「それで? たしかに、僕は裏垢を持ってるよ。何か問題でも?」

 僕は、真冬の最低気温ぐらい冷静な声で言った。
 口元に、舞台役者のようにわずかな余裕さえ浮かべて。
 もしかすると、僕は演劇のスキルを持っているのかもしれない。
 
「何か問題でもって……翔太、あのねえ」

 陽菜はブランコを止め、こちらを振り向いた。
 その大きな瞳からは、先ほどまでのいたずらっぽい光は消えている。
 代わりに宿っているのは、心底あきれたという非難の色。
 何か悪いことでもしたかのような視線は、正直心外だった。
 いや、ネットの陰口が良くないことぐらい、分かってるけど。

「じゃあ聞くけど、さっき『一軍のヤツら、マジで勘弁してほしい』とか『卒ハラ』ってポストしてたよね? あれ、どういう意味?」
「ただの言葉遊びだよ。ほら、ネットスラング的な? 陽菜には分からないかもしれないけどさ」
「ごまかそうとしたって無駄。卒業式後の打ち上げのこと、馬鹿にしてたんでしょ? せっかく、みんなで最後に思い出を作ろうって盛り上がってるのに、あの言い方はないよ」

 陽菜は昔からこうだ。
 思ったことは、良くも悪くもストレートに口にする。
 その裏表のなさが、彼女が皆に好かれ、一軍にいられる理由の一つなんだろう。
 けど、僕のような本音を言えない、日陰で生きる人間の気持ちがまったく分からない。
 そういう無神経な所が――僕は嫌いだ。

「僕は弱者の気持ちを代弁しただけさ。一軍だけで盛り上がって、僕らみたいな三軍は置いてけぼり。それなのに『全員参加』とか、同調圧力以外の何物でもないだろ」
「どうして、クラスを一軍とか三軍に分けるかな。たしかに目立つグループはあるけど、そこに上や下もないよ。それに、全員参加って言ったのは、クラスみんなのことを仲間だと思ってるからでしょ。本気で無理矢理参加させようなんて誰も思ってない。どうしてそれが分からないの?」
「はっ、陽菜こそ何も分かってないな。社交辞令で誘ってるだけならまだマシだ。僕らみたいな底辺の連中を引っ張り出して、自分たちが『上』だって確認し、楽しんでるだけかもしれないだろ。きっと、そういう残酷なエンターテイメントなんだよ」
「そんなことない。少なくとも、私は……みんなが来てくれたら嬉しい」
「それは陽菜が特別なんだよ。クラスの大半はそんな綺麗ごと、これっぽっちも思ってない。僕たちは、一軍の連中と同じ教室にいるだけでも息が詰まるんだ。せっかく卒業して関わらなくて済むのに、わざわざ一緒に過ごすなんてまっぴらごめんだ」

 僕の言葉が、陽菜の表情を曇らせていくのが分かった。
 分かっているのに、止められない。
 僕の心に生まれた黒い淀みが、抑えられないほど大きくなっている。
 
「……私にだって、苦手な人ぐらいいるよ」
「だったら――」

 陽菜は「でも!」と僕の言葉を遮った。
 有無を言わさない、強い口調で。

「それでも、この一年を共に過ごした、大切な仲間であることには変わりない。もし、本当に気に入らないことがあるのなら、本人に直接伝えたらいいじゃない」
「言ったって無駄だよ。分かってくれるわけない」
「そんなの決めつけだよ。本音でぶつかれば、ちゃんと聞いてくれる人だっている。翔太は、分かってもらおうとした? それもしないで本人がいない安全な所から……まして、赤の他人の同調がほしくてネットで愚痴を垂れ流すなんて、どうかと思う」
「……どうかって何だよ」

 陽菜は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
 そして、覚悟を決めたように、僕をまっすぐに見据えた。

「分からない? ダサいって言ってんの」
 
 ダサい。
 たった三文字の言葉が、研ぎ澄まされたナイフのように、僕の胸の中心を貫いた。
 呼吸が一瞬止まり、思わず自分の胸元を触る。
 もちろん、物理的な傷はできちゃいない。
 けど、見えない傷口から、じわじわと何かが流れ出していくような感覚があった。

 武器を持ち出すのは、フェアじゃない。
 そっちがその気なら、僕だって容赦するわけにはいかない。

「陽菜には分かるもんか」
「え……?」
「陽菜には、僕の気持ちなんて分かるわけないって言ってんだ!」

 僕はブランコの鎖を、手の平が赤くなるほど強く握りしめる。

「陽菜はいつもクラスの中心にいて、誰とでも仲良くできて、友達もたくさんいるじゃないか。おまけに、父親のコネで就職先もあっさり決まったんだろ? まったく、人生イージーモードすぎて笑っちゃうよ。さぞ、悩みなんて何一つなく、毎日幸せに過ごして来たんだろうね。だから、そんなお花畑みたいな理想論を語れるんだよ。まるで童話に出てくるお姫様みたいだ」
「は? 何、私のことを勝手に決めつけて――」
「うるさい!」

 僕は陽菜の言葉を、怒鳴り声で無理矢理ねじ伏せた。
 さっきのお返しだ。
 
「陽菜はいいよな。いつも、そんな正論ばかり振りかざせて。陽菜のその『正しさ』が、僕にとっては一番息苦しいんだよ!」
 
 気づけば、僕は肩で息をしながら叫んでいた。
 こんなに大きな声を出したのは、幼稚園でのお遊戯会以来かもしれない。
 あの時、何を血迷ったか、主役の王子様役に立候補したんだ。
 明日は、喉が筋肉痛になる確率百パーセントだ。
 
「翔太……私のこと、そんな風に思ってたの?」
「そうだよ。やっと気づいたのか」

 陽菜の声は、か細く震えていた。
 僕の言葉が鋭利な剣となり、彼女を傷つけたのが分かった。
 けど、そうさせたのは陽菜だ。

 西に傾いた太陽が、僕たちの影を公園の地面に映し出している。
 それは、幼い頃に見た時よりもずいぶん長く、(ゆが)んで見えた。
 時間は公園の遊具だけでなく、僕たち自身をも平等に(むしば)んでいくらしい。

 陽菜が静かに立ち上がり、僕を見る。
 その表情に、僕は息をのんだ。
 十八年間、一度も見たことがない、悲しみが凝縮されたような表情。
 大きな瞳がみるみる潤んでいき、決壊寸前のダムのようだ。
 薄い唇が、わなわなと震えていた。

「……翔太のそういうところ、大嫌い」

 絞り出すような声は、先ほどの正論の何十倍も鋭く、僕の胸を刺した。
 陽菜の白い頬を、一筋の滴が静かに伝っていく。
 おかしい。
 今朝の天気予報は、降水確率ゼロパーセントだったはずなのに。
 僕は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「もういい……。翔太とは、話にならない」
 
 陽菜はそう吐き捨てると、僕に背を向けた。
 
「陽菜、待てよ!」
 
 思わず呼び止めた僕の声に、彼女は足を止め、ゆっくりと振り向く。
 その瞳には、もう涙はなかった。
 代わりに宿っていたのは、冬の凍てつく湖面のような冷たい光。

 僕の言い分に、対抗しようとする熱はまったく感じなかった。
 何かをあきらめてしまったような、そんな絶望を感じる表情。

「……もう、二度と話しかけないで。私と話していると息苦しいんでしょ? 春から会う機会もなくなるんだから、ちょうどよかったじゃない。私も……同じ気持ちだから。本当……せいせいする」

 陽菜は震える声で告げた後、今度こそ立ち止まることなく、駆け出した。
 エコバッグから飛び出た長ネギが激しく揺れる。
 僕は長ネキが途中で落ちやしないかと、場違いな心配しながら、彼女の小さくなっていく背中を見つめていた。

 一人残された公園で、僕は青空を見上げる。
 僕と陽菜があれほど言い争ったにも関わらず、皮肉なほど澄み切っている。

 ――大嫌い。

 陽菜の言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。
 これほど、はっきり誰かから拒絶されたのは、いつぶりだろうか。
 橘に『ナメ久慈』と呼ばれた時とは、痛みの種類がまったく違う。
 橘が揶揄(やゆ)したのは、僕の名前や容姿といういわば表面的なものだ。
 陽菜が否定したのは、きっと僕の根っこの部分。
 僕が必死に守って来た、この捻くれたクールな自分を。
 
 僕はかじかんだ手で、さっき買ったミルクティーのキャップを開けた。
 もうすっかり冷えている。
 喉に流し込むと、僕の体と心をよりクールにさせた。
 買った直後は熱くても、すぐに冷めてしまう――喧嘩と同じだ。

 きっと陽菜もしばらくすれば冷静になり、自分が間違っていたことに気づく。
 そして、僕に放った罵詈雑言(ばりぞうごん)を謝罪しに来ること間違いない。
 そんな陽菜に、僕はこう言ってやるんだ。
 
 ――大丈夫、問題ない。僕も言い過ぎた。

 僕はなんたって心が太平洋より広いのだから。
 ミルクティーを一気に飲み干し、僕はブランコから立ち上がった。
 その瞬間、僕は自分の足元がおぼつかないことに気づいた。
 どうやら、思ったよりもダメージを受けているらしい。
 血が流れない傷というのは、本当に厄介だ。

 僕は大きなため息をつき、スマホを取り出す。
 今の気持ちを、ネットの『友達』に聞いてもらおう。
 きっと、たくさんの『いいね』が僕を慰めてくれるはずだ。
 けど、僕の指はまったく言葉をつむいでくれなかった。
 本当に話を聞いてほしい相手は、ネットの向こうの匿名の誰かじゃない。

 僕はポケットにスマホを押し込み、重い足取りで歩き出した。
 ふいに、僕の頬を何かが伝う感触があった。
 手で触れると、それは先ほどのミルクティーよりずっと冷たい滴。
 どうやら、今日の天気予報は大外れのようだ。
 降水確率は、百パーセント。