卒業式まであと十日。
古い電気ストーブの乾いた空気と、壁掛け時計が時を刻む音だけが満たす、四畳半の自室。
大学受験という名のマラソンを走り終えた僕は無事ゴールし、次のレースに備えて息を整えていた。
次に挑むのは、地方の平凡な大学という特に代わり映えのしないものだけど。
机の上のスマホがパッと明るくなり、SNSの通知が届いたことを告げる。
タップすると、眼に飛び込んできたのはクラスメイトの橘悠斗の写真だった。
「また、ずいぶん幸せそうなことで」
短く刈り上げた髪に、清涼飲料水のような爽やかな笑顔。
隣にいる他の学生たちより頭一つ高いのに、顔の大きさは驚くほど小さい。
まるで、神様が彼だけ特別にひいきして創ったみたいだ。
『第一志望だった東京の大学に、合格しました!
これも、みんなが応援してくれたおかげです』
添えられたメッセージは謙虚だけど、写真の彼は自信に満ち溢れている。
百を超える『いいね』が、彼が世界に必要とされている証明のように思えた。
背景に映る澄み切った青空は、僕が見ている空の何倍も明るい。
最近のスマホは、陽キャのオーラも撮れるらしい。
僕は胸の奥から、冷たくて真っ黒なモノが浮かび上がってくる。
嫉妬、焦り、嫌悪――なんと呼べばいいか分からない感情。
僕は小さく息を吐き出し、慣れた手つきでSNSのアカウントを切り替える。
表の顔である『久慈翔太』から、裏の顔『@name-kujy』へ。
フォロワー数はわずか二桁だが、リアルの僕を知っている者は、ここにはいない。
僕が仮面を取り、心の内を吐き出せる場所。
スマホの上を、僕の指が音楽を奏でるように滑らかに動く。
『クラスの一軍のエース様が、有名大学に合格だそうで。
SNSでは、合格者同士がもう繋がってて青春謳歌中。
けどな、ヤツには気をつけた方がいいぞ。
顔と頭脳はS級でも、中身は最低最悪。
オレみたいな三軍連中は、人間扱いされたことなんてなかった。
まったく、この世界は不平等極まりない。
オレの万物に対する優しさを少し分けてあげたいよ』
投稿ボタンをタップした瞬間、胸の淀みが軽くなった。
たっぷり湯を張った、お風呂の栓を引き抜いた時みたいに。
もちろん、こんな映えない投稿では数個の『いいね』しかつかない。
けど、リアルじゃ言えない本音に、共感してくれる誰かがいる。
それは紛れもなく、僕の『生き苦しさ』を楽にしてくれていた。
「さてと、今週のランキングは……」
僕はノートパソコンを開き、自作のプログラムを実行させた。
これは、クラスメイトのSNSのポストやそれに関する反応を自動収集し、独自のアルゴリズムで『スクールカースト』を可視化するモノ。
もちろん、このプログラムは誰にも見せてはいない。
こんなものを作ってると知られたら、『キモい』と言われる確率百パーセントだから。
僕は運動も勉強も平凡。
容姿だって、モブキャラみたいに何の特徴もない。
そんな僕にも、一つだけ得意なことがあった。
それがプログラミング。
初めてプログラムの授業があった時、皆が驚きと尊敬の眼差しで僕を見た。
将来、もし「あなたの人生の絶頂はいつでしたか?」とインタビューされたら、僕は迷わずあの日を挙げるだろう。
短い通知音が鳴り、集計が完了したことを告げる。
僕は出来上がったランキングを見て、小雨みたいに弱々しい拍手をする。
「はい。一軍トップは、今回も橘悠斗君でーす。連勝記録更新、おめでとーございまーす」
クラスを一軍から三軍に分け、さらにその中で順位をつけている。
収集を始めてから、橘悠斗が一位から陥落したことはない。
卒業が目前に迫った今、彼の牙城を脅かす者はもう現れないだろう。
ちなみに、僕は三軍の上位あたりをうろついている。
何度か二軍に上がったことはあったが、一軍は違う銀河みたいに遠い。
一軍のランキングをスクロールしていると、ある名を見た瞬間、ぴたりと手が止まった。
『朝倉陽菜』
心臓を素手でつかまれたような感覚。
僕の幼馴染の女の子だ。
太陽みたいに明るく、誰とでも分け隔てなく接する彼女は、一軍とそれ以外との架け橋みたいな存在だった。
小学校からずっと一緒だったのに、いつの間にか僕たちはこんなにも違う場所に立っていた。
これも、学校で『コミュ力』という人生の必修科目を教えてくれなかったせいだろう。
モニターに、自分の姿がぼんやりと映り込んでいることに気づく。
目にかかる前髪と一重の目。
小学校の頃は、こんな鬱陶しい前髪ではなかった。
いつからだろう、前髪を伸ばして他人の視線から隠れるようになったのは。
それは、きっとあの時に違いない。
目を閉じれば、脳内プレーヤーでいつでも再生される、男子たちの嘲笑。
――久慈ってさ。陰キャのテンプレみたいな見た目だよな。
――ほんとそれ。日陰がお似合いの『ナメ久慈』君。
高校一年生の時、陰でつけられていた僕のあだ名だ。
名付け親は、あの橘悠斗。
うまいこと言うもんだ、と最初は感心した。
毎日言われると、いくらタフな僕でも、少しずつ心がすり減っていった。
僕は言葉という塩を毎日振りかけられ、教室の隅で縮こまって過ごすしかなかった。
幸い二年生では彼らと別のクラスになり、『いじられる』ことはなくなった。
三年生でまた橘と同じクラスになった時には、心臓が止まるかと思った。
けど、『ナメ久慈』と呼ばれる機会はおろか、会話する機会すらほとんどなかった。
彼はわざわざ三軍の相手をするより、一軍同士で遊ぶ方が楽しいと気づいたのだろう。
さすが有名大学に合格しただけあって、頭が良い。
「翔太、ご飯よー」
階下から、母の声がした。
僕はノートパソコンが誰にも操作できないようにロックをかけ、リアルの世界へ戻る。
階段を降りている途中、ふわっと香るスパイス。
今日の晩ご飯はきっとアレだ。
リビングには父と母が既に座っており、僕が来るのを待っていた。
テーブルに並ぶのは、予想通り母の特製カレー。
本人が言うには、二種類の市販のルーをブレンドすることがこだわりらしいけど、僕にとっては特に代わり映えがしない味だ。
他の家庭のカレーを食べたことのないのだから、仕方がない。
しばらくスプーンと食器がぶつかる音が響いた後、父が口を開く。
「下宿の準備は進んでるのか?」
顔を上げると、父は目を伏せ、皿を見つめたままだった。
父はいつもこうだ。
僕に聞いているのか、母に聞いているのか、さっぱり分からない。
こういう他人と視線を合わせない所が、僕とそっくりで嫌になる。
実は僕も、この退屈な四乃山町から出て一人暮らしを始める。
行先は、情報工学を学べる地方の大学。
三軍にしては悪くない進路だ。
もちろん橘の行く東京に比べたら、田舎には変わらないだろうけど。
僕が返事しないことを察してか、母が明るい声で助け舟を出す。
「引っ越しの手配も終わったから、あとは荷造りだけね。翔太、何を持っていくか決めた?」
「下宿先は狭いし、ほとんど置いていくつもり。授業で使うパソコンさえあれば十分」
「着る物はたくさん持っていった方がいいんじゃない? ほら、大学は私服なんだし、おしゃれしないと」
「別に。同じのを着回せばいいだけ」
「そう……?」
母は煮え切らない表情を浮かべた。
まったく、何も分かってない。
三軍の持つダサい服をいくら着回しても、おしゃれに思われることなんてない。
同じ服を着回し、『服に無頓着なキャラ』を貫いた方が、ダメージは少ないだろう。
「翔太の友達は、みんな進路は決まったのか?」
再び、父の誰に聞いているのか分からない質問。
いや、どちらかといえば僕宛だ。
頭に浮かぶのは、わずかな数のクラスメイトと、SNSで繋がる顔も知らない誰か。
「大抵は」
僕はとても短く答えた。
一瞬、沈黙が訪れた後、母が大げさに声を上げる。
「そういえば、陽菜ちゃんは就職するのよね?」
「……まあ、ね」
僕は努めて平静を装ったが、声が少し上ずってしまう。
陽菜の名前、その響きだけで、僕の鼓動は自動的に高鳴ってしまう。
もしかすると、顔が赤くなっているかもしれない。
前髪をもっと伸ばしておけばよかった。
「小さい頃からずっと一緒だったから、寂しくなるわねえ」
「別に。結構、違うクラスの方が多かったし」
「あらそう? でも卒業とかの節目の年は、いつも同じクラスじゃない? 運命みたいって、お母さん感じちゃうわ」
なんで母が運命を感じてるんだ。
心の中でツッコミを入れるが、もちろんリアルでは口に出さない。
無口で無愛想な息子。
それが、僕がこの家族における役柄だから。
「陽菜ちゃんって……朝倉さん所のお嬢さんか? 就職とはめずらしいな」
「あそこの旦那さん、駅前の観光案内所で働いてるでしょ。ちょうど三月に退職する方がいたそうで、陽菜ちゃんを後任にって――」
父と母が盛り上がるのを、僕は冷ややかな眼で見つめた。
この小さな街では、こうして良いことも悪いこともすぐに伝わっていく。
田舎のネットワークは、時にWi-Fiよりも速い。
「ごちそうさま」
これ以上、陽菜の話をされるのは心臓に悪い。
僕はカレーの残りを一気にかき込み、席を立った。
「おかわりはいいの?」
「別に」
「そう……まだ余ってるから、明日の朝もカレーでいい?」
「何でもいい」
そう言って立ち上がった時、父が今度ははっきりと僕に呼びかける。
「翔太」
「何?」
父は少し言葉を溜め、ゆっくりと吐き出す。
「……卒業式は十日後だったな」
「そうだけど」
まさか、父が卒業式の日を正確に覚えているなんて。
何か悪いものでも食べたんじゃないだろうか。
父は仕事が忙しく、平日は帰ってこない時もある。
休みの日は疲れているせいか、いつも寝て過ごしており、母の不満を買っている。
仕事に忙しく、休日は何もしない男――それが父の役柄だ。
僕に多少なりとも興味を持っていたとは、信じられなかった。
「つまり、高校生でいられるのもあと十日だな」
同じ言葉を言い直しただけ?
僕は父が何を言いたいのかよく分からず、少しいら立つ。
「だから、何?」
「いや、分かってるならいい」
父はそう言って、カレーのおかわりを母に頼んだ。
自室に戻ると、僕はカーテンの隙間からこっそりと外を覗いた。
夜空で様々な色と明るさで輝く恒星と違い、地上には規則正しく同じ形の家が並んでいる。
田舎の街にぽつんとできた新興住宅地――それが、僕が十八年間育った場所だ。
向かいの家の二階、窓に明かりが灯っていた。
カーテンはしっかりと閉まっており、中の様子を窺い知ることはできない。
そこは、陽菜の部屋だ。
小学生の頃は、あの部屋で一緒に宿題をしたり、ゲームをしたり、くだらない話で笑い合った。
中学生になった時だったか。
お互い異性だと気づき、何かを取り決めたわけでもなく、遊ぶことはなくなった。
徐々にそういう機会が減ったわけではなく、突如ゼロになった。
もちろん、顔を合わせば他愛ない話はする。
けど、僕たちの距離感は変わってしまった。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、夜空に浮かぶ三日月よりも遠く感じる。
夜道を歩く人影が見えたので、僕は慌てて自室のカーテンを閉じた。
同級生の家を眺めていたなんて知られたら、『キモい』なんて言葉だけでは済まされない。
僕はノートパソコンのロックを解除し、再びオンラインの仮面を被る。
今、僕の胸に宿るのは、言葉にならないもどかしさや切なさ。
裏垢で吐き出そうとしたが、どれだけ時間をかけても適切な言葉を見つけることができなかった。
古い電気ストーブの乾いた空気と、壁掛け時計が時を刻む音だけが満たす、四畳半の自室。
大学受験という名のマラソンを走り終えた僕は無事ゴールし、次のレースに備えて息を整えていた。
次に挑むのは、地方の平凡な大学という特に代わり映えのしないものだけど。
机の上のスマホがパッと明るくなり、SNSの通知が届いたことを告げる。
タップすると、眼に飛び込んできたのはクラスメイトの橘悠斗の写真だった。
「また、ずいぶん幸せそうなことで」
短く刈り上げた髪に、清涼飲料水のような爽やかな笑顔。
隣にいる他の学生たちより頭一つ高いのに、顔の大きさは驚くほど小さい。
まるで、神様が彼だけ特別にひいきして創ったみたいだ。
『第一志望だった東京の大学に、合格しました!
これも、みんなが応援してくれたおかげです』
添えられたメッセージは謙虚だけど、写真の彼は自信に満ち溢れている。
百を超える『いいね』が、彼が世界に必要とされている証明のように思えた。
背景に映る澄み切った青空は、僕が見ている空の何倍も明るい。
最近のスマホは、陽キャのオーラも撮れるらしい。
僕は胸の奥から、冷たくて真っ黒なモノが浮かび上がってくる。
嫉妬、焦り、嫌悪――なんと呼べばいいか分からない感情。
僕は小さく息を吐き出し、慣れた手つきでSNSのアカウントを切り替える。
表の顔である『久慈翔太』から、裏の顔『@name-kujy』へ。
フォロワー数はわずか二桁だが、リアルの僕を知っている者は、ここにはいない。
僕が仮面を取り、心の内を吐き出せる場所。
スマホの上を、僕の指が音楽を奏でるように滑らかに動く。
『クラスの一軍のエース様が、有名大学に合格だそうで。
SNSでは、合格者同士がもう繋がってて青春謳歌中。
けどな、ヤツには気をつけた方がいいぞ。
顔と頭脳はS級でも、中身は最低最悪。
オレみたいな三軍連中は、人間扱いされたことなんてなかった。
まったく、この世界は不平等極まりない。
オレの万物に対する優しさを少し分けてあげたいよ』
投稿ボタンをタップした瞬間、胸の淀みが軽くなった。
たっぷり湯を張った、お風呂の栓を引き抜いた時みたいに。
もちろん、こんな映えない投稿では数個の『いいね』しかつかない。
けど、リアルじゃ言えない本音に、共感してくれる誰かがいる。
それは紛れもなく、僕の『生き苦しさ』を楽にしてくれていた。
「さてと、今週のランキングは……」
僕はノートパソコンを開き、自作のプログラムを実行させた。
これは、クラスメイトのSNSのポストやそれに関する反応を自動収集し、独自のアルゴリズムで『スクールカースト』を可視化するモノ。
もちろん、このプログラムは誰にも見せてはいない。
こんなものを作ってると知られたら、『キモい』と言われる確率百パーセントだから。
僕は運動も勉強も平凡。
容姿だって、モブキャラみたいに何の特徴もない。
そんな僕にも、一つだけ得意なことがあった。
それがプログラミング。
初めてプログラムの授業があった時、皆が驚きと尊敬の眼差しで僕を見た。
将来、もし「あなたの人生の絶頂はいつでしたか?」とインタビューされたら、僕は迷わずあの日を挙げるだろう。
短い通知音が鳴り、集計が完了したことを告げる。
僕は出来上がったランキングを見て、小雨みたいに弱々しい拍手をする。
「はい。一軍トップは、今回も橘悠斗君でーす。連勝記録更新、おめでとーございまーす」
クラスを一軍から三軍に分け、さらにその中で順位をつけている。
収集を始めてから、橘悠斗が一位から陥落したことはない。
卒業が目前に迫った今、彼の牙城を脅かす者はもう現れないだろう。
ちなみに、僕は三軍の上位あたりをうろついている。
何度か二軍に上がったことはあったが、一軍は違う銀河みたいに遠い。
一軍のランキングをスクロールしていると、ある名を見た瞬間、ぴたりと手が止まった。
『朝倉陽菜』
心臓を素手でつかまれたような感覚。
僕の幼馴染の女の子だ。
太陽みたいに明るく、誰とでも分け隔てなく接する彼女は、一軍とそれ以外との架け橋みたいな存在だった。
小学校からずっと一緒だったのに、いつの間にか僕たちはこんなにも違う場所に立っていた。
これも、学校で『コミュ力』という人生の必修科目を教えてくれなかったせいだろう。
モニターに、自分の姿がぼんやりと映り込んでいることに気づく。
目にかかる前髪と一重の目。
小学校の頃は、こんな鬱陶しい前髪ではなかった。
いつからだろう、前髪を伸ばして他人の視線から隠れるようになったのは。
それは、きっとあの時に違いない。
目を閉じれば、脳内プレーヤーでいつでも再生される、男子たちの嘲笑。
――久慈ってさ。陰キャのテンプレみたいな見た目だよな。
――ほんとそれ。日陰がお似合いの『ナメ久慈』君。
高校一年生の時、陰でつけられていた僕のあだ名だ。
名付け親は、あの橘悠斗。
うまいこと言うもんだ、と最初は感心した。
毎日言われると、いくらタフな僕でも、少しずつ心がすり減っていった。
僕は言葉という塩を毎日振りかけられ、教室の隅で縮こまって過ごすしかなかった。
幸い二年生では彼らと別のクラスになり、『いじられる』ことはなくなった。
三年生でまた橘と同じクラスになった時には、心臓が止まるかと思った。
けど、『ナメ久慈』と呼ばれる機会はおろか、会話する機会すらほとんどなかった。
彼はわざわざ三軍の相手をするより、一軍同士で遊ぶ方が楽しいと気づいたのだろう。
さすが有名大学に合格しただけあって、頭が良い。
「翔太、ご飯よー」
階下から、母の声がした。
僕はノートパソコンが誰にも操作できないようにロックをかけ、リアルの世界へ戻る。
階段を降りている途中、ふわっと香るスパイス。
今日の晩ご飯はきっとアレだ。
リビングには父と母が既に座っており、僕が来るのを待っていた。
テーブルに並ぶのは、予想通り母の特製カレー。
本人が言うには、二種類の市販のルーをブレンドすることがこだわりらしいけど、僕にとっては特に代わり映えがしない味だ。
他の家庭のカレーを食べたことのないのだから、仕方がない。
しばらくスプーンと食器がぶつかる音が響いた後、父が口を開く。
「下宿の準備は進んでるのか?」
顔を上げると、父は目を伏せ、皿を見つめたままだった。
父はいつもこうだ。
僕に聞いているのか、母に聞いているのか、さっぱり分からない。
こういう他人と視線を合わせない所が、僕とそっくりで嫌になる。
実は僕も、この退屈な四乃山町から出て一人暮らしを始める。
行先は、情報工学を学べる地方の大学。
三軍にしては悪くない進路だ。
もちろん橘の行く東京に比べたら、田舎には変わらないだろうけど。
僕が返事しないことを察してか、母が明るい声で助け舟を出す。
「引っ越しの手配も終わったから、あとは荷造りだけね。翔太、何を持っていくか決めた?」
「下宿先は狭いし、ほとんど置いていくつもり。授業で使うパソコンさえあれば十分」
「着る物はたくさん持っていった方がいいんじゃない? ほら、大学は私服なんだし、おしゃれしないと」
「別に。同じのを着回せばいいだけ」
「そう……?」
母は煮え切らない表情を浮かべた。
まったく、何も分かってない。
三軍の持つダサい服をいくら着回しても、おしゃれに思われることなんてない。
同じ服を着回し、『服に無頓着なキャラ』を貫いた方が、ダメージは少ないだろう。
「翔太の友達は、みんな進路は決まったのか?」
再び、父の誰に聞いているのか分からない質問。
いや、どちらかといえば僕宛だ。
頭に浮かぶのは、わずかな数のクラスメイトと、SNSで繋がる顔も知らない誰か。
「大抵は」
僕はとても短く答えた。
一瞬、沈黙が訪れた後、母が大げさに声を上げる。
「そういえば、陽菜ちゃんは就職するのよね?」
「……まあ、ね」
僕は努めて平静を装ったが、声が少し上ずってしまう。
陽菜の名前、その響きだけで、僕の鼓動は自動的に高鳴ってしまう。
もしかすると、顔が赤くなっているかもしれない。
前髪をもっと伸ばしておけばよかった。
「小さい頃からずっと一緒だったから、寂しくなるわねえ」
「別に。結構、違うクラスの方が多かったし」
「あらそう? でも卒業とかの節目の年は、いつも同じクラスじゃない? 運命みたいって、お母さん感じちゃうわ」
なんで母が運命を感じてるんだ。
心の中でツッコミを入れるが、もちろんリアルでは口に出さない。
無口で無愛想な息子。
それが、僕がこの家族における役柄だから。
「陽菜ちゃんって……朝倉さん所のお嬢さんか? 就職とはめずらしいな」
「あそこの旦那さん、駅前の観光案内所で働いてるでしょ。ちょうど三月に退職する方がいたそうで、陽菜ちゃんを後任にって――」
父と母が盛り上がるのを、僕は冷ややかな眼で見つめた。
この小さな街では、こうして良いことも悪いこともすぐに伝わっていく。
田舎のネットワークは、時にWi-Fiよりも速い。
「ごちそうさま」
これ以上、陽菜の話をされるのは心臓に悪い。
僕はカレーの残りを一気にかき込み、席を立った。
「おかわりはいいの?」
「別に」
「そう……まだ余ってるから、明日の朝もカレーでいい?」
「何でもいい」
そう言って立ち上がった時、父が今度ははっきりと僕に呼びかける。
「翔太」
「何?」
父は少し言葉を溜め、ゆっくりと吐き出す。
「……卒業式は十日後だったな」
「そうだけど」
まさか、父が卒業式の日を正確に覚えているなんて。
何か悪いものでも食べたんじゃないだろうか。
父は仕事が忙しく、平日は帰ってこない時もある。
休みの日は疲れているせいか、いつも寝て過ごしており、母の不満を買っている。
仕事に忙しく、休日は何もしない男――それが父の役柄だ。
僕に多少なりとも興味を持っていたとは、信じられなかった。
「つまり、高校生でいられるのもあと十日だな」
同じ言葉を言い直しただけ?
僕は父が何を言いたいのかよく分からず、少しいら立つ。
「だから、何?」
「いや、分かってるならいい」
父はそう言って、カレーのおかわりを母に頼んだ。
自室に戻ると、僕はカーテンの隙間からこっそりと外を覗いた。
夜空で様々な色と明るさで輝く恒星と違い、地上には規則正しく同じ形の家が並んでいる。
田舎の街にぽつんとできた新興住宅地――それが、僕が十八年間育った場所だ。
向かいの家の二階、窓に明かりが灯っていた。
カーテンはしっかりと閉まっており、中の様子を窺い知ることはできない。
そこは、陽菜の部屋だ。
小学生の頃は、あの部屋で一緒に宿題をしたり、ゲームをしたり、くだらない話で笑い合った。
中学生になった時だったか。
お互い異性だと気づき、何かを取り決めたわけでもなく、遊ぶことはなくなった。
徐々にそういう機会が減ったわけではなく、突如ゼロになった。
もちろん、顔を合わせば他愛ない話はする。
けど、僕たちの距離感は変わってしまった。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、夜空に浮かぶ三日月よりも遠く感じる。
夜道を歩く人影が見えたので、僕は慌てて自室のカーテンを閉じた。
同級生の家を眺めていたなんて知られたら、『キモい』なんて言葉だけでは済まされない。
僕はノートパソコンのロックを解除し、再びオンラインの仮面を被る。
今、僕の胸に宿るのは、言葉にならないもどかしさや切なさ。
裏垢で吐き出そうとしたが、どれだけ時間をかけても適切な言葉を見つけることができなかった。
