夏休みも三日前の水曜日。教室で稔は、逸る鼓動を抑えられなかった。
 今日の夕方から、自分はあの道場で本格的に『剣道』を教わることになる。
 杏の『豪剣』。その凄まじさが頭から離れない。
 自分も、あれ程の圧倒的な強さを得ることができるのだろうか?
 いや、できる。あのお姉さんの近くで、ずっと『剣道』を教わり続けたら、きっと……。

「稔!」
 突然、声を掛けられて、驚いて振り向いた。いつもの、いじめっ子三人の声ではない。この声は……春山 桜。
「放課後、付いて来なさい」
「えっ?」
 周りの少年達は呆気にとられ、稔自身も驚いていた。
 この教室で、桜が稔に声をかけるなんて初めてだ。しかも、名前を呼び捨て……。
「あんた、剣道の道具、何一つ持ってないでしょ? 揃えてやんの!」
「う、うん……」
 桜は、プイと自分の席に戻った。

 放課後。
「ねぇ、春山さん……」
 無愛想に早足で歩く桜に歩調を合わせながら声をかけた。
「桜って呼びな」
「えっ?」
「だって、いちいち苗字に『さん』付けるの面倒でしょ。あんたが剣道始めるってことで、長い付き合いになりそうなんだし」
「う……うん、桜」
 かなり違和感があった。稔は今まで、女子の下の名前を呼び捨てにしたことがない。
「何?」
「どこに向かってるの?」
「私の家よ」
「家?」
「そう。お姉ちゃんのお古の防具とか、上げる。普通に買ったら、どんなに安くても五万円はするのよ」
「五万円!?」
 稔にとっては目ん玉の飛び出るような額だ。
 しかし、剣道は頭部に『面』、手から手首にかけて『小手』、胸部から腹部にかけて『胴』という防具を装着し、竹刀で打ち合う武道。剣道を始めるなら、防具の所有は必須だった。
「お姉ちゃんが、あんたにはどうしても剣道やって欲しいみたいだから」
「そういえば、あの人、春……桜の、お姉さんなんだね」
「そ、杏姉ちゃん。剣道は強いんだけど、妹の私でさえ、何考えてるか分からない人。全く、こんな弱虫のどこにそんな肩入れしてるんだか」
 桜はぶつくさ言いながら、稔を連れて歩を進めた。

 白く大きなマンションに着いた。桜は階段を早足で上がって行き、稔はいそいそと付いて行く。マンションの一室、黒いドアの前に着き、桜はインターフォンを鳴らした。
「はーい」
 クリッとした瞳で睫毛の長い、綺麗な女性が出て来た。
「あら、桜。家に友達を連れて来るなんて、珍しいわね。しかも、こんなに可愛いコ」
 女性がニコッと笑うと、稔はドキッとする。
「いえ、僕は……」
「お母さん、こいつ、男だよ」
 桜は呆れ顔で言った。すると、桜の母は綺麗な目を丸くする。
「まぁ、桜が男の子を連れて来るなんて! しかも、こんな美少年……やったわね!今夜は赤飯ね」
 悪戯な笑みを浮かべ、桜をからかうように言った。どうやら、杏の性格は母親譲りらしい。
「もぅ! そんなんじゃないし。それより、お姉ちゃんの道着と防具」
 桜は母を家の中へ押し戻し、玄関口に稔を残して部屋へ入って行った。

「はい」
 黒く大きなバッグと、綺麗に畳まれた紺色の道着と袴が渡される。
「まだお姉ちゃん帰ってないし、渡しとくわ。お姉ちゃんが小学生の頃使ってたやつよ。男女兼用」
 桜はクールに言った。
「お姉ちゃんの見込むあんたの才能がどれほどのもんか分からないけど……夏休みは、初心者にとっては地獄よ」
「地獄……?」
「そ。まぁ、始めたら分かるわ。精々、頑張ることね。それじゃ、また後で、道場でね」
 桜は、素っ気なく言ってドアを閉めた。
 稔は黒いバッグ……防具袋を持つ。初めて持つそれは、ずっしりと重かった。

 夕方の道場。他の少年少女が練習する傍ら、お下がり道着を着た稔は、杏から中段の構えと正面素振りを教わっていた。
「いい? 竹刀は左手で握るの。それも、力を入れるのは、小指と薬指の根元だけ。右手は添えるだけよ。それで、剣先を相手の喉元につける」
 杏が稔の正面に立ち、剣先を自分の喉元に定めた。
「そう。その構えをして、相手の中心を取っている限り、絶対に打たれることはない。そこから、肘が五角形になるように真っ直ぐ振り上げて、振り下ろしてみなさい」
 稔は言われた通りにした。しかし、竹刀の重さに操られて形が滅茶苦茶だ。
「ま、誰でも最初はそんなもんよ。兎に角今は、鏡を見て、真っ直ぐ振り上げて、真っ直ぐ振り下ろせるようになりなさい」
 杏は道場の端の鏡を指差した。
 稔は正面素振りを練習する。どうにか形になったところで、杏は左右素振り、跳躍素振りを教えた。
「そうそう、上手、上手。じゃあ、残りの練習時間。私が稽古している間、跳躍素振り百本ずつしてなさい。百本連続素振りして、休憩、それから百本連続、という風に。もちろん、振り下ろした時に『メン!』の掛け声は忘れずに。じゃあ今から、スタート!」
 杏はそう言うと、『面』をつけて稽古に混じった。

「ねぇ、お姉ちゃん。まだ来てニ回目の奴に跳躍素振り百本は、幾ら何でもハード過ぎるんじゃない? あいつ、やめるんじゃ……」
 小休止に入り、桜が心配そうに言った。
 跳躍しながらの素振りは、腕と足の運動量が多くて体力の消耗も激しい。暑い夏には、尚更だ。
「やめる? こんなことでやめるようじゃ、最初から要らないわ」
 杏はニヤっと笑った。
「それに、絶対、大丈夫。だって、あのコの中には『鬼』がいるんだから」
「はぁ? 鬼?」
 桜が眉を顰める間もなく、稽古が再開される。

「メン! メン!」
 稔は、杏から言われた通り素直に跳躍素振りをしていた。しかし……暑くて辛い。汗が吹き出し、喉がカラカラ。今日初めて持つ竹刀は、素振りを重ねる度に重くなってゆく。
 手が……腕が、だるい。
 でも……
「メントォー!」
『バクゥ!』
 稔の目に、電光石火の如く竹刀で『面』を捉える杏の『豪剣』が映った。
 僕は、少しでもこの人に近づきたい……!
 稔の内からエネルギーが沸き起こる!

「納め~トォ!」
 稽古終了の合図がされ、稔はその場にヘタり込んだ。
 結局、殆ど休まずに一時間近くも跳躍素振りを続けていたのだ。手の平はマメだらけ、足と腕は棒のようになっていた。
「お疲れさん!」
 杏はニッと笑い、スポーツドリンクを差し出した。
「今日は帰ってから、よーく眠れそうね!」
 稽古終わりの杏の爽やかな笑顔を見て、汗だくの稔も、少し微笑んだ。
「宿題を言うわ。次の稽古まで、毎日家で素振りの練習をすること。そんで、次の稽古。防具を持って来なさい」
「えっ?」
「次は『踏み込み』と『面打ち』を教えて、少し稽古に混ぜたげる」
 杏は屈んで稔の顔を見ながら、フフンと笑った。
 練習三日目で『面打ち』をするのはかなり早い。しかし、練習二日目にして一時間近くも跳躍素振りを続けた稔の中に、杏は光り輝くものを見ていたのだった。

 その夜。家の玄関を出て、真夏の満月が煌々と照らす下。稔はマメのできた手の平に包帯を巻き、素振りを続けていた。
 稔の目の前には、杏の残像がある。
 目の前の相手を真っ直ぐ、真っ二つに『斬る』杏……。それを見る稔はゾクッとした。
 それは、恐怖心ではない。言い様のない高揚感。稔の中に芽生えつつある『鬼』の片鱗……。
 白く透き通る月明かりの照らす中、稔は竹刀を振り続けたのだった。

 真夏の太陽が照りつけ、道場の中はサウナのような熱気が漂っている。そんな、夏休み最初の稽古の日。初めて防具をつけた稔は、防具姿で竹刀を向ける杏と対峙していた。
「さぁ、教えた通り、打ってらっしゃい!」
 稔は、初めての防具におっかなびっくりする間も無い。杏が掛け声……気迫を発する!
「ドゥアヤァアー!」
 『あの時』……初めて会った時と同じ、鬼神の気迫が道場の空気を振動させ、稔に突き刺さる。
 稔はゾクッとした。あの時、自分の内なる『鬼』を目覚めさせた、凄まじい気迫。体の奥底から、脈々と熱いものが湧き起こる!
「ウワァア……」
 稔も発する。
「アア、ヤァアー!」
 クワッと目を見開き、杏にも劣らぬ気迫を発した。道場の少年少女達が、両者の気迫のぶつかり合いに驚き、こちらを見る。

 稔の脳内で、幾度も身震いする程に憧れた『杏の豪剣』が明確にイメージされる。
 あの強さ、真っ直ぐさ、圧倒的な迫力……
 僕も、杏のように……できる! 行け!
 稔は竹刀を振りかぶる!
 手と足はバラバラ、基本こそ全くなっていないが、それでも、竹刀の軌道は真っ直ぐに……そして、真っ直ぐ前へ力の限り踏み込むと共に、『面』へ向けて真っ直ぐに振り下ろす!

「メェェーン!」
『バクゥ!』
 稔の『面打ち』。基本も何もなっていない『面打ち』は、それでも真っ直ぐ、確実に杏の『面』を捉えた。
 杏は、痺れるほどに感動した。『才能』という一言では片付けられない。基本も何も身につけていないうちから、この『キレ』、この『重さ』、この『威力』……杏は今日、確実に稔の中に『鬼』の片鱗を見た。

「稔!」
 杏は振り返った。そして、残心を取る稔を見た。
「あんた、この夏休み、『基本』を徹底的に身につけなさい」
「基本……」
「そう。そして……秋季の市民剣道大会に出なさい!」
「剣道大会!?」
「そう」
 杏は、真剣な眼差しで稔を見つめた。
「私があんたを、優勝させてやるわ!」
 初心者を二ヵ月弱で優勝させるという、とてつもなく無謀な挑戦。しかし、杏は大真面目、本気だった。