに報告してきた。
あの時の胸の痛みは多分一生忘れられない。
本当は泣き出してしまいそうだった。
だけど私はぐっと上を向いて、応援するよ、と笑った。
伊織と私はいつも当たり前にすぐ近くにいて、昔からなんでも言い合うことができる仲だった。
だけどその日を境に私には初めて伊織へ隠し事ができた。
決して伝えることはできない。だけど。
―――私は本当はずっと伊織のことが好きだった。
咲良ちゃんへの気持ちを自覚したくせに、意気地なしの伊織はなかなか想いを伝えられなかった。
だけど一言でも会話が出来た日はご機嫌でそのことを私に報告してきて、その度ずっとこっそり傷ついてきた。
昔からもちろん可愛かったけど、高校生になってお化粧を覚えた咲良ちゃんは学年1の美女候補として度々噂されるようになった。隣のクラスの私や伊織の耳にもはっきりそれが届いていた。
他の男に取られて後悔する前に自分の気持ちを伝えたい。だけど一体どんなタイミングで?といつもうじうじ弱音を聞かされ続けてきた。
そんな伊織にチャンスは唐突にやってきた。
きっかけは昨晩投稿された咲良ちゃんのストーリーだった。
中学からの顔見知りという特権をどうにか利用して咲良ちゃんと伊織はSNSで繋がっている。(不安だから傍にいてくれとフォローする瞬間は謎に伊織に立ち会わされた)
具体的な投稿内容な知らないけど、そこに踊る『彼氏がいなくて寂しい』という文字を見て今だと決めたと1度目同様、2度目の伊織は頬を染めて照れたように笑った。
決意したならさっさと男らしく咲良ちゃんの元へ走ればいいのに、この日の伊織は休み時間の度に私の元へやってきては情けなく助けを求めてきた。
ようやく放課後会う約束を取り付けるDMを送れたのは急遽偶然自習になった4時間目の数学の授業中だった。昼休みに入ってから来た他の約束があるからその後ならという返信にまるでカップル成立の瞬間かと錯覚するくらい伊織は飛び上がって喜んだ。
何度も告白のシュミレーションをして待ち合わせの校舎裏へ向かった伊織を見送って、帰宅途中にすぐに伊織から『ダメだった』と短いメッセージが来る。
いてもたってもいられずすぐに引き返して私は伊織の元へ走った。
校舎裏で項垂れたままの伊織を見つけると、私はその腕を引いて学校の外へと連れ出す。
とにかく何か気が紛れることを。その一心で一駅先まで歩いて伊織が好きなゲームセンターとスポーツが複合したレジャー施設でくたくたになるまで遊んだ。
咲良ちゃんのことは聞けなかった。
だけど伊織が時々楽しそうに笑うから、それだけでなんだか嬉しかった。
たっぷり遊んだ帰り道、時刻は21時を過ぎていた。
お互いの親には一緒にいると連絡してある。少しくらい遅くなっても平気だと踏んで、定期を使って帰るべく再び高校最寄り駅までの線路沿いの道をコンビニアイスを食べながら並んでゆっくり歩いた。
「ついでに学校戻って肝試しでもする?」
「絶対しない。そもそもおばけなんていないから」
幼い頃から何度も繰り返されたいじりと共に、隣で伊織のにやにやする。強がる私を馬鹿にするように笑ってから、すっかり暗くなった空を見上げて伊織は大きく伸びをした。
「今日楽しかった。身体動かす気分じゃ無いと思ってたけど来て正解だった」
「そっかよかった。少しは気分転換になった?」
「だな、ありがと。木葉みたいな優しいやつが傍にいてくれて俺は本当に幸せだ」
深い意味はないってわかってるけど、伊織の言葉に軽率に嬉しくなる。
伊織にとって私はただの幼馴染だ。だけど、もし。このまま私が傍にいられるとしたら―――いつか、今度は伊織が私のことを好きになってくれるかもしれない。
だとしたら諦めたくない。今度は私が頑張ってみたい。この後続くはずの未来に、そう密かに誓った。
「咲良ちゃんさ、ついさっき彼氏ができたんだって」
初めて伊織が咲良ちゃんの名を口にしたのは目的地である駅の目前だった。
聞こえてはいたけどどう反応していいかわからず、私は無言のまま自分の足元を見てしまう。
聞けば伊織と会う直前に咲良ちゃんは仲の良いクラスメイトに告白をされていた。彼氏の座を射止めたその同級生も、どうやら咲良ちゃんの昨晩の投稿を見ていたらしい。
「バカだよな。せめてもう少し早く気持ちを伝えてればもしかしたら俺が付き合えてたかもしれないのに」
こぼれ落ちたその後悔が、鳴り出した無機質な踏切のサイレンにかき消される。
黄色と黒の遮断桿が傾いて、私たちはその手前で足を止めた。
「悔しい。やり直したい」
そう呟いた伊織の声が微かに震えていた。
それに気付いてゆっくり顔を上げる。そして、思わず小さく息を呑む。
横顔のままの伊織が、肩を震わせて泣いていた。
「っ、」
固まる私を冷やかすように、上り電車が1本、轟音と共に目の前を横切る。
通り過ぎた後も踏切は開かない。暗闇にぽつりと浮かぶ赤い矢印がまだ下り電車の通過を予告していた。
“地獄踏切”と揶揄されるこの踏切は一度はまるとなかなか通れないことで有名で、その悪名はここでの立ち往生が多くの生徒の遅刻の理由になったことに起因する。
待っている間にもう一度反対向きの矢印が点灯する。
傍にある駅のホームの電光掲示板に目をやる。次の下りの発車予定時刻22時ちょうど。上りは通過待ち。2本の電車が恐らくこの踏切を同時に通り抜ける。
そして2度目の私はゆっくり悟る。電車がすれ違ったはずの瞬間から先の記憶が千切れている。
ということはきっとそれが、その瞬間が―――もう一度今日をやり直すためのタイミングだと。
気付けば駅のホームに停っていた下り電車がゆっくり滑り出す。踏切へ迫り来るその車両に、鼓動がだんだん加速する。
必要条件はわからないし、同じようにできる保証もない。上手くいくかは分からない。
だけど。
そう覚悟した時、少しだけ躊躇うように胸が震えた。気付かぬふりで何かを沈めるようにぐっと上を向く。
これ以上、泣いてる伊織を見たくない。
理由なんてそれで十分だった。
「じゃあやり直そう」
「え?」
私を見下ろす伊織の瞳を、点滅する赤くて丸いランプの残像が揺れる。
カンカン繰り返す警音の中で、私は伊織の腕を掴んで小さく笑った。
「咲良ちゃんと結ばれるまで私は伊織の応援するよ」
その直後。
目の前の電車達が風を切る音が耳を刺した瞬間を最後に、ぷつりと意識が切れた。
次に目を開けると、私は再び授業中の2年D組にいた。
窓から吹き込む少しだけ湿気った風も、夏服姿のクラスメイト達も、全部記憶通りの光景だった。
瞼の裏にはついさっきまでの光景が目に焼き付いている。
踏切の音、通り過ぎる電車―――それから伊織の頬を伝った涙。
順番に思い出して、胸がぎゅっと苦しくなる。
子供の頃から一緒にいるけど、あんな風に誰かを想って泣く伊織を見るのは初めてだった。
それだけ咲良ちゃんへの気持ちが本気だっていう証拠だと思う。
わかってる。伊織がずっと好きだったのは咲良ちゃんだ。
伊織にとって咲良ちゃんと結ばれる、それ以外の未来は全部いらない。
……そんなこと、とっくにわかってるよ。
私は何かを振り切るように首を左右に小さく振ると、残り時間1分でささっと目の前の小テストの解答用紙を全て埋めた。
「伊織、咲良ちゃんに今この場ですぐに連絡して」
3回目のこの日も悪意なく告白宣言をしてきた伊織に私は迷わず提案する。
私からの謎の催促を受けて一度ぽかんとしてから、まるで馬鹿げてるとでも言いたげに伊織は弱く肩をすくめて笑う。
「いやいや、そんなの無理。文章だってちゃんと考えなきゃだしせめて次の休み時間に」
「何悠長なこと言ってるの。あの咲良ちゃんだよ? 他の男に先越されたらどうするの」
逃げ腰の伊織の首根っこを掴む勢いで私はきっぱりそう言い返す。
「……そっか、それもそうだよな」
詰め寄る私にたじろいでいた伊織は、引かない私に渋々その場でスマホを取り出した。
何の抵抗なのかのろのろSNSアプリを立ち上げる伊織を監視しながら、私は席から立ち上がると身を乗り出す。
スマホの画面を覗き込むと、伊織が放課後に時間をもらえないかというような内容の文章を何度も打ったり消したりしているのが見えた。
放課後では遅い。それでは間に合わないと私はもう知っている。
「昼休み」
「え?」
「会う約束するのは放課後じゃなくて昼休みにして」
「やだよ非常識だろ。昼休みバタバタさせたくないし、俺も放課後の方がゆっくり心の準備できるし」
「いいからいう通りにして」
そうもだもだする伊織の代わりにスマホを奪って私がメッセージを送りたいくらいだった。焦ったくなってちらりと壁掛け時計を見上げる。急がないと休み時間が終わってしまう。
どうにか伊織を説得しないと。
心に決めて、私は伊織の顔を覗き込む。
「……私は伊織に後悔して欲しくないんだよ」
必死になってそう訴える私に、伊織は少しだけ困ったような顔をする。
だけど私の真剣さが伝わったのか、わかったよ、と小さく呟くと伊織は作りかけのメッセージの“放課後”を“昼休み”に打ち替えた。
昼休みに来てもらうには校舎裏は遠すぎる。
そんな謎の配慮の元、伊織は集合場所を2年の教室が並ぶ校舎4階端の空き教室を指定していた。
休み時間が終わるギリギリにどうにかメッセージを飛ばしたので、OKの返事が来たのは次の休み時間だった。伊織調べによると咲良ちゃんのランチはいつも自宅から持ってきたお弁当であり、C組の教室内で仲良しグループ女子数名と過ごしているらしい。
伊織は具体的な時間を決めず、お昼を食べ終えてからの流れ集合を提案した。
だけど万が一にも待たせてるわけにはいかないと、伊織は昼休みが始まるや否や購買へ駆け込むと買ってきたパンを待ち合わせ場所の空き教室で食べることにしていた。
「待ってる間不安だから一緒に飯食ってよ」
そう縋ってくる伊織に私は必死に抵抗する。
さすがに耐えれられない。何が悲しくて好きな人の告白現場に立ち会わなくてはならないのだ。
「やだよ。1人で行きなよ」
「そんな冷たいこと言うなよーー、そこをなんとか」
そんな私の私情を知らない伊織の猛追に屈して、ご飯だけ食べたら私だけ先に教室へ戻るという約束で渋々一緒に空き教室を目指すことになった。
女子力高めな咲良ちゃんはきっとゆっくりお弁当を食べて遅れてやってくる。急いでパンを食べようとする私を偏見込みでそんな風に伊織は引き止めた。
不安だからできるだけ1人になりたくない。そんな甘えた気持ちが透けて見えた。
その証拠に早々にパンを食べ終えた伊織は緊張からか露骨にその口数が少なくなる。
「……緊張する。上手く言えるかな」
そわそわ時計を見ながら、伊織は同じようなことを何度も1人で呟いていた。
その度に胸の奥に込み上げる暗い気持ちを、私は黙ったままカフェオレと一緒に何度も飲み込んだ。
あと少し。
教室に現れた咲良ちゃんに、伊織が長年の想いを打ち明ける。
ライバルを出し抜いて先制を決めることに成功した伊織の告白はきっと上手くいく。
この空き教室を出る頃には、きっと伊織と咲良ちゃんは彼氏と彼女になるのだ。
とっくに受け止めたつもりだった。
だけどいざ目の当たりにすると、その瞬間の痛みを想像して心が怯む。
これ以上は無理だ。気が狂いそうだった。
「食べ終わったから私行くね」
「ん、付き合ってくれてありがとな」
出た2人分のゴミをビニール袋にまとめると、私は座っていた椅子からさっさと立ち上がる。
緊張の面持ちのままそれを見送る伊織に、私はふうと思わず息を吐いた。
「伊織、顔固すぎ。咲良ちゃんびっくりするよ」
そっか、と素直に頷いて、伊織は自分の頬をほぐすよう両手でぶにぶにつねる。
エビデンス不明のマッサージを始めた伊織をしばらく見下ろしてから、私はふと小さく笑った。
「……大丈夫だよ、今度はきっと上手く行くから」
「え?」
どうやら聞こえなかったらしい。
私の突然の呟きに顔を上げる伊織を、なんでもない、といなして小さく肩をすくめる。
「頑張ってね」
そう言い残して空き教室から出た私は、直後その場で立ち止まる。
ちょうど同じタイミング。
教室を訪れた咲良ちゃんと鉢合わせて、私は頭が真っ白になる。
「あれ、木葉ちゃん。こんなところで何してるの?」
立ち尽くす私を見て不思議そうに首を傾げる咲良ちゃんに、何か言わなくてはと気持ちばかりが焦る。
別にもちろんやましいことなんて何もない。だけどなんとなく、ここで伊織と2人きりだったことは咲良ちゃんに知られなくなかった。
どうにか誤魔化したいのに言葉が何も出てこない。
「俺が誘ったんだ。一緒に飯食ってた」
「あそうなんだ、仲良いんだね」
そんな私の気も知らないで、背後から伊織の声が私を追い抜いて咲良ちゃんに届く。
多分それを言葉通りに受け取った咲良ちゃんがふふっと小さく笑う。
昼食に付き合わされただけの幼馴染。
気を遣い尽くして呼び出された好きな子。
伊織の中での立ち位置の差が露骨に浮き出て、なんだか消えてしまいたくなる。
「ごめん。私、行くね」
そうどうにか言い残して、そのまま私は空き教室を後にする。
咲良ちゃんは、またね、と手を振ってくれた。伊織の顔は見られなかったけど、多分伊織も私の方を見ていなかった。
きっと結果を知らせるメッセージが伊織から届いているはずだった。
だけど臆病な私は鞄にしまい込んだままのスマホを昼休みが終わるまで見ることができなかった。
伊織は昼休み終了のチャイムが鳴ってから、ギリギリ滑り込むように教室へ戻ってきた。
教室を横切って自分の席へ小走りで向かう。その姿を無意識に目で追ってしまうけど、伊織は私の視線には気付かなかった。
午後の古典の授業が始まってからも、私は窓際の伊織の後ろ姿を何度も何度も見てしまう。
背中からはその感情はわからない。だけど長年の片思いの成就に胸を躍らせていることが容易に想像できた。
聞いてくれよ木葉。
ついに俺、咲良ちゃんと。
そうご機嫌で報告してくる伊織の姿を想像しては、その度胸が暗く重たくなる。
伊織がずっと咲良ちゃんを好きだった事を私は多分誰よりも知っている。一緒に喜んであげたいと思ってるのは嘘じゃない。
だけど、本当でもない。
「―――」
自分の性格の悪さが嫌になる。
伊織の事を応援すると決めたはずなのに、聞き分けない気持ちがいつまでも燻ったまま晴れなかった。
5時間目が終わっても、何なら放課後になっても、結局伊織は私のところへ報告にはこなかった。
授業が終わるなり鞄を持ってさっさと出ていってしまう姿が見える。
咲良ちゃんと早速放課後デートの可能性もある。
だけど、なんとなく様子がおかしい。
私は伊織が出て行った後に、ようやく自分の鞄の底に沈めたはずのスマホを取り出すと急いで画面をつけた。
ホーム画面にぽこんと通知が現れる。
受信済みのメッセージ。その内容が目に飛び込んで来て、直後私はガタッと音を立てて立ち上がるとかき集めた荷物を鞄にまとめて急いで伊織を追いかけた。
『ダメだった』
スマホの画面に浮かぶ短い文は、やり直す前のそれと同じだった。
どうして?
こうなる過去を変えたくて、やり直してきたはずだったのに。
『今どこ?』とメッセージを送ろうとして私は途中でスマホを鞄に押し込む。
その時間すら惜しかった。きっとまだ追いつける。そう根拠もなく信じて駅へ向かう道をがむしゃらに走った。
夏の夕方、まだまだ陽が高い。
少し湿気った空気が喉に張り付いて息が苦しくなる。
走りながら私はすぐに通知をみなかったことを何度も後悔した。私が自分のことを守ることに必死になっている間、伊織の心はきっと1人で泣いてた。
どうしてもっと早く読んであげなかったのだろう。
ダメだった、その文字の後ろで伊織は一体どんな顔しているんだろう。
息が切れる。だけど行かなくちゃ。
懸命に走って、追いかけて、ようやく見つけた伊織の後ろ姿に向かって必死に手を伸ばす。
背後からシャツを右手で掴むと、驚いたように振り返った伊織がすっかり息の上がった私を見下ろして状況を理解したように苦笑した。
「なんだよ、やっとメッセージ読んだの?」
「……ごめん」
「別にいいよ。むしろそんな必死に走らせてごめん」
荒い呼吸を繰り返しながらシャツの左半袖で額の汗を乱暴に拭う私の姿に伊織が困ったように笑う。
私はぶんぶん首を左右に勢いよく振ると、下校中の生徒の目を避けるように掴んだままの伊織のシャツを引いて路地へ連れ込んだ。
「何があったの?」
「え?」
「伊織がふられるわけないじゃん。だって、」
過去の失敗を繰り返さぬよう、告白のタイミングを前倒しした。
失敗する理由なんてないはずだった。
だけどそれを上手く説明できず黙り込む私に、伊織が不思議そうに首を傾げる。
「だって?」
「……なんでもない。でもどうして?告白できなかったの?」
「したよちゃんと。だけど」
2人きりの暗い路地。弱く笑う伊織の瞳が悲しげに揺れた。
「伊織くんが私のこと好きなわけない、冗談でしょって笑われちゃった」
伊織の口から出たその言葉に、ドクンと鼓動が冷たく跳ねる。
なにそれ、と口からこぼれ落ちた不満が小さく震えるのに自分でも気付く。
「違うじゃん。どうしてちゃんと説明しなかったの」
「はは、なんでだろ。なんか頭真っ白になっちゃって」
眉を弱く下げる伊織は、目を伏せたまま弱く笑う。
やるせなくなって私はスマホの時計を見る。今日をやり直す前の咲良ちゃんは放課後に告白してきたクラスメイトと付き合ってしまった。
ダメだ。もう間に合わない。思わず唇を噛み締めた私に、伊織は遠い目のままぽつりと呟く。
「ずっと好きだったんだ。やっと気持ち伝えたのに信じてもらえなかったのは想定外で」
降ってきたその声に、私は握りしめたスマホからゆっくり顔を上げる。
晴れた空を背負った伊織の表情が、夏の陽に影って、なんだか消えてしまいそうに見えた。
「せっかくチャンスだったのに情けねぇ」
そう続けた寂しそうな伊織の瞳に、胸がぎゅっと痛くなる。
言葉を失って思わず黙り込んでしまう私に、帰ろう、と伊織が駅に向かって歩き出す。
どんな言葉をかけたらいいのかわからず、私はただいつもより小さく見えるその背中を無言で追いかけることしかできなかった。
家に辿り着いた私達は、そのまま寄り道をせず解散する。
部屋のベッドに制服のまま飛び込んだ私は、見慣れた天井を見上げながらさっきまでの出来事を何度も何度も振り返る。伊織の悲しそうな笑顔が頭の中から離れない。
落ち込む伊織の傍にいたい。
大丈夫だよと元気付けたい。
そしてなにより、考えようによってはこれは私にとってはチャンスだ。
このまま傍にいて傷心の伊織につけこめば、私たちの未来は変わるかもしれない。
もしかしたら、伊織が、私のことを好きになってくれるかもしれない。
そんな打算が頭の中をちらつく。
だけど本当にこんな終わりでいいの?きちんと正しく気持ちが伝わってないのに?
伊織は、そして私は、それで本当に後悔しないの?
答えのない問いをぐるぐるくる返してはああもうどうしようと頭を抱えることしかできない。
ただの幼馴染・雨宮木葉は、自分でも情けないくらい本当に無力だった。
ご飯を食べ終えて試験勉強でもしようと机に向かってみるけど全然集中できない。
伊織は今頃なにをしてるんだろう。SNSを開けば咲良ちゃんが『彼氏ができた』と報告しているかもしれない。
それを目にする伊織の気持ちを想像するだけでいてもたってもいられなくなる。
ちらりと目をやると机の上のデジタル時計の表示は21:15。
私はその文字をしばらく見つめてから、ベッドに放り出したスマホを手に取る。
お節介かもしれない。……でも。
決意じみた気持ちを胸に発信ボタンを押すと、3コール目で伊織が出た。
「もしもし伊織。正直に答えて」
「……なんだよ急に」
「もしできるなら今日をもう一度やり直したいって思う?」
唐突な私からの質問に、画面越しに伊織の戸惑いを感じる。
だけどその数秒後。何かを考えるように黙ってから、伊織がまるで絞り出すように呟いた。
「悔しい。やり直したい」
スマホの向こうで伊織の声が微かに震える。
こぼれた伊織の本音を受けて、私はもう一度時計を見る。
22時。地獄踏切前。
―――今すぐ家を出れば、まだ間に合う。
「すぐに来て。ついてきてほしいところがあるの」
私はぎゅっとスマホを握りしめて、そうきっぱりした声で告げた。
「ついてきて欲しいところって言うから何かと思ったら学校?」
電話を受けて家まで迎えに来てくれた伊織を連れて、私たちは2人で高校行きの電車へ乗り込む。
行き先を聞いて目を丸くするドア際の伊織は、直後にからかうようににやにやし出す。続く台詞を察した私は先回りでいじられを阻止する。
「言っとくけど肝試しはしないよ」
「分かってるよ。どうせおばけなんかいないとか言うんだろ」
唇を尖らせる私を薄笑いでいなして伊織はドアにもたれて窓の外を流れる景色を眺める。
向かい合って立つ私はその横顔を無意識にこっそり盗み見る。
伊織は笑っている。だけどその笑顔の裏側にある傷の存在を思うと胸がぎゅっとなる。
いつも通りに振る舞う伊織の空元気にどう声をかけていいか分からず、私はごとごと音を立てる電車の中でただ俯くことしかできなかった。
励ますような気の利いた言葉は1つもかけられぬまま時間だけが過ぎる。
口数も少なく何となく歪な雰囲気を感じつつも、どうにか私達は高校の最寄り駅へ降り立った。
ホームにある電光掲示板の時計は21時55分。
急がないと、とつい小走りになる私に、大した説明もされてないのに伊織は結局文句も言わずついてきてくれた。
改札を抜けるとすぐに目的地である踏切が見えた。
生徒のいない夜の通学路は、見慣れたはずなのに何だか知らない道みたいだった。
「なに? 踏切になんかあんの?」
運良く開いていた踏切を急いで潜り抜けて、無事に辿り着いた目的地で振り返る私に不思議そうに首を傾げた伊織が続く。
2人が線路を渡り終えたのとほぼ同時。
暗い静かな世界に前触れなく鳴り響く警音が目的の電車の到着を予告する。
私は何かを堪えるように上を向く。
ゆっくり傾き始めた遮断桿を見上げながら私は静かに唇を噛み締める。
……私じゃだめかな。
本当は私だって、ずっと伊織のことを。
言いたかった本当の気持ちをぐっと飲み込む。
“過去の今日”、この場所で悔しいと泣いていた伊織の顔が頭をちらつく。
咲良ちゃんの代わりにはなれない。
だけど、伊織の力になる方法を私は知っている。
私は目を閉じると決意を込めて深呼吸をする。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は、夏の夜の匂いがした。
「伊織、私ね過去に戻る方法を知ってるんだ」
響く踏切の音に私の少しだけ掠れた声が混ざる。
2本の電車がすれ違う一瞬前、目の前で目を丸くする伊織をまっすぐ見て、私は小さく笑った。
「何回でもやり直そう。伊織が幸せになるまで」
伊織が咲良ちゃんにたどり着けるよう未来を必ず書き換える。
たとえ私が、伊織と共にいる未来を手放すことになったとしても。
4度目の7月3日に戻った私はさっさと英語の小テストの答案用紙を埋めて終えると、伊織の告白の失敗の原因を考えていた。
本気にされなかった、と伊織は言っていた。
だとしたら本気だと伝わる告白って一体どういうものなんだろう。
伊織がどんな言葉で咲良ちゃんに想いを伝えたかはさすがに無神経すぎる気がして聞けない。
だけど気の利いたおしゃれな台詞や口説くような甘い言葉を伊織が駆使できるとは思えない。
言葉に添えられるような、何か良い手段はないのか。
考えても分からず頭を抱える私を、テストの出来が悪かったのかと隣の席のクラスメイトが心配そうにちらちら見ていた。
なんの答えも出ぬままチャイムが鳴り、安定の告白宣言をかましてくる伊織に私はずいっと詰め寄る。
「伊織、スマホ貸して。咲良ちゃんの今までの投稿見たい」
何かしらの情報が転がってるかもしれない。
そう広げた右手を差し出してしつこく催促する私に、はじめは渋っていた伊織が嫌々SNSを見せてくれた。
「間違えてもリアクションするなよ」
ひやひやしながら私の一挙一動を見守る邪魔くさい伊織を無視して最初に表示された昨晩投稿されたらしいストーリーを覗き込む。
と、同時に思わず目を丸くする。
その内容は咲良ちゃんの独り言が発信されたものではなく、誰かから寄せられた質問に彼女が答えた形式のものだった。
質問文は『理想の告白は?』
その答え『花束とか貰えたら嬉しい!寂しいことに彼氏いないけど』
2つの枠に囲われたそのやりとりを見て私は思わずスマホをがばっと覗き込む。
誤操作を恐れて悲鳴をあげた伊織に構っている余裕はなかった。
『彼氏がいなくて寂しい』そう投稿されていたと聞かされていたけど、これは明らかに解釈違いすぎる。
どこをどう読めばそうなるのかと伊織を問い詰めたいけど今はそれどころじゃない。
なんてことだ。咲良ちゃんが望む告白について、こんなに分かりやすくヒントが書かれているではないか。
「これだ!」
画面から顔を上げた私は、なにが?と首を傾げる伊織にスマホを押しつける。
「伊織、今すぐ咲良ちゃんに連絡して。昼休み、4階空き教室」
「え、え、」
「いいから早く」
この先の展開をすでに履修済みの私とは違って“1周目”の伊織は私からの煽りにただおたおたする。
それでも私の剣幕に押されて言われた通りにメッセージを送るのを見届けて私は思わず強く頷く。
よし、大丈夫。今度こそきっと上手くいく。
みなぎるそんな自信を胸に私は隣の伊織を笑顔で見上げる。
「今日の4時間目始まったらすぐに出かけるよ」
「何言ってんだよ、俺数学だけは絶対サボれない」
「大丈夫。今日はどうせ自習だから」
そう自信満々に言い返す私に、そうだっけ、と伊織は不思議そうな顔で首を傾げた。
「出かけるって、なんで花屋?」
約束の4時間目。連れてこられた駅前商店街の花屋の看板を見上げた伊織がそう間抜けたことを言いだす。
思わずその場で崩れ落ちそうになるのをどうにか堪えた私は、小さくため息をついて顔を上げる。
「咲良ちゃんの投稿見たでしょ。理想の告白は花束もらうこと」
「そういえば書いてあったかも」
「だから告白する時に伊織も花束贈るよ」
当然の私の提案に、げ、と伊織は露骨に嫌そうに顔を顰める。
「無理無理やだよそんなキザなこと」
「できなくないやるの。伊織の気持ちが冗談なんかじゃないってちゃんと分かってもらうの」
恥ずかしいからやだと続く伊織の逃げ腰構文を遮って、私は隣の伊織の瞳を真っ直ぐ見上げる。
「伊織だって咲良ちゃんが喜んでくれたら嬉しいでしょ」
迷いなくそう主張する私に、伊織の瞳が迷いでぐらつく。
しばらく何か言いたげな目のまま黙った伊織が、わかったよ、とようやく腹を括ったのをきっかけに私達は2人揃って花屋の店内へ足を踏み入れた。
店内には出来合いのブーケもあったけど、すぐに声をかけてくれた店員さんのご厚意もあって1から花束を作ってもらうことになった。
とはいえ咲良ちゃんの好みが分からない。選べないと頭を抱える伊織に店員さんがくすくす笑う。
「お相手様のイメージだけでも教えてください」
「イメージ……とにかく可愛くて、女の子らしくて、守ってあげたくなるっていう感じですかね」
そう恥ずかしそうにぶつぶつ打ち明ける伊織に、店員さんは手際よく花を選んでくれる。
プロの手で選ばれたピンクと白のお花達は、誰がどう見ても可愛くて女の子らしかった。告白と共に差し出される花束として申し分なさそうだ。
ブーケを作ってもらう間、手持ち無沙汰の私は店内に溢れる花達をなんとなく眺めていた。
普段花に触れ合う丁寧な暮らしとは縁がないけど、こうしていざ目の前にするとさすがに気分が華やぐ。
「木葉は好きな花とかあるの?」
「えー、特にないなあ。咲良ちゃんと違って女の子らしいお花とか似合わないし」
とにかく可愛くて、女の子らしくて、守ってあげたくなる。
目の当たりにしたばかりの伊織の中での咲良ちゃん像に心が沈む。つい俯いてしまう私に伊織がぷっと小さく吹き出す。
「そんな卑屈になるなよ。まあ確かに別に女子っぽくはないけど」
そう苦く笑う伊織は目の前に並んだカラフルな切り花を見渡す。
その中心で咲き誇る鮮やかな黄色―――ひまわりの花と私の顔を見比べて伊織は満足そうに頷いた。
「例えばこれとか木葉っぽい」
「……え?」
「ずっと上向いてるイメージ。あといつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ。すごいいいやつ」
「いやいや何言ってるのそんなわけない」
てっきり咲良ちゃんと比較して扱き下ろされるものだと思っていた私はその言葉を思わず全力で否定してしまう。
私の反応に少しだけ面白くなさそうな顔をしてから、これもください、と伊織はひまわりを1輪店員さんのところへ持っていく。
買ったお花を受け取った伊織はお店から出るとひまわりの花を私に差し出してくる。
「こっちは木葉にあげる。ついてきてくれたお礼」
「え、いやそんなお礼とかいいよ。私が勝手にやってるだけで」
「いいから。俺があげたいだけ」
ぐいっと強引に押し付けられて、私は結局ひまわりを受け取る。
よく晴れた空の下、私の顔を覗き込むようにこちらを見上げる大きな花と目が合う。見つめ合うよう固まる私に伊織は何故か満足そうに笑う。
「いつもありがとう。俺、木葉がいてくれて本当によかった」
少しだけ眩しそうに目を細めて笑う伊織に胸がいっぱいになる。
直前までの沈んだ心が嘘みたいに晴れて、その反動で何故か泣き出しそうになる。
ずるい。こんなの嬉しいに決まってる。
「……嬉しい。大事にする」
そう呟いた自分の声が震えた。
思わずぎゅっと目を閉じた私に、大袈裟だな、と伊織は困ったように笑った。
ばれる前に学校へ戻った私たちは4階空き教室へ買ってきた花を隠すと、急いで自習中の教室へ戻る。
授業が終わって昼休みになると、お昼ご飯を食べ終えた咲良ちゃんが前回と同じくらいの時間に待ち合わせの教室へ現れる。
私は伊織がくれたひまわりを後ろ手で隠して先に空き教室を後にする。
廊下になってひとりきり、私はひまわりをもう一度覗き込む。
いつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ。
伊織がくれた言葉と花を、思わず両手でぎゅっと抱きしめる。
私は“すごくいいやつ”なんかじゃない。
だけど、伊織の中ではせめてそうでありたい。
伊織の気持ちは今度こそ咲良ちゃんに届く。
その時はきちんと笑って、二人のことを祝福しよう。
そう心の中で改めて誓うと、私は深く息を吐いてそのままもう一度目を閉じた。
先に戻った私は今度こそ失敗しないようにと教室で笑顔で伊織を迎えるつもりだった。
だけど伊織は今回も昼休み終了のチャイムが鳴ってから、ギリギリ滑り込むように教室へ戻ってきた。
教室を横切って自分の席へ小走りで向かう伊織は私の視線には気付かない。
やり直す前と同じその光景に、なんだか悪い予感がした。
私は鞄の中に手を突っ込むと既に教壇に立っている古典の先生の目を盗むように、机の影でこっそりスマホの画面を覗く。
と、同時に、どくんと鼓動が冷たくなる。
スマホに浮かぶ―――『ダメだった』の文字に、私は思わずばっと窓際の伊織を見る。
後ろ姿からは伊織の気持ちはわからない。
だけどその気持ちを想像するだけで、胸がどうしようもなく苦しくなる。
今度はなにがダメなの。
なんで何度やってもうまくいかないの。
……どうして私はいつまでも伊織の力になれないの。
そんな風に自問して私は膝の上でスマホをぎゅっと握りしめることしかできなかった。
どう声をかけていいかわからないまま放課後になってしまい、伊織が一人でさっさと帰ろうとしてしまう。
私は急いで帰り支度をすると、教室を出ていく伊織をすぐに追いかけた。
「伊織!」
廊下で追いついて声をかけると、伊織の背中が小さく跳ねる。
聞こえていたはずなのに伊織は振り返らない。違和感を持ちつつも私は走って伊織に追いつくとその顔を覗き込んだ。
「一緒に帰ろ。私話聞くよ。どっか寄り道してもいいし」
そうへらりと笑う私は、直後に思わず固まる。
俯いたままの伊織は私の目を見ようとしない。伊織を纏うどこか拒絶するみたいな空気に気付いた、その直後。
「……ごめん。今日は一人で帰りたい」
「え?」
投げやりに吐き捨てられたその言葉に、胸がさっと冷たくなる。
何かを予感して心がすくんだ。
「ちょっと考えたいことあるから一人にしてほしい」
続いた想像しなかった伊織の言葉に、頭の中が真っ白になる。
その場で黙り込んだまま思わず固まってしまう。
何も言わない私を置き去りに、伊織はさっさと一人で歩きだしてしまう。
小さくなっていくその背中が見えなくなるで、私はその場で立ち尽くしすことしかできなかった。
家に帰ってご飯を食べてから、とてもテスト勉強する気分になれなくて私はついベッドに寝転ぶ。
机の花瓶に飾ったひまわりをぼんやり眺めながら、伊織は今頃どうしてるんだろうとそればかり考えてしまう。
何度もやり直してきた過去、いずれも『ダメだった』のメッセージの後伊織は私に本音を聞かせてくれた。
だからこそ、“一人で考えたいこと”の内容に想像がつかない。
伊織の告白が失敗したのなら、きっと今回も咲良ちゃんには彼氏ができてしまっているはずだ。
やり直させてあげたい。だけどあんな風に拒絶されてしまった以上、こちらから連絡をする勇気もなかなかできない。
そんな風にぐずぐずする私の傍で不意にスマホが震える。
長めのバイブに着信を受けていることに気付いて、私は急いで起き上がると枕元のスマホを掴んだ。
「もしもし木葉?」
聞きなれた声がして、それだけでなんだか泣きそうになる。
伊織だ。伊織の声だ。私は無意識に唇を噛みしめると、ベッドの上で正座したまま天井を見上げる。
「伊織、外にいるの?」
「うん、散歩したい気分でさっきからずっと歩いてる。あ、もしかして勉強してた?」
「ううんしてないよ」
そう力強く首を左右に振る私に、よかった、と耳元で伊織が小さく笑う。
「ちょうど今木葉の家の近くにいるんだけど出てこれない? アイスでも食おうよ」
「すぐ行く!」
伊織の言葉にベッドから飛び降りると、部屋着を脱ぎ捨てて私は急いで支度をする。
飛び出した部屋のドアを閉める直前。
デジタル時計の20:05の白い文字が、暗い部屋にぽつりと浮かぶのが見えた。
大慌てで飛び出した私を家の前で迎えてくれた伊織に笑われる。
思ったより元気そうなその姿に内心ほっとしつつ、一緒にコンビニで買ったアイスを食べながらぶらぶら散歩した。
きっと聞いてほしい話があって呼び出されたということはさすがにわかっていた。
だけどぽつぽつ中身のない会話こそするものの伊織はなかなか肝心な話をしてこない。
時間だけが過ぎてつい焦れてしまう。
もし伊織がやり直しを望むとすれば、タイムリミットがある。
「伊織、今日どうしてダメだったの?」
痺れを切らしてついに本題に入る私に、伊織が食べ終えたアイスの棒を口にくわえたまま目を丸くする。
何が?って顔を本気でする伊織に、私はもどかしさからつい眉を顰めてしまう。
「話聞いてほしくて呼んだんじゃないの?」
「いや、なんとなく木葉の顔が見たくなっただけ」
そう軽く笑う伊織にますますじれったくなる。
そんな冗談を言ってる場合じゃないのに。
「告白したんでしょ?なんでダメだったの?」
「えー。もういいよ、その話は」
「なんでよくないよ。咲良ちゃんにはなんて言われたの?」
食い下がる私に伊織がようやくその足を止める。
少し何かを考えこむようにして黙ってから、伊織が迷った末にようやく重たいその口を開いた。
「伊織くんは私のこと好きなわけないって言われて」
「なんで?花束まで渡したのに?」
やり直す前と結局同じ展開を辿ったことを知って私は思わず伊織に詰め寄ってしまう。
「何か隠してるでしょ。ちゃんと話してよ」
伊織の不自然な態度を指摘すると、嘘が下手な伊織はぎくりとその顔を強張らせる。
それから何かに迷うように目を泳がせてから、伊織は私の目を見ぬまま言いにくそうに呟いた。
「……伊織くんはずっと木葉ちゃんのことを好きだと思ってたって言われたんだ」
続いた予想もしなかった言葉に、頭をがつんと殴られる。
「え?」
悪い冗談かと思った。
だけど困った顔したまま俯く伊織はそれ以上なにも言わない。
それが理由?
まさか、私のせい?
考えるだけで足元が崩れていく。めまいがした。
「違うじゃん。なんでちゃんと言わないの」
「はは、さすがに言ったよ。でもうまく伝わらなかった」
「そんなのやだよ。ねえ今から咲良ちゃんのところ行こう。違うって今度は私も一緒に」
「いいんだって」
必死になる私を、伊織のはっきりした声が制する。
思わずぴたっと動きを止めた私を見たまま、月明かりの中で伊織が弱く笑った。
「もういいよ。咲良ちゃんのことは諦める」
そう呟く伊織の横顔に、隣の私ぎゅっと唇を噛んだ。
伊織にとって私はただの幼馴染だ。
私との仲を誤解されたせいで諦めるとか―――そんなの、絶対に許せない。
私は伊織の腕を掴むと、弾かれたようにその場を駆け出した。
「おい木葉、どこ行くんだよ」
「いいから着いてきて」
急な私の暴走に訳が分からなそうな伊織を説明なしに高校行きの電車へ押し込む。
何度も繰り返してきた22時、地獄踏切前。無事に辿り着いて思わずほっとする私に、伊織は不審顔で唇を尖らせる。
「こんなところに何の用が」
「やり直すの。今度こそちゃんと」
私の声とカンカン鳴り始めた警音が、伊織の不満を遮る。
掴んでいた腕を離して隣の伊織を見上げる。目があって、私を見つめた伊織の瞳が何かに驚いたように微かに揺れた。
「……私のせいでごめん」
初めから好きでごめん。
伊織は私を好きじゃないのにごめん。
もし私のこの気持ちが伊織の恋の邪魔になるなら―――次はもう絶対に間違えたりしない。
再び7月3日の朝に戻った私に少しも迷いはなかった。
1時間目の英語終わりの休み時間に伊織にDMするよう念を押すと、私はそのまま急いで隣のクラスの2年C組へ向かった。
自分がやるべきことは分かってるつもりだった。
「咲良ちゃん、今ちょっと時間ある?」
「あれ、木葉ちゃんどうしたの?」
勇気を持って入口付近から声をかけると、自分の席で友達と談笑する咲良ちゃんは私に気付いてドア際まできてくれる。久しぶりに間近で見る咲良ちゃんは、心が怯みそうになるほど本当に可愛かった。
「忘れ物? 何か教科書でも貸す?」
「ううん違うの、ちょっと聞いてほしい話があるんだ」
「え、なんだろ珍しいね」
そう目を丸くして笑う咲良ちゃんを廊下まで連れ出す。
クラスこそ一緒になったことは1度もないけど、私だって伊織と同じく一応咲良ちゃんの同じ中学だった。もちろんお互い認知しあっているし、その気になればこんな風に話しかけることだってできる。
なんでもっと早くこうしなかったんだろう。そう何度も自分を責めるけど、今の私には後悔より先にやるべきことがある。
「咲良ちゃん、あのね。私と伊織はただの幼馴染なの」
急に本題を切り出す私に、咲良ちゃんは小さく首を傾げる。
「? うん、知ってるよ。中学の時から仲良しだったよね」
「そう。だけど伊織にはずっと前から他に好きな人がいるの。私じゃなくて別の人」
わかりきった事実を口にした時、胸がぎゅっと痛くなる。
こっそり息を吐いて、私は用心深く顔にしっかり笑顔を貼り直す。
咲良ちゃんにも、そしてもちろん伊織にも、私の本当の気持ちには決して気付かせない。
「伊織は私のことなんか好きじゃないよ」
そう。伊織の好きな人は私じゃない。
ずっと傍にいたけどただそれだけ。初めから一度も伊織は私のことを好きにならなかった。
だからそんな悲しい誤解が2人の未来の障害になるなんて耐えられない。
私はぎゅっと拳を握りしめると咲良ちゃんの目を真っ直ぐ見る。
「本当にずっと伊織はその子のことだけが好きだったの。だからそれだけ信じてあげて欲しい」
私からの唐突なお願いに、わかった、と咲良ちゃんは不思議そうな目をして曖昧に頷いた。
不躾な呼び出しにも優しい咲良ちゃんは深く言及しないで黙ったまま話を最後まで聞いてくれる。そのお陰で私は無事に自分の使命を果たすことができた。
良かった。これでもう大丈夫。
……良かった。
まるでいい聞かせるように心の中で呟いて、まるで庇うように今でもまた痛む胸に手を当てた。
やり直して通算5度目の伊織の告白はうまくいくと確信している。
だけど当然過去の記憶がない伊織は、昼休みの空き教室で用意した花束を手に今回も緊張に震えていた。
「大丈夫だよ。絶対上手くいくから」
「なんで分かるんだよ、無責任なこと言うなよ」
そう怨みがましく私を睨む伊織に、分かるよ、と私は思わず笑ってしまう。
「伊織はとにかく咲良ちゃんが信じてくれるようにちゃんと気持ち伝えて。絶対に大丈夫だから諦めないで」
伊織が好きなのは初めからずっと咲良ちゃんだけだった。
私なんかじゃない。
叶わないとわかっていたくせに未練がましく捨てることもできなかった愚かな気持ちが伊織の望む未来の邪魔するなんて絶対に許さない。
大丈夫。絶対上手くいく。
だから同時にこれからは、伊織の一番傍にいられるのは私じゃなくなる。
だとすればこれが私にとっても最後のチャンスだ。
今を逃せばきっと二度と伝えることはできない。
一度くらい自分の気持ちを伝えてみたかった。
―――だけど。
私は伊織がくれたひまわりを手に取ると、気持ちを全部隠したまま笑った。
「頑張って。私は伊織が幸せになってほしいって本気で思ってるよ」
そう笑顔で言い残す私は、そのまま先で空き教室を後にする。
1人きりになった廊下を歩きながら、不意に泣き出しそうな自分に気付く。
だけど決して泣いたりしない。
自分が選んだこの結末が正しいと信じてる。
似合うと言って貰えた花に恥じない自分でいたい。
私は両手で抱えたひまわりの花の真似をして、何かを堪えるようにぐっと上を向いた。
先に戻った私が自分の席でぼんやりしていると、伊織が数分遅れて教室へ入ってくるのが見えた。
無意識に時計に目をやると昼休みはまだ数分残っている。教室を見渡して私の姿に気付いた伊織は自分の席へ戻らず真っ直ぐこちらへ向かってくるのが見えた。
スマホに伊織からのメッセージはない。
成功ルートは“結果”の報告をどうやら今この場で直接受けることになるらしい。
過去と違う展開に未来が変わった予感が確信へ変わっていく。私の元へなにも知らない伊織が笑顔のままやってくる。
「木葉、聞いてよ俺さ」
咲良ちゃんと付き合うことになったよ。
続くであろうセリフに、私は何かに耐えるようにこっそり膝の上で両手を握り締める。だけど。
「ダメだった。せっかく応援してくれたのにごめん」
「……え?」
続いた予想外の言葉に私は言葉を失ってしまう。
目の前の伊織は困ったように笑っている。平気そうなのか強がりなのか見た目からは判断がつかなくて、私はただ戸惑うことしかできない。
「なんで? また信じてもらえなかったの?」
「? またって何?」
「ごめんなんでもない。でもどうしてダメだったの?」
「……いや、それがちょっと自分の中でもまだ整理ついてなくて。夜、木葉の家まで行ってもいい?その時に話すから」
そう何故か少し気まずそうな伊織に、全然納得できないなりに私はどうにか頷く。
それと同時に昼休みが終わるチャイムが鳴って、午後の授業に備えて伊織はさっさと自分の席へ戻ってしまった。
初めて迎えるこの展開に残された私は自分の席で首を傾げてしまう。
だけどだんだん冷静になると、『ダメだった』と残してった伊織の言葉の重みだけが徐々に胸の中で増して行く。
どうして。今度は何がダメだったんだろう。
今すぐ問いただしたい気持ちをぐっと堪えて、私はただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。
家に別々で帰宅してからもなかなか伊織から連絡は来なくて、ようやく私のスマホが震えたのは20時を過ぎた頃だった。
散歩しようぜ、と家まで迎えにきてくれた伊織と一緒にコンビニアイスを並んで食べる。伊織が話し出してくれるのを大人しく待ちたかったけどとっくに焦れてしまった私は結局我慢できなかった。
「どうしてダメだったの? 咲良ちゃんはなんて?」
何の前置きもなくそう切り出す私に、伊織は驚いたように口の中のアイスをごくんと飲み込む。
それから居心地悪そうに目を泳がせて、たっぷり黙り込んでから渋々その口を開いた。
「……実は告白できなかったんだ」
「え!?」
想像もしなかった伊織の言葉に、私は思わず立ち止まる。
私の反応に伊織は気まずそうに俯いてしまう。どうやら本当らしい。
「なんで?緊張しちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃなくて。一応しようとはしたんだけど」
「じゃあなんで」
何度も繰り返した過去の今日の中で、伊織が告白自体をできなかったことは一度もなかった。
状況が分からずただじっと伊織の答えを待つしかできない私に、伊織は再び沈黙してから観念したように息を吐いた。
「なんか途中で自分の気持ちがよくわからなくなっちゃって」
そう力なく笑う伊織に、なにそれ、と無意識に声が震える。
きっかけは分からない。だけど伊織が気持ちを見失っている間にも無情にも時間は進んでしまう。今頃、きっと。
「どうしよう。咲良ちゃんもう彼氏できちゃってるよ」
「あれ、よく知ってるな。さっきSNSに上がってたの木葉も見たの?」
俯く私の隣で伊織が不思議そうに首を傾げる。
私は首を左右に振ると、そのはずみで私の中で何かが切れた。
「ううん、見てない。何回もやり直したから知ってるだけ」
そう続いた私の言葉に、え、と伊織が間抜けな声を上げる。
「やり直した?」
「うん。これで5回目。ごめんまた失敗しちゃった」
「なんだよ失敗って」
多分冗談だとでも受け取ったらしい伊織は、軽く笑って私に調子を合わせてくる。
顔を上げられないままの私は、真実を伝える決意をして静かに口を開いた。
「1回目の今日伊織はね、咲良ちゃんに振られてやり直したいって泣いてた。力になりたいって思ってる時にたまたまタイムリープする方法を見つけて、伊織が望むなら上手くいくまで何度でもやり直させてあげようって決めたの」
くすりともしない私に、伊織がようやく違和感に気付いたらしい。
どうやら本気で言っている。だけど鵜呑みにするには内容があまりにも嘘くさい。伊織の動揺が全て分かりやすく顔に書いてある。
「なに言って、」
「無理して信じなくてもいいよ。もしまた過去に戻ったら伊織は今の私の話も全部忘れちゃうから安心して」
思わず力なく笑ってから私は隣の伊織を見上げる。
突然の私の言葉にただ戸惑うだけの伊織を、私はぶれずに見上げると静かに笑った。
「伊織は咲良ちゃんのことがちゃんと好きだよ。だからこんな風に終わったら絶対後悔する」
微笑んでみせる私に伊織の瞳が微かに揺れる。
だけど私には迷いはなかった。
咲良ちゃんのことが好きな伊織をずっと傍で見てきた。
後悔なんて絶対にさせない。
私が泣いて終わる未来より、伊織が泣いて終わる未来の方が、許せない。
「大丈夫。上手くいくまで私がついてる。もう一回だけやり直そう」
そうもう一度静かに笑う私は、伊織の腕を引く。
タイムリープのことを初めて打ち明けられた伊織は、その話を信じたのかどうかはよく分からない。だけど黙ってついてきてくれた伊織と一緒に私は無事に地獄踏切前に辿り着いた。
時刻は21時55分。
間に合ったことに安堵する私の隣で、ずっと黙っていた伊織がようやくその口を開く。
「木葉はさ、なんで俺のためにここまでしてくれるの?」
ぽつりと呟く伊織の声が、束の間の静寂した夜の空に溶ける。
振り返ると同時に、何度も聞いたカンカンという踏切の音が周囲に響き渡る。ゆっくり降りてくる遮断桿を一度見上げてから、私は伊織の目を真っ直ぐに見た。
「好きだから」
「え?」
辺りは電車の到着を告げる警音で満ちている。
私の声は伊織には届かなかったかもしれない。だけどもうどっちでも良かった。
「伊織のことが本当はずっと好きだった。だから泣いてる伊織を見たくなかった。幸せになって欲しかった。自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった」
恋する伊織を誰よりも近くでずっと見てきた。
他の女の子を真っ直ぐ見つめる横顔に
―――いつかこっちを見ないかな、こっそりそんな風に祈ることさえ出来なかった。
伊織の思い描く未来に私の姿は無い。
伊織にとって必要ない私のこの気持ちは、伝えないまま消すと決めた。
私では伊織を幸せにできない。
ならばせめて、他の誰かと幸せになる助けになりたかった。
静かに微笑む私に伊織は息を呑んだきりなにも言わない。
ただ黙って私を見下ろす伊織の向こう、迫り来る電車が遠くに見える。タイムリミットだ。
「伊織が私のことを好きじゃないことはわかってる。困らせるから言うつもりもなかった」
「っ、でも」
「大丈夫。言ったでしょ?今日をやり直すと伊織はどうせ全部忘れちゃうから」
どちらにしても伊織は全て忘れてしまう。
だったら、私も一度だけ、隠したはずの本当の気持ちを打ち明けてみたかった。
伊織には他に好きな子がいる。
だから私のこの気持ちは隠したまま消し去ると決めていた。
だけど。ずっと。
本当は、私。
「大好きだよ、伊織。今度こそ一番好きな子と幸せになってね」
そう呟いたのを最後に、堪えきれずに涙が溢れた。
目の前の伊織が何故か泣き出しそうな顔をしたのを最後に、私の記憶はぷつりと途絶えた。
はっと意識を取り戻すと、2年D組の教室にいた。
1時間目の英語の授業中。黒板の文字、目の前の小テスト、全てに見覚えがあった。
自分が何故ここにいるのか、初めは理解できなかった。おかしい。一瞬前まで確かに夜の地獄踏切にいたはずだったのにと窓際の席で混乱する。
タイムリープする方法を見つけた。
耳の奥で地獄踏切前の―――木葉のセリフが頭を過ぎて俺は思わずはっとする。
疑っているわけではなかった。だけど信じたわけでもなかった。だってこんなのあまりにも非現実的すぎる。それでも何度考え直してもこの状況、木葉の言う通りだった。
蒸すような暑さと動揺からか身体がじわりと汗ばむ。
俺は微かに震える手を口元に当てて少しでも落ち着こうと深く息を吸った。
さっきの木葉の話によれば、時間を逆戻りできたのは木葉自身だけだったはずだ。
今回どうして俺が戻ってくることができたのかはよく分からなかったけど、とにかく状況を確かめようと俺は授業が終わるなり立ち上がって木葉の席へと向かった。
「咲良ちゃんに今すぐDMして会う約束して。放課後じゃ遅いから昼休み、場所はどこでもいいけど校舎裏が嫌なら4階の空き教室で。絶対に言う通りにしてね」
試しに咲良ちゃんへの告白宣言をする俺に、木葉は記憶の中のシナリオ通りにそう言い残してさっさと教室を出ていってしまう。
やり直しの前、夜に投稿された咲良ちゃんの彼氏ができた報告ポストをふと思い出す。
放課後じゃ遅い。他の男に取られてしまう。きっと過去の失敗を元に木葉は俺に教えてくれていたらしい。
なにそれお人好しすぎるだろ。放っておいたら俺の告白は勝手に失敗に終わるはずなのに。
つい首を傾げつつ指示に従ってメッセージを送った俺の元へ木葉が戻ってきたのは次の授業が始まる直前だった。
「4時間目の数学は自習だから抜けてお花を買いに行くよ」
時間がないからかそう雑な説明だけして木葉は自分の席に戻っていく。
木葉が過去に5度今日をやり直しているのが本当だとしても、俺には前回の今日の記憶しかない。だけど木葉のセリフ、振る舞い、全てが俺の記憶と同じだった。
木葉は今回のタイムリープの自覚がない?
自分の中で生まれたその仮説の真意はわからないけど、そう考えるのがすごく自然だった。
だとしたら俺に木葉が何度も今日をやり直していることを打ち明けたことも。そしてなにより。
伊織のことがずっと好きだった。
踏切前での木葉のあの“告白”も、記憶を持っているのはきっと俺だけという事になる。
木葉が全て忘れている。だとしたらこっちもいつも通りに振る舞わなくては。そう心に決めて俺は1人小さく頷いた。
約束の4時間目、訪れた花屋で前回同様おまかせ花束の完成を待つ間、俺は今回も迷わず木葉にひまわりの花を選んだ。
「いつも笑顔で周りも一緒に元気にするって感じ」
選んだ理由をそう説明しても木葉は納得が行かなそうな顔をしている。
本心で言ったのに信じてもらえなかったことが面白くなくて、俺は結局買ったひまわりを押し付けるように木葉に渡した。
選んだ花を女の子に贈るなんてキザなこと、絶対にしたくないって思ってた。
だけどそれ以上に、俺の言葉を信じようとしない木葉に、伝えた気持ちが本心だってちゃんと分かって欲しかった。
本人に自覚があるかは分からないけど、木葉は時々不意にぎゅっと上を向く癖があるのを俺は知っていた。
太陽を見上げる少しだけ凛々しい横顔と、ぱっと咲いたような笑顔が本当にひまわりの花みたいだって思ったんだ。
できれば喜ばせたかったのに、花を受け取った木葉は何故か泣き出しそうに顔を歪めた。
「……嬉しい。大事にする」
そう声を震わせる木葉に、胸がぎゅっと切なくなる。
好きだよ、と踏切前で笑った木葉の顔が頭をちらつく。目の前で大事そうにひまわりを抱きしめる木葉を見てるとなんだかすごく堪らない気持ちになった。
ついに訪れた昼休み。
前回同様緊張で落ち着かない俺に、絶対に上手く行くから大丈夫だと笑った。
「頑張って。私は伊織が幸せになってほしいって本気で思ってるよ」
そう笑って空き教室を出て行く木葉にどうしようもなく胸が掴まれる。
踏切前で泣いていた木葉の姿がさっきから頭を離れない。
去り際木葉は笑っていた。
だけど笑顔の裏側で一体どんな気持ちだったんだろう?
今どこかで1人きり、一体どんな気持ちでいるんだろう?
考え出すとじっとしてられなくて、咄嗟に追いかけてしまいたくなる。
だけど代わりに入ってきた咲良ちゃんに気付いて、俺は慌ててその場で踏みとどまる。
「伊織くん、お待たせ。話ってなに?」
目の前で首を傾げる咲良ちゃんに伝えたい気持ちは決まっているはずだった。
こんなところへわざわざ呼び出された時点で、多分咲良ちゃんも俺の用件を察していたと思う。
だけど言葉が何も出てこない。
頭の中、どうしようもないくらい、木葉でいっぱいだった。
思わず黙り込んでしまう俺をよそに、花束に気付いたらしい咲良ちゃんがぱっと嬉しそうに笑う。
「わ、綺麗なお花!くれるの?」
「あ、うんよかったら」
「嬉しい、ありがとう!もしかして昨日のストーリー見てわざわざ用意してくれたの?」
両手で受け取ってくれた花束を見て微笑む咲良ちゃんに、俺は何も言えなくなる。
選んでくれたのは花屋さんだ。俺は恥ずかしさを言い訳に結局花を1つも選べなかった。馬鹿正直に黙る俺に、ふふ、と何かを含んで咲良ちゃんが笑った。
「でも意外だな。私ずっと伊織くんは木葉ちゃんのことが好きなんだと思ってた」
その言葉に咄嗟に顔を上げる。
今もまだ花束を見つめる咲良ちゃんに狼狽える俺は首を左右に振った。
「違うよ。木葉はただの幼馴染で」
「うん、知ってる。木葉ちゃんがさっき休み時間にわざわざ言いにきてくれたから」
「え?」
涼しく笑う咲良ちゃんに、俺は言葉を失う。
思わず固まってしまう俺を見て、咲良ちゃんは笑顔のままで静かに続けた。
「伊織が好きなのは私じゃない。伊織にはずっと他に好きな子がいたからそれだけは信じてあげてほしいって」
がん、と頭を殴られたような衝撃が走る。
あまりの痛さに呆然とする俺の頭に、絶対に今すぐメッセージをしろと言い残して去った木葉の姿が蘇る。
あの時どこに行ったのかと疑問だった。
だけどまさか、咲良ちゃんに会いに行っていたなんて。
伊織が好きなのは私じゃない。
そんな悲しい言葉、木葉は咲良ちゃんに一体どんな気持ちで?
俺の前ではいつも笑顔の木葉と、最後に泣いていた踏切前の木葉。
頭の中で何度も混ざって、想像するだけで胸がぐちゃぐちゃになる。
「―――」
黙り込んでしまう俺を見ていた咲良ちゃんが、何かに思い至ったようにふと顔を上げる。
「伊織くんはさ、私のこと好きなわけないと思うよ」
「……いや、俺は」
「じゃあ私のどこが好き? このお花だってきっと伊織くんが選んだんじゃないよね」
何かを見通すような咲良ちゃんの目に、ぎくりと胸が冷たくなる。
再び黙ってしまう俺を見て、小さく肩をすくめた咲良ちゃんが手の中の花を見つめて続けた。
「私ね、似合うお花を選んであげられるって、その子のことが大事な証拠だと思うんだ」
実際、俺は咲良ちゃんのことをよく知らない。
どんな性格で、どんなものが好きで、どんな時どんな風に笑うのか全然分からない。
もっと言うなら花には別に興味がないし、色や形の違いなんてよく分からない。
だけどあれは、ひまわりの花は。
あの花だけは本当に―――木葉の笑った顔によく似合うってそう思ったんだ。
自分の中で何かにたどり着いた気がして、思わず息を呑む。
それから急激に気まずくなって、俺はその場で俯くことしかできなくなる。
「咲良ちゃん、ごめん、俺」
「ううん大丈夫。あ、せっかくだからこのお花はもらってもいい?」
お花好きなの、とにっこり微笑む咲良ちゃんになんだか救われた気持ちになって俺は深く頭を下げた。
決して答えが出たわけじゃないし、頭の中は酷く散らかったままだった。
少し頭を冷やしたくて、告白の結果報告もそこそこに夜会いに行く約束だけして俺は1人になる。
家に帰って部屋の中で目を閉じても、何故か木葉のことばかり考えてしまった。
木葉はいつも傍にいてくれた。
俺の一番の味方でいてくれた。
いつでも笑顔で周りを、いや俺を、一緒に元気にしてくれていた。
だけどその裏側で、俺に隠れていつも自分の気持ちを犠牲にしていたとしたら?
1人で泣いていたとしたら?
想像するだけでいてもたってもいられなくなる。
木葉はばかだ。なんで言わないんだよ。
いつも傍にいたはずなのに、隣でこっそり傷つくなよ。
考えがまとまったわけじゃない。
だけどどうしようもなく木葉に会いたくなって、俺は結局その気持ちだけを携えて自分の部屋を飛び出した。
こちらの事情を知らない木葉は、告白をできなかったと聞いた途端やり直そうと俺の腕を引く。必要ないと説得したいのに木葉は聞く耳を持たない。
まるで自分のことみたいに必死になるその姿に胸が掴まれて苦しくなくなる。
結局木葉に連れられ目的の駅へ到着してから、降り立ったホームで俺はふと立ち止まる。
上り線、通過待ち。電光掲示板にはすでに目的の電車の到着時刻が表示されていた。
「大丈夫。上手くいくまで私がついてる」
やり直す度にきっと傷付いてたくせに、木葉は俺の前で全部隠してそう笑った。
「……なんで?」
「え?」
「木葉はなんで俺のためにここまでしてくれるの?」
微かに震えた俺の声が、風の音だけが鳴るホームに溶けて消える。
1回でも十分なのに、5回も繰り返したの?
すごいよ。普通できないよ。
自分の気持ちより俺なんかの気持ちを大事にしないでよ。
木葉は俯く俺に少しだけ目を丸くして、それから迷いなく微笑んだ。
「好きだから」
澄んだ瞳で笑う木葉に、俺の方が泣き出しそうになる。
思わず黙り込む俺に、木葉はぐっと1度空を見上げて、それから笑顔のまま穏やかな声で続ける。
「伊織のことが本当はずっと好きだった。伊織に幸せになって欲しかった」
何かを堪えて弱く揺れる瞳に気付く。
同時に、胸が痛くてどうしようもなかった。
ふと上を見上げて、それから笑う木葉を今まで何度も見てきた。
だけどそれは癖なんかじゃない。
きっと自分の気持ちを隠した木葉は、そうやって何度も零れてしまいそうな涙を堪えてくれてた。
傷付けてごめん。
気付かなくてごめん。
心の中、何度もそう繰り返す。
「自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった」
そう笑った木葉の肩が微かに震えていた。
傷を隠して笑う木葉の優しさに、儚さに、胸の奥から温かい気持ちがぶわぶわ迫り上がってくる。
なんだろう。愛しいな。
初めて味わう感情に俺は唇を噛み締めた。
不意に目の前の強くて弱い小さな女の子を、抱きしめたくてたまらなくなる。
自分が悲しいより伊織が悲しい方がずっとずっと耐えられなかった。
俺だってだよ。
俺だって木葉が悲しい方が嫌だよ。
もし木葉が傷つかずに済むなら、全部やり直してでも来るはずだった未来を書き換えたいよ。
多分まだ、恋とはとても呼べない。
急に気持ちが変わったり、何かはっきりした答えがあるわけじゃない。だけど。
これって、今胸の中にあるこの気持ちって―――これからも木葉の傍にいる理由にならないですか。
俯いたまま立ち尽くす俺に、目の前の木葉はホームの時計を見上げて焦れたように俺の腕を掴む。
「伊織、早くしないと時間が」
「もういいよ」
迫るタイムリミットに慌てる木葉に、俺は小さく首を振る。
後悔だらけだった。
タイムループして今日を繰り返すだけじゃ全然足りない。
本当は最初から何もかもやり直したかった。それができないならせめて―――未来だけは一緒に。
カンカンと乾いた踏切の音が鳴り始めるのが聞こえる。
でも、と諦めようとしない木葉の手をそっと振り払って、俺はその目を真っ直ぐ見つめる。
「もうやり直しは必要ない。今の自分にとって誰が一番大事か分かった気がするから」
そう笑う俺を追い抜いて、目的の電車が風を切って駆けていく。
電車が通過したあとの2人きりのホーム。遠くでは地獄踏切の警音が今もまだ鳴り続けていた。
カンカン無機質な音が夜の空に無情に響いている。
その音を遠くに聞きながら、私は去っていく電車をただ呆然と見送ることしかできなかった。
「……どうして」
うわ言みたいに呟きながら、間に合わなかったことに絶望と困惑が胸の中でぐちゃぐちゃ混ざる。
タイムリープに失敗してしまった。
伊織にやり直しのチャンスをあげる方法はもうない。
ただその事実だけが大きくのしかかって、私は伊織の顔を見ることが出来なかった。
「伊織、ごめん」
そう続けた瞬間、堪えきれなくて両目から涙が溢れる。泣き出す私を黙って見ていた伊織が、不意に私の腕をゆっくり掴む。
はっとして顔を上げる。
涙で揺らいだ世界の中で、伊織が真っ直ぐに私を見ていた。
「木葉、俺」
初めて見る伊織の表情に、まるで何かを予感したように心が揺れる。
何度でも諦めなかった。
その先で君は誰にたどり着いた?
7月3日、22時1分。きっとこれから、まだ知らない私達の新しい未来が始まる。

