卒業式まであと六日。
四乃山町からインターネットという現代文明が消えて、丸一日が過ぎた。
テレビの全国ニュースでは、この異例の通信障害の話題で持ち切りだったが、映し出されるのは都会の混乱ばかり。
この町の名前はテロップで一瞬流れただけ。
復旧の優先順位リストでは、限りなく下の方にあるに違いない。
まあ、仕方ないだろう。
こんな片田舎は、壮大な物語におけるモブキャラみたいなものだから。
自室の窓から外を眺めると、羊の群れのような雲が、空をのんびりと散歩していた。
何とも牧歌的な光景で、焦る僕の気持ちを逆なでする。
陽菜に謝らなければ――頭では分かっている。
その気になれば、玄関を出て数歩で、彼女の家に着く。
けど、僕の足は部屋の床と一体になったかのように動かない。
本当、誰かさんの言うように、僕はナメクジなのかもしれない。
いっそのこと、僕のプログラミングスキルで、この通信障害を復旧させられないだろうか。
そしたら、ヒーローになれるかもしれない。
陽菜も少しは僕を見直し、『翔太、ごめんね。私が間違っていたわ』って涙ぐむんだ。
――なんて、ありえない妄想に逃避してみる。
僕にできるのは、せいぜいクラスのカーストをこっそり集計し、自己満足に浸るぐらい。
肝心な時に、世界を救えるような力はない。
重いため息が部屋の空気に溶けた、その時だった。
――ピンポーン。
甲高い電子音が家の中に響いた。
誰だろう、まさか陽菜?
いやいや、そんな都合のいい展開、あるわけない。
先日の剣幕を考えれば、僕の家の敷居を跨ぐなんて、庭に隕石が落ちてくる確率より低い。
とはいえ、可能性はゼロじゃない。
淡い期待が胸の中で大きくなっていく。
「翔太ー、お友達がいらしてるわよー」
階下から、母の明るい声が聞こえた。
僕を訪ねてくるような奇特な人間は、片手で数えられるほどだ。
そうなると、やっぱり――。
僕は慌てて部屋を飛び出そうとしたが、寸前でブレーキをかける。
スタンドミラーの前に立ち、全身をチェックした。
跳ねた前髪を撫でつけ、よれたシャツのシワを伸ばす。
素材以上にはならないけど、素材未満にはならないようにしなければ。
階段を駆け下りると、母がエプロン姿で立っていた。
僕の顔を見て、にこやかに言う。
「お部屋に上がってもらう?」
「別にいい。外で話すから」
早る気持ちを抑え、僕は一度大きく深呼吸した。
少しだけ動悸が落ち着いたのを確認してから、玄関の扉を開ける。
「よう、久慈。突然、悪いな」
「は?」
目の前に立つ人物を見て、僕は完全にフリーズした。
一瞬にして、淡い期待は粉々に砕け散る。
落ち着いて考えれば、分かりきったことだった。
母は、陽菜のことを『陽菜ちゃん』と呼ぶ。
『お友達』なんて他人行儀な呼び方はしない。
陽菜に会いたいという願望が、僕の脳に致命的なバグを引き起こした。
もちろん、勝手に期待した僕が悪いのだけど、母にも少し文句を言いたい。
コイツは断じて、友達なんかじゃない。
「いてくれてよかった。ほら、昨日からネットが死んでるだろ? ダメ元で来たんだ」
短く刈り上げた髪に、清涼飲料水のような爽やかな笑顔。
クラスの一軍、カーストランキング不動の王者。
橘悠斗、その人だった。
なんでコイツが僕の家に?
僕の脳内のCPUをフル回転させ、とある可能性に辿り着く。
そうだ、これはきっとドッキリだ。
三軍の陰キャを突然訪問し、その反応を見て仲間内で笑いものにする。
そういう、悪趣味な遊び。
けど、辺りを見渡しても、カメラを構えた他のクラスメイトは見当たらない。
「一人……?」
「ああ、そうだけど?」
橘は質問の意味が分からないのか、首を軽く傾げた。
一人で来たからといって油断する理由にはならない。
一対一であっても、僕と橘には絶望的なまでの戦力差がある。
僕は拾われてきたばかりの子猫みたいに、警戒心をむき出しに聞く。
「一体……何の用だよ」
「ちょっと……話したいことがあってな」
「僕に?」
橘は、少し気まずそうにうなずいた。
いつもの自信満々な態度は影を潜め、妙にしおらしい。
嵐の前の静けさみたいで、かえって不気味さが募る。
「少し、歩かないか。二人きりで話したいんだ」
橘は首を傾け、背後を指し示した。
何気ない仕草すら、計算されたみたいに様になっているのが腹立たしい。
コイツのペースに乗せられるのは癪に障るが、断る理由は思いつかない。
僕はうなずくしかなかった。
僕の家がある住宅地は小高い丘にあり、そこを下っていくと国道に出る。
周囲には古びた民家が点在するだけで、見渡す限り田畑が広がっている。
国道をまっすぐ進めば学校や駅があるが、橘は脇道にそれた。
そこは周囲に雑草が生い茂った、舗装されていない農道だ。
道すがら、橘は有名な大学に合格したことを、鼻につかない言い回しで語った。
僕からすると、見事すぎてむしろ鼻についた。
そもそも、橘とは世間話をするような間柄じゃない。
並んで歩くこと自体が、現実味のない歪んだ光景に思えた。
「……で、話って何?」
しびれを切らして問いかけると、橘はぴたりと足を止めた。
周囲には僕たち以外に人影はない。
遠くで車の走る音と、カラスの鳴き声がかすかに聞こえるだけ。
まるで、世界から他の人間が消えてしまったかのような、奇妙な静寂が僕たちを包む。
橘はゆっくり振り返り、一度ためらうような表情を浮かべた後、意を決したように口を開く。
「一年生の時のこと……覚えてるか?」
瞬間、僕の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
一年生の時、僕とコイツが関わったことといえば、一つしかない。
「俺……お前のこと、『ナメ久慈』と呼んで、からかったりしただろ」
やっぱり、その話か。
今さらあの時の話を蒸し返すなんて、一体何がしたいんだ。
僕は黙って、橘を睨みつけた。
「あの時は……本当に悪かった!」
絞り出すような声と共に、橘は長い時間、頭を下げた。
その肩はかすかに震えている。
予想外の行動に、僕の頭はシャットダウンした。
あの橘悠斗が、僕に謝罪?
何かの間違いとしか思えない。
それとも、やはり手の込んだドッキリなのか。
上空にはドローンが飛んでいて、僕が困惑する様子を撮影しているのかもしれない。
「……は? 何言ってんだよ、今さら」
やっとのことで、僕はそれだけを絞り出した。
二年以上前のことで、とっくに終わった話のはずだ。
「今さらだって分かってる。けど、卒業する前に、ちゃんと謝りたくて」
橘は顔を上げた。
その瞳は必死で、悲しみや恐れの色が浮かんでいた。
目の前にいるのが、いつもクラスの中心にいて、自信に満ち溢れた男と同一人物とは思えなかった。
そっくりな双子の兄弟と言われた方が、まだ信じられる。
「なんで急に、そんな殊勝なことを思い立ったわけ? 何か悪いものでも食べたのかよ」
我ながら、嫌味な言い方だと思う。
でも、そうでも言わないと、この状況を処理できなかった。
あいにく、素直に謝罪を受け入れられるほど、僕の心は広くない。
あの時、受けた屈辱はきっと一生忘れることがないだろうから。
「……この通信障害のおかげかもな」
「は?」
思いがけない答えに、僕はつい聞き返した。
「ネットがおかしくなって、友達と繋がっている時間が減っただろ? 自分を振り返るようになって……気づいたんだよ。ずっと久慈へ謝らなければいけないと思っていたのに、誰かと繋がることでその気持ちを紛らわしてたって」
「なんだよ……それ」
僕のトゲのある言葉に、橘は少し視線をさまよわせた後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「一年生の頃さ。俺、いつもイライラしてたんだよ」
「僕には、毎日リア充生活を満喫しているようにしか見えなかったけど」
「……表向きはな」
僕の皮肉にも、橘は真剣だった。
この完璧超人に悩みがあるだって?
出来の悪い冗談にしか聞こえない。
「うち、両親がどっちも医者でさ。昔から、勉強もスポーツもできて当たり前って感じで……。親父やお袋に、何かを褒められた記憶なんて、ほとんどないんだ。ずっと『完璧な橘悠斗』でいなきゃいけないってプレッシャーで、正直、押し潰されそうだった。家でも学校でも、心が休まる時なんてなくてさ」
両親から何の期待も寄せられずに育った僕からすれば、贅沢な悩みだ。
それでも、彼の絞り出すような声には、僕の知らない種類の苦悩が滲んでいた。
「そんな時、久慈と同じクラスになったんだ。お前を見ているとさ……正直むかついたんだよ。いつもマイペースで、何のプレッシャーも感じず、気楽に生きてるように見えたから。それで、つい……八つ当たりみたいに、お前をからかっていたんだと思う。本当に、ガキだった。最低だよな、俺って」
自嘲する橘を見て、僕は呆気にとられた。
僕がマイペース? 気楽に生きている?
勘違いも甚だしい。
ただ一軍の連中に目をつけられたくなくて、目立たないように息を潜めていただけだ。
まさかそれが逆効果で、標的にされる原因になったとは、皮肉にもほどがある。
「二年でクラスが離れて、冷静になった時、自分がしたことの醜さに気づいたんだ。それから、お前に謝りたいって思ってた。でも、なんて言うか……勇気が出なくて。結局、今日まで逃げてきたんだ」
僕は混乱していた。
目の前にいるのは、一体誰なのだろう。
彼からは、いつも感じていた自信満々で他人を値踏みするような嫌なオーラを感じない。
そこにいたのは、仮面を脱ぎ捨て、傷つきもろい素顔をさらした、不器用な高校生だった。
「……別に。今さら謝られたって、どうってことないけど」
僕はぶっきらぼうに言った。
あの屈辱を、こんな言葉だけで水に流すことなんかできない。
コイツの謝罪を受け入れたところで、コイツの心が軽くなるだけで、僕の何かが変わるわけでもない。
「……だよな。分かってる。許してほしいなんて、都合のいいことは思ってない。ただ直接、謝りたかっただけなんだ。俺の自己満足かもしれないけど」
橘はそう言って、もう一度「本当にごめん」と深く頭を下げた。
その姿を見て、僕の心の中に不思議な感覚が芽生えていた。
あの時受けた屈辱を、僕は決して忘れない。
許すことなんて、できるわけがない。
けどあと十年、いや二十年経ったら、笑い話にできる日が来るかもしれない、とも思った。
相反する感情が、僕の心の中をぐるぐると渦を巻いていた。
ずっと、橘はただ暇つぶしのために僕をイジっていたのだと思っていた。
実際には八つ当たりだったなんて、なおさらひどい。
事実、僕の怒りは三倍増しになっている。
それでも、今日打ち明けてもらわなければ、僕は真実を知らないままだった。
橘が僕のことを何も分かっていなかったように、僕も橘のことを何も分かっていなかった。
彼も僕と同じように、重たい何かを抱えて生きている。
抱えているものの種類は、天と地ほど違うけど。
完璧を演じることの苦悩、親の期待という名の呪縛。
そういうものから逃げ出したくて、他人を傷つけてしまった後悔。
それを認め、こうして直接謝罪する勇気を想像すると、胸がざわついた。
それに比べて、僕はどうだ?
陽菜に謝る勇気すら出せずに、部屋でうじうじしているだけ。
ネットが使えないせいなんて言い訳しながら。
「今日は急に悪かったな、時間取らせて。じゃあ……俺はこれで」
橘はそれだけ言うと僕に背を向け、歩き出そうとした。
「橘っ!」
僕は思わず、呼び止めていた。
橘が少し驚いたように振り返る。
「この先、僕に困ったことがあれば、一度だけ助けてくれないか? それでこの件はチャラにしてやってもいい」
我ながら、上から目線の意味不明なセリフだ。
けど、何か言わずにはいられなかった。
橘は一瞬きょとんとしたが、すぐに肩の力が抜けたかのように、ふっと笑った。
「なんだよそれ。でも……いいぜ。俺、将来相当偉くなる予定だからさ。きっとお前の役に立てると思う」
「本当、嫌味なヤツだな」
「はは、そんなこと初めて言われたよ」
橘は軽く右手を上げると、今度こそ去っていった。
彼の残した苦い笑みは、これまでSNSで見てきたどの写真よりもずっと魅力的で、人間くさく見えた。
僕は彼の背中が見えなくなるまで、ぼんやりと立ち尽くしていた。
『本当に言いたいことは直接伝えるべき』
――既読。
今、陽菜の言葉が確かなメッセージとして僕の心に届いた気がした。
僕はポケットを探り、冷たいスマホを取り出す。
画面右上には『×』印、オフラインのままだ。
けど、今はそれでいいような気がした。
ネットの向こうの誰かじゃなく、すぐそばにいる、大切な人に伝えなきゃいけないことがある。
たとえ、それがどれだけ不格好で、みっともなくて、ダサいことだとしても。
橘がくれた、予期せぬ勇気のかけら。
それが、僕の心の中で小さな火種になったような気がした。
まだ、燃え上がるほどの熱さはないけれど――確かに、何かが変わり始めていた。
僕は橘と反対方向に走り出す。
なんだか、じっとしていられなかった。
僕は、春になりかけの冷たい風を切り裂くように進む。
意味の分からない、青い叫び声を上げながら。
四乃山町からインターネットという現代文明が消えて、丸一日が過ぎた。
テレビの全国ニュースでは、この異例の通信障害の話題で持ち切りだったが、映し出されるのは都会の混乱ばかり。
この町の名前はテロップで一瞬流れただけ。
復旧の優先順位リストでは、限りなく下の方にあるに違いない。
まあ、仕方ないだろう。
こんな片田舎は、壮大な物語におけるモブキャラみたいなものだから。
自室の窓から外を眺めると、羊の群れのような雲が、空をのんびりと散歩していた。
何とも牧歌的な光景で、焦る僕の気持ちを逆なでする。
陽菜に謝らなければ――頭では分かっている。
その気になれば、玄関を出て数歩で、彼女の家に着く。
けど、僕の足は部屋の床と一体になったかのように動かない。
本当、誰かさんの言うように、僕はナメクジなのかもしれない。
いっそのこと、僕のプログラミングスキルで、この通信障害を復旧させられないだろうか。
そしたら、ヒーローになれるかもしれない。
陽菜も少しは僕を見直し、『翔太、ごめんね。私が間違っていたわ』って涙ぐむんだ。
――なんて、ありえない妄想に逃避してみる。
僕にできるのは、せいぜいクラスのカーストをこっそり集計し、自己満足に浸るぐらい。
肝心な時に、世界を救えるような力はない。
重いため息が部屋の空気に溶けた、その時だった。
――ピンポーン。
甲高い電子音が家の中に響いた。
誰だろう、まさか陽菜?
いやいや、そんな都合のいい展開、あるわけない。
先日の剣幕を考えれば、僕の家の敷居を跨ぐなんて、庭に隕石が落ちてくる確率より低い。
とはいえ、可能性はゼロじゃない。
淡い期待が胸の中で大きくなっていく。
「翔太ー、お友達がいらしてるわよー」
階下から、母の明るい声が聞こえた。
僕を訪ねてくるような奇特な人間は、片手で数えられるほどだ。
そうなると、やっぱり――。
僕は慌てて部屋を飛び出そうとしたが、寸前でブレーキをかける。
スタンドミラーの前に立ち、全身をチェックした。
跳ねた前髪を撫でつけ、よれたシャツのシワを伸ばす。
素材以上にはならないけど、素材未満にはならないようにしなければ。
階段を駆け下りると、母がエプロン姿で立っていた。
僕の顔を見て、にこやかに言う。
「お部屋に上がってもらう?」
「別にいい。外で話すから」
早る気持ちを抑え、僕は一度大きく深呼吸した。
少しだけ動悸が落ち着いたのを確認してから、玄関の扉を開ける。
「よう、久慈。突然、悪いな」
「は?」
目の前に立つ人物を見て、僕は完全にフリーズした。
一瞬にして、淡い期待は粉々に砕け散る。
落ち着いて考えれば、分かりきったことだった。
母は、陽菜のことを『陽菜ちゃん』と呼ぶ。
『お友達』なんて他人行儀な呼び方はしない。
陽菜に会いたいという願望が、僕の脳に致命的なバグを引き起こした。
もちろん、勝手に期待した僕が悪いのだけど、母にも少し文句を言いたい。
コイツは断じて、友達なんかじゃない。
「いてくれてよかった。ほら、昨日からネットが死んでるだろ? ダメ元で来たんだ」
短く刈り上げた髪に、清涼飲料水のような爽やかな笑顔。
クラスの一軍、カーストランキング不動の王者。
橘悠斗、その人だった。
なんでコイツが僕の家に?
僕の脳内のCPUをフル回転させ、とある可能性に辿り着く。
そうだ、これはきっとドッキリだ。
三軍の陰キャを突然訪問し、その反応を見て仲間内で笑いものにする。
そういう、悪趣味な遊び。
けど、辺りを見渡しても、カメラを構えた他のクラスメイトは見当たらない。
「一人……?」
「ああ、そうだけど?」
橘は質問の意味が分からないのか、首を軽く傾げた。
一人で来たからといって油断する理由にはならない。
一対一であっても、僕と橘には絶望的なまでの戦力差がある。
僕は拾われてきたばかりの子猫みたいに、警戒心をむき出しに聞く。
「一体……何の用だよ」
「ちょっと……話したいことがあってな」
「僕に?」
橘は、少し気まずそうにうなずいた。
いつもの自信満々な態度は影を潜め、妙にしおらしい。
嵐の前の静けさみたいで、かえって不気味さが募る。
「少し、歩かないか。二人きりで話したいんだ」
橘は首を傾け、背後を指し示した。
何気ない仕草すら、計算されたみたいに様になっているのが腹立たしい。
コイツのペースに乗せられるのは癪に障るが、断る理由は思いつかない。
僕はうなずくしかなかった。
僕の家がある住宅地は小高い丘にあり、そこを下っていくと国道に出る。
周囲には古びた民家が点在するだけで、見渡す限り田畑が広がっている。
国道をまっすぐ進めば学校や駅があるが、橘は脇道にそれた。
そこは周囲に雑草が生い茂った、舗装されていない農道だ。
道すがら、橘は有名な大学に合格したことを、鼻につかない言い回しで語った。
僕からすると、見事すぎてむしろ鼻についた。
そもそも、橘とは世間話をするような間柄じゃない。
並んで歩くこと自体が、現実味のない歪んだ光景に思えた。
「……で、話って何?」
しびれを切らして問いかけると、橘はぴたりと足を止めた。
周囲には僕たち以外に人影はない。
遠くで車の走る音と、カラスの鳴き声がかすかに聞こえるだけ。
まるで、世界から他の人間が消えてしまったかのような、奇妙な静寂が僕たちを包む。
橘はゆっくり振り返り、一度ためらうような表情を浮かべた後、意を決したように口を開く。
「一年生の時のこと……覚えてるか?」
瞬間、僕の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
一年生の時、僕とコイツが関わったことといえば、一つしかない。
「俺……お前のこと、『ナメ久慈』と呼んで、からかったりしただろ」
やっぱり、その話か。
今さらあの時の話を蒸し返すなんて、一体何がしたいんだ。
僕は黙って、橘を睨みつけた。
「あの時は……本当に悪かった!」
絞り出すような声と共に、橘は長い時間、頭を下げた。
その肩はかすかに震えている。
予想外の行動に、僕の頭はシャットダウンした。
あの橘悠斗が、僕に謝罪?
何かの間違いとしか思えない。
それとも、やはり手の込んだドッキリなのか。
上空にはドローンが飛んでいて、僕が困惑する様子を撮影しているのかもしれない。
「……は? 何言ってんだよ、今さら」
やっとのことで、僕はそれだけを絞り出した。
二年以上前のことで、とっくに終わった話のはずだ。
「今さらだって分かってる。けど、卒業する前に、ちゃんと謝りたくて」
橘は顔を上げた。
その瞳は必死で、悲しみや恐れの色が浮かんでいた。
目の前にいるのが、いつもクラスの中心にいて、自信に満ち溢れた男と同一人物とは思えなかった。
そっくりな双子の兄弟と言われた方が、まだ信じられる。
「なんで急に、そんな殊勝なことを思い立ったわけ? 何か悪いものでも食べたのかよ」
我ながら、嫌味な言い方だと思う。
でも、そうでも言わないと、この状況を処理できなかった。
あいにく、素直に謝罪を受け入れられるほど、僕の心は広くない。
あの時、受けた屈辱はきっと一生忘れることがないだろうから。
「……この通信障害のおかげかもな」
「は?」
思いがけない答えに、僕はつい聞き返した。
「ネットがおかしくなって、友達と繋がっている時間が減っただろ? 自分を振り返るようになって……気づいたんだよ。ずっと久慈へ謝らなければいけないと思っていたのに、誰かと繋がることでその気持ちを紛らわしてたって」
「なんだよ……それ」
僕のトゲのある言葉に、橘は少し視線をさまよわせた後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「一年生の頃さ。俺、いつもイライラしてたんだよ」
「僕には、毎日リア充生活を満喫しているようにしか見えなかったけど」
「……表向きはな」
僕の皮肉にも、橘は真剣だった。
この完璧超人に悩みがあるだって?
出来の悪い冗談にしか聞こえない。
「うち、両親がどっちも医者でさ。昔から、勉強もスポーツもできて当たり前って感じで……。親父やお袋に、何かを褒められた記憶なんて、ほとんどないんだ。ずっと『完璧な橘悠斗』でいなきゃいけないってプレッシャーで、正直、押し潰されそうだった。家でも学校でも、心が休まる時なんてなくてさ」
両親から何の期待も寄せられずに育った僕からすれば、贅沢な悩みだ。
それでも、彼の絞り出すような声には、僕の知らない種類の苦悩が滲んでいた。
「そんな時、久慈と同じクラスになったんだ。お前を見ているとさ……正直むかついたんだよ。いつもマイペースで、何のプレッシャーも感じず、気楽に生きてるように見えたから。それで、つい……八つ当たりみたいに、お前をからかっていたんだと思う。本当に、ガキだった。最低だよな、俺って」
自嘲する橘を見て、僕は呆気にとられた。
僕がマイペース? 気楽に生きている?
勘違いも甚だしい。
ただ一軍の連中に目をつけられたくなくて、目立たないように息を潜めていただけだ。
まさかそれが逆効果で、標的にされる原因になったとは、皮肉にもほどがある。
「二年でクラスが離れて、冷静になった時、自分がしたことの醜さに気づいたんだ。それから、お前に謝りたいって思ってた。でも、なんて言うか……勇気が出なくて。結局、今日まで逃げてきたんだ」
僕は混乱していた。
目の前にいるのは、一体誰なのだろう。
彼からは、いつも感じていた自信満々で他人を値踏みするような嫌なオーラを感じない。
そこにいたのは、仮面を脱ぎ捨て、傷つきもろい素顔をさらした、不器用な高校生だった。
「……別に。今さら謝られたって、どうってことないけど」
僕はぶっきらぼうに言った。
あの屈辱を、こんな言葉だけで水に流すことなんかできない。
コイツの謝罪を受け入れたところで、コイツの心が軽くなるだけで、僕の何かが変わるわけでもない。
「……だよな。分かってる。許してほしいなんて、都合のいいことは思ってない。ただ直接、謝りたかっただけなんだ。俺の自己満足かもしれないけど」
橘はそう言って、もう一度「本当にごめん」と深く頭を下げた。
その姿を見て、僕の心の中に不思議な感覚が芽生えていた。
あの時受けた屈辱を、僕は決して忘れない。
許すことなんて、できるわけがない。
けどあと十年、いや二十年経ったら、笑い話にできる日が来るかもしれない、とも思った。
相反する感情が、僕の心の中をぐるぐると渦を巻いていた。
ずっと、橘はただ暇つぶしのために僕をイジっていたのだと思っていた。
実際には八つ当たりだったなんて、なおさらひどい。
事実、僕の怒りは三倍増しになっている。
それでも、今日打ち明けてもらわなければ、僕は真実を知らないままだった。
橘が僕のことを何も分かっていなかったように、僕も橘のことを何も分かっていなかった。
彼も僕と同じように、重たい何かを抱えて生きている。
抱えているものの種類は、天と地ほど違うけど。
完璧を演じることの苦悩、親の期待という名の呪縛。
そういうものから逃げ出したくて、他人を傷つけてしまった後悔。
それを認め、こうして直接謝罪する勇気を想像すると、胸がざわついた。
それに比べて、僕はどうだ?
陽菜に謝る勇気すら出せずに、部屋でうじうじしているだけ。
ネットが使えないせいなんて言い訳しながら。
「今日は急に悪かったな、時間取らせて。じゃあ……俺はこれで」
橘はそれだけ言うと僕に背を向け、歩き出そうとした。
「橘っ!」
僕は思わず、呼び止めていた。
橘が少し驚いたように振り返る。
「この先、僕に困ったことがあれば、一度だけ助けてくれないか? それでこの件はチャラにしてやってもいい」
我ながら、上から目線の意味不明なセリフだ。
けど、何か言わずにはいられなかった。
橘は一瞬きょとんとしたが、すぐに肩の力が抜けたかのように、ふっと笑った。
「なんだよそれ。でも……いいぜ。俺、将来相当偉くなる予定だからさ。きっとお前の役に立てると思う」
「本当、嫌味なヤツだな」
「はは、そんなこと初めて言われたよ」
橘は軽く右手を上げると、今度こそ去っていった。
彼の残した苦い笑みは、これまでSNSで見てきたどの写真よりもずっと魅力的で、人間くさく見えた。
僕は彼の背中が見えなくなるまで、ぼんやりと立ち尽くしていた。
『本当に言いたいことは直接伝えるべき』
――既読。
今、陽菜の言葉が確かなメッセージとして僕の心に届いた気がした。
僕はポケットを探り、冷たいスマホを取り出す。
画面右上には『×』印、オフラインのままだ。
けど、今はそれでいいような気がした。
ネットの向こうの誰かじゃなく、すぐそばにいる、大切な人に伝えなきゃいけないことがある。
たとえ、それがどれだけ不格好で、みっともなくて、ダサいことだとしても。
橘がくれた、予期せぬ勇気のかけら。
それが、僕の心の中で小さな火種になったような気がした。
まだ、燃え上がるほどの熱さはないけれど――確かに、何かが変わり始めていた。
僕は橘と反対方向に走り出す。
なんだか、じっとしていられなかった。
僕は、春になりかけの冷たい風を切り裂くように進む。
意味の分からない、青い叫び声を上げながら。
