卒業式まで、あと五日。
目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。
久しぶりに聴く、鳥のさえずり――きっとヒバリだろう。
これほど早く目が覚めたのは、毎日高校に通っていた時以来だ。
これまでの日常が非日常に変わりつつあることを、改めて自覚した。
昨日、あれだけ色んなことがあったにも関わらず、頭の方はスッキリしていた。
朝ご飯もそこそこに、部屋で荷造りを再開した。
昨日までは悩んでばかりで進まなかったのに、今日は迷いがない。
段ボール箱へ本当に必要なモノだけを詰め、ガムテープでフタをした。
荷造りが午前中に一段落すると、僕がこの町でやるべきクエストはあと一つになった。
「……行くか」
誰に言うでもなくつぶやき、重い腰を上げた。
スタンドミラーに映る自分は、やっぱり冴えない。
目にかかる前髪、覇気のない目つき、猫背気味の姿勢。
僕はゆっくりと胸に手を当てる。
心臓は、昨日より力強く音を立てている気がした。
――大丈夫。君なら、きっとできるよ。
そうエールを送ると、鏡の中の冴えない君は少しだけ笑みを見せた。
階段を降りると、リビングから母の鼻歌が聞こえてくる。
昨日の『ありがとう』効果はまだ続いているらしい。
僕は苦笑し、なるべく音を立てないように玄関でスニーカーを履く。
おかしい、足が異様に重い。
まるで、地球の重力が十倍になったみたいだ。
玄関のドアノブはやけに冷たく、僕の一歩踏み出そうとする気持ちを押さえつけた。
力を振り絞って外に出ると、風がふわりと僕の頬を撫でた。
思ったより暖かい。
昨日よりも確実に、季節は春に近づいていた。
陽菜の家までは、ほんの数メートル。
それなのに、僕にとっては銀河の端と端ぐらい離れているように感じられた。
僕は薄暗い宇宙を一歩ずつ進む。
そして、何とか陽菜の家の前まで辿り着いた。
目の前には、黒いインターホン。
スマホの送信ボタンみたいに、気軽にタップできたらどんなに楽だろうか。
けど、こいつは違う。
インターホンのボタンは重い存在感を放っていた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
僕の心臓とスピーカーがBluetooth接続できたら、近所迷惑レベルの大音量が聞こえただろう。
果たして、陽菜は僕と話してくれるだろうか。
居留守を使われる可能性もある。
それどころか、再び『大嫌い』と言われ、僕のメンタルは粉々に砕け散るかもしれない。
マイナスの想像ばかりが頭の中を駆け巡り、僕をこの場から立ち去らせようとする。
いや、ダメだ。
もしここで逃げたら、陽菜とは一生向き合えない。
僕は唇を噛みしめ、震える手でインターホンを押す。
――ピンポーン。
昨日、橘が訪ねてきた時と同じ電子音が、静かな住宅街に響き渡った。
僕はゴクリと唾を飲み込み、息を止めて反応を待つ。
押してから、たった数秒。
にも関わらず、時間が無限に引き延ばされたように思えた。
――ガチャリ。
扉が開く音がして、僕はビクッと肩を震わせた。
そこに立っていたのは陽菜――ではなく、彼女の母親だった。
「あらー、翔太くん、どうしたの?」
「どうも……ご無沙汰しています」
「ウチに来るなんて、すっごく久しぶりねー。高校生になってからは初めてじゃない?」
陽菜の母親とは顔を合わせば会釈をする程度だったので、直接話すのは久しぶりだ。
記憶の中のまんま、ふんわりした口調は全然変わっていない。
なんだか、子供時代にタイムスリップしたような感覚だ。
僕はしどろもどろになりながら説明する。
「あ、あの……陽菜さんにちょっと話があって……。ほら、ネットが繋がらないから、直接来るしかなくて……」
「そうなのー? じゃあ上がって上がって」
陽菜の母親はにっこりと僕に笑いかけ、玄関の扉を大きく開けた。
僕が魔王城に挑む勇者のような心境だなんて、彼女はまったく気づいていない。
一瞬、家に入ることを躊躇したが、これはチャンスかもしれないと思い直す。
家に入りさえすれば、陽菜も僕と顔を合わせざるをえない。
もちろん、余計にこじれる可能性もあるけど。
「陽菜ー。翔太くんが来てるわよー」
陽菜の母親が、二階に向かって声をかける。
数秒後、ドタドタと慌ただしい足音がし、階段の上から陽菜が顔を出す。
先日とは別のジャージ姿。
目が合った瞬間、陽菜は大きな瞳がこぼれるほど、目を見開いた。
まるで、宇宙人でも見たかのような驚きと困惑の表情。
「ちょっとお母さん! 何勝手に、家にいれてるの」
「えー、いいじゃない。せっかく来てくれたんだし」
「歩いて数秒の距離なんだから、せっかくも何もないって」
母親と娘の攻防戦。
陽菜は必死だが、僕たちのいさかいを知らない母親は楽しげな様子。
やがて陽菜は母親を説得するのをあきらめたのか、大きなため息をつく。
「……五分したら、部屋に来て」
「あ、うん」
陽菜はそれだけ言うと、階段の先に消えた。
それまでの間、僕はリビングで待つことになった。
陽菜の母親はのんびりした口調だが、マシンガンのように世間話を続けるので、僕は知りうる限りの相づちを披露し、必死に対抗した。
五分後、僕は処刑台に向かう罪人のように階段を恐る恐る上った。
陽菜の部屋のドアを、そっとノックする。
「どうぞ」
中から、くぐもった声が聞こえた。
意を決してドアを開けると、小学生の頃の記憶とほとんど変わらない、淡い色で統一された部屋が広がっていた。
クリーム色の壁紙、きちんと整頓された勉強机、ぬいぐるみと本が同居する棚、花柄のカバーのかかったベッド――机をひっくり返したような僕の部屋とは正反対だ。
ただ、壁にかかった鞄だけが、ランドセルから大人びたリュックに変わっている。
それが、僕たちが通り過ぎてきた時間を静かに物語っている。
「じろじろ見ないでくれる? っていうか、何も見るな」
「……無茶言うなよ。目をつぶってろってか」
小学生の頃は、よく部屋の真ん中に敷かれたふわふわのカーペットに並んで座り、ゲームをした。
僕が昔と同じ場所に座ると、陽菜は勉強机の椅子に座った。
その微妙な距離が、僕たちの今の関係性を象徴しているようで、胸がキュッと痛んだ。
「で、何しに来たの? 二度と話しかけないでって言ったよね?」
「いや……その……」
昨日から何度も脳内で謝罪のシミュレーションして来た。
なのに、いざ陽菜を目の前にすると頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
陽菜の射るような視線は、あらかじめ用意していた言葉を、宇宙の彼方に吹き飛ばしてしまう。
もう、できることは一つしかない。
僕は息を大きく吸い込んだ後、勢いよく頭を下げる。
「陽菜、ごめん!」
僕のおでこが、カーペットの毛足に埋まる。
情けないくらいに、声が震えていた。
陽菜は今、どんな表情をしているのだろうか。
軽蔑しているのか、あきれているのか――知りたいけど、怖くて顔を上げられない。
「ちょっと! 何やってんの、いきなり」
頭上から、陽菜の慌てた声が聞こえてきた。
「どうしたもこうしたもない……! 僕にできるのはこれだけなんだ!」
「あーもう……! とにかく、顔上げて」
僕が恐る恐る顔を上げると、陽菜はあきれたような表情で僕を見ていた。
眉間にシワは寄ってるけど、そこには先ほどまで存在しなかった温かさが感じられた。
陽菜は両腕を組み、目をこれでもかと細める。
「そもそも、何を謝ってるつもり? とりあえず謝っておけばいいって思ってるなら、余計に迷惑なんだけど」
「それは――」
ここ数日の出来事は、僕に色んなことを教えてくれた。
僕に謝りに来た橘。
彼も、完璧なフリをして見えない所で苦しんでた。
僕と同じように――いや、僕以上に。
ずっと一緒に暮して来た両親。
母は常にあっけらかんとしていて、父親は仕事にしか興味がないと思っていた。
けど僕のたった一言で、あんなにも心が動くなんて想像だにしなかった。
僕は知った。
本音って、そう簡単に見えるものじゃない。
表に出てる言葉や態度だけが全てじゃないんだ。
まるでSNSのタイムラインみたいに、見えてるものはほんの一部で、その裏にはもっと複雑で、ぐちゃぐちゃした感情が隠れてる。
じゃあ、陽菜は?
決まってる、同じだ。
僕は言葉をつむぐ力を得るため、すーっと息を吸い込む。
そして、陽菜の心の奥底に眠っていた想いをすくい上げる。
「――僕が苦しんでいたことを、友達に……いや、陽菜に相談しなかったから」
「はあ? 何言ってんの。そんなわけ……」
陽菜は言葉に詰まり、ハッとしたように目を大きく開いた。
僕は目を細め、かすかに笑みを浮かべる。
「よかった。合ってたみたいで」
そう言うと、陽菜は顔を真っ赤にして僕をにらんだ。
僕は笑みを消し、陽菜の視線を真っ直ぐ受け止める。
「あれから必死に考えたんだ。どうして、陽菜があんなに怒ったのかって」
裏垢で陰口を言ったこと。
周りと分かり合おうとしなかったこと。
陽菜に悩みがないと決めつけたこと。
陽菜と一緒にいるのが息苦しいなんてひどい嘘を言ったこと。
どれも、陽菜を怒らすには十分。
「――けど、どこかしっくりこなかったんだ。あんな怒りを、今まで見たことがなかったから」
僕は軽い気持ちで、ネットに日々の不満を垂れ流しているつもりだった。
けど、陽菜にはそう思えなかったのだろう。
そして、それは真実だった。
僕は思った以上に、生きることに苦しんでいた。
青春を謳歌する周囲と比べ、自分は暗闇の中を当てもなく彷徨うだけ。
自らの心すらも偽り、皮肉めいた言葉をつぶやくことで自己を保っていた。
「それで、もし僕が陽菜の立場だったらと想像したんだ」
昔と関係は変わったとはいえ、大切な幼馴染であることには変わりない。
陽菜がそれほど悩んでいたなら、何をおいても力になっただろう。
けど、悩みを打ち明けられることもなく、糸のような細い繋がりしかない誰かに、不満をぶちまけていたと知ったら――。
僕はそれを想像するだけで、心にひどい雨が降った。
感じたのは『怒り』でなく『悲しみ』。
「陽菜の言う通りだったよ。僕はとても『ダサい』。頼るべき人がいたのに、安っぽいプライドが邪魔をして、それができなかった。だから……それを謝りたかったんだ」
陽菜は僕の話を黙って聞いていた。
相づちを打つこともなく、ただじっと僕の瞳の奥を見つめながら。
その眼差しは、僕の覚悟を試しているようにも思えた。
僕が話し終えてから、一分ほど経っただろうか。
陽菜は目を閉じ、ぽつりとつぶやく。
「――許す」
僕は思わず立ち上がる。
「本当に!?」
「うん。ただ、なんか翔太に心を見透かされたようで、すっごいむかつく」
陽菜に笑顔が戻った。
それは、曇り空が一気に晴れ渡ったみたいにまぶしくて。
僕は胸の奥がきゅーとなって、涙がこぼれそうになった。
こんな不意打ちは、反則だ。
「それに、謝らなきゃいけないのは私も同じ。悩んでいることに気付けずごめん。翔太の気持ちに寄り添わず、正論ばかり振りかざした私も……ダサかった」
躊躇なく、頭を下げる陽菜。
いつだって真っすぐな陽菜。
自分が間違ってると思ったら、素直に謝れる。
だから、陽菜はいつもたくさんの友人に囲まれている。
ああ、きっとこういう所なんだ。
時に、彼女との差に落ち込むこともあるけど。
僕が絶対に陽菜のことを――嫌いになれないのは。
その時、コンコンと控えめなノックの音が聞こえる。
「はーい、紅茶とお菓子ですよー」
まるで計ったかのようなタイミングで、陽菜の母親が満面の笑みを浮かべて登場した。
お盆には、手作りとおぼしきクッキーと湯気の立つティーカップが載っている。
紅茶の良い香りが部屋いっぱいに広がった。
「翔太くん、たしかミルクティーが好きだったわよね?」
「あ、はい。ありがとうございます」
お盆が回転し、僕の目の前にミルクティーがやって来る。
陽菜の目の前にはストレートティー。
「そういえば聞いたわよー。翔太くんは、春から一人暮らしなんですって? E県の大学だったかしら」
「はい。情報工学部です」
「まあ、すごい! ……でも遠くなっちゃうのね。何だか寂しくなるわあ」
「陽菜さんはたしか、近くで就職するんでしたよね?」
「そうなのよー。ね、陽菜」
お母さんに話を振られて、陽菜はほんの一瞬、表情を曇らせた気がした。
僕と喧嘩していた時とはまた異なる、もっと複雑そうな影。
「うん……まあね」
すぐにいつもの笑顔に戻ったけど、僕の気のせいだろうか。
「この子がね、進路どうしようか悩んでた時に、ちょうどお父さんの同僚の方が辞めることになって。もう、お父さんったら『陽菜を後任に!』って、すっごく張り切っちゃってねえ。そこからは、もうトントン拍子で話が決まっちゃったのよ」
陽菜のお母さんは嬉しそうに話している。
けど、陽菜はクッキーを黙ってかじっていた。
「もう、お母さん、おしゃべりすぎ。用が済んだなら、早く出てって」
「えー、お母さんも仲間に入れてほしいのにー」
陽菜の母親はわざとらしく口を尖らせて、部屋を出ていった。
「相変わらず、面白いお母さんだ」
「本当、いらないことばかり話すんだから」
陽菜はぶつぶつ言いながら、紅茶を一口飲み、クッキーを口に入れた。
僕もそれに習い、紅茶とクッキーを頂いた。
クッキーの絶妙な甘さのバランスに、思わずホッと息をついた。
「これ、お母さんの手づくり?」
「……うん」
「お店に出てくるレベルで、美味しい。また、御礼伝えておいてくれ」
「ちょっと、大げさすぎだって」
「いや、本当」
「分かった分かった。伝えとくよ、きっと喜ぶ」
陽菜はあしらうように言ったけど、内心は喜んでいるように見えた。
母親のお菓子作りの腕を褒められ、照れているのかもしれない。
先ほど母親をうっとおしがっていたのは、やはり本心ではないようだ。
まるで、両親に無愛想な自分を見ているかのよう。
そう思うと何だかおかしくて、心の中でクスリと笑った。
目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。
久しぶりに聴く、鳥のさえずり――きっとヒバリだろう。
これほど早く目が覚めたのは、毎日高校に通っていた時以来だ。
これまでの日常が非日常に変わりつつあることを、改めて自覚した。
昨日、あれだけ色んなことがあったにも関わらず、頭の方はスッキリしていた。
朝ご飯もそこそこに、部屋で荷造りを再開した。
昨日までは悩んでばかりで進まなかったのに、今日は迷いがない。
段ボール箱へ本当に必要なモノだけを詰め、ガムテープでフタをした。
荷造りが午前中に一段落すると、僕がこの町でやるべきクエストはあと一つになった。
「……行くか」
誰に言うでもなくつぶやき、重い腰を上げた。
スタンドミラーに映る自分は、やっぱり冴えない。
目にかかる前髪、覇気のない目つき、猫背気味の姿勢。
僕はゆっくりと胸に手を当てる。
心臓は、昨日より力強く音を立てている気がした。
――大丈夫。君なら、きっとできるよ。
そうエールを送ると、鏡の中の冴えない君は少しだけ笑みを見せた。
階段を降りると、リビングから母の鼻歌が聞こえてくる。
昨日の『ありがとう』効果はまだ続いているらしい。
僕は苦笑し、なるべく音を立てないように玄関でスニーカーを履く。
おかしい、足が異様に重い。
まるで、地球の重力が十倍になったみたいだ。
玄関のドアノブはやけに冷たく、僕の一歩踏み出そうとする気持ちを押さえつけた。
力を振り絞って外に出ると、風がふわりと僕の頬を撫でた。
思ったより暖かい。
昨日よりも確実に、季節は春に近づいていた。
陽菜の家までは、ほんの数メートル。
それなのに、僕にとっては銀河の端と端ぐらい離れているように感じられた。
僕は薄暗い宇宙を一歩ずつ進む。
そして、何とか陽菜の家の前まで辿り着いた。
目の前には、黒いインターホン。
スマホの送信ボタンみたいに、気軽にタップできたらどんなに楽だろうか。
けど、こいつは違う。
インターホンのボタンは重い存在感を放っていた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
僕の心臓とスピーカーがBluetooth接続できたら、近所迷惑レベルの大音量が聞こえただろう。
果たして、陽菜は僕と話してくれるだろうか。
居留守を使われる可能性もある。
それどころか、再び『大嫌い』と言われ、僕のメンタルは粉々に砕け散るかもしれない。
マイナスの想像ばかりが頭の中を駆け巡り、僕をこの場から立ち去らせようとする。
いや、ダメだ。
もしここで逃げたら、陽菜とは一生向き合えない。
僕は唇を噛みしめ、震える手でインターホンを押す。
――ピンポーン。
昨日、橘が訪ねてきた時と同じ電子音が、静かな住宅街に響き渡った。
僕はゴクリと唾を飲み込み、息を止めて反応を待つ。
押してから、たった数秒。
にも関わらず、時間が無限に引き延ばされたように思えた。
――ガチャリ。
扉が開く音がして、僕はビクッと肩を震わせた。
そこに立っていたのは陽菜――ではなく、彼女の母親だった。
「あらー、翔太くん、どうしたの?」
「どうも……ご無沙汰しています」
「ウチに来るなんて、すっごく久しぶりねー。高校生になってからは初めてじゃない?」
陽菜の母親とは顔を合わせば会釈をする程度だったので、直接話すのは久しぶりだ。
記憶の中のまんま、ふんわりした口調は全然変わっていない。
なんだか、子供時代にタイムスリップしたような感覚だ。
僕はしどろもどろになりながら説明する。
「あ、あの……陽菜さんにちょっと話があって……。ほら、ネットが繋がらないから、直接来るしかなくて……」
「そうなのー? じゃあ上がって上がって」
陽菜の母親はにっこりと僕に笑いかけ、玄関の扉を大きく開けた。
僕が魔王城に挑む勇者のような心境だなんて、彼女はまったく気づいていない。
一瞬、家に入ることを躊躇したが、これはチャンスかもしれないと思い直す。
家に入りさえすれば、陽菜も僕と顔を合わせざるをえない。
もちろん、余計にこじれる可能性もあるけど。
「陽菜ー。翔太くんが来てるわよー」
陽菜の母親が、二階に向かって声をかける。
数秒後、ドタドタと慌ただしい足音がし、階段の上から陽菜が顔を出す。
先日とは別のジャージ姿。
目が合った瞬間、陽菜は大きな瞳がこぼれるほど、目を見開いた。
まるで、宇宙人でも見たかのような驚きと困惑の表情。
「ちょっとお母さん! 何勝手に、家にいれてるの」
「えー、いいじゃない。せっかく来てくれたんだし」
「歩いて数秒の距離なんだから、せっかくも何もないって」
母親と娘の攻防戦。
陽菜は必死だが、僕たちのいさかいを知らない母親は楽しげな様子。
やがて陽菜は母親を説得するのをあきらめたのか、大きなため息をつく。
「……五分したら、部屋に来て」
「あ、うん」
陽菜はそれだけ言うと、階段の先に消えた。
それまでの間、僕はリビングで待つことになった。
陽菜の母親はのんびりした口調だが、マシンガンのように世間話を続けるので、僕は知りうる限りの相づちを披露し、必死に対抗した。
五分後、僕は処刑台に向かう罪人のように階段を恐る恐る上った。
陽菜の部屋のドアを、そっとノックする。
「どうぞ」
中から、くぐもった声が聞こえた。
意を決してドアを開けると、小学生の頃の記憶とほとんど変わらない、淡い色で統一された部屋が広がっていた。
クリーム色の壁紙、きちんと整頓された勉強机、ぬいぐるみと本が同居する棚、花柄のカバーのかかったベッド――机をひっくり返したような僕の部屋とは正反対だ。
ただ、壁にかかった鞄だけが、ランドセルから大人びたリュックに変わっている。
それが、僕たちが通り過ぎてきた時間を静かに物語っている。
「じろじろ見ないでくれる? っていうか、何も見るな」
「……無茶言うなよ。目をつぶってろってか」
小学生の頃は、よく部屋の真ん中に敷かれたふわふわのカーペットに並んで座り、ゲームをした。
僕が昔と同じ場所に座ると、陽菜は勉強机の椅子に座った。
その微妙な距離が、僕たちの今の関係性を象徴しているようで、胸がキュッと痛んだ。
「で、何しに来たの? 二度と話しかけないでって言ったよね?」
「いや……その……」
昨日から何度も脳内で謝罪のシミュレーションして来た。
なのに、いざ陽菜を目の前にすると頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
陽菜の射るような視線は、あらかじめ用意していた言葉を、宇宙の彼方に吹き飛ばしてしまう。
もう、できることは一つしかない。
僕は息を大きく吸い込んだ後、勢いよく頭を下げる。
「陽菜、ごめん!」
僕のおでこが、カーペットの毛足に埋まる。
情けないくらいに、声が震えていた。
陽菜は今、どんな表情をしているのだろうか。
軽蔑しているのか、あきれているのか――知りたいけど、怖くて顔を上げられない。
「ちょっと! 何やってんの、いきなり」
頭上から、陽菜の慌てた声が聞こえてきた。
「どうしたもこうしたもない……! 僕にできるのはこれだけなんだ!」
「あーもう……! とにかく、顔上げて」
僕が恐る恐る顔を上げると、陽菜はあきれたような表情で僕を見ていた。
眉間にシワは寄ってるけど、そこには先ほどまで存在しなかった温かさが感じられた。
陽菜は両腕を組み、目をこれでもかと細める。
「そもそも、何を謝ってるつもり? とりあえず謝っておけばいいって思ってるなら、余計に迷惑なんだけど」
「それは――」
ここ数日の出来事は、僕に色んなことを教えてくれた。
僕に謝りに来た橘。
彼も、完璧なフリをして見えない所で苦しんでた。
僕と同じように――いや、僕以上に。
ずっと一緒に暮して来た両親。
母は常にあっけらかんとしていて、父親は仕事にしか興味がないと思っていた。
けど僕のたった一言で、あんなにも心が動くなんて想像だにしなかった。
僕は知った。
本音って、そう簡単に見えるものじゃない。
表に出てる言葉や態度だけが全てじゃないんだ。
まるでSNSのタイムラインみたいに、見えてるものはほんの一部で、その裏にはもっと複雑で、ぐちゃぐちゃした感情が隠れてる。
じゃあ、陽菜は?
決まってる、同じだ。
僕は言葉をつむぐ力を得るため、すーっと息を吸い込む。
そして、陽菜の心の奥底に眠っていた想いをすくい上げる。
「――僕が苦しんでいたことを、友達に……いや、陽菜に相談しなかったから」
「はあ? 何言ってんの。そんなわけ……」
陽菜は言葉に詰まり、ハッとしたように目を大きく開いた。
僕は目を細め、かすかに笑みを浮かべる。
「よかった。合ってたみたいで」
そう言うと、陽菜は顔を真っ赤にして僕をにらんだ。
僕は笑みを消し、陽菜の視線を真っ直ぐ受け止める。
「あれから必死に考えたんだ。どうして、陽菜があんなに怒ったのかって」
裏垢で陰口を言ったこと。
周りと分かり合おうとしなかったこと。
陽菜に悩みがないと決めつけたこと。
陽菜と一緒にいるのが息苦しいなんてひどい嘘を言ったこと。
どれも、陽菜を怒らすには十分。
「――けど、どこかしっくりこなかったんだ。あんな怒りを、今まで見たことがなかったから」
僕は軽い気持ちで、ネットに日々の不満を垂れ流しているつもりだった。
けど、陽菜にはそう思えなかったのだろう。
そして、それは真実だった。
僕は思った以上に、生きることに苦しんでいた。
青春を謳歌する周囲と比べ、自分は暗闇の中を当てもなく彷徨うだけ。
自らの心すらも偽り、皮肉めいた言葉をつぶやくことで自己を保っていた。
「それで、もし僕が陽菜の立場だったらと想像したんだ」
昔と関係は変わったとはいえ、大切な幼馴染であることには変わりない。
陽菜がそれほど悩んでいたなら、何をおいても力になっただろう。
けど、悩みを打ち明けられることもなく、糸のような細い繋がりしかない誰かに、不満をぶちまけていたと知ったら――。
僕はそれを想像するだけで、心にひどい雨が降った。
感じたのは『怒り』でなく『悲しみ』。
「陽菜の言う通りだったよ。僕はとても『ダサい』。頼るべき人がいたのに、安っぽいプライドが邪魔をして、それができなかった。だから……それを謝りたかったんだ」
陽菜は僕の話を黙って聞いていた。
相づちを打つこともなく、ただじっと僕の瞳の奥を見つめながら。
その眼差しは、僕の覚悟を試しているようにも思えた。
僕が話し終えてから、一分ほど経っただろうか。
陽菜は目を閉じ、ぽつりとつぶやく。
「――許す」
僕は思わず立ち上がる。
「本当に!?」
「うん。ただ、なんか翔太に心を見透かされたようで、すっごいむかつく」
陽菜に笑顔が戻った。
それは、曇り空が一気に晴れ渡ったみたいにまぶしくて。
僕は胸の奥がきゅーとなって、涙がこぼれそうになった。
こんな不意打ちは、反則だ。
「それに、謝らなきゃいけないのは私も同じ。悩んでいることに気付けずごめん。翔太の気持ちに寄り添わず、正論ばかり振りかざした私も……ダサかった」
躊躇なく、頭を下げる陽菜。
いつだって真っすぐな陽菜。
自分が間違ってると思ったら、素直に謝れる。
だから、陽菜はいつもたくさんの友人に囲まれている。
ああ、きっとこういう所なんだ。
時に、彼女との差に落ち込むこともあるけど。
僕が絶対に陽菜のことを――嫌いになれないのは。
その時、コンコンと控えめなノックの音が聞こえる。
「はーい、紅茶とお菓子ですよー」
まるで計ったかのようなタイミングで、陽菜の母親が満面の笑みを浮かべて登場した。
お盆には、手作りとおぼしきクッキーと湯気の立つティーカップが載っている。
紅茶の良い香りが部屋いっぱいに広がった。
「翔太くん、たしかミルクティーが好きだったわよね?」
「あ、はい。ありがとうございます」
お盆が回転し、僕の目の前にミルクティーがやって来る。
陽菜の目の前にはストレートティー。
「そういえば聞いたわよー。翔太くんは、春から一人暮らしなんですって? E県の大学だったかしら」
「はい。情報工学部です」
「まあ、すごい! ……でも遠くなっちゃうのね。何だか寂しくなるわあ」
「陽菜さんはたしか、近くで就職するんでしたよね?」
「そうなのよー。ね、陽菜」
お母さんに話を振られて、陽菜はほんの一瞬、表情を曇らせた気がした。
僕と喧嘩していた時とはまた異なる、もっと複雑そうな影。
「うん……まあね」
すぐにいつもの笑顔に戻ったけど、僕の気のせいだろうか。
「この子がね、進路どうしようか悩んでた時に、ちょうどお父さんの同僚の方が辞めることになって。もう、お父さんったら『陽菜を後任に!』って、すっごく張り切っちゃってねえ。そこからは、もうトントン拍子で話が決まっちゃったのよ」
陽菜のお母さんは嬉しそうに話している。
けど、陽菜はクッキーを黙ってかじっていた。
「もう、お母さん、おしゃべりすぎ。用が済んだなら、早く出てって」
「えー、お母さんも仲間に入れてほしいのにー」
陽菜の母親はわざとらしく口を尖らせて、部屋を出ていった。
「相変わらず、面白いお母さんだ」
「本当、いらないことばかり話すんだから」
陽菜はぶつぶつ言いながら、紅茶を一口飲み、クッキーを口に入れた。
僕もそれに習い、紅茶とクッキーを頂いた。
クッキーの絶妙な甘さのバランスに、思わずホッと息をついた。
「これ、お母さんの手づくり?」
「……うん」
「お店に出てくるレベルで、美味しい。また、御礼伝えておいてくれ」
「ちょっと、大げさすぎだって」
「いや、本当」
「分かった分かった。伝えとくよ、きっと喜ぶ」
陽菜はあしらうように言ったけど、内心は喜んでいるように見えた。
母親のお菓子作りの腕を褒められ、照れているのかもしれない。
先ほど母親をうっとおしがっていたのは、やはり本心ではないようだ。
まるで、両親に無愛想な自分を見ているかのよう。
そう思うと何だかおかしくて、心の中でクスリと笑った。
