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うたた寝から目を覚ますと、いつも窓の向こうには墨汁をこぼしたような空が広がっていた。
一日の半分、ぼくはひとりだった。
それでも、ぼくはこの生活をわりと気に入っていた。
テレビは見放題だし、居間を占領してぼくだけの小さな街をつくることだってできる。
だけど、暗がりにひとりでいるのはこわかった。
年が二桁になっても、こわいものはこわい。
闇にまぎれて誰かがぼくを見ているような気がする。
ぼんやりと窓に映る街の灯りだけを頼りに、ぼくは居間の電気を付けるために起き上がった。
ぱっと明るくなった居間の掛け時計を見ると、針は真っすぐ縦に伸びていた。
ちょうど六時。
時計が苦手なぼくでもわかる。
さすがにお腹が鳴って、ぼくは台所に向かった。
ありあわせの夕食をつくりながら、お昼に食べた冷凍みかんのことを思い出す。
そのまま食べるみかんより、少しだけ幸せな気持ちになるのはどうしてだろう。
お腹が満たされて居間に戻ると、ぼくは猫のように座卓の下に潜りこんだ。
からだの下半分は外に出ていたし、頭を持ち上げられないのが欠点だったけれど、唯一ここがぼくの安心できる場所だった。
万が一地震がきても、座卓がぼくを守ってくれる。
広げた自由帳に小さくなった鉛筆でみかんの絵を描いていると、窓の向こうで予報通りの風が吹きはじめた。
からころと、なにかがベランダを駆けてゆく音がきこえる。
植木鉢の身を案じたぼくは、慌てて座卓の下から這い出ると、サイズの合わないサンダルを突っかけた。
薄暗いベランダに目を凝らすと、思ったとおり大きく穴のあいた隔て板の下に植木鉢は倒れていた。
隣の家のベランダがよく見えるその大きな穴は、去年やって来た台風がすでにひび割れていた隔て板を豪快に壊して去っていった名残りだった。
「どうせ蹴破って使うものですし、あのままでもいいです」と隣人の楜澤さん。
ぼくの両親も、「費用もかかるし」と隔て板は今もそのまま穴があいた状態になっていた。
「なにしてるの、蓬くん」
その場に立ちつくしていると、部屋の窓から顔を出した楜澤さんと目が合った。
口と顎に髭を生やした楜澤さんは、パパよりも若く、おじいちゃんと同じタバコのにおいがした。
「飛ばされそうになってて」
ぼくは拾い上げた植木鉢を顔の高さまで持ち上げて楜澤さんに見せた。
「蓬くんさ、みかんとか好き? 」
さっきまでみかんのことを考えていたから、内心ぼくは驚いた。
楜澤さんは超能力者なのかもしれない。
「……うん。今日の給食に冷凍みかんがあった」
「いいね」
精一杯ぼくに伸ばされた楜澤さんの手のひらには、ちょこんとみかんが乗っていた。
「 好きならあげるよ」
「楜澤さん、食べないの? 」
「実家がみかん農家だから、食べ飽きてるっていうのもあるけど────」
隔て板の穴を通って、放り投げられたみかんを咄嗟にぼくは植木鉢で受け止める。
「眠ってるからさ。食べられないんだ」
「眠ってるって、誰が? 」
「僕が」
「え」
どう見ても楜澤さんは眠っているようには見えなかった。
目もしっかりとあいていたし、窓枠にもしっかりと立っていた。
だけど嘘をついているようにも見えなかった。
「あの病院にいるんだ」
楜澤さんが差した指の先には、四角い明かりがいくつも見える大きな病院があった。
ベランダを吹き抜ける風にくしゃみがこぼれると、「明日もあげるよ」と言い残して、楜澤さんはそそくさと部屋の中に戻っていった。
✽✽
授業の内容も給食の献立も忘れてしまうほど、ぼくは楜澤さんのことを考えていた。
わざと、「タモギ」と呼んでくる同級生のことも、今日だけは気にならなかった。
宿題の分数の割り算よりも、ぼくの頭の中は疑問符でいっぱいだった。
「本当にあの病院にいるの? 」
約束通りくれたみかんを手の中でもてあそびながら、おそるおそるぼくは昨日の続きを楜澤さんにたずねた。
「いるよ。いまもベッドの上で眠ってる」
「病気? 」
「たぶん事故。気づいたら病室にいて、目の前に片足のない自分が横たわってた」
手から落ちたみかんが隔て板の下の隙間を通って、楜澤さんのほうへと転がってゆく。
「だからかな、僕がここにいるのは」
しゃがみこんで隙間をのぞくと、落としたみかんと楜澤さんの靴が見えた。
「もどりたくないのかも。自分のからだに」
ちぐはぐになってしまうぼくの結び方と違って、楜澤さんの靴ひもは両方とも綺麗な蝶々結びだった。
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ただ楜澤さんに会いたくて、次の日もぼくは穴のあいた隔て板の前で楜澤さんを待った。
ぼくに気づいた楜澤さんは、またぼくにみかんをくれる。
「蓬くんさ、蓬餅って呼ばれない? 」
思わずぼくは楜澤さんを見上げる。
やっぱり楜澤さんは超能力者なのかもしれない。
「……タモギもあるよ」
うつむいて答えると、楜澤さんが初めてぼくの前で笑った。
「楜澤さんは、くるみ餅? 」
「まぁ、そんなところかな」
「餅仲間だね」
「だね」
ふと窓辺に立てかけられたギターケースが見えて、ぼくは楜澤さんにたずねた。
「楜澤さん、ギター弾くの? 」
「ずっと弾いてないから、拗ねてるかも」
「ギターが拗ねるの? 」
「そう。あんまり放っておくと音の響きが悪くなる」
「そういうものなの? 」
「あいつも生きてるんだよ。元は木だったんだから」
病院に目を向けると、今日も四角い明かりがいくつも見えた。
あの明かりの向こうで楜澤さんのからだも生きている。
いまもベッドの上で楜澤さんを待っている。
放っておかれたら、からだも拗ねてしまうんじゃないかと思った。
だけどそんなことは言えなくて。
病院から目を背けたぼくは、花の形に剥いたみかんをひときれ食べた。
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視力が弱いせいか、ぼくには夜の街灯がたんぽぽの綿毛みたいに見えた。
綺麗に飾られたイルミネーションよりも、ぼくは街の綿毛を見るほうが好きだった。
そのことを楜澤さんに話すと、楜澤さんは少し驚いて僕を見た。
「でも、メガネをかけたら綿毛には見えなかった。街灯は街灯で、月もひとつだけだった」
「蓬くんには、月がいくつに見えるの? 」
みかんを剥きながら、ぼくが「みっつ」と答えると、楜澤さんはくすくすと笑った。
「三日月のときは目と口に見えるから、微笑んでいるように見えるよ」
「こんなふうに」と目を閉じて三日月の微笑みを真似すると、楜澤さんは目じりを下げてさらに笑った。
手の中に残ったふたきれのみかんを背中合わせにして、できあがった小さな蝶を街の綿毛に重ねた。
みかんの羽根をぱたぱたと動かして、飛び立つ真似をする。
「見て、楜澤さん」
穴のあいた隔て板の向こうに顔を向けると、そこに楜澤さんはいなかった。
夢から覚めたみたいに、ぼくはまたひとりになった。
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ひと月が過ぎても、楜澤さんはベランダに現れなかった。
あの四角い明かりの向こうに戻っていったんだろうか。
それとも、もう楜澤さんは────。
布団を鼻まで引き寄せると、ぎゅっと目をつむって、ぼくは楜澤さんに会える日を願った。
あくびをして目覚まし時計を見ると、針は「へ」の字にまわっていた。
どのみち遅刻だとあきらめて、ぼくはゆっくりと身じたくをはじめた。
ランドセルを背負って、ちぐはぐに結んだ靴を履く。
起きてきたママに手を振って、上がってくるエレベーターを待ちながら、ぼくはもう一度靴ひもを結び直した。
そのうちにエレベーターのドアがひらいて、見覚えのある片方の靴と松葉杖が目に映った。
顔を上げると、そこには髭のない楜澤さんが立っていた。
ぼくに気づいて、楜澤さんがほほ笑む。
しゃがみこんだまま、つられてぼくも笑った。
綺麗に結ばれた蝶々が、ぼくらの靴にとまっていた。


