校門を出て、僕と陽菜は並んで歩き始めた。
 青い世界が終わりを告げ、沈みゆく太陽が街を赤く染める。
 遠くに見える山々は、秋にタイムスリップしたみたいな色をしていた。
 僕たちの影がアスファルトの上で寄り添うように揺れる。
 時折、影同士の手が重なるのを見て、僕は少し笑みを浮かべてしまった。

 僕たちは、通い慣れた道を行く。
 電柱の汚れた広告。
 古びた駄菓子屋の看板。
 道端に咲く名前も知らない小さな花。
 ありふれた、僕たちの高校生活の背景。
 目に入るものすべてが、なんだか切なく見えた。

「……終わっちゃったね、高校生」

 隣を歩く陽菜が、ぽつりとつぶやいた。
 その声はどこか寂しげだけど、少し晴れやかにも聞こえた。

「ああ。あっという間だったな」
「ほんとそれ。ついこの間、入学したばかりだって思ってたのに」

 他愛ない会話。
 けど、その一言一言が今はとても特別に思えた。
 通学路がぐにゃりと曲がり、このまま家に辿り着かなければいいのに。
 そんなありえないことを、僕は心の中で願った。

 気づけば、僕たちはあの公園の前に立っていた。
 小学生の頃、泥だらけになって二人で遊んだ公園。
 ここ数日の間に、新しい思い出も増えた。
 陽菜との大喧嘩。
 陽菜の失恋と秘めた夢。
 今日、また一つ、忘れられない思い出が増える。

 「……また、来ちゃったね」

 陽菜が、少し照れたように笑った。

「なんか、落ち着くんだよな、ここ」

 僕も、そう言って笑い返した。
 僕たちは、吸い寄せられるように公園の中へ入っていく。
 そして、いつもの錆びたブランコに、並んで腰掛けた。

 ――キィ……キィ……。

 ブランコの軋む音が、夕闇に染まった公園に響いている。

 どう話そうか。
 ただ、こうして隣に座っているだけで、言葉にならない想いが伝わっているような気もした。
 けど、そんな都合のいいことはない。
 想いは言葉にしなければ伝わらない。
 太陽がゆっくりと沈んでいくように、僕たちに残された時間も、刻一刻と少なくなっている。

 言わなきゃ。
 今、このタイミングしかない。
 僕の心臓が痛いほど脈打っている。
 手のひらにじっとりと汗が滲む。
 喉がカラカラに渇いて、声が出るかどうかすら分からない。
 怖い。
 もし、断られたら?
 曖昧だけど心地よかったこの関係までも、壊してしまったら?
 頭の中で、ネガティブなシミュレーションが繰り返し再生される。
 裏垢で悪態をついていた時の、醜い自分が顔を出す。

 ――やめとけよ。どうせフラれるんだから。傷つくだけだぞ。

 知ってるよ。
 僕は、僕の一部であるそれに、優しく笑いかけた。
 もう、逃げないと決めた。
 ダサい自分を受け入れて、前に進むって決めた。
 たとえ砕け散っても、言わなきゃ後悔する。
 それが、陽菜が教えてくれたこと。

 僕は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 春の匂いが混じった、少しだけ冷たい空気が、肺を満たす。
 そして、震える声で、隣にいる陽菜の名を呼んだ。

「陽菜」
「ん?」

 陽菜が、不思議そうに僕の顔を見る。
 その大きな瞳は、どこまでも澄んでいて。
 ふいに見つめられるだけで、いつも僕の胸を高鳴らせてくれた。

「あのさ……ずっと陽菜に言えなかったことがあるんだ」

 声が、情けないくらい震えている。
 夕焼けでは隠せないぐらい、頬も耳も赤くなっているに違いない。
 けど、もう気にしない。
 ダサくたっていい。
 これが、今の僕なのだから。

「え……なに? そんな改まって……」

 陽菜の表情が、少しだけ戸惑っているように見える。
 僕のただならぬ雰囲気を察したのだろう。
 僕は一度強く目を閉じ、そして、ゆっくりと心と口の鍵を開ける。

「僕、さ……陽菜のことが……好きだ」

 言葉が、途切れ途切れになりながらも、世界を震わせた。
 十八年間、心の奥底にしまい込んでいた想い。
 永く、出口を探して彷徨っていた言葉が、ようやく僕の口から飛び出した。

 世界から、音が消える。
 ブランコの軋む音も。
 遠くで聞こえる車の音も。
 僕たちを包む風の音も。
 何もかもが聞こえなくなった。

 僕の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。
 陽菜は、目を丸くして、僕の顔をじっと見つめていた。
 その大きな瞳には、驚きと困惑。
 そして、僕には読み取れない、複雑な感情が浮かんでいた。

 陽菜は何かを言おうとして、唇をわずかに開いた。
 けど、言葉にはならなかった。
 視線が、僕と地面の間を行ったり来たりしている。
 僕はただ、陽菜が答えを見つけるのを、静かに待ち続けた。

 長い沈黙の後、陽菜がゆっくりと顔を上げた。
 夕陽に照らされた瞳は潤んでいてい、優しく、そして悲しげだった。

「……ごめん」

 その一言に、すべてが詰まっていた。
 
 ――やっぱり、ダメだった。

 分かっていたことだ。
 期待なんて、していなかったはずなのに。
 それでも、胸の奥を両手で締め付けられたように痛む。
 人生で感じたことのない種類の痛みに、意識が飛びそうになる。
 けど――。

「……うん。知ってた」

 僕は笑った。
 自分でも驚くほど、自然に。

「え……?」
「陽菜が、僕のことをそういう風に見てないことぐらい、分かってた」
「なら……どうして?」
「陽菜が教えてくれたんだ。このまま、何も言わないで離れ離れになるのは、絶対に後悔するって。だから、僕なりの言葉で、伝えたかったんだ」

 不思議と、涙は出なかった。
 フラれたことは、もちろん悲しい。
 心にできた傷は、今も血が流れ続けている。
 きっと、どれだけ時が流れても消えることはないだろう。
 けど、その傷を優しく包み込むものがあった。
 それは僕がここ数日で、みんなからもらったモノ。
 弱く醜い自分を受け入れ、一歩踏み出す勇気。
 
 陽菜は、僕の言葉を聞いて、少しだけ驚いたような顔をした。
 そして次の瞬間、優しい笑みを浮かべた。

「……翔太、ありがとう。すっごく、嬉しかった」

 その笑顔は、僕が今まで見たどの陽菜の笑顔よりも。
 綺麗で、温かくて――そして、少しだけ切なかった。

「僕の方こそ、聞いてくれてありがとう」

 僕たちはまた少しの間、黙ってブランコに揺られていた。
 フラれた側とフッた側。
 ただの幼馴染だった僕たちに、新しい関係性が追加された。
 けど、僕たちの間に流れる空気は、以前よりもっと穏やかで優しくなった気がした。

「――あ、そうだ。陽菜、これ」

 僕はリュックから、A4サイズの封筒を取り出した。
 中に入っているのは、昨日上地の家で印刷した紙の束。
 少しシワになってしまったそれを、陽菜に手渡す。

「なに、これ?」
「家に帰ったら開けてみな。まあ……餞別(せんべつ)、みたいなもんかな」

 陽菜は、不思議そうな顔でそれを受け取り、自分のリュックにしまった。

 太陽が、あと少しで完全に沈む。
 一日で、街が最もオレンジ色に染まる時間。

「……そろそろ、帰ろっか」
「そう、だな」

 僕たちはブランコから立ち上がり、公園に別れを告げた。

 帰り道、僕たちはまた、他愛ない話をした。
 高校生活の思い出。
 これから始まる新しい生活への期待と不安。
 さっきまでの重たい空気は、春風がどこかへ運んでくれた。
 重力が弱くなったかのように、足取りが軽かった。

 家が近づくと、自然と口数が減っていった。
 陽菜は自分の家の前で、くるりと僕の方を向いた。

「翔太」
「ん?」
「今日はすっごく楽しかった――なんて、嫌味に聞こえるかもしれないけどさ。でも、本当にそう思った」

 陽菜は少し大人びた笑みを浮かべた。
 その笑顔はとても魅力的で、僕はまた陽菜を少しだけ好きになった。
 フラれたはずなのに、あきらめているはずなのに。
 この気持ちは、すぐには消えてくれない。

「僕もだ」

 僕は、そう言うのが精一杯だった。
 陽菜は、名残惜しそうに手を振って、僕の視界から消えた。

 その瞬間だった。
 僕の足元に、雨が一滴落ちた。
 あれ?
 僕は首を傾げ、空を見上げる。
 けど、そこには雲一つ見当たらなかった。
 ああ、そうか。
 自分の頬を撫で、雨が生まれる場所を見つけた。
 雨はとめどなく溢れ続け、僕の視界を奪った。

 どれだけ時間が経っただろう。
 昨日、僕が予報した通り、再び晴れ間が訪れた。
 大丈夫。
 ちゃんと前に進める。
 僕は陽菜の家に背を向け、自分の家へと歩き出した。
 空には、一番星が輝き始めていた。