橘と別れた後、僕は家に戻ってきた。
 玄関の扉を開けると、夕食の良い香りが漂ってくる。
 香ばしい匂いが食欲をそそるが、メニューの想像がつかない。
 晩ご飯なんて、いつも代わり映えがしないと思ってたのに、少し楽しみになっている自分がいた。
 
「おかえり、翔太。お友達はもう帰ったの?」
「うん」

 リビングから、母がひょっこり顔を出した。
 エプロン姿で、手には菜箸を持っている。

「それにしても、すっごいイケメンだったわね。あんな子が友達だったなんて、もっと早くお母さんに紹介してよ」
「……なんでだよ」

 友達ではないのだが、訂正するのも面倒なので、適当に返事をした。
 見た目がイケメンであることは否定しないが、心の中までかは疑問符がつく。

「もうすぐご飯できるから、手を洗ってきなさい」

 僕は無言で洗面所へ向かう。
 鏡に映る自分の顔は、出かける前と変わらず冴えない表情だった。
 何も変わっていないのは当然だ。
 僕は、橘みたいに何かを乗り越えてはいないのだから。

 ダイニングでは、父がテーブルで新聞を読んでいた。
 僕が席につくと、父は新聞からちらりと視線を上げたが、すぐに紙面に目を戻した。
 母が、ほかほかと湯気を立てる大皿を運んできた。
 食卓に並んだのは、手作りのコロッケと唐揚げ。
 きつね色にカラッと揚がった衣が、僕の胃を刺激する。
 母はよく『後片付けが面倒なの』と言い、手作りの揚げ物を食べたのは遠い昔のこと。
 最近は、もし食べたくなればスーパーの惣菜を買ってくるのが定番だった。
 一体、どういう心境の変化があったのだろうか。

「母さんが揚げ物を作るなんて、久々だな」

 父が僕と同じ反応をしたので、何だか気恥ずかしくなった。

「翔太がうんと小さい頃、以来よね。ほら、最近はめんどくさくなっちゃって。スーパーのお惣菜だって、すごく美味しくなったし。でも――」

 母はそう言って、少し寂しそうに笑う。

「しばらく翔太は、私の料理を食べなくなるじゃない? そう考えたら、また作ってみたくなったのよ」

 恥ずかしげもなく、僕のためなんて言う母。
 僕はそんな母が苦手で、何を言われても『別に』『どうでもいい』と答え、無愛想な息子を演じてきた。
 もちろん、今日もそれは変わらない。
 だから、言うべきセリフは決まっている。

「……ありがとう」

 そうつぶやいた後、僕はハッとした。
 おかしい。
 どうして、心にも思ってない言葉が出てきてしまったんだ。
 母と父が目を大きく開いて僕を見つめたまま、美術室で鎮座する彫刻みたいに固まった。

 早く、いつもの調子に戻さなければ。
 顔が熱くなり、喉がカラカラになる。
 けど、続きの言葉が出てこず、僕は池の鯉みたいに口をパクパクさせることしかできない。

 やがて、母がお箸を落とし、カチャンと軽い音が部屋に響く。
 そして、次の瞬間。

「しょ、翔太? 今……」

 母の声が震えている。
 見ると、その大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。
 こんなことで泣くなんて、悪い冗談にしか思えない。

「あ、あなた……聞きました?  翔太が……翔太が、ありがとうって……!」

 母は、信じられないものを見たかのように、父に同意を求めた。
 父は母の言葉で正気に戻ったのか、わずかにこくりと頷いた。
 ほとんど表情を変えない父だが、いつもと少し違う。
 そこには、驚きと戸惑いと――少しだけ嬉しそうな色が混じっているように見えた。

「うわぁ……嬉しい……! この子ったら、今までそんなこと、一言も言ってくれたことなかったのに……!」

 母は、ついに堪えきれなくなったのか、袖口で目元を押さえ始めた。
 僕はたった五文字の言葉を告げただけなのに、大げさすぎる。
 まるでノーベル賞でも取ったみたいな反応。
 こっちが恥ずかしくて死にそうだ。

「……本当、大げさ」

 僕はいつもの調子を何とか取り戻し、ぶっきらぼうに言った。
 それなのに母の涙は止まらず、父は母にティッシュを渡す。
 父は少し困ったように笑いながら、僕に向かって親指を立てた。
 あまりに似合わない仕草に、僕は思わず吹き出してしまう。

「なんだよ、それ」
 
 それきり、僕はまた無口で不愛想な息子に戻った。
 僕が無言でコロッケと唐揚げを頬張っている間、父と母は僕の幼い頃について語り合っていた。

 ほんの数年前なのに、もうすっかり忘れてしまっていた小学校の頃の僕。
 低学年の時、運動会のリレーでこけ、大泣きしたこと。
 次の年は完走したけど、一番になれなくて、また大泣きしたらしい。

 時はさかのぼり、僕が生まれる前の話も、初めて聞いた。
 この町に二人が引っ越してきたのは、結婚してすぐのこと。
 自然が豊かな場所で子育てをしたい――そんな母の願いを叶えるため、父は職場から遠くなることをいとわず、この町を選んだらしい。
 収入がもっとあれば近場で良い物件があったんだ、と父は自嘲した。

 僕はめずらしくご飯をおかわりし、二人の会話が終わるまで静かに座っていた。

 自室に戻ると、僕は段ボール箱の森をかき分けながら、ベッドに倒れ込んだ。

「……ありがとう、か」

 誰にも聞こえないように言ったはずなのに、また心臓が高鳴り、顔が熱を帯びていく。
 想いを言葉にして伝えること。
 それはマラソン大会を全力で走り切った時のような、大きなエネルギーを使う。
 けど、それを聞いた人にも大きなエネルギーを与えるのかもしれない。
 手軽に発信して『いいね』をもらえる、SNSでの交流とはまったく違った感覚。
 たった一言が、こんなにも人の心を動かすなんて、僕は思いもしなかった。

 陽菜の叱咤(しった)と橘の勇気。
 それは、僕が十八年間心の中で練り上げたモノを創り替えようとしていた。
 陽菜への謝罪――そのハードルは、火星の巨大な火山みたいに高くそびえている。
 それでも、昨日の僕と比べると、ほんの少しだけ登れるような気がした。