「海だあぁーっ!!!」
「叫ぶなよマナミン」
砂浜と道路の間にはコンクリートの低い壁があった。波よけの堤防というよりは、砂を防ぐためのもの。
その切れ目から浜に入りこみ、自転車を停めた。
ぬるい風は、潮の匂いがした。
ざぁん、ざぁん、と波が響く。
ここが愛海の来たかった海なのだろうか。昼間のあたたかさが残る砂をスニーカーで踏み、俺と愛海は波打ち際に近づいた。
「せっかく来たんだから、航平も海に向かって吠えるぐらいしよ?」
「警察が来るぞ」
「それはヤダ」
海といっても、真夜中なので真っ黒なかたまりにしか見えない。
暗い空と、暗い水と。
さかい目がなくなり、俺は夜に浮かんでいるようだった。
満月に近い大きな月が波間に映り、ゆらゆらゆがむ。
海は、手のひらですくえる夜。
「――補導される時は二人いっしょだね」
隣で海を見ていた愛海がふざけて言った。
ふわふわと、消えてしまいそうな笑い方で。
月の光と、道路に立つ遠い外灯。
薄明かりに照らされる透きとおる笑顔。
――バカ言うな。
補導されたりしたら、愛海はどうなるんだ。
アンドロイドとして初期化されるのか。
人間としてどこかに連れて行かれるのか。
「捕まるなよ」
俺は低い声で言った。
愛海をどこにも行かせたくない。そう強く願った。
「――えと、ごめん。捕まんないように頑張るってば」
俺が真剣に言ったからか、愛海は元気そうにごまかした。
「青少年保護条例だっけ? でもあの店員さん追っかけてこなかったし、へーきへーき」
さく、さく。足もとの砂を靴の先でいじりながら、愛海は軽い調子をよそおっている。
「店員のおじさん、子どもとかいそうな年だったし、普通に心配してくれてたのかもね。通報とかしてないといいなあ」
「あのさマナミン――いいかげん、どういうことなんだよ。消されるとか、アンドロイドとか」
俺は愛海をさえぎって問いつめた。
ここまで来てもまだヘラヘラしてるとか、ひどすぎると思う。
「航平……」
「バグってなんだ? おまえはおまえだろ。何もダメなところなんかない。俺はおまえにそのままでいてほしい」
俺は向き直って、浜辺にたたずむ愛海を見つめる。俺を見上げてくる頬が闇にぼんやり浮かんでいた。
言わなくちゃ。俺の気持ちを伝えるんだ。
そばにいてほしい。愛海が好きだ、と。
「俺――」
そこで俺のスマホが鳴った。電話の着信音。俺も愛海もヒュッと息をのむ。
「な、なに?」
「ごめん。誰だよ――」
あわてて取り出したスマホの画面に表示されていたのは、〈母〉だった。俺の手が止まる。
「……出ないの?」
愛海がおびえたように訊いてきた。
鳴り続ける着信音が波をかき消す。
スマホをにらんでいた俺は、意を決して〈応答する〉をタップした。
「……はい?」
『ああ、やっぱり起きてた。悪いんだけど家に戻ってくれない?』
「え、なんで」
『翔太がぜんそくの発作起こしたの。夜間救急に来てるんだけど、このまま泊まらなきゃいけなくて』
「なら俺、家にいなくていいよね?」
『ちゃんと戸締まりしたか心配なのよ、あわててたから。あと明日、入院になったら荷物持ってきてもらわないと』
……何を言ってるんだ、この人は。
日づけが変わるような夜中になって、友だちの家にいるはずの俺を呼び戻す。しかもそんな理由で。足もとがグラリとなった。
俺は海に背を向け砂浜を戻る。
乾いた砂がスニーカーに入りこみ、ザラザラした。
「……やだ」
『え?』
「帰らない。そんなの俺がいなくてもなんとかなるだろ」
『え、ちょっとお兄ちゃん』
「俺、今〈お兄ちゃん〉じゃねえから!!」
叫んで電話を切った。
俺の大声は足もとのグズグズする砂に染みこんで、消える。
急いでスマホの電源を落とした。もう母親と話したくない。膝が崩れて、俺は座りこんだ。
「……航平」
そっと呼んでくれたのは愛海だ。そうだ、一緒にいるんだった。
「家から?」
「……ちがう。夜間救急に行ってるって」
「うそ、だいじょぶ?」
愛海は俺の前にしゃがみ込む。
たぶん心配そうにしてくれているけど、愛海の表情はわからない。俺がうつむいているからだ。
ごめん、今は顔、上げらんない。
「……よくあるから。俺はいなくてもいいんだ」
「そか」
動けない俺のことを、愛海のまなざしがやわらかく包んでいる。見なくてもわかった。
波の音だけがくり返していて、いっそう静寂が世界に広がる。
「……ごめんね。あたしが我がまま言って、つき合わせてるせいで」
「そんなことない」
ポツリと謝られ、俺もポツリと否定した。
誘われた時はあきれたけど、俺だって本当は嫌じゃなかった。
「お母さんに嘘ついて出て来たんでしょ」
「まあ、そりゃ」
「じゃあやっぱり、ごめんだよ」
違うよ愛海。
この逃避行は俺のものでもあったんだ。
俺は家から逃げたくて、弟も母親も単身赴任の父親も、みんなみんな捨ててしまったらどうなるんだろうって試してみたかった。
俺は目を上げて、愛海を見た。
「謝るなよ。俺ずっと、母親にイライラしてたんだ。やっと怒鳴り返せてスッキリした」
それができたのは愛海のおかげだ。
あがいて努力する愛海の隣にいるために、俺も本気にならなきゃと思えた。
まあぶつかってみたら、わりとダメージ食らってるけど。慣れないことってキツい。ごまかして苦笑いした。
「……あーあ、俺カッコわる」
「カッコ悪くなんかないって。航平もつらいこと抱えてたのに、あたしに気ぃつかって黙ってたんだよね。ありがと」
「やだよ親とケンカとか、マナミンの前で。くそ子どもっぽい。みっともねえ」
普通に恥ずかしくて、すこし視線をそらした。愛海はクス、と笑う。
お互いのこともあまり見えない夜の中だけど、どんな表情してるのか手に取るようにわかった。愛海がそこにいてくれるだけで心が前を向く。
愛海。
ありがとな。
「……あたしたち、まだ子どもだもん。子どもっぽくても仕方ないんじゃない?」
「でも俺、マナミンにはカッコつけたかったんだ――おまえのこと好きだから」
その言葉は、なんだかとてもすんなりと俺の心からこぼれて砂浜に落ちた。
俺の言葉を聞いた愛海は黙りこくった。そのまま動かない。
どんな反応してるんだろう。愛海の顔は暗くて見えない。俺の心臓はどんどん速くなった。
ド直球で告白したよな、俺。
「好きだから」
って――ヤバい、迷惑だったか。
愛海を困らせるつもりなんかなかったけど、考えてみれば友だちからそんなこと言われたら困るに決まってる。俺のバカ!
……でもストレートな言葉だったおかげで、どうとでも解釈できそうじゃないか?
そうだよ、友人としておさまりそうな言い訳を探せばいい。うん、それしかない。
おまえの前向きなところを尊敬してるって意味だ、とかどうだ。これも嘘じゃないし!
「あ、あのさ!」
「……ふぐっ、こうへいっ! うわぁーん!」
俺が口を開くと同時に、愛海は俺の名前を呼んで泣き出した。
「あた、あたし……ゔぇぇーん、えっく、ひっぐ」
ペタンと座りこむと、いきなりギア全開でしゃくりあげ始める。
ええっと待って!?
やめてくれ、こんなのどうすればいいんだよ!
「ちょ、何マナミン、ごめん俺」
「あたしも! 航平が、好き! あたし、引っ越したくないよおぉ……!」
引っ越し。
ボロボロ泣きながら、愛海はこれまでの嘘を自白する。
愛海がアンドロイドである可能性は0%になった。



