一転、道は下り坂になった。
こがなくても軽やかに進んでいく自転車。
夜闇に揺れる愛海の髪を、俺は後ろから見つめる。
作り物だなんて嘘だ。
こんなにあざやかな女の子が、偽物の命なわけない。
俺はそう言ってやりたくて、その言葉は愛海を救えるだろうかと考えた。
『アンドロイドは作られたもので、人間とは違う』
前に俺が言った時、愛海は失望したように笑った。
違うんだ。
俺は愛海を傷つけたくなんかない。
愛海はそのままでいいよ。
愛海は愛海なんだから、アンドロイドでも人間でも、そんなことどうでもいいって伝えたい。
――でも恥ずかしくて言いにくかった。
だって恋の告白みたいだろ。
『あたし、アンドロイドなんだ』
そう告げられて以来――だめなんだよ。
愛海の声もしぐさも、鮮烈に俺に刻みこまれていく。
これはもう恋なのだろうか。
そうかもしれないと、俺はすこし疑いはじめていた。
「航平、人形のプログラム組んでるんだよね?」
唐突に訊かれたのは、次に休憩した時だ。
自動販売機の前で停まった俺は、なくなりかける水の補給用としてスポーツドリンクを買った。ガコンと落ちてきたペットボトルを取り出して、俺は愛海を振り向く。
「……人形?」
「病気の人のためのやつ」
ああ、それか。
長期入院している子や重病に苦しむ子のための、セラピーあるいは一緒に学ぶ友だち。そんな位置づけの人形だ。そこから発展してご老人の心理状態改善にも実験的に応用中。
「やってるけど……」
俺は高一の頃から学外でそのプロジェクトに参加していた。
別にたいそうな事業じゃない。弟が入院していた病院でそういう企画があって、声が掛かっただけだった。
看護師さんに弟が自慢したからだ。「お兄ちゃんはロボットを動かしてるプログラマーなんだ」と。
「マナミン、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「プロフィールに書いてたでしょ。入院患者向けにって」
「ああ、そうだった」
なるほど。愛海が見たのは、四月にクラスで書かされた自己紹介カードか。
「……他に何も実績なかったし」
専攻するプログラミング関係でアピールしたいこと。そんなの何を書けばいいかわからない。
「航平のつくる人形って、どんなの?」
「単純なのだよ。あるだろ、人がなでるとキュイキュイ喜ぶぬいぐるみとか。そんなレベルのもん」
「え、ずいぶんかわいいんだ」
愛海は、ふ、と目をそらして自販機を見上げた。財布を取り出し、商品をながめている。
かわいいと言われてもな。俺の趣味でやってることでもないんだけど。なんかちょっと傷ついた俺は言い訳した。
「だって元は病院にいる子ども用の企画なんだよ。学習タブレットと連携して院内学習の見守り役にしたり」
対象は基本的に小児病棟なんだ。そう主張しかけて気づいた。
愛海がこの話を持ち出したのは、俺が〈人形〉――アンドロイドに近しいものを扱っているからか。
で、あまりに幼稚なレベルの話だったのでがっかりしたとか?
あれ。
てことは、やっぱり愛海はアンドロイド?
処分されると決まって、でも抵抗したくて、原因のバグをどうにかするために俺に頼りたかった――そう考えると、つじつまが合わないこともない。
うーん、アンドロイドである可能性上昇? 0.1%ぐらいかな。
愛海は自販機で買った緑茶のペットボトルを首すじに当てた。冷たさを気持ちよさそうにする、そんなしぐさはまるっきり人間に見えた。
「ねえねえ、どうしてそんなプロジェクトに入ったのよ」
軽い調子で愛海は言った。
「誰か助けたい人でもいるの? なーんて」
「あ……いや、弟がたまに世話になってる小児病棟なんだ。あいつまだ小四でさ」
「おとうと?」
ふざけるようだった愛海の声が硬くなった。
「弟くん……病気なの」
愛海はすごく申し訳なさそうにつぶやいた。
悪いことを訊いたと思ってるんだろう。でももし愛海がアンドロイドだとしたら、この反応も〈学習済み〉なだけだ。
そう考えて、すこし怖くなった。
おまえ本当は何者なんだよ。
「……死にそうな何かとかじゃないから。ぜんたいに体が弱いんだ、とくに呼吸器系。肺炎起こして入院してた時に、俺のこと看護師さんに話したらしい」
「へえ……でも高校生なのに招聘されるなんてすごいじゃない」
「しょうへい、ってほどのもんじゃないし。実際に入院してる子どもの家族としての意見を聞きたいんだろ」
俺はユーザーモニターのようなもの。そう思っている。
弟とは仲が悪くはない。家にいれば遊んでやるし、入院すれば見舞いに行く。あまり親しい友だちもいない弟はなんでも俺に話すから、病院についての感想もだいたい把握してるんだ。
「ふうん。お兄ちゃんなんだね……」
「……まあ、そう」
そのとおり。
家族の中で、俺はいつも「お兄ちゃん」だ。
ふと息苦しさを感じて、俺はうつむいた。
『お兄ちゃんだから、ひとりでだいじょうぶね』
『あの子の様子、見ててくれる? お兄ちゃんに任せておけば安心だわ』
『仕方ないじゃないの、お兄ちゃんなんだから我慢して』
『お兄ちゃんは元気でしょう。弟がかわいそうだと思わないの?』
いつも言われている言葉が脳裏によみがえる。
――うざい。
俺は「お兄ちゃん」なんかじゃない。瀬戸航平だ。
ふうう、と深く息をした。
駄目だ、母親の声を思い出すと頭がグルグルする。
俺に何かを押しつける時の、猫なで声。
「――出発しようぜ」
ぼそっと吐き捨てて、俺は返事を待たずに自転車をこぎ出した。
黙々と自転車をこぎながら俺は、ずっと愛海の視線を感じていた。
それはたぶん、俺を気づかうまなざし。
さっきはつい、気持ちを表に出してしまった。理由はわからなかったろうけど、苛立ちは伝わったと思う。
親への感情なんか愛海に見せるつもりはなかったんだけどな。
だってクラスメイトに対してそんなの重いだろ。人生の悩みとか押しつけられたら困るよ。他人のことなんだし。
人に寄り添うのって、すごくたいへんだ。
弟を生かすために母親が必死になってるのを見てたから、それぐらいわかってる。
弟本人だって、すごく苦しいだろう。
物理的に呼吸が苦しそうにしているのを見ると、俺だって胸が詰まる。俺よりずっと小さいのに、このまま死んじゃうんじゃないかと思って泣きそうになったことだってある。
俺が学校の話をしたら、「お兄ちゃんだけ運動会も遠足もやっててズルい」と怒り出したもんな。きっとたくさん我慢してるんだ。
――だけどさ。俺は俺だ。
弟の付属品じゃない、俺自身としてここにいるのに。
うちの家族はとにかく弟を中心に回っていて。
俺はいつも、そのはじっこにいて。
俺のことを病院の人に自慢してくれる弟はまあ、かわいいよ。時々めんどくさいけど、尊敬される兄でいたいと思ってる。
でも、あの家で俺ってなんなんだろう。いつだって「お兄ちゃん」じゃないか。
家族の中の疎外感。
友だちには悩みなんかないフリ。
家でも学校でも、俺はずっと嘘をついてるのかもしれない。



