三月は、所によりオフライン

 卒業式、当日。
 
 僕が高校生でいられる、最後の一日になった。
 窓の外を眺めると、昨日の曇り空が嘘みたいに、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。
 まるで、地球が新しい門出を祝福してくれているみたいだ。

 クローゼットの奥から制服を引っ張り出し、袖を通す。
 しばらく着ていなかったせいか、生地が硬く、なんだか窮屈に感じた。
 三年前、手はジャケットの袖に隠れ、ズボンの裾が床を引きずるほど、ブカブカだった。
 体は、結構成長したと思う。
 心の方は、どうだろうか。
 鏡に映る自分は、相変わらず冴えない顔をしている。
 けど、もしこれが心を映し出す魔法の鏡だとしたら。
 きっと、昨日より少し強くなった自分が立っている――そんな気がした。

「翔太、早くしないと遅れるわよー」
「分かってるって」

 階下からの母の声に急かされ、僕は部屋を出た。
 リビングには、父と母がいつもより少しだけ改まった服装で待っていた。
 今日、二人は保護者として式に出席するらしい。
 
「翔太……卒業おめでとう」
「うん」

 母が、少し涙ぐみながら言った。
 父は僕の目を見て、はっきりと語りかける。

「――高校生でいられるのも今日までだな」
「うん」
 
 十日前にも似たような言葉を告げた父。
 今の僕には『後悔しないようにな』というエールに聞こえる。
 
 僕を見る二人の表情は少し誇らしげで、何だが気恥ずかしくなった。
 僕はいつものように『別に』と言いたくなったけど。

「いってきます」

 そう力強くうなずき、玄関を飛び出した。

 通い慣れたはずの通学路が、今日はなんだか違って見えた。
 いつもより空気が澄んでいて、景色がキラキラと輝いているような。
 これが『卒業』というイベントの効果なのかもしれない。
 
 校門の前には、すでにたくさんの生徒や保護者が集まっていた。
 みんな、少しだけ緊張したような、それでいて晴れやかな表情をしている。

「――よう、ナメ久慈。遅かったじゃねえか」

 聞き慣れた声に振り返ると、そこには上地が立っていた。
 今日はさすがに黒パーカーではなく、きちんと制服を着こなしている。
 髪は、いつもより丁寧に結ばれている気がした。

「上地こそ。ちゃんと時間通りに来られて、えらいぞ」
「うるせえ。今日ぐらいは、ちゃんとしようと思ってな」

 ぶっきらぼうに言う上地の隣には、陽菜がいた。
 今日の陽菜は、二日前より少しだけ大人びて見えた。
 僕と目が合うと、陽菜は風に舞う花びらのようにふわりと微笑んだ。

「翔太、おはよう」
「ああ……おはよう」

 彼女の姿が視界に入っただけで、僕の心臓がギアを上げる。
 今から心を乱してどうする、平常心を保て。

 それから、僕たちは言葉少なに並んで歩いた。
 ふと気になり、僕は陽菜の目元に視線を向ける。
 陽菜はきょとんとした表情を浮かべた。

「え、なんかゴミでもついてる?」
「違う違う。目、腫れてないみたいで、よかったと思って」

 陽菜はニッと笑い、右手でピースサインを作る。
 
「とびっきり可愛い写真を残したいからね。気合で治した」

 二日前、あれほど泣きはらした瞳も、すっかり元通りになっていた。
 きっと心はまだ傷ついたままに違いない。
 それでも、陽菜が今日笑顔でいられることに、僕は胸がいっぱいになった。

 式の会場は体育館。
 僕たちはクラスごとにその中へ入場していく。
 一歩足を踏み入れると、いつもとはまったく違う静寂と熱気に包まれていた。
 保護者、在校生、そして先生たちの脇を通り過ぎ、それぞれの席に着く。
 たくさんの人々が見守る中、卒業式は(おごそ)かに始まった。

 卒業証書授与。
 クラスごとに名前が呼ばれ、一人ずつ壇上に上がっていく。
 僕らのクラスでは、陽菜が一番手。

「朝倉、陽菜」
「はいっ」

 いつもより少したくましいソプラノの声が、体育館に響き渡った。
 僕の名前が呼ばれた時、足と声が少しだけ震えた。
 壇上に上がり、校長先生から卒業証書を受け取る。
 こんなの、ただの紙切れ――そう思っていた。
 けど、目を閉じると、紙の上にたくさんの文字が浮かび上がってくる。
 それは、久慈翔太という男子高校生が主人公の小説だった。

 席に戻ると、隣の上地が小声でささやいた。

「久慈。顔、引きつってたぞ」
「ほっとけ」

 校長先生の長編小説のように長い式辞、来賓の祝辞、在校生代表の送辞。
 どれも形式ばった言葉だったけど、僕は真剣に耳を傾け、心のノートに記していった。

 卒業生代表として選ばれたのは、やっぱり橘だった。
 壇上に立った橘は、いつも通りの完璧な優等生に見えた。
 彼が、丁寧な口調で答辞を読み上げていく。
 三年間を振り返り、仲間や先生、家族への感謝を述べる。
 以前とは違う橘の熱を帯びた言葉が、僕の心にもじんわりと響いた。
 最後に、橘は力強く言った。

「僕たちは今日、この学び舎を旅立ちます。この先、僕たちの人生には、きっとたくさんの困難が待ち受けているでしょう。時には、くじけそうになることもあるかもしれません。しかし、そんな時こそ、この場所で仲間と共に過ごした日々を思い出してください。僕たちは、決して一人じゃない。ここで得た絆と、それぞれの夢を胸に秘め、僕たちはこれからも歩み続けます。まだ何も描かれていない、未来という名の白いキャンパスの上を」

 橘が一礼すると、会場全体が大きな拍手に包まれた。
 彼も僕の知らない所で、この三年間色んなことを乗り越えてきたんだろう。
 橘のことは正直、今でも許していない。
 それでも、僕も自然と手を叩いていた。

 式が終わり、教室に戻る。
 最後のホームルームだ。
 担任だった中年の先生が、涙ながらに僕たちへ送別の言葉を贈ってくれた。
 普段は厳しい先生だけど、今日ばかりは優しい父親みたいに見えた。

 ホームルームが終わった瞬間、教室は解放されたように騒がしくなった。
 あちこちで、別れを惜しむ声、感謝を伝える声――そして、未来への希望を語り合う声が響き渡る。

「久慈、写真撮ろうぜ」

 クラスメイトの何人かが、僕に声をかけてくれた。
 以前の僕なら、きっと隅っこで息を潜めていただろう。
 でも、今日は違った。

「おう」

 僕はきごちない笑顔で応え、彼らの輪の中に飛び込んでみた。
 スマホのカメラに向かって、一昔前のピースサインを作る。
 シャッター音と共に、僕たちの今が切り取られた。

「なあ、久慈。お前、大学どこだっけ?」
「E県だよ」
「へぇ。俺、隣の県なんだよね。今度、遊びに行ってもいいか?」
「……まあ、いいけど」

 意外な申し出に戸惑いながらも、僕はそう答えた。
 三年間、ほとんど話したこともなかったクラスメイト。
 卒業という特殊イベントが、僕たちの間の壁を少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。

 教室のあちこちで、同じような光景が繰り広げられていた。
 普段はあまり話さないグループ同士が、笑顔で言葉を交わし、写真を撮り合っている。
 そんな中、クラスの中心グループの女子が、パンパンと手を叩いた。

「はーい、注目! 予定してたカラオケ、ネット不通の影響で店が臨時休業だって」

 クラス中から「えー!」とわざとらしいブーイング。
 皆、薄々と感じていたのだろう。

「なので、打ち上げはこの教室でやりまーす!」

 え。
 打ち上げ、やるのか。
 しかも、この教室で?
 僕が内心動揺していると、周りのクラスメイトたちは。

「マジかー!」
「まあ、仕方ないか」
「教室とか、逆にエモくね?」

 口々に言いながらも、どこか楽しそうだ。
 僕は、どうしようか迷った。
 正直、こういうノリは苦手で、ついていける自信がない。
 何より、裏垢で『卒ハラ』なんて言ってた手前、参加するのが気まずかった。

「あれれ? 翔太は、帰らないの?」

 突然、陽菜が僕の顔を覗き込む。
 小学生の時のようないたずらっぽい笑み。
 あー、もう、仕方ないな。
 僕はこのリアルな世界で、つぶやく。

「いえ、参加させてもらいます……」
「うむ。素直でよろしい」


 誰かが持ってきたスピーカーから、流行りのJ-POPが流れ始める。
 黒板には、カラフルなチョークで『卒業おめでとう!』の文字と、クラス全員の名前が書かれていった。
 芸大に行くと知られた上地が、みんなから黒板に何か描いてとせがまれた。
 面倒くさそうに描いたのが、担任の似顔絵。
 若干悪意のあるデフォルメがされていたが、見事に特徴を捉えたイラストに、教室内から感嘆の声が上がった。
 
 机を移動させて作られたスペースで、みんながお菓子やジュースを片手に談笑を始めた。
 手作り感満載の打ち上げだけど、なんだか文化祭の準備期間みたい。
 正直、悪くない気分だ。

「みんなー!  最後に、あれ歌わねえ?」

 誰かがそう叫ぶと、みんなが口々に賛同する。
 流れ始めたのは、音楽の授業で何度も歌った、定番の卒業ソング。
 最初は数人だった歌声が、徐々に大きくなっていく。
 僕も、最初は口パクだったけど、周りの雰囲気に飲まれて、いつの間にか小さな声で口ずさんでいた。
 隣を見ると、陽菜も上地も、そして橘もみんな同じ歌を歌っている。
 授業で歌った時は、何とも思わなかったありふれた歌詞。
 今の僕には、どれもカラフルな宝石のように心を彩った。

 歌い終わると、教室内に大きな拍手が巻き起こった。
 不思議なくらい、胸が熱い。

「ねえねえ、男子ー! ちょっと、ネクタイ貸してよ!」

 女子の一人が声を上げた。
 例の、グループチャットで盛り上がっていたヤツだ。

「なあ、第二ボタンもつけとく?」
「あ、それはいいですー」

 冗談めかしてネクタイをやり取りする男女。

「あの……よかったら、私にネクタイ貸してくれない?」
「も、もちろん!」

 お目当ての男子に、緊張した面持ちで声をかける女子もいた。

 当たり前なのに、気づかなかった事実。
 みんな、それぞれ恋をしているのだ。
 僕と同じように、とても真剣に。

「頼む! 俺のを受け取ってくれ」

 教室の前方から、橘の必死そうな声が聞こえた。
 見ると、上地に土下座さながら頭を下げ、ネクタイを差し出している。
 クラスメイトたちは橘の気持ちを察したのか、一様に驚き、そして笑った。
 もちろん、そこにはバカにするような意図はない。
 頑張れ。
 そういうエールを込めた、温かな声だった。

「――翔太。ネクタイ、貸して」

 振り向くと、陽菜が僕の目の前に立っていた。

「えっ、僕のでいいのか?」
「いいの」

 僕は少し照れながら、ネクタイを緩めて陽菜に手渡す。
 陽菜はそれ受け取ると、駆け足で女子たちの列に加わった。
 発案者の女子が、橘にスマホを放り投げる。

「橘、カワイク撮れよ」
「へいへい」

 女子たちはネクタイを結ぶのに苦戦しながら、思い思いにポーズを決めた。
 続いて、なぜかノーネクタイの男子全員で集合写真を撮ることに。
 女子から、大人びたポーズをしろと、無理難題を吹っ掛けられる。
 僕はCEOになったつもりで、新商品をプレゼンをしてるようなポーズをした。

「久慈。お前、どんなセンスしてんだよ」
「……うっさい、僕も後悔してるんだ」

 僕を激しくイジる上地の横で、陽菜はお腹を抱えて笑っていた。
 
 教室内を見渡すと、どの方向からも笑い声が響いてくる。
 一軍とか、三軍とか、そんな壁はどこにも存在しなかった。
 みんな、『クラスメイト』として、最後の時間を共有している。
 僕が裏垢で毒づいていた一軍たちも、こうして見ると同じ高校生。
 くだらないことで笑い、別れを寂しがっている。
 ああ、そうか。
 壁を作り上げたのは、僕自身の心だったんだ。

 いつの間にか、窓の外の太陽がずいぶんと傾いていた。

「お前ら、そろそろ閉めるぞー」

 教室の様子を見に来た、担任の先生の声。
 それをきっかけに、みんな、名残惜しむように教室を後にしていく。
 もうこの冷たい床を歩くことも、建て付けの悪いドアを開けることもない。
 一度歩き出したら、もう戻れない。
 未来への一方通行の旅路。

「じゃあな、久慈! 大学でも元気でやれよ!」
「おう、お前もな!」

 クラスメイトたちと、感傷を吹き飛ばすように明るく挨拶を交わした。
 橘が仲の良い友達に別れを告げた後、僕に近づいてくる。
 無言で僕を見つめ、肩をポンと叩いた。

「な、何だよ……」
「久慈。後悔しないようにな」

 その手と言葉は、思ったより温かかった。
 彼は、僕の陽菜に対する想いに気づいているのかもしれない。
 けど、それをハッキリ伝えるほど、僕たちは親しくない。
 だから僕も、ハッキリしない言葉を送る。

「お前もな。相手は、とんでもなく手強いぞ」
「知ってるよ。まあ、ぼちぼち頑張るさ」

 橘は苦笑いを浮かべると、僕に背を向け、歩き出した。
 僕も彼に背を向ける。
 ふと思い立ち、背中越しに手を振ってみた。
 僕は決して振り返らなかったけど、彼も同じようにしてくれてたらいいなと思った。

「おい、ナメ久慈」

 今度は上地だ。
 腕を組んで、仁王立ちしている。

「なんだよ」
「……別に。精々、頑張れって言いに来ただけだ」
「そりゃどうも」

 僕がそう言うと、上地は少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。

「まあ、あれだ。もしフラレて死にたくなったら……私がもらってやるよ」

 ひねくれた、彼女らしいエール。
 僕は思わず吹き出してしまった。

「それは助かる」

 上地に別れを告げると、僕は一人の女の子を探した。
 十八年間、想いを寄せる僕の幼馴染。
 
 校舎を出た所で、君を見つけた。
 君は僕の姿を見つけると、小さく手を振った。
 僕は深呼吸を一つして、君の元へと走り出す。
 心臓の音が、また少し速くなった。
 けど、もう迷いはない。
 僕は心に流れ星を降らせ、祈った。
 どうか。
 この想いが、君に届きますように。