四
ぽつぽつと来客が集まりだし、母屋に面したテラスでバーベキューが始まっていた。私は彼以外に知った顔もいなかったこともあり、ほとんど彼と一緒にいて、他の客人とは適当に会話していた。
「俺以外に知り合いはいないのか?」彼が訊いた。
「いないさ。それにあまり積極的に誰かと話したい気分じゃない……」
「そうか? まあ、俺も同じで、知ってる客はいないさ。ところで、サングラスにマスクの変な男を見てないか?」彼が唐突にそう訊いた。
「なんだ? 変質者か?」私は逆に訊いた。「そいつと何か話をしたのか?」
「ちょっとミステリーに興味がある風の謎の変装男って感じだったが――坂東善というペンネームにすぐフットレルですね、って反応したぜ?」
「他にはどんな話を?」
「ミステリー映画の話だったかな? 江戸川乱歩の黒蜥蜴での俳優天地茂の変装についてとか、横溝正史の犬神家での菊人形の生首とか」
「ふーん」
「まあ、あんまり悩まず気楽にしとこうや。俺はちょっと席を外すよ。ちょっと疲れた」彼は別荘の中に入っていった。
――おかしい
これを書いている今、その時のことを思い出して、ふとその単語が頭に浮かぶ。
可笑しい? それとも 可怪しい?
どちらだったのだろう?
まだ完全に記憶が戻ってはいない。しかし書き進めなければならない。
しばらく、バーベキューをつつきながら良美の友達の女性陣と適当に話をしていたが、特に弾む話題もなく、何となく独りになった時に、ふと、そいつに気づいた。サングラスにマスクの妙な男。そいつがこちらにやってきた。
「ミステリー作家の方ですよね」
どう返事しようか? 迷っていたが、そいつは勝手にしゃべり始めた。
「私は近藤の会社の研究員です。今日はお客ではなくていろいろ小間使い的な役割で来てますけど」
「研究員? どういう研究をされているんです?」私はそいつに尋ねる。
「人工知能、機械学習ですね」
「コンピューター分野ですね」
「ええ、あるミステリーも読みましたよ。つい最近出版された、コンピューター・チェス、将棋のやつ」
――おかしい
これを書いている今、再度その言葉が出てきてしまう。おかしいとはどっちだったんだろう? いや、考えていても思い出せないものは仕方ない。先に進もう。
私が黙っているとそいつがこう続けた。
「まあ、今の時点ではチェスはともかく、将棋だと人間の方が遥かに強い。囲碁だとコンピューターは全然歯が立たない。確かにそうですが」
「そういう研究をされているんですか? 人工知能にゲームをやらせる?」私はそいつに訊く。
「いえ、もっと医療に役立つ研究です、BMIですね」
「ビーエムアイとは?」
「ブレイン・マシン・インターフェイスです。人間の脳と機械を直接繋ごう、そういう研究です」
「凄いですね」私は素直にそう思った。
「まだまだ研究途上ですが、いずれ、実用される日はきますよ。それに――」
「それに?」私はオウム返しに尋ねる。
「将棋も囲碁もいずれ人工知能が人間を打ち負かします」
「そうですか……」
そいつはそうした自分の研究分野について熱く語ってくれた。半分くらいしか理解はできなかったが、つい最近もBMIの実験をやったらしい。何でも首に巻いたプローブで頚髄に流れる信号を採取するのだという。その信号を機械学習で解析させるらしい――
そいつが去ってしばらくして再び彼がやってきた。
「近藤の会社の研究員さんと小難しい話してたみたいだな」彼が真顔でそう言った。
ああ、そうだ。書いている今ならわかる。書いている今も記憶が曖昧で混乱しているが、あの時も本当に混乱していたのだ。私は混乱していた、今、それはハッキリわかる。
私は少し混乱していた。先ほどのサングラスにマスクの男――そいつは彼の変装とばかり思っていたのだが……。ちょっと彼がふざけているだけ、そう思った。しかし、違うのかもしれない。彼がBMIに詳しいとも思えなかった。先刻会ったのは本当に研究員だったのだろうか? いや、しかし――
映画では天地茂のような完璧な変装が可能であるが、現実にはそうはいかない。サングラスとマスクで胡麻化すのが関の山だが……。ただ、そういう幼稚な変装でも、実際にそのような風貌の人間に遭遇したら、何らかの事情で素顔を隠していることは推測できるが、その素顔が誰なのかはわかりようもない。声質は器用な人間ならいかようにも操れるはずだ。
「一番奥の部屋に引っ込もうとしてたので、ちょっと話を聞いたんだが、ビーエムアイが何とか、そんな話をお前さんとしたとか話してくれたぜ」彼が構わずそう言った。
「まあ、そうだが……」
あの研究員の話題はそれ以上膨らまず、私と彼との間にしばらく沈黙が訪れた。
――おかしい
ひらがなで書くしかない。可笑しいか? 可怪しいか? どっちなのかはわからない。今もあの時も――
その沈黙の後、お互いペンネームで呼び合い、執筆について本音の話をした。
「尾崎諒馬、いやその前に、君の高校生自分のペンネームは『いるまんま』だったろ? 応募もその名だった。何故改名したんだ?」
「いや、あまり人間ぽくない名前なんで、改名を迫られたんだ、角川に」
「それで尾崎諒馬か。まあいいや、で、第四作はどうなってる?」
「それより坂東善は二作目は書かないのかい? 一作目の『完全な密室』に続いて――」
「そんな昔の話を――」
「それとも書けないのか? 書かないじゃなくて。いや、すまん、少し言葉に毒があった。こっちの四作目も暗礁に乗り上げているよ」
「四作目か……。凄いよ、そっちは三冊は上梓したんだから――」
「そっちの方こそ頑張れば……」
「いや、こっちの『完全な密室』は中編で雑誌に載っただけだ。大体、トリックが……。選評読んだだろう? トリックについては選考委員の一人に酷評されていた。本当の意味で評価されたわけじゃないよ。お情けでもらった――いや、失敬。自分のこととはいえ、お情けでもらったは失礼な表現だ。とにかくあの中編一つ、そしてあんな小さな賞一つではミステリー作家とは言えないよ。それに比べて尾崎諒馬は――きちんと長編を仕上げて――やはり長編が必要なんだよ。そして『横溝正史賞』大賞賞金一千万」
「いや、佳作で五十万だよ」
「それでもきちんと単行本になって書店に並んでいた。それに新聞にインタビューが載ったじゃないか? それはそれでうらやましいよ。とにかく、きちんと四作目も書くべきじゃないかい? 尾崎先生」
しばらく沈黙が続いた。
「ん? ちょっと言いすぎたか……。まったくだな。こっちもあの中編一作だけで、あとは何も書けてはいない」
「それで、大丈夫なのか?」
「別に、青春の記念に一作雑誌に掲載される小さな新人賞をもらった、それだけで十分さ」
「いや、それでは生活費とかは……」
「こっちだってバカじゃないからな」声が幾分いらだっている。しかし、続けて穏やかな声で「作家になれないのなら、別の道を探すよ」
再び沈黙が訪れる。
「別の道か……」
「とにかく、四作目を頑張ってくれよ。こっちは見守ることしかできないけどな。口は悪いが応援はしてるんだぜ」
「実は――」
「ん? 何だ?」
「殺人事件が書けないんだ。それでミステリー作家失格のような気がしている」
「そうかい。まあこっちがとやかく言うことではないよな。まあ、こっちのことは気にしないでくれ」
そのまま二人で黙り込んでしまった。本音で会話してみたのだが、デビューはしたもののその後書けなくなってしまった二人のミステリー作家の息苦しさだけが残った。
