卒業式までちょうど一週間。
 
 カーテンの隙間から差し込むやけにのどかな光が、僕の罪悪感をちくちくと刺激した。
 僕は重い体を起こし、何気ない風を装ってスマホの通知を確認する。
 
 裏垢のフォロワーから、遅れてやって来た『いいね』。
 クラスメイトのSNSには、部活のお別れ会の集合写真。
 クラスのグループチャットを埋め尽くす、卒業式後の打ち上げへの参加表明。
 
 ――それだけだった。
 念のため、僕は通信機能のON・OFFを何度か繰り返し、スマホの電源も入れ直してみた。
 けど、陽菜からの『昨日は言い過ぎてごめん』なんて都合のいいメッセージは見当たらなかった。

 僕はベッドに突っ伏し、枕に強く顔を押し付けた。
 言葉にならないうめき声を上げ、足をばたつかせる。
 しばらくベッドの海を自由型で泳いだ後、ぽつりとつぶやいた。

「……やっちまった」

 昨日の自分の言動を思い出すだけで、顔から火が出そうだ。
 冷静になればなるほど、陽菜の方が正しかったと思い知らされる。
 それに対して、僕は幼稚な逆ギレと、最低な罵詈雑言を浴びせた。
 陽菜の見たこともない悲しい顔と、突き刺すような冷たい瞳。
 あれだけで、周囲の気温が十度ほど下がった気がした。
 それに「大嫌い」「二度と話しかけないで」なんて、漫画でしか聞いたことのないような絶縁宣言まで食らった。

 昨日は、僕のアドレナリンが卒業記念の在庫一掃セールだったのかもしれない。
 根拠のない自信に満ち溢れ、自分が絶対的に正しいなんて、愚かな勘違いをしていた。
 十八歳にもなって、自分の感情をコントロールできないなんて。
 昨日の自分を呼び出して、説教してやりたい気分だ。

「陽菜に……謝らないと」

 僕は何とか体を起こし、だらしなく伸びた髪をかきむしった。
 スマホを手に取り、陽菜との個人チャットを開く。
 最後のやり取りは、僕の下宿先が決まったことを報告した時。

『この部屋、めっちゃ古そう。築何年?』
『三十年』
『うわ。絶対、ヤバイ虫とか出そう。ご愁傷様ー』

 他愛ない会話に、僕は思わず懐かしさを覚える。
 もう二度と、こんな軽口を叩けない気がして、胸が締め付けられた。

 この下に、渾身の謝罪文を打ち込もう。
 そう決意した時だった。
 画面の右上の、見慣れないマークに気づいた。
 電波強度示すアンテナマークに『×』印が点灯していた。

「あれ……圏外?」

 家の中だからといって、電波が悪くなったことは、これまでなかった。
 Wi-Fiに繋いだり、ルータの電源を入れ直しても、状況は変わらない。

「……まさか」

 嫌な予感がして、僕はノートパソコンを起動した。
 やはりインターネットに繋がらない。
 スマホとパソコンが同時にネットへ繋がらなくなるなんて、明らかな異常だ。

 もしかしたら、家の周辺だけ何か障害が起きているのかもしれない。
 僕は灰色のダウンジャケットを羽織り、スマホを握りしめて家の外へ飛び出した。
 けど、外に出てもスマホの画面の右上には、『×』印が表示されたまま。
 周囲を見渡しても、判を押したような同じ形の家と、爽やかな青空が広がってるだけ。
 いつもと変わらない、退屈な街の風景。
 天変地異が起こったわけでもなさそうだ。

 こうなったら、街の中心部まで行ってみるしかない。
 あそこなら、さすがに電波が届くだろう。
 僕は我が町に存在する唯一の駅、四乃山口(しのやまぐち)を目指すことにした。
 国道沿いを歩いていると、ちらほらとスマホを片手に困惑した表情を浮かべる人を見かける。
 ネットで音楽を聴いていたのか、イヤホンを何度も外したりつけたりする若い男。
 見えない電波を集めるように、空へスマホを掲げる老人。
 彼らに声をかけたい衝動に駆られたが、あいにく不幸を分かち合う仲間を探しに来たわけじゃない。
 不安そうな人々を通り過ぎる度に、僕の足は自然と早まり、いつの間にかマラソン大会のようなペースで走り出していた。

 駅のロータリーに、息を切らして辿り着く。
 けど、マラソンの敢闘(かんとう)賞として期待していた『ネットに繋がる』という賞品は得られなかった。

「マジかよ……」

 頭を抱えた、その時だった。

「……こちらは、四乃山(しのやま)町役場です」

 ふいに頭上から降ってきた声に、僕は視線を上げる。
 古びたポールの先についたトランペットスピーカーから、ノイズ混じりの町内放送が流れ始めた。
 夕方のチャイム以外で、このスピーカーから放送があるなんて滅多にないことだ。

「現在、町一帯で大規模な通信障害が発生しております。原因は現在調査中ですが、インターネット回線、モバイル回線ともに、広範囲で繋がらない状況が続いております。復旧の目処は立っておりません。町民の皆様には、ご不便をおかけしますが――」

 原因不明? 復旧の目処も立っていない?
 卒業式まであと一週間しかないというのに、これは致命的だ。
 ネットか使えないということは、SNSもチャットも使えない。
 陽菜に謝るための唯一の手段を、完全に断たれてしまった。
 このままじゃ、スマホは高価な文鎮だ。
 この文鎮を使って、陽菜に手紙でも書けっていうのか?
 それともコミュ力ゼロの僕に、直接陽菜に会って謝れとでも?
 陽菜の家のインターホンを押す自分を想像しただけで、頭が痛くなった。

 ――何か飲み物でも買って落ち着こう。

 僕は駅前の小さなスーパーに入った。
 入り口には『通信障害のため、現在クレジットカード、電子マネー、ポイントカードはご利用いただけません。現金のみのお取り扱いとなります』という手書きの張り紙。
 レジにはいつもより長い列ができている。
 スマホで決済ができず、慌てている若い男性。
 現金が足りず、一部の商品の購入を取り止める妙齢の女性。
 店員に早く復旧させろと詰め寄る老人。
 パニックとまではいかないが、町全体が目に見えない不安とイラ立ちに包まれているような、ピリピリとした空気が漂っていた。

 僕は内心、少しだけ優越感を覚えていた。
 こういう不測の事態に備え、普段から準備をしておくことが大事だ。
 財布には、いつもそこそこの現金を入れてある。
 僕はダウンジャケットのポケットを探った。

 ――ない。

 続いて、ジーンズのポケット。
 最後に、シャツの胸ポケットも調べたが、手応えはない。

 どうやら、僕は財布そのものを持ってこなかったらしい。
 試験勉強を完璧にしてきたのに、筆箱を忘れてきた受験生みたいだ。
 恥ずかしさで赤くなった顔を伏せ、スーパーを出ようとした時だった。

「お、『ナメ久慈』じゃん。相変わらず、シケたツラしてんなあ」

 聞き覚えのある、ぶっきらぼうな低い声。
 僕の古びたあだ名を知っており、今でも使い続けるヤツは一人しかいない。
 顔を上げると、クラスメイトの上地美子(かみじみこ)の姿があった。
 黒髪のロングヘアを適当に一つに結び、フレームの大きな眼鏡をかけている。
 プライベートの服装は、いつ見ても真っ黒のゆったりとしたパーカーにワイドパンツ。
 化粧っ気は一切なく、感情の読めない切れ長の眼が僕を見ていた。

 そんな彼女を、男子は陰でこう呼んでいる。

「……『地味子』」
「現金がなくて、とんぼ返りか? 私が利子つきで貸してやってもいいぜ」

 上地は、入り口の張り紙を親指で指しながら、ニヤリと笑った。
 
 彼女は陽菜の親友だ。
 僕とは漫画やアニメが好きという共通点があり、ある意味陽菜より話しやすい相手。
 この異常事態、彼女に相談してみるのも手かもしれない。
 今の僕には、(わら)にもすがりたい気分だった。
 
 出入り口付近でやり合う僕たちを、他の客がいぶかしげに通り過ぎていく。
 僕は周りの目を気にして、上地の耳元でささやいた。

「……上地。僕の相談に乗ってくれないか?」

 それに対し、上地は周りの目を気にせず、いつもの調子で。

「キモっ」

 そう答えた。


 僕は上地と交渉して無利子で現金を借り、ホットミルクティーを買った。
 上地が買ったのは、彼女にまったく似合わないスポーツドリンク。
 彼女が現在推している、二次元イケメンアイドルとのコラボパッケージがお目当てのようだ。
 僕たちは駅前のベンチに並んで座ったが、上地は僕に一切の興味を示さない。
 ドリンクをあらゆる角度から写真に収め、うっとりとした表情を浮かべていた。

「これで、あと1種類でコンプリート。まだ探してないスーパーは――」

 上地がスマホで近所のスーパーを検索するのを見て、僕は目を丸くする。

「なっ! どうしてネットが使えんだよ?」
「こういう緊急事態に備え、普段から準備をしていたからに決まってる」

 何をどう準備したら、この危機を回避できるというんだ。
 背中にアンテナでも背負ってない限り、不可能だ。
 いぶかしむ僕に、上地は得意げになる。
 
「特別に教えてやるよ。衛星経由でネットが繋がるサービスに契約してんだ」
「衛星通信……?」

 僕はぽかんと口を開いたまま固まった。
 そういえば、ニュースで聞いたことがある。
 基地局や光回線を経由せず、無数の人工衛星を使ってネットと繋がる最新のサービスだ。

「これなら、たとえジャングルの奥地だろうが砂漠の真ん中だろうが、ネットに繋がる。何人足りとも、私の推し活を阻むことはできんのだ」

 恐るべし。
 上地の飽くなき二次元への愛に、思わず敬礼したくなった。
 僕は食い入るように、上地のスマホを覗き込む。

「なあ、このネット障害の原因とか復旧の見込みとか、分からないのか?」

 上地はあからさまに面倒くさそうな表情になったが、しつこく聞いた結果、検索してくれた。
 該当するニュースを見つけたのか、上地は「へぇ」と声を上げる。

「原因は残念ながら不明だ。だが、面白いことが分かったぜ」
「……もったいぶらずに、早く教えてくれ」
「様式美が分からんヤツだな」

 上地は肩をすくめ、話を続ける。

「どうやら、おかしいのはこの街だけじゃない。日本各地でネットの障害が起きてるみたいだ」
「それって、つまり……」
「ああ。十中八九、こんな田舎の復旧は後回しにされるだろうな。下手すりゃ、卒業までこのままかもな」

 最悪だ。
 陽菜に謝る手段が、完全に閉ざされてしまった。
 どうにかして、陽菜へ謝罪文を送らなければ――。
 いや、待て。目の前に解決策があるじゃないか。

「上地、頼む! 一生のお願いだ! そのスマホ、ちょっとだけ貸してくれないか?」
「は? 何で?」
「陽菜にメッセージを送りたいんだ! どうしても、今すぐに!」

 僕は地面に額をこすりつける気持ちで、頭を下げた。
 安っぽいプライドなんで、駅前のゴミ箱に捨てた。
 今は、陽菜との関係修復が最優先事項だ。

 上地は、しばらく無言で僕を見つめていた。
 その冷たい視線が、僕の浅はかな期待を凍らせていく。

「……久慈さ」

 やがて、上地はあきれたようにため息をついた。

「仮に、あんたがこれで陽菜にチャットを送ったとしよう。陽菜の方は、どうやってそれを受け取るわけ? 町のネット、全部死んでんだぜ?」
「……あっ」

 上地の冷静すぎる指摘に、僕は言葉を失った。
 その通りだ。
 メッセージを送れたとしても、受信する側の陽菜のネットが不通なら、何の意味もない。
 僕の送ったメッセージは、宛先が書かれていない手紙のように、どこにも辿り着くことはないだろう。
 あまりに間抜けた発言に、僕は植え込みの中に頭を突っ込みたくなった。

 僕の絶望をよそに、上地はなぜか生き生きとした表情に変わる。

「ふーん、よっぽど焦ってんだな。久慈――あんたの相談とやら、早く私に聞かせろよ」

 彼女の言う通り、僕はとても焦っている。
 僕は陽菜との間に起こった、ささやかな争いについて話した。
 僕は情緒たっぷりに語ったが、上地は時折適当な相づちを打つだけ。
 なんだか、音を吸収するスポンジに話してる気分だった。
 話が終わると、上地は僕を(さげす)むような目で見る。

「ダサっ」
「そんなはっきり言うなよ……」
「陽菜とは違う意味だけどな。裏垢がリアバレするなんて、脇が甘すぎんだよ。私だったら、外では絶対裏垢に書き込んだりしねえな」
「僕は、推し活でしか外出しない君とは違うからね」
「ああん? ナメ久慈、なんか言ったか?」
「いえ、何でもありません」

 上地はスポーツドリンクを少しだけ口に含む。

「まあ、陽菜の言い分は、私にはピンとこねえな。私もどっちかっつーと、久慈と同じ側の人間だから」
「三人を比べたらの話だろ。僕と久慈だけを比べたら、まるで違う」
「よく分かってるじゃねえか。私は三次元にまったく興味ねえからな」

 上地は陽菜や僕の前では饒舌(じょうぜつ)だが、学校では必要最低限しか話さない。
 男子から陰で『地味子』と呼ばれてることも知っているが、『三次元の言葉はすべて雑音』とまったく意に介さないのだ。
 確固たる自分を持っているから、表と裏を使い分ける必要はないのだろう。
 そのブレない姿勢が、うらやましくて、そして少しだけ(ねた)ましい。

「私だったら陽菜の正論を、鼻で笑って終わりだな」
「そんな反応をしたら、僕はもっとひどい目にあってたよ」
「価値観が違うんだから、しゃーねーだろ。問題は、あんたが私のように受け流せなかったってことだ。陽菜の言葉が、図星だったんだろ?」
「……うるさい」

 上地はニヤリと笑い、見えないナイフを僕の心臓に突き立てた。

『ダサいって言ってんの』
 
 陽菜と上地の声が重なって僕の頭の中で響く。
 僕は再び胸に鈍い痛みを感じた。

「だったら、やるべきことは一つじゃねえか」

 そう、最初から分かってたんだ。
 ネットという逃げ道を断たれた僕に残された選択肢は、たった一つ。
 それは、リアルの世界で陽菜に会い、自分の口で直接謝罪すること。

「けど、僕は一体、何を謝ればいいんだよ……」

 裏垢で、クラスメイトの陰口を言ったこと。
 価値観の違う相手と、分かり合う努力をしてこなかったこと。
 陽菜には悩みなんてないと、勝手に決めつけたこと。
 陽菜と一緒にいるのが息苦しいなんて、心にもない嘘をついたこと。

 陽菜が怒ったのは、そのいずれでもあるし、いずれでもない気がした。
 彼女の頭の中は、僕のプログラミングの知識じゃ到底理解できないアルゴリズムで動いているようだ。

「おいおい、そんなのも分かんねーのか?」
「……どうぜ僕はコミュ力ゼロだよ」

 上地はため息をついた後、人差し指を立てる。

「いいか。本音というのは、そう簡単に態度や言葉には現れるもんじゃない。ガチャでSSR(スーパースペシャルレア)がなかなか出てこないのと同じだ」
「何だよ、それ。陽菜がわざわざ嘘をついてたって言うのか?」
「そうじゃない。もちろん本気だっただろう。けど、お前だって心にもないことを陽菜に言ったんだろ? どうして周りの人間も同じだって考えない」

 僕は昨日のことを思い出す。
 心がぐちゃぐちゃになり、陽菜が正しいと心の奥底では分かっているのに、強く反発してしまった自分。
 ひどく絡まったスマホの充電ケーブルみたいに複雑な心。
 そんなものを抱えて生きているのは、自分だけだと思っていた。
 僕の目を通して見る陽菜は、いつだって楽しそうに見えたから。

「陽菜が僕と同じだって? まさか……そんなわけない」

 上地は耳に聞こえるぐらい、大きなため息をついた。
 
「やれやれ……こりゃ重症だな。あとは自分で考えろ。一週間後、陽菜との関係もめでたく卒業したくないならな」

 そう吐き捨てるように言った後、上地はスマホをいじり始めた。

 上地の言う通りだ。
 これは僕の問題で、結局のところ、僕がどうにかするしかない。
 それから十分ほど、上地は僕の隣に無言で座っていた。
 すぐに立ち去らなかったのは、彼女なりのエールだったのかもしれない。
 にわかには、信じられないけど。