これは、今から二十年以上前の話だ。
 あの頃、夜の街にはまだ平成の色が濃く残っていた。ネオンはくすんだ桃色や紫をぼんやりと揺らめかせ、湿ったアスファルトの上で霞のように滲んでいた。街灯の下には、酔いどれた大人たちが肩を寄せ合いながら笑い声を響かせ、時折、ガラス瓶が転がる音が混じる。タクシーのクラクション、遠ざかるパトカーのサイレン、路地裏で響く喧嘩の怒号。
 煙草の匂いは、風に乗ってどこからともなく漂ってきた。フィルター越しの甘い香りもあれば、紙巻きの強烈な刺激臭もあった。それらが入り混じるこの街では、吐き出された煙さえも夜の一部だった。
 耳を澄ませば、どこかのバーから安っぽいシンセサイザーの音が漏れ聞こえる。一定のリズムを刻むドラムマシンの音と、やたらと派手な電子音が、夜の空気を不規則に震わせていた。
 そんな時代だった。
 十五歳の僕は、当然のようにその世界に紛れ込んでいた。
 今ほど法律も厳しくなく、大人たちの目も緩やかだった時代。だからこそ、僕は年齢を偽ることなく、堂々とクラブの扉を押し開けることができた。
 そこは、いわゆるキャバクラやスナックのような、お姉さんたちが密に接客する場所ではなかった。代わりに、重低音のビートが体の芯を揺さぶり、誰もが思い思いのリズムで身体を預ける空間だった。
 音楽が支配する場所。
 その世界に足を踏み入れた瞬間、外の空気とは全く異なる温度を感じた。クラブの内部は、ほんの少し湿り気を帯びた熱気に包まれていた。誰かの汗の匂いと、ミント系の香水の香り、微かに混じるアルコールの甘い蒸気。そこには、大人と子供の境界線など存在しなかった。
 手続きは簡単だった。
 入り口の受付で金を払い、手の甲に黒いスタンプを押される。それだけで、この夜の通行手形が手に入る。スタンプのインクがまだ湿っているのを感じながら、僕はそのまま奥へと歩を進めた。
 バーカウンターの奥には、色とりどりのボトルがずらりと並んでいる。青や緑、琥珀色に輝く液体が、薄暗い照明の中でほのかに光を反射していた。グラスがぶつかる音、カクテルをシェイクするリズミカルな振動。
 照明がゆっくりと回転し、壁に映る光の模様が刻一刻と形を変えていく。
 受付でもらった入場特典のドリンクチケットを手に、僕はバーテンダーの前に立つ。
「何にする?」
 カウンターの向こうから、無造作に投げかけられた言葉。
 選択肢は二つ。
 ノンアルコールか、アルコールか。
――そんなの、決まっていた。
 僕は迷わず、後者を選んだ。
 バーテンダーは一瞬、僕の顔をじっと見た。だが、それ以上の詮索はせず、手慣れた動作でボトルの口を傾ける。透明なグラスに注がれる琥珀色の液体。氷が軽く跳ね、グラスの内側で小さく鳴る音。
 僕はそっとグラスを手に取り、唇をつけた。
 苦い。
 けれど、それ以上に舌に広がる熱が心地よかった。喉を滑り落ちる感覚。胃の奥へと染み込んでいく感覚。
 じわりと、体の芯が温まる。
 これが、大人の味か。
 まだ幼い舌には早すぎる味なのは分かっていた。だけど、僕はその苦さを知ることに、どこか誇らしさを感じていた。
 十五歳の僕は、何も知らなかったくせに、大人の世界を知ったつもりになっていた。
 グラスを持ったまま、ふとフロアを見渡す。
 音楽に身を委ねて踊る人々の群れ。その中に、自分の居場所を探すように、僕は静かに歩を進めた。
 その夜の記憶は、今も鮮明に焼き付いている。
――そんな夜に、彼女は現れた。
 その姿を最初に目にした瞬間、心の奥底が微かに揺れた。まるで水面に投げ込まれた小石のように、静かに、けれど確実に波紋が広がっていく。
 知っている。
 そう思った。だが、どこで会ったのか、そもそも本当に会ったことがあるのか、その確信までは持てなかった。ただ、一度視界に捉えたら、どうしても目を離すことができなかった。
 彼女は、フロアの中心にいた。
 回転するミラーボールの光を浴びながら、宙に散らばる無数の粒の中で踊っていた。派手な装飾もなければ、露出の多い服を着ているわけでもない。それなのに、異様なほど目を引いた。
 周囲の人々は、ただ音楽に身を委ねるように踊っている。彼女もまた、その波の中にいるはずなのに、まるで違う場所に立っているかのようだった。
 その動きは、まるで風を纏うようにしなやかだった。手の先、足の先、全ての動作が流れるように滑らかで、なおかつ一つ一つの所作が確固たる意志を持っているように見えた。踏み込む足には迷いがなく、振り上げる腕は、音の波を切り裂くように鮮やかだった。
 そして何より、彼女の周囲だけ、まるで時間の流れが違っているような感覚があった。重力すら彼女には作用していないのではないかと錯覚するほど、軽やかに、けれど確かにこの空間を支配していた。
 僕は、気づけば彼女の方へと足を向けていた。
 まるで、引き寄せられるように。
 人混みを縫うように歩きながら、鼓動の高鳴りを感じていた。けれど、それは不安や緊張といったものではなかった。ただ、妙に落ち着かない感覚。心の奥に残る、何かを思い出しそうな感触――。
 どこかで、この光景を知っている。
 そう思った。
 そして、彼女が僕に気づいた。
 真正面から、まっすぐに。
 まるで僕がここへ来ることを知っていたかのような視線だった。偶然目が合ったのではなく、最初から僕がそこに立つことが決まっていたかのように。
 胸の奥が、不思議なほど静かにざわめいた。
 彼女は踊る動きを止めずに、ゆっくりと僕の方へ近づいてきた。
 光の粒が舞う中で、彼女が微笑む。
「……君、未成年でしょ?」
 耳元で囁かれるような声だった。決して責めるような口調ではなく、むしろどこか懐かしさを孕んだ優しい響きだった。
 僕は言葉を返せなかった。ただ、目の前の少女の表情をじっと見つめることしかできなかった。
――知っている。
 どこかで、この笑顔を知っている。
 けれど、記憶の糸をたぐり寄せようとするほど、意識の奥へと沈んでいってしまう。
 彼女は僕の反応を楽しむように、小さく笑った。
 その夜、僕は彼女と出会った。
 そして彼女は、僕に猛烈な記憶だけを刻み込み、忽然と姿を消した――。

 有名アミューズメントパークほど健全ではない。かといって、完全に無法地帯というわけでもない。
 このクラブは、そんな微妙なバランスの上に成り立っていた。
 扉を開けた瞬間、外界とは異質な空気が全身を包み込んだ。湿った熱気、入り乱れる音、汗とアルコールの匂い。暗闇を切り裂くように、赤と青のライトが交互に明滅し、黒光りするフロアに反射する。その光の粒が踊るたび、無数の影が揺らぎ、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。
 壁際のバーカウンターでは、グラスを傾ける大人たちが、くぐもった笑い声を響かせていた。静かなはずのその空間すら、まるで音楽の一部であるかのように、不規則なリズムで満たされている。シャンパングラスが触れ合う音、バーテンダーが氷を転がす音、誰かが低く囁く声。すべてが溶け合い、混ざり合い、そしてまた闇に飲み込まれていく。
 密集した人いきれの中を歩くたび、異なる香りが鼻をかすめた。甘く濃厚な香水、ほのかに漂う煙草の匂い、どこかでこぼれた酒のアルコール臭。それらが混ざり合いながら、時間と共に少しずつ発酵していくようだった。
 スピーカーからは、容赦のない重低音が響いている。規則的なビートが鼓膜を打ち、身体の奥にまで侵入してくる。心臓の鼓動と同調し、内側からも外側からも、絶え間なく世界を揺らし続ける。
 ここは、僕にとって唯一の逃げ場だった。
 夢のような空間。けれど、それは決して本物の夢ではない。あくまで、そう思わせてくれるだけのまやかしの時間。現実の枠組みをほんの少し歪ませ、苦しさを一瞬だけ忘れさせてくれる仮初めの楽園。
 それでも、僕にはこの場所が必要だった。
 つまらない日常に押しつぶされそうな僕にとって、ここにいる時間だけが、自分を保つための拠り所だった。音楽の波に身を委ね、ただリズムを刻むことで、頭の中を空っぽにできる。誰とも目を合わせず、名前も知らない人々の波に紛れ、静かに、けれど確かに自分の存在を滲ませる。
 流れている音楽の曲名も、アーティスト名も、僕にはわからない。それでも、選曲のセンスは悪くない。いや、むしろいい。
 胸の奥に響くビートが、何かを埋めてくれるような気がしていた。
 何を、とはわからない。
 ただ、ずっと欠けたままだった何かが、今だけは満たされている気がした。
 だけど、それは一時的な麻酔でしかない。
 朝になれば、現実は容赦なく戻ってくる。学校、家、無機質な教室の白い壁、味のしない食卓、寝るためだけの狭い部屋。誰にも期待されず、何者にもなれず、ただ時間だけが過ぎていく毎日。今日が昨日と違う証拠は何もないし、明日もきっと同じように終わる。
 だからこそ、僕はこの陳腐な非日常にすがるしかなかった。
 ここにいる間だけは、頭の中が空っぽになる。流れる音に身を任せ、ただリズムを刻み、汗と煙草と香水の入り混じった空気を吸い込む。そうすれば、何もかもどうでもよくなれる。学校のことも、家のことも、僕という存在がこの世界にとって無意味であるという事実も。
 だけど——。
「おい少年、君は未成年だろ! こんなところで何してるんだ?」
 突然、鋭い声が飛んできた。
 僕は反射的に踊るのをやめ、声のした方を振り返った。
 フロアの中心で光の粒とともに踊っていたはずの女性が、いつの間にかフロアテーブルの椅子に腰掛けていた。
 薄暗い空間の中でも、彼女の存在は妙にくっきりと浮かび上がって見えた。赤と青のライトが交互に彼女の肌を照らし、揺れる影がまるで幻のように彼女の輪郭を縁取っている。
 年齢は……おそらく僕より二つか三つ上。二十歳には届いていないだろうが、十代特有の幼さはもう抜けている。大人びた雰囲気があるのに、どこか無防備な空気をまとっていた。
 彼女の肩にかかったミディアム丈のワンピースは、少し気だるげに肩が落ちている。布地は滑らかで、柔らかい光を受けてほのかに輝いていた。手には、半分ほど残ったカクテルグラス。淡いオレンジ色の液体が、カウンターのライトに照らされてゆらゆらと揺れている。
 頬はほんのりと上気し、目元にはわずかに赤みが差していた。
 彼女は、わかりやすいほどに酔っていた。
 けれど、その視線だけは酔いに霞むことなく、まっすぐ僕を射抜いていた。
 無視するべきだった。
 こんな出会いに意味はない。どうせ、今夜限りのものだ。彼女の言葉に応じたところで、何かが変わるわけでもない。むしろ、関わらないほうがいいに決まっている。
 それなのに——。
 その声に、僕はなぜか足を止めてしまった。
 どうしてだろう。
 彼女の声は、まるで僕の存在を見透かしているようだった。
 ここにいることを責めるでもなく、かといって同情するでもなく。ただ、僕という存在を見つけて、そこに向かって言葉を投げかけただけ。なのに、それだけで胸の奥がざわめいた。
 彼女の瞳の奥にあるものは何だろう。
 嘲笑か、興味か、それとも——。
 僕は、自分でも理解できないまま、彼女の前へと歩みを進めていた。
「俺よりは年上っぽいけど、あんたも未成年に見えるけど?」
 静かに問いかけると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。ほんの一瞬、動きが止まる。そして、すぐにニヤリと笑う。その表情には、どこか挑発的な色が混じっていた。
「おっ! 御名答。私もまだ十八だから未成年だな」
 そう言いながら、彼女は手元のグラスを軽く傾ける。淡いオレンジ色の液体が、グラスの内側をなめらかに伝い、ゆっくりと波打つ。照明の加減で、その揺らめきが妙に艶めかしく見えた。
 彼女は迷いのない動作で、それを一口飲む。
 その仕草は、妙に堂に入っていた。
 まるで長年飲み慣れているかのように、余裕のある手つき。しかし、それは本当に「慣れ」なのか? それとも——。
 アルコールに慣れているのではなく、そう演じることに慣れているだけなのではないか?
 そんな疑問が、ふと脳裏をかすめた。
 成人年齢が二十歳からと法律で定められていた当時、この年頃の三歳差はそれなりに大きな意味を持っていた。十代のうちは、ひとつ歳が違うだけで見える世界が変わる。中学生と高校生では、まるで別の生き物のように扱われることすらある。
 けれど、僕たちは未成年という同じカテゴリに属していた。
 そして、それだけでなく、条例や法律を平然と破りながら深夜徘徊と飲酒を繰り返す、ある種の同志でもあった。
 どこか似た者同士。
 それが、ほんの一瞬の会話の中で生まれた、奇妙な連帯感だった。
「それにしても……なんでそんなに酔っ払ってるんだよ?」
 彼女を見つめながら、ふと問いかける。
 彼女の頬は、ほんのりと紅潮していた。
 照明の光が、彼女の白い肌の上でかすかに揺れる。薄暗いクラブの中で、その赤みが余計に際立って見えた。まるで熱を持っているかのような頬。目元には、けだるげな光が宿っている。視線は定まらず、どこかぼんやりとしているのに、時折妙に鋭く僕を射抜く。
 息をするたびに、甘く揺らめくアルコールの香りが漂ってくる。
 微かに混じる柑橘系の香り。それがカクテル由来のものなのか、それとも彼女自身の香水なのかはわからなかった。
 彼女はふっと息を吐いた。
 ゆるく脚を組み直し、グラスを指先で転がすように弄ぶ。その仕草ひとつひとつが、どこか緩慢で、無防備で、そして——危うい。
 少し間を置いて、彼女は口を開いた。
「さあ? なんでだろうね」
 軽く笑いながら、彼女はグラスの中の液体をじっと見つめる。
 その横顔には、酔いのせいだけではない、別の何かが滲んでいた。
——この人は、なぜここにいるんだろう?
 その問いが、僕の胸の奥に静かに沈んでいった。
「ワンドリンクの酔い方じゃねーな」
 冗談めかして言うと、彼女はクスッと笑った。
 その笑いは、どこか掴みどころがなかった。ほんの一瞬だけ、楽しそうな色が浮かんだかと思えば、次の瞬間には何か別の感情に塗り替えられていく。
 指先でカクテルグラスの縁をなぞる。その細い指が、ゆっくりとガラスの表面をなでるたびに、微かな音が立った。まるで、かすかな音楽のように。
「ワンドリンクなんかで止まるほど、私は健全ではないのだよ」
 冗談めかした口調だった。しかし、その瞳の奥には、どこか虚無的な光が宿っていた。
 たった今、僕の目の前で微笑んでいるこの女性は、果たして本当にここに存在しているのだろうか——。
 そんな錯覚を覚えるほどに、その笑みは儚かった。
 別に彼女に興味を抱いたわけではない。ただ、立ちっぱなしも疲れるし、ここにいても邪魔にはならなそうだった。だから、彼女が座るテーブルの向かいの椅子に、何気なく腰を下ろした。
 すると、彼女はまるで子供のように嬉しそうに目を細めた。
 そして、グラスを軽く掲げてみせる。その仕草は、さながら祝杯のようだった。
「おっ! 可愛いお姉さんとお喋りしに来たのか?」
 そう言って、彼女は悪戯っぽくウインクする。
 僕は思わず肩をすくめた。
「自分で可愛いとか言っちゃうんだ?」
 思わず笑いがこぼれる。
 彼女は軽く口を尖らせながらも、肩をすくめてみせた。
「誰も言ってくれないから、自分で言うしかないだろう?」
 その言葉に嘘はないのかもしれない。
 彼女は、ごく自然な動作でグラスを口元に運ぶ。琥珀色の液体が、グラスの縁を滑るように傾き、わずかに彼女の唇を濡らす。
 仕草ひとつひとつが妙にこなれていて、僕はなんとなく笑いをこらえられなくなった。
「何それ? めっちゃ面白いじゃん!」
 その瞬間、彼女の表情がふっと変わった。
 少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ほんの一瞬だけ視線を外す。
 まるで、何かを誤魔化すかのように。
 しかし、すぐにまたいつもの調子を取り戻すと、彼女は再び僕を見た。
 この人は、一体どんな人間なんだろう?
 その疑問が、さざ波のように僕の胸の奥に広がっていった。
彼女は今まで見てきたどの女の子とも違っていた。
 言葉にするのは難しい。だが、僕の中の何かが確かにそう感じていた。
 髪型や服装が特別奇抜なわけではない。話し方だって、どこか軽やかで、飄々としている。なのに、その笑顔の奥には、得体の知れない寂しさがちらついていた。
 まるで風に漂う煙のように、掴みどころがない。
 時折、楽しげな口調の合間に、ほんの一瞬だけ影が差す。それが気のせいではないと確信するたび、僕はますます彼女に惹きつけられていくのを感じた。
 この人は、一体何を抱えているんだろう?
 僕の視線の先で、彼女はグラスの縁を指でなぞりながら、じっとこちらを観察していた。まるで、僕の反応を確かめるかのように。その瞳は、ただの気まぐれとも思えないほど真剣だった。
 そして次の瞬間——
 彼女がふいに身を乗り出してきた。
 思わず息をのむ。
 テーブルを挟んでいたはずの距離が、一気に縮まる。
 アルコールの香りを帯びた甘い吐息が、頬をかすめた。わずかに湿ったその息遣いが、肌の温度をほんの少しだけ奪っていく。
 彼女は真っ直ぐに僕を見つめていた。
 こんなに誰かの視線を独占したのは、生まれて初めてかもしれない。
 彼女の瞳は、不思議な色をしていた。琥珀色の光がゆらゆらと揺れている。酔いのせいなのか、それとも——
 じっと見つめられていると、まるで心の奥まで覗かれているような気がした。
 胸の奥がざわつく。
 このままでは、何かを見透かされてしまいそうだった。
 耐えきれずに視線を逸らそうとした、その瞬間——
 彼女がニッと笑った。
「あの……何?」
 彼女の視線があまりに真っ直ぐすぎて、思わずそう問いかけてしまった。
 その瞬間、彼女の瞳がさらに輝きを増し、唇が楽しげに弧を描く。
 まるで、待ってましたとでも言わんばかりの反応だった。
 彼女は肩を軽くすくめ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いやいや、ごめん。君って、百点満点の笑顔を持ってるんだね! 正直、驚いた」
「……何それ? 百点満点の笑顔って」
 僕は苦笑しながら問い返したが、彼女の表情は意外なほど真剣だった。
 冗談半分の言葉だと思ったのに、彼女は本気でそう思っているようだった。
「人ってさ、私も含めてだけど、色んなものを作ってしまうんだよね」
 彼女はグラスを指先でくるくると回しながら、独り言のように言葉を紡いだ。
 その声はどこか遠くを見つめるような響きを持っていて、フロアの喧騒から切り離された静寂が、僕たちの間にだけ広がるような錯覚を覚えた。
「言葉も、態度も、笑顔も——きっと生まれたばかりの頃は、みんなが持ってたものなのに、年を重ねるごとに失ってしまうんだよね。でも、君は失ってない。だから驚いた」
 彼女の指先がグラスの縁をなぞるたび、淡いオレンジ色の液体が静かに揺れる。
 その仕草が、まるで過ぎ去った何かを惜しむかのようで——
 僕はなんとなく、彼女の言いたいことが分かるような、分からないような、不思議な感覚に陥った。
 彼女が語る「失うもの」について、僕は考える。
 笑顔。
 そんなもの、僕は無意識に浮かべているだけで、特別なものだとは思っていなかった。
 でも——彼女にとっては、そうじゃないのかもしれない。
 過去に何かがあって、彼女はそれを「作る」ことしかできなくなってしまったのかもしれない。
「……何か褒めてくれてるっぽいから、ありがとうなんだけど」
 照れくさくなって、ついそう言ってしまう。
 僕は手元のグラスを軽く傾けた。氷がカラン、と涼しげな音を立てる。
 それに紛れるように、静かに息をついた。
「でも、正直よく分からないな。俺は、あんたが面白かったから笑っただけだよ」
 それが僕の率直な気持ちだった。
 彼女の言う「作られた笑顔」とか「失うもの」とか、そういうことはよく分からないけれど、少なくとも今の僕は、ただ純粋に、彼女が面白かったから笑った。
 ただ、それだけのことだった。
 その言葉を聞いた瞬間——
 彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
 長いまつ毛がかすかに揺れる。
 何かを言いかけたようにも見えたが、その言葉は結局、形にはならなかった。
 代わりに——
 次の瞬間、彼女は破顔した。
 楽しそうに、心の底から。
 作られたものではない、純粋な笑顔で。
 僕は、その顔を見た瞬間、ふと気づく。
 もしかすると、彼女自身が——
 ずっと、本物の笑顔を探していたのかもしれない、と。
「……ははっ、そっか!」
 彼女は笑顔のままそう言った。
 先ほどまでの気怠げな雰囲気とは打って変わって、まるで無邪気な子供のような笑顔だった。
 その変化に、僕は少し戸惑う。
 けれど、不思議と目を逸らすことができなかった。
 彼女は楽しそうにグラスを揺らし、オレンジ色の液体が小さく波打つのを眺めていた。
 カクテルの表面が微かに光を反射し、彼女の横顔を照らす。
 その横顔は、さっきまでの虚無を孕んだ眼差しとは違い、まるで長い夢から覚めたばかりのようだった。
 だが——
 その笑顔の奥には、まだ何かが隠れているような気がしてならない。
「葵!」
 突然、彼女が言葉を放った。
 その声は、まるで夜の静寂を切り裂くように響いた。
「えっ?」
 思わず聞き返してしまう。
「私の名前!」
 彼女は自分の胸を指さし、誇らしげに笑った。
 その仕草はどこか子供っぽく、それでいて妙に堂々としている。
「君の名前は?」
「えっと……陽だけど……」
 突然の問いかけに、少し間を置いて答える。
 すると、彼女は勢いよくテーブルを叩いた。
 カラン、とグラスの氷が揺れる音が店内に響く。
「よしっ! じゃあ陽って呼ぶね!」
 彼女——葵は、僕を見つめてにっこりと笑った。
 その笑顔は、どこか危うい。
 けれど、それでいて抗いがたい魅力を持っていた。
 彼女のペースに、僕はいつの間にか飲み込まれていた。
 会話の主導権は、常に彼女が握っていた。
 言葉の端々には独特のリズムがあり、予測できないテンポで話が展開していく。
 気がつけば、店内に鳴り響く音楽よりも、彼女の放つ音——言葉や、時折漏れる笑い声に耳を傾けていた。
 グラスの中の氷がゆっくりと溶けていく。
 夜が深まるにつれ、店内の照明はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 赤、青、紫——不規則に変化する照明の光が、葵の横顔を照らす。
 その表情は、笑顔のままなのに、なぜか儚く見えた。
 ほんの少しでも触れたら、指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうな——そんな気がした。
「私のことも葵って呼んで!」
 葵は嬉しそうに笑う。
 まるで、それが何よりも大事なことかのように。
「……呼べたらね」
 その瞬間、彼女の瞳が微かに揺れたように見えた。
 ほんの一瞬だけ——
 それは、誰にも気づかれたくない感情が滲んだような、そんな表情だった。
 でも、すぐに彼女はまた笑顔を浮かべる。
 まるで何事もなかったかのように。
——これが、彼女との最初の出会いだった。

 以来、僕は何度もクラブで彼女と会った。
 特に約束を交わしたわけでもない。
 それなのに、そこへ行けば彼女がいる。
 まるで決められた運命のように、あるいは同じ夢を何度も見るように——僕たちは毎回、当然のように同じ場所で顔を合わせた。
 不思議なものだった。
 彼女と会うことが目的ではないはずなのに、気がつけば店の入り口をくぐる前から、僕は彼女の姿を探している。
 そして、カウンターの奥、フロアテーブルの片隅に彼女を見つけた瞬間、安堵するのだ。
 胸の奥に張り詰めていた、正体の分からない緊張がゆるむ。
 理由なんて分からなかった。ただ、そこに彼女がいることで、僕の中の何かが整う気がした。
 その日も、僕たちはいつものように腰掛けていた。
 テーブルの上で、僕の指がグラスの縁をなぞる。
 氷がゆっくりと溶け、カランと音を立てるたびに、心のどこかが現実に引き戻される。
 周囲では、酔っ払いたちが熱気に浮かされて騒ぎ、フロアの中央では男女がリズムに合わせて身体を揺らしている。
 カラフルなライトが回り、まるで夜の海の波のように、揺れ、流れ、溶け合っていた。
 人々の笑い声、音楽の重低音、氷がぶつかる微かな音——それらが入り混じる喧騒の中で、僕たちはいつもどおりの距離感でグラスを傾けていた。
 時折、酔いに任せて絡んでくる客もいたが、彼女は慣れた手つきで軽くいなす。
 まるで、それが当たり前のことかのように。
 彼女の指先がグラスの縁をなぞる。
 ふいに、彼女がぽつりと呟いた。
「何かさ……」
 カラリ、と氷が揺れる。
 細い指が、ゆっくりとグラスの側面を滑る。
 彼女はグラスの縁を唇に押し当てながら、視線を遠くに向けたまま言った。
「夏って、物悲しい気持ちになるよね?」
 唐突な言葉だった。
 不意を突かれて、僕は彼女を見つめる。
 その横顔は、どこか遠くを見つめるような、夢の中にいるような表情をしていた。
 瞳の奥には、琥珀色の光が揺れている。
 酔いのせいなのか、それとも何か別の理由なのか——
 僕はしばらく、彼女が見つめる先を追ってみた。
 けれど、彼女の視線の先には、ただ光と影が交差するだけの夜の風景が広がっているだけだった。
 あの目は、一体どこを見ているんだろう。
 僕には分からなかった。
 けれど、胸の奥に微かな疼きを感じた。
 まるで、その言葉が自分にも向けられているような気がして——
 僕はグラスを軽く傾け、冷えた液体を喉に流し込む。
 夏の夜の空気は、どこか生温く、少しだけ切なかった。
「それ、どちらかといえば冬に使われる言葉じゃない?」
 僕はグラスを傾けながら、少し笑うように言った。
 彼女は「うーん」と唇を尖らせ、考え込むような素振りを見せる。
 その仕草が妙に可愛らしく見えて、僕は思わず目を細めた。
 カウンターの向こうでは、バーテンダーが手際よくボトルを振っている。氷とガラスが触れ合う乾いた音が、低く響くジャズのリズムと混ざり合う。
 アルコールの匂いに、微かに柑橘の香りが交じる。甘く、けれど少し刺激的な空気が、夏の夜の熱気とともに広がっていた。
 彼女の指先が、グラスの縁をなぞる。
「だけど、私は……何か、夏の方が悲しくなるな」
 言葉とともに、彼女の視線が僅かに落ちる。
 細く、しなやかな指が、ゆっくりとガラスの表面を滑る。その動きは、まるで何かを確かめるようにも見えた。
「何で悲しいの?」
 僕が問いかけると、彼女はグラスの中の琥珀色の液体を見つめたまま、しばらく沈黙した。
「……悲しいっていうより、寂しいって感じかな」
 その声には、どこか遠くを眺めるような響きがあった。
 店の外から、ふっと小さな破裂音が聞こえた。
 それは夏の夜を彩る花火の音だった。
 遠くの海辺か河原で、夜空に弾ける光の輪。きっと、誰かが歓声を上げているのだろう。
 瞬間、僕の頭の中にも、過去の夏の記憶がよぎる。
 蒸し暑い夜、浴衣の袖が触れ合う距離で並んだ少女の笑顔。線香花火の火玉がぽとりと落ちる瞬間の寂しさ。
 夏の記憶は、いつも鮮やかで、それでいて儚かった。
「夏ってさ、みんなが開放的になって、活気に溢れてるじゃん?」
 彼女はそう言うと、指でリズムを刻むようにテーブルを軽く叩く。
 軽やかな音が、小さく響く。
「でもね、そんな風にみんなが楽しそうにしているほど、私は何だか取り残された気がするんだよね」
 その言葉は、不思議な余韻を持っていた。
 酔いのせいだけじゃない。そこには、彼女の中に長く根を張っている何かがある気がした。
 僕は彼女を見つめる。
 カラフルなライトが回る中で、彼女の横顔はどこか寂しげで、けれど、ひどく美しかった。
 彼女の瞳には、揺れる光が映っていた。
「……何か、分かる気がする」
 僕は小さく息を吐きながら、そう答えた。
 僕自身も、どこかで感じていた感覚。
 夏の夜の熱気の中に紛れる、形のない孤独。
 賑やかな場所にいるほど感じる、説明のつかない寂しさ。
 彼女は、そんなものを抱えながら生きているんだろうか。
 それとも、今この瞬間だけ、ふと心の奥を覗かせただけなのか。
 どちらにせよ——僕は、その言葉を忘れられない気がした。
 彼女の言葉は、まるで心の奥深くをそっと突かれたような感覚を残した。
 人と騒ぐほど、逆に孤独を感じることがある。
 誰かと肩を並べているのに、自分だけがまるで透明になってしまったような、そんな気分になる夜がある。
 クラブの喧騒は相変わらずだった。周囲では、酔いの回った男女が笑い声を上げ、グラスを打ち鳴らす音が響いていた。重低音のリズムに合わせて、ダンスフロアの人々が揺れている。
 そんな熱気の渦の中で、僕はふと、自分だけが別の時間に取り残されているような錯覚に陥った。
――彼女も、きっと同じなのだろう。
 僕は手の中のグラスをゆっくり回しながら、目の前の彼女を改めて見つめた。
 細長い指がグラスの縁をなぞっている。アルコールに濡れた氷がゆっくりと溶け、琥珀色の液体がグラスの内側を伝う。
 彼女の笑顔は、どこか儚げで、どこまでも掴みどころがなかった。
 長い睫毛の下で、夜の照明が揺れる瞳。
 テーブルに置かれた彼女の指先が、時折リズムを取るように小さく動く。
 まるで何かを確かめるような、あるいは、そのリズムの中に自分を閉じ込めようとするかのような仕草だった。
 それでも、僕はこの時間が心地よかった。
 言葉にならない感覚が、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいく。
「おっ! 陽も分かってくれるのか。気が合うねえ」
 彼女がふいにグラスを片手に微笑む。
 その笑顔は明るいのに、どこか影を落としているように見えた。
 カラフルな照明が彼女の横顔を照らし、淡い光の揺らめきが彼女の瞳の奥に映る。
 刹那、光が射し込んだ水面のように、彼女の目が微かに揺れた気がした。
 何かを隠しているのか。
 あるいは、ただ酔いのせいで気のせいだったのかもしれない。
 僕は返す言葉を探したが、何を言えばいいのか分からなかった。
 だから、ただグラスの中の氷をかき混ぜるだけだった。
 カラカラと乾いた音が響く。
 そんな僕を見つめながら、彼女はふいに微笑んだまま身を乗り出してきた。
 少しだけ、僕との距離が縮まる。
 彼女の瞳が、すぐそこにあった。
 僕は息をのんだ。
 喧騒の中で、僕たちの間だけが妙に静かに思えた。
 夜の光が、彼女の唇の端をかすかに照らしていた。
 距離が、一気に縮まった。
 ほんの数センチ。
 彼女の顔が近づきすぎて、長いまつ毛が微かに揺れるのが見えた。
 息がかかるほどの距離。
 酒の甘ったるい香りと、彼女の香水の匂いが入り混じり、ふわりと鼻腔を刺激する。
 濃厚で、どこか妖艶な香り。
 心地よいとは言えないのに、不思議と離れがたくなるような香りだった。
 クラブの喧騒が遠のいていく。
 周囲の騒ぎ声や音楽が、まるで水の向こう側にあるように感じられた。
 今、この空間にいるのは、僕と彼女だけのような錯覚に陥る。
――酔っているのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもよかった。
 彼女の唇が微かに動いた。
「陽」
 僕の名前を呼ぶ声が、妙に耳に残る。
 鼓膜をくすぐるような、柔らかい響き。
「君が今まで見たもので、一番綺麗なものって何?」
 唐突な問いに、思わず息を飲む。
 彼女はただ僕を見つめていた。
 夜の照明が、彼女の横顔に淡い影を落とす。
「……急にどうしたの?」
 彼女はグラスを軽く揺らしながら、視線を落とした。
 グラスの中の氷が、カラカラと小さな音を立てる。
「なんか、綺麗なものが見たい気持ちになった」
「綺麗なもの、か……」
 僕はグラスを指でなぞりながら考える。
 綺麗なものなんて、すぐには思い浮かばない。
 夜空の星?
 夕焼け?
 あるいは、子供の頃に見た景色――
 ふと、脳裏に焼き付いている光景が浮かんだ。
「あっ、それなら熊野の花火かな」
「花火?」
 彼女が首を傾げる。
「うん。母方のおばあちゃんが尾鷲に住んでるんだ。子どもの頃、何度か夏に遊びに行ってさ。そのとき見た熊野の花火が、たぶん今までで一番綺麗だったと思う」
 目を閉じれば、今でも思い出せる。
 夜空いっぱいに広がる鮮やかな光。
 炸裂音が、鼓膜を震わせる。
 腹の底まで響く轟音。
 それなのに、不思議と心は静かだった。
 目の前に広がる景色に、ただただ圧倒されていた。
 波打ち際に映る花火の残像。
 揺れる水面に、儚く消えていく光。
 あのときの僕は、ただ無邪気に美しさに心を奪われていた。
 言葉もなく、じっと空を見上げることしかできなかった。
――あんなにも心を揺さぶられた光景は、後にも先にもない。
 気づけば、僕はずっとグラスを握ったままだった。
 琥珀色の液体が揺れ、氷がカランと小さな音を立てる。
 対面の彼女は、じっと僕の話に耳を傾けていた。
 そして、ふいに小さく微笑んだ。
「子どもの頃って……陽、今も子どもじゃん!」
 唐突に放たれた言葉に、僕は思わず顔をしかめた。
 くすくすと笑う彼女の声が、店内の音楽に溶けていく。
 柔らかく、けれどどこか悪戯っぽい響き。
 彼女の目は、どこか楽しげに細められていた。
 まるで、小さな秘密を見つけた子どものように。
――ちくしょう。
 無性に恥ずかしくなった僕は、グラスを置き、少し乱暴に次の言葉を紡いだ。
「うるせーな! もっと小さかった頃ってことだよ!」
 言いながら、我ながら子どもっぽい言い訳だと思った。
 けれど、それを認めるのも悔しくて、グラスを指で無意味になぞる。
 彼女は僕のそんな様子を見て、さらにクスクスと笑った。
 グラスを軽く傾けると、透き通った氷がカランと鳴る。
「ごめんごめん。分かってるよ」
 口ではそう言いながらも、彼女の瞳は好奇心に満ちていた。
 完全に楽しんでいる顔。
 僕の話の続きを、心待ちにしているような表情。
――逃げ場はない。
 僕は小さく息を吐き、仕方なくグラスを持ち上げた。
 氷がぶつかる音が、静かに夜の空気に溶けていった。
「……何歳ぐらいの時に見たの?」
 彼女がそう尋ねた瞬間、僕の頭の中に、幼い頃の記憶がぼんやりと浮かんだ。
 潮の香りが混じる、湿った夏の風。
 浴衣の裾を引っ張ってはしゃぐ子どもたちの笑い声。
 屋台の甘い綿菓子の匂い。
 そして――
 夜空を焦がすほどの、大輪の花火。
 深い闇に、赤や青、黄金の閃光が咲いては散る。
 炸裂するたび、胸に響く轟音。
 海の上に映る、色とりどりの光の残像が、波に揺れて儚く滲む。
 その美しさに、僕は息を呑んだ。
 まるで、世界そのものが光に包まれたような感覚だった。
 小さな体で、大きな空を見上げ、ただただその景色に圧倒されていた。
――あれは、まるで夢のようだった。
 目の前のグラスに浮かぶ氷をぼんやりと見つめながら、僕は記憶を手繰るように口を開いた。
「親が言うには、生まれてすぐと、三歳くらいのときにも行ったらしいんだけど……その頃の記憶はなくてさ」
 彼女は静かに頷きながら、グラスの縁に指を滑らせる。
 カラン、と小さな音が響いた。
「俺の中で初めて見たのは、小一か小二の夏だったと思う」
 彼女はグラスを持つ指先で、テーブルを軽くトントンと叩いた。
 そのリズムは、どこか遠い記憶の中の花火の音に似ていた。
 夜空に弾ける閃光の残響。
 彼女もまた、音の中に思い出を探しているのだろうか。
「なるほど!」
 彼女は小さく頷き、いたずらっぽく笑った。
「幼き日の陽少年は、いたく感動したと?」
 その言い回しに、僕は思わず肩をすくめる。
「うん、そんな感じ」
 素直に認めると、彼女は満足げに微笑んだ。
 グラスを揺らし、氷が淡く音を立てる。
 店内の空気はゆるやかに流れ、静かな音楽が遠く響いていた。
「……あれは、本当に綺麗だったんだよ」
 自分でも驚くほど素直な言葉が、口をついて出た。
 その瞬間――
 彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
 まるで夜空に咲いた花火のように。
 きらめく光を宿した瞳で、僕をじっと見つめる。
「また見に行きたいな……」
 そう呟いた僕の声が、グラスの向こうで微かに揺れた。
「行っちゃう?」
 唐突に飛び出した言葉に、僕は思わず目を瞬かせた。
「えっ?」
 彼女は身を乗り出し、グラスを軽く揺らしながら微笑んだ。
 唇の端が楽しげに弧を描き、いたずらを仕掛ける子どものような輝きが、彼女の瞳の奥でゆらめく。
「私と一緒に見に行っちゃう? 熊野の花火!」
 無邪気な誘いだった。
 それでいて、どこか挑発的にも思えた。
 彼女の長い髪がさらりと揺れ、微かに甘い香りが鼻をかすめる。
 ジャスミンのような、どこか夜に似合う香り。
 僕は一瞬、言葉を失った。
「えっ? でも、どうやって?」
 戸惑いながら問い返すと、彼女は肩をすくめ、当然のように答えた。
「そんなの電車で行けばいいでしょ? 熊野って確か三重県のめっちゃ南の方だよね?」
 そのあまりに単純な答えに、僕は言葉を詰まらせた。
 そうだ。電車があるじゃないか。
 僕は子どもの頃、親の車でしか熊野に行ったことがなかった。
 だから、そこへ行く手段なんて、まともに考えたことすらなかった。
「……あっ、そっか。電車か」
「逆に何があるのよ?」
 彼女は不思議そうに首をかしげる。
 それから、ふっと何かを思い出したように、僕をまっすぐ見つめた。
「私、十八だけど免許持ってないし、陽にいたっては……」
 言葉を途中で区切り、一拍の間。
 彼女は、あっけらかんとした口調で言い放った。
「中学生じゃん!」
 その一言が、なぜか胸の奥に引っかかった。
 確かに、僕はまだ十五だ。
 彼女とは三歳の年齢差がある。
 だけど、それをあえて強調するような彼女の言い方が、妙に気に障った。
 まるで、自分は大人で、僕はまだ子ども――そんな線を引かれたような気がした。
「高校生も中学生も、同じ子どもじゃん!」
 思わず語気を強めてしまった。
 店内には柔らかなBGMが流れ、まばらに響く客たちの話し声が混ざり合っている。
 僕の声は、その雑音の波にすぐに紛れてしまった。
 でも、僕の中では、意外なほど強く響いていた。
 彼女の言葉に、なぜこんなに反応してしまうのか、自分でもよく分からなかった。
 ただ、心の奥に小さく沈殿していた何かが、静かにかき乱されるような感覚があった。
 彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
 そして、すぐに目を細めて微笑む。
「あっ、もしかして怒った? ごめんごめん」
 けれど、その口調はまるで悪びれていない。
 まるで、小さな子どもをあやすみたいな言い方だった。
 その余裕のある態度が、さらに僕を苛立たせる。
 彼女にとって、僕はやっぱり「子ども」なのか。
 それともただの気まぐれで、からかっているだけなのか。
 僕が何か言い返そうとしたその時、彼女はすっと身を乗り出した。
「ねっ、一緒に電車で熊野行こ?」
 柔らかな声だった。
 けれど、その声音には、どこか抗えない力があった。
 彼女はテーブルに肘をつきながら、じっと僕の顔を覗き込んでくる。
 距離が近い。
 彼女の髪から微かに甘い香りがした。
 僕は、返事をしなかった。
 けれど、彼女の言葉を拒む気にもなれなかった。
――いや、本当は、拒めなかったのかもしれない。
 普通なら、こういう誘いには慎重になるべきなんだろう。
 最近出会ったばかりの年上の女の子と、遠出なんて。
 ましてや、熊野の花火大会は夜に開催される。
 終わったあと、どうやって帰るのか、泊まりの予定を考えるべきなのか、そういう現実的な問題もあるはずだった。
 でも、不思議と迷いはなかった。
 理屈ではなく、直感的に分かってしまったのだ。
 彼女の笑顔の奥に、何か別のものが隠れていることを。
 それは、ほんの一瞬だけ見えた。
 儚さ。
 不安定な光。
 打ち上げられた花火が、消える直前に見せる最後の輝きのような、そんな光が。

 八月十七日、花火大会当日の朝。
 列車は静かに揺れながら、都市の喧騒を後ろへと遠ざけていく。
 車窓の外に広がる景色は、先程までビルがポツポツと立ち並んでいたかと思えば、今では田園風景へと移り変わっていた。稲穂がわずかに風にそよぎ、陽の光を反射して黄金色の波のように揺れる。
 その奥には、青々とした山並みが連なっている。空はまだ朝焼けの名残を残し、淡い橙色が地平線を染めていた。
 僕たちは、そんな風景を横目に、熊野市へと向かっていた。
 車内には人影もまばらで、聞こえてくるのは時折響くアナウンスと、レールの上を進む車輪の軋む音だけ。
 車窓から差し込む朝の光が、薄く肌を照らす。
 夏の湿った空気が、微かに汗ばんだ肌にまとわりつき、Tシャツの裾が少しだけ背中に貼り付くのが気になった。
 始発の鈍行列車は、単調なリズムを刻みながら進む。
 僕は、窓の外をぼんやりと眺めたまま、ゆっくりと深呼吸をする。
 熊野の花火大会――僕の記憶の中では、何度か訪れたはずなのに、思い出そうとするとどうにも輪郭が曖昧だった。
 光が弾ける瞬間の鮮烈な色彩も、夜空を彩る大輪の美しさも、きっと幼い頃に見たはずなのに、今では夢の中の出来事のようにぼやけている。
 ただひとつ、確かに覚えていることがあった。
――朝早く行かないと、良い場所を確保できない。
 その記憶だけは、不思議と鮮明に残っていた。
 だから僕たちは、夜が明けきる前の始発列車に乗ったのだった。
 彼女との待ち合わせは、驚くほどスムーズだった。
 僕と彼女の家は少し離れていたが、最寄り駅が同じ沿線で一駅違いということもあり、乗るべき電車を決めておけば簡単に合流できた。
 最寄り駅のホームに降り立った時、まだ空には薄暗さが残っていた。
 駅の蛍光灯が白く足元を照らし、夏の朝独特の静けさが漂っている。
 改札を抜けて、待ち合わせの場所へ向かう。
 そして――
 彼女を見つけた瞬間、思わず足が止まった。
 普段の彼女と、今朝の彼女はまるで別人だった。
 クラブで会うときの彼女は、夜の世界に溶け込むような存在だった。
 濃いめのアイメイクに、唇は艶やかな赤。肌にはほのかにラメが光り、纏う香水は甘く、どこか挑発的な匂いを放っていた。手に持つグラスには琥珀色の酒が揺れ、足を組む仕草ひとつすら洗練されていて、大人びた雰囲気を纏っていた。
 フロアの照明がゆっくりと色を変え、流れる音楽が彼女の仕草にリズムを刻む。男たちの視線を惹きつけながらも、どこか退屈そうな顔で、彼女はカウンターに寄りかかっていた。
 それが、僕の知る夜の葵だった。
 けれど、今朝の彼女は――
 シンプルな白のTシャツに、デニムのショートパンツというラフな服装。足元は軽やかなサンダルで、アクセサリーもほとんどつけていない。髪は無造作にひとつに束ねられ、化粧も薄い。
 その姿には、夜の妖艶さも、酔いに滲んだ気怠さもなかった。
 まるで別人のように見えた。
 いや、それどころか――
 本来の彼女が、今ここにいるような気がした。
 化粧や香水のベールを脱ぎ捨て、夜の街の喧騒から離れたその姿は、朝の光に溶け込んでいた。
 ほんのりと日焼けした肌が、健康的な輝きを放っている。
 僕はそんな彼女を見つめながら、不思議な違和感と新鮮さを覚えた。
――この葵を知っているのは、きっと、今この瞬間の僕だけなのかもしれない。
 電車がホームに滑り込むと、僕たちは無言のまま乗り込んだ。
 車内はまだ朝の空気を含んでいて、涼しさが残っていた。
 吊り革が揺れる音、車輪の軋む低い音、時折聞こえるアナウンス。
 僕がふと窓の外に目を向けると、彼女が急に僕の前に立ちはだかった。
 そして、落ち着きなく車内を見回しながら、妙にハイテンションではしゃぎ始めた。
「ねぇねぇ、なんかさ、冒険の旅に出てるみたいじゃない?」
 朝の光を浴びた彼女の顔は、信じられないほど無邪気だった。
 目を輝かせて、少しだけ頬を紅潮させながら、まるで遠足に出かける小学生みたいに楽しそうだった。
 彼女のそんな姿を見て、僕は思わず目を細める。
 クラブのカウンターで気だるげに微笑んでいた彼女とは、まるで別人だった。
「……それ、私だけ?」
 少し不安げに僕の顔を覗き込む彼女の瞳には、純粋な好奇心が揺れていた。
 僕は苦笑しながら肩をすくめる。
「いや、俺も楽しいよ。ただ……葵が全身で表現しすぎなんだよ」
 冗談めかして言うと、彼女はふっと目を見開いた。
 そして――
 妙に嬉しそうに、僕の顔を覗き込むように近づいてきた。
「……ふぅん」
 わずかに上気した頬、いたずらっぽく光る瞳。
 彼女は少しだけ唇を噛みしめ、まるで何かを確かめるように僕の表情を覗き込む。
 その距離の近さに、思わず喉が鳴った。
 僕はごまかすように窓の外へと視線を向ける。
――彼女は、いったいどれが"本当の顔"なんだろう。
 夜の葵と、朝の葵。
 どちらが仮面で、どちらが素顔なのか。
 それとも、どちらも彼女で、どちらも嘘なのか。
 電車はゆっくりと動き出す。
 その瞬間、彼女は軽やかに笑った。
 まるで、何か面白いことを思いついたかのように。
 電車の揺れに合わせるように、ゆっくりと僕との距離が縮まっていく。
 窓の外を流れる田園風景は、朝日を受けて淡く輝いていた。水田には空の青が映り込み、風にそよぐ稲の葉が、まるで波のように揺れている。
 彼女の髪がふわりと揺れ、微かにシャンプーの香りが鼻をかすめた。
 クラブで会うときの彼女とは違う、ほんのりと甘い、だけど清潔感のある香り。
 いつもなら、濃厚な香水と混じったアルコールの匂いが彼女の存在を強く主張するはずなのに、今の彼女は驚くほど素のままだった。
 それがなんだか不思議で、少しだけ戸惑いを覚える。
 夜の葵は、どこか遠い存在だった。
 カウンターで微笑みながら、男たちの視線を受け流し、時には退屈そうにグラスを傾ける。酔いが回ると、気だるげな声で僕に話しかけ、けれどその瞳の奥はいつも醒めていた。
 そんな彼女と、今ここにいる彼女が、どうしても結びつかなかった。
 まるで、違う世界に住む別の人間みたいに。
「……何?」
 彼女が突然、僕の顔を覗き込んできた。
 思わず肩をすくめて、一歩引く。
 だが、彼女は構わずさらに顔を近づける。
 その瞳は、どこか期待に満ちていた。
「名前!」
「ん? 名前?」
「今、めっちゃ自然に「葵」って呼んでくれた。何か嬉しい」
 彼女はにっこりと笑った。
 その笑顔が、まるで夏の朝日に溶け込むように眩しくて、僕は思わず目をそらした。
 言われてみれば、確かにそうだ。
 これまで、彼女のことを直接名前で呼ぶことはほとんどなかった気がする。
 どこか距離を置いていたというか、あえて呼ばないことで、自分の中の線引きを守っていたのかもしれない。
 彼女は僕にとって、夜の知り合いだった。
 クラブで偶然出会い、何度か言葉を交わし、気づけば顔見知りになった。でも、それ以上でもそれ以下でもなく、決して踏み込むことはなかった。
 けれど――
 今日は自然に呼んでしまった。
 そのことに気づいた途端、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
 彼女は、そんな僕の心境の変化に気づいたのかもしれない。
「ふふっ、ちょっと照れてる?」
「……別に」
 ごまかすように窓の外へ視線を向ける。
 車窓には、朝日を浴びた川面がきらきらと光っていた。
 ゆったりと流れる景色と、静かな車内。
 そして、すぐそばにいる、まるで別人のような彼女。
 この夏の日の始まりが、なんとなく特別なものになるような気がして――
 僕は話題を変えようとした。
「今日は、酒の匂いを漂わせてないんだな」
 電車の微かな振動が足元に伝わる中、ふと漏らした僕の言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。
「……あのさぁ」
 彼女は呆れたように肩をすくめると、少し頬を膨らませた。
「私のこと、アル中女だと思ってる?」
 その言い方がどこか拗ねたようで、思わず笑いそうになる。
「いや、そういうわけじゃ……」
「ちゃんとTPOぐらい弁えますから! 花火大会の前から酔っ払ってたら、せっかくの景色が台無しになるでしょ?」
 腕を組んで得意げに言う彼女の表情には、どこか誇らしげな色があった。
 確かに、彼女の言うとおりだ。
 熊野の花火大会は、一年に一度の特別な日。あの広い夜空に大輪の花が咲く瞬間を、酔いに霞んだ視界で見るなんてもったいない。
 僕はそんな彼女を見つめながら、ふっと口元を緩めた。
「意外としっかりしてるんだなって、感心してたんだよ」
「……あっ、そういうことか」
 一瞬、彼女の表情がきょとんとした後、ふわっと優しい笑顔が広がる。
 その仕草が、なんだか妙に幼く見えて、胸の奥がくすぐったくなる。
「陽ってさ、言葉足らずって言われない?」
「……恥ずかしながら、めっちゃ言われる」
 正直に答えると、彼女は突然、楽しそうに笑い出した。
「アハハ、やっぱり! でもいいよ、私だけ分かってあげるから」
 無邪気にそう言った彼女の声は、まるで夏の風みたいに軽やかで、心地よく耳に響いた。
 だけど——
「私だけ分かってあげる」
 その言葉が、思っていたよりもずっと深く、僕の胸に染み込んでくる。
 何気ない一言のはずなのに、どうしてだろう。
 これまで、僕の周りにいた人たちは、僕の欠点を指摘し、矯正しようとする者ばかりだった。
 言葉足らずなところがあるなら、もっとちゃんと説明しろと怒られたし、他人に誤解を与えるなら直すべきだと指導された。
 小さな頃から、親にも教師にもそう言われ続けてきた。友人たちにだって、呆れたように指摘されたことがある。何を考えているのか分からない、もっとはっきり言えと。
 だから、僕はなるべく相手に分かりやすいように話そうと努力してきたつもりだった。でも、そうすればするほど、自分の言葉はどこかぎこちなくなり、伝えたいことが伝わらないまま終わることも少なくなかった。
——そんな僕に、彼女はこう言った。
「でもいいよ、私だけ分かってあげるから」
 それは、これまで誰にも言われたことのない言葉だった。
 直さなくていいと言ってくれた。
 そのままでいいと言ってくれた。
 それが、どうしようもなく嬉しかった。
 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。言葉にならない感情が、ゆっくりと満ちていく。
 僕はふっと息を吐き、窓の外へと目を向けた。
 車窓には、青々とした田園風景が広がっている。遠くには緩やかな丘陵が連なり、その向こうにうっすらと海が見えた。陽の光が水面に反射して、きらきらと輝いている。
 気がつけば、車内には少しずつ乗客が増え始めていた。スーツ姿のサラリーマン、部活帰りの高校生、家族連れ。さまざまな人々が乗り降りしていくなかで、僕たちの間に流れる空気だけは、どこか違うもののように感じた。
 僕はそっと横目で彼女を見る。
 彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、じっと外の景色を眺めていた。車窓に映るその横顔は、どこか幼く、けれど大人びてもいて、不思議な魅力を放っている。
 少しだけ、彼女との距離が近づいた気がする。

 二回の乗り換えを挟みながら、僕たちは五時間かけて熊野駅へとたどり着いた。
 長い道のりだったはずなのに、不思議と退屈することはなかった。
 電車が進むにつれ、景色は刻一刻と表情を変えた。
 最初は見慣れた住宅街や工場地帯が続いていたが、それがいつしか広大な田園風景へと移り変わる。黄金色の稲穂が風に揺れ、その間を縫うように一本の小川が流れている。
 さらに電車が進むと、今度は緑濃い山々が車窓に映り込んだ。木々の合間には、小さな神社や古びた駅舎がぽつんと佇んでいる。
 そして、山を抜けると、一気に視界が開けた。
 目の前に広がるのは、どこまでも続く青い海。
 波が寄せては返し、太陽の光を受けて白くきらめいている。その美しさに、思わず息をのんだ。
 そのとき、隣から小さな声が聞こえてくる。
「すごい……!」
 彼女はまるで子どものように目を輝かせ、窓の外を見つめていた。
 目を大きく見開き、息を呑むたびに、表情がくるくると変わる。
もちろん、できるよ。では、より情景や心情を掘り下げながら、豊かに描写を膨らませていくね。
「ねえ見て! あの川、すっごく透き通ってる!」
 車窓の外には、まるでガラス細工のように澄んだ川が広がっていた。川底の丸い石までもがはっきりと見える。川の流れは穏やかで、その上を白鷺がゆったりと舞い降りる。
 彼女は身を乗り出すように窓の向こうを覗き込み、そのたびに肩まで届く髪がふわりと揺れた。
「わっ、今の鳥、すごい飛び方しなかった? 何て名前だろう?」
 彼女が指さしたのは、風を切るように滑空する一羽の猛禽類だった。鋭い翼が空を裂くように動き、やがて川沿いの木々の間へと消えていく。
 僕はちらりと彼女の横顔を盗み見た。目を大きく見開き、まるで今この瞬間を記憶に刻みつけるかのように、じっと景色を追っている。
「海! ほら、陽! 見て! めっちゃ青いよ!」
 彼女の声が弾む。
 電車はちょうど山間を抜け、目の前には大きく開けた海が広がっていた。深い群青の水面が、陽の光を受けてきらめいている。寄せては返す波が、白く泡立ちながら岸を洗う。その広大な景色に、僕も思わず息をのんだ。
 それでも、僕の視線は彼女の方へと引き寄せられる。
 彼女はずっと窓に張り付き、感動を全身で表現していた。
 手を頬に当て、目を輝かせながら、小さな子供のように次々と言葉を紡ぐ。
 そんな彼女を横目で見ながら、僕は心の奥で密かに思ってしまっていた。
——可愛いな。
 年上の女性に対して「可愛い」と思うのは、これが初めてだった。
 彼女の笑顔は作り物ではなく、純粋な感情の発露だった。まるで子供のように無邪気で、でも子供とは違う、どこか儚げな輝きを宿している。
 この人は、いつもこんな風に笑っているんだろうか? それとも、こうやって旅に出たときだけ?
 彼女が窓の外に見入る横顔を見つめながら、そんなことを考えていた。
 電車の振動がわずかに変わる。
 列車はゆるやかに速度を落とし、車内アナウンスが流れる。
「終点、熊野駅です」
 その言葉とともに、電車は静かにホームへと滑り込んだ。
 電車を降りた瞬間、潮の香りが鼻をかすめた。
 それまで車内に満ちていた空調の乾いた空気とは違う、生温かく、少し湿った潮風。
 思わず大きく息を吸い込むと、磯の香りが肺の奥まで満ちていく。
 海が近い。
 駅の構内は決して広くはない。
 木造の屋根がかすかに軋み、年季の入ったベンチが並ぶ。誰が書いたのか分からない落書きが、ベンチの隅にこっそりと刻まれている。
 壁には色褪せた観光案内のポスターがいくつも貼られていた。
 鮮やかな花火が夜空を彩るもの。熊野古道の緑深い木々に囲まれたもの。そして、青い海と広い砂浜が広がるもの。
 彼女はポスターの一枚を指さして言った。
「ねえ、ここ! この景色、絶対に本物で見たい!」
 そこには、夕暮れに染まる砂浜と真っ青な海が写っていた。
 その景色が、これから僕たちが向かう場所なのだと思うと——
 少しだけ、胸が高鳴った。
 駅を出ると、そこには静かな漁村の風景が広がっていた。
 潮風に晒されて色あせた家々が、道の両側に肩を寄せ合うように並んでいる。屋根には塩の結晶がこびりつき、ところどころ瓦が欠けていた。壁には古びた看板が掛けられているが、かすれた文字は長年の風雨に削られて、かろうじて判読できる程度だった。
 道端には、今にも崩れそうな木のベンチ。誰が置いたのか分からない花の鉢植えが端に乗っていて、そこだけぽつんと鮮やかな色を添えている。
 ゆるやかな坂道の途中に、昔ながらの商店がぽつんと一軒だけあった。店先には、年季の入った木の引き戸。その上にぶら下がる氷旗が、潮風を受けて静かに揺れている。赤と青の染料が色褪せ、布の端がほつれているのが見えた。
 その光景は、僕の記憶の中の熊野とほとんど変わらなかった。
 それでも、今日のこの町は、いつもの姿とは少し違う。
 花火大会の日だからだ。
 普段なら人通りの少ない道にも、ちらほらと観光客の姿が見える。
 小さな子どもを連れた家族、浴衣姿の若い女性たち、手を繋いだカップル――。それぞれが、どこか浮き立つような足取りで歩いていた。
 道沿いの電柱には、花火大会の案内看板がいくつも括り付けられている。白地に赤い筆文字で「熊野大花火大会」と書かれたそれは、時間の経過とともに少しずつ傾き、風に吹かれるたびにかすかに揺れていた。
 僕たちは、その看板を目印にするように、ゆっくりと歩き出す。
 僕たちの前を歩く二人組の高校生が、スマホを片手にどこか楽しげに笑い合っている。その隣では、小さな女の子が浴衣の裾をぱたぱたと翻しながら、母親の手を引いて小走りになっていた。
 まるで町全体が、一つの方向へと吸い寄せられているようだった。
「なんか、いいね。こういうの」
 ふいに、隣を歩く葵が、小さく呟いた。
 僕は視線を向ける。
 彼女は少し顔を上げ、遠くを見つめながら、風を受けるように目を細めていた。
「こういうの?」
「うん。みんなが同じ方向に向かって歩いてるのって、何かワクワクしない?」
 そう言うと、彼女はくすりと微笑んだ。
 その笑顔は、どこか遠い昔の記憶を呼び覚ますような、懐かしさを含んでいた。
 僕は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷いた。
「そうかもな」
 彼女につられるように、僕も微笑む。
 不思議な一体感があった。
 この町を初めて訪れた人も、何度も来ている人も、今この瞬間だけは、同じ目的地を目指している。
 見知らぬ人同士なのに、同じ期待を共有し、同じ未来を見ている。
 まるで大きな流れに乗るように、僕たちはゆっくりと歩みを進めた。

 そして歩くこと十分ほど。
 狭い路地を抜け、潮の香りが一層強くなった瞬間、視界がぱっと開けた。
 目の前には、広大な青い海が広がっていた。
 空の青さをそのまま映したような水面が、陽の光を受けて煌めき、遠く水平線の向こうへと溶け込んでいく。穏やかに揺れる波は、寄せては返し、白く砕けるたびにさらさらと細やかな音を奏でていた。
 海岸にはすでに多くの人々が集まり、所狭しとビニールシートが敷かれている。
 砂浜の上には、無数のブルーシートが折り重なるように広がっていた。遠目に見れば、それはまるで海の一部が陸地へと流れ込んだような光景にも思えた。
 中には、木の杭とロープで自分たちの区画を確保している団体もいれば、家族連れが折り畳み椅子をずらりと並べ、子供たちは小さなスコップを手に穴を掘って遊んでいた。カップルはレジャーシートの上に座り、日差しを避けるように肩を寄せ合いながら、お弁当を広げている。
「うわあ、もうこんなに場所取りされてるよ。本当に人気なんだね」
 彼女の弾んだ声が、潮風に乗って耳に届く。
 横を見ると、葵は驚いたように目を丸くしながら、砂浜を見渡していた。
 その瞳には、無数のブルーシートや折りたたみ椅子、色とりどりのパラソルが映り込んでいる。まるでパズルのピースが砂の上に散りばめられたように、整然とはしていないが、それぞれの形を持った賑やかな風景が広がっていた。
 ロープで区画を確保しているグループは、まるでここが自分たちの庭であるかのようにくつろぎ、簡易テントの中では幼い子どもが昼寝をしている。近くのシートでは、学生らしき若者たちがカードゲームに興じ、たまに響く笑い声が波の音に混じって心地よく響いていた。
 僕たちが到着したのはまだ午前中だった。
 それでも、空いているスペースはほとんどない。
 砂浜を一望すると、人の波がまるで生き物のようにうねりながら、じわじわと広がっていくのが分かった。まるで夏の太陽が照りつけるこの海岸の熱が、人々を引き寄せ、離さないようにしているみたいだった。
 僕は足元の砂を軽く蹴ってみる。
 細かい砂粒がふわりと舞い、すぐにまた元の場所へと戻る。
 こんなに早くからこれほど多くの人が集まっているのに、海は変わらず静かだった。どこまでも広がる水面は、何事もないかのように凪いでいる。
 この場所で、夜には綺麗な花火が打ち上がる。
 そして、葵と一緒にそれを見ることができる。
 そんなことを考えながら、僕は再び彼女に目を向けた。
 葵は風を感じるように目を閉じ、一瞬、じっと立ち尽くしていた。
 彼女の肩まで伸びる髪が潮風に乗ってふわりと揺れ、その隙間から覗く横顔には、どこか遠い記憶を辿るような、淡い感情が滲んでいる気がした。
 まるでこの風景が、彼女の中にある何かと重なっているみたいに――。
「子供の頃の記憶のまんまだよ」
 ふと、そんな言葉が口をついた。
 潮風に乗って運ばれてくる、どこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
 海の匂いは、単なる塩の香りだけじゃない。潮が運んでくる海藻や砂の匂い、浜辺に打ち上げられた貝殻や流木のかすかな香り、それらが混ざり合い、この場所独特の空気を作り出している。
 耳を澄ませば、寄せては返す波の音の合間に、子供たちの甲高い笑い声が響いていた。波打ち際で無邪気に走り回る姿が、まるで小さな魚たちが跳ね回っているように見える。裸足で砂の上を駆けるたびに、白いしぶきが舞い上がり、太陽の光を反射して一瞬だけきらめく。
 足元を見れば、砂に半ば埋もれながらも、浜昼顔が健気に咲いている。淡い紫色の花びらが、風に揺れながらも決して倒れず、陽の光をいっぱいに受け止めている。
 その光景を目にした途端、胸の奥で何かがじんわりと広がった。
 ただの風景のはずなのに、記憶の中の景色と重なり合い、心の奥底に眠っていた感覚がゆっくりと目を覚ます。幼い頃、家族とともに訪れた夏の海。父に手を引かれ、母の笑顔に包まれ、姉と競い合うように波打ち際を駆けたあの日。眩しすぎる太陽の光と、肌を焼くような砂の熱さ。氷で冷やされたラムネの瓶が、手のひらの中でひんやりとした感触を残していたことまで、鮮明に蘇ってくる。
「おっ、表情がキラキラしてきたね」
 突然、間近に声が響いた。
 はっとして顔を上げると、彼女がいたずらっぽく微笑みながら、僕の顔を覗き込んでいる。
「当時の陽少年に戻っちゃった感じ?」
 僕は一瞬、どう答えようか迷った。
 確かに懐かしさに胸を満たされているけれど、同時に、あの頃とは違う感覚もある。それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、あの頃は家族と一緒にいた。両親や姉と過ごした時間が、今の自分の記憶の中でやわらかな光を放っている。
「……いや、子供の頃は家族と来たから。その時とはちょっと違うよね」
「ふうん、そっか」
 彼女は軽く頷き、それ以上は深く聞こうとしなかった。
 たわいもない会話を交わしながら、僕たちは砂浜を歩く。
 足を踏み出すたびに、白い砂がスニーカーの隙間から入り込み、くすぐったい感触が足裏をかすめた。柔らかい砂に足を取られながら進むたびに、重心のかけ方を工夫しないといけなくて、まるで軽く足踏みをしながら歩いているような気分になる。
 じりじりと照りつける太陽の熱が、肌の上にまとわりつくようだった。額にはうっすらと汗がにじみ、頬のあたりに一筋の汗が流れ落ちる。けれど、その熱をほんの少しだけ和らげるように、時折、海風が吹いてくる。風が肌を撫でるたび、汗ばんだ体が一瞬だけ涼しくなり、心地よさと夏特有のけだるさが入り混じった感覚が広がる。
「結構、ギリギリな感じだね」
 彼女が苦笑しながら、周囲を見渡した。
 確かに、どこも人でいっぱいだ。
 ブルーシートやパラソルが敷き詰められ、砂浜はまるで色とりどりの絵の具を無造作に塗り重ねたキャンバスのようになっている。カップルが肩を寄せ合いながらお弁当を広げ、子供たちは夢中になって砂の城を作り、年配の夫婦はのんびりと波の音に耳を傾けていた。
 それぞれが思い思いに過ごしているこの光景は、まさに夏の風物詩そのものだった。
 けれど、僕たちが座るスペースは、ほとんど残されていない。
 このままでは、どこかのグループの隙間に無理やり入り込むしかないかもしれない。そう考えながら視線を巡らせると、ふと、団体と団体の間にぽっかりと空いた、ちょうどいいスペースが目に入った。
「……あそこ、どう?」
 指を差すと、彼女もそちらを見て、ぱっと表情を明るくした。
「いいじゃん!行こ!」
 僕たちは目を合わせると、軽く頷き合い、足を速めてその場所へと向かった。
 風が吹き抜けるたび、どこか遠い記憶がふわりと舞い上がり、また静かに胸の奥へと沈んでいくのを感じながら。
「ラッキーだったな。とりあえずここにシートを敷こう」
 僕は手に持っていたブルーシートを広げ、彼女と息を合わせながら砂浜の上に慎重に広げていった。風が少し強く、端がふわりと舞い上がる。慌てて端を押さえようとすると、彼女も同じタイミングで手を伸ばしたせいで、僕たちの指がかすかに触れた。
「おっと」
 思わず声を上げると、彼女は軽く笑いながら「風、けっこう強いね」と呟いた。
 シートが飛ばされないように、四隅にお互いの靴を置く。僕のスニーカーと、彼女の少し華奢なサンダル。並べられたそれらを見つめると、そのアンバランスさが妙に可笑しく感じられた。僕のゴツゴツしたスニーカーに対して、彼女のサンダルは繊細で、まるで小さな魚と大きな貝殻が並んでいるようだった。
「ふふっ、なんかこれ、ちょっと面白くない?」
 彼女がくすっと笑いながら、シートの上にぺたんと座り込む。
「確かにな。サイズ感バラバラだしな」
 僕も隣に腰を下ろした。シートが砂の上に沈み込み、軽くふわっとした感触がする。
 じりじりとした日差しが、肌の上に熱を落とす。潮騒が心地よく響き、遠く水平線の向こうで波が静かに煌めいていた。
 見渡せば、家族連れや友人同士のグループが思い思いに過ごしている。水着姿で砂の上を駆け回る子供たち、波打ち際で手をつなぐカップル、折りたたみ椅子に座って読書をしている初老の男性。そのどれもが、夏の風景の一部になっていた。
「何か懐かしいな、こういうの。小学校の遠足以来かも」
 シートの上に両手をついて、彼女がしみじみと言う。
「ああ、確かに。中学以降の遠足って、こんな風にブルーシート広げたりしなかったよな」
「ねっ、童心を思い出すよね」
 彼女はくるりと寝転がった。仰向けになりながら、指で何かをなぞるように空へ向かって動かしている。その仕草が、まるで見えない何かを描いているように見えて、僕はふと気になった。
「何描いてんの?」
「んー、飛行機雲の軌跡?」
 彼女はそう言いながら、目を細めた。
 僕も同じように空を見上げる。真っ青なキャンバスのような空に、ふわりと白い雲が流れていた。その隙間を縫うように、一本の飛行機雲が真っ直ぐに伸びている。
「飛行機雲って、どこまでも続いてるみたいに見えるよな」
「そうだね。でも、あれってすぐに消えちゃうんだよね」
 彼女の言葉には、どこか儚さが滲んでいた。
「……それがいいんじゃない?」
「え?」
「一瞬だから、きれいなんだよ。ずっと残ってたら、ただの雲と変わらないし」
 僕がそう言うと、彼女は少し驚いたように僕を見て、それから静かに微笑んだ。
「……そうかもね」
 風が吹き抜け、シートの端が少しめくれる。僕は軽く押さえながら、彼女の横に寝転んだ。
 潮騒の音が遠くまで響き、どこまでも広がる青空の下で、僕たちはただぼんやりと夏を感じていた。
「……あのさ」
 ふいに、彼女が体を起こした。シートの上で膝を抱えるように座り、真っ直ぐに僕の方を向く。
 その仕草に気づき、僕も視線を向けると、彼女の瞳がどこか真剣な色を帯びていた。
「せっかくだから、色々と陽について聞いてもいい?」
「ん? 急にどうした?」
 思いがけない言葉に、一瞬だけ戸惑う。さっきまでの軽い会話の流れからすると、あまりにも唐突だった。
「いや、全然いいよ」
 そう返すと、彼女は少しだけ口ごもった。まるで、言おうかどうか迷っているように、視線を海の方へ彷徨わせる。潮風が彼女の髪を揺らし、陽射しが横顔を照らしていた。
 やがて、意を決したように、彼女がゆっくりと口を開いた。
「陽さ、受験生でしょ? こんなことしてていいの?」
 その言葉があまりにも意外すぎて、僕は思わず吹き出してしまった。
「アハハ。心配してくれてるの? ありがとう。でもさ、こんなことって、そもそも葵が誘ったんじゃん」
「いや、それはそうなんだけど……」
 彼女は言葉を詰まらせ、少し頬を染めながら、指先でシートの端をいじる。その仕草がどこか子供っぽくて、少しだけ可笑しかった。
「でも、よくクラブにも来てるし、夜遊びしてて大丈夫なのかな? って実は何気に心配してた」
 彼女の声には、冗談めかした響きが混ざっていたけれど、その奥に隠れた本音が微かに伝わってくる。
 僕は空を仰いだ。
 澄み渡る青空の中を、ゆっくりと雲が流れている。日差しは少し強くなってきていて、肌の上をじんわりと焼くような感覚があった。潮風が吹き抜けるたび、シートの端がひらりと揺れる。
「うーん……」
 少し考えた後、肩をすくめて笑ってみせた。
「でもまぁ、志望校っていうか、自分の学力に見合った高校なら、間違いなく合格できると思うから大丈夫だよ」
「えっ?」
 彼女の目が驚きで丸くなる。
「陽ってもしかして頭いい系?」
「頭いいかどうかは分からないけど、四日市高校とかは無理だよ。まぁ、ちょっと落として川越辺りに行こうかなって感じ」
 その瞬間、彼女の表情が固まった。
 ほんの一瞬だったけれど、確かにその変化を僕は見逃さなかった。
「ハァー? 川越高校ってめっちゃ頭いいじゃん! 私なんて朝明高校だよ?」
 彼女が突然むくれたように頬を膨らませた。その表情が可愛らしくて、思わず吹き出しそうになる。
「いや、別に頭良くないよ。上には上がいるし。何処の高校に行くかより、そこで何を学ぶかの方が大事なんじゃない?」
 さらりと口にした言葉だったけれど、言ってから少し気恥ずかしくなる。自分で言うと、どこか格好つけているような気がした。
「うっ……ご尤も過ぎる正論を言われて返す言葉もないや」
 彼女は眉を寄せ、ふてくされたように指先で砂をかき回す。さらさらとした砂が指の間をすり抜けていく。
「でも、純粋にすごいと思うよ。尊敬した」
 そう言うと、彼女はまっすぐ僕を見つめた。
「いやいや、そんな尊敬されるような存在じゃないよ」
 少し照れくさくて、僕は軽く笑いながら肩をすくめた。
「いや、普通に凄いって」
 彼女の目は真剣だった。冗談でもお世辞でもなく、心からそう思っているのが伝わってくる。
 潮風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞った。柔らかな光を受けて、長い髪の一筋一筋が金色に輝くように見える。
 彼女は一度、ためらうように唇を噛みしめ、それから意を決したように言った。
「……あのさ、もし良かったら私にちょっと勉強教えてくれない? 英語とか数学とかヤバいんだ」
 その言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。
 花火を見に来たはずなのに、なぜか今、この会話の方がずっと特別なものに思えた。
 遠くから、波の音が静かに響いている。夏の夜風が心地よく肌を撫で、潮の香りが鼻をくすぐった。
 今思い返すと、あの時の彼女の何気ない一言が、僕を教育者の道へと導いたのかもしれない。
 夏の海風が頬を撫でる。潮騒が遠くから静かに響き、波が寄せては返しながら、規則正しいリズムを刻んでいる。風が吹くたび、かすかな潮の匂いが鼻をくすぐった。
 シートの上には僕のスニーカーと、彼女の華奢なサンダルが並んでいる。夕暮れに伸びる影が、風に揺れる波のようにゆらゆらと揺れていた。
「勉強とか、人に教えたことないよ」
 ぽつりと口にすると、風にさらわれそうなほど頼りない声になった。
「それでもいいから、お願い!」
 彼女は勢いよく身を乗り出し、懇願するように両手の掌を合わせる。
 その仕草が妙に子供っぽくて、僕は思わず笑いそうになった。けれど、彼女の瞳には真剣な色が宿っていて、からかう気にはなれなかった。
「……じゃあ、何が分からないの?」
 僕が尋ねると、彼女は少しだけ口ごもり、指先でシートの端をもてあそぶ。遠くでカモメの鳴き声が聞こえた。
「ぶっちゃけ、中学の内容も全然分からない」
 正直すぎる言葉に、一瞬だけ言葉を失う。
「……じゃあ、英語はどこで躓いた自覚がある?」
 僕の問いに、彼女は少し考えるように目を泳がせた後、困ったように首を傾げた。
「うーん、最初から躓いてたと思うけど……三人称単数とかが未だに意味が分からない。何で一人なのに三人称なの?」
 その瞬間、僕は思わず息を飲んだ。
 予想外の質問だった。
 けれど、同時に妙に腑に落ちる感覚もあった。
 そういえば、ちょうどあの辺りでクラスの多くの生徒が英語に対して苦手意識を持ち始めていた気がする。動詞の変化、主語の区別、疑問形の作り方——そのあたりから、授業についていけなくなるやつが増えていった。
 僕はシートの端を指でなぞりながら、彼女の問いを反芻する。
「一人なのに、三人称……か」
 ぽつりとつぶやくと、潮風がさらりと髪を揺らした。
 英語を習い始めたばかりの頃、僕自身も少し違和感を覚えたことを思い出す。
 なぜheやsheが三人称なのか。
 確かに、冷静に考えれば不思議だ。日本語ではそもそも「一人称」「二人称」「三人称」なんて意識しなくても会話は成り立つ。けれど、英語では動詞の形まで変わってしまう。
 彼女は僕の顔をじっと見つめながら、次の言葉を待っていた。
 その瞳には、わずかに焦燥の色が混じっているように見えた。
——教える、か。
 これまで勉強は、あくまで自分のためにするものだと思っていた。いい成績を取るため、志望校に合格するため。それだけだった。
 けれど、今この瞬間、目の前にいる彼女は、本気で僕の言葉を求めている。
 彼女の真剣な眼差しが、胸の奥に小さな熱を灯した。
「……ああ、それはね、自分視点で見て『三人目』って意味なんだよ」
 言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほどすんなりと、説明が形を成し始めるのを感じた。
 海風が優しく吹き抜ける。波が遠くでさざめき、白い波頭が陽に照らされて淡く光っている。
 僕は砂の上に一本の線を指でなぞった。
「例えば——俺視点だと、俺が一人称で、私のI。で、葵が二人称。あなたのYou。で——」
 指先で線を引きながら、僕はふと視界の隅に映る一人の男性を示した。
 観光客らしき初老の男が、少し離れた砂浜に座って、缶ビールを傾けている。赤く染まる空の下で、ひとり静かに夕陽を眺めているその姿が、不思議と穏やかに見えた。
「あそこにいるおじさんが、三人目の『三人称』。彼だからHe。こんな感じで、俺と葵以外の誰かは、全部三人称になるんだよ」
 砂に引かれた線が、風で少しずつ崩れていく。
 僕の言葉が正しく伝わったかどうか、不安だった。でも——
「……えっ? めっちゃ分かりやすいんだけど」
 彼女はぱちくりと目を瞬かせ、驚いたように僕の顔を見つめた。
「陽、すごいね。今まで聞いた誰の説明よりも分かりやすいよ。将来、先生になりなよ」
 海風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞う。潮の香りが鼻をくすぐり、遠くでカモメの鳴き声がかすかに響いた。
 僕は、彼女の無邪気な提案に苦笑しながら、肩を軽くすくめる。
「うーん、学校の先生は基本好きじゃないから、なりたくないな」
 そう言いながら、僕は軽く肩をすくめた。
「えっ、そうなの?」
 彼女が意外そうに首を傾げた。
「……あっ、そういえば私も学校の先生嫌いだった!」
 次の瞬間、彼女は楽しそうに吹き出した。
「なんか、偉そうにしてるくせに、こっちの気持ち分かってない先生多いもんね!」
 その言葉に、僕もつい笑ってしまう。
「分かる。変に説教臭い奴とか、やたら威圧的な先生とか、苦手なんだよな」
「でしょ? それなのに陽の説明は、ちゃんとこっちの目線に立ってて、すごく分かりやすいんだよ」
 彼女はそう言いながら、指で砂をさらさらとなぞった。
「陽って、教えるの向いてると思うけどなぁ」
「いや、それはどうかな……」
 照れくさくて、適当に言葉を濁す。
 だけど、心のどこかで少し嬉しい気持ちもあった。
 彼女がそんなふうに褒めてくれるなんて、予想していなかったから。
 波の音が寄せては返し、太陽が燦燦と降り注いでいた。
 青く輝く海面がきらきらと輝き、遠くのサーファーたちの影が波間に揺れている。
「何か陽って、不思議だよね」
 ふと、彼女の声のトーンが少し落ち着いた。
「頭いいのに夜遊びしてて、綺麗な優等生の道も歩めるのに、そんな感じでもなくてさ」
 僕は彼女の言葉を聞きながら、無言で足元の砂を指でなぞった。
「答えたくなかったら答えなくていいけど……家庭環境とか、色々あった?」
 潮風が強くなり、僕の髪を少し乱す。
「……勘がいいね」
 それだけ言って、僕は波の音に耳を傾けた。
 遠くの水平線が、青く澄み渡っている。
 彼女はそれ以上、何も言わず、ただ静かに僕の横顔を見つめていた。
 そのまま、僕たちはしばらく無言で波の音を聞いていた。
「……そっか」
 彼女はそれ以上、何も聞こうとはしなかった。
 沈黙が流れる。
 けれど、それは決して気まずいものではなく、むしろ心地よい静寂だった。余計な言葉を差し挟むことなく、ただ同じ時間を共有しているというだけで、妙な安心感があった。
 海風が吹き抜けるたびに、潮の香りがふわりと鼻をかすめる。波が一定のリズムで寄せては返し、まるで世界が大きく呼吸をしているようだった。
 彼女は足を伸ばして、軽くつま先で砂を掬い上げる。崩れ落ちた細かな粒が、さらさらと音を立てながら、白く滑らかな肌の上を転がっていく。
「花火まで、まだだいぶ時間あるけど……どうする?」
 僕はそう問いかけながら、遠くの空を見上げた。
 空はまだ、真っ青な夏の色を残している。太陽は高く、一日の中で最も輝いている時間帯だ。
 遠くの方で、子どもたちのはしゃぐ声が風に乗って聞こえてくる。浜辺で遊んでいた家族連れだろうか。小さな波が足元をさらい、彼らの笑い声は波の音と混ざり合いながら、ゆっくりと昼の光に溶けていく。
「近くにはジャスコくらいしかないけど」
 僕は軽く指先で砂をなぞりながら、ぼんやりと遠くの光を見つめた。商業施設の明かりが、海沿いの街並みにぽつぽつと灯っている。少し歩けば辿り着く距離だが、こうして海辺で風を感じているのも悪くない。
 彼女はしばらく黙ったまま、じっと波の動きを見つめていた。規則正しく寄せてくる波が、足元に流れ込んでは、音もなく引いていく。
 やがて、そっと目を閉じ、深く息を吸い込む。
「このままでいいよ」
 静かで、柔らかな声だった。
「波の音を聞いて、磯の香りを嗅ぎながら、陽と過ごす——私にとって、これ以上の贅沢はないよ」
 彼女はそう言うと、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、遠くの水平線を映して、微かに揺らめいている。
 僕は一瞬、言葉に詰まった。
 くすぐったいような、でもどこか嬉しくなるような感覚が胸の奥を満たしていく。
 風が吹き、彼女の髪がふわりと揺れる。横顔をそっと照らす太陽の光が、彼女を淡く彩る。
 不意に、喉が渇いた気がした。
「……大袈裟だな」
 海風に紛れてしまいそうなほど小さな声で呟く。
 それでも——
「でも、何か嬉しい。ありがと……」
 言い切る前に、不意に彼女の顔が近づいてきた。
 心臓が一瞬、大きく跳ねる。
 距離が近い。
 彼女の瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
 波がそっと寄せ、僕たちの間の空気が、少しだけ甘くなった気がした——。
 唇に、温かく、柔らかな感触が触れる。
 その瞬間、思考が止まった。
 まるで時間が凍りついたかのように、周囲の音が遠のいていく。
 波の音も、風のざわめきも、遠くを歩く人々の話し声も、すべてがかき消される。ただ、彼女のぬくもりだけが鮮やかに感じられた。
 頬に、昼の潮風が優しく吹き抜ける。
 彼女の唇が、そっと離れる。
 その一瞬、名残惜しさのような感覚が胸をかすめる。
 彼女の顔が、すぐ目の前にあった。
 太陽を背にした彼女の横顔は、ほんのりと赤みを帯びている。
 風が吹くたびに、長い髪がふわりと揺れた。陽の光を受けた髪の毛の先が、きらきらと光って見える。
 僕は、まだ余韻に囚われたままだった。
 心臓が、煩わしいほどに高鳴っている。
 胸の奥から、波打つように鼓動が響いているのがわかる。
「……えっ?」
 ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
 そんな僕の反応を見て、彼女はふっと微笑む。そして、軽く唇に指を当てた。
「酒臭くなかったでしょ?」
 少し得意げな顔で、彼女は続ける。
「この日のために、三日間禁酒したんだからね」
 僕は、まだ思考が追いつかず、ただ彼女の顔をじっと見つめることしかできなかった。
 三日間——。
 そう言われて初めて、彼女の真剣さが胸の奥にじわじわと広がっていく。
 彼女は、この瞬間のために、ずっと準備していたのか。
 それを思うと、胸の奥が妙に熱くなる。
 風が吹いた。
 彼女の髪が、さらりと舞う。
 太陽の下で、その髪はまるで光をまとった絹糸のように柔らかく輝いていた。
 何か言わなければいけない。
 何か、伝えなければいけないのに——。
 なのに、言葉が、うまく出てこない。
 彼女はじっと僕を見つめる。
 その瞳の奥に、わずかな不安の色が滲んでいることに気づいた。
「……嫌だった?」
 ほんの少し眉をひそめながら、彼女が小さく呟く。
 その瞬間、僕の心が大きく揺れた。
 違う。そうじゃない。
 そんなふうに思わせるつもりなんて、まったくなかった。
「……嫌じゃない。全然嫌じゃないよ!」
 思わず、強い口調になってしまった。
 彼女の瞳が、一瞬驚いたように見開かれる。
 そして——
 次の瞬間、彼女はふっと笑った。
 それは、先ほどまでの照れや緊張が溶けていくような、柔らかく温かな笑みだった。
 安心したように、彼女の肩が少しだけ緩む。
 そのまま、彼女はそっと僕の手を握った。
 細くて、温かくて、少しだけ力のこもった指先が、僕の手のひらに絡まる。
 波の音が、再び耳に戻ってきた。
 遠くの空には、まだ太陽が燦燦と輝いている。
 彼女のぬくもりが、確かに僕の心へと広がっていく。
 風が吹く。
 その風がどれほど強くても、僕の手の中にあるこの温もりが、すべてを包み込んでくれそうな気がした——。
「はあ……まさか私のファーストキスの相手が、三つも年下の中学生になるとはな……」
 海風に髪を揺らしながら、葵はどこか自嘲気味に呟いた。
 彼女の長い髪がさらりと靡く。太陽の光が波間に反射し、海辺全体を明るく照らしていた。穏やかな波の音が、打ち寄せては引いていく。空はまだ青く、昼の時間がゆっくりと流れている。
 僕は彼女の言葉をすぐには理解できなかった。
「えっ?」
 口をついて出た言葉は、それだけだった。
 今の、どういう意味だ?
 僕は思わず彼女の横顔を見つめる。彼女はどこか遠くを眺めるように視線を投げていた。太陽を背にした横顔は、どこか儚げで、それでもどこか吹っ切れたような、そんな表情を浮かべていた。
「葵もファーストキスなの!?」
 驚きがそのまま声になった。
 彼女ほど綺麗で、少し大人びた雰囲気を持つ人なら、これまでに恋人の一人や二人いてもおかしくない——いや、むしろいて当然だと、勝手に思い込んでいた。だから、彼女の口から「ファーストキス」なんて単語が出てくること自体、まったく信じられなかった。
 葵はそんな僕の反応を見て、ふっと小さく笑う。
「葵も、ってことは……陽も?」
 そう言って、彼女が小首を傾げる。
 その仕草があまりにも自然で、大人っぽさの中にどこか少女のような無邪気さが混じっていて、僕は一瞬、視線を逸らしそうになった。
「うん。まあ……そうなるかな」
 正直に頷くと、葵は少し驚いたように目を丸くしたあと、すぐに苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。貴重なファーストキス、奪っちゃって」
 昼下がりの海風に紛れるような、控えめな声だった。
 彼女の瞳が、申し訳なさそうに伏せられる。
 その仕草が、なぜか胸に引っかかった。
 奪った——そんなふうに言うけれど、僕は嫌だったわけじゃない。むしろ、まだ心臓の鼓動が落ち着かないくらいには、動揺していた。
「いや、それは別にいいんだけど……」
 慌てて首を振る。
「だけど?」
 葵が僕の顔を覗き込むように、少し身を寄せてくる。
 近い。
 潮風に乗って、微かに甘いシャンプーの香りがした。
 心臓が、また跳ねる。
 彼女の瞳の奥には、冗談めいた色が浮かんでいたけれど、どこか探るような、そんな視線にも思えた。
「いや、ちょっと意外だった。葵も今までキスしたことがなかったなんて」
 僕はそう呟きながら、波打ち際へと視線を向ける。
「アハハ」
 葵は海へと目を向け、短く笑った。
 波の音に紛れるような、軽やかな笑い声だった。でも、その響きの奥に、どこか寂しげなものが混じっているような気がした。
「こんな世捨て人みたいな女のこと、誰も好きにならんよ」
 冗談めかした口調だった。でも、その言葉はまるで、長年染み付いた何かを吐き出すようで——。
 僕はなぜだか、その言葉を否定したくなった。
「そんなことないよ」
 気づけば、言葉が口をついて出ていた。
 彼女が驚いたように僕を見つめる。
「葵は優しいし、普通に可愛いし」
 自分で言いながら、少しだけ気恥ずかしくなる。でも、本心だった。
 彼女は一瞬、目を瞬かせた。
「……年下から可愛いなんて、初めて言われたよ」
 日差しに照らされた彼女の横顔が、ほんのりと赤みを帯びる。
「ありがとう」
 そう呟くと、葵はふっと身体を寄せてきた。
 彼女の体温が、ふわりと触れる。
 海辺の静けさの中で、彼女の唇が再び僕に触れた。
 さっきよりも、少しだけ長く。
 それは、頬を撫でる潮風よりも温かくて、砂浜を打つ波よりも静かだった。
 波の音が、まるで遠くの記憶のようにぼんやりと響いている。
 ゆっくりと唇が離れたあと、葵は恥ずかしそうに微笑んだ。
「これで……セカンドキスだね」
 頬を火照らせながら、少し照れくさそうに言う。
「セカンドキスなんて言葉、初めて聞いたよ」
 僕がそう返すと、彼女は肩をすくめて小さく笑った。
「うん。私も、自分で言っておいて初めて聞いた」
 二人して顔を見合わせ、くすくすと笑う。
 まるで秘密を共有する子どもみたいに。
 さっきまでのぎこちなさが嘘のように、そこには穏やかで無邪気な空気が広がっていた。
 昼下がりの海は、思いのほか穏やかだった。
 打ち寄せる波は規則正しく砂を濡らし、波打ち際には白い泡がふわふわと漂っている。陽射しが水面に反射し、きらきらと眩しく輝いていた。
 潮風がそっと頬を撫で、磯の香りがふわりと鼻をくすぐる。夏の熱を含んだ空気は、どこか懐かしい匂いがした。
 僕たちは並んで腰を下ろし、しばらく黙ったまま、ただ海を眺めていた。夜ばかり会っていた僕たちにとって、こうして昼間の光の下で過ごす時間は、妙に新鮮だった。
 空がまだ青いこと。
 周囲が明るいこと。
 葵の髪が、光を受けて柔らかく波打っていること。
 普段は影に溶け込んでしまいがちな瞳の色が、昼の光を受けて、深い藍色に透き通っていること。
 そんな些細なことが、今の僕にはやけに特別なものに思えた。まるで、知らない誰かを見ているような気さえしてくる。
「……人、増えてきたね」
 葵がふと、周囲を見渡しながら呟く。
 その声に、僕も視線を向ける。
 昼間はまばらだった浜辺が、いつの間にか人で溢れかえっていた。
「場所取りしてた連中が戻ってきてる感じだな」
 ビニールシートを広げていたグループや、クーラーボックスを抱えた家族連れが、次々と戻ってくる。子どもたちの笑い声が弾け、若者たちは楽しげにスマートフォンをかざして写真を撮っていた。
 午後四時を過ぎた頃には、砂浜全体がまるで生き物のようにざわめいていた。
 僕たちのすぐ近くにも、団体客が陣取っていた。右隣では、会社の同僚らしき数人の男性が缶ビールを片手に盛り上がり、左隣には、カップルグループが楽しげに輪を作っている。潮風に乗って、ビールの苦い匂いや、ポテトチップスの塩気が漂ってきた。
 葵は軽く息を吐くと、足元の砂を指で掬い、ぱらぱらと落とす。
 彼女の横顔が、どこか遠いものを見つめているようだった。
 僕はただ、彼女の隣で波の音を聞いていた。
 周囲の賑やかな声が、じわじわと僕たちの小さな空間を侵食していくような感覚があった。まるで、僕たち二人だけが場違いな存在になったような——そんな落ち着かなさを、僕は覚えていた。
 砂浜の賑わいは、時間が経つにつれてさらに活気を増していた。
 潮風に乗って、どこか遠くで焼かれているバーベキューの香ばしい匂いが漂ってくる。すぐ近くでは、波打ち際を走る子どもたちの歓声が絶え間なく響いていた。笑い声、ビール缶のプルタブを開ける音、遠くで鳴るウクレレの音色——それらが入り混じって、浜辺はまるで一つの生き物のようにざわめいている。
 そんな中、不意に隣のグループの男性の一人が、僕たちの方へと身を乗り出してきた。
「君たち、高校生? どこから来たの?」
 突然の声に、僕は一瞬驚き、無意識に葵の方をちらりと見た。彼女は特に表情を変えず、ただ軽く首を傾げている。どうやら返事をするのは僕の役目らしい。
「えっと……僕たちは四日市から来ました」
 なるべく落ち着いた声を意識しながら答える。
「僕が中3で、彼女が高3です」
 その瞬間、相手の表情が明らかに驚いたものへと変わった。
「えっ? 中学生と高校生?」
 男性は思わず声を上げると、隣の仲間に「おい、聞いたか?」とでも言うように目を向ける。すると、グループの何人かが興味深げにこちらを振り返った。ビール片手に談笑していた男性陣も、一瞬だけ会話を止めて僕たちに視線を送る。
「二人だけで来たの?」
「はい。そうです」
 正直に答えると、男性は少し眉を寄せた。
「親御さんとか、心配しない? 大丈夫?」
 その問いに、僕は一瞬だけ答えを考えた。別に嘘をつく理由はない。けれど、この人たちが何を気にしているのか、なんとなく察することはできた。
「はい。大丈夫です」
 そう短く答えると、男性は少し考え込むように目を細めた。それから、僕の顔と葵の顔を交互に見つめ、何かを測るような表情をした後、ゆっくりと頷いた。
「そっか……まあ、気を付けてな」
 それだけ言うと、彼は深く追及することもなく、再び仲間たちの会話へと戻っていった。
 僕は小さく息をつき、握りしめていた指をほどいた。
 言葉には出さなかったが、葵もどこか緊張していたのかもしれない。ふと横を見ると、彼女がじっと僕の横顔を見つめていた。
「……何?」
 そう尋ねると、葵は少しだけ目を細めて、口元に小さな笑みを浮かべた。
 肩が小さく震えている。まるで笑いを堪えているかのようだった。
「……どうしたの?」
 僕の問いに彼女はすぐには答えず、しばらくの間、唇を引き結んでいた。しかし、耐えきれなくなったのか、ついに「ぷっ」と小さな吹き出す音を漏らすと、クスクスと楽しそうに笑い始めた。
「な、なんだよ?」
 理由も分からずに僕が戸惑っていると、葵はようやく落ち着いたのか、片手を軽く振りながら言った。
「多分、あのおじさん、私たちのことカップルだと思ってるよ」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ん? 姉弟だと思われてるんじゃね? 親御さんとか言ってたし」
 そう指摘すると、葵は「違うよ」と言わんばかりにゆっくりと首を横に振った。
「ううん、多分ね、お互いの親御さんって意味だよ。陽が彼女とか言うから」
 その瞬間、僕の思考が凍りついた。
――僕が中3で、彼女が高3です。
 さっき、当たり前のように口にした言葉。あれのどこに誤解される要素があったのか、一瞬だけ考えて――それから、ハッとした。
「……あ」
 言葉が遅れて理解に追いつく。
 僕が「彼女」と言ったのを、向こうの男性は「恋人」として解釈したんじゃないか――。
「ち、違うって、それはさ、英語で言うところのSheで、ガールフレンドって意味じゃないよ!」
 慌てて弁解する僕に、葵は肩をすくめて笑った。
「分かってるよ。でも、多分おじさんはそう解釈したと思うよ」
 そう言って、楽しそうに目を細める。
 潮風が、さらりと彼女の長い髪を揺らした。夕日に染まりかけた海が、きらきらと光る。
 それにしても、無意識のうちにそんなふうに彼女を呼んでいたのか。
 改めて思い返してみると、「僕が中3で、彼女が高3です」という言い方は、確かに交際を前提とした響きがあったのかもしれない。実際、あのおじさんはあからさまに驚いた顔をしていたし、仲間内でも小声で何か話していた。たぶん、僕たちの関係についてあれこれ詮索していたのだろう。
――でも、僕にとってはただの言葉の選び間違いだった。
 それだけのはずなのに。
「……」
 ふと、気恥ずかしさが込み上げてきた。胸の奥が妙にむずむずする。なんだろう、この感じ。
 僕は何でもない風を装って、つま先で砂を弄った。サラサラと乾いた砂がこぼれ、足元に新しい模様を描く。ほんの少しだけ波が寄せてきて、僕のつま先を掠めると、ひんやりとした感触が肌に伝わった。その冷たさが、熱を持ちかけた頭をほんの少しだけ落ち着かせてくれる気がした。
 しかし、そんな僕の様子をじっと見つめていた葵は、口元を押さえながら、ますます楽しそうに笑い始める。
「ねえ、陽って、そういうときすぐ耳が赤くなるよね」
 クスクスと、どこか小悪魔のような声色で言う。
「……うるさいな……」
 耳が赤くなったと言われると、余計に熱を帯びてくる気がして、僕は反射的にそっぽを向いた。
「図星?」
 楽しそうな彼女の声が、波の音に混ざって届く。
「別に……」
 ぎこちなく答えながら、ちらりと視線を向けると、葵は目を細めて僕を見ていた。
 海風がふわりと吹き抜ける。
 その風に乗って、葵の髪がさらさらと揺れた。長い黒髪が陽の光を受けて、まるで水面のようにきらめく。そんな彼女の姿が妙に印象的で、僕は思わず目を奪われてしまった。
――こんなふうに彼女にからかわれるのは、これが初めてじゃない。
 葵はいつだって、僕の反応を楽しむみたいに笑う。そして僕は、その度にどうしようもなく気恥ずかしくなるのだ。
 でも、不思議なことに、嫌ではなかった。
 むしろ、心地よいとさえ思ってしまう。
 からかわれているはずなのに、どこかくすぐったいような感覚が胸の奥に残る。この気持ちは、一体なんなのだろう。
「陽?」
 不意に、葵が首をかしげながら僕の顔を覗き込む。
 至近距離で向けられたその瞳に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
「な、なんだよ」
「ううん、なんか考え込んでたから」
「べ、別に何も」
 慌てて誤魔化そうとした僕の態度に、彼女はまたふっと笑った。
 その笑顔が、どうしようもなく眩しかった。
 海の向こうで、太陽が少しずつ傾いていく。淡い橙色が波に映り込み、さざめく水面をやわらかく照らしていた。潮風の匂いと、遠くで響く子どもたちの笑い声。そんな何気ない風景のすべてが、なぜかいつもより鮮やかに見えた。
――それがどうしてなのか。
 このときの僕は、まだはっきりと分かっていなかった。
 ただ、確かなのは――。
 この瞬間から、僕は葵のことを、これまでとは違う視点で意識し始めたということ。
 彼女の仕草。
 彼女の声。
 彼女の笑顔。
 それら全てが、今までよりも強く、鮮やかに僕の心に焼き付いていく。
 まるで、波紋のように。
 静かに、しかし確実に、僕の心の奥へと広がっていくのを感じていた。
 
 夕暮れの境目が滲み、空がゆっくりと藍色へと変わり始めた頃、僕たちは祭りの喧騒の中にいた。
 浜辺にずらりと並ぶ屋台の灯りが、砂浜を彩るように揺れている。赤や橙の提灯が連なり、風に吹かれるたびにかすかに揺らめいた。その温かな光が、人々の横顔を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
 焼きそばの香ばしい香りが鼻をくすぐり、たこ焼きのソースの匂いが風に乗って漂ってきた。綿あめの甘い香りや、かき氷のシロップの涼やかな気配も混ざり合い、祭り独特の高揚感を引き立てる。
 屋台の前では、浴衣姿の女の子たちが楽しげに笑い合い、金魚すくいの水面には提灯の光が映り込んで揺れていた。時折、子供たちのはしゃぐ声や、どこかの屋台の店主の威勢のいい声が響き、まるで夏の熱気そのものが形を成したかのようだった。
「すごいね……人が多すぎて、歩くだけで大変」
 隣を歩く葵が、小さく息を吐きながら呟いた。人混みに押されそうになりながらも、彼女はどこか楽しげに笑っている。
「まあな。でも、これぐらい賑やかなほうが祭りっぽいだろ?」
 僕はそう言いながら、すぐ隣を歩く彼女を横目で見る。
 浴衣の裾を片手で押さえながら、慎重に歩く姿がなんとも愛らしかった。少し背伸びしたような、落ち着いた藍色の浴衣に、細やかな朝顔の模様が映えている。祭りの灯りが彼女の頬をほんのりと照らし、その横顔は、いつもの制服姿よりもずっと大人びて見えた。
「何食べる?」
 僕が尋ねると、葵はぱっと顔を上げ、屋台を見回しながら目を輝かせた。
「うーん、いろいろ迷っちゃうね……。あ、かき氷は絶対食べたい!」
「じゃあ、それとフランクフルトとポテトと唐揚げ。シェアしようか」
 そう提案すると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「いいね! 一人で全部食べると多いけど、分ければいろいろ食べられるし!」
 その無邪気な笑顔に、僕は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、俺はフランクフルト買ってくるから、かき氷頼んだ」
「了解!」
 葵は小さく手を振ると、人混みの向こうへと向かっていった。その後ろ姿を見送ってから、僕もフランクフルトの屋台へと歩き出す。
 鉄板の上では、赤く焼き上がったフランクフルトがジュウジュウと音を立て、表面に脂がきらきらと光っていた。屋台の主人が手際よく串を返し、ケチャップとマスタードをたっぷりとかけていく。その香ばしい香りが鼻を刺激し、思わず腹が鳴りそうになる。
「兄ちゃん、一本?」
「あ、はい」
 小銭を渡し、熱々のフランクフルトを受け取る。串の先端を慎重に持ちながら、屋台を離れ、葵の元へと戻ると、彼女も無事にかき氷を手にしていた。
「フランクフルトゲット!」
「こっちもかき氷買えたよ! いちごシロップたっぷり!」
 透明なカップに山盛りのかき氷。鮮やかな赤いシロップがたっぷりとかかり、氷の隙間からとろりと流れ落ちそうになっている。葵はそれを両手で持ち、満足げに微笑んだ。
 ようやく人混みを抜け、僕たちは先ほど確保していたブルーシートへと戻ってきた。長い時間を歩き回ったせいで、足がじんわりと疲れているのを感じる。シートの四隅には、僕のスニーカーと彼女のサンダルの代わりに、拾ってきた大きめの石が置かれていた。誰が見ても仮の押さえだとわかるような不格好なその配置に、僕は思わず苦笑する。
「ふぅ……やっと座れる」
 腰を下ろし、大きく息を吐く。祭りの喧騒が少し遠ざかり、ようやく落ち着ける空間に戻ってきた気がした。
 夜空を見上げるが、まだ花火が打ち上がる気配はない。けれど、周囲を見渡せば、屋台の明かりが揺らめく幻想的な風景が広がっていた。赤、橙、黄色の提灯が川沿いに連なり、夜の帳にぽつぽつと灯る光の粒のようだ。風が吹くたび、明かりがゆらりと揺れ、影が踊る。その柔らかな輝きが砂浜の上にもぼんやりと落ちていて、まるで夏の夜そのものが夢幻の世界に変わったかのようだった。
 僕はフライドポテトを一本つまみ、口に運ぶ。指先にじんわりと油が馴染み、舌の上に塩気が広がる。シンプルな味だけど、こういう場所で食べるとやけに美味しく感じるから不思議だ。
 ふと横を見ると、彼女が何やらじっとこちらを見つめていた。
「……?」
 怪訝に思う間もなく、彼女は小さなスプーンを僕の前に差し出してきた。
 スプーンの上には、鮮やかないちごシロップに染まったかき氷。透明感のある氷が、ほんのりと屋台の灯りを透かしてきらめいている。その光景に、まるで宝石のようだと、一瞬だけ見惚れてしまった。
「はい、ア~ン!」
 彼女の楽しげな声に、思わず肩をすくめる。
「……いやいやいや」
 思わず反射的に顔が熱くなるのがわかった。
 周囲を見渡せば、近くには同じようにシートを敷いて座る家族連れや友人同士のグループがちらほらいる。中にはカップルもいて、向こうで並んで座る二人組が、こちらを見ながらひそひそと何か話しているのが視界の端に映った。いや、気のせいじゃない。完全に見られている。
「早く食べないと溶けちゃうよ? はい、ア~ン!」
 彼女は躊躇なくスプーンを僕の口元へと近づけてくる。
 いたずらっぽく細められた瞳は、まるで子供が面白がって仕掛ける悪戯そのものだ。口角を少し上げたその表情は、意地悪そうにも、楽しそうにも見える。断る余地なんて、はじめからなかったのかもしれない。
 僕は一瞬、視線を泳がせる。
 食べるか、食べないか——いや、選択肢はなかった。
「……わかったよ」
 小さく息を吐き、観念したようにそっと口を開ける。
 スプーンが唇に触れ、冷たい氷が舌の上に落ちた瞬間、ひんやりとした感触が一気に広がった。いちごシロップの甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、じんわりと体の奥まで冷やしていく。氷の粒がゆっくりと溶け、喉を滑り落ちるたびに、涼しさが体の中から染み込んでいくようだった。
 僕がスプーンを口に含むのを見届けた彼女は、満足げに微笑んだ。まるでいたずらが成功した子供のような、少し得意げな表情。そんな顔をされると、照れくさい気持ちが倍増する。
 彼女はそのまま自分の分のかき氷をすくい、小さく一口食べる。舌の上で転がすように味わいながら、ゆっくりと目を閉じた。
「ん~っ、やっぱり美味しい!」
 まるで幸せを噛み締めるように、彼女は小さく体を揺らしながら微笑んでいた。その無邪気な仕草が可愛らしくて、思わず視線を逸らす。
 しかし、僕の思考は別の方向に突き進んでいた。
──あっ、間接キスだ。
 今、僕が口にしたスプーンは、さっきまで彼女が使っていたもの。その事実が頭の中で急激に膨らみ、気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。まるで不意打ちを食らったように、指先がじんわりと熱を帯びていく。
 けれど、そんなふうに間接キスを意識してしまう自分に、さらに別の思いが襲いかかる。
──いや、さっき直接キスしたんだぞ、俺。
 ほんの数十分前。夏祭りの喧騒の中、彼女と交わしたキス。
 唇に残る、微かな体温と甘やかな感触。
 息が詰まりそうなほどに近く感じた距離。
──あんなに近くで、確かにキスをしたのに。
 なのに、いまさら間接キスごときで動揺している自分は、なんて愚かで、なんて青臭いんだろう。
「……なに?」
 ふと、彼女がこちらを見ていた。僕が思考の迷路に迷い込んでいるのが伝わったのか、首を傾げながら、不思議そうな顔をしている。
「いや、なんでもない」
 取り繕うようにかき氷のカップに視線を落とし、スプーンを差し込んだ。
 赤く染まった氷をすくい、無言のまま口に運ぶ。
 ひんやりとした冷たさが舌の上で広がり、シロップの甘酸っぱさがじんわりと染み渡る。喉を通るたびに、先ほどまで熱を持っていた指先や頬が、少しずつ冷やされていくような気がした。
──落ち着け、俺。
 自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと氷を溶かす。
「やっぱ、夏といえばかき氷だよね」
 彼女が嬉しそうに言いながら、スプーンですくった氷を口に運ぶ。白い器の上には、夕焼けのように鮮やかな赤いシロップが広がっている。舌の上で溶ける冷たさに、彼女は一瞬目を閉じ、幸せそうに肩をすくめた。
「うん。夏の味がした気がする」
 そう呟いた僕の言葉に、彼女はふと手を止める。
「夏の味?」
 小首をかしげながら、僕の顔を覗き込んできた。その瞳は、夜空に灯る屋台の明かりを映して、わずかに揺れている。
「うん。何て言うか……夕暮れの風とか、祭りのざわめきとか、こういうひんやりした甘さとか。そういうの全部ひっくるめて、夏の味って感じがする」
 口にしてみると、思っていた以上に気恥ずかしいことを言ってしまった気がして、僕はスプーンを握る手に少し力を込めた。だが、彼女はぱちりと瞬きをして、しばらく考え込むように視線を落とす。
 やがて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「何か素敵だね、陽。センスあるよ」
「何のセンス?」
 不意に褒められて、僕は肩をすくめる。彼女はスプーンを口に運びながら、少し得意げに目を細めた。
「うーん、何だろう? ワードセンス的な?」
「ワードセンス?」
「うん。詩人っぽいっていうか、言葉の選び方がいい感じ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
 彼女は胸を張ると、再びかき氷を口に含んだ。ほんのり赤く染まった唇の端が、ゆるりと綻ぶ。その頬が少し赤くなっているのは、照れ隠しなのか、それとも夏の熱気のせいなのか──。
 僕はそっと視線を逸らしながら、自分のスプーンで氷をすくった。ほんのり甘いシロップの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。口に含むと、ひんやりとした冷たさが舌の上でじんわりと溶けていった。
 そんな穏やかな時間の中で、ふいに祭りのスピーカーからアナウンスが流れた。
「花火開始三十分前です。この後、試し打ちとして一発花火が上がりますので、お楽しみに!」
 その瞬間──。
 夜空を裂くように、小さな光の筋が弧を描いた。
「わあ……!」
 彼女がぱっと顔を上げ、目を輝かせる。
 屋台の明かりが届かない夜の帳の中、暗闇に放たれた光は、一瞬だけ星のように瞬き、尾を引きながら消えていった。
 あれが本番の花火だったら、きっともっと大きな歓声が上がっていたことだろう。でも、今の一発だけでも、僕の胸の奥にはじんわりとした熱が広がっていく。
「……何か緊張してきた」
 隣で並んで座る彼女が、ぽつりと呟いた。
 夜風がそっと吹き抜ける。砂浜に敷かれたブルーシートの上、僕たちは並んで腰を下ろしていた。周りには、同じように花火を待つ人々の姿がある。浴衣姿のカップルや、家族連れ、友人同士のグループ。それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
 遠くでは屋台の呼び込みの声が響き、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。けれど、それらのざわめきが不思議と遠く感じるほど、彼女の言葉は静かに僕の耳に届いた。
「俺も」
 素直にそう返すと、彼女が驚いたように顔を上げる。
「え? 陽は初めてじゃないでしょ?」
 暗がりの中でも、その瞳が僕をまっすぐに見つめているのがわかる。
「でも、葵と一緒に見るのは初めてじゃん」
 そう言った瞬間、彼女の表情が一瞬固まり、ぱちりと瞬きをした。まるで予想外の答えだったかのように。
 そして、次の瞬間──。
「……このプレイボーイが!」
 ぷくっと頬を膨らませ、拗ねたような声を出した。
「えっ!? 何で!?」
 突然の言葉に、思わず身を乗り出す。
「何でもないよっ!」
 ぷいっと顔を背ける彼女の仕草が、無性に可愛く思えた。
 僕は、そんな彼女の姿を見つめながら、胸の奥にくすぐったいような感覚が広がるのを感じていた。
 気まずいわけじゃない。でも、妙に落ち着かない。
 彼女が視線を逸らしたまま、手遊びをしているのを見て、何となくその気持ちが伝わってくる気がした。
──もしかして、照れてる?
 そう思ったら、心の奥がじんわりと温かくなった。
 風が吹く。夜の匂いが混じった心地よい風が、僕たちの間をそっと撫でる。遠くで笑い声が弾け、誰かが「りんご飴、食べる?」と無邪気な声を上げる。
 それでも、僕たちの周りだけは、まるで時間がゆっくりと流れているみたいだった。
──もうすぐ、花火が始まる。
「さあ、ゆっくり待とう!」
 沈黙を破るように、彼女が僕の袖を軽く引く。
 その手のひらは、小さくて、ほんのりと温かかった。
 満面の笑みを浮かべた彼女の顔が、夜空の下で一段と輝いて見えた。
 僕も、それに応えるように微笑んだ。
 どこか胸が高鳴る。まるで、これから夜空に咲く花火の音が、もうすぐ心の中で鳴り響くような気がしていた。
 
 三十分後。
 夜の帳がすっかり降り、世界は静かに深い闇に包まれていた。祭りの賑わいは続いているはずなのに、どこか空気が変わった気がする。誰もが、これから始まる夜の芸術に息を潜めているようだった。
 その時。
 遠くで、低く唸るような音が響いた。
──ゴォォォ……。
 それは、地の奥底から湧き上がるような重みを帯びた音だった。祭りの喧騒も、屋台の呼び込みも、一瞬にしてかき消される。
 そして次の瞬間。
──ドンッ!!
 夜空が震える。
 胸にまで響くような打ち上げの衝撃が広がり、その直後、漆黒の空へ向かって火球が一直線に弾け飛んだ。
 一瞬の静寂。
 風が止まり、鼓動すらも聞こえなくなるような刹那の間。
 そして──。
 目の前の空が、燃えるように輝いた。
 金色の光が闇を裂くように広がり、花開く。まるで夏の夜に咲く一輪の大輪の花。光の花びらが四方八方に散り、残像が夜の空気に溶けていく。煌めく破片が、宝石のように儚くきらめきながら、ゆっくりと夜の深みへと吸い込まれていった。
「わあ、綺麗!」
 隣から、彼女の弾んだ声が聞こえた。
 視線をそっと横に向ける。
 花火の光に照らされた彼女の顔は、まるでその輝きの一部になったかのようだった。目を大きく見開き、唇はわずかに開いている。瞳に映るのは、色とりどりの光の軌跡。その表情は、まるで幼い少女のような純粋さに満ちていて、心の奥が強く揺さぶられた。
──こんな顔、普段は見せないのにな。
 いつもは少し勝気で、意地っ張りで、それでいてどこか大人びている彼女。だけど今、彼女の頬には微かに火照ったような紅が差し、目を輝かせている。その横顔が、花火の光と影に交互に照らされるたび、胸の奥がじわりと熱を持った。
「……すごいね」
 自分でも驚くほど小さな声がこぼれる。
 でも、彼女にはちゃんと届いたみたいだった。
「うん!」
 嬉しそうに頷く彼女の声は、弾むように軽やかだった。
──ドンッ!!
 再び響く轟音。
 夜空には、紅と蒼、紫と橙が混じり合いながら、まるで宇宙の果てまで届きそうなほどに大きな花が咲く。
 そのたびに、僕の心臓の鼓動も一緒に高鳴る。
 どんどん速くなっていく。
 きっと、花火のせいじゃない。
 たぶん、彼女の横顔があまりにも綺麗だからだ。
──触れたい。
 気がつけば、ブルーシートの上に置かれた彼女の手へと、そっと手を伸ばしていた。
 指先が、彼女の手の甲にかすかに触れる。
 少しひんやりとしていて、それでいてどこか温かい。
 彼女の指先が、かすかに震えた気がした。
 だけど、拒まれはしなかった。
 花火の光がまた一瞬、空を彩る。
 その瞬間、彼女がそっとこちらを見た。
 その瞳に映っているのは、僕の姿だろうか。それとも、夜空に咲いた光の軌跡だろうか。
 僕はあえて視線を外さなかった。
 まるで、この一瞬が永遠になればいいと願うように。
──今、目が合ったら。
 そんな予感がして、まっすぐに夜空を見上げ続ける。
 胸の奥が妙にざわついていた。
 夜風に乗って、彼女の髪がふわりと揺れるのが視界の端に映る。そのわずかな動きすらも、僕の意識を彼女へと引き寄せてしまう。
 彼女はどう思ったのだろう。
 僕と同じように、胸の奥で何かを感じているのだろうか。
 確かめる勇気はなかった。
 だからこそ、視線を交わさないままでいることを選ぶ。
 それでも、すぐに彼女がそっと夜空へと視線を戻したのが分かった。
 まるで、互いの気持ちを探るように。
 そして、次の瞬間だった。
 そっと、彼女の手が動いた。
 ほんのわずかに、ゆっくりと。
 指先がかすかに揺れて、僕の手の上を滑るように動く。
──え……?
 触れるか触れないかの絶妙な距離感のまま、その指は慎重に、けれど確実に僕の手を探るように動いていた。
 やがて、彼女の指が僕の指と絡む。
 その動きは、どこかためらいがちだった。
 でも、決して拒絶ではなく、まるでそっと確かめるような仕草だった。
 掌と掌がゆっくりと重なり、指先が絡み合う。
 強くもなく、かといって弱くもなく、ちょうどいい温度で。
 それは、彼女なりの"答え"のような気がした。
──握り返してくれた。
 僕の手を、導くように。
 視線を交わさずとも、確かに伝わるものがあった。
 胸の奥が熱くなる。
 花火の音が響く。
──ドンッ!!
 耳をつんざくような轟音が夜空を揺らし、無数の光が広がる。
 黄金色、深紅、瑠璃色、翡翠色。
 色とりどりの光が、暗闇に咲き誇る。
 大輪の花が夜空を彩り、儚く散る。
 そのたびに、まるでこの瞬間だけが世界のすべてになったような錯覚に陥る。
 まわりからは歓声が飛び交っていた。
「すごい!」「綺麗!」「わぁ……!」
 そんな声が、あちこちから弾むように聞こえてくる。
 だけど、不思議と僕の耳には、それらが遠く感じられた。
 まるで、僕たちだけが時間の流れから切り取られたみたいに。
 今、僕に聞こえているのは、彼女のかすかな息遣いだけだった。
 すぐ隣で、静かに、微かに、震えるように。
 風が吹いた。
 夜風が、ゆるやかに僕らの間を撫でる。
 その風に乗って、ふと、彼女の声が響いた。
「ねえ、陽……」
 その声は、かすかに震えていた。
「ん? 何?」
 彼女は夜空を見上げたまま、微笑んでいるように見えた。
 でも──。
 その横顔は、どこか寂しげにも見えた。
 花火の光が、彼女の頬を照らすたびに、その表情の奥に隠された何かが浮かび上がる気がした。
 彼女は今、何を考えているのだろう。
 知りたい。
 でも、知るのが怖いような気もした。
 次の言葉を待つ間、鼓動が少しだけ速くなる。
「ありがとうね。本当に……」
 突然の言葉に、僕は戸惑った。
 どうしたんだろう。
 さっきまで笑っていたのに。
 ほんの数秒前まで、彼女は楽しそうに花火を見上げていたはずだ。
 僕の隣で、小さな声で「すごいね」と言いながら、嬉しそうに光の花が開く瞬間を追いかけていたはずだ。
 なのに。
「急にどうした……?」
 彼女の様子が気になって、そっと顔を覗き込む。
 そして──息を呑んだ。
 彼女の瞳から、透き通るような涙が、ゆっくりと頬を伝い落ちていた。
 大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれる。
 花火の光を映したその涙は、まるで宝石みたいにきらめいていた。
 けれど、僕の胸が痛くなるのは、どうしてだろう。
 見てはいけないものを見てしまった気がして、言葉を失う。
 彼女は泣いていた。
 静かに、けれど確かに。
 頬を伝った涙は顎先で揺れ、やがてぽつりと地面に落ちた。
 その瞬間、心臓がきゅっと締めつけられる。
「こんな綺麗なもの……生まれて初めて見た……」
 夜風に溶けるように、彼女の声が震えながらこぼれる。
 花火の美しさに圧倒されているだけなのか。
 それとも──。
 何か別の想いが、その涙に混じっているのか。
 僕には分からなかった。
 けれど、彼女が泣いている。
 その事実だけが、胸の奥に突き刺さった。
 どうすればいいんだろう。
 何を言えば、彼女の涙を止められるんだろう。
 分からなくて。
 分かりたくて。
 言葉を探して、けれど見つからなくて、ただ握っていた彼女の手を、少しだけ強く握り直した。
 彼女の指が、かすかに震える。
 それでも、逃げようとはしなかった。
 そっと包み込むように、僕の手の中に収まっている。
──ありがとうは、こっちのセリフだよ。
 気づけば、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。
 彼女が、驚いたようにこちらを見上げる。
 涙の跡が残る瞳が、ゆっくりと僕を捉えた。
「……えっ?」
 不思議そうな表情のまま、瞬きをする。
 花火の光が、彼女の瞳の奥できらめく。
 僕は、そのまま静かに言葉を続けた。
「きっと、葵がいなければ……もう一度、ここに来ようとは思わなかった」
 ぽつりと呟いた自分の声は、夜風に乗ってどこかへと溶けていった。
 言葉にした途端、それが思った以上に本心だったことに気づく。
 あの時の自分なら、きっとここへ戻ることはなかった。
 楽しかった思い出も、苦しかった記憶も、すべてが胸の奥で色褪せて、ただ過去の断片として封じ込められていたはずだ。
 けれど、今は違う。
 彼女がいる。
 目の前で、風に揺れる髪をかき上げながら、じっと僕の言葉を待っている彼女の存在が、僕の心をそっと引き寄せる。
 遠くでまた、一筋の光が空へと昇っていく。
 夜の闇に吸い込まれるように、小さな点が一瞬の静寂を生んだ。
 次の瞬間──ドンッ、と腹に響くほどの衝撃音が響き渡り、夜空に大輪の花が咲いた。
 眩い光が広がり、葵の横顔を優しく照らし出す。
「ずっと忘れていたものを、取り戻した気がする」
 言葉足らずな自分なりに、精一杯の想いを紡いだ。
 ちゃんと伝わっているかどうかは分からない。
 けれど、これは紛れもなく、本心だった。
 葵は、何かを言いたげにこちらを見つめていた。
 揺れる瞳。
 けれど、何も言わずに、ただ僕の表情を確かめるように見つめている。
 そして、次の瞬間だった。
 不意に、そっと、僕の肩に寄りかかってきた。
 驚く間もなく、ふわりと柔らかい髪が頬に触れる。
 それと同時に、微かにシャンプーの香りが漂ってきた。
 甘すぎず、爽やかで、どこか懐かしさを感じさせる香り。
 心臓が跳ねる。
 ほんの少しだけ、僕の肩に彼女の重みがのしかかる。
 戸惑いながらも、その温もりが心地よくて、僕は何も言えなくなった。
──ああ、これは。
 女性に、こんなふうに甘えられるのは、生まれて初めてだった。
 どうすればいいのか分からない。
 けれど、嫌ではなくて。
 不思議な安心感が、僕の中に広がっていく。
 花火が次々と夜空を彩る。
 その音が耳に届くたび、彼女の肩がわずかに揺れる。
 この瞬間が、いつまでも続けばいいのに。
 そう思った。
「もう少し、早く出逢いたかったなあ……」
 ぽつりと、葵が呟いた。
 その声は、打ち上げ花火の轟音にかき消されそうなほど小さかった。
 けれど、なぜか僕の心には深く響いた。
「まだお互い10代じゃん。これからまだまだずっと一緒にいられるよ」
 当たり前のことのように言いながら、僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
 葵の瞳は、夜空に咲く大輪の花を映していた。
 赤や青、紫に橙――次々と色を変えながら、花火は夜空を彩る。
 けれど、彼女の表情にはどこか影が落ちていた。
 それが何を意味するのか。
 今の僕には、まだ分からなかった。
「……そうだね」
 葵は静かにそう答えた。
 けれど、その声はどこか遠く、響きを持たない。
 口では肯定しながらも、本当にそう思っているのだろうか。
 心の奥底では、違うことを考えているのではないか。
 彼女の言葉に、ふとそんな疑念がよぎる。
 夏になると、葵は少し感傷的になる。
 それは、まるで過去の欠片をそっと拾い上げるような仕草で、誰にも気づかれないように、そっと胸に抱えているようだった。
 ふとした瞬間に見せる遠い目。
 夕暮れの茜色に染まる空をじっと見つめる横顔。
 何かを探しているかのように、時折、虚空を仰ぐ仕草。
 それらすべてが、彼女の心の奥に眠る記憶の断片なのかもしれない。
 過去の思い出を振り返るように、懐かしそうで、それでいてどこか寂しげな表情を浮かべる。
 そして、今年の夏。
 そんな彼女の隣にいるのは、僕だった。
 今まで知らなかった彼女の表情。
 少しずつ触れていくたびに、僕の胸は熱くなる。
 僕は、本当に彼女のことを分かってあげられているのだろうか。
 彼女の心にそっと寄り添い、その寂しさを和らげることができるのだろうか。
 葵が僕のことを「分かってあげる」と言ってくれたように。
 僕も彼女のことを、もっと深く知りたい。
 もっと理解できるようになりたい。
 彼女の笑顔も、涙も、言葉にならない心の揺れも。
 全部、ちゃんと受け止められるようになりたい。
 そう強く思った。
 夜風が吹き抜ける。
 葵の髪が風に乗って僕の肩をかすめた。
 彼女のぬくもりを感じる距離。
 けれど、僕はまだ、彼女の心の深い場所には届いていない気がした。
 僕はそっと拳を握る。
 そのとき──。
「スターマイン」
 場内アナウンスの声が響き渡った。
 直後、夜空が一気に光に包まれる。
 まるで宇宙そのものが爆ぜるような、壮大な閃光。
 無数の火花が一斉に弾け、夜空に鮮やかな光の波が広がる。
 赤、青、金、紫──次々と色を変えながら、まるで生き物のように夜空を舞う。
 その姿はまるで、花畑が空に浮かんだかのようだった。
 星々を追い越し、瞬きながら散っていく光。
 ひとつ、またひとつと消えていくその儚さが、胸を締めつける。
 僕も彼女も、思わず息をのんだ。
「すごい……」
 葵が呟いた。
 その声は、感動に満ちていた。
 僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
 そこには、先ほどまでの翳りはなく、ただただ花火に魅入る純粋な表情があった。
 瞳の奥に映る、夜空の輝き。
 はじける光を追いかけるように、彼女の目が揺れる。
 僕は、そんな彼女を見つめながら、心の中でそっと願う。
──どうか、この瞬間がずっと続きますように。
 けれど、花火は燃え尽きるもの。
 美しく、儚く、夜空に咲いて、そして消えていく。
 それでも。
 たとえ、一瞬であったとしても。
 この夏の記憶が、ずっと彼女の心の中に残るものであってほしい。
 そして僕は、その記憶の中に、ほんの少しでもいいから、居場所を持ち続けたいと思った。
 花火が終わっても、夏が終わっても。
 僕たちの時間が、このままずっと続いていきますように。
 次々と夜空を照らす花火を見上げながら、僕は静かにそう誓った。
 夜空には、いくつもの光の残像が消え残っている。
 さっきまであんなに輝いていた花火も、いまはもう、黒々とした闇のなかに溶けていこうとしていた。
 ふと、隣に目をやる。
 葵はじっと空を見上げていた。
 大きな花火が弾けるたび、夜空を彩る光が彼女の横顔を照らす。
 その目に映るのは、最後の花火か、それとも――。
「ねえ、陽……」
 ふいに呼ばれた。
 夜風にそよぐ葵の髪が、ふわりと揺れる。
 静かに流れ落ちる一筋の髪が、頬にかかるたびに、彼女は無意識にそれを払う。
 けれど、それが何度も繰り返されるのは、ただ風のせいだけではないような気がした。
「ん?」
 ゆっくりと顔を向ける。
 葵は僕をじっと見つめていた。
 夜空に咲いた光の残滓を映す瞳は、ゆらゆらと揺れている。
 まるで、水面に映る月のように、不確かで、それでも確かにそこに存在していた。
 長いまつ毛が静かに瞬き、柔らかな唇が、かすかに震える。
 彼女は何かを言おうとして、迷っているようだった。
 そして――
「大好き」
 たった三文字の言葉が、夜の静寂を溶かすように響いた。
 風にさらわれてしまいそうなほど、かすかな声。
 それでも、確かに僕の胸の奥に届いた。
 その瞬間、心の中に何かが広がった。
 言葉にするには難しい、でも確かにそこにある感情。
 暖かくて、優しくて、だけど少しだけ切ない。
 まるで夏の終わりを惜しむような、そんな感覚だった。
 気づけば、僕の口からも自然に言葉がこぼれていた。
「……俺も、大好き」
 たったそれだけ。
 それなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 誰かに「好き」と言われたのも、誰かに「好き」と伝えたのも、生まれて初めてだった。
 その事実に驚く暇もなく、僕はただ、その言葉がすんなりと出てきたことに、どこか不思議な感覚を覚えた。
 それほどまでに自然だった。
 心が妙に落ち着いていて、まるで最初からこうなることが決まっていたかのように。
 運命、なんて言葉を使うのは、少し気恥ずかしいけれど。
 でも、もしも運命というものが本当にあるのなら。
 この瞬間こそが、きっとそれなのだろうと思った。
 気がつけば、葵はそっと僕の手を握っていた。
 指先が触れた瞬間、彼女の手のぬくもりが、夜風の冷たさに溶け込んでいくようだった。
 ほんのりと温かい手。
 でも、指先は少しだけ冷たかった。
 この夜風のせいか、それとも――。
 そっと、彼女の手を握り返す。
 指を絡めることもなく、ただそっと、優しく包み込むように。
 それだけで、心が満たされていくような気がした。
「そろそろ、終わりだね」
 ふいに、スピーカーから花火大会のフィナーレを告げるアナウンスが流れた。
 その瞬間、観客席のあちこちから名残惜しそうな声が上がる。
 誰もが、この夏の夜が終わることを惜しんでいるようだった。
 僕はふと、幼い頃の記憶を思い出す。
 家族と一緒に見上げた、あの夏の夜。
 最後の花火が夜空を焦がすとき、僕の胸にはいつも、驚きと感動が入り混じる、なんとも言えない感情が広がった。
 嬉しいような、寂しいような、でも確かに心が震える、そんな感覚。
――あのときの僕は、今の僕と、何も変わっていないのかもしれない。
「これ、マジで凄いよ」
 思わず、ぽつりと呟く。
 隣にいた葵が、興味津々の顔で僕を見つめた。
 大きな瞳が、夜の闇のなかで、星のようにきらめく。
「えっ? めっちゃ気になる……!」
 彼女は期待に胸を膨らませるように、顔を上げた。
 その表情には、先ほどまでの翳りはもうない。
 ほんの少し前まで、涙をこぼしていたなんて、嘘みたいに。
 けれど、その頬にはまだ、涙の跡がうっすらと残っていた。
 きっと彼女自身、涙を拭ったことにも気づいていないのだろう。
 僕はその名残すらも、どこか愛おしく感じた。
 彼女はじっと夜空を見つめる。
 その視線の先には、黒く広がる海と、かすかに揺れる光。
 そして――今、この瞬間に咲く、最後の花火を待つ、静かな期待。
 そのときだった。
 空気を震わせるような低い音が響く。
 遠くの海上に、ぼんやりと灯る小さな火点。
 それが徐々に空へと昇り、闇の中でその存在を主張する。
 次の瞬間――。
 轟音とともに、巨大な光の花が夜空いっぱいに咲いた。
 熊野大花火大会名物、三尺玉海上自爆。
 まるで空そのものが割れるかのような轟音。
 黄金色の光が、波打つ海の上で一気に広がる。
 葵は、その光景に息をのんだ。
 打ち上げられた火の粉が、夜空に舞い散る。
 鮮やかな金色の閃光が、まるで星々が海に溶け込むように、ゆっくりと消えていく。
「わぁ……!」
 彼女の声が、花火の音にかき消されそうになりながらも、確かに僕の耳に届いた。
 その横顔には、驚きと感動の入り混じった、心からの笑顔があった。
 胸が、ぎゅっと締めつけられる。
 この顔を、僕はずっと覚えていたいと思った。
 今だけの一瞬ではなく、この夏の終わりを象徴するような、特別な表情として。
 彼女の頬に映る光が、花火とともに揺れる。
 唇がわずかに開き、その隙間から零れる息が、夜風に溶けていく。
 言葉にできない何かが、そこには確かに存在していた。
 この一瞬に、僕たちの想いがすべて詰まっているような気がした。
――ああ、よかった。
 この夏、葵と一緒にここに来られて、本当に、よかった。
 僕は静かに、そう思った。
 花火は、やがてその命を燃やし尽くし、静かに夜の闇へと溶けていった。
 黄金色の残像が、瞼の裏にゆっくりと滲む。
 耳にはまだ、さっきまでの轟音の余韻が残っているはずなのに、不思議と世界は静まり返っていた。
 潮騒の音だけが、夜の空気に溶け込む。
「これで、終わりだね」
 僕はぽつりと呟いた。
 その言葉は、自分の口から出たものなのに、どこか遠くで響いているように感じる。
 葵は横で、小さく頷いた。
 さっきまで花火を見つめていた瞳が、ゆっくりと伏せられる。
 そして、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎはじめた。
「ありがとう、陽……本当に、ありがとう」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
「こんなに綺麗な花火を、一緒に見てくれて、ありがとう」
「私のことを、大好きって言ってくれて……ありがとう」
 一つひとつの言葉が、夜の海風に乗って、僕の胸の奥へと染み込んでいく。
 彼女はまっすぐ僕を見つめていた。
 月明かりに照らされたその瞳は、どこまでも澄んでいて、けれど、どこか寂しげだった。
 僕は、何も言えなかった。
 彼女の言葉が、優しすぎて、切なすぎて、ただ黙って聞くことしかできなかった。
 夜風が吹く。
 潮の香りが鼻をかすめる。
 波の音が寄せては返し、一定のリズムで静寂を揺らしている。
 ふと気づく。
 葵の肩が、ほんの少し震えていた。
 その小さな震えは、寒さのせいではなく――。
 僕の胸の奥に、じんわりと広がるものがあった。
 何かを言いたいのに、言葉が出てこない。
 ただ、確信していることがある。
――僕はきっと、この夜のことを、一生忘れない。
 そんな予感がした。
「陽、ありがとう。本当に、ありがとう」
 もう一度、彼女はそう言った。
 静かな夜の海風に乗って、その声はやさしく、穏やかに響いた。
 けれど――その言葉には、何か決意のようなものが滲んでいた。
「これで私は、何も思い残すことはないよ」
 その瞬間、僕の心の奥が、ざわりと揺れた。
「……何、思い残すことって?」
 自分でも驚くほど、声が強張っていた。
 葵は、ほんの一瞬、目を見開いた。
 でも、すぐに柔らかく微笑む。
 その微笑みが、ひどく儚く感じた。
「これから、いろいろと一緒に探そうよ。もっと綺麗なものをさ」
 花火の余韻が残る夜空を見上げながら、僕はできるだけ明るい声でそう言った。
 この沈んだ空気を変えたくて、どうにか葵を引き止めたくて。
「……うん。そうだね」
 葵は小さく頷いた。
 でも、その返事には、どこか熱がなかった。
 彼女の視線は、僕ではなく、どこか遠くを彷徨っていた。
 そのとき、僕は気づいてしまった。
 本当は、彼女は何かを諦めかけているんじゃないかって。
 それが何なのかは分からない。
 でも、彼女の心が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
 夜風が吹く。
 葵の髪がふわりと揺れる。
 彼女は微かに目を細めて、そのまま夜空を見上げた。
 花火はもう消えて、そこには静寂だけが残っている。
 僕は、そんな彼女の表情を見ていたくなかった。
 あまりにも静かで、あまりにも遠い。
 まるで心の奥底にあるものを、必死に隠そうとしているみたいだった。
 だから、「また来年も来ようね」とか「次はどこに行く?」とか、取り繕うように言葉を紡いだ。
 楽しい未来の話をしていれば、きっと彼女も笑ってくれる。
 そう思っていた。
 けれど、そのたびに返ってくるのは、短く、温度のない肯定文だけだった。
「……うん」
「そうだね」
 たったそれだけの言葉なのに、妙に重く響いた。
 波の音が静かに満ち引きするなかで、彼女の声だけが乾いた空気に吸い込まれていく。
 僕の言葉を、ただ優しく否定しないためだけの返事。
 そんな気がして、胸の奥がひどくざわついた。
 本当に、また来年も来るつもりで言ってくれたのか。
 本当に、次の行き先を楽しみにしてくれているのか。
 彼女の心の中が、僕には分からなかった。
 いや――分かってしまいそうで、怖かったのかもしれない。
 それでも、夜の時間は止まってくれない。
 どこかへ行かなくてはならない。
 僕たちの、今日という時間の終わりが、すぐそこまで迫っている。

 ***

 夜も更け、駅へと向かう道すがら、スマホで終電を調べた。
 画面の中の数字を見つめるうちに、ふと気づく。
 もう四日市まで帰るのは、無理だ。
 葵は僕の顔を覗き込んで、「どうしたの?」と小さく尋ねた。
 その声は、どこか眠たげで、少しだけ疲れているようにも聞こえた。
「四日市までの電車、もうないみたい」
「……そっか」
 葵は特に驚いた様子もなく、ただ淡々とそう返した。
 それがどこか寂しくて、僕は慌てて言葉を継いだ。
「まあ、仕方ないな。俺の母方のばあちゃんちが、尾鷲にあるんだよ。だから、今日はそこに行こうかなって」
 尾鷲――長らく訪れていなかった場所。
 祖母の家は小さな港町にあって、子どもの頃は毎年のように遊びに行っていた。
 いつも笑顔で迎えてくれる祖母の姿を、ぼんやりと思い出す。
 けれど、ここ数年は忙しくて、まったく顔を出せていなかった。
 夜も遅いし、急に訪ねるのは現実的ではないかもしれない。
 けれど、他に行くあてもない。
「確か、何軒かファミレスがあったはずなんだよ」
 駅のホームで電車を降りながら、僕は思い出すように言った。
「とりあえず、そこで時間を潰そう。まあ、最悪、おばあちゃんちに泊めさせてもらおう」
 そう言いながら、僕は内心少しだけ気まずさを感じていた。
 久しぶりに訪ねる祖母の家に、こんな形で行くことになるとは思わなかった。
 でも、葵が少しでも安心してくれるなら、それでいいと思った。
「陽、その辺り、結構逞しいよね」
 ふいに、葵がくすりと笑った。
 それは、本当に久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。
 どこか遠くに感じていた彼女の心が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
「まあ、なんとかなるよ」
 僕は肩をすくめ、軽く笑ってみせる。
 夜の街灯が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
 どこか儚げで、どこか頼りない。
 足元に揺れるその影を見つめながら、僕はぼんやりと思った。
 潮の香りが、ゆっくりと夜の風に溶けていく。
 遠く、見えない海の気配がする。
 この香りを感じるたび、夏の終わりが近づいていることを思い知らされるようで、胸の奥がざわついた。
 だけど、僕はまだ終わらせたくなかった。
 この夏を。
 この時間を。
 そして、この想いを。
 気づけば、僕は彼女の手を取っていた。
 そっと、優しく。
 驚かせないように、でも確かに。
「行こう」
 短く言葉を紡ぐ。
 彼女は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
 けれど、すぐにふっと力を抜くように、僕の手を握り返してくれた。
 その温もりが、たまらなく嬉しかった。
 たったそれだけのことなのに、胸の奥にふわりと温かいものが広がる。
 言葉にするのは難しい。
 でも、きっとこの瞬間こそが、僕が求めていたものだったんだと思う。
 駅を出ると、潮の香りを含んだ生ぬるい風が頬を撫でた。
 夜の帳が静かに街を包み込み、遠くで虫の声がかすかに響いている。
 町はまるで深い眠りについているように静かで、僕たちだけがこの時間に取り残されたような気がした。
「覚えてる? この道」
 歩き出した僕の隣で、葵がぽつりと呟いた。
「うん、なんとなくね」
 子どもの頃、祖母の家に来るたびに通った道。
 あの頃はもっと賑やかだった気がする。
 古びた個人商店や、小さな駄菓子屋。
 どこか懐かしい風景が、ぼんやりと記憶の中に浮かび上がる。
 でも、今は違う。
 店のいくつかはシャッターを下ろし、代わりに新しいコンビニやカフェができている。
 懐かしいはずの町並みは、少しだけ形を変えていた。
 それでも、不思議と落ち着くのは、この場所が僕の記憶の一部だからだろうか。
 しばらく歩くと、少し先にぼんやりと浮かび上がる明かりが見えた。
 遠くからでも分かる、ファミレスの灯り。
 助かった――。
 思わず安堵の息を漏らす。
 明かりに照らされたガラスの向こうには、まだ数人の客が座っているのが見えた。
 彼らもまた、僕たちと同じように、この夜に行き場を求めた人たちなのかもしれない。
 24時間営業のその店は、まるで夜の迷子たちを受け入れる避難所のようだった。
 自動ドアが開くと、ひんやりとした冷房の風が頬を撫でる。
 ほんのりと漂うコーヒーの香り。
 外の生ぬるい空気とは違う、心地よい静けさが広がっている。
 僕たちは、空いている席を見つけて腰を下ろした。
 メニューを開き、適当にサイドメニューとドリンクバーを注文する。
「ホットにしよっかな……」
 彼女がドリンクバーの前で、小さく呟いた。 その声は、どこかためらいがちで、ふっと夜の静けさに溶けていくようだった。
「あれ、珍しいね。いつもはアイス派なのに」
 彼女は、ほんの少し考えるように視線を落とし、それから微かに微笑んだ。
 けれど、その笑顔にはどこか影が差している気がした。
「うん……なんとなく、落ち着きたくて」
 そう言って、彼女はカップを取り、コーヒーサーバーのボタンを押す。
 静かな店内に、ぽたぽたと滴るコーヒーの音が響いた。
 その音を聞きながら、僕はぼんやりと彼女の横顔を見つめる。
――気のせいだろうか。
 今日一日、彼女はずっと何かを気にしていたような気がする。
 時折、遠くを見るような視線。
 ふっと消える笑顔。
 話している間も、心ここにあらずといった表情を浮かべる瞬間があった。
 僕の考えすぎなのかもしれない。
 でも、心のどこかで引っかかっていた。
 カップに注がれたコーヒーから、ふわりと湯気が立ち上る。
 彼女はそれを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと店の奥の席へと向かった。
 僕も自分のカップを手に取り、彼女の後を追う。
 席に戻ると、彼女は目の前のコーヒーを見つめたまま、そっと息を吹きかけた。
 まるで、その湯気の向こうに、何か大切なものを探しているように。
「花火、めっちゃ良かったよね」
 沈黙を破るように、僕はできるだけ明るい声を作る。
 なんとなく、そうしなきゃいけない気がした。
「俺、久しぶりだったからさ、感激したよ」
 彼女は少し驚いたように僕を見て、それからにっこりと微笑んだ。
「私も、あんなすごい花火初めて見た。本当に連れてきてくれてありがとう」
 けれど、その笑顔はどこか上滑りしているように感じた。
 形は笑顔なのに、そこに本当の喜びが宿っていないような気がする。
 なんて言えばいいのだろう。
 言葉にはならない違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「礼を言うのはこっちの方だよ」
 僕はマドラーでストローを軽くかき混ぜながら、少し照れくさそうに言う。
「葵がいなきゃ、今年も来ることはなかったし……多分、来年も再来年も行くことはなかったと思う」
 言葉にすると、自分でも妙な感覚に襲われた。
 確かに、それは本心だった。
 だけど、今この場で口にすると、なぜかひどく空々しく感じられた。
 花火大会の最中、僕たちはもっと自然に言葉を交わしていたはずだ。
 笑い合って、感動を共有して――。
 でも、今は違う。
 同じようなことを話しているのに、温度がない。
 まるで、録音された会話をただ再生しているみたいだった。
 気のせい、なのか?
 それとも――。
 葵は何も言わず、カップを持ち上げた。
 コーヒーにそっと唇を寄せ、ひと口、ゆっくりと飲む。
 僕は、それをただ黙って見つめていた。
 僕が今、話しているのは本当に彼女なのか?
 目の前に座る彼女の姿は、確かにそこにある。
 けれど、言葉を交わすたびに、何かが少しずつこぼれ落ちていくような感覚に襲われる。
 彼女の声は、僕の言葉は、どこか空っぽに思えた。
 まるで、見えない壁を隔てて会話をしているみたいだ。
 花火の下で感じたあの高揚感も、胸を熱くした想いも、
 今ではすべて、指の隙間からするりと抜け落ちていく気がする。
 本当に、あの時間は現実だったのか?
 僕は夢を見ていただけじゃなかったのか?
 カップをそっとテーブルに置く。
 陶器の底が触れる音が、静かな店内に妙に大きく響いた。
 反射的に彼女が顔を上げる。
「……陽?」
 名前を呼ばれて、僕ははっとする。
 顔を覗き込むようなその視線は、心配しているようでいて、どこか遠い。
「あ、ごめん。ちょっと考えごと」
 取り繕うように言うと、彼女はほんのわずか間を置いてから、
「そっか」
 と、短く呟いた。
 それ以上は何も聞かず、またカップを持ち上げる。
 白い湯気がふわりと立ち上り、やがて、ゆっくりと消えていった。
 ガラスの向こうには、静かな夜が広がっている。
 街灯が照らす歩道を、遅い時間にもかかわらず、数人の人影が行き交っている。
 けれど、店内はまるで世界から切り離されたかのように静かだった。
――何か、大切なものがすり抜けていく気がする。
 けれど、それが何なのか分からなかった。
 指を伸ばせば、触れられそうなのに。
 その実態が掴めないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
 この嫌な感覚を払拭したくて、僕は無理にでも言葉を繋ごうとした。
 話題なんてなんでもよかった。
 花火の余韻。
 学校のこと。
 テレビで見たどうでもいいニュース。
 とにかく、沈黙を作りたくなかった。
 彼女が遠くへ行ってしまいそうで――いや、もうすでに遠くにいるのかもしれない。
 彼女は決して僕の言葉を否定しているわけじゃない。
 頷くし、相槌も打つし、時折、微笑みさえ浮かべる。
 だけど、そこに心があるのかどうか分からなかった。
 彼女の声は、まるでガラス越しに響いているみたいに遠い。
 僕の言葉は、彼女に届いているんだろうか?
 それとも、ただ宙に浮いて、どこかへ消えていくだけなのか。
 会話が一方通行な感じがする。
 まるで、すべての言葉が薄い膜に阻まれて、彼女の元へ届く前に、弾かれてしまうような感覚。
 不安が、ゆっくりと心の奥に沈んでいく。
 このままでは、何か大切なものを失ってしまう。
 そんな予感が、頭の中にこびりついて離れなかった。
 僕は彼女の瞳をそっと盗み見る。
 時折、僕を見ているはずなのに、その目はどこか別の場所を見ているようだった。
 まるで、僕の知らないどこか遠くの世界に心を置いてきてしまったみたいに。
 言葉では繋がっているのに、心はどこにも届いていない。
 そんな焦燥感が、胸の奥をじわりと締めつける。
 僕は焦る。
 どんな話題なら、彼女は本当に笑ってくれるだろう?
 どんな言葉なら、あの花火の夜のように、心を通わせることができるだろう?
「そういえばさ、今日の屋台、めっちゃ美味しそうだったよな。りんご飴とか、食べたかったな」
 言葉を投げかけながら、僕は彼女の表情を探るように視線を向ける。
「うん、確かに。美味しそうだったね」
 彼女は微かに笑う。けれど、それはどこか薄い膜に覆われたような、輪郭のぼやけた笑顔だった。
「来年も行くなら、絶対食べような」
「……そうだね」
 そうだね。
 彼女は肯定してくれる。
 でも、その声には体温が感じられなかった。
 まるで録音された音声が再生されているみたいに、抑揚がなく、ただ機械的に返ってくる言葉。
 なぜだろう。
 なぜ、彼女はこんなにも遠くに感じるんだろう。
 テーブルの上で指を組みながら、僕は彼女の横顔を盗み見る。
 カップを持つ指は細く、慎重に縁をなぞるように動いていた。
 けれど、その仕草さえ、どこか別の場所に意識を置いているように見えてしまう。
 僕はどうすればいい?
 この距離を埋める方法は?
 彼女の心は、今どこにある?
 言葉を重ねるほど、彼女が遠ざかる気がする。
 それなのに、僕は言葉を紡ぐのをやめられなかった。
 まるで、水面に落ちる雨粒のように。
 ぽつり、ぽつりと投げかける僕の言葉は、波紋を広げることなく、静かに吸い込まれていく。
 何の反応もなく、ただ沈んでいく。
 それでも、僕は言い続けるしかなかった。
 彼女がまた僕のそばに戻ってきてくれるんじゃないかと、そんな儚い希望にすがるように。
 どこかに突破口があるはずだと信じて、僕はひたすら言葉を投げ続けた。
 夏祭りの思い出。
 学校の些細な出来事。
 ニュースで見たどうでもいい話題。
 彼女が笑ってくれる瞬間を探して、何度も、何度も、言葉を紡ぐ。
 でも、彼女の笑顔はもう、さっきまでとは違っていた。
 いや――違う。
 本当は、最初からずっと、僕の知らない彼女だったんじゃないか。
 そう思うと、怖くなった。
 このままでは、気づいてしまう。
 この違和感の正体に。
 でも、それを認めたら終わってしまう気がして。
 だから、僕は必死に話し続けた。
 まるで、自分の声で不安をかき消そうとするように。
 けれど、その努力は、まるで深い海の底で溺れるみたいに、もがけばもがくほど、苦しさだけが増していく。
 気がつけば、カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。
 彼女も、僕も、それを口にすることなく、ただ手の中に抱えたまま時間を過ごしていた。
 気まずいわけじゃない。
 居心地が悪いわけでもない。
 だけど、この沈黙は、あまりにも重かった。
 どれくらいの時間、僕は空回りし続けていたんだろう。
 ふと、窓の外を見る。
 夜が、白み始めていた。
 静まり返った街が、少しずつ光を取り戻していく。
 ビルの影がわずかに滲み、ゆっくりと形を変えながら、朝の訪れを告げていた。
 時計を見ると、もうすぐ始発の時間だった。
 ずっと話し続けていたはずなのに――
 何を話していたのか、ほとんど覚えていない。
 心が空っぽになったみたいに、ただ、虚無だけが残っていた。
 
 帰りの電車は、行きと同じように揺れているはずだった。
 なのに、まるで違う時間を生きているみたいだった。
 同じ線路を辿っているはずなのに、景色が色を失って見えた。
 ぼんやりとした光が車窓を流れ、夜明け前の街はまだ静寂の中にあった。
 いつもの雰囲気を取り戻したくて、僕はどうにか会話を続けようとする。
「今日、楽しかったな」
「うん」
 彼女の返事は、あまりにも短かった。
 ただの相槌――それ以上の何かを求めるのが、いけないことのようにさえ感じる。
「また一緒に行こうな」
「……うん」
 どこか、迷うような間があった。
 僕の言葉を受け止めているのか、それともただ、流しているだけなのか。
「次はどこ行きたい?」
「……そうだね」
 考えているようにも思えた。
 でも、その言葉に続きはなかった。
 まるで、話を終わらせるためだけに口を開いたみたいに。
 窓に映る僕たちの姿は、どこか歪んでいた。
 疲れた顔をした僕と、無表情の彼女。
 車内は人もまばらで、僕たちの会話は空間に溶け込むように消えていく。
 ふと、彼女の指先が視界に入る。
 膝の上で揃えられた両手は、ほんの少しだけ力がこもっていた。
 白く細い指先が、かすかに震えている。
 本当は何かを言いたいんじゃないか。
 僕の言葉に対して、ただ気のない肯定文を返すだけの彼女。
 そのくせ、指先だけが感情をこらえているみたいに見えた。
 僕の家の最寄り駅が近づく。
 その間も、彼女の態度が変わることはなかった。
――もう何を話せばいいのか、分からなかった。
 諦めたくないのに、どうしても手が届かない。
 彼女が遠い。どんどん遠ざかっていく。
 今日一日ずっと隣にいたのに、まるでずっと独りだったみたいに感じる。
 僕の知っている彼女は、本当にすぐそばにいるのか?
 そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。
「陽!」
 びくっとするほど強い声だった。
 久しぶりに、彼女の声をはっきりと聞いた気がした。
 驚いて顔を上げると、彼女がこちらをまっすぐ見ていた。
「何?」
 反射的に返事をする。
 彼女の目が揺れる。
 何かを伝えようとしている――そんな気がした。
 その一瞬、僕は希望を抱いた。
 まだ、何か話せることがあるんじゃないか。
 まだ、僕は彼女の隣にいられるんじゃないか。
 でも。
「ありがとう。さよなら」
「えっ……」
 電車のドアが閉まる。
 無機質なガラスが、僕と彼女の間に境界線を引いた。
 電車がゆっくりと動き出す。
 彼女の姿が、少しずつ遠ざかる。
 ガラス越しに、彼女は微笑んでいた。
 でも、それはどこかぎこちなくて、まるで寂しさを隠すための笑顔のようにも見えた。
 僕は、呆然と立ち尽くす。
 いつもなら、別れ際に「またね」と言ってくれる彼女が――
「さよなら」
 その言葉を選んだ。
 その瞬間、言いようのない不安が、僕の胸を締め付けた。
 これは、ただの別れの挨拶じゃない。
 まるで、何かを終わらせるための言葉のように聞こえた。
 彼女は、もう決めていたんじゃないか。
 今日、この日を区切りにすると。
 僕は立ち尽くしながら、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、ドアの向こうを見つめ続けた。

***

 当時、中学生が携帯電話を持つのは、まだ一般的ではなかった。
 少なくとも、僕の周りではそうだった。
 彼女が携帯を持っている様子もなかったし、僕自身、それほど必要性を感じていなかった。
 連絡を取る手段がないことに、不安を覚えることもなかった。
 だって、会いたければ、クラブに行けばいい。
 彼女はそこにいるはずだ。
 僕は、そんなふうに考えていた。
 何の根拠もない、幼稚な自信。
 どこかに「いつまでも続くもの」なんて存在しないのに。
 そんな当たり前のことにすら気づかず、僕は彼女の連絡先を聞くことを怠った。
 それが、どれほど脆く、危ういものだったのか――
 あの時の僕は、まだ知らなかった。

***

 それから、僕は何度もあのクラブに足を運んだ。
 金曜の夜、土曜の夜、時には日曜まで。
 彼女がそこにいるのが当たり前だった。
 だから、何事もなかったかのように現れるんじゃないかと、無邪気に期待していた。
 でも――
 どんなに待っても、彼女は現れなかった。
 照明が点滅するフロアで、僕は何度も彼女の姿を探した。
 人混みの中、視線を走らせる。
 バーカウンター、DJブースのそば、スピーカーの前――
 彼女がいつもいた場所を、ひとつずつ確認していく。
 それでも、どこにもいなかった。
 人が溢れるフロアの中で、彼女の不在だけが際立っていた。
 あの日以来、彼女は忽然と姿を消してしまった。

***

 彼女のいないクラブは、ひどく味気なかった。
 暗闇にぼんやりと浮かぶネオンライト。
 スピーカーから流れる、耳をつんざくようなビート。
 人の熱気と汗の匂いが入り混じるフロア。
 すべてが以前と変わらないはずなのに、まるで別の場所のように感じた。
 彼女がいた頃のクラブは、どこか暖かかった。
 音楽に合わせて体を揺らす彼女の姿。
 ふと振り向いたときに目が合って、微笑み合う瞬間。
 カウンターに並んで座り、くだらない話をしていた時間。
 そのすべてが、たったひと月前の出来事とは思えないほど、遠くに感じた。

 気がつけば、僕はただの観客になっていた。
 周囲の人間は楽しそうに踊り、酔いに身を任せ、互いに触れ合っている。
 でも、その輪の中に入る気にはなれなかった。
 彼女がいたときには、こんな感覚を抱いたことはなかったのに。
 ふと、グラスを傾けながら考える。
 もしかしたら、彼女は最初から、僕とは違う世界の人間だったんじゃないか。
 あの光の中に溶け込んでいた彼女。
 僕が何度も手を伸ばしたのに、結局、何も掴めなかった存在。
 そんなことを考えてしまうほど、彼女のいないクラブは冷たく、空虚だった。

***

 何度目かの訪問で、ふと気がついた。
――僕は、ここにいる意味がない。
 彼女がいないのに、なぜここにいるんだろう。
 音楽に身を委ねても、アルコールで気を紛らわせようとしても、まったく満たされない。
 結局、僕がこの場所に求めていたのは、彼女の存在だった。
 彼女と過ごした時間が、このクラブの全てだったんだ。
 それがない今、ここにいる理由なんて、どこにもなかった。
 最後にもう一度だけ、フロアを見渡してみる。
 赤や青のライトが瞬く空間で、人々は変わらず踊り続けている。
 彼女が消えたことなんて、誰も気にしていない。
 そんなことが、たまらなく悔しかった。
 彼女がいなくなって、世界が少し変わった気がしたのは、きっと僕だけなんだろう。
 僕は、手の中のグラスを見つめた。
 氷がカランと音を立てた。
 溶けて薄まった酒は、味気なく、ただ冷たかった。
 それはまるで、彼女のいないこの場所そのものみたいだった。

***

 夏が終わり、新学期が始まっても、僕の時間は8月17日のまま止まっていた。
 黒板に書かれる数式。
 チョークの先がこすれる乾いた音。
 教室に響く教師の単調な声。
 昼休みに響くクラスメイトの笑い声。
 誰かが机を引く音、購買のパンを巡ってじゃんけんする声。
 どれもこれも、かつての僕にとっては「いつも通りの風景」だった。
 疑うこともなく、違和感を抱くこともなく、ただ当たり前のものとして受け入れていた。
 それなのに、今はすべてが無機質に感じられた。
 まるで、モノクロの世界に放り込まれたようだった。

***

 教室の窓の外には、もう蝉の声はなかった。
 代わりに吹き抜ける風は冷たく、空はどこまでも高く透き通っていた。
「秋」――そんなものが訪れることさえ、僕は考えていなかった。
 彼女と過ごした夏が、まるで昨日のことのように思えてならなかったから。
 今、目の前にある季節の移ろいが信じられなかった。
 時計の針は進み、カレンダーはめくられ、季節は確かに巡っているのに――
 僕の中だけは、何も変わらないまま。
 時間に取り残されてしまったのは、僕だけだった。

***

 黒板に目を向ける。
 数学の教師が、xとyの絡み合う数式を滑らかに書き進めていた。
 けれど、その記号の羅列は、まるで別の言語のようで、何を意味しているのかさえ理解できなかった。
 僕はただ、空っぽのノートにペンを走らせるふりをするだけだった。
 ぼんやりと黒板を眺めながら、考える。
――彼女がいた夏のほうが、夢だったんじゃないか?
 潮風に吹かれながら見た、熊野の夜空。
 三尺玉の光の残像。
 打ち上がる花火の音にかき消されそうなほど小さな「大好き」という言葉。
 電車の中で、最後に聞いた「さよなら」。
 もしすべてが夢だったのなら、どれほどよかっただろう。
 そうすれば、こんなにも苦しくなることはなかったのに。

***

 彼女はいない。
 それはもう、どうしようもない事実だった。
 なのに、彼女の面影はどこにでもあった。
 誰かの笑い声が、ふと彼女の声に聞こえることがあった。
 窓の外に広がる空に、熊野で見た花火の幻影を重ねることがあった。
「おーい、聞いてるか?」
 肩を叩かれて、僕はハッと顔を上げる。
 隣の席の友人が、不思議そうに僕を見つめていた。
「……ああ」
 適当に相槌を打つ。
「なんかボーッとしてたな。大丈夫か?」
「平気だよ」
 嘘だった。
 何をしていても、どこにいても、僕の頭の中には彼女がいた。
 それはまるで、耳の奥にこびりついたノイズのようだった。
 消したくても消えない、夏の残響。

***

 彼女がいなくなってから、僕はクラブに行かなくなった。
 あそこに行けば、彼女に会えると信じていた。
 何度も通い、何度も彼女を探した。
 けれど、どれだけ待っても、彼女はもう現れなかった。
 それに気づいた時、僕はもう足を運ぶのをやめた。
 あの場所は、もう僕にとって意味を持たなかった。
 そこに響く音楽も、フロアの熱気も、僕を満たすものではなかった。
 だから、行かなくなった。
 でも、だからといって、彼女の不在を受け入れられたわけじゃなかった。

***

 何の変哲もない放課後。
 窓の外に広がる、夕焼けに染まる街。
 教室の片隅に一人座り、ただ、時間が過ぎていくのを待っていた。
 何もする気になれなかった。
 心が置き去りにされたまま、身体だけがそこにあるような感覚。
 ふと、ペンを握りしめる。
――もし、もう一度彼女に会えたら、僕は何を言えばいいのだろう?
 その答えが出ないまま、僕はただ、時間に取り残され続けた。

***

 残暑も薄らぎ、空気がひんやりとし始めた十月の初め。
 日が落ちるのが早くなり、夕暮れはすぐに夜の闇へと溶けていく。
 学校帰りの道を、僕はぼんやりと歩いていた。
 自分がどこへ向かっているのかすら、よく分からなかった。
 目の前には、いつもと変わらない風景。
 見慣れた住宅街の並び、コンビニの灯り、行き交う車のヘッドライト。
 けれど、それらはどこか遠くの景色のように思えた。
 足元には、風に吹かれて転がる枯葉。
 夏の間、青々としていた木々は色を変え、その葉を次々と落としていく。
 カサ、と小さな音を立てて、枯葉がアスファルトの上を転がった。
 それはまるで、季節の変わり目に取り残された僕の心そのもののようだった。
 秋の気配を感じる風が、首元のシャツをひらりと揺らす。
 ひんやりとした空気が肌を撫で、かすかに夏の記憶を吹き飛ばそうとする。
 でも、それはまだ僕の中にしがみついていた。
――夏は、もう遠い過去のはずなのに。
 僕の時間だけは、いまだに八月十七日のままで止まったままだった。

***

 ふと、足を止める。
 目の前には横断歩道。
 赤信号を示す灯りが、街灯の下でぼんやりと揺れていた。
 信号が変わるのを待ちながら、何の気なしに空を見上げた。
 夜の帳が下りかけた空には、うっすらと細い月が浮かんでいた。
 その隣には、かすかに光る星。
――夏の夜空にも、こんな星があったっけ。
 そう思った瞬間、記憶の底から浮かび上がってくるものがあった。
 手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあったはずなのに。
 信号が青に変わる。
 だけど、僕はすぐには歩き出せなかった。
 あの夏の記憶が、僕の足を止めていた。

***

 その時だった。
「おーい、陽だろ?」
 突然、背後から声をかけられた。
 ハッとして振り返る。
 そこに立っていたのは、クラブのオーナーだった。
 クラブでは何度も顔を合わせていたけれど、街中で会うのは初めてだった。
 オーナーは変わらずラフな格好で、片手にはコンビニのビニール袋をぶら下げている。
 どうやら仕事帰りらしい。
「最近、来てくれてないじゃん!」
 オーナーは軽い調子で言ったが、僕は一瞬、言葉に詰まった。
――行けるわけがなかった。
 あそこは、彼女がいた場所だった。
 彼女が笑い、歌い、踊っていた場所。
 彼女の声が響いていたフロア。
 彼女のシルエットが照明に浮かび上がっていたステージ。
 彼女が僕の手を引いて、こっそり抜け出した裏口の通路。
 すべてが、彼女の存在と結びついていた。
 だから、もう行けなかった。
 なのに、どうして今さらそんなことを聞くんだろう。
「……ああ、すみません。受験勉強で忙しくて……」
 口から出た言葉は、どこか他人事のようだった。
 本当は、勉強なんてろくに手につかず、ただただ日々をやり過ごしていただけだったのに。
 オーナーは「ああ、そうか」と頷いた。
「そっか、受験生か。そりゃ大変だよな。でも良かったよ――」
 オーナーは言葉を切ると、少し間を置いてから続けた。
「葵のことで落ち込んでるんじゃなくて」
 その名前を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。

***

 葵。
 その名前が、あまりにも自然にオーナーの口からこぼれた。
 空気が凍りつく。
 心臓が、嫌な鼓動を打つ。
「……えっ?」
 口から漏れた声は、驚くほどかすれていた。
 まるで、喉が一瞬で砂漠になったみたいに、乾ききっていた。
 オーナーは、そんな僕には気づかないまま、言葉を続ける。
「葵もさ、あんなに若いのに可哀想にな」
 可哀想?
 その単語が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
 さっきまで秋風に舞っていた落ち葉が、突然地面に張りついたみたいに、世界が急に重たくなった。
「……えっ?」
 声にならない声が喉の奥からこぼれる。
 なぜ、過去形なのか。
 なぜ、「可哀想」なんて言うのか。
 それは――どういう意味なんだ?

***

「えっ……? 葵に何かあったんですか?」
 尋ねる声は、自分のものとは思えないほど震えていた。
 風が吹く。
 落ち葉が舞い上がり、冷たい空気が首筋を撫でる。
 けれど、その寒さすら感じられなかった。
 オーナーの表情が、ふと曇る。
「えっ? お前、知らねーの?」
 困惑したように、オーナーは眉をひそめた。
「仲良かったから、てっきり知ってるもんだと……」
 仲良かった。
 そうだ、僕たちは、仲が良かった。
 彼女の歌声が響くクラブで、何度も時間を共にした。
 あの夏、僕達は熊野まで行って、一緒に花火を見た。丸一日以上、一緒にいた。
 別れ際に「ありがとう」と「さよなら」を言われた。
……だけど、それからは?
 思い返してみる。
 でも、何も出てこない。
 僕は、葵の何を知っていた?
 オーナーが言い終わるよりも早く、僕は喉の奥から言葉を押し出した。
「……何があったんですか?」
 声が裏返る。
 胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
 答えを知るのが怖かった。
 だけど、それ以上に、何も知らないままでいるのが怖かった。

***

 冷たい秋風が吹き抜ける。
 オーナーは、一瞬だけ僕を見つめた。
 その視線には、何かを言いづらそうな迷いがあった。
 それでも、ゆっくりと口を開く。
「……死んだんだよ、葵。」
 秋風の中に、静かな声が溶けていく。
「もう二、三週間前になるかな」
 最初は、意味がわからなかった。
「えっ……?」
 足元のアスファルトが、ぐにゃりと歪んだ気がした。
「葵が……死んだ?」
 言葉が、喉に詰まる。
 死んだ?
 それは、どういうことだ?
 彼女が――?
 あの葵が?

***

 オーナーは、遠い世界の出来事を語るように、淡々と続ける。
「クラブに来てる連中も何人かは通夜に行ったみたいだけど……お前は呼ばれてなかったんだな」
 通夜。
 その言葉が、まるで遠い異国の言葉のように響く。
 過去形で語られる彼女の存在。
 昨日まで確かにいたはずの人間が、もうどこにもいない――そんな現実が、頭のどこにも収まらなかった。
 喉の奥が乾ききっているのに、胃の底からせり上がるような吐き気を感じる。
 食道が逆流するように、何かがこみ上げてくる。
「嘘ですよね……?」
 そう言おうとした。
 けれど、喉がひどくひりついて、声にならなかった。
 オーナーはまだ何かを言っていた。
 気遣うような言葉。
 慰めの言葉。
――でも、僕の耳には何も届かなかった。

***

 再び風が吹いた。
 冷えた空気が、無防備な首筋を撫でる。心なしか、先程の風よりも一層冷たく感じる。
 乾いた枯葉が、無情に舞い上がり、足元でくるくると転がった。
 まるで、彼女がこの世界に存在していたことすら、風が掻き消していくみたいだった。
 僕の世界から、音が消えていた。
 オーナーが最後に言った、「また店に顔出せよ」という言葉に、僕は「はい」と気のない返事をした。
 それが、精一杯だった。
 口の中がひどく苦かった。
 息を吸うたび、心の奥に鈍い痛みが広がった。
 そして――葵が死んだという事実以外、僕の記憶からすべてが消えた。

***

 それからの僕は、ただ時間に流されるだけの日々を過ごした。
 朝が来て、夜が来る。
 目を覚まして、飯を食い、学校へ行く。
 ただ、それだけのことを、機械的に繰り返していた。
 何をしても、何を考えても、すべてが空虚だった。
 授業の内容も、隣の席のやつの話す言葉も、ただ耳を通り過ぎていく。
 まるで、自分だけが別の時間の流れに取り残されたようだった。
 それでも、日常は止まってはくれない。
 葵がいなくても、クラスメイトたちは変わらず笑い、先生たちは変わらず授業を進める。
 季節は移り変わり、枯葉が舞っていた街路樹には、新しい葉が芽吹いていた。
 僕は、ただ黙ってそれを眺めていた。

***

 僕は、あの日、彼女に宣言した通り、川越高校に進学した。
 勉強に熱中することもなく、部活に情熱を燃やすこともなく、ただ時間に押し流されるように、日々を過ごした。
 放課後、クラスメイトたちが楽しそうにカフェへ向かうのを横目で見ながら、僕はまっすぐ家に帰る。
 帰ってもやることはない。
 スマホの画面を無意味にスクロールし、眠くなったら寝る。
 そんな毎日だった。
 将来の夢なんて、とうの昔に見失っていた。 

***

 高校三年になっても、僕の中の虚無感は、いささかも変わらなかった。
 進路指導が始まる。
 先生は「どこを受ける?」と聞いてきた。
 僕には、特に行きたい大学なんてなかった。
 だから、コスパだけを重視して、名古屋市内の中堅レベルの私立大学を選んだ。
 推薦入試で合格した。
 ただ、それだけのことだった。

***

 大学に入っても、僕の中の虚無感は消えなかった。
 講義に出る。
 レポートを書く。
 単位を取る。
 そんな日々が続く。
 でも、それらは僕にとって、ただの作業にすぎなかった。
 気づけば、葵のことを考える時間は減っていた。
……いや、本当は、考えないようにしていたのかもしれない。
 彼女のことを思い出すたび、胸の奥がひどく痛むから。
 だから、僕は意識的に、記憶を封じ込めるようになった。
 彼女と過ごした夏の日々も、夜の砂浜も、すべて。
 でも、それで本当に忘れられるわけがなかった。

 日々の生活に意味を見出せないまま、時間だけが過ぎていった。
 アルバイトも適当に選び、居酒屋のホールやコンビニのレジ打ちを転々とした。
 働いている間だけは余計なことを考えなくて済んだが、終わった後の虚しさは変わらなかった。
――そんな僕が、何となく塾講師のアルバイトを選んだのは、ほんの些細なきっかけだった。
 時給がそこそこ良かったこと。
 座ってできる仕事だったこと。
 そして、心のどこかで、「誰かに何かを教える」という行為に、漠然とした興味があったこと。
 その興味の正体に、最初は気づかなかった。
 でも、あるとき、授業の合間に、生徒の一人が「先生はどうして塾講師をやってるんですか?」と何気なく尋ねてきた。
 その瞬間、記憶の奥から、ある夏の日の景色が鮮やかに蘇ってきた。
「……じゃあ、英語はどこで躓いた自覚がある?」
「うーん、最初から躓いてたと思うけど……三人称単数とかが未だに意味が分からない。何で一人なのに三人称なの?」
「……ああ、それはね、自分視点で見て『三人目』って意味なんだよ」
「例えば——俺視点だと、俺が一人称で、私のI。で、葵が二人称。あなたのYou。で——」
「あそこにいるおじさんが、三人目の『三人称』。彼だからHe。こんな感じで、俺と葵以外の誰かは、全部三人称になるんだよ」
「……えっ? めっちゃ分かりやすいんだけど」
 葵が目を輝かせる。
 表情がぱっと明るくなり、彼女は嬉しそうに笑った。
 その瞬間、僕の胸の奥で、温かい何かが弾けた気がした。
……きっと、あの感覚が、僕の中にずっと残っていたのだろう。
 誰かに何かを教えて、それが相手の中に届いたときの感覚。
 僕が塾講師や家庭教師のアルバイトを選んだのは、意識していたわけじゃない。
 けれど、心のどこかで、あの夏の日の経験が僕の進む道に影響を与えていたのかもしれない。
 それでも。
 僕は学校の教師になろうとは思わなかった。
 決められたカリキュラムをなぞるだけの授業。
 テストの点数を上げることだけが目的の教育。
 そんなものに、意味はあるのか?
 葵と過ごした時間には、もっと自由で、生き生きとした学びがあった。
「こうしなきゃいけない」という型にはまらず、ただ純粋に「教えることの楽しさ」があった。
 だから、大学では教職課程を取らなかった。
 教師にならなくても、誰かに何かを教えることはできる。
 僕は、もっと自由な形で、教育に関わりたかった。
 それでも。
 大学を卒業したあとも、僕には特に夢や目標がなかった。
「教師にならない」と決めたはいいが、人に何かを教えること以外にやりたいこともなかった。
 結局、周囲の流れに押されるように、他業種の企業に就職した。
 どこにでもある普通の会社。
 特に興味もなく、情熱もない仕事。
 ただ、淡々と働いた。
 与えられた業務をこなし、決められた時間に帰る。
 給料をもらい、最低限の生活を送る。
……それだけの毎日。
 それでも、唯一変わらなかったのは、副業として続けていた家庭教師の仕事だった。
 生徒の横で、問題の解き方を教えるときだけは、不思議と心が穏やかになった。
 ほんのわずかでも、生徒が「わかった!」と笑顔を見せてくれると、どこか懐かしい気持ちが胸に広がった。
 その瞬間だけ、僕は唯一、彼女と繋がっていられる気がした。

 プロの家庭教師として独立することになったのは、様々な経験を経た末の決断だった。
 会社員としての毎日は、ただ時間に追われるだけの生活で、朝、決まった時間に起き、満員電車に揺られ、オフィスに向かう。
 PCの前に座り、無機質な資料を作り、会議に出る。
 昼休みにはコンビニで買った弁当を無言で食べ、定時を迎えれば、疲れた体を引きずるようにして帰宅する。
 誰かの役に立っている実感もなく、ただ業務をこなすだけの日々。
 何かが足りなかった。
 このまま何年も、何十年も続けていく未来を想像すると、息が詰まるような感覚に襲われた。
 けれど、そんな僕の生活の中で、唯一心が動く瞬間があった。
 それは、家庭教師の仕事をしているときだった。
 仕事を終えた後、スーツを脱ぎ捨て、カジュアルな服に着替える。
 資料をカバンに詰め込み、生徒の家へ向かうため電車に乗る。
 仕事帰りの疲れたサラリーマンたちとは違い、僕はどこか軽やかな気持ちで座席に身を預けていた。
 生徒の家に着くと、いつも不安そうな表情を浮かべていた子が、僕の説明を聞くうちに少しずつ表情を変えていく。
 ペンを握る手が震えていた子が、正解を導き出した瞬間、ぱっと顔を輝かせる。
「先生! これ、わかった!」
 その言葉を聞くたびに、僕の胸の奥で何かが熱くなった。
 あの夏の日、葵に英語を教えたときと同じ感覚だった。

***

 気づけば、会社の仕事よりも、生徒と向き合う時間の方が楽しくなっていた。
 誰かの役に立っている実感があった。
 生徒の成長を間近で感じることができた。
――この仕事なら、自分にしかできないやり方で、人の人生に関われるかもしれない。
 そんな思いが、僕の中で次第に大きくなっていった。

***

 決断したのは、ある雨の日だった。
 会社帰り、濡れたアスファルトの上を歩きながら、ふと、電車の窓に映る自分の顔を見た。
 疲れ果て、どこか虚ろな表情をしている自分。
……このままでいいのか?
 そう思った瞬間、足が止まった。
 スマホを取り出し、電車の中で「個人事業主 家庭教師 開業」と検索する。
 画面には、開業届の出し方や、集客の方法が並んでいた。
 知らない世界だった。
 不安もあった。
 でも――。
 やってみよう。
 そう心の中で呟いた瞬間、雨の冷たさとは違う、妙な熱が胸の奥に広がっていった。

***

 そこからの行動は、驚くほど早かった。
 まずは、個人のホームページとブログを開設した。
「プロ家庭教師」として、どんな指導をするのか、自分なりの教育理念を言葉にしてまとめた。
 SNSでも少しずつ発信を始め、勉強のコツや受験対策について投稿した。
 最初は手探りだった。
 フォロワーもほとんどいない。
 ブログのアクセス数も、一桁の日が続いた。
 それでも、不思議と焦りはなかった。
 会社の仕事では感じることのできなかった「生きている実感」が、そこにはあったから。

***

 そして、ある日。
 ブログの問い合わせフォームに、一通のメッセージが届いた。
『中学3年生の娘の家庭教師をお願いしたいのですが、一度体験授業を受けられますか?』
 画面を見た瞬間、心臓が跳ねた。
 初めての正式な依頼。
 目の前の世界が、少しだけ色を変えたような気がした。
 相手は、中学三年生の女の子。
 名前は、中村翠(なかむらみどり)。
 事前に、保護者と電話で簡単な打ち合わせを行った。
 話しぶりから、教育熱心な母親の姿が浮かぶ。
 娘の学力に不安を抱え、藁にもすがる思いで依頼をしてきたのだろう。
「どんな先生なのか、一度お会いしてお話を伺えればと思います」
 穏やかながらも、少し慎重な声色。
 当然だろう。
 家庭教師は、子どもの教育に深く関わる仕事だ。
 信用されなければ、依頼には繋がらない。
 電話を終えた後、僕は深く息を吐いた。
 いよいよ、ここからが本番だ。

 数日後、指定された自宅を訪れることになった。
 スーツを着るべきか、カジュアルな服装で行くべきか。
 ノートパソコンは必要か、参考書はどんなものを持っていけばいいのか。
 細かいことを考えながら、カバンに荷物を詰める。
 それは、まるで受験前夜のような緊張感だった。
 しかし、心の奥では、確かな熱が燃えていた。
 これが、僕の新しい人生の第一歩になる。

 指定された住所に向かうと、目の前にあったのは、年季の入った中華料理店だった。
 道路に面した店先には、色褪せた赤い暖簾がかかっている。
 暖簾の端は少しほつれ、長年の風雨にさらされてきたことを物語っていた。
 ガラス戸越しに店内を覗くと、壁には油で少し黄ばんだメニュー表が貼られ、カウンターには使い込まれたおしぼりケースが並んでいる。
 店の前には、年季の入った出前用のバイクが停められていた。
 車体の一部は錆びつき、荷台のボックスには「中華料理 なかむら」と書かれたシールが貼られている。
 シールの角が剥がれかけていて、時間の流れを感じさせた。
(ここで合ってるよな……?)
 僕はスマホの画面を確認しながら、改めて住所を見比べる。
 間違いない。ここだ。
 家庭教師の体験授業で訪れる場所としては、正直、少し意外だった。
 勝手なイメージかもしれないが、こういう場合、もう少し整った住宅街の一軒家や、マンションの一室を想像していた。
 だが、目の前にあるのは、昔ながらの家族経営の飲食店。
 店の横には、同じく年季の入った二階建ての住宅が併設されている。
 恐らくここが、中村翠の家なのだろう。
 僕は、少し迷いながらも、インターホンのボタンを押した。
「ピンポーン……」
 チャイムの音が鳴り響き、その直後、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
 しばらくすると、扉の向こうから、明るい女性の声が飛んでくる。
「はーい、すぐ開けますね!」
 玄関の扉が勢いよく開き、現れたのは、エプロン姿の中年の女性だった。
 額には汗が滲んでいて、明らかに忙しそうだ。
 手には、注文伝票らしきメモが数枚握られている。
「こんにちは、陽先生ですね? うちの翠がお世話になります」
 彼女はにこやかに言いながら、腕時計をちらりと確認する。
 同時に、家の奥から恰幅の良い男性が出てきた。
 恐らく、翠の父親だろう。
 二人は軽く頷き合うと、何のためらいもなく外へ向かおうとする。
(え、待って……?)
 僕は、目の前で繰り広げられる状況を飲み込めず、思わず声をかけた。
「……あの、もしかして、ご両親は今からお仕事ですか?」
 女性は、靴をつっかけながら、悪びれる様子もなく答えた。
「ええ、すみませんねぇ。店のピークがちょうどこの時間なんで」
 その言葉に、僕の中で違和感がふくらんでいく。
「じゃあ、体験授業の間は翠さんと二人きりということに?」
「そうなりますね。翠、よろしくね」
 女性が奥に声をかけると、玄関の奥から、小柄な少女がひょこっと顔を出した。
 彼女は、僕の想像よりもずっと華奢だった。
 細い肩、小さな顔。
 黒髪は肩口で切り揃えられ、ぱっちりした目が印象的だった。
「はーい、行ってらっしゃい」
 彼女は軽い調子で手を振ると、あっさりとした態度でこちらを見る。
 その様子に、僕はますます困惑した。
(え……この親、マジで何も気にしないのか……?)
 両親は、何の躊躇もなく店の方へと歩き出していく。
 後ろ姿を見送りながら、僕の中で、もやもやとした疑問が浮かんできた。
 初対面の家庭教師を、何の疑いもなく娘と二人きりにするってどういうこと?
 万が一、相手がおかしな人間だったらどうするつもりなんだ?
 今の世の中、何が起こるかわからない。
 家庭教師にまつわる事件なんて、いくらでもニュースになっている。
 それなのに、この親はそんな可能性を少しも考えていないのか?
 慎重な家庭は、最初の授業には必ず保護者が同席するものだ。
 中には、指導の様子をスマホで録音・録画する家庭もある。
 それくらい、家庭教師というのは、ある意味「リスクのある存在」なのだ。
 それなのに――。
 彼らはまるで「知り合いの兄ちゃん」に預けるくらいの気軽さで、僕に娘を託した。
 たった数回のメールと、電話で話しただけの相手に。
 僕は、心の中でため息をついた。
(まぁ……俺は別に変なことはしないけどな)
 翠は、僕の戸惑いをよそに、まるで何事もないかのように振る舞いながら、玄関の奥へと歩いていった。
「どうぞ、先生。こっちが勉強部屋です」
 翠は、慣れた様子で僕を振り返り、廊下の一番奥にある部屋を指さした。まるで毎日こうして誰かを案内しているかのように、自然な仕草だった。
 僕は、少しためらいながらも彼女の後について廊下を進む。足元の畳は年季が入っていて、わずかに沈み込む感覚がある。部屋の前まで来ると、翠はさっと障子を引き開けた。
「ここが勉強するところです」
 中に入ると、シンプルな部屋だった。低めの勉強机に、小さな本棚。窓際には観葉植物が置かれている。奥の壁にはカレンダーが掛かっていて、予定の欄には丁寧な字で「期末テスト」と書かれていた。
「信用してくれてるのはありがたいけど……これは駄目だよな」
 僕は思わず、独り言のように呟いた。
 すると、翠が不思議そうにくるりと振り返る。
「何が駄目?」
 きょとんとした表情で、首をかしげる。その仕草があまりにも無防備で、僕はますます不安になった。
「いや……初対面の大人の男と自分たちの娘を二人きりにしてしまう両親って、どうかと思わない?」
「んー……別に?」
 翠は軽く肩をすくめる。
「もし俺が、おかしな人間だったらどうするんだよ」
 僕は畳の上に正座しながら、まじめに問いかけた。しかし、翠は特に動揺する様子もなく、逆にじっと僕の顔を見つめてきた。
「おかしな人間か……」
 一瞬、思案するように視線を泳がせたあと、翠はクスリと笑った。
「例えば、中学生のくせにクラブで酒を飲んだり、高校生の女の子を連れて熊野まで花火を見に行ったりするような人?」
――その瞬間、僕は固まった。
 翠は、まっすぐ僕を見つめていた。
 まるで、僕の過去をすべて知っているかのように――。
「……えっ?」
 目の前の少女が口にした言葉を、僕はすぐに理解できなかった。
 翠――この日、初めて出会ったはずの中学生の少女が、二十年以上前の僕の過去を知っている。
 熊野の花火。
 高校生の女の子。
 クラブでの夜。
 そんなはずはない。彼女が知っているはずがない。
 僕は驚きのあまり、言葉を失ってしまった。
 翠は、そんな僕を見て、ふわりと微笑んだ。
「久しぶり、陽。また会えたね!」
 その声は、確かに翠のものだった。
 けれど、僕の記憶の中に深く刻まれた、あの夏の日の声と、まったく同じ響きを持っていた。
 背筋に冷たいものが走る。
 目の前で起きていることが、現実的でないことは理解していた。
 普通ならありえない。理屈では説明がつかない。
 でも、僕の頭がそれを否定しようとするより早く、体は勝手に反応していた。
「……葵?」
 その名を口にした瞬間、心臓が跳ねるように鼓動を打った。
 まさか。
 そんなことがあるはずがない。
 でも、もしも――。
 頭の中で無数の可能性が渦巻く。
 錯覚だろうか。何かの勘違いだろうか。
 それとも、僕はとうとう幻覚を見るほど疲れているのか。
 だが、翠――いや、目の前の少女の瞳の奥に、僕が忘れるはずもない、あの光を見つけてしまった。
 それは、夏の海辺で夕陽を背に笑っていた少女の眼差し。
 僕の人生を大きく変えた、あの人の――。
「葵……!」
 気がつけば、僕は目の前の少女を強く抱きしめていた。
 細く、小さな肩に腕を回した瞬間、熱が伝わってくる。
 柔らかな感触が、確かにこの世のものとして存在していた。
 幻ではない。これは、確かな現実。
 その証拠に、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
 潮風と、柑橘系の香りが混じった、夏の記憶の匂い。
 胸の奥から、ずっと押し込めていた何かが溢れそうになる。
……違う。
 これは、夢じゃない。
 本当に――彼女がここにいる?
 抱きしめた腕に、少女の肩がふるりと震える。
 次の瞬間、僕の胸の中で、小さく笑う声がした。
「絶対こうなると思ったから、誰もいない日に体験授業を入れたんだよ」
 まるで、すべて計算済みだったかのような口ぶり。
 腕の中で、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「うちの両親、チョロいからさ。簡単に言いくるめられたよ」
 その表情が、あの夏の日の彼女とぴったり重なった。
 楽しそうに笑いながら、僕をからかうように視線を絡めてくる。
 やっぱり――これは夢なんかじゃない。
 目の前にいるのは、確かに彼女だった。
 けれど、どうして?
 なぜ、彼女が今ここにいる?
 そして――翠は本当に翠なのか?
 それとも、葵なのか?
 僕の中で、現実と記憶が混ざり合い、ひどく曖昧になっていくのを感じた。
 目の前にいるのは、確かに翠という名前の少女だ。
 けれど、その瞳の奥に宿るものは、あの夏に出会った葵のものと寸分違わない。
 それが錯覚なのか、それとも――。
「まさか輪廻転生なんて存在すると思わなかったからさ、さよならって言っちゃったよ。ごめんね」
 少女の言葉が、静かに僕の耳に届く。
 その瞬間、胸の奥に眠っていた感情が、じわじわと溶け出していった。
 信じられない。
 でも、信じない理由もなかった。
――あの日、僕は確かに彼女を失った。
 葵の死を知ったときの、あの衝撃。
 喪失感。
 悲しみ。
 それらが、決して作り物ではなかったことに間違いはない。
 彼女は、あの夏の終わりに、僕の前から突然いなくなった。
 だからこそ、僕は何度も問い続けた。
 なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。
 なぜ、僕は何も知らされなかったのか。
 なぜ、最後にもう一度会うことができなかったのか。
 けれど今、目の前にいる翠は、まるで当然のようにその続きを語っている。
 あたかも、彼女の人生が途切れることなく続いていたかのように――。
「ごめんね」
 たったその一言が、胸に深く突き刺さる。
 葵が死んだと知ったとき、僕の心の奥底にずっと残り続けていた疑問。
 その答えを、彼女は今になって口にした。
 僕はただ黙って、目の前の少女にしがみついた。
 彼女の温もりを感じながら、どうしようもなく涙が込み上げてくる。
 細い肩を抱きしめる腕が、震えているのが自分でも分かった。
 心の奥に押し込めていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出しそうになる。
 葵に伝えられなかった言葉が、今になって喉の奥に詰まって出てこない。
 それでも、何かを言わなければ。
 何を言えばいい?
「どうして?」と聞くべきなのか。
「本当に葵なのか?」と問いただすべきなのか。
 それとも、ただ「会いたかった」と泣けばいいのか――。
 答えが出ないまま、僕の腕の中で、翠が小さく微笑んだ。
「絶対、陽は教育者になると思ってたんだよ」
 耳元で、彼女が囁く。
 懐かしい、でもどこかくすぐったいような声。
「塾か家庭教師のどっちかかな? って思って、名前で検索かけてたりずっとしてたんだけどさ……ようやく見つけた」
 まるで、ずっと探し続けていた宝物をようやく見つけた子供のように。
 翠の声はどこか楽しげで、けれど同時に、愛しさが滲んでいた。
 ずっと探していた――?
 そんなの、僕の方こそだ。
 忘れたくても、忘れられなかった。
 あの夏の日。
 彼女が笑った、あの瞬間を。
 青空の下、ふと目が合って、胸が高鳴ったあの感覚を。
 熊野の夜空を彩る花火の下、横に立つ彼女のはにかんだ横顔を。
 思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
 手を伸ばしても届かない遠い記憶の中で、彼女はずっと微笑んでいる。
 声をかけても、振り向いてくれることはない。
 それでも僕は、何度も記憶の中の彼女に語りかけていた。
「もし、もう一度会えたら……」
 そんなことばかり考えていた。
 けれど、もう彼女はいない。
 僕の手の届かない場所へと消えてしまった。
 そう思っていたのに――。
 目の前の少女が、静かに微笑んでいる。
 翠という名前を持つ彼女が、どこか懐かしそうに僕を見つめている。
 その瞳の奥に映るのは、あの夏の日の残像。
 僕が何度も思い出し、決して忘れられなかった彼女の面影。
 心臓が、強く脈打つのを感じた。
 それは、かつて彼女と初めて出会ったときと同じ、あの鼓動だった。
 震える声で、ようやく言葉を紡ぐ。
「……つい最近、プロ家庭教師として独立したんだよ」
 言葉にすることで、ようやく自分自身の今が確かなものになる気がした。
 過去に囚われていた僕が、ようやく前に進み始めた証のような気がして。
 翠――いや、葵は、優しく微笑んだ。
「そっか、良かった」
 その声は、確かに葵のものだった。
 長い時間を経ても変わることのない、僕の心を揺さぶる声。
「これでまた、一緒にいられるね」
 その一言が、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
 懐かしくて、でも新しくて。
 ずっと探していたものが、ようやく手の中に戻ってきたような感覚だった。
 ああ、そうか。
 僕たちは、あの夏の日の続きを生きるんだ。
 彼女が死んでしまったことで途切れてしまった物語は、こうしてまた始まりを迎えた。
 僕が何度も願い続けた「もしもう一度会えたら」という願いが、今、叶っている。

 これは、僕と彼女の物語だ。
 葵は翠として、今も僕と一緒にいる。
 生まれ変わったとしても、違う名前を持っていたとしても、彼女は彼女のままだ。
 僕の大切な、忘れられなかった人。
 僕にとって、忘れられない恋になるはずだった。
 だけど今、それは「忘れる必要のない恋」になった。
 これからも僕は、彼女とともにたくさんの物語を紡いでいく。
 家庭教師として、彼女を導きながら――いや、もしかしたら導かれながら。
 あの夏の日の続きを、二人で一緒に。

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まだ見ぬ青をさがして
森本凛/著

総文字数/2,570

青春・恋愛1ページ

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