春の朝は、無性に泣きたくなる。
悲しいからなのか、寂しいからなのか。それとも、怖いからなのか。そのどの感情もピンと来なくて、ただただ天井を見つめたまま静けさに身を任せる。こんな時には、どうすれば良い? この言い表すことのできない感情から抜け出す方法を、私はまだ知らなかった。
「聖。」
無意識に人名を呟く。
だが勿論誰に届くわけもなく、発せられた音は静寂に飲み込まれていった。
*
「みっちゃんおはよー」
8時半。ようやく新たなクラスのグループが構築されきった4月の下旬、前年から仲良くしてくれている東條陽葵が朝の挨拶にやってくる。笑顔がよく似合う彼女は、夏に真っ直ぐに咲く向日葵がよく似合うだろう。名は体を表すとはこの事だとつくづく思う。
「おはよー!」
これで今年も安泰、だなんて考えてしまっている私は計算高いのだろうか。
「ねね、今日の聖くん見たー? きっとみっちゃんキュン死しちゃうよ!」
「キュン死って、流石に大袈裟だって」
陽葵の物言いが面白くて笑ってしまうが、少しだけ鼓動が早まるのを感じる。
「まあまあ、見てなって! さっき靴箱のとこで見たからそろそろ来ると思うなー」
そう陽葵が言ったすぐ後に扉のガラスから見慣れない髪型の彼が見え、なるほどなと感心してしまった。
「うん、確かにちょっとときめくかも。」
聖楓。芸名みたいな名前を持つ彼は、本当に俳優みたいな顔立ちをしている。ほんの少し茶色がかったストレートの髪に、二重の大きな目。色白な肌は毛穴ひとつ見えず、整った鼻と唇を持つ。いわゆる、イケメンというやつだ。そんな彼に好意を寄せる女子は数多く、男子の中でも頭1つ飛び出す一軍、と呼ばれる部類の住民。私には遠い世界の話だ。
「よしよし、素直でよろしい。」そう言って私の頭を撫でる陽葵の手はとても温かい。
だが聖の周りの子達を俯瞰視している私もそんな彼に好意を抱く一人であり、今もこうして髪型を変えた彼に見惚れてしまっているのは確かである。いつからこんな風に遠くで見つめるだけになったのだろうと少し悲しくなるが、心の中でどこか諦めている部分もあり、私はゆっくりと聖から目を離した。
「にしても本当にみっちゃんの片想いは長いねー。いつからだっけ?」
私の頭を撫でる手を止めた陽葵は、今度は私の髪の毛を触りながらそう聞く。
「小5、かな。」
「え、なっが! 何年間? えっと…5年間じゃん!」
「まあ、言われてみれば。」
自分でもこんなに長く一人を想っている事実に少し驚くけど、好きなものは好きなのだから仕方がない。だって、聖は…。
「拗らせてますねー」
よし、できた!と言って私の髪を思い通りの髪型にした彼女は、予鈴が鳴って自分の席へと帰っていった。
「私も拗らせたくてそうしてるわけじゃないんだけどなー」
「ん? なんて?」
誰かに届けようと思っていなかった言葉に反応があって、驚いて横を向く。
「凉名くん! いたんだ。」
「いたって、まあそりゃ隣の席ですし。」
「そっか、そりゃそうだよね…。おはよ!」
「おはよう花野さん。今日はお団子じゃん、似合ってるね。」
今年初めて同じクラスになった涼名くんは時々、こうやって思わせぶりな事を言ってくる。きっと本人は女の子に慣れているんだろうけど、私にとっては心臓に悪い。
「ありがとう、陽葵がしてくれたの。」
「えーいいじゃん、仲良いよね東條さんと。ひょっとして同中?」
「うーん、陽葵とは一緒じゃないかな。」
同じ中学だったの聖だけ。だが、そんな彼とは中高校になってからはあまり関わりはない。1番仲が良かったのは、小学校の頃だ。
「へぇ、じゃあ聖とは?」
「へっ?」
凉名くんの口からまさか聖が出てくると思わなくて、一瞬思考が停止してからやってしまった、と思った。
「やっぱ花野さん、聖のこと好きなんだね。」
なんで気づかれちゃうのー! まあでも隣で散々陽葵と話していたのだから、当然の結果ではある。これからはあまり話さないように陽葵に口止めしておかないと。
「あ、いや、えっと…。」
「ははっ、まあいいや。SHR始まるよ、今日日直じゃなかった?」
「あ、ほんとだ!」
凉名くんに翻弄されながらもどうにか無事にSHRを終わらす事ができた私は、教卓に立つ間中眠そうに窓の外を眺める聖を観察していた事を陽葵にも言っていない。
*
楓、くん。
小学校の頃はそう呼んでいた彼は、今では話しかけに行く事すら難しくなってしまった。どちらが変わったのだろうかと聞かれてはわからない。聖がどんどん明るく開放的になった事も、私がどんどん暗く内気になった事も、どちらもあるのかもしれない。だがどちらにせよ私は彼とは対照的で、到底好意を口にする事はできない事は確かである。蠍座とオリオン座を同じ時刻に見る事ができない事と同じく、私と彼も永遠に近づくことができないのだった。
だから、こうして私はチャンスを自ら溝に捨ててしまうのだろう。
「ねね、心葵ちゃん! 次の席、楓くんと隣だよね? お願い! 変わってくれない!?」
クラスが変わってからの初めての席替え。運良く聖の隣の席を引き当てた私の元に学年で一番華やいでいる望月紗菜がやって来た。私は知っていた。彼女のような部類の子に歯向かうと、どうなるのか。彼女たちは下手に刺激しない方が良い。そして、同様に彼女もわかっている。自分の言う事にどれほどの影響力があるのかを。私に選択権はないと言う事を。
例えるなら、折角ありつけた餌を上の位の者に取られるライオンだ。だが、これは自然の摂理であるが故に、仕方がない。そう、これがここで生きていくための掟なのだから。
「うん、全然いいよー」
「ほんと!? ありがとう! やった!」
いかにも純粋な女の子を演じている彼女の本当の姿は知らないし、知りたくもない。よくここまで完璧に振る舞えるな、と感心してしまう。顔も人一倍整っている望月さんの事だ。きっと、こんな風に数多の男子たちを射止めてきたのだろう。それに、きっと聖だって。
「そうそう、私の席なんだけどね、凉名の隣なんだよね…。2回連続になっちゃうけど、いい…?」
遠慮がちに上目遣いでそう尋ねてくる彼女は、確かに可愛い。勢いに押されて私は頷くしかなかった。
「お、もしかしてまたお隣さん?」
新しい席に座ると、件の凉名くんから声を掛けられた。本当は聖の隣が良かったのは事実だったが、彼とまた近くなれたことも嬉しくはある。
「あ、うん、よろしくね!」
「なんか元気ないね、なんかあった?」
目ざとい彼には、隠し事なんかできないのかもしれない。だが、流石に先ほどの出来事を彼に言うのは憚られる。
「ううん、大丈夫。」
「、また聖のこと?」
「え…?」
少し躊躇いがちではあったがはっきりと聖の名を出した彼は、少し真剣な顔をしていた。本当に心配してくれているのだ。いい人だと、直感的に思う。
「聖の事、好きなのはとてもいい事だと思うけどさ。それであんまり思い詰めるようだとこっちが心配なるよ? 程々にね。」
「ごめんね、凉名くんに気を使わせてしまって。ありがとう…」
ううん、困ったことがあったらなんでも相談してね。そう言って彼は、朗らかに笑った。進級早々、良い友達を持てたのかもしれないと嬉しくなる。
ふと私が座る予定だった席の方を見ると、望月さんが聖に話しかけている所が見えた。明るい性格なのだから当たり前だが聖も快く返答をしていて、会話は成り立っているように見られた。惜しいことをしたな。嫌でもそう思ってしまう自分がいた。だが、もう今更元に戻す事はできない。気を取り直して行くしかない。
*
薄暗く、どこか汚れた狭い部屋に佇む“何か”の影。誰のものかも分からない罵声が混ざり合い、反響する。醜い色に変色したノートに、筆箱。靴箱から溢れだす、誰かを罵倒する紙。次々と場面は移り変わり、その度にエスカレートする『嫌がらせ』。
『気持ち悪い』
『消えて』
『学校辞めたら良いのに』
暗がりの中聞こえてくる心無い言葉は、どんどん“何か”を暗闇へと突き落とす。何度も固く角張った地面にその身を打ち付け、その度にもう誰の手でも治すことの出来ない傷が“何か”に刻まれていく。
後1つの言葉で、一言の罵倒で再起不能になる“何か”に向かって、1つの声が聞こえて来る。
『俺、お前の事嫌いだから。』
「楓くん!!」
叫んでから、目が覚めた。
ああ…夢、か。
上に来ていたスエットは汗で濡れていた。瞳孔は開き、まだ呼吸も早い。耳から心臓が飛び出ているのではないかと思う程に、胸を打ち付ける鼓動がうるさかった。
「夢で、良かった。」
瞬きをすると、一粒の涙が頬を伝った。そして私はまた、どれほど自分が彼の事を好いているかを再確認する。ただの夢でさえ。ただの「もしも」の世界での出来事でさえ、私を不安にさせるには十分すぎた。
小学5年生の時、私はクラスで孤立していた。理由は至って単純だった。
当時の中心格の子が、私を毛嫌いしていたから。
靴箱に悪口を書いた紙を入れる。お気に入りだった鉛筆を折られる。そんなちょっとした、でも確かに陰湿な嫌がらせを受けた。私が配膳した給食のお皿には誰も手をつけない、私が触れたボールは誰も触らない。そうやって、クラスのみんなから避けられていた。主人をなくしたボールが地面にバウンドし風に吹かれて運動場の端へと転がっていった光景を、今も私は忘れられない。先生に二人組を作ってください、と言われた時に味わった地獄に突きつけられたかのような絶望は、今もはっきりと胸に刻まれている。当時仲の良かった親友と呼べる子までが私を避け始めた時には、トイレに篭って涙を流した。
そんな私にただ一人、普段通り接してくれる人がいた。聖だ。
朝出会ったらおはようと言ってくれる。持ち物を落としたら拾ってくれる。たまに、雑談をしてくれる。側から見たら普通の事だ。面識のある人になら誰でもする行為だろう。でも、そんな事が、泣く程嬉しかった。まだ頑張れる、と私の心を鼓舞した。それらは救いで、生きる気力になった。誇張表現でもなんでもない。彼は私の、命の恩人だったんだ。
何度もここから飛び降りたら楽なのかな、と思いながら行った学校の屋上。マンションの屋上の淵に、一人で立ったこともあった。もう、何も考えたくない。苦しみから逃れる方法があるのなら、なんだってする。その思いで、足を一歩前へと。地面のない大空へと踏み出そうとした瞬間に頭に浮かぶのは、いつも聖の笑った顔だった。
まだ、ありがとうが言えていない。好きだよが言えていない。彼に、会いたい。
その思いだけで、私は足を踏み出すのを辞めてしまえた。
それ程に、私は彼のことが好きだった。
時計を見ると、まだ4時だった。久くこんな夢は見ていなかったので、まだ太陽が顔を出す前の朝の空気はとても新鮮に思える。聖、今はまだ寝てるのかな。
バルコニーに出て、12階建マンションの10階から街を見下ろす。一体今、クラスメイトの何割が私と同じ景色を見ているのだろう。このまだ青みが深い水色の空や、薄くなったレモン型の月は、毎日何人の人間の視界に入っているのだろう。遠くで鳴くカラスは、一体何を主張しているのだろう。そんな、考えても無駄な事を想像しながら一人で時間を潰す。あまり、学校の事は考えたくないのが本音だった。
最近聖と望月さんの距離が縮んできている気が、どうしてもしてしまう。休み時間に楽しそうに会話する二人や望月さんにペンを返している聖を見ると、言い表せない焦りが全身を駆け巡る。これが俗に言う焦燥感というものなのだと思う。
そして一番の問題点は、これは私の持論ではなくクラスの総意であることだ。この間の体育の前の着替えの際、一部の女子生徒たちが望月さんと話しているのが聞こえてきたのだ。
『紗菜、最近聖くんと超いい感じじゃん』
『ひょっとして、ひょっとしたり…?』
『いやいやーまだ全然だよぉ。まだね、』
『でも、ゆくゆくは?』
『かもねー』
ひょっとしてってなんだよ。そう思いながらこの会話を聞いていた私は、素直に自分の負けを認めるのが悔しかったのだと思う。いい感じなのは望月さんの努力の結果なのだから、私が彼女を羨むのは完全な筋違いなのに。
「さむ。」
一際強い風が吹いた時、もう盛りを終えた桜の花びらが一枚舞ってきた。
薄いピンク色をしたそれはたくさんの人に踏みつけられてきたのか、所々茶色く汚れている。今日はついてない、そう直感的に思う。嫌な夢を見て、更には自分が一番嫌いな物を見るなんて。
当時の事を思い出してしまうから。
私を毛嫌いしていた、中心格の子の名前が、サクラだったから。
春になると、給食の器に桜の花びらがよく入っていたから。
『桜って食べれるらしいよ』『よかったじゃん、彩りも良くなるし』
そう、言われていたから。
上靴に、桜の花びらが敷き詰められていたから。
だから、桜が嫌いだった。そんな桜が嫌でも目に付く、春が嫌いだった。
これで今年も見なくてすむ。そう思っていたのに、今になってまた見てしまうとは。
花びらを手に取り、階下に落とす。ひらひらと、それは舞って行った。
悲しいからなのか、寂しいからなのか。それとも、怖いからなのか。そのどの感情もピンと来なくて、ただただ天井を見つめたまま静けさに身を任せる。こんな時には、どうすれば良い? この言い表すことのできない感情から抜け出す方法を、私はまだ知らなかった。
「聖。」
無意識に人名を呟く。
だが勿論誰に届くわけもなく、発せられた音は静寂に飲み込まれていった。
*
「みっちゃんおはよー」
8時半。ようやく新たなクラスのグループが構築されきった4月の下旬、前年から仲良くしてくれている東條陽葵が朝の挨拶にやってくる。笑顔がよく似合う彼女は、夏に真っ直ぐに咲く向日葵がよく似合うだろう。名は体を表すとはこの事だとつくづく思う。
「おはよー!」
これで今年も安泰、だなんて考えてしまっている私は計算高いのだろうか。
「ねね、今日の聖くん見たー? きっとみっちゃんキュン死しちゃうよ!」
「キュン死って、流石に大袈裟だって」
陽葵の物言いが面白くて笑ってしまうが、少しだけ鼓動が早まるのを感じる。
「まあまあ、見てなって! さっき靴箱のとこで見たからそろそろ来ると思うなー」
そう陽葵が言ったすぐ後に扉のガラスから見慣れない髪型の彼が見え、なるほどなと感心してしまった。
「うん、確かにちょっとときめくかも。」
聖楓。芸名みたいな名前を持つ彼は、本当に俳優みたいな顔立ちをしている。ほんの少し茶色がかったストレートの髪に、二重の大きな目。色白な肌は毛穴ひとつ見えず、整った鼻と唇を持つ。いわゆる、イケメンというやつだ。そんな彼に好意を寄せる女子は数多く、男子の中でも頭1つ飛び出す一軍、と呼ばれる部類の住民。私には遠い世界の話だ。
「よしよし、素直でよろしい。」そう言って私の頭を撫でる陽葵の手はとても温かい。
だが聖の周りの子達を俯瞰視している私もそんな彼に好意を抱く一人であり、今もこうして髪型を変えた彼に見惚れてしまっているのは確かである。いつからこんな風に遠くで見つめるだけになったのだろうと少し悲しくなるが、心の中でどこか諦めている部分もあり、私はゆっくりと聖から目を離した。
「にしても本当にみっちゃんの片想いは長いねー。いつからだっけ?」
私の頭を撫でる手を止めた陽葵は、今度は私の髪の毛を触りながらそう聞く。
「小5、かな。」
「え、なっが! 何年間? えっと…5年間じゃん!」
「まあ、言われてみれば。」
自分でもこんなに長く一人を想っている事実に少し驚くけど、好きなものは好きなのだから仕方がない。だって、聖は…。
「拗らせてますねー」
よし、できた!と言って私の髪を思い通りの髪型にした彼女は、予鈴が鳴って自分の席へと帰っていった。
「私も拗らせたくてそうしてるわけじゃないんだけどなー」
「ん? なんて?」
誰かに届けようと思っていなかった言葉に反応があって、驚いて横を向く。
「凉名くん! いたんだ。」
「いたって、まあそりゃ隣の席ですし。」
「そっか、そりゃそうだよね…。おはよ!」
「おはよう花野さん。今日はお団子じゃん、似合ってるね。」
今年初めて同じクラスになった涼名くんは時々、こうやって思わせぶりな事を言ってくる。きっと本人は女の子に慣れているんだろうけど、私にとっては心臓に悪い。
「ありがとう、陽葵がしてくれたの。」
「えーいいじゃん、仲良いよね東條さんと。ひょっとして同中?」
「うーん、陽葵とは一緒じゃないかな。」
同じ中学だったの聖だけ。だが、そんな彼とは中高校になってからはあまり関わりはない。1番仲が良かったのは、小学校の頃だ。
「へぇ、じゃあ聖とは?」
「へっ?」
凉名くんの口からまさか聖が出てくると思わなくて、一瞬思考が停止してからやってしまった、と思った。
「やっぱ花野さん、聖のこと好きなんだね。」
なんで気づかれちゃうのー! まあでも隣で散々陽葵と話していたのだから、当然の結果ではある。これからはあまり話さないように陽葵に口止めしておかないと。
「あ、いや、えっと…。」
「ははっ、まあいいや。SHR始まるよ、今日日直じゃなかった?」
「あ、ほんとだ!」
凉名くんに翻弄されながらもどうにか無事にSHRを終わらす事ができた私は、教卓に立つ間中眠そうに窓の外を眺める聖を観察していた事を陽葵にも言っていない。
*
楓、くん。
小学校の頃はそう呼んでいた彼は、今では話しかけに行く事すら難しくなってしまった。どちらが変わったのだろうかと聞かれてはわからない。聖がどんどん明るく開放的になった事も、私がどんどん暗く内気になった事も、どちらもあるのかもしれない。だがどちらにせよ私は彼とは対照的で、到底好意を口にする事はできない事は確かである。蠍座とオリオン座を同じ時刻に見る事ができない事と同じく、私と彼も永遠に近づくことができないのだった。
だから、こうして私はチャンスを自ら溝に捨ててしまうのだろう。
「ねね、心葵ちゃん! 次の席、楓くんと隣だよね? お願い! 変わってくれない!?」
クラスが変わってからの初めての席替え。運良く聖の隣の席を引き当てた私の元に学年で一番華やいでいる望月紗菜がやって来た。私は知っていた。彼女のような部類の子に歯向かうと、どうなるのか。彼女たちは下手に刺激しない方が良い。そして、同様に彼女もわかっている。自分の言う事にどれほどの影響力があるのかを。私に選択権はないと言う事を。
例えるなら、折角ありつけた餌を上の位の者に取られるライオンだ。だが、これは自然の摂理であるが故に、仕方がない。そう、これがここで生きていくための掟なのだから。
「うん、全然いいよー」
「ほんと!? ありがとう! やった!」
いかにも純粋な女の子を演じている彼女の本当の姿は知らないし、知りたくもない。よくここまで完璧に振る舞えるな、と感心してしまう。顔も人一倍整っている望月さんの事だ。きっと、こんな風に数多の男子たちを射止めてきたのだろう。それに、きっと聖だって。
「そうそう、私の席なんだけどね、凉名の隣なんだよね…。2回連続になっちゃうけど、いい…?」
遠慮がちに上目遣いでそう尋ねてくる彼女は、確かに可愛い。勢いに押されて私は頷くしかなかった。
「お、もしかしてまたお隣さん?」
新しい席に座ると、件の凉名くんから声を掛けられた。本当は聖の隣が良かったのは事実だったが、彼とまた近くなれたことも嬉しくはある。
「あ、うん、よろしくね!」
「なんか元気ないね、なんかあった?」
目ざとい彼には、隠し事なんかできないのかもしれない。だが、流石に先ほどの出来事を彼に言うのは憚られる。
「ううん、大丈夫。」
「、また聖のこと?」
「え…?」
少し躊躇いがちではあったがはっきりと聖の名を出した彼は、少し真剣な顔をしていた。本当に心配してくれているのだ。いい人だと、直感的に思う。
「聖の事、好きなのはとてもいい事だと思うけどさ。それであんまり思い詰めるようだとこっちが心配なるよ? 程々にね。」
「ごめんね、凉名くんに気を使わせてしまって。ありがとう…」
ううん、困ったことがあったらなんでも相談してね。そう言って彼は、朗らかに笑った。進級早々、良い友達を持てたのかもしれないと嬉しくなる。
ふと私が座る予定だった席の方を見ると、望月さんが聖に話しかけている所が見えた。明るい性格なのだから当たり前だが聖も快く返答をしていて、会話は成り立っているように見られた。惜しいことをしたな。嫌でもそう思ってしまう自分がいた。だが、もう今更元に戻す事はできない。気を取り直して行くしかない。
*
薄暗く、どこか汚れた狭い部屋に佇む“何か”の影。誰のものかも分からない罵声が混ざり合い、反響する。醜い色に変色したノートに、筆箱。靴箱から溢れだす、誰かを罵倒する紙。次々と場面は移り変わり、その度にエスカレートする『嫌がらせ』。
『気持ち悪い』
『消えて』
『学校辞めたら良いのに』
暗がりの中聞こえてくる心無い言葉は、どんどん“何か”を暗闇へと突き落とす。何度も固く角張った地面にその身を打ち付け、その度にもう誰の手でも治すことの出来ない傷が“何か”に刻まれていく。
後1つの言葉で、一言の罵倒で再起不能になる“何か”に向かって、1つの声が聞こえて来る。
『俺、お前の事嫌いだから。』
「楓くん!!」
叫んでから、目が覚めた。
ああ…夢、か。
上に来ていたスエットは汗で濡れていた。瞳孔は開き、まだ呼吸も早い。耳から心臓が飛び出ているのではないかと思う程に、胸を打ち付ける鼓動がうるさかった。
「夢で、良かった。」
瞬きをすると、一粒の涙が頬を伝った。そして私はまた、どれほど自分が彼の事を好いているかを再確認する。ただの夢でさえ。ただの「もしも」の世界での出来事でさえ、私を不安にさせるには十分すぎた。
小学5年生の時、私はクラスで孤立していた。理由は至って単純だった。
当時の中心格の子が、私を毛嫌いしていたから。
靴箱に悪口を書いた紙を入れる。お気に入りだった鉛筆を折られる。そんなちょっとした、でも確かに陰湿な嫌がらせを受けた。私が配膳した給食のお皿には誰も手をつけない、私が触れたボールは誰も触らない。そうやって、クラスのみんなから避けられていた。主人をなくしたボールが地面にバウンドし風に吹かれて運動場の端へと転がっていった光景を、今も私は忘れられない。先生に二人組を作ってください、と言われた時に味わった地獄に突きつけられたかのような絶望は、今もはっきりと胸に刻まれている。当時仲の良かった親友と呼べる子までが私を避け始めた時には、トイレに篭って涙を流した。
そんな私にただ一人、普段通り接してくれる人がいた。聖だ。
朝出会ったらおはようと言ってくれる。持ち物を落としたら拾ってくれる。たまに、雑談をしてくれる。側から見たら普通の事だ。面識のある人になら誰でもする行為だろう。でも、そんな事が、泣く程嬉しかった。まだ頑張れる、と私の心を鼓舞した。それらは救いで、生きる気力になった。誇張表現でもなんでもない。彼は私の、命の恩人だったんだ。
何度もここから飛び降りたら楽なのかな、と思いながら行った学校の屋上。マンションの屋上の淵に、一人で立ったこともあった。もう、何も考えたくない。苦しみから逃れる方法があるのなら、なんだってする。その思いで、足を一歩前へと。地面のない大空へと踏み出そうとした瞬間に頭に浮かぶのは、いつも聖の笑った顔だった。
まだ、ありがとうが言えていない。好きだよが言えていない。彼に、会いたい。
その思いだけで、私は足を踏み出すのを辞めてしまえた。
それ程に、私は彼のことが好きだった。
時計を見ると、まだ4時だった。久くこんな夢は見ていなかったので、まだ太陽が顔を出す前の朝の空気はとても新鮮に思える。聖、今はまだ寝てるのかな。
バルコニーに出て、12階建マンションの10階から街を見下ろす。一体今、クラスメイトの何割が私と同じ景色を見ているのだろう。このまだ青みが深い水色の空や、薄くなったレモン型の月は、毎日何人の人間の視界に入っているのだろう。遠くで鳴くカラスは、一体何を主張しているのだろう。そんな、考えても無駄な事を想像しながら一人で時間を潰す。あまり、学校の事は考えたくないのが本音だった。
最近聖と望月さんの距離が縮んできている気が、どうしてもしてしまう。休み時間に楽しそうに会話する二人や望月さんにペンを返している聖を見ると、言い表せない焦りが全身を駆け巡る。これが俗に言う焦燥感というものなのだと思う。
そして一番の問題点は、これは私の持論ではなくクラスの総意であることだ。この間の体育の前の着替えの際、一部の女子生徒たちが望月さんと話しているのが聞こえてきたのだ。
『紗菜、最近聖くんと超いい感じじゃん』
『ひょっとして、ひょっとしたり…?』
『いやいやーまだ全然だよぉ。まだね、』
『でも、ゆくゆくは?』
『かもねー』
ひょっとしてってなんだよ。そう思いながらこの会話を聞いていた私は、素直に自分の負けを認めるのが悔しかったのだと思う。いい感じなのは望月さんの努力の結果なのだから、私が彼女を羨むのは完全な筋違いなのに。
「さむ。」
一際強い風が吹いた時、もう盛りを終えた桜の花びらが一枚舞ってきた。
薄いピンク色をしたそれはたくさんの人に踏みつけられてきたのか、所々茶色く汚れている。今日はついてない、そう直感的に思う。嫌な夢を見て、更には自分が一番嫌いな物を見るなんて。
当時の事を思い出してしまうから。
私を毛嫌いしていた、中心格の子の名前が、サクラだったから。
春になると、給食の器に桜の花びらがよく入っていたから。
『桜って食べれるらしいよ』『よかったじゃん、彩りも良くなるし』
そう、言われていたから。
上靴に、桜の花びらが敷き詰められていたから。
だから、桜が嫌いだった。そんな桜が嫌でも目に付く、春が嫌いだった。
これで今年も見なくてすむ。そう思っていたのに、今になってまた見てしまうとは。
花びらを手に取り、階下に落とす。ひらひらと、それは舞って行った。


