卒業式まであと八日。
 
 自室には、段ボール箱がパズルゲームみたいに積み上がっている。
 僕は昨日から引っ越しの荷造りを始めていた。
 何を持っていき、何を置いていくかは想像以上に悩ましく、なかなか進まない。
 紙の本は電子書籍を買えばいいし、ゲームは専用機を持っていかなくてもパソコンで事足りる。
 重たい過去はなるべくこの家に置いていこう――僕はそう考えていた。
 それなのに、僕はいつの間にか修学旅行で買った木刀を段ボールに突き刺していた。

 僕のメモリに、疲れやストレスが大量に溜まっているのは間違いない。
 そこで、気分転換という名の現実逃避をすることにした。
 行き先は近所のスーパー。
 都会に住む高校生みたいに、おしゃれなカフェで一息なんて選択肢は、この街には存在しない。
 なんたって近くのコンビニまで、三キロもある。
 古びたスーパーのお菓子コーナーこそが、僕たちにとってのオアシスと言える。

 自動ドアをくぐると、十年以上変わらない安っぽいBGMが僕を出迎えてくれた。
 薄暗い蛍光灯に照らされた床には、カートの(わだち)がたくさん残っている。
 お菓子コーナーにまっすぐ向かい、いつものダークチョコレートを買い物カゴに入れた。
 僕の好みは、なるべくカカオの含有率が高いモノ。
 苦いチョコレートを食べると、人生が甘くないことを思い出せるから。

 その時、ポケットのスマホが小刻みに震える。
 スマホを取り出すと、通知が一件表示されていた。
 クラスのグループチャットへ新しいメッセージ。
 それを開くと、一軍の女子グループがカラオケボックスで歌っている写真が画面全体に広がった。

『大好きな仲間たちと卒業前最後の思い出づくり!
 みんな、ずっと友達でいようね』

 写真には、これでもかというくらいキラキラしたフィルターがかかっており、彼女たちの青春の輝きを増幅させていた。

「へえ」

 僕は口の片側を少し吊り上げた。
 受験や就職活動も終わり、みんなせっせと思い出づくりに励んでいるようだ。
 この街にカラオケボックスはないので、わざわざ隣街まで遠征したのだろう。
 僕はふと思い立ち、チョコレートに加え、ホットミルクティーを手に取った。
 彼らが友情で心を潤すというなら、僕は甘い紅茶で心を潤すとしよう。
 手段は違えど、きっと僕も同じ効果を得られるに違いない。

 スーパーを出ると、風が一段と強くなっていた。
 周囲に高い建物はなく、山から吹き下ろされる風を守る盾はない。
 僕は体を震わせながら、灰色のダウンジャケットのファスナーを首元まで上げる。
 春がすぐそこまで来ているというのに、まだまだ肌寒い。

 帰り道、スマホに続々と通知が届く。

『カラオケ、私も行きたかったなー』
『じゃあ、卒業式後の打ち上げは、カラオケでやるのはどうよ?』
『天才現る。参加するヤツは、手をあげな』
『私、行きたい!』
『あとさ。女子は男子にネクタイを借りて、記念撮影しようよ』
『天才現る2』

 クラスメイトが、グループチャットで次々に発言している。
 クラス全員が参加しているものの、会話するメンバーはほとんどが一軍。
 三軍の連中が、こんなキラキラした会話に割り込む隙なんかない。
 もしうっかり発言して既読スルーでもされたら、卒業式を病欠したくなるだろう。

 飛び交うまぶしいメッセージが、僕には遠い外国のニュースのように思えた。
 世界のどこかで起こっている、自分には無関係の出来事。
 フィクションの世界なら気にしないが、身近に起きているリアルだと思うと、胸の奥がチリチリと痛む。

 ――翔太、何してんの?

 不意に、風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。
 ハッとして顔を上げると、右手に寂れた小さな公園があった。
 幼い頃、よくここで陽菜と遊んだ。
 ただの風が彼女の声に聞こえたのは、きっとそのせいに違いない。

 いつもは通り過ぎてしまうのに、今日は吸い寄せられるように足を踏み入れた。
 僕は軋むブランコに腰掛け、ぼんやりと公園を見渡す。
 砂場、滑り台、鉄棒――僕たちが遊んでいた頃より、ペンキは剥がれ、赤茶色のサビが目立っていた。
 けど、目を閉じると――。

『ちょっと翔太。私の作った泥団が食べられないってどういうこと!』
『翔太、何怖がってんのよ。後ろがつかえてんだから、早く滑って!』
『逆上がりできないの、男子は翔太だけでしょ? せっかく私が教えてあげようというのに、逃げんな!』

 僕の脳が、思い出という色鮮やかな動画を再生してくれる。
 あの頃、陽菜は僕をいつもからかっていた。
 それでも、嫌な気持ちになったことは一度もない。
 そこには信頼と、僕を想う優しさが隠されていたから。

 この街を出たら、ふいに公園を見たくなる時が来るかもしれない。
 これ以上色褪せる前に、写真に残しておこう。
 大切な誰かと過ごした日々を、なるべく正確に思い出すために。 
 そう思ってスマホを取り出したが、大量の通知が僕の邪魔をした。
 グループチャットは、ずいぶんと盛り上がっているようだ。

 何とか写真を撮り終えると、僕は無意識のうちに裏垢へ切り替える。

『卒業式の打ち上げ、いつのまにか全員参加強制みたいになってんですけど。
 一軍のヤツらの同調圧力、マジで勘弁してほしい。
 会社の飲み会でさえ自由参加の時代に、高校生の方が古い体質って笑える。
 これが噂に聞く「卒ハラ」ってやつですか?』

 すらすらと出てくる、心に浮かんだ心ない言葉。
 すぐに数人から『いいね』がつき、僕の心を一時的にでも慰めてくれる。
 まだだ、もっとこのやるせない気持ちを吐き出せ。
 さらに投稿を続けようと、画面の上で指を指揮者のように動かす。
 その時だった。

「翔太、何してんの?」

 すぐ背後から、声が聞こえた。
 聞き間違えるはずのない、高く澄んだソプラノの声。
 今度は幻聴ではない。
 いつもなら、僕はその声を聞くだけで心が温かくなる。
 けど今は、身震いするほど冷たくなった。