卒業式から数日後。
今日、僕は新しい街へと引っ越す。
自室で見る最後の空。
それは卒業式の日のような突き抜ける青空ではなく、薄い雲がフィルターのようにかかった、柔らかい水色だった。
まるで、僕の心の中みたいだ。
新しい生活への期待と、この町を離れる寂しさが、ちょうど半分ずつ混ざり合っている。
家を出る僕を、父と母が名残惜しそうに玄関で見送る。
「翔太、本当に送っていかなくていいのか?」
「大丈夫だって。これから一人でやって行かなくちゃならないんだし」
「向こうに着いたら、ちゃんと連絡するのよ」
「分かってるって。……それじゃあ、行ってくる」
十八年間育ててくれたこと。
僕の進学を応援してくれたこと。
そして、不器用な僕をずっと見守ってくれたこと。
言いたいことはたくさんあったけど、僕はたった一言に想いを乗せる。
「父さん母さん、ありがとう」
僕は、少し照れくさい気持ちを隠すように早口で伝え、家を出た。
背後で両親が何か言った気がするけど、僕は振り返らずにまっすぐ進んだ。
朝が早いせいか、駅まで続く道には僕しかいない。
まだ眠りから覚めやらぬ早朝の街。
僕の相棒であるキャリーケースの車輪の音だけが、やけに大きく響く。
まるで、世界に僕一人だけが取り残されたような、静かで少しだけ寂しい時間。
シャッターが下りた商店街を抜けると、駅のロータリーが見えてきた。
そこには、見慣れた人影が立っていた。
陽菜だ。
予想外のことに、僕は目を丸くする。
「……どうして、ここに?」
「幼馴染の旅立ちなんだよ? 私が送り出さなくてどうする」
陽菜は、そう言っていたずらっぽく笑った。
今日の服装は、僕が一番好きな明るい色のワンピース。
春の陽射しみたいに、彼女によく似合っていた。
電車の発車時刻まで、まだ少し時間があった。
僕たちは、駅のベンチに並んで座る。
卒業式の日、公園で語り合った時のように。
けど、僕たちを包む空気は少しだけ違っていた。
別れの寂しさが上着を通り抜け、少し肌寒くさせる。
「翔太。封筒、開けてみたよ」
陽菜は、かすみがかった空を見上げながら言った。
僕が渡したのは、社会人でも通える夜間や週末開講の料理専門学校のリストだった。
距離や費用を考慮し、陽菜が一人の力でも通える学校をピックアップした。
そこに通う生徒たちの生の声も、プログラムを使ってSNSからたくさん集めた。
それが、僕にできるささやかな陽菜へのエールだった。
「びっくりした。翔太が、あんなことを調べてくれてたなんて」
「まあ……お節介かなとは思ったんだけどさ。もし陽菜が夢を追いかけたくなった時、役に立つと思って」
「……うん」
陽菜は、小さな声でうなずいた。
そして、僕の目をまっすぐに見つめた。
「ありがとう、翔太。すごく……嬉しかった。ちょっと、考えさせられたよ。自分の気持ちに、もっと正直になってもいいのかなって」
その言葉に、僕は胸が熱くなった。
僕のしたことが、少しでも陽菜の背中を押せたのなら、それだけで十分だ。
「――翔太ってさ」
陽菜は、少しだけ間を置いて続けた。
「昔から、そうだったよね」
「え?」
「私が本当に落ち込んでる時とか、悩んでる時とか……口には出さないけど、さりげなく励ましてくれた」
そんなこと、あっただろうか。
陽菜の口から語られる僕は、まるで別人みたいだ。
「そっか? むしろ、いつも助けてくれたのは陽菜の方だ。この前、僕を想って怒ってくれたみたいに」
「うーん、私こそ、そんな自覚ないな。翔太が言う私って、まるで別人みたい」
陽菜も同じことを思ったようで、僕は思わず吹き出した。
自分の中に知らない自分がいたように、誰かの中にも知らない自分がいるのかもしれない。
「私、ずっと翔太に甘えていたのかも。幼馴染だから、優しくされて当然だって。けど……このままじゃダメだよね」
陽菜の瞳が、以前と違うように見えた。
そこには、何か新しい感情が揺らめいているように思える。
「これからはさ。翔太のこと……ちゃんと男の子として見てみる。幼馴染っていうフィルターを外して」
「えっ。それってもしかして……」
予期せぬ言葉に、僕は動揺して言葉に詰まる。
陽菜は意地悪そうな笑みを浮かべる。
「あ、なんか勘違いしてそー。あくまで、普通の男の子ってことだからね。つまり、クラスメイトの男子と同じ」
「……期待させて、思い切り落とすなよ」
僕が人生で一番大きなため息をつくと、陽菜がカラカラと笑った。
「けど、封筒の中身を知った時は、結構グッときたなー」
「おい。僕の心をもてあそぶな」
『まもなく一番線に、電車が参ります――』
その時、駅から放送が響いた。
僕が乗るべき電車が、もうすぐ到着する。
「もう、行かなきゃ」
「みたいだね」
僕たちは、ベンチから立ち上がった。
別れの時。
「じゃあ、元気でな、陽菜」
「翔太もね。……ちゃんと、ご飯食べるんだよ」
「母親かよ」
改札口に向かって歩き出す。
陽菜も、隣を歩いてくれる。
かける言葉もかけられる言葉もない。
ただ、隣にいる温かさだけが、僕の心を包んでいた。
改札の前で、僕は立ち止まった。
「また、連絡する」
「うん、私も」
陽菜の笑顔は、旅立ちを祝福するようで、やっぱり少しだけ寂しそうに見えた。
「夏休みには帰って来るよ。そしたらさ……また会えるよな?」
「もちろん」
僕は小さな笑みを返した。
陽菜に背を向けて、改札を潜り抜ける。
振り返りたい気持ちを、ぐっとこらえる。
ホームに駆け上がり、電車に乗り込んだ。
車内に他の乗客はおらず、僕は窓際の席に座る。
外を見ると、陽菜がロータリーから僕を見ていた。
「ドアが閉まります」
無機質なアナウンスと共に、電車のドアが閉まった。
ゆっくりと、電車が動き出す。
窓の外の陽菜の姿が、少しずつ小さくなっていく。
やがて、それはどれだけ目を凝らしても、見えなくなった。
僕は振り返るのを止め、前を向いた。
今日、僕は新しい街へと引っ越す。
自室で見る最後の空。
それは卒業式の日のような突き抜ける青空ではなく、薄い雲がフィルターのようにかかった、柔らかい水色だった。
まるで、僕の心の中みたいだ。
新しい生活への期待と、この町を離れる寂しさが、ちょうど半分ずつ混ざり合っている。
家を出る僕を、父と母が名残惜しそうに玄関で見送る。
「翔太、本当に送っていかなくていいのか?」
「大丈夫だって。これから一人でやって行かなくちゃならないんだし」
「向こうに着いたら、ちゃんと連絡するのよ」
「分かってるって。……それじゃあ、行ってくる」
十八年間育ててくれたこと。
僕の進学を応援してくれたこと。
そして、不器用な僕をずっと見守ってくれたこと。
言いたいことはたくさんあったけど、僕はたった一言に想いを乗せる。
「父さん母さん、ありがとう」
僕は、少し照れくさい気持ちを隠すように早口で伝え、家を出た。
背後で両親が何か言った気がするけど、僕は振り返らずにまっすぐ進んだ。
朝が早いせいか、駅まで続く道には僕しかいない。
まだ眠りから覚めやらぬ早朝の街。
僕の相棒であるキャリーケースの車輪の音だけが、やけに大きく響く。
まるで、世界に僕一人だけが取り残されたような、静かで少しだけ寂しい時間。
シャッターが下りた商店街を抜けると、駅のロータリーが見えてきた。
そこには、見慣れた人影が立っていた。
陽菜だ。
予想外のことに、僕は目を丸くする。
「……どうして、ここに?」
「幼馴染の旅立ちなんだよ? 私が送り出さなくてどうする」
陽菜は、そう言っていたずらっぽく笑った。
今日の服装は、僕が一番好きな明るい色のワンピース。
春の陽射しみたいに、彼女によく似合っていた。
電車の発車時刻まで、まだ少し時間があった。
僕たちは、駅のベンチに並んで座る。
卒業式の日、公園で語り合った時のように。
けど、僕たちを包む空気は少しだけ違っていた。
別れの寂しさが上着を通り抜け、少し肌寒くさせる。
「翔太。封筒、開けてみたよ」
陽菜は、かすみがかった空を見上げながら言った。
僕が渡したのは、社会人でも通える夜間や週末開講の料理専門学校のリストだった。
距離や費用を考慮し、陽菜が一人の力でも通える学校をピックアップした。
そこに通う生徒たちの生の声も、プログラムを使ってSNSからたくさん集めた。
それが、僕にできるささやかな陽菜へのエールだった。
「びっくりした。翔太が、あんなことを調べてくれてたなんて」
「まあ……お節介かなとは思ったんだけどさ。もし陽菜が夢を追いかけたくなった時、役に立つと思って」
「……うん」
陽菜は、小さな声でうなずいた。
そして、僕の目をまっすぐに見つめた。
「ありがとう、翔太。すごく……嬉しかった。ちょっと、考えさせられたよ。自分の気持ちに、もっと正直になってもいいのかなって」
その言葉に、僕は胸が熱くなった。
僕のしたことが、少しでも陽菜の背中を押せたのなら、それだけで十分だ。
「――翔太ってさ」
陽菜は、少しだけ間を置いて続けた。
「昔から、そうだったよね」
「え?」
「私が本当に落ち込んでる時とか、悩んでる時とか……口には出さないけど、さりげなく励ましてくれた」
そんなこと、あっただろうか。
陽菜の口から語られる僕は、まるで別人みたいだ。
「そっか? むしろ、いつも助けてくれたのは陽菜の方だ。この前、僕を想って怒ってくれたみたいに」
「うーん、私こそ、そんな自覚ないな。翔太が言う私って、まるで別人みたい」
陽菜も同じことを思ったようで、僕は思わず吹き出した。
自分の中に知らない自分がいたように、誰かの中にも知らない自分がいるのかもしれない。
「私、ずっと翔太に甘えていたのかも。幼馴染だから、優しくされて当然だって。けど……このままじゃダメだよね」
陽菜の瞳が、以前と違うように見えた。
そこには、何か新しい感情が揺らめいているように思える。
「これからはさ。翔太のこと……ちゃんと男の子として見てみる。幼馴染っていうフィルターを外して」
「えっ。それってもしかして……」
予期せぬ言葉に、僕は動揺して言葉に詰まる。
陽菜は意地悪そうな笑みを浮かべる。
「あ、なんか勘違いしてそー。あくまで、普通の男の子ってことだからね。つまり、クラスメイトの男子と同じ」
「……期待させて、思い切り落とすなよ」
僕が人生で一番大きなため息をつくと、陽菜がカラカラと笑った。
「けど、封筒の中身を知った時は、結構グッときたなー」
「おい。僕の心をもてあそぶな」
『まもなく一番線に、電車が参ります――』
その時、駅から放送が響いた。
僕が乗るべき電車が、もうすぐ到着する。
「もう、行かなきゃ」
「みたいだね」
僕たちは、ベンチから立ち上がった。
別れの時。
「じゃあ、元気でな、陽菜」
「翔太もね。……ちゃんと、ご飯食べるんだよ」
「母親かよ」
改札口に向かって歩き出す。
陽菜も、隣を歩いてくれる。
かける言葉もかけられる言葉もない。
ただ、隣にいる温かさだけが、僕の心を包んでいた。
改札の前で、僕は立ち止まった。
「また、連絡する」
「うん、私も」
陽菜の笑顔は、旅立ちを祝福するようで、やっぱり少しだけ寂しそうに見えた。
「夏休みには帰って来るよ。そしたらさ……また会えるよな?」
「もちろん」
僕は小さな笑みを返した。
陽菜に背を向けて、改札を潜り抜ける。
振り返りたい気持ちを、ぐっとこらえる。
ホームに駆け上がり、電車に乗り込んだ。
車内に他の乗客はおらず、僕は窓際の席に座る。
外を見ると、陽菜がロータリーから僕を見ていた。
「ドアが閉まります」
無機質なアナウンスと共に、電車のドアが閉まった。
ゆっくりと、電車が動き出す。
窓の外の陽菜の姿が、少しずつ小さくなっていく。
やがて、それはどれだけ目を凝らしても、見えなくなった。
僕は振り返るのを止め、前を向いた。
