三月は、所によりオフライン

 卒業式まで、あと五日。
 
 目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。
 久しぶりに聴く、鳥のさえずり――きっとヒバリだろう。
 これほど早く目が覚めたのは、毎日高校に通っていた時以来だ。
 これまでの日常が非日常に変わりつつあることを、改めて自覚した。

 昨日、あれだけ色んなことがあったにも関わらず、頭の方はスッキリしていた。
 朝ご飯もそこそこに、部屋で荷造りを再開した。
 昨日までは悩んでばかりで進まなかったのに、今日は迷いがない。
 段ボール箱へ本当に必要なモノだけを詰め、ガムテープでフタをした。
 荷造りが午前中に一段落すると、僕がこの町でやるべきクエストはあと一つになった。

「……行くか」

 誰に言うでもなくつぶやき、重い腰を上げた。
 スタンドミラーに映る自分は、やっぱり冴えない。
 目にかかる前髪、覇気のない目つき、猫背気味の姿勢。
 僕はゆっくりと胸に手を当てる。
 心臓は、昨日より力強く音を立てている気がした。

 ――大丈夫。君なら、きっとできるよ。

 そうエールを送ると、鏡の中の冴えない君は少しだけ笑みを見せた。

 階段を降りると、リビングから母の鼻歌が聞こえてくる。
 昨日の『ありがとう』効果はまだ続いているらしい。
 僕は苦笑し、なるべく音を立てないように玄関でスニーカーを履く。
 おかしい、足が異様に重い。
 まるで、地球の重力が十倍になったみたいだ。
 玄関のドアノブはやけに冷たく、僕の一歩踏み出そうとする気持ちを押さえつけた。
 力を振り絞って外に出ると、風がふわりと僕の頬を撫でた。
 思ったより暖かい。
 昨日よりも確実に、季節は春に近づいていた。

 陽菜の家までは、ほんの数メートル。
 それなのに、僕にとっては銀河の端と端ぐらい離れているように感じられた。
 僕は薄暗い宇宙を一歩ずつ進む。
 そして、何とか陽菜の家の前まで辿り着いた。
 目の前には、黒いインターホン。
 スマホの送信ボタンみたいに、気軽にタップできたらどんなに楽だろうか。
 けど、こいつは違う。
 インターホンのボタンは重い存在感を放っていた。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
 僕の心臓とスピーカーがBluetooth接続できたら、近所迷惑レベルの大音量が聞こえただろう。
 果たして、陽菜は僕と話してくれるだろうか。
 居留守を使われる可能性もある。
 それどころか、再び『大嫌い』と言われ、僕のメンタルは粉々に砕け散るかもしれない。
 マイナスの想像ばかりが頭の中を駆け巡り、僕をこの場から立ち去らせようとする。

 いや、ダメだ。
 もしここで逃げたら、陽菜とは一生向き合えない。
 僕は唇を噛みしめ、震える手でインターホンを押す。

 ――ピンポーン。

 昨日、橘が訪ねてきた時と同じ電子音が、静かな住宅街に響き渡った。
 僕はゴクリと唾を飲み込み、息を止めて反応を待つ。
 押してから、たった数秒。
 にも関わらず、時間が無限に引き延ばされたように思えた。

 ――ガチャリ。

 扉が開く音がして、僕はビクッと肩を震わせた。
 そこに立っていたのは陽菜――ではなく、彼女の母親だった。

「あらー、翔太くん、どうしたの?」
「どうも……ご無沙汰しています」
「ウチに来るなんて、すっごく久しぶりねー。高校生になってからは初めてじゃない?」

 陽菜の母親とは顔を合わせば会釈をする程度だったので、直接話すのは久しぶりだ。
 記憶の中のまんま、ふんわりした口調は全然変わっていない。
 なんだか、子供時代にタイムスリップしたような感覚だ。
 僕はしどろもどろになりながら説明する。

「あ、あの……陽菜さんにちょっと話があって……。ほら、ネットが繋がらないから、直接来るしかなくて……」
「そうなのー? じゃあ上がって上がって」

 陽菜の母親はにっこりと僕に笑いかけ、玄関の扉を大きく開けた。
 僕が魔王城に挑む勇者のような心境だなんて、彼女はまったく気づいていない。
 一瞬、家に入ることを躊躇(ちゅうちょ)したが、これはチャンスかもしれないと思い直す。
 家に入りさえすれば、陽菜も僕と顔を合わせざるをえない。
 もちろん、余計にこじれる可能性もあるけど。

「陽菜ー。翔太くんが来てるわよー」

 陽菜の母親が、二階に向かって声をかける。
 数秒後、ドタドタと慌ただしい足音がし、階段の上から陽菜が顔を出す。
 先日とは別のジャージ姿。
 目が合った瞬間、陽菜は大きな瞳がこぼれるほど、目を見開いた。
 まるで、宇宙人でも見たかのような驚きと困惑の表情。

「ちょっとお母さん! 何勝手に、家にいれてるの」
「えー、いいじゃない。せっかく来てくれたんだし」
「歩いて数秒の距離なんだから、せっかくも何もないって」
 
 母親と娘の攻防戦。
 陽菜は必死だが、僕たちのいさかいを知らない母親は楽しげな様子。
 やがて陽菜は母親を説得するのをあきらめたのか、大きなため息をつく。

「……五分したら、部屋に来て」
「あ、うん」

 陽菜はそれだけ言うと、階段の先に消えた。
 それまでの間、僕はリビングで待つことになった。
 陽菜の母親はのんびりした口調だが、マシンガンのように世間話を続けるので、僕は知りうる限りの相づちを披露し、必死に対抗した。

 五分後、僕は処刑台に向かう罪人のように階段を恐る恐る上った。
 陽菜の部屋のドアを、そっとノックする。

「どうぞ」

 中から、くぐもった声が聞こえた。
 意を決してドアを開けると、小学生の頃の記憶とほとんど変わらない、淡い色で統一された部屋が広がっていた。
 クリーム色の壁紙、きちんと整頓された勉強机、ぬいぐるみと本が同居する棚、花柄のカバーのかかったベッド――机をひっくり返したような僕の部屋とは正反対だ。
 ただ、壁にかかった鞄だけが、ランドセルから大人びたリュックに変わっている。
 それが、僕たちが通り過ぎてきた時間を静かに物語っている。

「じろじろ見ないでくれる? っていうか、何も見るな」
「……無茶言うなよ。目をつぶってろってか」

 小学生の頃は、よく部屋の真ん中に敷かれたふわふわのカーペットに並んで座り、ゲームをした。
 僕が昔と同じ場所に座ると、陽菜は勉強机の椅子に座った。
 その微妙な距離が、僕たちの今の関係性を象徴しているようで、胸がキュッと痛んだ。

「で、何しに来たの? 二度と話しかけないでって言ったよね?」
「いや……その……」

 昨日から何度も脳内で謝罪のシミュレーションして来た。
 なのに、いざ陽菜を目の前にすると頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
 陽菜の射るような視線は、あらかじめ用意していた言葉を、宇宙の彼方に吹き飛ばしてしまう。
 もう、できることは一つしかない。
 僕は息を大きく吸い込んだ後、勢いよく頭を下げる。

「陽菜、ごめん!」

 僕のおでこが、カーペットの毛足に埋まる。
 情けないくらいに、声が震えていた。
 陽菜は今、どんな表情をしているのだろうか。
 軽蔑(けいべつ)しているのか、あきれているのか――知りたいけど、怖くて顔を上げられない。

「ちょっと! 何やってんの、いきなり」

 頭上から、陽菜の慌てた声が聞こえてきた。

「どうしたもこうしたもない……! 僕にできるのはこれだけなんだ!」
「あーもう……! とにかく、顔上げて」

 僕が恐る恐る顔を上げると、陽菜はあきれたような表情で僕を見ていた。
 眉間にシワは寄ってるけど、そこには先ほどまで存在しなかった温かさが感じられた。
 陽菜は両腕を組み、目をこれでもかと細める。

「そもそも、何を謝ってるつもり? とりあえず謝っておけばいいって思ってるなら、余計に迷惑なんだけど」
「それは――」

 ここ数日の出来事は、僕に色んなことを教えてくれた。

 僕に謝りに来た橘。
 彼も、完璧なフリをして見えない所で苦しんでた。
 僕と同じように――いや、僕以上に。

 ずっと一緒に暮して来た両親。
 母は常にあっけらかんとしていて、父親は仕事にしか興味がないと思っていた。
 けど僕のたった一言で、あんなにも心が動くなんて想像だにしなかった。

 僕は知った。
 本音って、そう簡単に見えるものじゃない。
 表に出てる言葉や態度だけが全てじゃないんだ。
 まるでSNSのタイムラインみたいに、見えてるものはほんの一部で、その裏にはもっと複雑で、ぐちゃぐちゃした感情が隠れてる。

 じゃあ、陽菜は?
 決まってる、同じだ。
 僕は言葉をつむぐ力を得るため、すーっと息を吸い込む。
 そして、陽菜の心の奥底に眠っていた想いをすくい上げる。

「――僕が苦しんでいたことを、友達に……いや、陽菜に相談しなかったから」
「はあ? 何言ってんの。そんなわけ……」

 陽菜は言葉に詰まり、ハッとしたように目を大きく開いた。
 僕は目を細め、かすかに笑みを浮かべる。

「よかった。合ってたみたいで」

 そう言うと、陽菜は顔を真っ赤にして僕をにらんだ。
 僕は笑みを消し、陽菜の視線を真っ直ぐ受け止める。

「あれから必死に考えたんだ。どうして、陽菜があんなに怒ったのかって」

 裏垢で陰口を言ったこと。
 周りと分かり合おうとしなかったこと。
 陽菜に悩みがないと決めつけたこと。
 陽菜と一緒にいるのが息苦しいなんてひどい嘘を言ったこと。
 どれも、陽菜を怒らすには十分。

「――けど、どこかしっくりこなかったんだ。あんな怒りを、今まで見たことがなかったから」

 僕は軽い気持ちで、ネットに日々の不満を垂れ流しているつもりだった。
 けど、陽菜にはそう思えなかったのだろう。
 そして、それは真実だった。
 僕は思った以上に、生きることに苦しんでいた。
 青春を謳歌する周囲と比べ、自分は暗闇の中を当てもなく彷徨(さまよ)うだけ。
 自らの心すらも偽り、皮肉めいた言葉をつぶやくことで自己を保っていた。

「それで、もし僕が陽菜の立場だったらと想像したんだ」

 昔と関係は変わったとはいえ、大切な幼馴染であることには変わりない。
 陽菜がそれほど悩んでいたなら、何をおいても力になっただろう。
 けど、悩みを打ち明けられることもなく、糸のような細い繋がりしかない誰かに、不満をぶちまけていたと知ったら――。
 僕はそれを想像するだけで、心にひどい雨が降った。
 感じたのは『怒り』でなく『悲しみ』。
 
「陽菜の言う通りだったよ。僕はとても『ダサい』。頼るべき人がいたのに、安っぽいプライドが邪魔をして、それができなかった。だから……それを謝りたかったんだ」

 陽菜は僕の話を黙って聞いていた。
 相づちを打つこともなく、ただじっと僕の瞳の奥を見つめながら。
 その眼差しは、僕の覚悟を試しているようにも思えた。

 僕が話し終えてから、一分ほど経っただろうか。
 陽菜は目を閉じ、ぽつりとつぶやく。

「――許す」

 僕は思わず立ち上がる。
 
「本当に!?」
「うん。ただ、なんか翔太に心を見透かされたようで、すっごいむかつく」

 陽菜に笑顔が戻った。
 それは、曇り空が一気に晴れ渡ったみたいにまぶしくて。
 僕は胸の奥がきゅーとなって、涙がこぼれそうになった。
 こんな不意打ちは、反則だ。

「それに、謝らなきゃいけないのは私も同じ。悩んでいることに気付けずごめん。翔太の気持ちに寄り添わず、正論ばかり振りかざした私も……ダサかった」

 躊躇(ちゅうちょ)なく、頭を下げる陽菜。
 いつだって真っすぐな陽菜。
 自分が間違ってると思ったら、素直に謝れる。
 だから、陽菜はいつもたくさんの友人に囲まれている。

 ああ、きっとこういう所なんだ。
 時に、彼女との差に落ち込むこともあるけど。
 僕が絶対に陽菜のことを――嫌いになれないのは。

 その時、コンコンと控えめなノックの音が聞こえる。

「はーい、紅茶とお菓子ですよー」

 まるで計ったかのようなタイミングで、陽菜の母親が満面の笑みを浮かべて登場した。
 お盆には、手作りとおぼしきクッキーと湯気の立つティーカップが載っている。
 紅茶の良い香りが部屋いっぱいに広がった。

「翔太くん、たしかミルクティーが好きだったわよね?」
「あ、はい。ありがとうございます」

 お盆が回転し、僕の目の前にミルクティーがやって来る。
 陽菜の目の前にはストレートティー。

「そういえば聞いたわよー。翔太くんは、春から一人暮らしなんですって? E県の大学だったかしら」
「はい。情報工学部です」
「まあ、すごい! ……でも遠くなっちゃうのね。何だか寂しくなるわあ」
「陽菜さんはたしか、近くで就職するんでしたよね?」
「そうなのよー。ね、陽菜」

 お母さんに話を振られて、陽菜はほんの一瞬、表情を曇らせた気がした。
 僕と喧嘩していた時とはまた異なる、もっと複雑そうな影。

「うん……まあね」

 すぐにいつもの笑顔に戻ったけど、僕の気のせいだろうか。

「この子がね、進路どうしようか悩んでた時に、ちょうどお父さんの同僚の方が辞めることになって。もう、お父さんったら『陽菜を後任に!』って、すっごく張り切っちゃってねえ。そこからは、もうトントン拍子で話が決まっちゃったのよ」

 陽菜のお母さんは嬉しそうに話している。
 けど、陽菜はクッキーを黙ってかじっていた。

「もう、お母さん、おしゃべりすぎ。用が済んだなら、早く出てって」
「えー、お母さんも仲間に入れてほしいのにー」

 陽菜の母親はわざとらしく口を尖らせて、部屋を出ていった。

「相変わらず、面白いお母さんだ」
「本当、いらないことばかり話すんだから」

 陽菜はぶつぶつ言いながら、紅茶を一口飲み、クッキーを口に入れた。
 僕もそれに習い、紅茶とクッキーを頂いた。
 クッキーの絶妙な甘さのバランスに、思わずホッと息をついた。
 
「これ、お母さんの手づくり?」
「……うん」
「お店に出てくるレベルで、美味しい。また、御礼伝えておいてくれ」
「ちょっと、大げさすぎだって」
「いや、本当」
「分かった分かった。伝えとくよ、きっと喜ぶ」

 陽菜はあしらうように言ったけど、内心は喜んでいるように見えた。
 母親のお菓子作りの腕を褒められ、照れているのかもしれない。
 
 先ほど母親をうっとおしがっていたのは、やはり本心ではないようだ。
 まるで、両親に無愛想な自分を見ているかのよう。
 そう思うと何だかおかしくて、心の中でクスリと笑った。