卒業式、当日。
僕が高校生でいられる、最後の一日になった。
窓の外を眺めると、昨日の曇り空が嘘みたいに、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。
まるで、地球が新しい門出を祝福してくれているみたいだ。
クローゼットの奥から制服を引っ張り出し、袖を通す。
しばらく着ていなかったせいか、生地が硬く、なんだか窮屈に感じた。
三年前、手はジャケットの袖に隠れ、ズボンの裾が床を引きずるほど、ブカブカだった。
体は、結構成長したと思う。
心の方は、どうだろうか。
鏡に映る自分は、相変わらず冴えない顔をしている。
けど、もしこれが心を映し出す魔法の鏡だとしたら。
きっと、昨日より少し強くなった自分が立っている――そんな気がした。
「翔太、早くしないと遅れるわよー」
「分かってるって」
階下からの母の声に急かされ、僕は部屋を出た。
リビングには、父と母がいつもより少しだけ改まった服装で待っていた。
今日、二人は保護者として式に出席するらしい。
「翔太……卒業おめでとう」
「うん」
母が、少し涙ぐみながら言った。
父は僕の目を見て、はっきりと語りかける。
「――高校生でいられるのも今日までだな」
「うん」
十日前にも似たような言葉を告げた父。
今の僕には『後悔しないようにな』というエールに聞こえる。
僕を見る二人の表情は少し誇らしげで、何だが気恥ずかしくなった。
僕はいつものように『別に』と言いたくなったけど。
「いってきます」
そう力強くうなずき、玄関を飛び出した。
通い慣れたはずの通学路が、今日はなんだか違って見えた。
いつもより空気が澄んでいて、景色がキラキラと輝いているような。
これが『卒業』というイベントの効果なのかもしれない。
校門の前には、すでにたくさんの生徒や保護者が集まっていた。
みんな、少しだけ緊張したような、それでいて晴れやかな表情をしている。
「――よう、ナメ久慈。遅かったじゃねえか」
聞き慣れた声に振り返ると、そこには上地が立っていた。
今日はさすがに黒パーカーではなく、きちんと制服を着こなしている。
髪は、いつもより丁寧に結ばれている気がした。
「上地こそ。ちゃんと時間通りに来られて、えらいぞ」
「うるせえ。今日ぐらいは、ちゃんとしようと思ってな」
ぶっきらぼうに言う上地の隣には、陽菜がいた。
今日の陽菜は、二日前より少しだけ大人びて見えた。
僕と目が合うと、陽菜は風に舞う花びらのようにふわりと微笑んだ。
「翔太、おはよう」
「ああ……おはよう」
彼女の姿が視界に入っただけで、僕の心臓がギアを上げる。
今から心を乱してどうする、平常心を保て。
それから、僕たちは言葉少なに並んで歩いた。
ふと気になり、僕は陽菜の目元に視線を向ける。
陽菜はきょとんとした表情を浮かべた。
「え、なんかゴミでもついてる?」
「違う違う。目、腫れてないみたいで、よかったと思って」
陽菜はニッと笑い、右手でピースサインを作る。
「とびっきり可愛い写真を残したいからね。気合で治した」
二日前、あれほど泣きはらした瞳も、すっかり元通りになっていた。
きっと心はまだ傷ついたままに違いない。
それでも、陽菜が今日笑顔でいられることに、僕は胸がいっぱいになった。
式の会場は体育館。
僕たちはクラスごとにその中へ入場していく。
一歩足を踏み入れると、いつもとはまったく違う静寂と熱気に包まれていた。
保護者、在校生、そして先生たちの脇を通り過ぎ、それぞれの席に着く。
たくさんの人々が見守る中、卒業式は厳かに始まった。
卒業証書授与。
クラスごとに名前が呼ばれ、一人ずつ壇上に上がっていく。
僕らのクラスでは、陽菜が一番手。
「朝倉、陽菜」
「はいっ」
いつもより少したくましいソプラノの声が、体育館に響き渡った。
僕の名前が呼ばれた時、足と声が少しだけ震えた。
壇上に上がり、校長先生から卒業証書を受け取る。
こんなの、ただの紙切れ――そう思っていた。
けど、目を閉じると、紙の上にたくさんの文字が浮かび上がってくる。
それは、久慈翔太という男子高校生が主人公の小説だった。
席に戻ると、隣の上地が小声でささやいた。
「久慈。顔、引きつってたぞ」
「ほっとけ」
校長先生の長編小説のように長い式辞、来賓の祝辞、在校生代表の送辞。
どれも形式ばった言葉だったけど、僕は真剣に耳を傾け、心のノートに記していった。
卒業生代表として選ばれたのは、やっぱり橘だった。
壇上に立った橘は、いつも通りの完璧な優等生に見えた。
彼が、丁寧な口調で答辞を読み上げていく。
三年間を振り返り、仲間や先生、家族への感謝を述べる。
以前とは違う橘の熱を帯びた言葉が、僕の心にもじんわりと響いた。
最後に、橘は力強く言った。
「僕たちは今日、この学び舎を旅立ちます。この先、僕たちの人生には、きっとたくさんの困難が待ち受けているでしょう。時には、くじけそうになることもあるかもしれません。しかし、そんな時こそ、この場所で仲間と共に過ごした日々を思い出してください。僕たちは、決して一人じゃない。ここで得た絆と、それぞれの夢を胸に秘め、僕たちはこれからも歩み続けます。まだ何も描かれていない、未来という名の白いキャンパスの上を」
橘が一礼すると、会場全体が大きな拍手に包まれた。
彼も僕の知らない所で、この三年間色んなことを乗り越えてきたんだろう。
橘のことは正直、今でも許していない。
それでも、僕も自然と手を叩いていた。
式が終わり、教室に戻る。
最後のホームルームだ。
担任だった中年の先生が、涙ながらに僕たちへ送別の言葉を贈ってくれた。
普段は厳しい先生だけど、今日ばかりは優しい父親みたいに見えた。
ホームルームが終わった瞬間、教室は解放されたように騒がしくなった。
あちこちで、別れを惜しむ声、感謝を伝える声――そして、未来への希望を語り合う声が響き渡る。
「久慈、写真撮ろうぜ」
クラスメイトの何人かが、僕に声をかけてくれた。
以前の僕なら、きっと隅っこで息を潜めていただろう。
でも、今日は違った。
「おう」
僕はきごちない笑顔で応え、彼らの輪の中に飛び込んでみた。
スマホのカメラに向かって、一昔前のピースサインを作る。
シャッター音と共に、僕たちの今が切り取られた。
「なあ、久慈。お前、大学どこだっけ?」
「E県だよ」
「へぇ。俺、隣の県なんだよね。今度、遊びに行ってもいいか?」
「……まあ、いいけど」
意外な申し出に戸惑いながらも、僕はそう答えた。
三年間、ほとんど話したこともなかったクラスメイト。
卒業という特殊イベントが、僕たちの間の壁を少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
教室のあちこちで、同じような光景が繰り広げられていた。
普段はあまり話さないグループ同士が、笑顔で言葉を交わし、写真を撮り合っている。
そんな中、クラスの中心グループの女子が、パンパンと手を叩いた。
「はーい、注目! 予定してたカラオケ、ネット不通の影響で店が臨時休業だって」
クラス中から「えー!」とわざとらしいブーイング。
皆、薄々と感じていたのだろう。
「なので、打ち上げはこの教室でやりまーす!」
え。
打ち上げ、やるのか。
しかも、この教室で?
僕が内心動揺していると、周りのクラスメイトたちは。
「マジかー!」
「まあ、仕方ないか」
「教室とか、逆にエモくね?」
口々に言いながらも、どこか楽しそうだ。
僕は、どうしようか迷った。
正直、こういうノリは苦手で、ついていける自信がない。
何より、裏垢で『卒ハラ』なんて言ってた手前、参加するのが気まずかった。
「あれれ? 翔太は、帰らないの?」
突然、陽菜が僕の顔を覗き込む。
小学生の時のようないたずらっぽい笑み。
あー、もう、仕方ないな。
僕はこのリアルな世界で、つぶやく。
「いえ、参加させてもらいます……」
「うむ。素直でよろしい」
誰かが持ってきたスピーカーから、流行りのJ-POPが流れ始める。
黒板には、カラフルなチョークで『卒業おめでとう!』の文字と、クラス全員の名前が書かれていった。
芸大に行くと知られた上地が、みんなから黒板に何か描いてとせがまれた。
面倒くさそうに描いたのが、担任の似顔絵。
若干悪意のあるデフォルメがされていたが、見事に特徴を捉えたイラストに、教室内から感嘆の声が上がった。
机を移動させて作られたスペースで、みんながお菓子やジュースを片手に談笑を始めた。
手作り感満載の打ち上げだけど、なんだか文化祭の準備期間みたい。
正直、悪くない気分だ。
「みんなー! 最後に、あれ歌わねえ?」
誰かがそう叫ぶと、みんなが口々に賛同する。
流れ始めたのは、音楽の授業で何度も歌った、定番の卒業ソング。
最初は数人だった歌声が、徐々に大きくなっていく。
僕も、最初は口パクだったけど、周りの雰囲気に飲まれて、いつの間にか小さな声で口ずさんでいた。
隣を見ると、陽菜も上地も、そして橘もみんな同じ歌を歌っている。
授業で歌った時は、何とも思わなかったありふれた歌詞。
今の僕には、どれもカラフルな宝石のように心を彩った。
歌い終わると、教室内に大きな拍手が巻き起こった。
不思議なくらい、胸が熱い。
「ねえねえ、男子ー! ちょっと、ネクタイ貸してよ!」
女子の一人が声を上げた。
例の、グループチャットで盛り上がっていたヤツだ。
「なあ、第二ボタンもつけとく?」
「あ、それはいいですー」
冗談めかしてネクタイをやり取りする男女。
「あの……よかったら、私にネクタイ貸してくれない?」
「も、もちろん!」
お目当ての男子に、緊張した面持ちで声をかける女子もいた。
当たり前なのに、気づかなかった事実。
みんな、それぞれ恋をしているのだ。
僕と同じように、とても真剣に。
「頼む! 俺のを受け取ってくれ」
教室の前方から、橘の必死そうな声が聞こえた。
見ると、上地に土下座さながら頭を下げ、ネクタイを差し出している。
クラスメイトたちは橘の気持ちを察したのか、一様に驚き、そして笑った。
もちろん、そこにはバカにするような意図はない。
頑張れ。
そういうエールを込めた、温かな声だった。
「――翔太。ネクタイ、貸して」
振り向くと、陽菜が僕の目の前に立っていた。
「えっ、僕のでいいのか?」
「いいの」
僕は少し照れながら、ネクタイを緩めて陽菜に手渡す。
陽菜はそれ受け取ると、駆け足で女子たちの列に加わった。
発案者の女子が、橘にスマホを放り投げる。
「橘、カワイク撮れよ」
「へいへい」
女子たちはネクタイを結ぶのに苦戦しながら、思い思いにポーズを決めた。
続いて、なぜかノーネクタイの男子全員で集合写真を撮ることに。
女子から、大人びたポーズをしろと、無理難題を吹っ掛けられる。
僕はCEOになったつもりで、新商品をプレゼンをしてるようなポーズをした。
「久慈。お前、どんなセンスしてんだよ」
「……うっさい、僕も後悔してるんだ」
僕を激しくイジる上地の横で、陽菜はお腹を抱えて笑っていた。
教室内を見渡すと、どの方向からも笑い声が響いてくる。
一軍とか、三軍とか、そんな壁はどこにも存在しなかった。
みんな、『クラスメイト』として、最後の時間を共有している。
僕が裏垢で毒づいていた一軍たちも、こうして見ると同じ高校生。
くだらないことで笑い、別れを寂しがっている。
ああ、そうか。
壁を作り上げたのは、僕自身の心だったんだ。
いつの間にか、窓の外の太陽がずいぶんと傾いていた。
「お前ら、そろそろ閉めるぞー」
教室の様子を見に来た、担任の先生の声。
それをきっかけに、みんな、名残惜しむように教室を後にしていく。
もうこの冷たい床を歩くことも、建て付けの悪いドアを開けることもない。
一度歩き出したら、もう戻れない。
未来への一方通行の旅路。
「じゃあな、久慈! 大学でも元気でやれよ!」
「おう、お前もな!」
クラスメイトたちと、感傷を吹き飛ばすように明るく挨拶を交わした。
橘が仲の良い友達に別れを告げた後、僕に近づいてくる。
無言で僕を見つめ、肩をポンと叩いた。
「な、何だよ……」
「久慈。後悔しないようにな」
その手と言葉は、思ったより温かかった。
彼は、僕の陽菜に対する想いに気づいているのかもしれない。
けど、それをハッキリ伝えるほど、僕たちは親しくない。
だから僕も、ハッキリしない言葉を送る。
「お前もな。相手は、とんでもなく手強いぞ」
「知ってるよ。まあ、ぼちぼち頑張るさ」
橘は苦笑いを浮かべると、僕に背を向け、歩き出した。
僕も彼に背を向ける。
ふと思い立ち、背中越しに手を振ってみた。
僕は決して振り返らなかったけど、彼も同じようにしてくれてたらいいなと思った。
「おい、ナメ久慈」
今度は上地だ。
腕を組んで、仁王立ちしている。
「なんだよ」
「……別に。精々、頑張れって言いに来ただけだ」
「そりゃどうも」
僕がそう言うと、上地は少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。
「まあ、あれだ。もしフラレて死にたくなったら……私がもらってやるよ」
ひねくれた、彼女らしいエール。
僕は思わず吹き出してしまった。
「それは助かる」
上地に別れを告げると、僕は一人の女の子を探した。
十八年間、想いを寄せる僕の幼馴染。
校舎を出た所で、君を見つけた。
君は僕の姿を見つけると、小さく手を振った。
僕は深呼吸を一つして、君の元へと走り出す。
心臓の音が、また少し速くなった。
けど、もう迷いはない。
僕は心に流れ星を降らせ、祈った。
どうか。
この想いが、君に届きますように。
僕が高校生でいられる、最後の一日になった。
窓の外を眺めると、昨日の曇り空が嘘みたいに、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。
まるで、地球が新しい門出を祝福してくれているみたいだ。
クローゼットの奥から制服を引っ張り出し、袖を通す。
しばらく着ていなかったせいか、生地が硬く、なんだか窮屈に感じた。
三年前、手はジャケットの袖に隠れ、ズボンの裾が床を引きずるほど、ブカブカだった。
体は、結構成長したと思う。
心の方は、どうだろうか。
鏡に映る自分は、相変わらず冴えない顔をしている。
けど、もしこれが心を映し出す魔法の鏡だとしたら。
きっと、昨日より少し強くなった自分が立っている――そんな気がした。
「翔太、早くしないと遅れるわよー」
「分かってるって」
階下からの母の声に急かされ、僕は部屋を出た。
リビングには、父と母がいつもより少しだけ改まった服装で待っていた。
今日、二人は保護者として式に出席するらしい。
「翔太……卒業おめでとう」
「うん」
母が、少し涙ぐみながら言った。
父は僕の目を見て、はっきりと語りかける。
「――高校生でいられるのも今日までだな」
「うん」
十日前にも似たような言葉を告げた父。
今の僕には『後悔しないようにな』というエールに聞こえる。
僕を見る二人の表情は少し誇らしげで、何だが気恥ずかしくなった。
僕はいつものように『別に』と言いたくなったけど。
「いってきます」
そう力強くうなずき、玄関を飛び出した。
通い慣れたはずの通学路が、今日はなんだか違って見えた。
いつもより空気が澄んでいて、景色がキラキラと輝いているような。
これが『卒業』というイベントの効果なのかもしれない。
校門の前には、すでにたくさんの生徒や保護者が集まっていた。
みんな、少しだけ緊張したような、それでいて晴れやかな表情をしている。
「――よう、ナメ久慈。遅かったじゃねえか」
聞き慣れた声に振り返ると、そこには上地が立っていた。
今日はさすがに黒パーカーではなく、きちんと制服を着こなしている。
髪は、いつもより丁寧に結ばれている気がした。
「上地こそ。ちゃんと時間通りに来られて、えらいぞ」
「うるせえ。今日ぐらいは、ちゃんとしようと思ってな」
ぶっきらぼうに言う上地の隣には、陽菜がいた。
今日の陽菜は、二日前より少しだけ大人びて見えた。
僕と目が合うと、陽菜は風に舞う花びらのようにふわりと微笑んだ。
「翔太、おはよう」
「ああ……おはよう」
彼女の姿が視界に入っただけで、僕の心臓がギアを上げる。
今から心を乱してどうする、平常心を保て。
それから、僕たちは言葉少なに並んで歩いた。
ふと気になり、僕は陽菜の目元に視線を向ける。
陽菜はきょとんとした表情を浮かべた。
「え、なんかゴミでもついてる?」
「違う違う。目、腫れてないみたいで、よかったと思って」
陽菜はニッと笑い、右手でピースサインを作る。
「とびっきり可愛い写真を残したいからね。気合で治した」
二日前、あれほど泣きはらした瞳も、すっかり元通りになっていた。
きっと心はまだ傷ついたままに違いない。
それでも、陽菜が今日笑顔でいられることに、僕は胸がいっぱいになった。
式の会場は体育館。
僕たちはクラスごとにその中へ入場していく。
一歩足を踏み入れると、いつもとはまったく違う静寂と熱気に包まれていた。
保護者、在校生、そして先生たちの脇を通り過ぎ、それぞれの席に着く。
たくさんの人々が見守る中、卒業式は厳かに始まった。
卒業証書授与。
クラスごとに名前が呼ばれ、一人ずつ壇上に上がっていく。
僕らのクラスでは、陽菜が一番手。
「朝倉、陽菜」
「はいっ」
いつもより少したくましいソプラノの声が、体育館に響き渡った。
僕の名前が呼ばれた時、足と声が少しだけ震えた。
壇上に上がり、校長先生から卒業証書を受け取る。
こんなの、ただの紙切れ――そう思っていた。
けど、目を閉じると、紙の上にたくさんの文字が浮かび上がってくる。
それは、久慈翔太という男子高校生が主人公の小説だった。
席に戻ると、隣の上地が小声でささやいた。
「久慈。顔、引きつってたぞ」
「ほっとけ」
校長先生の長編小説のように長い式辞、来賓の祝辞、在校生代表の送辞。
どれも形式ばった言葉だったけど、僕は真剣に耳を傾け、心のノートに記していった。
卒業生代表として選ばれたのは、やっぱり橘だった。
壇上に立った橘は、いつも通りの完璧な優等生に見えた。
彼が、丁寧な口調で答辞を読み上げていく。
三年間を振り返り、仲間や先生、家族への感謝を述べる。
以前とは違う橘の熱を帯びた言葉が、僕の心にもじんわりと響いた。
最後に、橘は力強く言った。
「僕たちは今日、この学び舎を旅立ちます。この先、僕たちの人生には、きっとたくさんの困難が待ち受けているでしょう。時には、くじけそうになることもあるかもしれません。しかし、そんな時こそ、この場所で仲間と共に過ごした日々を思い出してください。僕たちは、決して一人じゃない。ここで得た絆と、それぞれの夢を胸に秘め、僕たちはこれからも歩み続けます。まだ何も描かれていない、未来という名の白いキャンパスの上を」
橘が一礼すると、会場全体が大きな拍手に包まれた。
彼も僕の知らない所で、この三年間色んなことを乗り越えてきたんだろう。
橘のことは正直、今でも許していない。
それでも、僕も自然と手を叩いていた。
式が終わり、教室に戻る。
最後のホームルームだ。
担任だった中年の先生が、涙ながらに僕たちへ送別の言葉を贈ってくれた。
普段は厳しい先生だけど、今日ばかりは優しい父親みたいに見えた。
ホームルームが終わった瞬間、教室は解放されたように騒がしくなった。
あちこちで、別れを惜しむ声、感謝を伝える声――そして、未来への希望を語り合う声が響き渡る。
「久慈、写真撮ろうぜ」
クラスメイトの何人かが、僕に声をかけてくれた。
以前の僕なら、きっと隅っこで息を潜めていただろう。
でも、今日は違った。
「おう」
僕はきごちない笑顔で応え、彼らの輪の中に飛び込んでみた。
スマホのカメラに向かって、一昔前のピースサインを作る。
シャッター音と共に、僕たちの今が切り取られた。
「なあ、久慈。お前、大学どこだっけ?」
「E県だよ」
「へぇ。俺、隣の県なんだよね。今度、遊びに行ってもいいか?」
「……まあ、いいけど」
意外な申し出に戸惑いながらも、僕はそう答えた。
三年間、ほとんど話したこともなかったクラスメイト。
卒業という特殊イベントが、僕たちの間の壁を少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
教室のあちこちで、同じような光景が繰り広げられていた。
普段はあまり話さないグループ同士が、笑顔で言葉を交わし、写真を撮り合っている。
そんな中、クラスの中心グループの女子が、パンパンと手を叩いた。
「はーい、注目! 予定してたカラオケ、ネット不通の影響で店が臨時休業だって」
クラス中から「えー!」とわざとらしいブーイング。
皆、薄々と感じていたのだろう。
「なので、打ち上げはこの教室でやりまーす!」
え。
打ち上げ、やるのか。
しかも、この教室で?
僕が内心動揺していると、周りのクラスメイトたちは。
「マジかー!」
「まあ、仕方ないか」
「教室とか、逆にエモくね?」
口々に言いながらも、どこか楽しそうだ。
僕は、どうしようか迷った。
正直、こういうノリは苦手で、ついていける自信がない。
何より、裏垢で『卒ハラ』なんて言ってた手前、参加するのが気まずかった。
「あれれ? 翔太は、帰らないの?」
突然、陽菜が僕の顔を覗き込む。
小学生の時のようないたずらっぽい笑み。
あー、もう、仕方ないな。
僕はこのリアルな世界で、つぶやく。
「いえ、参加させてもらいます……」
「うむ。素直でよろしい」
誰かが持ってきたスピーカーから、流行りのJ-POPが流れ始める。
黒板には、カラフルなチョークで『卒業おめでとう!』の文字と、クラス全員の名前が書かれていった。
芸大に行くと知られた上地が、みんなから黒板に何か描いてとせがまれた。
面倒くさそうに描いたのが、担任の似顔絵。
若干悪意のあるデフォルメがされていたが、見事に特徴を捉えたイラストに、教室内から感嘆の声が上がった。
机を移動させて作られたスペースで、みんながお菓子やジュースを片手に談笑を始めた。
手作り感満載の打ち上げだけど、なんだか文化祭の準備期間みたい。
正直、悪くない気分だ。
「みんなー! 最後に、あれ歌わねえ?」
誰かがそう叫ぶと、みんなが口々に賛同する。
流れ始めたのは、音楽の授業で何度も歌った、定番の卒業ソング。
最初は数人だった歌声が、徐々に大きくなっていく。
僕も、最初は口パクだったけど、周りの雰囲気に飲まれて、いつの間にか小さな声で口ずさんでいた。
隣を見ると、陽菜も上地も、そして橘もみんな同じ歌を歌っている。
授業で歌った時は、何とも思わなかったありふれた歌詞。
今の僕には、どれもカラフルな宝石のように心を彩った。
歌い終わると、教室内に大きな拍手が巻き起こった。
不思議なくらい、胸が熱い。
「ねえねえ、男子ー! ちょっと、ネクタイ貸してよ!」
女子の一人が声を上げた。
例の、グループチャットで盛り上がっていたヤツだ。
「なあ、第二ボタンもつけとく?」
「あ、それはいいですー」
冗談めかしてネクタイをやり取りする男女。
「あの……よかったら、私にネクタイ貸してくれない?」
「も、もちろん!」
お目当ての男子に、緊張した面持ちで声をかける女子もいた。
当たり前なのに、気づかなかった事実。
みんな、それぞれ恋をしているのだ。
僕と同じように、とても真剣に。
「頼む! 俺のを受け取ってくれ」
教室の前方から、橘の必死そうな声が聞こえた。
見ると、上地に土下座さながら頭を下げ、ネクタイを差し出している。
クラスメイトたちは橘の気持ちを察したのか、一様に驚き、そして笑った。
もちろん、そこにはバカにするような意図はない。
頑張れ。
そういうエールを込めた、温かな声だった。
「――翔太。ネクタイ、貸して」
振り向くと、陽菜が僕の目の前に立っていた。
「えっ、僕のでいいのか?」
「いいの」
僕は少し照れながら、ネクタイを緩めて陽菜に手渡す。
陽菜はそれ受け取ると、駆け足で女子たちの列に加わった。
発案者の女子が、橘にスマホを放り投げる。
「橘、カワイク撮れよ」
「へいへい」
女子たちはネクタイを結ぶのに苦戦しながら、思い思いにポーズを決めた。
続いて、なぜかノーネクタイの男子全員で集合写真を撮ることに。
女子から、大人びたポーズをしろと、無理難題を吹っ掛けられる。
僕はCEOになったつもりで、新商品をプレゼンをしてるようなポーズをした。
「久慈。お前、どんなセンスしてんだよ」
「……うっさい、僕も後悔してるんだ」
僕を激しくイジる上地の横で、陽菜はお腹を抱えて笑っていた。
教室内を見渡すと、どの方向からも笑い声が響いてくる。
一軍とか、三軍とか、そんな壁はどこにも存在しなかった。
みんな、『クラスメイト』として、最後の時間を共有している。
僕が裏垢で毒づいていた一軍たちも、こうして見ると同じ高校生。
くだらないことで笑い、別れを寂しがっている。
ああ、そうか。
壁を作り上げたのは、僕自身の心だったんだ。
いつの間にか、窓の外の太陽がずいぶんと傾いていた。
「お前ら、そろそろ閉めるぞー」
教室の様子を見に来た、担任の先生の声。
それをきっかけに、みんな、名残惜しむように教室を後にしていく。
もうこの冷たい床を歩くことも、建て付けの悪いドアを開けることもない。
一度歩き出したら、もう戻れない。
未来への一方通行の旅路。
「じゃあな、久慈! 大学でも元気でやれよ!」
「おう、お前もな!」
クラスメイトたちと、感傷を吹き飛ばすように明るく挨拶を交わした。
橘が仲の良い友達に別れを告げた後、僕に近づいてくる。
無言で僕を見つめ、肩をポンと叩いた。
「な、何だよ……」
「久慈。後悔しないようにな」
その手と言葉は、思ったより温かかった。
彼は、僕の陽菜に対する想いに気づいているのかもしれない。
けど、それをハッキリ伝えるほど、僕たちは親しくない。
だから僕も、ハッキリしない言葉を送る。
「お前もな。相手は、とんでもなく手強いぞ」
「知ってるよ。まあ、ぼちぼち頑張るさ」
橘は苦笑いを浮かべると、僕に背を向け、歩き出した。
僕も彼に背を向ける。
ふと思い立ち、背中越しに手を振ってみた。
僕は決して振り返らなかったけど、彼も同じようにしてくれてたらいいなと思った。
「おい、ナメ久慈」
今度は上地だ。
腕を組んで、仁王立ちしている。
「なんだよ」
「……別に。精々、頑張れって言いに来ただけだ」
「そりゃどうも」
僕がそう言うと、上地は少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。
「まあ、あれだ。もしフラレて死にたくなったら……私がもらってやるよ」
ひねくれた、彼女らしいエール。
僕は思わず吹き出してしまった。
「それは助かる」
上地に別れを告げると、僕は一人の女の子を探した。
十八年間、想いを寄せる僕の幼馴染。
校舎を出た所で、君を見つけた。
君は僕の姿を見つけると、小さく手を振った。
僕は深呼吸を一つして、君の元へと走り出す。
心臓の音が、また少し速くなった。
けど、もう迷いはない。
僕は心に流れ星を降らせ、祈った。
どうか。
この想いが、君に届きますように。
