陽菜の背中を追いかけながら、僕は必死に頭を回転させていた。
 何があったかなんて、分かりきってる。
 陽菜は橘に告白して――フラれたんだ。

 くそっ、僕がけしかけたようなものじゃないか。
 無責任に『手伝ってやる』なんて言って、結局、陽菜を傷つけただけだ。
 頭が混乱し、ショッピングモール内に並んだ店が、魚眼レンズのように歪んで見える。
 まるで、バグったゲーム画面みたいだ。

 モールの出入口を抜けると、外の肌寒い空気が火照った頬を打った。
 急いで辺りを見渡す。
 
 ――いた。

 視線の先、駅に向かう高架歩道を、見慣れた背中が必死に走っている。
 その背中は、僕が知っているいつもの陽菜より、ずっと小さく見えた。
 今にも消えてしまいそうで、僕は無我夢中で後を追った。

 何とか、引き止めなければ。
 けど、なんて言えばいい?

 ――大丈夫か?

 お前はバカか。大丈夫なわけない。

 ――元気出せ。
 
 なんて、無責任すぎる。

 ――僕がついてる。

 一体、どの口が言うんだ。
 僕の語彙力は、こういう時、致命的なまでに貧弱になる。
 まるで、カバーだけの白紙の辞書みたいに、適切な言葉を一つも見つけることができない。

「陽菜っ!」

 結局、僕が絞り出せたのは、彼女の名前だけだった。
 けど、彼女に何とか届いた。
 陽菜は足を止め、少し開けた場所にある展望スペースへ、よろめくように歩く。
 彼女は手すりにもたれると、ゆっくりと振り返った。
 逆光で表情はよく見えないが、肩が小刻みに震えているのが分かった。

 僕は追いついて、数歩手前で立ち止まる。
 心臓が、壊れたアラームみたいにうるさく鳴っていた。
 陽菜は目を伏せたまま、何も言わない。
 沈黙が、耳に聞こえる。
 透明な毛布を頭からかぶせられたみたいに、空気が重い。

「……どうして、追いかけてくるの? 先に帰るって言ったのに」

 ようやく聞こえた陽菜の声は、涙で濡れて、かすれていた。
 陽菜が顔を上げる。
 大きな瞳はダムが決壊したみたいに涙で溢れていて、頬をいくつもの雫が伝っていた。
 その痛々しい姿に、僕は胸を締めつけられて、息ができなくなった。

 何か言わなければ。
 今度こそ、何か――。

「……ごめん」

 謝りたい理由は山ほどある。
 告白をけしかけたこと。
 橘の本心を勘違いしていたこと。
 そして、陽菜に気の利いた言葉一つかけてやれないこと。

「なんで翔太が謝るの? 私……自分で告白するって決めたんだから」

 陽菜は袖口で乱暴に涙を拭った。
 それでも、涙は後から無限に溢れてくるみたいだった。
 僕はどうすることもできず、立ち尽くす。
 まるで、コントローラーを抜かれたゲームのキャラクターみたいに。

 どれくらい、時間が経っただろう。
 数分かもしれないし、僕が生まれてから死ぬまでより、もっと長かったかもしれない。
 陽菜の嗚咽が少しずつ小さくなっていく。
 やがて、陽菜は大きく深呼吸を一つした。
 そして、顔を上げた。

「……ふぅ。あー、泣きすぎた。目、腫れちゃうじゃん」

 そう言って、陽菜は無理矢理笑顔を作った。
 頬には涙の跡がたくさんあり、痛々しいはずなのに――なぜか、すごく晴れやかに見えた。
 その笑顔は、激しい夕立の後、雲間から差し込む柔らかな太陽の光に似ていた。

「え……」

 僕は間の抜けた声を出した。
 予想していた反応と全然違う。
 もっと落ち込んで、絶望して。
 僕のことなんか見たくもない――そう言うと思っていたのに。

「フラれちゃった。ま、何となく分かってたけどね」

 陽菜は、あっけらかんと言った。
 さっきまで大泣きしていたのが嘘のよう。
 人格が入れ替わったのかと思うぐらいだ。

「でもね」

 陽菜は僕の目をまっすぐに見つめて、続けた。

「言ってよかったって、すっごく思う」
「……なんでだよ? もし、言わなければ、傷つかずに済んだ」
「だって、このまま卒業して、何も伝えられなかったら、きっと後悔してた。フラれたのはもちろんショックだけど、自分の気持ち、ちゃんと伝えられたんだから。……うん、私はそれでいいんだ」

 陽菜の言葉は迷いがなくて、力強かった。
 本音を言えずに後悔するより、フラれても言えた方がいい。
 その言葉が、僕の胸にズシンと重く響いた。
 強いな、陽菜は。
 僕だったら、こんな風に笑えるだろうか。
 好きな人にフラれて、それでも『言ってよかった』なんて、思えるだろうか。

 陽菜の強さがまぶしくて、僕は目を細めた。
 同時に胸の奥で、君の声がした。

 ――お前は、どうなんだ?

 僕が伝えられていない、陽菜への想い。
 このまま自分の気持ちを缶詰みたいにフタをして、幼馴染のフリを続けるのか?
 陽菜のようにちゃんと伝えて、砕け散った方が、後悔しないんじゃないか?
 けど――怖い。
 もし伝えたら、今のこの関係すら壊れてしまうかもしれない。
 陽菜に『大嫌い』と言われた時の、あの凍えるような寒さを思い出す。
 僕は、僕の心と口に鍵をかけるしかなかった。


 行きは、四人で会話に花を咲かせながら乗った電車。
 帰りは、二人で何を話すこともなく、ただ揺れに身を任せていた。
 四乃山口駅に着いても、僕たちの間に会話はない。
 陽菜は、僕の後ろを少しだけ距離を開けて歩いた。
 時折振り返ると、陽菜は遠い目をし、景色を眺めていた。
 目に映らない何か別のモノを見ているように思えた。

「――なあ、ちょっと寄っていかないか」

 帰り道、僕が指差したのは、昔二人でよく遊んだ公園だった。
 陽菜は黙ってうなずいた。
 空はちょうど、オレンジと青がグラデーションのように混ざり合った色をしていた。
 神様が空にフィルター加工を施したみたいに、非現実的に綺麗だった。

 僕たちは大喧嘩した時のように、錆びたブランコに並んで腰かけた。

「やっぱ懐かしいね、ここ」
「ああ。よく泥だらけになって遊んだよな」
「翔太、なんかいつも泣いてたイメージがある」
「それは、陽菜が僕に意地悪するからだ」

 子供の頃の他愛ない思い出話をしていると、さっきまでの重たい空気が少しだけ和らいだ。
 陽菜も、いつもの笑顔を取り戻しつつあるように見えた。
 おそらく、表面上だけではあるけど。

 しばらく、二人で黙って太陽が沈んでいく様子を眺めていた。
 まったく動いていないように見えるけど、それは確実に僕たちを明日へ導こうとしていた。
 陽菜がぽつりとつぶやいた。

「あの砂場で泥団子を作ったこと、覚えてる?」
「忘れるもんか。陽菜が本気で僕に食べさせようとして、参ったよ」
「いやー、すまんすまん」

 陽菜が拝むようなポーズをとる。
 まったく悪びれる様子はなく、僕は苦い笑みを浮かべた。

「あの時、翔太が『こんなまずいの食べれるか!』って言ったでしょ?」
「うーん、言ったような言わなかったような……」
「実は、そう言われて悔しくなってさ。それから、家で料理を手伝うようになったんだよね」
「へえ、知らなかった」

 そういえば、陽菜は高校にいつも手作りのお弁当を持ってきていた。
 僕はてっきり彼女の母親が作ったものだと思っていたけど、彼女が自分で作ったものだったのかもしれない。

「こう見えて、和食も洋食も中華料理も自由自在。お菓子だって作れるんだから」

 たしか、バレンタインデーも手作りチョコを渡したと言ってた。
 僕の頭に、ふいに甘いお菓子の味が蘇ってくる。
 先日、陽菜の家で食べたクッキー。
 あれも、もしかして――。

「この前、陽菜の家で食べたクッキー。あれ、陽菜が作ったのか?」
「正解。気づくの遅いよー」
「悪い。お母さんが作ったみたいに言っちゃって」
「いいよ。翔太の満点レビューが聞けたし」

 レビュー?
 あの日、謝罪のことで頭がいっぱいだった。
 僕は何を言っただろうか。
 記憶を辿っていき、僕はハッとした。
 
 ――お店に出てくるレベルで、美味しい。

 うわっ、なんて恥ずかしい発言。
 僕の頬が急激に熱を帯びていく。
 夕焼けよ、どうかうまく隠してくれ。

「……私ね。本当は、料理の専門学校に行きたかったんだ」
「え?」

 初めて聞く話だった。

「でも、ほら、お父さんもお母さんも、私が地元で就職することをすごく期待してて……。特に、お父さんは、勤めてる観光案内所の欠員が出た時なんて、もう大喜びでさ。『陽菜ならきっと大丈夫だ』『自慢の娘だから』って……そんなこと言われたら、自分の本当の気持ち、言い出せなくなっちゃって」

 陽菜の声にはあきらめと、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。

「それに、就職するって決めたら、周りのみんなも『すごいね』『頑張ってね』って応援してくれて……。今さら、『やっぱり専門学校に行きたい』なんて言ったら、がっかりさせちゃうかなって。……だから、これでいいんだって、自分に言い聞かせてる」

 陽菜は膝の上で、自分の手をぎゅっと握りしめた。
 橘にフラれた時と同じくらい、苦しそうな表情に見えた。
 親の期待、周りの目、そして自分の本当の夢。
 その狭間で、陽菜はずっと揺れていたんだ。
 僕は彼女の夢も苦しみも、全然気づいてやれなかった。
 そればかりか。

 ――悩みなんて何一つなく、毎日幸せに過ごして来たんだろうね。

 なんて、ひどいことまで言ってしまった。
 自分のバカさ加減に、吐きげがする。

「……陽菜」
「ん?」
「本当にやりたいことがあるなら、あきらめんなよ」

 僕の口から、思わずそんな言葉が飛び出した。
 以前の僕なら、きっと言えなかった言葉だ。

「お父さんやお母さんだって、陽菜が本当にやりたいことなら、きっと応援してくれる。周りの友達だって同じ気持ちのはずだ」
「本当に応援してくれるかな……」
「少なくとも、僕は応援する」

 僕に言えるのは、何の根拠もない理想論。
 ただ、陽菜には後悔してほしくなかった。

 陽菜は、僕の顔をじっと見つめた。
 その瞳が、夕焼けの光を反射して、キラキラと潤んでいるように見えた。
 そして、ふわりと笑った。

「……ありがと、翔太」

 その笑顔は、さっきの晴れやかな笑顔とは少し違う。
 どこか儚げで、今にも吹き飛ばされそうな花びらみたいだった。

「ま、せっかく就職できたんだし、少し頑張ってみるよ。もしかしたら、天職だって思えるかもしれないし」
「そっか……」
「あーあ、本当、未来って思い通りにいかないよね。夢が破れ、今日は恋まで破れちゃった」

 陽菜がブランコを強くこぐ。
 タイミングを見計らって、大きくジャンプすると、両足で見事に着地した。
 陽菜は僕に背を向けたまま、夕日に叫ぶ。

「こんな私を好きになってくれる人、どこにいるんだよー!」

 それは、まだ見ぬ誰かに向けた言葉。
 ああ、きっと僕は、君の恋愛対象に含まれていないのだろう。
 けど、僕は君に言いたかった。
 
 ――少し振り返るだけでいい。君が望む人はそこにいる。

 なんて、くさいセリフを。
 けど、僕にはそれを実際に口に出せるほどの、勇気も資格もない。
 君と離れ離れになる日までに、僕はそれを手に入れたい。
 沈みゆく夕日と大切な幼馴染の背中に、そう誓った。